「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画)管見(二十三)~(二十八)
(その二十三)「 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ 」
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/119届いた
季語は「雪後(雪後の天・深雪晴・雪晴)」(晩冬)。句意は、「何日も雪が降り続いた、その『雪後』に、見舞いに『来し(来てくれた)』、その『子(吾子二人)』の、その『柔髪(にこげ・やわげ)』の、その『かなしさ(父=『吾』不在の『子』の『かなしさ=必死に堪えているさま)』が、込み上げてくる。』
[ 宮本先生の診断で、三回目の手術、合成樹脂球充填術が行われることにきまっていた。去年の十月以来、六カ月の間に、三回の大手術をするわけである。はたして体力が持つだろうかと、私(あき子夫人)はそればかり心配した。
大雪の後、私は子どもたちを久しぶりに父(波郷)に逢わせようと思い、清瀬に連れていった。
雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ 波郷
三月二十三日付の夫からの手紙は、焼跡のわが家に届いた。 ](『夫(つま)帰り来るよ……見舞妻の記(石田あき子著)』)
(参考一) 「 雪(ゆき)(晩冬)」周辺
https://yahan.seesaa.net/
[ いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規「子規句集」
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男「長子」
白馬の眼繞(めぐ)る癇脈雪の富士 中村草田男「時機」
落葉松はいつめざめても雪降りをり 加藤楸邨「山脈」
さえざえと雪後の天の怒濤かな 加藤楸邨「雪後の天」
細雪妻に言葉を待たれをり 石田波郷「雨覆」
雪はしづかにゆたかにはやし屍室 石田波郷「惜命」
雪降れり時間の束の降るごとく 石田波郷「酒中花」 ](「きごさい歳時記」)
上記の例句中で、波郷の掲句の「雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ」の、その背景の一旦を宿していると思われる一句に、楸邨の「さえざえと雪後の天の怒濤かな」と、終戦直前の、昭和二十年一月の「東京大空襲」の一連の楸邨の句(『火の記憶』所収)の四句を、下記に並列して掲げて置きたい。
雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ 波郷(『惜命』・昭和二十四年作)
さえざえと雪後の天の怒濤かな 楸邨(『雪後の天』・昭和十六年作)
(一月八日)
子がかへり一寒燈の座が満ちぬ 楸邨(『火の記憶』・昭和二十年作)
(一月九日)
童らのうつくしき目や枯木立つ 楸邨(『火の記憶』・昭和二十年作)
(一月十二日、空襲下、ルソン島上陸報を聞く)
餅ひとつふくれんとして爆音す 楸邨(『火の記憶』・昭和二十年作)
子へ遺す一寒生の霜の文字 楸邨(『火の記憶』・昭和二十年作)
波郷の掲句の「雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ」の、その上五の「雪後来し」の「雪後」とは、楸邨の「隠岐紀行」(『雪後の天』所収)の冒頭の、「さえざえと雪後の天の怒濤かな」の、その「雪後の天」(「雪晴れ」)を背景にすると、その鑑賞が明瞭になって来る。
そして、その中七の「子の柔(にこ)髪の」の、この「子」は、楸邨の「東京大空襲」に日々見舞われている時の、「空襲下の東京で生死を彷徨している楸邨」と、「学童疎開などで離ればなれになっている、その子」と重ね合わせると、両者の、その「波郷(楸邨より八歳年下)」と「楸邨(「馬酔木」門では「波郷より年少」との、その生涯にわたる「楸邨と波郷との交友関係」との一旦が浮かび上がってくる。
その上で、この波郷の掲句の下五の「かなしさよ」に関連しては、下記の『雪後の天』の楸邨の「序」の、「実ありて悲しびをそふる」の、その「かなしよ」として鑑賞したい。
すなわち、「日本人としてこの秋に遭遇した命運の重さと、それを俳句にしようとつとめうる命運の重さと深く思ひつつ作句した」との、その「命運の重さ」ということになる。
「後鳥羽院のかかせ給ひしものにも、これらは歌に実ありて悲しびをそふるとのたまひ侍りしとかや。さればこの御ことばを力として、その細き一筋をたどりうしなふこなかれ。」と芭蕉が書いてゐる。この芭蕉の悲願を私は今、はるかに思ふ。
昭和十六年の初、衝迫のままに、隠岐に旅した時の百九十余句が「隠岐紀行」であるが、その冬大東亜戦争の勃発に際会して、この命運の下にある自分の歩みたき道を思ふとき、「実ありて悲しびをそふる」といふ御言葉が、新たなかがやきを以て胸に生きた。日本人としてこの秋に遭遇した命運の重さと、それを俳句にしようとつとめうる命運の重さと深く思ひつつ作句したのであつたが、大雪の中に深き静謐が生きてゐる如き俳句の本質的な深処には、かなしいかな。遙かに遠い。編み了へて感ずるのは、ただ言ひがたい「飢」の感である。
昭和十八年秋
加藤楸邨全集 第一巻 昭和五十六年 講談社 ]
(参考二)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三十七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後」
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 ※(黒地・観音像の図)
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図)
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図)
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白)
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白)
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公 の図)
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図)
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白)
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図)
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図)
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』)無
霧雫(八句) →(昭和二十四年、三十七歳)→「同上」
捨菊(十七句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
接吻(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
冬日楽園(二十三句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
降誕祭過(五句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
家長七日(十一句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
水仙花(二十句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
その二十四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/119
季語は「梅」(初春)。この句には、「武田君死す」との前書がある。この「武田君」というのは定かではないが、波郷が入所・手術・治療した、その「清瀬療養所・南七寮六番室」
等と関連すると、この句のイメージが鮮明となって来る。
句意は、「『一緒』に手術・治療した仲間の『一人』が、今、『一体』の『死者』となって、『仰臥正しく』横たわっている。折から、窓辺の『梅も一枝』綻んでいる。」
(参考一) 「梅(うめ・むめ)・梅一枝(初春)」周辺
https://kigosai.sub.jp/001/archives/892
梅一枝つらぬく闇に雨はげし 水原秋桜子「蓬壺」
勇気こそ地の塩なれや梅真白 中村草田男「来し方行方」
梅一輪踏まれて大地の紋章たり 中村草田男「銀河依然」
梅咲いて炎の天をささげたり 加藤楸邨「火の記憶」
※梅も一枝死者の仰臥の正しさよ 石田波郷「惜命」
掲出の、波郷の「梅も一枝死者の仰臥の正しさよ」の、この上五の「梅も一枝」は、「五・七・五」の「俳句(発句)」の「詩形(詩型)」の世界では、「梅一枝」(五音)が正調で、波郷の「梅も一枝」(六音)は破調ということになろう。波郷は、この掲出の句で、何故「も」を入れて破調にしたかということには、この「梅も一枝」に、「死人(遺体)も一体」を隠喩にしていて、そして、「一体の死人(遺体)」が、「梅の一枝」となって、再生しているということを、この句に託しているように解せられる。
そして、波郷の金字塔の句集とも目せられている『惜命』では、この「梅も一枝」の「一」という数詞を多用しているのが顕著なのである。
雪めく雲いま病み臥すは「一惨事」 → 「『一惨事』・昭和二十三年・『墓の眺め』」
春へ「一夜」「一夜」雨夜は臥して病む →「『一夜』・同・『春へ』」
メーデーの「一日」を墓に遊びけり →「『一日』・同・『薄暑』」
えごの花「一切」放下なし得るや →「『一切』・同・『療養所』」
蝌蚪の足生ふ「一匹」も剰すなし →「『一匹』・同・同」
「一夜」寝て露白光の外科病棟 →「『一夜』・同・『成形』」
眠れぬ夜凍てゝゆくらむ水「一壺」→「『一壺』・『二次成形その後』」
病む六人「一寒燈」を消すとき来 →「『一寒燈』・昭和二十四年・『ベトレヘムの鐘』」
「一輪挿し」転び溢れて氷りをり →「『一輪挿し』・同・『屍の眺め』」
※梅も「一枝」死者の仰臥の正しさよ →「『一枝』・同・『早春』」
目刺「一連」療養いよゝ永からむ →「『一連』・同・『遺残空洞』」
卯の花や仰臥の指に葉「一枚」 →「『一枚』・同・『予量』」
闇黒より胡頽子(こたいし)「一枝」を折り来たり →「『一枝』・同・『憂患』」
夜も其処に立ちをり梅雨の「一喬松」 →「『一喬松』・同・『長梅雨』」
悉く遠し「一油蝉」鳴き止めば →「『一油蝉』・同・『装厳』」
「一頭顱(とうろ)」光る癩園の黍の中 →「『一頭顱(とうろ)』・同・『癩園の籬』」
秋の夜の「一つの椅子」とバレリーナ →「『一つの椅子』・同・『颱風過』」
足袋褪せてゆるし戦後の「一病者」 →「『一病者』・同・『冬日楽園』」
冬日浴びゐる顱頂(ろちょう)の薄き「一患者」 →「『一患者』・昭和二十五年・『水仙花』」
冬月が『一つ』を白め『六つ』の病牀(ベット) →「『一つ(病牀(ベット)』・同・『水仙花』』
寒き眼の何に縋れる「一病者」 →「『一病者』・同・『水仙花』』」
これらの句の、「『一惨事』・『一夜』・『一日』・『一切』・『一匹』・『一壺』・『一寒燈』・『一輪挿し』・『一枝』・『一連』・『一枚』・『一喬松』・『一油蝉』・『一頭顱(とうろ)』・『一つの椅子』・
『一病者』・『一患者』・「『一つ(病牀(ベット)』」の、この異常とすら思える、これら「一」の多用は、何を語っているのであろうか?
この一連の句に見られる、この「一」の多用の「謎」は、波郷没年後に、あき子夫人によって編まれた遺句集『酒中花以後』(昭和四十四年刊)の、下記の句などから、それらの一端が読み解かれるように思われる。
安心(あんじん)の「一日」だになし稲妻す(昭和四十三年)
旅に獲し言葉「一つ」や枇杷の花(同上)
「一門」の女礼者や屋にあふれ(昭和四十四年)
叱咤の如癒えよ「一語」梅真白(同上)
点滴「一架」日脚の長くなりしかな(同上)
「一分」も酸素外さず夏小菊(同上)
「一枝」呉れし清瀬の柿は禅子丸(ぜんじまる) (同上)
※今生(こんじょう)は病む生(しょう)なりき烏頭(とりかぶと)(同上)
露か雨か「十一月」ははじまりぬ(同上・「十一月二十一日永眠」)
ここで、先にも引用した「故郷のごとき(結城昌治「序」・『現代俳句の世界7 石田波郷集』所収)の、次の一節を掲げて置きたい。
[ 俳句の毒を生涯かけて飲みつくしたのが石田波郷ではなかったろうか。すでに二十代のころ『俳句は文学ではない』と言い切ったそうだが、それは逆説というより、俳句は文学などという曖昧なものではなく、俳句固有の表現形式に対する自負を蔵していたに違いないのである。]
この「俳句固有の表現形式(「五・七・五」=「十七音字」の世界)に対する自負を蔵していたに違いないのである。」の、その「五・七・五」=「十七音字」の世界の、その、スタートの、その「強調・声調・正調・象徴(調) ・緊張(調)」等の、「調べ(「音律・韻律・律」)」、そして、それは、結城昌治「序」の「毒薬(「俳諧・俳句」という世界)」の、波郷の「好み」の「一措辞(言・語・呟き)」ということになる。
と同時に、その「象(心)徴(調)・正調・強調・声調」等の、「調べ(「音律・韻律・律」)」の背後には、その「毒」の正体の、それを暗示するような、次の一句の、その「鳥頭(とりかぶと)」の、この句が、その「毒薬=鳥頭(とりかぶと)」の正体ということになろう。
※今生(こんじょう)は病む生(しょう)なりき烏頭(とりかぶと)
(補記一)「鳥兜(とりかぶと)仲秋」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/5678
[【子季語】 鳥頭、兜菊、兜花、山兜、草鳥頭、附子
【解説】 キンポウゲ科の多年草。丈は一メートルほどになる。秋、紫色の花を下向きにつける。根は猛毒であるが、漢方薬にもなる。
【例句】
紫の花の乱れやとりかぶと 惟然「薦獅子集」
今生は病む生なりき鳥頭(兜) 石田波郷「酒中花以後」 ](「きごさい歳時記」)
(補記二)「 今生は病む生なりき烏頭 石田波郷」
https://ameblo.jp/brmedit/entry-12070359748.html
[ 遺句集『酒中花以後』所収。集中後半にあるので最晩年の作だろう。季語は「烏頭(とりかぶと)」で仲秋。私の見落としがなければ、少なくとも句集に収められている句で烏頭が詠みこまれているのは本作のみ。トリカブトの漢字は「鳥兜」が一般的。トリカブトの薬名が「ウズ」で「烏頭」の字を当てる。
あるいは波郷は、トリカブトの毒薬としての一面を強調しようとしているのかもしれない。とすると、本句は諦念や達観というより、より厭世的な気分のある句ということになる。
「なりき」の「き」という過去を表す助動詞が、「今生」を意識的に遠ざけるかのようで、余計にそういう印象が強くなる。
こういう印象を抱かせる句は、波郷の全句業を見渡しても(少なくとも句集に収められた限りにおいては)他にない。「死」を冷徹に見据えた作品はあっても、決して厭世的ではない。
これを波郷が俳句では見せなかった人生観の一面と見るべきか、それとも死期迫った心の弱りと見るべきか。
また、仮に波郷があと数年生きたとして、自分の手で句集を編んだとしたら、この句を入集させたかどうか。間違いなく最晩年の傑作ではあるけれど、少なくとも波郷ファンには心に引っ掛かりを残す作品だと思う。 ](「真夜中の俳句帖」)
(参考二)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三十七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後」
https://yahan.seesaa.net/article/510573408.html
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 ※(黒地・観音像の図) →
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図) →
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図) →
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白) →
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白) →
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公の図) →
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図) →
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白) →
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図) →
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図) →
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』無
霧雫(八句) →「同上」無
捨菊(十七句) →「同上」無
接吻(八句) → 「同上」無
冬日楽園(二十三句) →「同上」
降誕祭過(五句) →「同上」む
家長七日(十一句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」無
水仙花(二十句) → 「同上」無
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/119
季語は「梅」(初春)。この句には、「武田君死す」との前書がある。この「武田君」というのは定かではないが、波郷が入所・手術・治療した、その「清瀬療養所・南七寮六番室」
等と関連すると、この句のイメージが鮮明となって来る。
句意は、「『一緒』に手術・治療した仲間の『一人』が、今、『一体』の『死者』となって、『仰臥正しく』横たわっている。折から、窓辺の『梅も一枝』綻んでいる。」
(参考一) 「梅(うめ・むめ)・梅一枝(初春)」周辺
https://kigosai.sub.jp/001/archives/892
梅一枝つらぬく闇に雨はげし 水原秋桜子「蓬壺」
勇気こそ地の塩なれや梅真白 中村草田男「来し方行方」
梅一輪踏まれて大地の紋章たり 中村草田男「銀河依然」
梅咲いて炎の天をささげたり 加藤楸邨「火の記憶」
※梅も一枝死者の仰臥の正しさよ 石田波郷「惜命」
掲出の、波郷の「梅も一枝死者の仰臥の正しさよ」の、この上五の「梅も一枝」は、「五・七・五」の「俳句(発句)」の「詩形(詩型)」の世界では、「梅一枝」(五音)が正調で、波郷の「梅も一枝」(六音)は破調ということになろう。波郷は、この掲出の句で、何故「も」を入れて破調にしたかということには、この「梅も一枝」に、「死人(遺体)も一体」を隠喩にしていて、そして、「一体の死人(遺体)」が、「梅の一枝」となって、再生しているということを、この句に託しているように解せられる。
そして、波郷の金字塔の句集とも目せられている『惜命』では、この「梅も一枝」の「一」という数詞を多用しているのが顕著なのである。
雪めく雲いま病み臥すは「一惨事」 → 「『一惨事』・昭和二十三年・『墓の眺め』」
春へ「一夜」「一夜」雨夜は臥して病む →「『一夜』・同・『春へ』」
メーデーの「一日」を墓に遊びけり →「『一日』・同・『薄暑』」
えごの花「一切」放下なし得るや →「『一切』・同・『療養所』」
蝌蚪の足生ふ「一匹」も剰すなし →「『一匹』・同・同」
「一夜」寝て露白光の外科病棟 →「『一夜』・同・『成形』」
眠れぬ夜凍てゝゆくらむ水「一壺」→「『一壺』・『二次成形その後』」
病む六人「一寒燈」を消すとき来 →「『一寒燈』・昭和二十四年・『ベトレヘムの鐘』」
「一輪挿し」転び溢れて氷りをり →「『一輪挿し』・同・『屍の眺め』」
※梅も「一枝」死者の仰臥の正しさよ →「『一枝』・同・『早春』」
目刺「一連」療養いよゝ永からむ →「『一連』・同・『遺残空洞』」
卯の花や仰臥の指に葉「一枚」 →「『一枚』・同・『予量』」
闇黒より胡頽子(こたいし)「一枝」を折り来たり →「『一枝』・同・『憂患』」
夜も其処に立ちをり梅雨の「一喬松」 →「『一喬松』・同・『長梅雨』」
悉く遠し「一油蝉」鳴き止めば →「『一油蝉』・同・『装厳』」
「一頭顱(とうろ)」光る癩園の黍の中 →「『一頭顱(とうろ)』・同・『癩園の籬』」
秋の夜の「一つの椅子」とバレリーナ →「『一つの椅子』・同・『颱風過』」
足袋褪せてゆるし戦後の「一病者」 →「『一病者』・同・『冬日楽園』」
冬日浴びゐる顱頂(ろちょう)の薄き「一患者」 →「『一患者』・昭和二十五年・『水仙花』」
冬月が『一つ』を白め『六つ』の病牀(ベット) →「『一つ(病牀(ベット)』・同・『水仙花』』
寒き眼の何に縋れる「一病者」 →「『一病者』・同・『水仙花』』」
これらの句の、「『一惨事』・『一夜』・『一日』・『一切』・『一匹』・『一壺』・『一寒燈』・『一輪挿し』・『一枝』・『一連』・『一枚』・『一喬松』・『一油蝉』・『一頭顱(とうろ)』・『一つの椅子』・
『一病者』・『一患者』・「『一つ(病牀(ベット)』」の、この異常とすら思える、これら「一」の多用は、何を語っているのであろうか?
