新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-21)」
後朝(きぬぎぬ)2-21 湯豆腐のあわたヾしさよ今朝の霜
🟩🌄 「後朝 2-21 湯豆腐のあわたヾしさよ今朝の霜」
🟩🌄 酒井抱一「後朝(きぬぎぬ) 湯豆腐のあわたゞしさよ今朝の霜」
「後朝(きぬぎぬ)」とは、夜を共にした男女が、夜明けに別れる、その朝の時をいう古典的な語である。もともとは王朝文学以来の恋の情景を背負った言葉であり、単に「翌朝」という時間を示す以上に、夜から朝へ、親密な時間から現実の時間へと移りゆく、その境目の情緒を含んでいる。この一句では、その「後朝」が前書きとして置かれていることが重要である。
季語は「霜」である。「霜」は三冬の季語であり、「今朝の霜」という具体的な時の限定によって、冷えきった冬の朝が鮮明に立ち上がる。しかし、句の中心に置かれているのは「霜」そのものではない。「湯豆腐」である。冷たい「今朝の霜」と、熱い「湯豆腐」とが、一句の中で鮮やかな対照をなしているのである。
「湯豆腐」は、冬の食膳を代表するものの一つである。熱い湯の中に白い豆腐を温め、寒い朝にこれを急いで食する。その単純な光景に「後朝」という前書きが加わることで、湯豆腐はただの冬の食事ではなくなる。そこには、夜明けの慌ただしさ、別れの時間、身支度を急ぐ気配などが重なってくる。
「湯豆腐のあわたゞしさよ」の「あわたゞし」は、湯豆腐そのものが騒々しいという意味ではない。湯が煮え立ち、豆腐が温まり、朝の支度が進み、人の心もまた落ち着かない。その全体を「あわたゞしさ」と捉えたのである。「よ」という切字によって、その慌ただしさを一瞬、作者自身が面白がって眺めている趣が生じる。
そして下五の「今朝の霜」が、句をきりりと締める。湯豆腐の白さと霜の白さ、湯気の温かさと霜の冷たさ、室内の気配と屋外の寒気。この二つの世界が対照されるのである。しかも「今朝」と限定したところに、抱一の写生的な感覚がある。「冬の霜」ではなく、「今朝の霜」である。まさに夜が明けたその瞬間の時間を捉えている。
ここで「後朝」という前書きに戻るならば、句の構造はさらに面白くなる。「後朝」は、夜の余韻を含む言葉である。それに対して「今朝の霜」は、容赦なく現実の朝を告げる。夜の余情から朝の冷気へ、情から生活へ、夢から現実へ。その境目に「湯豆腐」が置かれているのである。
したがって句意は、単純にいえば、「後朝の朝、今朝は霜が降りるほど寒い。そこで湯豆腐を急いで食べる、その朝の慌ただしさよ」というほどである。しかし俳諧として見るならば、もっと複雑な含みがある。恋情を直接詠むのではなく、その翌朝の「湯豆腐」と「霜」だけを描いて、読者の側に前夜を想像させるのである。ここに抱一の俳諧的な省略、すなわち「言わぬことによって言う」技法が働いている。
鑑賞――「後朝」と「湯豆腐」の間
この句の面白さは、艶情を前面に出さないところにある。「後朝」という一語だけが、夜の世界をほのかに開いている。ところが本文に入ると、そこにあるのは「湯豆腐」と「霜」という極めて日常的なものだけである。
つまり、抱一は艶を艶として描かない。艶の余韻を、冬の生活感の中へ置いてしまうのである。ここに俳諧の「俳」がある。
もし「後朝」の情緒を直接説明すれば、句はたちまち説明的になってしまう。しかし抱一はそれをしない。「湯豆腐のあわたゞしさ」という、いささか可笑味を帯びた生活の一場面に転換する。そして最後に「今朝の霜」と置く。これによって、艶情は冷たい冬空の下にほのかに消えてゆく。
この「消し方」に、抱一の洒脱があるのである。
さらに、湯豆腐の白、霜の白という色彩的な呼応も見逃せない。抱一は画家であると同時に俳人であり、物の姿、色、光、季節の移ろいを視覚的に捉える感覚に秀でていた。俳諧と絵画の双方に通じた抱一だからこそ、「湯豆腐」と「霜」という二つの白を、温度の差としても、情趣の差としても一句に置くことができたと見ることができる。抱一は俳諧・和歌・書にも通じ、若年から江戸の市井文化に深く接していたことが知られている。
総括――酒井抱一と吉原
酒井抱一を考えるとき、「吉原」は単なる遊興の場所としてではなく、江戸の文芸・美術・風俗が交差する文化空間として捉える必要がある。抱一は姫路藩主酒井家という大名家に生まれながら、若年期から俳諧、狂歌、浮世絵など江戸の市井文化に親しみ、吉原の妓楼主や遊女、狂歌師、戯作者らとも交流を持ったことが知られている。国立新美術館の展覧会解説も、抱一の若年期について、吉原の妓楼主・遊女、狂歌師・戯作者などとの交流を指摘している。
吉原そのものも、単なる遊興の場ではなかった。そこには俳諧、狂歌、歌舞伎、音曲、茶の湯、書、浮世絵、出版など、多様な江戸文化が集積していた。したがって、抱一にとって吉原との接触は、彼の「風流」を形成する一つの文化的環境であったと考えられる。
この観点から「後朝」を読むと、この前書きはきわめて意味深い。もちろん、この一句が実際に吉原で詠まれたものだと断定することはできない。しかし、「後朝」という語が持つ古典的な恋の情緒と、抱一が身を置いた江戸の遊里文化との間には、確かな文化的な響き合いがある。
しかも抱一の魅力は、そのような艶やかな世界を、露骨な艶句として固定しないところにある。むしろ「湯豆腐」という素朴な冬の食べ物へと落とし込み、そこへ「今朝の霜」を配する。華やかな夜の世界が、明け方には白い霜と白い豆腐という、ごく静かな生活の景へ変わっているのである。
ここに、抱一の「画」と「俳」の接点を見ることができる。吉原的な華やかさ、江戸的な洒落、古典的な恋の語彙、そして冬の自然と日常生活。それらを一つの画面、一つの小さな句に収める。その方法は、後の江戸琳派における、華麗でありながら余白を重んじる画面構成とも通じるものがある。抱一は光琳に傾倒しながら独自の繊細な抒情を形成し、俳諧と絵画をともに生かした作家であった。
ゆえに、「後朝 湯豆腐のあわたゞしさよ今朝の霜」は、単なる冬の食事の句ではない。「後朝」という古典的な恋の時間を、「湯豆腐」という江戸の日常へ移し、「霜」という自然の冷気によって静かに閉じる。その構成の中に、抱一という人物の二重性――大名家の出身でありながら市井の風流に遊び、絵師でありながら俳人でもあった、その自在な精神が映っている。
そして「吉原」と「抱一」を結ぶものも、まさにこの「自在さ」であろう。吉原は抱一にとって、単なる夜の場所ではなく、江戸の美意識、洒落、文芸、絵画、そして人間の情趣が交差する場であった。その文化的な記憶が、「後朝」という一語の奥にほのかに漂い、しかし句そのものは、あくまで「湯豆腐」と「今朝の霜」という白く静かな世界に帰ってゆく。
華やかな夜を語らずして、夜の余韻を残す。恋を詠まずして、恋の時間を感じさせる。そして最後には、すべてを冬の霜の白さの中へ溶かしてしまう。この「言わずして余情を残す」俳諧の美こそ、「酒井抱一と吉原」を考える上で、この一句が示す最も興味深いところである。
新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-22~25)」
新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-22~25)」
2-22 草茎の今に残るや人の口
2-23 告(げ)わたる木綿付駕や年の關(せき)
2-24 をさがりの雫莟むや梅若し
2-25 張子屋も梅は咲きたり豆達磨

🟩🌄「出山寺普子の発句碑たつるとて(前書)
2-22 草茎の今に残るや人の口
2-23 告(げ)わたる木綿付駕や年の關(せき)
2-24 をさがりの雫莟むや梅若し
2-25 張子屋も梅は咲きたり豆達磨 」