この一連の句に見られる、この「一」の多用の「謎」は、波郷没年後に、あき子夫人によって編まれた遺句集『酒中花以後』(昭和四十四年刊)の、下記の句などから、それらの一端が読み解かれるように思われる。
安心(あんじん)の「一日」だになし稲妻す(昭和四十三年)
旅に獲し言葉「一つ」や枇杷の花(同上)
「一門」の女礼者や屋にあふれ(昭和四十四年)
叱咤の如癒えよ「一語」梅真白(同上)
点滴「一架」日脚の長くなりしかな(同上)
「一分」も酸素外さず夏小菊(同上)
「一枝」呉れし清瀬の柿は禅子丸(ぜんじまる) (同上)
※今生(こんじょう)は病む生(しょう)なりき烏頭(とりかぶと)(同上)
露か雨か「十一月」ははじまりぬ(同上・「十一月二十一日永眠」)
ここで、先にも引用した「故郷のごとき(結城昌治「序」・『現代俳句の世界7 石田波郷集』所収)の、次の一節を掲げて置きたい。
[ 俳句の毒を生涯かけて飲みつくしたのが石田波郷ではなかったろうか。すでに二十代のころ『俳句は文学ではない』と言い切ったそうだが、それは逆説というより、俳句は文学などという曖昧なものではなく、俳句固有の表現形式に対する自負を蔵していたに違いないのである。]
この「俳句固有の表現形式(「五・七・五」=「十七音字」の世界)に対する自負を蔵していたに違いないのである。」の、その「五・七・五」=「十七音字」の世界の、その、スタートの、その「強調・声調・正調・象徴(調) ・緊張(調)」等の、「調べ(「音律・韻律・律」)」、そして、それは、結城昌治「序」の「毒薬(「俳諧・俳句」という世界)」の、波郷の「好み」の「一措辞(言・語・呟き)」ということになる。
と同時に、その「象(心)徴(調)・正調・強調・声調」等の、「調べ(「音律・韻律・律」)」の背後には、その「毒」の正体の、それを暗示するような、次の一句の、その「鳥頭(とりかぶと)」の、この句が、その「毒薬=鳥頭(とりかぶと)」の正体ということになろう。
※今生(こんじょう)は病む生(しょう)なりき烏頭(とりかぶと)
(補記一)「鳥兜(とりかぶと)仲秋」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/5678
[【子季語】 鳥頭、兜菊、兜花、山兜、草鳥頭、附子
【解説】 キンポウゲ科の多年草。丈は一メートルほどになる。秋、紫色の花を下向きにつける。根は猛毒であるが、漢方薬にもなる。
【例句】
紫の花の乱れやとりかぶと 惟然「薦獅子集」
今生は病む生なりき鳥頭(兜) 石田波郷「酒中花以後」 ](「きごさい歳時記」)
(補記二)「 今生は病む生なりき烏頭 石田波郷」
https://ameblo.jp/brmedit/entry-12070359748.html
[ 遺句集『酒中花以後』所収。集中後半にあるので最晩年の作だろう。季語は「烏頭(とりかぶと)」で仲秋。私の見落としがなければ、少なくとも句集に収められている句で烏頭が詠みこまれているのは本作のみ。トリカブトの漢字は「鳥兜」が一般的。トリカブトの薬名が「ウズ」で「烏頭」の字を当てる。
あるいは波郷は、トリカブトの毒薬としての一面を強調しようとしているのかもしれない。とすると、本句は諦念や達観というより、より厭世的な気分のある句ということになる。
「なりき」の「き」という過去を表す助動詞が、「今生」を意識的に遠ざけるかのようで、余計にそういう印象が強くなる。
こういう印象を抱かせる句は、波郷の全句業を見渡しても(少なくとも句集に収められた限りにおいては)他にない。「死」を冷徹に見据えた作品はあっても、決して厭世的ではない。
これを波郷が俳句では見せなかった人生観の一面と見るべきか、それとも死期迫った心の弱りと見るべきか。
また、仮に波郷があと数年生きたとして、自分の手で句集を編んだとしたら、この句を入集させたかどうか。間違いなく最晩年の傑作ではあるけれど、少なくとも波郷ファンには心に引っ掛かりを残す作品だと思う。 ](「真夜中の俳句帖」)
(参考二)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三十七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後」
https://yahan.seesaa.net/article/510573408.html
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 ※(黒地・観音像の図) →
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図) →
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図) →
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白) →
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白) →
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公の図) →
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図) →
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白) →
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図) →
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図) →
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』無
霧雫(八句) →「同上」無
捨菊(十七句) →「同上」無
接吻(八句) → 「同上」無
冬日楽園(二十三句) →「同上」
降誕祭過(五句) →「同上」む
家長七日(十一句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」無
水仙花(二十句) → 「同上」無
その二十五 三月風胸の火吹かれ打臥すも

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/120
季語は「三月(さんがつ)」(仲春)。句意は、「昨年(十月・十二月)の二度にわたる肋骨切除の手術で、病床に『打ち臥す』日々であるが、新しい年の『三月の風』に、未だに、その手術後の『胸の火(傷口の痛み)が吹かれ』ているけれども、されど、この『三月の風』は、吾の『惜命』の、この痛みを和らげるかのように吹いている。」
(参考一)「三月(さんがつ/さんぐわつ) 仲春」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/11525
[【解説】 草木の芽吹きが活発となる頃だが、北国はまだ雪に閉ざされている。下旬には桜の花が咲きはじめる地域も多い。最近では多くの人が、花粉症に悩まされる月でもある。
【例句】
三月や冬の景色の桑一木 丈草「丈草発句集」
富士にそうて三月七日八日かな 信徳「一楼賦」
三月と文にかくのも名残かな 去来「渡鳥集」
大雨や花の三月ふりつぶす 一茶「七番日記」
三月や木曽のおくまで花のちる 蝶夢「東遊紀行」
三月や生毛生えたる甲斐の山 森澄雄「浮鷗」 ](「きごさい歳時記」)
(補記) 「弥生(やよい/やよひ) 晩春」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/8939#:~:text=%E9%99%B0%E6%9A%A6%E4%B8%89%E6%9C%88%E3%81%AE%E7%95%B0%E7%A7%B0,%E9%B3%B4%E3%81%8D%E6%98%A5%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%AA%E3%82%8F%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%82
[【子季語】 花見月/桜月/花咲月/春惜月/夢見月/姑洗
【解説】 陰暦三月の異称。草木がいやがうえにもおい茂る「いやおひ」の転。陽暦の三月末から四月末にかけて、うららかな陽気に誘われて桃、桜など沢山の花が咲き鳥が鳴き春たけなわとなる。
【例句】
終日の雨めづらしき弥生かな 信徳「童子教」
神風の弥生をふかし門の竹 去来「喪の名残」
正月のつき餅ほづす弥生かな 許六「五老文集」
大仏のはしらくぐるも弥生かな 闌更「三傑集」 ](「きごさい歳時記」)
(参考二)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三十七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510573408.html
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→「梅」(初春)
https://yahan.seesaa.net/article/510805227.html
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→「三月」(仲春
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 ※(黒地・観音像の図) →
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図) →
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図) →
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白) →
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白) →
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公の図) →
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図) →
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白) →
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図) →
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図) →
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』)無
霧雫(八句) 「同上」無
捨菊(十七句) →「同上」無
接吻(八句) →「同上」無
冬日楽園(二十三句)→「同上」無
降誕祭過(五句) →「同上」無
家長七日(十一句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」無
水仙花(二十句) →「同上」無
(参考三) 「石田波郷略年譜」(昭和十四年~二十五年/抜粋)

『中村草田男と石田波郷 : 松山の生んだ人間探究派』(松山市立子規記念博物館編・刊/1985.4)所収「中村草田男・石田波郷年譜」(抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12463911/1/38
(補記) 「石田波郷(第一次成形手術・第二次成形手術・肋膜外合成樹脂球充填手術)」(『現代俳句の世界7 石田波郷集』所収「石田波郷略年譜」抜粋)
昭和二十三年(一九四八年・三十五歳)
五月 東京都下清瀬村国立東京療養所に入所。
十月 第一次成形手術を受く。
十二月 第二次成形手術。病状快方に向かうも菌はなお陽性。
昭和二十四年(一九四九年・三十六歳)
四月 肋膜外合成樹脂球充填手術
昭和二十五年(一九五〇年・三十七歳)
三月 東京療養所に退所、しかし排菌まだ止まず。
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/120
季語は「三月(さんがつ)」(仲春)。句意は、「昨年(十月・十二月)の二度にわたる肋骨切除の手術で、病床に『打ち臥す』日々であるが、新しい年の『三月の風』に、未だに、その手術後の『胸の火(傷口の痛み)が吹かれ』ているけれども、されど、この『三月の風』は、吾の『惜命』の、この痛みを和らげるかのように吹いている。」
(参考一)「三月(さんがつ/さんぐわつ) 仲春」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/11525
[【解説】 草木の芽吹きが活発となる頃だが、北国はまだ雪に閉ざされている。下旬には桜の花が咲きはじめる地域も多い。最近では多くの人が、花粉症に悩まされる月でもある。
【例句】
三月や冬の景色の桑一木 丈草「丈草発句集」
富士にそうて三月七日八日かな 信徳「一楼賦」
三月と文にかくのも名残かな 去来「渡鳥集」
大雨や花の三月ふりつぶす 一茶「七番日記」
三月や木曽のおくまで花のちる 蝶夢「東遊紀行」
三月や生毛生えたる甲斐の山 森澄雄「浮鷗」 ](「きごさい歳時記」)
(補記) 「弥生(やよい/やよひ) 晩春」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/8939#:~:text=%E9%99%B0%E6%9A%A6%E4%B8%89%E6%9C%88%E3%81%AE%E7%95%B0%E7%A7%B0,%E9%B3%B4%E3%81%8D%E6%98%A5%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%AA%E3%82%8F%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%82
[【子季語】 花見月/桜月/花咲月/春惜月/夢見月/姑洗
【解説】 陰暦三月の異称。草木がいやがうえにもおい茂る「いやおひ」の転。陽暦の三月末から四月末にかけて、うららかな陽気に誘われて桃、桜など沢山の花が咲き鳥が鳴き春たけなわとなる。
【例句】
終日の雨めづらしき弥生かな 信徳「童子教」
神風の弥生をふかし門の竹 去来「喪の名残」
正月のつき餅ほづす弥生かな 許六「五老文集」
大仏のはしらくぐるも弥生かな 闌更「三傑集」 ](「きごさい歳時記」)
(参考二)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三十七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510573408.html
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→「梅」(初春)
https://yahan.seesaa.net/article/510805227.html
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→「三月」(仲春
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 ※(黒地・観音像の図) →
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図) →
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図) →
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白) →
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白) →
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公の図) →
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図) →
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白) →
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図) →
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図) →
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』)無
霧雫(八句) 「同上」無
捨菊(十七句) →「同上」無
接吻(八句) →「同上」無
冬日楽園(二十三句)→「同上」無
降誕祭過(五句) →「同上」無
家長七日(十一句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」無
水仙花(二十句) →「同上」無
(参考三) 「石田波郷略年譜」(昭和十四年~二十五年/抜粋)
『中村草田男と石田波郷 : 松山の生んだ人間探究派』(松山市立子規記念博物館編・刊/1985.4)所収「中村草田男・石田波郷年譜」(抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12463911/1/38
(補記) 「石田波郷(第一次成形手術・第二次成形手術・肋膜外合成樹脂球充填手術)」(『現代俳句の世界7 石田波郷集』所収「石田波郷略年譜」抜粋)
昭和二十三年(一九四八年・三十五歳)
五月 東京都下清瀬村国立東京療養所に入所。
十月 第一次成形手術を受く。
十二月 第二次成形手術。病状快方に向かうも菌はなお陽性。
昭和二十四年(一九四九年・三十六歳)
四月 肋膜外合成樹脂球充填手術
昭和二十五年(一九五〇年・三十七歳)
三月 東京療養所に退所、しかし排菌まだ止まず。
その二十六 春雷の熄みし口洞閉づるかな

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/120
季語は「春雷」(三春)。句意は、「新しい年の『春雷』が響いている。病床の『熄(やす)みし=熄(せき)をしている』患者の一人ひとりが、皆、『口洞(くちうら)=口占・口裏(「小声で言うこと」など)を『閉づるかな(沈黙していることよ)』。」
(参考一)「春の雷(はるのらい)三春」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/1925
[【子季語】 春雷 【関連季語】 初雷
【解説】 春に鳴る雷をいう。特に立春を過ぎてから初めてなる雷を初雷という。春の雷には積乱雲の起こす夏の雷の烈しさはない。
【例句】
山の背をころげ廻りぬ春の雷 高浜虚子「七百五十句」
春雷や牡丹の蕾まつ蒼に 川端茅舎「川端茅舎句集」
春雷の大轟のたゞ一度 星野立子「句日記Ⅱ」
春の雷鯉は苔被て老いにけり 芝不器男「芝不器男句集」
春雷にお能始まる御殿かな 村上鬼城「鬼城句集」
山を出て山にかへしぬ春の雷 菅原師竹「菅原師竹句集」
春の雷ひびく赤子の六腑かな 飯田龍太「山の木」
あえかなる薔薇撰りをれば春の雷 石田波郷「鶴の眼」
春雷や芽を解きいそぐななかまど 石田波郷「酒中花」 ](「きごさい歳時記」)
(補記一) 「あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷 石田波郷『鶴の眼』」周辺(その一)
あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷(石田波郷『鶴の眼』)
この波郷の句は、昭和八年(一九三三)、二十歳(満年齢)の時の作である。その系列第一句集『鶴の眼』(四季別編纂・昭和十四年八月刊)の「春」の三番目に、「銀座千疋屋二句」と前書を付しての一句目の句である。
この句の「あえかなる」(上五)は、「か弱い、弱々しい、きゃしゃな、繊細なさまを意味する『古語』」で、中七の「薔薇」と下五の「春雷」の両方に掛かる用例で、波郷の最初期 の「青春の息吹」のようなイメージを伝えている一句である。
この句に接すると、波郷が私淑した俳人の一人の「ホトトギス」派(「高浜虚子」派)の「
芝不器男(「1903年(明治36年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月24日)」)の、次の句が想起されてくる。
あなたなる夜雨の葛のあなたかな(芝不器男『芝不器男句集』)
この句について、波郷は「夜雨の葛」と題しての、「芝不器男論・鑑賞論」を、己の主宰する「鶴(昭和二十一年七月号)に、その末尾に、「不器男の句は美しい。がそれは『馬酔木』のやうな甘美な、型にはまった美しさむではない。もつと内から湧く豊穣な詩美である。」と記している。」(『現代俳句の世界7 石田波郷集』)
これらのことに関しては、下記の評(「ウィキペディア」)が、一般的であろう。
[ 「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」は、「二十五日仙台に着く みちはるかなる伊予のわが家をおもへば」の前書きがある句である。高浜虚子の「この句は作者が仙台にはるばるついて、その道途を顧み、あなたなる、まず白河あたりだろうか、そこで眺めた夜雨の中の葛を心に浮かべ、さらにそのあなたに故国伊予を思ふ、あたかも絵巻物風の表現をとったのである」という評が名鑑賞として知られる。石田波郷はさらにこれに触れて「不器男の句には幽惋なる情趣、遊子のかなしみがある」と評している。](ウィキペディア」)
ここで、波郷自身の、その宣言でもあるような、その「型にはまった美しさむではない。もつと内から湧く豊穣な詩美」の、その「もつと内から湧く豊穣な詩美」ということに注目したい。
(補記二) 「あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷 石田波郷『鶴の眼』」周辺(その二)
https://sectpoclit.com/asato-26/
「 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷 石田波郷
「春の雷」は、啓蟄の頃の雷と思って読んだ。虫も土から出るか出ないかの時分、茎のか細い薔薇の中から割合良いものを選んでいたところ、ひとつふたつ春の雷が閃いた。そのうちに雹が降って来るかもしれない。こういう頃の「あえかなる薔薇」だから、自然に育ったものというよりも、人の手が過分に加えられて育ったものを思った。さらに、そういう希少な薔薇が需要され、まず先に選るほどの数が仕入れられているところだから、新宿とか銀座とか、そういう都会の街角を思い浮かべた。この句は、波郷の第一句集『鶴の眼』の巻頭「バスを待ち大路の春をうたがはず」の次に載っており、「銀座千疋屋」の詞書がある。都会的な抒情が、ときじくの薔薇や不安定な天候とも手を結んでいる感じがある。
なんと言っても句の響きがとても良い。
「aekanaru baraerioreba harunorai」と書いてみるといくらか分かりやすいかもしれないが、母音のaと子音のrが度々現れる。しかも、それが変にうるさくない。
句評で「韻律が良い」とか「響きが良い」とか言われることがある。だが、これはある程度共有されている価値観(例えば季語の本意みたいなもの)からの評とは違って、感覚的な評の場合が専らである。
私自身、句の響きをうまく評せないものかと思って、学部生の頃に音響心理学とかオノマトペの研究を覗いてみたことがあったが、なかなかうまくいかなかった。その後、「弱強五歩格」とか、その他にも英詩の韻律などについても少しだけ読んだけれど、俳句の短さという点でなかなか難しいと思うことが多かった。無論、ここに並べ挙げたのは、私の怠惰と移気と能力の限界であって、俳句のアポリアとかそういうことを言いたいわけではない。
結局、私が句の響きの良し悪しを判断する時の基準は、多作多捨や多読多憶の過程で得てきた感覚に因っている。感性というよりは美学に領するもので、「五七五が日本人の感性をくすぐる」などという高尚な感覚には今生一度も襲われたことがなく、そういう感性から始まっている俳句という定型詩のどうのこうのではない。
句の響きを意識するときに関連して思うことは、「良い」とか「ダサい」とか、そういう気分である。例えば、五七五のそれぞれの頭や脚だけに、いかにも意識して均一に音を並べている風な句を読むと、すこぶる「ダサい」と感じてしまう。定型として短い俳句で、また声調もあまり抑揚がない日本語で、こういう風に平坦に韻を踏むと、駄洒落くさくなったり、酷く単調になったりするということもあるのかもしれない。ただ、私はそういうことよりも、 今まで読んで書いてきた俳句の感覚の中で”不自然”に思え、それで「ダサい」とか気持ちが悪いとか思ってしまうのだ。字余りとか破調についても感覚としては割にこれと近い。”不自然”な感じがして気持ち悪いとか、そういう感覚である。「中八」についても、一律総じて採らないというわけではないが、多くの場合は気持ちが悪くて採らない。
私は句を書く時に、韻の配置を先に決めるとか、そういう計算をするのではなく、あくま
で語感や口にしたときの流れを意識することが多い。また、吟行の時こそ、こういうことに拘る傾向にある。なるべくその場で素早く一句を凝結させようと思っていて、二、三度口にして悪くなければ控えておく。それから時間を置いてまた読んでみる。句の響きをあとから計算して推敲するということはほぼ無い。
句の型や文体と呼ばれるものの流行り廃りもあるだろうし、切れに関する思想の変容もあるだろう。句の響きをめぐる過去の言説を丹念に読み集めていけば、もしかするとそういう変遷と関わっていて、時代や批評の場によって全然違う評価がなされているのでは、と思いもする。(安里琉太) ]
(参考二) 「川端茅舎(『華厳』)・中村草田男(『火の島』)・加藤楸邨(「寒雷」)・石田波郷(『鶴の眼』)」周辺(その一)
びびびびと氷張り居り月は春(川端茅舎『華厳』・昭和十三年作)
三年前、於茅舎居
稲妻を仰ぐそびらに茅舎居る(中村草田男『火の島』・昭和十三年作)
萬緑の中や吾子の歯生え初(そ)むる(中村草田男『火の島』・昭和十四年作)
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃(加藤楸邨『寒雷』・昭和十三年作)
あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷(石田波郷『鶴の眼』・昭和八年作)
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ(石田波郷『鶴の眼』・昭和十二年作)
川端茅舎の『華厳』(昭和十四年五月刊)は、茅舎の、三十六歳から四十二歳までの作品が年代順に収載されている。その「序」は、「高浜虚子」の、次のものである。
「 花鳥諷詠真骨頂 虚子 」
中村草田男の『火の島』(昭和十四年十一月刊)は、草田男の三十四歳から三十七歳までの作品を、茅舎の『華厳』と同じように年代順に収載されている。その「題籢」は「高村光太郎」で、その「序」は「自序」で、次のものである。
「 或説 ・・・ 神楽歌 ・・・
なにわざを。われはしつゝか。」
(「自分が俳人として果たすべき使命を自覚しているのだが、その自覚した使命の当否をもう一度自他に確かめる気持を暗示したものである。」=『現代俳句大系第三巻』所収「解説(香西照男稿)」)
因みに、草田男の第一句集『長子』の「序」は、「高浜虚子」の、次のものである。
「 印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは、
秋の航一大円盤の中 草田男
という句でありました。(虚子) 」
続けて、加藤楸邨の『寒雷』(昭和十四年三月刊)は、楸邨の二十五歳から三十二歳までの作品を年代順に三部に分けて収載している。その書の「背文字」と長文の「序」は「水原秋櫻子」が草している。その「序」の末尾は、次のように綴っている。
「 この一巻を熟読すれば、過去十年に於ける俳句の飛躍的進歩を知り、併せて自己の道を照らす光を求むることが出来るであらう。真摯なる念願を以て俳句道を進まんとする諸君。共に「寒雷」を熟読して著者のかヾやかしき詩魂に触れたまへ。水原秋櫻子 」
これに続く、石田波郷の『鶴の眼』(昭和十四年八月刊)は、波郷の十九歳から二十七歳までの作品を、四季別に再編して収載している。その「序」は、盟友・石塚友二を介して親昵し、その「十日会」のメンバーの一員となった師の「横光利一」が草し、その「序」の後段で、次のように記している。
「 石田波郷氏は俳句は文学ではないと云ってゐる。文学の定義については何を言はふと別に問題ではない。人々の苦心に応じて文学の定義は変り得るものであり、またそこに文学の美しさの源が存在する。しかし、この新人にどうして俳句は文学ではないと云はしめたかが、近代俳句の含むさまざまな問題の露頭となつて私に映じて来る。またこの書はただ単に未来の問題を露頭を潜ませてゐるのみならず、古への美と競ひ立たうと希ふ青春の美が沈着な豊かさで然も柔らぎを含み、微妙繊細な華やかさの中に幽情をさへ失はず、近代の浮薄を品位に転質せしめてゐる高孤な抒情をもつて巻き立ち昇つてゐる。殊にここに露れたこの開花の放つ光釯の特徴は、われわれが詩形の単位の何ものかを探るに好個の典型になつてゐる明確な垂直性である。この垂直性こそ古典へ通じる唯一の道だと思ふ。横光利一 」
「川端茅舎(1897年〈明治30年〉生まれ)」と「中村草田男(1901年〈明治34年〉生まれ)」は、「ホトトギス(高浜虚子)」派、そして、「加藤楸邨(1905年〈明治38年〉生まれ)」と「石田波郷(1913年〈大正2年〉生まれ)」は「馬酔木(水原秋櫻子)派の俳人ということになる。
これらの、当時の昭和俳壇(「昭和十四年=一九三九」)をリードする四人のうち、「中村草田男・加藤楸邨・石田波郷」の三人は、「昭和十四年八月の『俳句研究(山本健吉編集)』に掲載された「新しい俳句の課題」(その座談会上での山本健吉の命名の「人間探求派」)の「人間探求派」というネーミングを冠せられることなどについては、下記のアドレスで、当時の画像と共に下記のアドレスで紹介した。
https://yahantei14.seesaa.net/article/509168121.html
当時の三人の年齢は、草田男(三十八歳)、楸邨(三十四歳)、そして、石田波郷(二十六歳)と、波郷は、二十六歳の、最年少の若輩であるが、その主宰誌の「鶴」を、その二年前の、二十四歳当時に創刊している。
それは、波郷が、水原秋櫻子の庇護のもとに、その編集局の一人である、当時の主力の「馬酔木」系の俳誌の一つとして、石塚友二が主体となっている、横光利一の「十日会」のバックアップがあってのものであった。
この横光利一の「十日会」に関しては、下記のアドレスが参考となる。
http://usa-public-library.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/01/gallery_200810.pdf

上記のアドレスの、上記の画像の、「昭和十一年(一九三六)虚子・利一の『渡欧』船中写真」は、「高浜虚子と横光利一、その『虚子(ホトトギス)と利一(十日会)』と、秋櫻子(馬酔木)・利一(十日会)と石田波郷(鶴)」との、当時の、三者関係を知る上でも貴重なものであろう。
上記のようなことをバックグラウンドにしての、「秋櫻子(『馬酔木』)と楸邨(『寒雷』)」、そして、「秋櫻子(『馬酔木』と波郷(『鶴』)」、さらに、「草田男(『萬緑』)と楸邨(『寒雷』)・波郷(鶴)」などを、それらの一端の背景を「あれか・これか」すると、それぞれの、その主宰誌の一端が浮かび上がって来る。
「波郷(鶴)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
「鶴」(つる)」は、俳句の結社誌。1937年、「馬酔木」の新人会機関誌「馬」と石橋辰之助の「樹氷林」を合併する形で東京にて石田波郷を主宰として創刊。
「楸邨(寒雷)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E9%9B%B7
「寒雷」(かんらい)」は、1940年に加藤楸邨が創刊した俳誌。創刊号で楸邨は「俳句の中に人間の生きることを第一に重んずる。生活の真実を地盤としたところの俳句を求める」ことを指針として掲げた。
「草田男(萬緑)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E7%B7%91
「萬緑」(ばんりょく)」は、1946年10月、戦前の「成層圏」(1937年-1941年)のメンバーが中心となり、中村草田男を主宰として創刊。草田男は創刊号で「芸と文学の一致」を目標に掲げた。
石田波郷は、十九歳時に、「秋の暮業火(ごうか)となりて秬(きび)は燃ゆ」を含む五句が「馬酔木」(昭和七年二月号)の巻頭となり、そして、そのことが機縁となって上京、水原秋櫻子の庇護のもとに、爾来、俳句一筋の道を歩むことになる。
加藤楸邨が、「馬酔木」門に入り、投句するようになったのは、昭和六年、二十五歳時で、「綿の實を摘みゐてうたふこともなし」(『寒雷』冒頭の一句)などの、「粕壁中学校」の教師時代で、ここで、当時、粕壁町にあった医院に月二回の診療に来ていた「水原秋櫻子」との出会いがあった。
秋櫻子と楸邨との、この出会いと、その後の「師(秋櫻子)・弟子(楸邨)」との関係は、その『寒雷』の長文の「序」(秋櫻子)に詳細に記述されている。その要点を抜粋すると、次のようになる。
「 まづ第一に古利根抄の時代……
楸邨君は国語を専攻する関係上、俳句も熱心であつたし、俳句の本質を考究することも真摯で、私など君の質問にあひ、今まで考へても見なかつたことを考へるやうになつて、随分勉強した。それに君が高師(東京高等師範第一臨時養成所)在学中に、私の家内の父である吉田太古が受持であつたので、私等の間にはおのづから親しみが湧き、それが又信頼の念にまで進んで行つた。
時代は愛林抄に移る……
私(秋櫻子)は深く君(楸邨)の気持に同情し、且つ君の篤学の志を活かす方法はないものかと考へて見た。さうして思ひついたことは楸邨君に上京遊学をすゝめることであつた。私はこの考を吉田太古にはかり、又誓子君(山口誓子)にもはかつて心から賛同を得た。当の楸邨君は永年教鞭を執つてゐた粕壁中学を去りがたい様子であつたが、私の熱心な勧誘と若月校長の非常な厚意とで、終に上京の決心を固めたわけである。
都塵抄に移る……
上京後の楸邨君は、非常な熱意と勤勉とを以て学問に没頭すると共に、馬酔木の編纂にも参加してくれることになつた。波郷、楸邨……この二人のよき編纂者を得ることによつて、私は安心して発行所のことを託し、自分の勉強に専心することが出来るやうになつた。 」
加藤楸邨が、「粕壁中学校を辞し、東京文理科大学国文科に入学。能勢朝次先生の指導を受く。馬酔木発行所へつとめ、石田波郷を知る。」(『新訂俳句シリーズ・人と作品16
加藤楸邨(田川飛旅子著)』)したのは、昭和十二年(一九三七)、三十一歳(家族五人=妻と子)当時のことで、この「老学徒且つ『馬酔木』の俊秀・楸邨」と、この年に、石田波郷(二十四歳)は、「粕壁中学虚教師だった加藤楸邨が上京して文理大に入り、傍ら馬酔木発行事務を担当することにとなり、編集担当の私と机を並べた。日支事変始まり、私(石田波郷)の市井彷徨時代も亦始まっていた。(中略) 『鶴』を創刊した。」(『新訂俳句シリーズ・人と作品17 石田波郷(楠本憲吉著)』)
ここに、「水原秋櫻子」の、その手により発掘・誕生した、その「馬酔木」の二大俊秀の「加藤楸邨と石田波郷」との、その終生変わらぬドラマがスタートとする。
「高浜虚子」に「花鳥諷詠真骨頂」の「序」を冠せられている「川端茅舎(『華厳』)」、そして、同じく、「高浜虚子」に「印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは、
『秋の航一大円盤の中 草田男』という句でありました。」の「序」を呈している「中村草田男(『長子・昭和十一年刊・石田波郷の盟友『石塚友二』の『沙羅書店刊』)』は、その「高浜虚子」により発掘・誕生した、当時の「ホトトギス」の、「正統派・川端茅舎」そして「異端派・中村草田男」という、二大俊秀ということになる。
ここで、「川端茅舎と中村草田男」との、両者の周辺のことなどについて、次のアドレスのものを再掲して置きたい。
https://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_03.html
[ (再掲)
中村草田男(その八)
○ 汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか 青露変(青露とは、川端茅舎の戒名青露院より採る)
○ 花に露十字架に数珠煌と掛かり 七月十七日、茅舎長逝の報いたる
○ 梅雨も人も葬りの寺もただよすが 同十九日、其告別式
○ 炎天の手の小竹(ささ)凋(しほ)る葉を巻きて 旬日後、彼を偲び、己が芸の為 すなきを嘆きつつ近郊を歩む
昭和十六年作。『来し方行方』所収。草田男年譜によれば、「昭和四年 二月、初めて虚子を訪ね、師事。復学し、『東大俳句会』に入学、『ホトトギス』(九月号)に四句入選」とあり、二十八歳のときに、虚子門に入ったこととなる。しかし、この年譜にもあるとおり、草田男は虚子門であるが、『東大俳句会』の指導者であった水原秋桜子の選を仰いで、その秋桜子選のものが、虚子の「ホトトギス」選にもなるという、いわば、虚子と秋桜子の二人に師事していたというのが実体なのかもしれない。
草田男三十八歳のときの昭和十四年には、「一月、次女郁子誕生、三月、学生俳句連盟機関誌『成層圏』の指導に当たる。七月、『俳句研究』座談会に楸邨、波郷らと出席、以後、『人間探求派』と称せられる。十一月、第二句集『火の鳥』(龍星閣)刊。冬、高村光太郎を訪ねる」とあり、掲出の句が作られた昭和十六年には、「六月、第三句集『萬緑』(甲鳥書林)刊。俳壇内の時局便乗者から自由主義者と指弾、圧迫される」との記載が見られる。
これらの年譜の足跡を見ていくと、「人間探求派」という言葉は、昭和十四年の「俳句研究」の座談会で始めて使われたもので、このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十八歳、そして、加藤楸邨は「馬酔木」同人で三十三歳(その翌年に「寒雷」主宰となる)、石田波郷は「馬酔木」同人で弱冠二十六歳(二十四歳のときに「鶴」を主宰している)という若さであった。
そして、昭和俳壇をリードし続けた、この三人が、直接と間接とを問わず、水原秋桜子の指導を得ていたということと、特に、草田男は「時局便乗者からは自由主義者」と見られていたということはやはり特筆しておくべきことなのであろう(草田男の三十五歳のときに刊行した第一句集『長子』も全て虚子選であるが、秋桜子の選も仰いでいるという)。
そういう草田男の姿勢や作風からして、草田男が虚子主宰の「ホトトギス」で最も信頼を置いて、相互に切磋琢磨した同胞は、草田男よりも四歳上の川端茅舎であり、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」といわしめた、この茅舎の草田男への影響というものは大きかったことであろう。