🟩 前書「出山寺普子の発句碑たつるとて」は、「出山寺(しゅさんじ=台東区の曹洞宗の寺院)に晋子(宝井其角)の発句碑を尋つる」、一句目の「草茎(くさぐさ)」は「鵙の贄」(秋の季語)、二句目の「木綿付駕(もめんづけかご)」=江戸時代の庶民の移動手段として使われた簡素な駕籠(町駕籠・辻駕籠)、「年の關(せき)」は、年の終わりが押し迫って慌ただしくなる時期(「冬」の季語)、三句目の「をさがり」は、「御降り(おさがり)」=元日から正月三が日の間に降る雨や雪を意味する新年の天文の季語」。四句目の「張子屋」=「郷土玩具を売る店」等、酒井抱一の「難解句」の、これら四句の正体が見えてくる。
🟩🌄 解題
2-22 草茎の今に残るや人の口
この句の季語は「鵙の贄」である。「草茎」は単なる草の茎ではなく、鵙が獲物を枝などに突き刺して残す、いわゆる「鵙の贄」の景を背景として読むべき語である。そこには秋の野の乾いた静けさと、何かがそこに「残されている」という感覚がある。
「今に残るや人の口」とは、過去の人の言葉が、いまなお人の口から口へと伝えられているという意味に取れる。ここで重要なのは、「碑」がまだ建てられていない段階で、まず「口」による伝承が存在することである。草茎に残されたものと、人の口に残されたものとが重なり、自然界に残る「贄」と、文芸の世界に残る「言葉」とが照応する。
したがって、この句は単なる秋景ではない。其角の発句が後世に残ることを、「人の口」という極めて生々しい媒体によって捉えた句なのである。碑石は文字を固定するが、俳諧は本来、人から人へ伝わる「口」の文芸であった。その意味で、この句は碑建立という営為の根底にある、俳諧そのものの生命を詠んでいるのである。
2-23 告(げ)わたる木綿付駕や年の關(せき)
季語は「年の関」で、年末の押し迫った時期をいう。木綿付駕は、華美な駕籠ではなく、町駕籠・辻駕籠のような庶民的な移動の姿を想起させる。
「告げわたる」という動詞が面白い。木綿を掛けた簡素な駕籠が年末の町を行き交い、その往来そのものが、歳末の到来を告げ知らせるように感じられるのである。「年の関」は、単なる時間の境ではない。人々が急ぎ、町が動き、旧年から新年へと一気に押し流されてゆく、その境目である。
ここには抱一特有の「江戸の生活感」がある。豪奢な大名行列ではなく、木綿付駕という庶民の乗物を置くことで、江戸の歳末を具体的な身体感覚にまで引き寄せているのである。そして「告げわたる」という語によって、町そのものが一種の時計となる。駕籠の往来が時間を知らせ、「年の関」が迫ってくる。
其角句碑建立という文芸的な営みの一方で、抱一はこうした町の雑踏を見ている。過去の俳諧師を顕彰しながら、現在の江戸の生活を詠む。この二重性こそ、抱一の「屠龍之技」を読む際に見落としてはならないところである。
2-24 をさがりの雫莟むや梅若し
季語は「をさがり」は「御降り」であり、元日から三が日に降る雨雪をいう新年の天文季語である。「雫」はその御降りの雫であり、「莟む」は梅の蕾がふくらみ始めることを示す。
この句では、正月の雨雪の雫と、まだ若い梅の蕾とが一つの小さな世界をつくる。「雫莟むや」という表現には、雫がそのまま梅の蕾を育て、あるいは蕾の内部に入り込んでいるかのような錯覚がある。まだ花そのものではない。しかし、花になる力だけが、雫を受けて静かに凝縮している。
ここに「若し」という言葉が置かれていることも重要である。「梅若し」は、単に若い梅というだけではない。新年という新しい時間の入口において、まだ開かないものの内部に春の兆しを見る言葉である。
そして、其角の碑を建てるという仕事を背景にすれば、この「莟む」は象徴的でもある。過去の俳諧を碑として固定することは、一見すれば過去を完成させる行為である。しかし抱一の眼は、その過去を閉じたものとしてではなく、これから再び開花する「梅の莟」のように見ている。其角は過去の人であるが、その句はまだ蕾のように生命を持っているのである。
2-25 張子屋も梅は咲きたり豆達磨
ここでは「梅」が春の季語であり、張子屋は江戸の郷土玩具などを扱う店を指す。「豆達磨」は小さな達磨であり、張子という庶民的な玩具の世界を具体的に呼び込む。
「張子屋も」という「も」が、この句の中心である。梅が咲くのは庭園や名所だけではない。張子屋のような町の店先にも梅は咲く。「も」によって、花と人の暮らしとの距離が一挙に縮まるのである。
さらに「豆達磨」と梅との取り合わせがよい。小さな達磨が店先に並び、その傍らに梅が咲く。そこには、いかにも江戸らしい庶民生活の明るさがある。梅という伝統的な雅の花を、張子屋と豆達磨という俗の世界に置くことで、抱一は「雅」と「俗」を対立させない。
これは抱一の俳諧そのものの性格にも通じる。其角を顕彰する文脈にありながら、句は碑石や名句の威厳だけを詠むのではなく、張子屋、豆達磨、駕籠、年末の町、正月の雨、梅といった生活の細部へ降りてゆく。そこに抱一の江戸趣味の核心がある。
総括――出山寺の其角句碑と「屠龍之技」、そして抱一
前書「出山寺普子の発句碑たつるとて」は、この四句を読むための重要な鍵である。「普子」は其角の俳号「晋子」を指すものと考えられ、ここで問題となるのが、出山寺に建立される其角の発句碑である。その句碑に刻まれる句が、
「草茎をつつむ葉もなき雲間哉」
である。
この一句を背景に置くと、抱一の「屠龍之技」に収められた四句は、単なる雑多な難解句ではなくなる。「草茎」「人の口」「木綿付駕」「年の関」「御降り」「梅」「張子屋」「豆達磨」という、一見して互いに離れている言葉の群れが、実は「其角を顕彰する江戸」という一つの文化的空間のなかに配置されているのである。
とりわけ2-22の「草茎」は、其角の句碑に刻まれる「草茎」と直接響き合う。其角の句では、「葉もなき」草茎が雲間に置かれ、秋の寂寥が極めて簡潔に結晶している。それに対して抱一は、「草茎の今に残るや人の口」と詠み、「草茎」を自然物から伝承される言葉へと転じている。其角の句が石に刻まれる一方で、其角の俳諧は「人の口」にも残るのである。
ここには、碑と口、石と声という二つの保存形式がある。碑は動かない。しかし俳諧は動く。碑は文字を固定する。しかし句は人の口を通って生き続ける。抱一はこの二つを対立させず、句碑建立という「固定」の行為の背後に、「口伝」という生きた俳諧の生命を見ているのである。
さらに2-23から2-25へ進むと、季節が年末から正月、そして梅の咲く春へと移ってゆく。「年の関」から「御降り」へ、そして「梅」へ。この時間の推移は、単なる歳時記的な配列ではない。其角という過去の俳人を顕彰する行為が、過去を保存するだけではなく、新しい季節、新しい俳諧へと生命を受け渡してゆく過程として読めるのである。
そして、その舞台が出山寺という寺院でありながら、句の世界には町駕籠が走り、張子屋があり、豆達磨があり、梅が咲く。すなわち「寺」と「町」、「碑」と「玩具」、「其角」と「庶民生活」、「古典」と「当世」が一つの視野に収まっている。
このところに、酒井抱一という人物の特異な位置がある。抱一は其角をただ歴史上の俳人として崇敬したのではない。江戸の町に生きた俳諧の感覚そのものを、自らの句の内部に再生しようとしたのである。其角の句碑を建てるという行為は、過去を記念碑化する営みである。しかし「屠龍之技」の句々は、その記念碑の周囲に、再び江戸の風景を動かし始める。
だからこそ、2-25の「張子屋も梅は咲きたり豆達磨」は、四句の結びとして実に象徴的である。其角の句碑という「石」の文化の傍らに、張子の「豆達磨」という軽い玩具があり、その横に梅が咲く。重い碑と軽い張子、古人の句と現在の町、雅なる梅と俗なる玩具。そのすべてを同じ視野に置くところに、抱一の俳諧的世界がある。
「屠龍之技」の「難解句」とは、単に古語が難しい句なのではない。その背後に、江戸の風俗、其角の俳諧、寺社、町人文化、季節の推移、そして抱一自身の古俳諧への憧憬が重層しているために、容易には一枚の意味に収まらない句なのである。
出山寺の其角句碑は、その意味で「過去を石にする場所」である。しかし抱一の句は、その石の周囲に再び風を通し、駕籠を走らせ、御降りを降らせ、梅を咲かせ、張子屋の豆達磨を置く。其角を碑に刻むことによって、抱一はむしろ其角のいた江戸を、もう一度、生きた時間として蘇らせているのである。
(参考)「其角句碑」(台東区清川1-13-13・「出山寺」)

所在地 台東区清川1-13-13 (出山寺)
https://tokyotaito.blog.shinobi.jp/%E6%B8%85%E5%B7%9D/%E5%85%B6%E8%A7%92%E3%81%AE%E5%8F%A5%E7%A2%91%EF%BC%88%E5%87%BA%E5%B1%B1%E5%AF%BA%EF%BC%89
「 其角の句碑
草茎を つつむ葉もなき 雲間哉
碑の正面に室生其角の句を刻む。
其角の著『末若葉』によれば、これは元禄9年(1696)正月、弟子を連れて当寺に遊んだときに詠んだ句であるという。
碑は、この風流の故事を顕彰して、完成5年(1793)に建立された。
其角は、寛文元年(1661)の生まれ。榎本ともいった。医師竹下東順の子。14、5才のころ、芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたという。天和3年(1683)蕉風の先駆とみなされる『虚栗』を編集し、芭蕉の新しい俳風の確立に活躍した。いわゆる蕉門十哲の第一人者とされたが、芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となった。宝永4年(1707)没。
なお、右側面に刻む「くさぐきの今にのこるや人の口 屠竜」は、姫路城主酒井忠以の弟であり、当時根岸に澄んでいた画家酒井抱一の句である。
平成7年(1995)3月 台東区教育委員会 」
新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-22~25)」
2-22 草茎の今に残るや人の口
2-23 告(げ)わたる木綿付駕や年の關(せき)
2-24 をさがりの雫莟むや梅若し
2-25 張子屋も梅は咲きたり豆達磨
🟩🌄「出山寺普子の発句碑たつるとて(前書)
2-22 草茎の今に残るや人の口
2-23 告(げ)わたる木綿付駕や年の關(せき)
2-24 をさがりの雫莟むや梅若し
2-25 張子屋も梅は咲きたり豆達磨 」
🟩 前書「出山寺普子の発句碑たつるとて」は、「出山寺(しゅさんじ=台東区の曹洞宗の寺院)に晋子(宝井其角)の発句碑を尋つる」、一句目の「草茎(くさぐさ)」は「鵙の贄」(秋の季語)、二句目の「木綿付駕(もめんづけかご)」=江戸時代の庶民の移動手段として使われた簡素な駕籠(町駕籠・辻駕籠)、「年の關(せき)」は、年の終わりが押し迫って慌ただしくなる時期(「冬」の季語)、三句目の「をさがり」は、「御降り(おさがり)」=元日から正月三が日の間に降る雨や雪を意味する新年の天文の季語」。四句目の「張子屋」=「郷土玩具を売る店」等、酒井抱一の「難解句」の、これら四句の正体が見えてくる。
🟩🌄 解題
2-22 草茎の今に残るや人の口
この句の季語は「鵙の贄」である。「草茎」は単なる草の茎ではなく、鵙が獲物を枝などに突き刺して残す、いわゆる「鵙の贄」の景を背景として読むべき語である。そこには秋の野の乾いた静けさと、何かがそこに「残されている」という感覚がある。
「今に残るや人の口」とは、過去の人の言葉が、いまなお人の口から口へと伝えられているという意味に取れる。ここで重要なのは、「碑」がまだ建てられていない段階で、まず「口」による伝承が存在することである。草茎に残されたものと、人の口に残されたものとが重なり、自然界に残る「贄」と、文芸の世界に残る「言葉」とが照応する。
したがって、この句は単なる秋景ではない。其角の発句が後世に残ることを、「人の口」という極めて生々しい媒体によって捉えた句なのである。碑石は文字を固定するが、俳諧は本来、人から人へ伝わる「口」の文芸であった。その意味で、この句は碑建立という営為の根底にある、俳諧そのものの生命を詠んでいるのである。
2-23 告(げ)わたる木綿付駕や年の關(せき)
季語は「年の関」で、年末の押し迫った時期をいう。木綿付駕は、華美な駕籠ではなく、町駕籠・辻駕籠のような庶民的な移動の姿を想起させる。
「告げわたる」という動詞が面白い。木綿を掛けた簡素な駕籠が年末の町を行き交い、その往来そのものが、歳末の到来を告げ知らせるように感じられるのである。「年の関」は、単なる時間の境ではない。人々が急ぎ、町が動き、旧年から新年へと一気に押し流されてゆく、その境目である。
ここには抱一特有の「江戸の生活感」がある。豪奢な大名行列ではなく、木綿付駕という庶民の乗物を置くことで、江戸の歳末を具体的な身体感覚にまで引き寄せているのである。そして「告げわたる」という語によって、町そのものが一種の時計となる。駕籠の往来が時間を知らせ、「年の関」が迫ってくる。
其角句碑建立という文芸的な営みの一方で、抱一はこうした町の雑踏を見ている。過去の俳諧師を顕彰しながら、現在の江戸の生活を詠む。この二重性こそ、抱一の「屠龍之技」を読む際に見落としてはならないところである。
2-24 をさがりの雫莟むや梅若し
季語は「をさがり」は「御降り」であり、元日から三が日に降る雨雪をいう新年の天文季語である。「雫」はその御降りの雫であり、「莟む」は梅の蕾がふくらみ始めることを示す。
この句では、正月の雨雪の雫と、まだ若い梅の蕾とが一つの小さな世界をつくる。「雫莟むや」という表現には、雫がそのまま梅の蕾を育て、あるいは蕾の内部に入り込んでいるかのような錯覚がある。まだ花そのものではない。しかし、花になる力だけが、雫を受けて静かに凝縮している。
ここに「若し」という言葉が置かれていることも重要である。「梅若し」は、単に若い梅というだけではない。新年という新しい時間の入口において、まだ開かないものの内部に春の兆しを見る言葉である。
そして、其角の碑を建てるという仕事を背景にすれば、この「莟む」は象徴的でもある。過去の俳諧を碑として固定することは、一見すれば過去を完成させる行為である。しかし抱一の眼は、その過去を閉じたものとしてではなく、これから再び開花する「梅の莟」のように見ている。其角は過去の人であるが、その句はまだ蕾のように生命を持っているのである。
2-25 張子屋も梅は咲きたり豆達磨
ここでは「梅」が春の季語であり、張子屋は江戸の郷土玩具などを扱う店を指す。「豆達磨」は小さな達磨であり、張子という庶民的な玩具の世界を具体的に呼び込む。
「張子屋も」という「も」が、この句の中心である。梅が咲くのは庭園や名所だけではない。張子屋のような町の店先にも梅は咲く。「も」によって、花と人の暮らしとの距離が一挙に縮まるのである。
さらに「豆達磨」と梅との取り合わせがよい。小さな達磨が店先に並び、その傍らに梅が咲く。そこには、いかにも江戸らしい庶民生活の明るさがある。梅という伝統的な雅の花を、張子屋と豆達磨という俗の世界に置くことで、抱一は「雅」と「俗」を対立させない。
これは抱一の俳諧そのものの性格にも通じる。其角を顕彰する文脈にありながら、句は碑石や名句の威厳だけを詠むのではなく、張子屋、豆達磨、駕籠、年末の町、正月の雨、梅といった生活の細部へ降りてゆく。そこに抱一の江戸趣味の核心がある。
総括――出山寺の其角句碑と「屠龍之技」、そして抱一
前書「出山寺普子の発句碑たつるとて」は、この四句を読むための重要な鍵である。「普子」は其角の俳号「晋子」を指すものと考えられ、ここで問題となるのが、出山寺に建立される其角の発句碑である。その句碑に刻まれる句が、
「草茎をつつむ葉もなき雲間哉」
である。
この一句を背景に置くと、抱一の「屠龍之技」に収められた四句は、単なる雑多な難解句ではなくなる。「草茎」「人の口」「木綿付駕」「年の関」「御降り」「梅」「張子屋」「豆達磨」という、一見して互いに離れている言葉の群れが、実は「其角を顕彰する江戸」という一つの文化的空間のなかに配置されているのである。
とりわけ2-22の「草茎」は、其角の句碑に刻まれる「草茎」と直接響き合う。其角の句では、「葉もなき」草茎が雲間に置かれ、秋の寂寥が極めて簡潔に結晶している。それに対して抱一は、「草茎の今に残るや人の口」と詠み、「草茎」を自然物から伝承される言葉へと転じている。其角の句が石に刻まれる一方で、其角の俳諧は「人の口」にも残るのである。