それ以上に、掲出の一句目のように、茅舎亡き後の「ホトトギス」周辺の虚子を取り巻く方々は、草田男にとっては、「汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか」と、もう、草田男の俳句を理解するという雰囲気ではなかったのではなかろうか。
それだけではなく、言論統制が強力に推し進められていくなかで、昭和十五年には新興俳句弾圧事件が勃発して、「京大俳句」の平畑静塔らが検挙されるという事態が起きた。草田男俳句も、時局に合わぬ自由主義的な俳句として、当時の俳壇から圧迫され、身辺の写生句のみの投句に制限されていたが、昭和十八年の年譜には「『ホトトギス』への投句を止める。十月、『蕪村集』刊」と、その状態が終戦まで続くことになる。これらの草田男年譜を振り返って見るときに、昭和五年に水原秋桜子が「ホトトギス」を退会した後も、草田男は「ホトトギス」に残り、川端茅舎・松本たかしなどと、「ホトトギス」の有力俳人の地位を獲得しながら、その「ホトトギス」周辺からは川端茅舎を除いては、必ずしも好意的に受けとめられていなかったということと、掲出句に見る如く、草田男がいかに茅舎に傾倒して、信頼し、そして、いかに茅舎を失って虚脱状態になっていたかを、その当時の草田男の環境を垣間見ることができるのである。 ](「中村草田男の俳句」その八)
また、「石田波郷の『境涯俳句』」と川端茅舎周辺については、下記のアドレスで紹介している。
https://yahantei.blogspot.com/2012/10/httpwww.html
[ (再掲)
茅舎の、これらの俳句は、石田波郷らが唱えた「境涯俳句」の世界のものであろう。
「俳句は境涯を詠ふものである。境涯とは何も悲劇的情緒の世界や隠遁の道ではない。又哀別離苦の詠嘆でもない。すでにある文学的劇的なものではなくて、日常の現実生活に徹しなくてはならない」(「鶴」昭和十七年七月)。
茅舎は、水原秋桜子との往復書簡などで、秋桜子門下の、石田波郷や加藤楸邨の俳句を高く評価していた(『現代俳句全集四川端茅舎集』「俳句叢談」)。これらの作家は、戦後の日本俳壇を大きくリードして行くのだが、戦前の、茅舎らの時代においても、茅舎らと、結社を問わない、山本健吉らが携わっていた「俳句研究」で、それぞれが、それぞれの世界を模索し続けていたのであろう。 ](「茅舎の風景」その十七)
「川端茅舎と加藤楸邨」周辺についても、下記のアドレスて、その一端を紹介したが、ここでは、それらに、加えて、楸邨の茅舎追悼の一句を掲載して置きたい。
https://yahantei.blogspot.com/2012/10/blog-post_19.html
○ 寂光の葎にかへる夏露一顆(か=粒) (『雪後の天』「川端茅舎を悼む」)
(参考三)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後」(晩冬)
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→「梅」(初春)
https://yahan.seesaa.net/article/510805227.html
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→「三月」(仲春)
https://yahan.seesaa.net/article/510894302.html
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 ※(黒地・観音像の図)
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図)
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図)
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白)
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白)
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公 の図)
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図)
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白)
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図)
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図)
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』)無
霧雫(八句) →「同上」無
捨菊(十七句) →「同上」無
接吻(八句) →「同上」無
冬日楽園(二十三句)→「同上」無
降誕祭過(五句)→「同上」無
家長七日(十一句)→ (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
水仙花(二十句) →「同上」無
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/120
季語は「春雷」(三春)。句意は、「新しい年の『春雷』が響いている。病床の『熄(やす)みし=熄(せき)をしている』患者の一人ひとりが、皆、『口洞(くちうら)=口占・口裏(「小声で言うこと」など)を『閉づるかな(沈黙していることよ)』。」
(参考一)「春の雷(はるのらい)三春」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/1925
[【子季語】 春雷 【関連季語】 初雷
【解説】 春に鳴る雷をいう。特に立春を過ぎてから初めてなる雷を初雷という。春の雷には積乱雲の起こす夏の雷の烈しさはない。
【例句】
山の背をころげ廻りぬ春の雷 高浜虚子「七百五十句」
春雷や牡丹の蕾まつ蒼に 川端茅舎「川端茅舎句集」
春雷の大轟のたゞ一度 星野立子「句日記Ⅱ」
春の雷鯉は苔被て老いにけり 芝不器男「芝不器男句集」
春雷にお能始まる御殿かな 村上鬼城「鬼城句集」
山を出て山にかへしぬ春の雷 菅原師竹「菅原師竹句集」
春の雷ひびく赤子の六腑かな 飯田龍太「山の木」
あえかなる薔薇撰りをれば春の雷 石田波郷「鶴の眼」
春雷や芽を解きいそぐななかまど 石田波郷「酒中花」 ](「きごさい歳時記」)
(補記一) 「あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷 石田波郷『鶴の眼』」周辺(その一)
あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷(石田波郷『鶴の眼』)
この波郷の句は、昭和八年(一九三三)、二十歳(満年齢)の時の作である。その系列第一句集『鶴の眼』(四季別編纂・昭和十四年八月刊)の「春」の三番目に、「銀座千疋屋二句」と前書を付しての一句目の句である。
この句の「あえかなる」(上五)は、「か弱い、弱々しい、きゃしゃな、繊細なさまを意味する『古語』」で、中七の「薔薇」と下五の「春雷」の両方に掛かる用例で、波郷の最初期 の「青春の息吹」のようなイメージを伝えている一句である。
この句に接すると、波郷が私淑した俳人の一人の「ホトトギス」派(「高浜虚子」派)の「
芝不器男(「1903年(明治36年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月24日)」)の、次の句が想起されてくる。
あなたなる夜雨の葛のあなたかな(芝不器男『芝不器男句集』)
この句について、波郷は「夜雨の葛」と題しての、「芝不器男論・鑑賞論」を、己の主宰する「鶴(昭和二十一年七月号)に、その末尾に、「不器男の句は美しい。がそれは『馬酔木』のやうな甘美な、型にはまった美しさむではない。もつと内から湧く豊穣な詩美である。」と記している。」(『現代俳句の世界7 石田波郷集』)
これらのことに関しては、下記の評(「ウィキペディア」)が、一般的であろう。
[ 「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」は、「二十五日仙台に着く みちはるかなる伊予のわが家をおもへば」の前書きがある句である。高浜虚子の「この句は作者が仙台にはるばるついて、その道途を顧み、あなたなる、まず白河あたりだろうか、そこで眺めた夜雨の中の葛を心に浮かべ、さらにそのあなたに故国伊予を思ふ、あたかも絵巻物風の表現をとったのである」という評が名鑑賞として知られる。石田波郷はさらにこれに触れて「不器男の句には幽惋なる情趣、遊子のかなしみがある」と評している。](ウィキペディア」)
ここで、波郷自身の、その宣言でもあるような、その「型にはまった美しさむではない。もつと内から湧く豊穣な詩美」の、その「もつと内から湧く豊穣な詩美」ということに注目したい。
(補記二) 「あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷 石田波郷『鶴の眼』」周辺(その二)
https://sectpoclit.com/asato-26/
「 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷 石田波郷
「春の雷」は、啓蟄の頃の雷と思って読んだ。虫も土から出るか出ないかの時分、茎のか細い薔薇の中から割合良いものを選んでいたところ、ひとつふたつ春の雷が閃いた。そのうちに雹が降って来るかもしれない。こういう頃の「あえかなる薔薇」だから、自然に育ったものというよりも、人の手が過分に加えられて育ったものを思った。さらに、そういう希少な薔薇が需要され、まず先に選るほどの数が仕入れられているところだから、新宿とか銀座とか、そういう都会の街角を思い浮かべた。この句は、波郷の第一句集『鶴の眼』の巻頭「バスを待ち大路の春をうたがはず」の次に載っており、「銀座千疋屋」の詞書がある。都会的な抒情が、ときじくの薔薇や不安定な天候とも手を結んでいる感じがある。
なんと言っても句の響きがとても良い。
「aekanaru baraerioreba harunorai」と書いてみるといくらか分かりやすいかもしれないが、母音のaと子音のrが度々現れる。しかも、それが変にうるさくない。
句評で「韻律が良い」とか「響きが良い」とか言われることがある。だが、これはある程度共有されている価値観(例えば季語の本意みたいなもの)からの評とは違って、感覚的な評の場合が専らである。
私自身、句の響きをうまく評せないものかと思って、学部生の頃に音響心理学とかオノマトペの研究を覗いてみたことがあったが、なかなかうまくいかなかった。その後、「弱強五歩格」とか、その他にも英詩の韻律などについても少しだけ読んだけれど、俳句の短さという点でなかなか難しいと思うことが多かった。無論、ここに並べ挙げたのは、私の怠惰と移気と能力の限界であって、俳句のアポリアとかそういうことを言いたいわけではない。
結局、私が句の響きの良し悪しを判断する時の基準は、多作多捨や多読多憶の過程で得てきた感覚に因っている。感性というよりは美学に領するもので、「五七五が日本人の感性をくすぐる」などという高尚な感覚には今生一度も襲われたことがなく、そういう感性から始まっている俳句という定型詩のどうのこうのではない。
句の響きを意識するときに関連して思うことは、「良い」とか「ダサい」とか、そういう気分である。例えば、五七五のそれぞれの頭や脚だけに、いかにも意識して均一に音を並べている風な句を読むと、すこぶる「ダサい」と感じてしまう。定型として短い俳句で、また声調もあまり抑揚がない日本語で、こういう風に平坦に韻を踏むと、駄洒落くさくなったり、酷く単調になったりするということもあるのかもしれない。ただ、私はそういうことよりも、 今まで読んで書いてきた俳句の感覚の中で”不自然”に思え、それで「ダサい」とか気持ちが悪いとか思ってしまうのだ。字余りとか破調についても感覚としては割にこれと近い。”不自然”な感じがして気持ち悪いとか、そういう感覚である。「中八」についても、一律総じて採らないというわけではないが、多くの場合は気持ちが悪くて採らない。
私は句を書く時に、韻の配置を先に決めるとか、そういう計算をするのではなく、あくま
で語感や口にしたときの流れを意識することが多い。また、吟行の時こそ、こういうことに拘る傾向にある。なるべくその場で素早く一句を凝結させようと思っていて、二、三度口にして悪くなければ控えておく。それから時間を置いてまた読んでみる。句の響きをあとから計算して推敲するということはほぼ無い。
句の型や文体と呼ばれるものの流行り廃りもあるだろうし、切れに関する思想の変容もあるだろう。句の響きをめぐる過去の言説を丹念に読み集めていけば、もしかするとそういう変遷と関わっていて、時代や批評の場によって全然違う評価がなされているのでは、と思いもする。(安里琉太) ]
(参考二) 「川端茅舎(『華厳』)・中村草田男(『火の島』)・加藤楸邨(「寒雷」)・石田波郷(『鶴の眼』)」周辺(その一)
びびびびと氷張り居り月は春(川端茅舎『華厳』・昭和十三年作)
三年前、於茅舎居
稲妻を仰ぐそびらに茅舎居る(中村草田男『火の島』・昭和十三年作)
萬緑の中や吾子の歯生え初(そ)むる(中村草田男『火の島』・昭和十四年作)
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃(加藤楸邨『寒雷』・昭和十三年作)
あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷(石田波郷『鶴の眼』・昭和八年作)
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ(石田波郷『鶴の眼』・昭和十二年作)
川端茅舎の『華厳』(昭和十四年五月刊)は、茅舎の、三十六歳から四十二歳までの作品が年代順に収載されている。その「序」は、「高浜虚子」の、次のものである。
「 花鳥諷詠真骨頂 虚子 」
中村草田男の『火の島』(昭和十四年十一月刊)は、草田男の三十四歳から三十七歳までの作品を、茅舎の『華厳』と同じように年代順に収載されている。その「題籢」は「高村光太郎」で、その「序」は「自序」で、次のものである。
「 或説 ・・・ 神楽歌 ・・・
なにわざを。われはしつゝか。」
(「自分が俳人として果たすべき使命を自覚しているのだが、その自覚した使命の当否をもう一度自他に確かめる気持を暗示したものである。」=『現代俳句大系第三巻』所収「解説(香西照男稿)」)
因みに、草田男の第一句集『長子』の「序」は、「高浜虚子」の、次のものである。
「 印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは、
秋の航一大円盤の中 草田男
という句でありました。(虚子) 」
続けて、加藤楸邨の『寒雷』(昭和十四年三月刊)は、楸邨の二十五歳から三十二歳までの作品を年代順に三部に分けて収載している。その書の「背文字」と長文の「序」は「水原秋櫻子」が草している。その「序」の末尾は、次のように綴っている。
「 この一巻を熟読すれば、過去十年に於ける俳句の飛躍的進歩を知り、併せて自己の道を照らす光を求むることが出来るであらう。真摯なる念願を以て俳句道を進まんとする諸君。共に「寒雷」を熟読して著者のかヾやかしき詩魂に触れたまへ。水原秋櫻子 」
これに続く、石田波郷の『鶴の眼』(昭和十四年八月刊)は、波郷の十九歳から二十七歳までの作品を、四季別に再編して収載している。その「序」は、盟友・石塚友二を介して親昵し、その「十日会」のメンバーの一員となった師の「横光利一」が草し、その「序」の後段で、次のように記している。
「 石田波郷氏は俳句は文学ではないと云ってゐる。文学の定義については何を言はふと別に問題ではない。人々の苦心に応じて文学の定義は変り得るものであり、またそこに文学の美しさの源が存在する。しかし、この新人にどうして俳句は文学ではないと云はしめたかが、近代俳句の含むさまざまな問題の露頭となつて私に映じて来る。またこの書はただ単に未来の問題を露頭を潜ませてゐるのみならず、古への美と競ひ立たうと希ふ青春の美が沈着な豊かさで然も柔らぎを含み、微妙繊細な華やかさの中に幽情をさへ失はず、近代の浮薄を品位に転質せしめてゐる高孤な抒情をもつて巻き立ち昇つてゐる。殊にここに露れたこの開花の放つ光釯の特徴は、われわれが詩形の単位の何ものかを探るに好個の典型になつてゐる明確な垂直性である。この垂直性こそ古典へ通じる唯一の道だと思ふ。横光利一 」
「川端茅舎(1897年〈明治30年〉生まれ)」と「中村草田男(1901年〈明治34年〉生まれ)」は、「ホトトギス(高浜虚子)」派、そして、「加藤楸邨(1905年〈明治38年〉生まれ)」と「石田波郷(1913年〈大正2年〉生まれ)」は「馬酔木(水原秋櫻子)派の俳人ということになる。
これらの、当時の昭和俳壇(「昭和十四年=一九三九」)をリードする四人のうち、「中村草田男・加藤楸邨・石田波郷」の三人は、「昭和十四年八月の『俳句研究(山本健吉編集)』に掲載された「新しい俳句の課題」(その座談会上での山本健吉の命名の「人間探求派」)の「人間探求派」というネーミングを冠せられることなどについては、下記のアドレスで、当時の画像と共に下記のアドレスで紹介した。
https://yahantei14.seesaa.net/article/509168121.html
当時の三人の年齢は、草田男(三十八歳)、楸邨(三十四歳)、そして、石田波郷(二十六歳)と、波郷は、二十六歳の、最年少の若輩であるが、その主宰誌の「鶴」を、その二年前の、二十四歳当時に創刊している。
それは、波郷が、水原秋櫻子の庇護のもとに、その編集局の一人である、当時の主力の「馬酔木」系の俳誌の一つとして、石塚友二が主体となっている、横光利一の「十日会」のバックアップがあってのものであった。
この横光利一の「十日会」に関しては、下記のアドレスが参考となる。
http://usa-public-library.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/01/gallery_200810.pdf
上記のアドレスの、上記の画像の、「昭和十一年(一九三六)虚子・利一の『渡欧』船中写真」は、「高浜虚子と横光利一、その『虚子(ホトトギス)と利一(十日会)』と、秋櫻子(馬酔木)・利一(十日会)と石田波郷(鶴)」との、当時の、三者関係を知る上でも貴重なものであろう。
上記のようなことをバックグラウンドにしての、「秋櫻子(『馬酔木』)と楸邨(『寒雷』)」、そして、「秋櫻子(『馬酔木』と波郷(『鶴』)」、さらに、「草田男(『萬緑』)と楸邨(『寒雷』)・波郷(鶴)」などを、それらの一端の背景を「あれか・これか」すると、それぞれの、その主宰誌の一端が浮かび上がって来る。
「波郷(鶴)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
「鶴」(つる)」は、俳句の結社誌。1937年、「馬酔木」の新人会機関誌「馬」と石橋辰之助の「樹氷林」を合併する形で東京にて石田波郷を主宰として創刊。
「楸邨(寒雷)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E9%9B%B7