ここには、碑と口、石と声という二つの保存形式がある。碑は動かない。しかし俳諧は動く。碑は文字を固定する。しかし句は人の口を通って生き続ける。抱一はこの二つを対立させず、句碑建立という「固定」の行為の背後に、「口伝」という生きた俳諧の生命を見ているのである。
さらに2-23から2-25へ進むと、季節が年末から正月、そして梅の咲く春へと移ってゆく。「年の関」から「御降り」へ、そして「梅」へ。この時間の推移は、単なる歳時記的な配列ではない。其角という過去の俳人を顕彰する行為が、過去を保存するだけではなく、新しい季節、新しい俳諧へと生命を受け渡してゆく過程として読めるのである。
そして、その舞台が出山寺という寺院でありながら、句の世界には町駕籠が走り、張子屋があり、豆達磨があり、梅が咲く。すなわち「寺」と「町」、「碑」と「玩具」、「其角」と「庶民生活」、「古典」と「当世」が一つの視野に収まっている。
このところに、酒井抱一という人物の特異な位置がある。抱一は其角をただ歴史上の俳人として崇敬したのではない。江戸の町に生きた俳諧の感覚そのものを、自らの句の内部に再生しようとしたのである。其角の句碑を建てるという行為は、過去を記念碑化する営みである。しかし「屠龍之技」の句々は、その記念碑の周囲に、再び江戸の風景を動かし始める。
だからこそ、2-25の「張子屋も梅は咲きたり豆達磨」は、四句の結びとして実に象徴的である。其角の句碑という「石」の文化の傍らに、張子の「豆達磨」という軽い玩具があり、その横に梅が咲く。重い碑と軽い張子、古人の句と現在の町、雅なる梅と俗なる玩具。そのすべてを同じ視野に置くところに、抱一の俳諧的世界がある。
「屠龍之技」の「難解句」とは、単に古語が難しい句なのではない。その背後に、江戸の風俗、其角の俳諧、寺社、町人文化、季節の推移、そして抱一自身の古俳諧への憧憬が重層しているために、容易には一枚の意味に収まらない句なのである。
出山寺の其角句碑は、その意味で「過去を石にする場所」である。しかし抱一の句は、その石の周囲に再び風を通し、駕籠を走らせ、御降りを降らせ、梅を咲かせ、張子屋の豆達磨を置く。其角を碑に刻むことによって、抱一はむしろ其角のいた江戸を、もう一度、生きた時間として蘇らせているのである。
(参考)「其角句碑」(台東区清川1-13-13・「出山寺」)
所在地 台東区清川1-13-13 (出山寺)
https://tokyotaito.blog.shinobi.jp/%E6%B8%85%E5%B7%9D/%E5%85%B6%E8%A7%92%E3%81%AE%E5%8F%A5%E7%A2%91%EF%BC%88%E5%87%BA%E5%B1%B1%E5%AF%BA%EF%BC%89
「 其角の句碑
草茎を つつむ葉もなき 雲間哉
碑の正面に室生其角の句を刻む。
其角の著『末若葉』によれば、これは元禄9年(1696)正月、弟子を連れて当寺に遊んだときに詠んだ句であるという。
碑は、この風流の故事を顕彰して、完成5年(1793)に建立された。
其角は、寛文元年(1661)の生まれ。榎本ともいった。医師竹下東順の子。14、5才のころ、芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたという。天和3年(1683)蕉風の先駆とみなされる『虚栗』を編集し、芭蕉の新しい俳風の確立に活躍した。いわゆる蕉門十哲の第一人者とされたが、芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となった。宝永4年(1707)没。
なお、右側面に刻む「くさぐきの今にのこるや人の口 屠竜」は、姫路城主酒井忠以の弟であり、当時根岸に澄んでいた画家酒井抱一の句である。
平成7年(1995)3月 台東区教育委員会 」
新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-26~27)」
花街
2-26 松は「花街(前書)2-26松は皆人に植(ゑ)たる二日かな/2-27 青柳やいなりの額の女文字」皆人に植(ゑ)たる二日かな
2-27 青柳やいなりの額の女文字
🟩 前書「花街」は、屠龍こと酒井抱一が、終生にわたり愛し、過ごした、「花街・吉原」である。一句目は、「正月二日=「買初(かいぞめ)」と呼ばれる営業開始日でした。遊女たちは正月用の豪華な着物(縁起ものの「松の柄の晴着)をまとい、禿(かむろ)や遣手(やりて)を引き連、お世話になっている茶屋などへ新年の挨拶(年礼)に回る華やかな花魁道中」などに関する句、二句目も、「廓内にあった九郎助稲荷(現在の吉原神社)をはじめとする稲荷社に関する」句であろう。

🟩🌄「花街(前書)2-26松は皆人に植(ゑ)たる二日かな/2-27 青柳やいなりの額の女文字」
🟩🌄 解題
この二句は、「花街」という前書によって、単なる正月風景ではなく、江戸吉原という一つの文化空間の内部に置かれている。抱一にとって吉原は、遊興の場所であると同時に、俳諧・書・絵画・装飾・衣裳・年中行事などが交錯する「粋のサロン」であった。その意味から見ると、二句とも華やかな人物を直接描かず、松・二日・青柳・稲荷の額・女文字という周縁の事物だけによって花街の気配を立ち上げているところに、抱一らしい美意識がある。
2-26 松は皆人に植(ゑ)たる二日かな
季語は「二日」である。正月二日、すなわち年始の二日目であり、新年の晴れやかな時間を示す季語である。「松」は本来、門松など新年を象徴するものとして働いている。「皆人」は「すべての人」の意であり、「松は皆、人に植ゑたる」と読めば、そこにある松が自然に生えているものではなく、人の手によって選ばれ、植えられ、飾られた松であることをいう。「二日かな」は、その人為によって整えられた新年の景を、最後に「かな」で大きく受け止めている。
句意は、正月二日、花街のいたるところに見える松は、いずれも人の手によって植えられ、飾られたものであるなあ、というほどの意である。ここには「自然の松」と「人がつくった正月の松」との対照がある。
しかし、この句の面白さは、単に「松が飾られている」という正月風景を写したところにはない。「松は皆人に植ゑたる」と、人の手をことさらに前面に出したところに、花街という人工的な美の世界が浮かび上がるのである。吉原は、自然のままの町ではない。建築、格子、暖簾、灯、衣裳、髪、化粧、花、植木に至るまで、人の手によって美しく仕立てられた世界である。そこに正月が来れば、松もまたその「しつらえ」の一部となる。
しかも「皆」という一語が効いている。一本の松を写生するのではなく、目に入る松のすべてが「人に植ゑたる」ものとして見えてくる。自然そのものではなく、人間が自然を美へと仕立てる行為そのものを眺めているのである。この視点は、抱一の絵画にも通じる。自然をそのまま写すのではなく、自然を人間の美意識のなかに取り込んで、余白と装飾によって一つの世界をつくる。その「琳派的な眼」が、極めて簡潔な俳句のなかにも働いていると見ることができる。
2-27 青柳やいなりの額の女文字
季語は「青柳」である。芽吹き始めた柳の青さは、春の到来を告げる代表的な季物である。前句の「二日」が新年の時候を直接示すのに対して、この句では「青柳」が花街の景に春の色を与えている。
「いなり」は、花街に祀られた稲荷社を指す。「額」は神社に掲げられた扁額である。「女文字」は、女性が書いたような柔らかく優美な書体をいう。したがって句意は、青柳が風に揺れている稲荷社、その額に記された文字が、いかにも女手らしい優美な文字であることよ、というものである。
ここで重要なのは、「青柳」と「女文字」との取り合わせである。青柳は自然の側にある柔らかな線であり、「女文字」もまた筆の運びが柔らかく、細く、しなやかである。つまり、柳の枝と文字の筆線とが、視覚的な感覚において響き合っている。抱一は「女文字」という意味だけを見ているのではなく、そこに線の美、姿の美、書の美を見ているのである。
さらに「いなりの額」という具体的な場所が句を締めている。稲荷という信仰の対象があり、その社頭に青柳があり、その額に女文字がある。宗教、自然、書、そして花街の文化が、一句のなかで静かに重なっている。
「女文字」という言葉には、吉原という場所の文化的な性格も滲んでいる。花街では女性の存在が、衣裳、髪、書、手紙、扇、短冊など、さまざまな「もの」に美として現れる。抱一は女性そのものを描写することなく、「女文字」という一語によって、その不在の人物を感じさせる。これは非常に巧みな省略である。人を描かずして、人の気配を描くのである。
そして、この句の「青柳や」という切字「や」が美しい。まず青柳を一景として大きく提示し、そのあとに「いなりの額の女文字」と視線を移していく。柳から額へ、自然から人工へ、枝の線から筆の線へと眼が移動する。その視線の運びそのものが、抱一の絵画を見るようである。
◆ 総括――酒井抱一と「粋のサロン・吉原文化」
この二句を「花街」という前書のもとに並べて読むと、酒井抱一にとっての吉原が、単なる遊興の場ではなく、一種の総合的な美のサロンであったことが見えてくる。
第一句の「松は皆人に植ゑたる二日かな」は、人の手によって整えられた正月の松を見ている。第二句の「青柳やいなりの額の女文字」は、自然の柳と人工の書とを一つの美的な視野に入れている。ここには共通して、自然と人工、人と物、生活と芸術との境界を厳密には分けない抱一の眼がある。
吉原文化における「粋」とは、単に豪華であることではない。むしろ、豪華さを露骨に誇示せず、衣裳の取り合わせ、文字の書きぶり、季節のしつらえ、言葉の掛け合い、絵や俳諧の趣向などに、見る者が読み取るべき「余情」を残すことで成立する美意識であった。そこでは、ものそのもの以上に、ものとものとの取り合わせが重要になる。
この二句は、その「粋」の構造をよく示している。「松」と「二日」、「青柳」と「女文字」という取り合わせは、いずれも説明しすぎない。まして遊女や花魁を直接詠まない。それでも「花街」という前書を置けば、松の飾り、柳の枝、稲荷の額、女手の文字の背後から、吉原の華やかな生活文化が立ち上がってくる。
ここに抱一の俳諧と絵画との深い連続性がある。絵では人物を描かずとも、衣裳や草花や器物によって人物の気配を感じさせることができる。俳句でも同じく、人を詠まずして「女文字」を詠み、花街を語らずして「松」と「青柳」と「稲荷」を詠む。つまり、見えるものを少なくすることによって、見えない世界を大きくするのである。
「花街」という二文字は、その意味で単なる場所の指定ではない。それ自体が二句を包む美的な額縁となっている。松に正月の人の営みを見、青柳に春の気配を見、稲荷の額に女性の筆の余情を見る。そこには、吉原を一つの「粋のサロン」として生きた抱一の、遊興を超えた文化的感受性がある。
したがって、この二句の吉原は、喧騒の吉原ではなく、正月二日の静かな吉原である。人影を消したあとに残る松、青柳、稲荷、額、そして女文字――その「余白」こそが、抱一にとっての吉原文化の核心であり、俳諧と琳派を結ぶ一つの美の世界なのである。
花街
2-26 松は「花街(前書)2-26松は皆人に植(ゑ)たる二日かな/2-27 青柳やいなりの額の女文字」皆人に植(ゑ)たる二日かな
2-27 青柳やいなりの額の女文字
🟩 前書「花街」は、屠龍こと酒井抱一が、終生にわたり愛し、過ごした、「花街・吉原」である。一句目は、「正月二日=「買初(かいぞめ)」と呼ばれる営業開始日でした。遊女たちは正月用の豪華な着物(縁起ものの「松の柄の晴着)をまとい、禿(かむろ)や遣手(やりて)を引き連、お世話になっている茶屋などへ新年の挨拶(年礼)に回る華やかな花魁道中」などに関する句、二句目も、「廓内にあった九郎助稲荷(現在の吉原神社)をはじめとする稲荷社に関する」句であろう。
🟩🌄「花街(前書)2-26松は皆人に植(ゑ)たる二日かな/2-27 青柳やいなりの額の女文字」
🟩🌄 解題
この二句は、「花街」という前書によって、単なる正月風景ではなく、江戸吉原という一つの文化空間の内部に置かれている。抱一にとって吉原は、遊興の場所であると同時に、俳諧・書・絵画・装飾・衣裳・年中行事などが交錯する「粋のサロン」であった。その意味から見ると、二句とも華やかな人物を直接描かず、松・二日・青柳・稲荷の額・女文字という周縁の事物だけによって花街の気配を立ち上げているところに、抱一らしい美意識がある。
2-26 松は皆人に植(ゑ)たる二日かな
季語は「二日」である。正月二日、すなわち年始の二日目であり、新年の晴れやかな時間を示す季語である。「松」は本来、門松など新年を象徴するものとして働いている。「皆人」は「すべての人」の意であり、「松は皆、人に植ゑたる」と読めば、そこにある松が自然に生えているものではなく、人の手によって選ばれ、植えられ、飾られた松であることをいう。「二日かな」は、その人為によって整えられた新年の景を、最後に「かな」で大きく受け止めている。
句意は、正月二日、花街のいたるところに見える松は、いずれも人の手によって植えられ、飾られたものであるなあ、というほどの意である。ここには「自然の松」と「人がつくった正月の松」との対照がある。
しかし、この句の面白さは、単に「松が飾られている」という正月風景を写したところにはない。「松は皆人に植ゑたる」と、人の手をことさらに前面に出したところに、花街という人工的な美の世界が浮かび上がるのである。吉原は、自然のままの町ではない。建築、格子、暖簾、灯、衣裳、髪、化粧、花、植木に至るまで、人の手によって美しく仕立てられた世界である。そこに正月が来れば、松もまたその「しつらえ」の一部となる。
しかも「皆」という一語が効いている。一本の松を写生するのではなく、目に入る松のすべてが「人に植ゑたる」ものとして見えてくる。自然そのものではなく、人間が自然を美へと仕立てる行為そのものを眺めているのである。この視点は、抱一の絵画にも通じる。自然をそのまま写すのではなく、自然を人間の美意識のなかに取り込んで、余白と装飾によって一つの世界をつくる。その「琳派的な眼」が、極めて簡潔な俳句のなかにも働いていると見ることができる。
2-27 青柳やいなりの額の女文字
季語は「青柳」である。芽吹き始めた柳の青さは、春の到来を告げる代表的な季物である。前句の「二日」が新年の時候を直接示すのに対して、この句では「青柳」が花街の景に春の色を与えている。
「いなり」は、花街に祀られた稲荷社を指す。「額」は神社に掲げられた扁額である。「女文字」は、女性が書いたような柔らかく優美な書体をいう。したがって句意は、青柳が風に揺れている稲荷社、その額に記された文字が、いかにも女手らしい優美な文字であることよ、というものである。
ここで重要なのは、「青柳」と「女文字」との取り合わせである。青柳は自然の側にある柔らかな線であり、「女文字」もまた筆の運びが柔らかく、細く、しなやかである。つまり、柳の枝と文字の筆線とが、視覚的な感覚において響き合っている。抱一は「女文字」という意味だけを見ているのではなく、そこに線の美、姿の美、書の美を見ているのである。
さらに「いなりの額」という具体的な場所が句を締めている。稲荷という信仰の対象があり、その社頭に青柳があり、その額に女文字がある。宗教、自然、書、そして花街の文化が、一句のなかで静かに重なっている。
「女文字」という言葉には、吉原という場所の文化的な性格も滲んでいる。花街では女性の存在が、衣裳、髪、書、手紙、扇、短冊など、さまざまな「もの」に美として現れる。抱一は女性そのものを描写することなく、「女文字」という一語によって、その不在の人物を感じさせる。これは非常に巧みな省略である。人を描かずして、人の気配を描くのである。
そして、この句の「青柳や」という切字「や」が美しい。まず青柳を一景として大きく提示し、そのあとに「いなりの額の女文字」と視線を移していく。柳から額へ、自然から人工へ、枝の線から筆の線へと眼が移動する。その視線の運びそのものが、抱一の絵画を見るようである。