「寒雷」(かんらい)」は、1940年に加藤楸邨が創刊した俳誌。創刊号で楸邨は「俳句の中に人間の生きることを第一に重んずる。生活の真実を地盤としたところの俳句を求める」ことを指針として掲げた。
「草田男(萬緑)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E7%B7%91
「萬緑」(ばんりょく)」は、1946年10月、戦前の「成層圏」(1937年-1941年)のメンバーが中心となり、中村草田男を主宰として創刊。草田男は創刊号で「芸と文学の一致」を目標に掲げた。
石田波郷は、十九歳時に、「秋の暮業火(ごうか)となりて秬(きび)は燃ゆ」を含む五句が「馬酔木」(昭和七年二月号)の巻頭となり、そして、そのことが機縁となって上京、水原秋櫻子の庇護のもとに、爾来、俳句一筋の道を歩むことになる。
加藤楸邨が、「馬酔木」門に入り、投句するようになったのは、昭和六年、二十五歳時で、「綿の實を摘みゐてうたふこともなし」(『寒雷』冒頭の一句)などの、「粕壁中学校」の教師時代で、ここで、当時、粕壁町にあった医院に月二回の診療に来ていた「水原秋櫻子」との出会いがあった。
秋櫻子と楸邨との、この出会いと、その後の「師(秋櫻子)・弟子(楸邨)」との関係は、その『寒雷』の長文の「序」(秋櫻子)に詳細に記述されている。その要点を抜粋すると、次のようになる。
「 まづ第一に古利根抄の時代……
楸邨君は国語を専攻する関係上、俳句も熱心であつたし、俳句の本質を考究することも真摯で、私など君の質問にあひ、今まで考へても見なかつたことを考へるやうになつて、随分勉強した。それに君が高師(東京高等師範第一臨時養成所)在学中に、私の家内の父である吉田太古が受持であつたので、私等の間にはおのづから親しみが湧き、それが又信頼の念にまで進んで行つた。
時代は愛林抄に移る……
私(秋櫻子)は深く君(楸邨)の気持に同情し、且つ君の篤学の志を活かす方法はないものかと考へて見た。さうして思ひついたことは楸邨君に上京遊学をすゝめることであつた。私はこの考を吉田太古にはかり、又誓子君(山口誓子)にもはかつて心から賛同を得た。当の楸邨君は永年教鞭を執つてゐた粕壁中学を去りがたい様子であつたが、私の熱心な勧誘と若月校長の非常な厚意とで、終に上京の決心を固めたわけである。
都塵抄に移る……
上京後の楸邨君は、非常な熱意と勤勉とを以て学問に没頭すると共に、馬酔木の編纂にも参加してくれることになつた。波郷、楸邨……この二人のよき編纂者を得ることによつて、私は安心して発行所のことを託し、自分の勉強に専心することが出来るやうになつた。 」
加藤楸邨が、「粕壁中学校を辞し、東京文理科大学国文科に入学。能勢朝次先生の指導を受く。馬酔木発行所へつとめ、石田波郷を知る。」(『新訂俳句シリーズ・人と作品16
加藤楸邨(田川飛旅子著)』)したのは、昭和十二年(一九三七)、三十一歳(家族五人=妻と子)当時のことで、この「老学徒且つ『馬酔木』の俊秀・楸邨」と、この年に、石田波郷(二十四歳)は、「粕壁中学虚教師だった加藤楸邨が上京して文理大に入り、傍ら馬酔木発行事務を担当することにとなり、編集担当の私と机を並べた。日支事変始まり、私(石田波郷)の市井彷徨時代も亦始まっていた。(中略) 『鶴』を創刊した。」(『新訂俳句シリーズ・人と作品17 石田波郷(楠本憲吉著)』)
ここに、「水原秋櫻子」の、その手により発掘・誕生した、その「馬酔木」の二大俊秀の「加藤楸邨と石田波郷」との、その終生変わらぬドラマがスタートとする。
「高浜虚子」に「花鳥諷詠真骨頂」の「序」を冠せられている「川端茅舎(『華厳』)」、そして、同じく、「高浜虚子」に「印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは、
『秋の航一大円盤の中 草田男』という句でありました。」の「序」を呈している「中村草田男(『長子・昭和十一年刊・石田波郷の盟友『石塚友二』の『沙羅書店刊』)』は、その「高浜虚子」により発掘・誕生した、当時の「ホトトギス」の、「正統派・川端茅舎」そして「異端派・中村草田男」という、二大俊秀ということになる。
ここで、「川端茅舎と中村草田男」との、両者の周辺のことなどについて、次のアドレスのものを再掲して置きたい。
https://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_03.html
[ (再掲)
中村草田男(その八)
○ 汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか 青露変(青露とは、川端茅舎の戒名青露院より採る)
○ 花に露十字架に数珠煌と掛かり 七月十七日、茅舎長逝の報いたる
○ 梅雨も人も葬りの寺もただよすが 同十九日、其告別式
○ 炎天の手の小竹(ささ)凋(しほ)る葉を巻きて 旬日後、彼を偲び、己が芸の為 すなきを嘆きつつ近郊を歩む
昭和十六年作。『来し方行方』所収。草田男年譜によれば、「昭和四年 二月、初めて虚子を訪ね、師事。復学し、『東大俳句会』に入学、『ホトトギス』(九月号)に四句入選」とあり、二十八歳のときに、虚子門に入ったこととなる。しかし、この年譜にもあるとおり、草田男は虚子門であるが、『東大俳句会』の指導者であった水原秋桜子の選を仰いで、その秋桜子選のものが、虚子の「ホトトギス」選にもなるという、いわば、虚子と秋桜子の二人に師事していたというのが実体なのかもしれない。
草田男三十八歳のときの昭和十四年には、「一月、次女郁子誕生、三月、学生俳句連盟機関誌『成層圏』の指導に当たる。七月、『俳句研究』座談会に楸邨、波郷らと出席、以後、『人間探求派』と称せられる。十一月、第二句集『火の鳥』(龍星閣)刊。冬、高村光太郎を訪ねる」とあり、掲出の句が作られた昭和十六年には、「六月、第三句集『萬緑』(甲鳥書林)刊。俳壇内の時局便乗者から自由主義者と指弾、圧迫される」との記載が見られる。
これらの年譜の足跡を見ていくと、「人間探求派」という言葉は、昭和十四年の「俳句研究」の座談会で始めて使われたもので、このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十八歳、そして、加藤楸邨は「馬酔木」同人で三十三歳(その翌年に「寒雷」主宰となる)、石田波郷は「馬酔木」同人で弱冠二十六歳(二十四歳のときに「鶴」を主宰している)という若さであった。
そして、昭和俳壇をリードし続けた、この三人が、直接と間接とを問わず、水原秋桜子の指導を得ていたということと、特に、草田男は「時局便乗者からは自由主義者」と見られていたということはやはり特筆しておくべきことなのであろう(草田男の三十五歳のときに刊行した第一句集『長子』も全て虚子選であるが、秋桜子の選も仰いでいるという)。
そういう草田男の姿勢や作風からして、草田男が虚子主宰の「ホトトギス」で最も信頼を置いて、相互に切磋琢磨した同胞は、草田男よりも四歳上の川端茅舎であり、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」といわしめた、この茅舎の草田男への影響というものは大きかったことであろう。
それ以上に、掲出の一句目のように、茅舎亡き後の「ホトトギス」周辺の虚子を取り巻く方々は、草田男にとっては、「汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか」と、もう、草田男の俳句を理解するという雰囲気ではなかったのではなかろうか。
それだけではなく、言論統制が強力に推し進められていくなかで、昭和十五年には新興俳句弾圧事件が勃発して、「京大俳句」の平畑静塔らが検挙されるという事態が起きた。草田男俳句も、時局に合わぬ自由主義的な俳句として、当時の俳壇から圧迫され、身辺の写生句のみの投句に制限されていたが、昭和十八年の年譜には「『ホトトギス』への投句を止める。十月、『蕪村集』刊」と、その状態が終戦まで続くことになる。これらの草田男年譜を振り返って見るときに、昭和五年に水原秋桜子が「ホトトギス」を退会した後も、草田男は「ホトトギス」に残り、川端茅舎・松本たかしなどと、「ホトトギス」の有力俳人の地位を獲得しながら、その「ホトトギス」周辺からは川端茅舎を除いては、必ずしも好意的に受けとめられていなかったということと、掲出句に見る如く、草田男がいかに茅舎に傾倒して、信頼し、そして、いかに茅舎を失って虚脱状態になっていたかを、その当時の草田男の環境を垣間見ることができるのである。 ](「中村草田男の俳句」その八)
また、「石田波郷の『境涯俳句』」と川端茅舎周辺については、下記のアドレスで紹介している。
https://yahantei.blogspot.com/2012/10/httpwww.html
[ (再掲)
茅舎の、これらの俳句は、石田波郷らが唱えた「境涯俳句」の世界のものであろう。
「俳句は境涯を詠ふものである。境涯とは何も悲劇的情緒の世界や隠遁の道ではない。又哀別離苦の詠嘆でもない。すでにある文学的劇的なものではなくて、日常の現実生活に徹しなくてはならない」(「鶴」昭和十七年七月)。
茅舎は、水原秋桜子との往復書簡などで、秋桜子門下の、石田波郷や加藤楸邨の俳句を高く評価していた(『現代俳句全集四川端茅舎集』「俳句叢談」)。これらの作家は、戦後の日本俳壇を大きくリードして行くのだが、戦前の、茅舎らの時代においても、茅舎らと、結社を問わない、山本健吉らが携わっていた「俳句研究」で、それぞれが、それぞれの世界を模索し続けていたのであろう。 ](「茅舎の風景」その十七)
「川端茅舎と加藤楸邨」周辺についても、下記のアドレスて、その一端を紹介したが、ここでは、それらに、加えて、楸邨の茅舎追悼の一句を掲載して置きたい。
https://yahantei.blogspot.com/2012/10/blog-post_19.html
○ 寂光の葎にかへる夏露一顆(か=粒) (『雪後の天』「川端茅舎を悼む」)
(参考三)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後」(晩冬)
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→「梅」(初春)
https://yahan.seesaa.net/article/510805227.html
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→「三月」(仲春)
https://yahan.seesaa.net/article/510894302.html
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 ※(黒地・観音像の図)
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図)
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図)
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白)
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白)
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公 の図)
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図)
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白)
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図)
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図)
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』)無
霧雫(八句) →「同上」無
捨菊(十七句) →「同上」無
接吻(八句) →「同上」無
冬日楽園(二十三句)→「同上」無
降誕祭過(五句)→「同上」無
家長七日(十一句)→ (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
水仙花(二十句) →「同上」無
その二十七 春疾風屍(かばね)は敢て出でゆくも

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/120
季語は「春疾風」(三春)。この中七の「屍は敢て」の「敢(あえ)て」は、「困難な状況を押し切って、力いっぱい」の意で鑑賞したい。句意は、「外は猛烈な春嵐である。病床仲間の一人の遺体は、その春嵐に立ち向かうように、渾身の勇者の遺体となって、いま、病棟の裏門の『屍門』を出て行くよ。」
(参考一) 「春疾風(はるはやて)三春」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/1917
[【子季語】 春荒、春嵐、春はやち
【関連季語】 春の風、春一番
【解説】 春の烈風のこと。冬の西高東低の気圧配置がくずれ、低気圧が東海上に抜けるにともなって荒れた天気となり、ときには嵐となる。](「きごさい歳時記」)
【例句】(抜粋)
https://fudemaka57.exblog.jp/25333024/
※春疾風(はるはやて)屍は敢て出でゆくも 石田波郷
春嵐心難民めく夜かな 石田波郷
壁の絵の濤みどりたり春嵐 石田波郷
額髪に春の嵐の蓮根掘 石田波郷
春嵐鉄路へ墓を吹き寄せぬ 石田波郷
春嵐鳴りとよもすも病家族 石田波郷
春嵐子が戻らねば眠られず 石田あき子『見舞籠』
※春疾風すつぽん石となりにけり 水原秋櫻子『殉教』
春疾風木々が鞭打つ湯の湖見ゆ 水原秋櫻子『緑雲』
※春嵐奈翁は華奢な手なりしとか 中村草田男
春疾風乙女の訪ふ声吹きさらはれ 中村草田男
寺はただ和尚の寝場所か春嵐 中村草田男
届かばこそを届かでやはと春嵐 中村草田男
※春飈(はるはやて・しんひょう)嶺に落ちんとするは鷹か 加藤楸邨『雪後の天』
(参考二) 「川端茅舎(『華厳』)・中村草田男(『火の島』)・加藤楸邨(「寒雷」)・石田波郷(『鶴の眼』)」周辺(その二)
びびびびと氷張り居り月は春(川端茅舎『華厳』・昭和十三年作)
三年前、於茅舎居
稲妻を仰ぐそびらに茅舎居る(中村草田男『火の島』・昭和十三年作)
萬緑の中や吾子の歯生え初(そ)むる(中村草田男『火の島』・昭和十四年作)
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃(加藤楸邨『寒雷』・昭和十三年作)
あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷(石田波郷『鶴の眼』・昭和八年作)
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ(石田波郷『鶴の眼』・昭和十二年作)
上記一句目の茅舎の句、「びびびびと氷張り居り月は春」の主たる季語は、中七の「氷張る」(晩冬)か、下五の「月は春(春月)」(三春)か、これを読み解くのは、上五の「びびびびと」の「びびびび」の「擬音語」(オノマトペ)なのであろう。
即ち、この句の主たる季語は、下五の「月は春(春月)」(三春)で、この中七の「氷張る」は、「暦の上では立春を過ぎた『初春の氷張る』」ということになる。
これが、三句目の楸邨の句、「寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃」の、その「びりりびりり」の「擬音語」(オノマトペ)になると、この楸邨の句は、「寒雷や」の「寒雷」(三冬)を、「寒月や」の「寒月」(晩冬)を置き換えても、「びりりびりり」と「真夜の玻璃((「ガラス戸」に響く「音」から、「氷張る「音」)へと転化)として、一句としては整合してくることであろう。
上記二句目の草田男のの句、「稲妻を仰ぐそびらに茅舎居る」の季語は「稲妻」(三秋)で、この「季語の本意」は、「空がひび割れるかのように走る電光のこと。空中の放電現象によるものだが、その大音響の雷が夏の季語なのに対し、稲妻が秋の季語となっているのは、稲を実らせると信じられていたからである。」ということになる。
https://kigosai.sub.jp/kigo500a/453.html
この上五の「稲妻」も、そして、中七の「そびら(「背=そ」)・「平=ひら」)」(『古事記』に由来する「背中」の意の古語)も、草田男の、兄事して止まない「花鳥諷詠真骨頂・『川端茅舎・茅舎俳諧』」への、その思い入れの深い「季語」と「措辞」ということになる。
あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷(石田波郷『鶴の眼』・昭和八年作)→「春雷」
稲妻を仰ぐそびらに茅舎居る(中村草田男『火の島』・昭和十三年作)→「稲妻(秋雷)
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃(加藤楸邨『寒雷』・昭和十三年作)→「寒雷(冬雷)」
これらはまた、この三人の「俳誌」誕生の、それぞれの次の句にも深く関わっている。
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ(石田波郷『鶴の眼』・昭和十二年作)→「波郷主宰『鶴』」
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃(加藤楸邨『寒雷』・昭和十三年作)→「楸邨主宰『寒雷』
萬緑の中や吾子の歯生え初(そ)むる(中村草田男『火の島』・昭和十四年作)→「草田男主宰『萬緑』
(補記)「中村草田男の『青露変』」と「石田波郷の『胸形変』」周辺
中村草田男は、その『来し方行方』(昭和二十二年刊)の、その冒頭の「昭和十六年」、
[ 中村草田男(その八)
○ 汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか 青露変(青露とは、川端茅舎の戒名青露院
より採る。)
○ 花に露十字架に数珠煌と掛かり 七月十七日、茅舎長逝の報いたる。
○ 梅雨も人も葬りの寺もただよすが 同十九日、其告別式。
○ 炎天の手の小竹(ささ)凋(しほ)る葉を巻きて 旬日後、彼を偲び、己が芸の為 すなきを嘆きつつ近郊を歩む。
昭和十六年作。『来し方行方』所収。草田男年譜によれば、「昭和四年二月、初めて虚子を訪ね、師事。復学し、『東大俳句会』に入学、『ホトトギス』(九月号)に四句入選」とあり、二十八歳のときに、虚子門に入ったこととなる。しかし、この年譜にもあるとおり、草田男は虚子門であるが、『東大俳句会』の指導者であった水原秋桜子の選を仰いで、その秋桜子選のものが、虚子の「ホトトギス」選にもなるという、いわば、虚子と秋桜子の二人に師事していたというのが実体なのかもしれない。
草田男三十八歳のときの昭和十四年には、「一月、次女郁子誕生、三月、学生俳句連盟機関誌『成層圏』の指導に当たる。七月、『俳句研究』座談会に楸邨、波郷らと出席、以後、『人間探求派』と称せられる。十一月、第二句集『火の鳥』(龍星閣)刊。冬、高村光太郎を訪ねる」とあり、掲出の句が作られた昭和十六年には、「六月、第三句集『萬緑』(甲鳥書林)刊。俳壇内の時局便乗者から自由主義者と指弾、圧迫される」との記載が見られる。
これらの年譜の足跡を見ていくと、「人間探求派」という言葉は、昭和十四年の「俳句研究」の座談会で始めて使われたもので、このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十八歳、そして、加藤楸邨は「馬酔木」同人で三十三歳(その翌年に「寒雷」主宰となる)、石田波郷は「馬酔木」同人で弱冠二十六歳(二十四歳のときに「鶴」を主宰している)という若さであった。