◆ 総括――酒井抱一と「粋のサロン・吉原文化」
この二句を「花街」という前書のもとに並べて読むと、酒井抱一にとっての吉原が、単なる遊興の場ではなく、一種の総合的な美のサロンであったことが見えてくる。
第一句の「松は皆人に植ゑたる二日かな」は、人の手によって整えられた正月の松を見ている。第二句の「青柳やいなりの額の女文字」は、自然の柳と人工の書とを一つの美的な視野に入れている。ここには共通して、自然と人工、人と物、生活と芸術との境界を厳密には分けない抱一の眼がある。
吉原文化における「粋」とは、単に豪華であることではない。むしろ、豪華さを露骨に誇示せず、衣裳の取り合わせ、文字の書きぶり、季節のしつらえ、言葉の掛け合い、絵や俳諧の趣向などに、見る者が読み取るべき「余情」を残すことで成立する美意識であった。そこでは、ものそのもの以上に、ものとものとの取り合わせが重要になる。
この二句は、その「粋」の構造をよく示している。「松」と「二日」、「青柳」と「女文字」という取り合わせは、いずれも説明しすぎない。まして遊女や花魁を直接詠まない。それでも「花街」という前書を置けば、松の飾り、柳の枝、稲荷の額、女手の文字の背後から、吉原の華やかな生活文化が立ち上がってくる。
ここに抱一の俳諧と絵画との深い連続性がある。絵では人物を描かずとも、衣裳や草花や器物によって人物の気配を感じさせることができる。俳句でも同じく、人を詠まずして「女文字」を詠み、花街を語らずして「松」と「青柳」と「稲荷」を詠む。つまり、見えるものを少なくすることによって、見えない世界を大きくするのである。
「花街」という二文字は、その意味で単なる場所の指定ではない。それ自体が二句を包む美的な額縁となっている。松に正月の人の営みを見、青柳に春の気配を見、稲荷の額に女性の筆の余情を見る。そこには、吉原を一つの「粋のサロン」として生きた抱一の、遊興を超えた文化的感受性がある。
したがって、この二句の吉原は、喧騒の吉原ではなく、正月二日の静かな吉原である。人影を消したあとに残る松、青柳、稲荷、額、そして女文字――その「余白」こそが、抱一にとっての吉原文化の核心であり、俳諧と琳派を結ぶ一つの美の世界なのである。
新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-28)」
春眠
2-28 たらぬ夜に日を足す日有(り)花の雨
🟩 句の周辺
季語は「春の雨」(晩春)=桜の咲く頃に降る雨、あるいは咲き満ちる桜の花に降る雨。「前書」の「春眠」=「春眠不覚暁」(孟浩然)。
春眠不覚暁( 春眠暁を覚えず/ しゅんみんあつきをおぼえず
処処聞啼鳥(処処に啼鳥を聞く/しょしょていちょうをきく)
夜来風雨声(夜来風雨の声/やらいふううのこえ)
花落知多少(花落つること知る多少ぞ/はなおつることしるたしょうぞ)
この句の装いは、「春眠不覚暁」(孟浩然)の「本詩取り」の句の雰囲気であるが、その背景は、この句が収載されている「第二かぢのおと(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
(「蛎殻町・酒井家中屋敷=「酒井家後嗣等の政務外屋敷)=「部屋住み・隠棲時代」)」の、「酒井家上屋敷」(酒井家の「晴レ(第一線の表=大名)人)の屋敷(表)」から、「酒井家中屋敷(「褻(ケ)=第二線の裏(市井人の屋敷(裏・隠棲」)との狭間の「時代」)の、「武家人(「酒井家」の大名人)」から、「市井人(脱「酒井家」=「出家・文人・画人」への自在・自由人への移行)を象徴するような、そんなイメージを内包している句のようにも思われる。

🟩🌄 「春眠」――「晴レ」と「褻」の狭間にある抱一
前書に「春眠」と置かれた「たらぬ夜に日を足す日有り花の雨」は、表面だけを読めば、春の眠りの長閑さを詠んだ句である。しかし、この一句を『かぢのおと』第二「寛政二・三・四」の時代的位置に据えると、そこには、単なる春眠以上に、抱一の生の時間そのものが映り込んでいるように思われる。すなわち、酒井家の「晴レ」と「褻(ケ)」との境界に立つ人間の、静かな時間の転換である。
季語は「花の雨」である。 晩春の季語で、桜の咲く頃に降る雨、あるいは咲き満ちた桜を濡らし、花を散らす雨をいう。ここでは単なる「春雨」ではなく、「花」の一字を冠することによって、雨の中にも桜の明るさと、散りゆくものの気配とが同時に置かれている。春眠の柔らかな空気と花の雨とが重なることで、句全体が、輪郭を失ったような淡い時間の中に置かれるのである。
「たらぬ夜」とは、眠りの足りなかった夜である。「日を足す」は、その不足を昼間の眠りによって補うことと読める。そして「日有り」と続くことで、夜と昼との境界がゆるむ。「夜に眠り、朝に起きる」という通常の生活時間ではなく、夜に足りなかった眠りを昼へ持ち越すのである。そこには、規則正しい時間からわずかに外れた生活がある。
しかし、この「たらぬ夜」は、決して不足感だけを意味しない。むしろ「たらぬ」ことによって、昼に「日を足す」という余白が生じる。春という季節には、その余白が許される。花の雨が降っているならば、なおさら外界は急がない。雨は人を戸外へ急がせず、花は雨に濡れ、眠りは昼へ延びる。ここに、春という季節の時間のゆるみがある。
この句を読む上で、前書「春眠」は極めて重要である。いうまでもなく孟浩然の「春眠不覚暁」を背後に置くものであり、その詩には「夜来風雨声、花落知多少」という、夜の風雨と花の落ちる気配がある。抱一の句は、その古詩の世界をそのまま再現するのではない。孟浩然が、眠りから覚めて夜来の風雨を知り、花の散ったことを思うのに対して、抱一は、むしろ眠りの側に身を置いたまま、昼へ時間を延長している。
ここに本句の「本詩取り」の面白さがある。
孟浩然の「春眠」は、自然の中にある人間の眠りであった。抱一の「春眠」は、それに加えて、社会の時間から少し身を外した人間の眠りになっている。「たらぬ夜に日を足す」という一見些細な生活の所作が、実は、時間を自らの感覚によって組み替える行為となっているのである。
そして、この「時間の組み替え」を、抱一の境遇に重ねてみると、一句の意味はさらに深くなる。
この頃の抱一は、酒井家の大名としての「晴レ」の世界と、そこから一歩退いた「褻」の世界との狭間にいる。酒井家上屋敷は、大名家の公的な世界であり、家格、職分、儀礼、政務という「表」の時間が支配する空間である。そこでは、人は自分自身の時間を自由に生きることが難しい。酒井家の「二子」として生まれた忠因には、まさにその「晴レ」の時間が背負わされている。
それに対して蛎殻町の酒井家中屋敷は、その「表」の世界から一段退いた場所である。もちろん、そこもなお酒井家の世界ではある。しかし、上屋敷の公的な「表」に対して、こちらには「裏」としての私的な時間が入り込む余地がある。俳諧、書画、遊芸、交遊といった、武家の職分そのものではない世界が、次第に大きな意味を持ってくる。
そこで「たらぬ夜に日を足す」という時間感覚が生きてくる。
これは、単に「よく寝る」ということではない。公的な時間によって規定された生から、自らの感性によって時間を選び取る生への移行なのである。
「晴レ」の世界では、「夜が明ければ起きる」という時間がある。「褻」の世界では、「たらぬ夜なら日を足す」という時間が許される。その小さな差異の中に、武家人から市井人へ向かう抱一の精神の動きが、ひそかに潜んでいるように思われる。
さらに重要なのは、この句が「自由」を声高に宣言していないことである。「酒井家を出る」とも、「武家を捨てる」とも言わない。ただ、眠りの足りない夜に、昼を足している。そして、その日には花の雨が降っている。
この声高に語らないことこそ、抱一の俳諧の魅力である。