そして、昭和俳壇をリードし続けた、この三人が、直接と間接とを問わず、水原秋桜子の指導を得ていたということと、特に、草田男は「時局便乗者からは自由主義者」と見られていたということはやはり特筆しておくべきことなのであろう(草田男の三十五歳のときに刊行した第一句集『長子』も全て虚子選であるが、秋桜子の選も仰いでいるという)。そういう草田男の姿勢や作風からして、草田男が虚子主宰の「ホトトギス」で最も信頼を置いて、相互に切磋琢磨した同胞は、草田男よりも四歳上の川端茅舎であり、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」といわしめた、この茅舎の草田男への影響というものは大きかったことであろう。
それ以上に、掲出の一句目のように、茅舎亡き後の「ホトトギス」周辺の虚子を取り巻く方々は、草田男にとっては、「汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか」と、もう、草田男の俳句を理解するという雰囲気ではなかったのではなかろうか。それだけではなく、言論統制が強力に推し進められていくなかで、昭和十五年には新興俳句弾圧事件が勃発して、「京大俳句」の平畑静塔らが検挙されるという事態が起きた。
草田男俳句も、時局に合わぬ自由主義的な俳句として、当時の俳壇から圧迫され、身辺の写生句のみの投句に制限されていたが、昭和十八年の年譜には「『ホトトギス』への投句を止める。十月、『蕪村集』刊」と、その状態が終戦まで続くことになる。
これらの草田男年譜を振り返って見るときに、昭和五年に水原秋桜子が「ホトトギス」を退会した後も、草田男は「ホトトギス」に残り、川端茅舎・松本たかしなどと、「ホトトギス」の有力俳人の地位を獲得しながら、その「ホトトギス」周辺からは川端茅舎を除いては、必ずしも好意的に受けとめられていなかったということと、掲出句に見る如く、草田男がいかに茅舎に傾倒して、信頼し、そして、いかに茅舎を失って虚脱状態になっていたかを、その当時の草田男の環境を垣間見ることができるのである。 ]
この中村草田男の『来し方行方』(昭和二十二年刊)の、その「昭和十六年(「青露変)」の、その、「青露変」(青露とは、川端茅舎の戒名青露院より採る)の、その一連の作品(十七句)は、まさに、飛躍してするならば、当時「人間探求派(難解派)」のネーミングを冠せられている、その「加藤楸邨・石田波郷・(篠原梵)」などの、それらを代弁するような追悼句と解したい。
この中村草田男の「昭和十六年(「青露変)」の、その「汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか」の、その赤裸々な真率な、一連の「花鳥諷詠真骨頂・川端茅舎」に対する草田男の追悼句は、石田波郷の金字塔とも目せられている、『胸形変』(昭和二十四年刊)、そして『惜命』(昭和二十五年刊・系列第五句集)の、その「胸形変」に連なっているように思われる。。
青露変(青露とは、川端茅舎の戒名青露院より採る。)
汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか(中村草田男『来し方行方』所収「青露変」)
たばしるや鵙叫喚す胸形変(きようぎようへん)(石田波郷『惜命』所収「成形」)
七月十七日、茅舎長逝の報いたる。
花に露十字架に数珠煌と掛かり(中村草田男『来し方行方』所収「青露変」)
七夜経て露の青槙日浴びそむ(石田波郷『惜命』所収「成形」)
正午の露消え行進曲鳴り響き(中村草田男『来し方行方』所収「青露変」)
流れきて露のピアノの音肋打つ(石田波郷『惜命』所収「成形」)
(追記)「春疾風・春嵐・春颷」周辺
※春疾風(はるはやて)すつぽん石となりにけり 水原秋櫻子『殉教』
※春嵐(はるあらし)奈翁は華奢な手なりしとか 中村草田男『火の島』
※春飈(春颷=はるはやて・しんひょう)嶺に落ちんとするは鷹か 加藤楸邨『雪後の天』
※春疾風(はるはやて)屍は敢て出でゆくも 石田波郷『惜命』
「中村草田男・加藤楸邨・石田波郷」の三人を、同じ土俵上で語るとすれば、この三人は、「人間探求派」(「難解派」)は、「昭和十四年八月の『俳句研究(山本健吉編集)』に掲載された「新しい俳句の課題」(その座談会上での山本健吉の命名の「人間探求派=草田男・楸邨・波郷・梵」の四人)の、そのビッグの三俳人ということになる。これらのことに関しては、下記のアドレスなどで、直接、間接とを問わず、思いつくままに触れて来た。
https://yahantei14.seesaa.net/article/509168121.html
https://yahan.seesaa.net/search?keyword=%E4%BA%BA%E9%96%93
ここでは、放蕩に掲げた、「水原秋櫻子・中村草田男・加藤楸邨・石田波郷」の、それぞれの、「春疾風・春嵐・春飈」の句で、この四人の周辺のことに関して、下記のように記して置きたい。
※春疾風(はるはやて)すつぽん石となりにけり(水原秋櫻子『殉教』)
秋櫻子は、「中村草田男」の、その「ホトトギス」そして「東大俳句会」での、謂わば、「師弟(師=秋櫻子・弟子=草田男)」にあたる、「草田男」の先達ということになる。また、「加藤楸邨・石田波郷」の二人は、秋櫻子が高浜虚子から離脱して、その自分が主宰した「馬酔木」での、二大俊秀の「愛弟子」ということになる。
この秋櫻子が、昭和十四年七月の「馬酔木」誌上で、「同人の作品のうちに難しいものがあり……、特に加藤君(楸邨)、石田君(波郷)の中に難しいものがある」といい、中村草田男の句を、「真面目でも意味のわからない俳句は困る」と、別なところで批評したことが、この「人間探求派」(「難解派」)の発端のようなのである(『草田男・波郷・楸邨……人間探求派) ……(有冨光央著)』)。
ここで、掲出の秋櫻子の句の、「※春疾風すつぽん石となりにけり」の、この中七の「すつぼん石と」を、「すつぽん・石と」の詠みと、「すつぼん石と」の詠みでは、「すつぽん・石と」(「平明派」)と、「すつぼん石と」(「難解派?」)との、二様の「詠み」(鑑賞)がイメージ化されて来る。しかし、どちらにしても、その二様の詠みも、「「難解派?」というよりも、「平明派」ということになろう。
次の草田男の、「※春嵐(はるあらし)奈翁は華奢な手なりしとか」の句は、中七の「奈翁は華奢な」の、この「奈翁」を、例えば、「奈翁=ナポレオン)」としても、「奈翁=草田男の知人の一人)としても、この句の作者の作意と、詠み手の「イメージ」(鑑賞)とでは、大きなズレが生じる、やはり、「難解派」というネーミングを冠するのが相応しいように思われる。
同様に、この三句目(楸邨)の、「※春飈(はるはやて・しんひょう)嶺に落ちんとするは鷹か」の句は、何故、一般的な「春疾風(はるはやて)」ではなく、「春飈(はるはやて・しんひょう)」という、特殊な用例を、この句に施しているのかということになると、これも、やはり、「平明派」というよりは、より多く難解派」というネーミングを冠するのが相応しいのかも知れない。
最後に、四句目の、波郷の「※春疾風(はるはやて)屍は敢て出でゆくも」の句は、もし、この句が、「難解派」の句とすると、この句の「屍(かばね・しかばね・し・したい・遺体=いたい)」と、この「敢て」(「平明」な「難解(特殊)」的な用例)に因ると思われるが、「難解派」というよりは、「平明派」に、その軸足を置いているように思われる。
ここで、「人間探求派」ではなく、「難解派」という視点からすると、この「中村草田男・加藤楸邨・石田波郷」の三俳人について、次のように解することも一興であろう(『草田男・波郷・楸邨……人間探求派) ……(有冨光央著)』などに因る)。
中村草田男 → 「難解派(「難解=妊娠派」)」
加藤楸邨 → 「仮想難解派(難解=仮想妊娠派) )」
石田波郷 → 「仮装難解派(難解=仮装妊娠派)」
(参考三)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三十七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」(晩冬)」
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後(雪後の天・深雪晴・雪晴)」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510573408.html
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→「梅」(初春)
https://yahan.seesaa.net/article/510805227.html
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→「三月(風)」(仲春)
https://yahan.seesaa.net/article/510894302.html
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →「春雷」(三春)
https://yahan.seesaa.net/article/511134741.html
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →「春疾風」(三春)
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 ※(黒地・観音像の図) →
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図) →
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図) →
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白) →
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白) →
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公 の図) →
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図) →
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白) →
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図) →
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図) →
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』)無
霧雫(八句) →(昭和二十四年、三十七歳)→「同上」
捨菊(十七句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
接吻(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
冬日楽園(二十三句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
降誕祭過(五句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
家長七日(十一句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
水仙花(二十句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/120
季語は「春疾風」(三春)。この中七の「屍は敢て」の「敢(あえ)て」は、「困難な状況を押し切って、力いっぱい」の意で鑑賞したい。句意は、「外は猛烈な春嵐である。病床仲間の一人の遺体は、その春嵐に立ち向かうように、渾身の勇者の遺体となって、いま、病棟の裏門の『屍門』を出て行くよ。」
(参考一) 「春疾風(はるはやて)三春」
https://kigosai.sub.jp/001/archives/1917
[【子季語】 春荒、春嵐、春はやち
【関連季語】 春の風、春一番
【解説】 春の烈風のこと。冬の西高東低の気圧配置がくずれ、低気圧が東海上に抜けるにともなって荒れた天気となり、ときには嵐となる。](「きごさい歳時記」)
【例句】(抜粋)
https://fudemaka57.exblog.jp/25333024/
※春疾風(はるはやて)屍は敢て出でゆくも 石田波郷
春嵐心難民めく夜かな 石田波郷
壁の絵の濤みどりたり春嵐 石田波郷
額髪に春の嵐の蓮根掘 石田波郷
春嵐鉄路へ墓を吹き寄せぬ 石田波郷
春嵐鳴りとよもすも病家族 石田波郷
春嵐子が戻らねば眠られず 石田あき子『見舞籠』
※春疾風すつぽん石となりにけり 水原秋櫻子『殉教』
春疾風木々が鞭打つ湯の湖見ゆ 水原秋櫻子『緑雲』
※春嵐奈翁は華奢な手なりしとか 中村草田男
春疾風乙女の訪ふ声吹きさらはれ 中村草田男
寺はただ和尚の寝場所か春嵐 中村草田男
届かばこそを届かでやはと春嵐 中村草田男
※春飈(はるはやて・しんひょう)嶺に落ちんとするは鷹か 加藤楸邨『雪後の天』
(参考二) 「川端茅舎(『華厳』)・中村草田男(『火の島』)・加藤楸邨(「寒雷」)・石田波郷(『鶴の眼』)」周辺(その二)
びびびびと氷張り居り月は春(川端茅舎『華厳』・昭和十三年作)
三年前、於茅舎居
稲妻を仰ぐそびらに茅舎居る(中村草田男『火の島』・昭和十三年作)
萬緑の中や吾子の歯生え初(そ)むる(中村草田男『火の島』・昭和十四年作)
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃(加藤楸邨『寒雷』・昭和十三年作)
あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷(石田波郷『鶴の眼』・昭和八年作)
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ(石田波郷『鶴の眼』・昭和十二年作)
上記一句目の茅舎の句、「びびびびと氷張り居り月は春」の主たる季語は、中七の「氷張る」(晩冬)か、下五の「月は春(春月)」(三春)か、これを読み解くのは、上五の「びびびびと」の「びびびび」の「擬音語」(オノマトペ)なのであろう。
即ち、この句の主たる季語は、下五の「月は春(春月)」(三春)で、この中七の「氷張る」は、「暦の上では立春を過ぎた『初春の氷張る』」ということになる。
これが、三句目の楸邨の句、「寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃」の、その「びりりびりり」の「擬音語」(オノマトペ)になると、この楸邨の句は、「寒雷や」の「寒雷」(三冬)を、「寒月や」の「寒月」(晩冬)を置き換えても、「びりりびりり」と「真夜の玻璃((「ガラス戸」に響く「音」から、「氷張る「音」)へと転化)として、一句としては整合してくることであろう。
上記二句目の草田男のの句、「稲妻を仰ぐそびらに茅舎居る」の季語は「稲妻」(三秋)で、この「季語の本意」は、「空がひび割れるかのように走る電光のこと。空中の放電現象によるものだが、その大音響の雷が夏の季語なのに対し、稲妻が秋の季語となっているのは、稲を実らせると信じられていたからである。」ということになる。
https://kigosai.sub.jp/kigo500a/453.html
この上五の「稲妻」も、そして、中七の「そびら(「背=そ」)・「平=ひら」)」(『古事記』に由来する「背中」の意の古語)も、草田男の、兄事して止まない「花鳥諷詠真骨頂・『川端茅舎・茅舎俳諧』」への、その思い入れの深い「季語」と「措辞」ということになる。
あえかなる薔薇撰(え)りをれば春の雷(石田波郷『鶴の眼』・昭和八年作)→「春雷」
稲妻を仰ぐそびらに茅舎居る(中村草田男『火の島』・昭和十三年作)→「稲妻(秋雷)
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃(加藤楸邨『寒雷』・昭和十三年作)→「寒雷(冬雷)」
これらはまた、この三人の「俳誌」誕生の、それぞれの次の句にも深く関わっている。
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ(石田波郷『鶴の眼』・昭和十二年作)→「波郷主宰『鶴』」
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃(加藤楸邨『寒雷』・昭和十三年作)→「楸邨主宰『寒雷』
萬緑の中や吾子の歯生え初(そ)むる(中村草田男『火の島』・昭和十四年作)→「草田男主宰『萬緑』
(補記)「中村草田男の『青露変』」と「石田波郷の『胸形変』」周辺
中村草田男は、その『来し方行方』(昭和二十二年刊)の、その冒頭の「昭和十六年」、
[ 中村草田男(その八)
○ 汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか 青露変(青露とは、川端茅舎の戒名青露院
より採る。)
○ 花に露十字架に数珠煌と掛かり 七月十七日、茅舎長逝の報いたる。
○ 梅雨も人も葬りの寺もただよすが 同十九日、其告別式。
○ 炎天の手の小竹(ささ)凋(しほ)る葉を巻きて 旬日後、彼を偲び、己が芸の為 すなきを嘆きつつ近郊を歩む。
昭和十六年作。『来し方行方』所収。草田男年譜によれば、「昭和四年二月、初めて虚子を訪ね、師事。復学し、『東大俳句会』に入学、『ホトトギス』(九月号)に四句入選」とあり、二十八歳のときに、虚子門に入ったこととなる。しかし、この年譜にもあるとおり、草田男は虚子門であるが、『東大俳句会』の指導者であった水原秋桜子の選を仰いで、その秋桜子選のものが、虚子の「ホトトギス」選にもなるという、いわば、虚子と秋桜子の二人に師事していたというのが実体なのかもしれない。
草田男三十八歳のときの昭和十四年には、「一月、次女郁子誕生、三月、学生俳句連盟機関誌『成層圏』の指導に当たる。七月、『俳句研究』座談会に楸邨、波郷らと出席、以後、『人間探求派』と称せられる。十一月、第二句集『火の鳥』(龍星閣)刊。冬、高村光太郎を訪ねる」とあり、掲出の句が作られた昭和十六年には、「六月、第三句集『萬緑』(甲鳥書林)刊。俳壇内の時局便乗者から自由主義者と指弾、圧迫される」との記載が見られる。
これらの年譜の足跡を見ていくと、「人間探求派」という言葉は、昭和十四年の「俳句研究」の座談会で始めて使われたもので、このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十八歳、そして、加藤楸邨は「馬酔木」同人で三十三歳(その翌年に「寒雷」主宰となる)、石田波郷は「馬酔木」同人で弱冠二十六歳(二十四歳のときに「鶴」を主宰している)という若さであった。
そして、昭和俳壇をリードし続けた、この三人が、直接と間接とを問わず、水原秋桜子の指導を得ていたということと、特に、草田男は「時局便乗者からは自由主義者」と見られていたということはやはり特筆しておくべきことなのであろう(草田男の三十五歳のときに刊行した第一句集『長子』も全て虚子選であるが、秋桜子の選も仰いでいるという)。そういう草田男の姿勢や作風からして、草田男が虚子主宰の「ホトトギス」で最も信頼を置いて、相互に切磋琢磨した同胞は、草田男よりも四歳上の川端茅舎であり、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」といわしめた、この茅舎の草田男への影響というものは大きかったことであろう。
それ以上に、掲出の一句目のように、茅舎亡き後の「ホトトギス」周辺の虚子を取り巻く方々は、草田男にとっては、「汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか」と、もう、草田男の俳句を理解するという雰囲気ではなかったのではなかろうか。それだけではなく、言論統制が強力に推し進められていくなかで、昭和十五年には新興俳句弾圧事件が勃発して、「京大俳句」の平畑静塔らが検挙されるという事態が起きた。
草田男俳句も、時局に合わぬ自由主義的な俳句として、当時の俳壇から圧迫され、身辺の写生句のみの投句に制限されていたが、昭和十八年の年譜には「『ホトトギス』への投句を止める。十月、『蕪村集』刊」と、その状態が終戦まで続くことになる。
これらの草田男年譜を振り返って見るときに、昭和五年に水原秋桜子が「ホトトギス」を退会した後も、草田男は「ホトトギス」に残り、川端茅舎・松本たかしなどと、「ホトトギス」の有力俳人の地位を獲得しながら、その「ホトトギス」周辺からは川端茅舎を除いては、必ずしも好意的に受けとめられていなかったということと、掲出句に見る如く、草田男がいかに茅舎に傾倒して、信頼し、そして、いかに茅舎を失って虚脱状態になっていたかを、その当時の草田男の環境を垣間見ることができるのである。 ]
この中村草田男の『来し方行方』(昭和二十二年刊)の、その「昭和十六年(「青露変)」の、その、「青露変」(青露とは、川端茅舎の戒名青露院より採る)の、その一連の作品(十七句)は、まさに、飛躍してするならば、当時「人間探求派(難解派)」のネーミングを冠せられている、その「加藤楸邨・石田波郷・(篠原梵)」などの、それらを代弁するような追悼句と解したい。
この中村草田男の「昭和十六年(「青露変)」の、その「汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか」の、その赤裸々な真率な、一連の「花鳥諷詠真骨頂・川端茅舎」に対する草田男の追悼句は、石田波郷の金字塔とも目せられている、『胸形変』(昭和二十四年刊)、そして『惜命』(昭和二十五年刊・系列第五句集)の、その「胸形変」に連なっているように思われる。。
青露変(青露とは、川端茅舎の戒名青露院より採る。)
汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか(中村草田男『来し方行方』所収「青露変」)
たばしるや鵙叫喚す胸形変(きようぎようへん)(石田波郷『惜命』所収「成形」)
七月十七日、茅舎長逝の報いたる。
花に露十字架に数珠煌と掛かり(中村草田男『来し方行方』所収「青露変」)
七夜経て露の青槙日浴びそむ(石田波郷『惜命』所収「成形」)
正午の露消え行進曲鳴り響き(中村草田男『来し方行方』所収「青露変」)
流れきて露のピアノの音肋打つ(石田波郷『惜命』所収「成形」)
(追記)「春疾風・春嵐・春颷」周辺
※春疾風(はるはやて)すつぽん石となりにけり 水原秋櫻子『殉教』
※春嵐(はるあらし)奈翁は華奢な手なりしとか 中村草田男『火の島』
※春飈(春颷=はるはやて・しんひょう)嶺に落ちんとするは鷹か 加藤楸邨『雪後の天』
※春疾風(はるはやて)屍は敢て出でゆくも 石田波郷『惜命』
「中村草田男・加藤楸邨・石田波郷」の三人を、同じ土俵上で語るとすれば、この三人は、「人間探求派」(「難解派」)は、「昭和十四年八月の『俳句研究(山本健吉編集)』に掲載された「新しい俳句の課題」(その座談会上での山本健吉の命名の「人間探求派=草田男・楸邨・波郷・梵」の四人)の、そのビッグの三俳人ということになる。これらのことに関しては、下記のアドレスなどで、直接、間接とを問わず、思いつくままに触れて来た。
https://yahantei14.seesaa.net/article/509168121.html
https://yahan.seesaa.net/search?keyword=%E4%BA%BA%E9%96%93
ここでは、放蕩に掲げた、「水原秋櫻子・中村草田男・加藤楸邨・石田波郷」の、それぞれの、「春疾風・春嵐・春飈」の句で、この四人の周辺のことに関して、下記のように記して置きたい。
※春疾風(はるはやて)すつぽん石となりにけり(水原秋櫻子『殉教』)
秋櫻子は、「中村草田男」の、その「ホトトギス」そして「東大俳句会」での、謂わば、「師弟(師=秋櫻子・弟子=草田男)」にあたる、「草田男」の先達ということになる。また、「加藤楸邨・石田波郷」の二人は、秋櫻子が高浜虚子から離脱して、その自分が主宰した「馬酔木」での、二大俊秀の「愛弟子」ということになる。
この秋櫻子が、昭和十四年七月の「馬酔木」誌上で、「同人の作品のうちに難しいものがあり……、特に加藤君(楸邨)、石田君(波郷)の中に難しいものがある」といい、中村草田男の句を、「真面目でも意味のわからない俳句は困る」と、別なところで批評したことが、この「人間探求派」(「難解派」)の発端のようなのである(『草田男・波郷・楸邨……人間探求派) ……(有冨光央著)』)。
ここで、掲出の秋櫻子の句の、「※春疾風すつぽん石となりにけり」の、この中七の「すつぼん石と」を、「すつぽん・石と」の詠みと、「すつぼん石と」の詠みでは、「すつぽん・石と」(「平明派」)と、「すつぼん石と」(「難解派?」)との、二様の「詠み」(鑑賞)がイメージ化されて来る。しかし、どちらにしても、その二様の詠みも、「「難解派?」というよりも、「平明派」ということになろう。
次の草田男の、「※春嵐(はるあらし)奈翁は華奢な手なりしとか」の句は、中七の「奈翁は華奢な」の、この「奈翁」を、例えば、「奈翁=ナポレオン)」としても、「奈翁=草田男の知人の一人)としても、この句の作者の作意と、詠み手の「イメージ」(鑑賞)とでは、大きなズレが生じる、やはり、「難解派」というネーミングを冠するのが相応しいように思われる。
同様に、この三句目(楸邨)の、「※春飈(はるはやて・しんひょう)嶺に落ちんとするは鷹か」の句は、何故、一般的な「春疾風(はるはやて)」ではなく、「春飈(はるはやて・しんひょう)」という、特殊な用例を、この句に施しているのかということになると、これも、やはり、「平明派」というよりは、より多く難解派」というネーミングを冠するのが相応しいのかも知れない。
最後に、四句目の、波郷の「※春疾風(はるはやて)屍は敢て出でゆくも」の句は、もし、この句が、「難解派」の句とすると、この句の「屍(かばね・しかばね・し・したい・遺体=いたい)」と、この「敢て」(「平明」な「難解(特殊)」的な用例)に因ると思われるが、「難解派」というよりは、「平明派」に、その軸足を置いているように思われる。
ここで、「人間探求派」ではなく、「難解派」という視点からすると、この「中村草田男・加藤楸邨・石田波郷」の三俳人について、次のように解することも一興であろう(『草田男・波郷・楸邨……人間探求派) ……(有冨光央著)』などに因る)。
中村草田男 → 「難解派(「難解=妊娠派」)」
加藤楸邨 → 「仮想難解派(難解=仮想妊娠派) )」
石田波郷 → 「仮装難解派(難解=仮装妊娠派)」
(参考三)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三十七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」(晩冬)」
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後(雪後の天・深雪晴・雪晴)」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510573408.html
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→「梅」(初春)
https://yahan.seesaa.net/article/510805227.html
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→「三月(風)」(仲春)
https://yahan.seesaa.net/article/510894302.html
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →「春雷」(三春)
https://yahan.seesaa.net/article/511134741.html
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →「春疾風」(三春)
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 ※(黒地・観音像の図) →
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図) →
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図) →
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白) →
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白) →
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公 の図) →
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図) →
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白) →
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図) →
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図) →
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』)無
霧雫(八句) →(昭和二十四年、三十七歳)→「同上」
捨菊(十七句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
接吻(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
冬日楽園(二十三句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
降誕祭過(五句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
家長七日(十一句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
水仙花(二十句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
その二十八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦達

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」所収「屍(かばね)運ぶ春丸顔の看護婦達」 → A図
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/120
この句の句形は、「屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦達」(『現代俳句の世界7 石田波郷』所収「惜命」)と「屍(かばね)運ぶ春丸顔の看護婦達」(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) (石田波郷句・棟方志功板画) 」)とがある。
どちらも、季語は「春・春の日・春うらら」(三春)。「屍」は、「屍(し)」と「屍(かばね)」と詠みは異なるが、意味は「病人の遺体」で、同意ということになる。句意は、「春麗かな日に、病人がまた亡くなった。その遺体を、春の日差しを浴びた、若き丸顔の看護婦らが、霊安室へと運んで行く。」
ここに、棟方志功が彫った画像は、「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」(「俳句研究(昭和62年8月号/特集・石田波郷,の文学」所収)では、「観音図」とあり、これは、「志功板画」の独壇場とも言える、「女人観世音板画巻」(戦前「女人芸術」創刊号の扉を飾った岡本かの子の詩『女人ぼさつ』を題材にしての、昭和二十四年から取り組んだ、棟方志功の終生のライフワークの一つ)の、それらの一環の「女人観音像=『惜命・看護婦観世音』」とでも、ネーミングして差し支えなかろう。
これらの、昭和二十四年から取り組んだ、棟方志功の終生のライフワークの一つ「女人観世音板画巻・同屏風(十二柵)」のうち、下記の「仰向妃の柵」は、「黒画面(黒地)と白文字(白い線)とのコントラスト」を丸刀一本で彫り上げた作品として、志功自身、その「『自作に想う』所収『女人観世音板画巻(女人観世音板画柵、芸業頌板経右座菩薩・同左座菩薩=振向妃・仰向妃のこと)』」に綴っている。

「女人観世音板画巻 仰向妃の柵(にょにんかんぜおんはんがかん あおむきひのさく)」(棟方志功 (1903-1975)/昭和24/1949/木版・紙・軸/28.5×44.5/富山県高岡市中川1-1-30
・高岡市美術館/「文化遺産オンライン」) → B図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/220541
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/search?page=9&museum=%E9%AB%98%E5%B2%A1%E5%B8%82%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8&indexNum=20&sorttype=_
上記の作品は、「高岡美術館」所蔵のものであるが、「棟方志功記念館(南栃市福光「愛染院」)」所蔵の「女人観世音板画巻」(十二柵揃)のものを、下記のアドレスで紹介している。
https://yahantei14.seesaa.net/article/508234602.html#comment
この上記の「御向妃の柵」に彫られている「白文字」のものは、「女人ぼさつ(岡本かの子・詩)」の、次の一節である。
「 人のかなしみ時には担ひ
よろこびを人に送りて
みづからを空しくはする
女人われこそ観世音ぼさつ 」
この「女人ぼさつ(岡本かの子・詩)」の全文を、志功は、昭和二十二年に、下記の「女人観世音詩詞」を作品化している。

「女人観世音詩詞」(1947年(昭和22) / 18.3×69.0㎝ /詩・岡本かの子 )
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「女人観世音板画巻・大揃全作」の内
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/85
「 女人観世音 岡本かの子
薔薇見れば薔薇の笑ひ
牡丹に逢はば牡丹の威
あやめの色の優しきに優しく
女人われこそ観世音ぼさつ
柳絮*直ければ即ち直く
松厳しければわれも厳し
杉潔きに はた潔く
女人われこそ観世音ぼさつ
そよ風にそよとし吹かれ
時にはた心浮雲
足裏の土踏む力
女人われこそ観世音ぼさつ
『人のかなしみ時には担ひ
よろこびを人に送りて
みづからを空しくはする
女人われこそ観世音ぼさつ』
ぼさつ ぼさつ 観世音
千変万化
円融無碍もて世を救ふ
女人われこそ実*に観世音 」
ここで、掲出の波郷の句、「屍(かばね)運ぶ春丸顔の看護婦達」(「A図」の「白文字」の句)と、この「岡本かの子の詩」(「B図」の「白文字」の「詩」の一節)とを並列して置きたい。
「 屍(かばね)運ぶ春丸顔の看護婦達」(石田波郷・「A図」の「白文字」の句)
「 人のかなしみ時には担ひ
よろこびを人に送りて
みづからを空しくはする
女人われこそ観世音ぼさつ 」(岡本かの子・「B図」の「白文字」の「詩」の一節)
この波郷の句の句意は、この、岡本かの子の、この「B図」の「白文字」の「詩」の一節と解することこそ、棟方志功の、この句に対する本意のように想われて来る。
(参考一) 「女人観世音板画巻(棟方志功)」周辺
(その一) 「女人観世音図」(倭画)
https://yahantei14.seesaa.net/article/511446785.html
(その二) 「女人観世音屏風(二曲一双/右=右隻・左=左隻)」
https://yahantei14.seesaa.net/article/511505148.html
(その三) 「女人観世音板画巻(女人観世音板画柵、芸業頌板経右座菩薩・同左座菩薩=振向妃・仰向妃のこと)
https://yahantei14.seesaa.net/article/511556250.html
(その四) 「棟方志功 白と黒の世界」
https://yahantei14.seesaa.net/article/508234602.html#comment
(参考二)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三十七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」(晩冬)」
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後(雪後の天・深雪晴・雪晴)」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510573408.html
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→「梅」(初春)
https://yahan.seesaa.net/article/510805227.html
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→「三月(風)」(仲春)
https://yahan.seesaa.net/article/510894302.html
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →「春雷」(三春)
https://yahan.seesaa.net/article/511134741.html
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →「春疾風」(三春)
https://yahan.seesaa.net/article/511331313.html
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦達 ※(黒地・観音像の図) →「春()
https://yahantei14.seesaa.net/article/511556250.html?1741734966
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図) →「雪柳」(仲春)
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図) →
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白) →