やがて抱一は、出家して「等覚院文詮暉真」となり、さらに「抱一堂屠龍」を名乗る。その人生の転位を、後世の眼から逆算してこの句に読み込むことには慎重でなければならない。しかし、少なくとも『かぢのおと』第二の抱一が、酒井家という大名家の「晴レ」の時間だけではなく、その外縁にある「褻」の時間を生き始めていることは、この句の生活感覚の中に感じ取ることができる。
「春眠」は、その境界にある。
眠っている間、人は武家でも市井人でもない。職分からも家格からも、一時的に解放される。そして目覚めれば、また社会の時間へ戻る。しかし「たらぬ夜に日を足す」抱一は、その眠りを昼まで延ばしてしまう。そこでは、昼と夜、表と裏、職分と遊芸、公と私の境界が、花の雨によって柔らかく溶かされている。
したがって、「花の雨」は単なる美しい季語ではない。この一句においては、「晴レ」と「褻」の境界を濡らしている雨とも見えるのである。
酒井家の「晴レ」が、金屏風のような明るい公的世界であるとすれば、「褻」は、雨に濡れた庭、静かな座敷、書画や俳諧に親しむ私的世界である。抱一は、その二つの世界の境界に立っている。そして「春眠」という前書は、その境界に置かれた抱一自身の姿を、直接描くことなく暗示している。
総括――酒井忠因から酒井抱一へ
「たらぬ夜に日を足す日有り花の雨」は、春眠という古典的な題材を借りながら、実は抱一自身の「時間」を詠んだ句であると考えたい。
酒井忠因は、酒井家大名家の二子として「晴レ」の世界に生まれた。しかし、その生涯はやがて、酒井家の公的な時間から一歩ずつ離れ、蛎殻町の中屋敷という「褻」の空間へ、俳諧・書画・遊芸の世界へ、さらに出家という大きな転換を経て、自在な文人・画人としての「抱一」へと向かっていく。
その長い転換を、この一句だけに直接結びつけることはできない。しかし、「たらぬ夜に日を足す」という一句の時間感覚には、すでにその方向を思わせるものがある。
「晴レ」は他者から与えられた時間であり、「褻」は自らが選び取る時間である。
その境界にあって抱一は、まず「日を足す」。
そして、その足された日に「花の雨」が降る。
この「日を足す」という小さな逸脱こそ、私はこの句における抱一の「自由」の芽と見たいのである。大名家の二子としての酒井忠因から、酒井家の名を背負いながらも次第にその制度的な枠を越えてゆく市井の人、そして俳諧師・画人としての酒井抱一へ――その**「武家人」から「自在な人」への移行**が、春眠という柔らかな余白の中に、まだ声にならない形で潜んでいる。
だからこそ、この句は「春眠」の句でありながら、実は抱一の「晴レ」から「褻」へ向かう最初の一滴のような句なのである。
「花の雨」は、その一滴を包む。
そして雨の向こうに、後の「抱一堂屠龍」へと続く、まだ名のない自由な時間が、静かに見えてくるのである。
(参考) 【「屠龍之技」の全体構成(「軽挙観句藻」(外題)のうちの「文化十年刊=自撰句集『屠龍之技』)=未定稿
序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・四五歳
第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
(「大手門前・酒井家上屋敷=「金馬門=朱門・大名屋敷」=「部屋住み時代」)
第二かぢのおと(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
(「蛎殻町・酒井家中屋敷=「酒井家後嗣等の政務外屋敷)=「部屋住み・隠棲時代」)
第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~
(「隅田川東岸・本所馬場=「下屋敷」風住居の「隠棲・出家前時代」)
第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳
(「本所馬場から千束村へ」=「隠棲・出家前後」・三十七歳=出家・等覚院文詮暉真)
第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五個歳
(「千束の隠士・抱一堂屠龍」時代)
第六潮のおと (文化二)=抱一・四五歳
(「浅草寺の弁天池に転居・山谷の紙洗橋に転居」)
第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~
(「釈抱一・字庭柏・号屠龍・千束軽挙館主人」時代)
第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳
(文化六年=「下谷根岸の里に転居、以後「定住」、「鶯邨・鶯村」を名乗る。※文化七年=「小鸞女史身請け」)
第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五九歳
(文化十年=自撰句集『屠龍之技』刊)
跋一(春来窓三)
跋二(太田南畝) (文化発酉・文化十年=一八一三)=抱一・五三歳
※文化十四年(一八一七・抱一、五十七歳)=小鸞剃髪し、妙華尼と称す。鈴木蠣潭急死、鈴木其一家督相続、抱一邸の「庵号」に「雨華庵」の額掛かる。
※文政六年(一八二三・抱一、六十三歳)=太田南畝没
※文政九年(一八二六)・抱一、六十六歳=亀田鵬斎没
※文政十一年(一八二八)・抱一、六十八歳没(「等覚院文詮」) 】
春眠
2-28 たらぬ夜に日を足す日有(り)花の雨
🟩 句の周辺
季語は「春の雨」(晩春)=桜の咲く頃に降る雨、あるいは咲き満ちる桜の花に降る雨。「前書」の「春眠」=「春眠不覚暁」(孟浩然)。
春眠不覚暁( 春眠暁を覚えず/ しゅんみんあつきをおぼえず
処処聞啼鳥(処処に啼鳥を聞く/しょしょていちょうをきく)
夜来風雨声(夜来風雨の声/やらいふううのこえ)
花落知多少(花落つること知る多少ぞ/はなおつることしるたしょうぞ)
この句の装いは、「春眠不覚暁」(孟浩然)の「本詩取り」の句の雰囲気であるが、その背景は、この句が収載されている「第二かぢのおと(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
(「蛎殻町・酒井家中屋敷=「酒井家後嗣等の政務外屋敷)=「部屋住み・隠棲時代」)」の、「酒井家上屋敷」(酒井家の「晴レ(第一線の表=大名)人)の屋敷(表)」から、「酒井家中屋敷(「褻(ケ)=第二線の裏(市井人の屋敷(裏・隠棲」)との狭間の「時代」)の、「武家人(「酒井家」の大名人)」から、「市井人(脱「酒井家」=「出家・文人・画人」への自在・自由人への移行)を象徴するような、そんなイメージを内包している句のようにも思われる。
🟩🌄 「春眠」――「晴レ」と「褻」の狭間にある抱一
前書に「春眠」と置かれた「たらぬ夜に日を足す日有り花の雨」は、表面だけを読めば、春の眠りの長閑さを詠んだ句である。しかし、この一句を『かぢのおと』第二「寛政二・三・四」の時代的位置に据えると、そこには、単なる春眠以上に、抱一の生の時間そのものが映り込んでいるように思われる。すなわち、酒井家の「晴レ」と「褻(ケ)」との境界に立つ人間の、静かな時間の転換である。
季語は「花の雨」である。 晩春の季語で、桜の咲く頃に降る雨、あるいは咲き満ちた桜を濡らし、花を散らす雨をいう。ここでは単なる「春雨」ではなく、「花」の一字を冠することによって、雨の中にも桜の明るさと、散りゆくものの気配とが同時に置かれている。春眠の柔らかな空気と花の雨とが重なることで、句全体が、輪郭を失ったような淡い時間の中に置かれるのである。
「たらぬ夜」とは、眠りの足りなかった夜である。「日を足す」は、その不足を昼間の眠りによって補うことと読める。そして「日有り」と続くことで、夜と昼との境界がゆるむ。「夜に眠り、朝に起きる」という通常の生活時間ではなく、夜に足りなかった眠りを昼へ持ち越すのである。そこには、規則正しい時間からわずかに外れた生活がある。
しかし、この「たらぬ夜」は、決して不足感だけを意味しない。むしろ「たらぬ」ことによって、昼に「日を足す」という余白が生じる。春という季節には、その余白が許される。花の雨が降っているならば、なおさら外界は急がない。雨は人を戸外へ急がせず、花は雨に濡れ、眠りは昼へ延びる。ここに、春という季節の時間のゆるみがある。