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白) →
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公 の図) →
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図) →
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白) →
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図) →
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図) →
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』)無
霧雫(八句) →(昭和二十四年、三十七歳)→「同上」
捨菊(十七句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
接吻(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
冬日楽園(二十三句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
降誕祭過(五句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
家長七日(十一句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
水仙花(二十句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」所収「屍(かばね)運ぶ春丸顔の看護婦達」 → A図
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/120
この句の句形は、「屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦達」(『現代俳句の世界7 石田波郷』所収「惜命」)と「屍(かばね)運ぶ春丸顔の看護婦達」(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) (石田波郷句・棟方志功板画) 」)とがある。
どちらも、季語は「春・春の日・春うらら」(三春)。「屍」は、「屍(し)」と「屍(かばね)」と詠みは異なるが、意味は「病人の遺体」で、同意ということになる。句意は、「春麗かな日に、病人がまた亡くなった。その遺体を、春の日差しを浴びた、若き丸顔の看護婦らが、霊安室へと運んで行く。」
ここに、棟方志功が彫った画像は、「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」(「俳句研究(昭和62年8月号/特集・石田波郷,の文学」所収)では、「観音図」とあり、これは、「志功板画」の独壇場とも言える、「女人観世音板画巻」(戦前「女人芸術」創刊号の扉を飾った岡本かの子の詩『女人ぼさつ』を題材にしての、昭和二十四年から取り組んだ、棟方志功の終生のライフワークの一つ)の、それらの一環の「女人観音像=『惜命・看護婦観世音』」とでも、ネーミングして差し支えなかろう。
これらの、昭和二十四年から取り組んだ、棟方志功の終生のライフワークの一つ「女人観世音板画巻・同屏風(十二柵)」のうち、下記の「仰向妃の柵」は、「黒画面(黒地)と白文字(白い線)とのコントラスト」を丸刀一本で彫り上げた作品として、志功自身、その「『自作に想う』所収『女人観世音板画巻(女人観世音板画柵、芸業頌板経右座菩薩・同左座菩薩=振向妃・仰向妃のこと)』」に綴っている。
「女人観世音板画巻 仰向妃の柵(にょにんかんぜおんはんがかん あおむきひのさく)」(棟方志功 (1903-1975)/昭和24/1949/木版・紙・軸/28.5×44.5/富山県高岡市中川1-1-30
・高岡市美術館/「文化遺産オンライン」) → B図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/220541
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/search?page=9&museum=%E9%AB%98%E5%B2%A1%E5%B8%82%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8&indexNum=20&sorttype=_
上記の作品は、「高岡美術館」所蔵のものであるが、「棟方志功記念館(南栃市福光「愛染院」)」所蔵の「女人観世音板画巻」(十二柵揃)のものを、下記のアドレスで紹介している。
https://yahantei14.seesaa.net/article/508234602.html#comment
この上記の「御向妃の柵」に彫られている「白文字」のものは、「女人ぼさつ(岡本かの子・詩)」の、次の一節である。
「 人のかなしみ時には担ひ
よろこびを人に送りて
みづからを空しくはする
女人われこそ観世音ぼさつ 」
この「女人ぼさつ(岡本かの子・詩)」の全文を、志功は、昭和二十二年に、下記の「女人観世音詩詞」を作品化している。
「女人観世音詩詞」(1947年(昭和22) / 18.3×69.0㎝ /詩・岡本かの子 )
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「女人観世音板画巻・大揃全作」の内
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/85
「 女人観世音 岡本かの子
薔薇見れば薔薇の笑ひ
牡丹に逢はば牡丹の威
あやめの色の優しきに優しく
女人われこそ観世音ぼさつ
柳絮*直ければ即ち直く
松厳しければわれも厳し
杉潔きに はた潔く
女人われこそ観世音ぼさつ
そよ風にそよとし吹かれ
時にはた心浮雲
足裏の土踏む力
女人われこそ観世音ぼさつ
『人のかなしみ時には担ひ
よろこびを人に送りて
みづからを空しくはする
女人われこそ観世音ぼさつ』
ぼさつ ぼさつ 観世音
千変万化
円融無碍もて世を救ふ
女人われこそ実*に観世音 」
ここで、掲出の波郷の句、「屍(かばね)運ぶ春丸顔の看護婦達」(「A図」の「白文字」の句)と、この「岡本かの子の詩」(「B図」の「白文字」の「詩」の一節)とを並列して置きたい。
「 屍(かばね)運ぶ春丸顔の看護婦達」(石田波郷・「A図」の「白文字」の句)
「 人のかなしみ時には担ひ
よろこびを人に送りて
みづからを空しくはする
女人われこそ観世音ぼさつ 」(岡本かの子・「B図」の「白文字」の「詩」の一節)
この波郷の句の句意は、この、岡本かの子の、この「B図」の「白文字」の「詩」の一節と解することこそ、棟方志功の、この句に対する本意のように想われて来る。
(参考一) 「女人観世音板画巻(棟方志功)」周辺
(その一) 「女人観世音図」(倭画)
https://yahantei14.seesaa.net/article/511446785.html
(その二) 「女人観世音屏風(二曲一双/右=右隻・左=左隻)」
https://yahantei14.seesaa.net/article/511505148.html
(その三) 「女人観世音板画巻(女人観世音板画柵、芸業頌板経右座菩薩・同左座菩薩=振向妃・仰向妃のこと)
https://yahantei14.seesaa.net/article/511556250.html
(その四) 「棟方志功 白と黒の世界」
https://yahantei14.seesaa.net/article/508234602.html#comment
(参考二)『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画・三十七句)との周辺(未完)
※『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』(『現代俳句大系 第八巻』所収「惜命」などに因る。)
※「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」(石田波郷句・棟方志功板画)周辺(「俳句研究/昭和六十二・八/特集・石田波郷の文学」所収「『胸形変』板画巻(吉良蘇月稿)」などに因る。)
『惜命(石田波郷第四句集・五百六句)』と「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)・三十七句」
「秋臥(五句)」→ (昭和二十二年、三十五歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「冬日射(十三句)→「同上)」無
「横光利一死(八句)」→「同上)」無
「墓の眺め(八句)」 →(昭和二十三年、三十六歳) →「同上)」無
「春へ(八句)」 →(「同上)」無
「後雁(十四句)」 →「同上)」無
「遠母来(五句)」 →「同上)」無
「薄暑(五句)」 →「同上)」無
「療養所(十一句)」 →「同上)」無
「羸痩(るいそう)=「痩せること」(十七句)」→「同上・下記(三句)」
一 栗咲く香血を喀く前もその後も (唐草の図)→「栗咲く(栗の花)」(仲夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507842165.html
二 優曇華やきのふの如き熱の中 (絮の図)→「優曇華」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/507963081.html
三 蝉かなしベッド縋る子を見れば (角材の図)→「蝉」(晩夏)
https://yahan.seesaa.net/article/508139416.html
「凡に見ず(八句)」→「同上」」無
「肋(あばら)(十一句)」→「同上・下記(一句)」
四 金の芒はるかなる母の禱りをり (野草の図)→「芒(すすき)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508338776.html
「成形(二十四句)」→「同上・下記(四句)」
五 花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (角材の図)→「花圃(かほ)」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508393480.html
六 たばしるや叫喚す胸形変 ※(無紋余白)→「鵙」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508677638.html
七 麻薬うてば十三夜月遁走す (唐草丸紋の図) )→「十三夜月」(晩秋)
https://yahan.seesaa.net/article/508941120.html
八 秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす (枯葉の図)→「秋の暮」(三秋)
https://yahan.seesaa.net/article/509098148.html
「二次成形告知(五句)」 →「同上」無
「二次成形その後(二十句)」→「同上・下記(二句)」
九 松籟や白息かた みにながし佇つ(大木の図)→「息白し)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509163561.html
一〇 悴み病めど栄光の如く子等育つ(木枝の図)→「悴)む」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509305818.html
「冬鶯(十一句)」→「同上・下記(三句)」
一一 冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも ※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509396772.html
一二 冬鶯われは病弟子胸あつし (角材の図)→「冬鶯」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509611636.html
一三 寒夜脇に肋の切口開くべし (肋骨の図)→「寒夜(冬の夜)」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/509671280.html
「送迎(十一句)」→(「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「ベトレヘムの鐘」)→「同上・下記(一句)」
一四 病む六人一寒燈を消すとき来(ベッドの図)→「寒燈」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510025519.html
「屍の眺め(四十一句)」→(昭和二十四年、三十七歳) →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』) →「同上・下記(七句)」
一五 綿虫やそこは屍の出でゆく門 ※(無紋余白)→「綿虫」(初冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510098153.html
一六 白き手の病者ばかりの落葉焚(楢の葉の図)→「落葉焚」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510134541.html
一七 冬日低し吾と子の間妻急がん※(無紋余白)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510216150.html
一八 妻恋へり裸木に星咲き出でて (木立の図)→「裸木」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510241589.html
一九 頂は見えぬ赤松冬日沁む (松の図)→「冬日」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510336309.html
二〇 牡蠣食へり重たき肩を起しては (波頭の図)→「牡蛎」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510365383.html
二一 曇天と古草の間屍(かばね)行く (角材の図)→「古草」(三冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510416249.html
「雪(五句)」→→「同上・下記(一句)」
二二 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 ※(黒地・白鷺の図)→「雪」(晩冬)」
https://yahan.seesaa.net/article/510475147.html
「雪ふたたび(五句) →「同上・下記(一句)」
二三 雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ ※(無紋余白)→「雪後(雪後の天・深雪晴・雪晴)」(晩冬)
https://yahan.seesaa.net/article/510573408.html
「早春(十一句) →「同上・下記(四句)」
二四 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (梅花の図)→「梅」(初春)
https://yahan.seesaa.net/article/510805227.html
二五 三月風胸の火吹かれ打臥すも (並び紋様)→「三月(風)」(仲春)
https://yahan.seesaa.net/article/510894302.html
二六 春雷の熄みし口洞閉づるかな (雪図紋) →「春雷」(三春)
https://yahan.seesaa.net/article/511134741.html
二七 春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (芽木の図) →「春疾風」(三春)
https://yahan.seesaa.net/article/511331313.html
「遺残空洞(十四句)」→「同上・下記(二句)」
二八 屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦達 ※(黒地・観音像の図) →「春()
https://yahantei14.seesaa.net/article/511556250.html?1741734966
二九 雪柳ふぶくごとくに今や咳く (雪柳の図) →「雪柳」(仲春)
「ブロンぺ(十四句)」→「同上・下記(一句)」
三〇 惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (女性と蝌蚪図) →
「予量(十七句)」→「同上・下記(一句)」
三一 蟻地獄病者の影をもて蔽ふ ※(無紋余白) →
「憂患(十一句)」→「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「長梅雨(三十二句)」→「同上・下記(二句)」
三二 梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す ※(無紋余白) →
三三 灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (郭公 の図) →
「動悸(八句)」 →「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)無
「荘厳(十一句)」→「同上』)下記二句
三四 日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (日輪の図) →
三五 業苦呼起す未明の風鈴は ※(無紋余白) →
「晩夏光(十四句)」(「同上』)下記一句
三七 病者より痩せしかぐろき小鰺売り (昼顔の図) →
「癩園の籬(十一句)」→「同上)無
「颱風過(十四句)」「同上)下記一句
三六 野分あと口のゆるびて睡りをり (野の草の図) →
露の楽(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上』)無
霧雫(八句) →(昭和二十四年、三十七歳)→「同上」
捨菊(十七句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
接吻(八句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
冬日楽園(二十三句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
降誕祭過(五句) →(昭和二十四年、三十七歳) →「同上」
家長七日(十一句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
水仙花(二十句) → (昭和二十五年、三十八歳) →「同上」
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