この句を読む上で、前書「春眠」は極めて重要である。いうまでもなく孟浩然の「春眠不覚暁」を背後に置くものであり、その詩には「夜来風雨声、花落知多少」という、夜の風雨と花の落ちる気配がある。抱一の句は、その古詩の世界をそのまま再現するのではない。孟浩然が、眠りから覚めて夜来の風雨を知り、花の散ったことを思うのに対して、抱一は、むしろ眠りの側に身を置いたまま、昼へ時間を延長している。
ここに本句の「本詩取り」の面白さがある。
孟浩然の「春眠」は、自然の中にある人間の眠りであった。抱一の「春眠」は、それに加えて、社会の時間から少し身を外した人間の眠りになっている。「たらぬ夜に日を足す」という一見些細な生活の所作が、実は、時間を自らの感覚によって組み替える行為となっているのである。
そして、この「時間の組み替え」を、抱一の境遇に重ねてみると、一句の意味はさらに深くなる。
この頃の抱一は、酒井家の大名としての「晴レ」の世界と、そこから一歩退いた「褻」の世界との狭間にいる。酒井家上屋敷は、大名家の公的な世界であり、家格、職分、儀礼、政務という「表」の時間が支配する空間である。そこでは、人は自分自身の時間を自由に生きることが難しい。酒井家の「二子」として生まれた忠因には、まさにその「晴レ」の時間が背負わされている。
それに対して蛎殻町の酒井家中屋敷は、その「表」の世界から一段退いた場所である。もちろん、そこもなお酒井家の世界ではある。しかし、上屋敷の公的な「表」に対して、こちらには「裏」としての私的な時間が入り込む余地がある。俳諧、書画、遊芸、交遊といった、武家の職分そのものではない世界が、次第に大きな意味を持ってくる。
そこで「たらぬ夜に日を足す」という時間感覚が生きてくる。
これは、単に「よく寝る」ということではない。公的な時間によって規定された生から、自らの感性によって時間を選び取る生への移行なのである。
「晴レ」の世界では、「夜が明ければ起きる」という時間がある。「褻」の世界では、「たらぬ夜なら日を足す」という時間が許される。その小さな差異の中に、武家人から市井人へ向かう抱一の精神の動きが、ひそかに潜んでいるように思われる。
さらに重要なのは、この句が「自由」を声高に宣言していないことである。「酒井家を出る」とも、「武家を捨てる」とも言わない。ただ、眠りの足りない夜に、昼を足している。そして、その日には花の雨が降っている。
この声高に語らないことこそ、抱一の俳諧の魅力である。
やがて抱一は、出家して「等覚院文詮暉真」となり、さらに「抱一堂屠龍」を名乗る。その人生の転位を、後世の眼から逆算してこの句に読み込むことには慎重でなければならない。しかし、少なくとも『かぢのおと』第二の抱一が、酒井家という大名家の「晴レ」の時間だけではなく、その外縁にある「褻」の時間を生き始めていることは、この句の生活感覚の中に感じ取ることができる。
「春眠」は、その境界にある。
眠っている間、人は武家でも市井人でもない。職分からも家格からも、一時的に解放される。そして目覚めれば、また社会の時間へ戻る。しかし「たらぬ夜に日を足す」抱一は、その眠りを昼まで延ばしてしまう。そこでは、昼と夜、表と裏、職分と遊芸、公と私の境界が、花の雨によって柔らかく溶かされている。
したがって、「花の雨」は単なる美しい季語ではない。この一句においては、「晴レ」と「褻」の境界を濡らしている雨とも見えるのである。
酒井家の「晴レ」が、金屏風のような明るい公的世界であるとすれば、「褻」は、雨に濡れた庭、静かな座敷、書画や俳諧に親しむ私的世界である。抱一は、その二つの世界の境界に立っている。そして「春眠」という前書は、その境界に置かれた抱一自身の姿を、直接描くことなく暗示している。
総括――酒井忠因から酒井抱一へ
「たらぬ夜に日を足す日有り花の雨」は、春眠という古典的な題材を借りながら、実は抱一自身の「時間」を詠んだ句であると考えたい。
酒井忠因は、酒井家大名家の二子として「晴レ」の世界に生まれた。しかし、その生涯はやがて、酒井家の公的な時間から一歩ずつ離れ、蛎殻町の中屋敷という「褻」の空間へ、俳諧・書画・遊芸の世界へ、さらに出家という大きな転換を経て、自在な文人・画人としての「抱一」へと向かっていく。
その長い転換を、この一句だけに直接結びつけることはできない。しかし、「たらぬ夜に日を足す」という一句の時間感覚には、すでにその方向を思わせるものがある。
「晴レ」は他者から与えられた時間であり、「褻」は自らが選び取る時間である。
その境界にあって抱一は、まず「日を足す」。
そして、その足された日に「花の雨」が降る。
この「日を足す」という小さな逸脱こそ、私はこの句における抱一の「自由」の芽と見たいのである。大名家の二子としての酒井忠因から、酒井家の名を背負いながらも次第にその制度的な枠を越えてゆく市井の人、そして俳諧師・画人としての酒井抱一へ――その**「武家人」から「自在な人」への移行**が、春眠という柔らかな余白の中に、まだ声にならない形で潜んでいる。
だからこそ、この句は「春眠」の句でありながら、実は抱一の「晴レ」から「褻」へ向かう最初の一滴のような句なのである。
「花の雨」は、その一滴を包む。
そして雨の向こうに、後の「抱一堂屠龍」へと続く、まだ名のない自由な時間が、静かに見えてくるのである。
(参考) 【「屠龍之技」の全体構成(「軽挙観句藻」(外題)のうちの「文化十年刊=自撰句集『屠龍之技』)=未定稿
序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・四五歳
第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
(「大手門前・酒井家上屋敷=「金馬門=朱門・大名屋敷」=「部屋住み時代」)
第二かぢのおと(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
(「蛎殻町・酒井家中屋敷=「酒井家後嗣等の政務外屋敷)=「部屋住み・隠棲時代」)
第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~
(「隅田川東岸・本所馬場=「下屋敷」風住居の「隠棲・出家前時代」)
第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳
(「本所馬場から千束村へ」=「隠棲・出家前後」・三十七歳=出家・等覚院文詮暉真)
第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五個歳
(「千束の隠士・抱一堂屠龍」時代)
第六潮のおと (文化二)=抱一・四五歳
(「浅草寺の弁天池に転居・山谷の紙洗橋に転居」)
第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~
(「釈抱一・字庭柏・号屠龍・千束軽挙館主人」時代)
第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳
(文化六年=「下谷根岸の里に転居、以後「定住」、「鶯邨・鶯村」を名乗る。※文化七年=「小鸞女史身請け」)
第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五九歳
(文化十年=自撰句集『屠龍之技』刊)
跋一(春来窓三)
跋二(太田南畝) (文化発酉・文化十年=一八一三)=抱一・五三歳
※文化十四年(一八一七・抱一、五十七歳)=小鸞剃髪し、妙華尼と称す。鈴木蠣潭急死、鈴木其一家督相続、抱一邸の「庵号」に「雨華庵」の額掛かる。
※文政六年(一八二三・抱一、六十三歳)=太田南畝没
※文政九年(一八二六)・抱一、六十六歳=亀田鵬斎没
※文政十一年(一八二八)・抱一、六十八歳没(「等覚院文詮」) 】
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