日曜日, 11月 08, 2026

「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画)管見(十一)~(十六)

 「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画)管見(十一)~(十六)

(その十一) 「冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも」


冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/116

 季語は「冬日(ふゆひ・ふゆび)」(三冬)。この句も、「冬日の妻よ(七音)/吾に肋骨(七音)・無きのちも(五音)」の「字余り」の「破調」の句である。この「冬日の妻よ(七音)」の「よ」という「切字」も、波郷における、「や/かな/けり」の重視に相俟って、殊に、波郷が、この『惜命』で多用する「切字」ということになる。

マルメロをつかめる五指の曲折よ (波郷『惜命(昭和二十三年)』の「よ」の句)
※冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも (波郷『惜命(昭和二十三年)』の「よ」の句)
豆撒けば楽世家めく患者らよ   (波郷『惜命(昭和二十四年)』の「よ」の句)
雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ (波郷『惜命(昭和二十四年)』の「よ」の句)
つばくらめ父を忘れて吾子伸びよ (波郷『惜命(昭和二十四年)』の「よ」の句)
ほととぎすすでに遺児めく二人子よ (波郷『惜命(昭和二十四年)』の「よ」の句)
梅雨来し妻足を拭へるかなしさよ (波郷『惜命(昭和二十四年)』の「よ」の句)
肋(あばら)切つてより白息の貧しさよ (波郷『惜命(昭和二十四年)』の「よ」の句)
元日の夜の妻の手のかなしさよ (波郷『惜命(昭和二十五年)』の「よ」の句)
泉への道後れゆく安けさよ    (波郷『春嵐(昭和三十二年)』の「よ」の句)

 句意は、「この寒々とした『冬日』の病床で看病を続けている『妻』よ、どうか成形手術で肋骨を切除した、この瀕死を彷徨う『吾』を、これまでと同じように、よろしく頼みたい。」

(参考) 「波郷・楸邨・草田男」の「冬日」の句

https://fudemaka57.exblog.jp/26574378/

よろめくや白衣に浴ぶる冬日ざし     石田波郷
冬日ぬくし焼跡に暫し跼みをり      石田波郷
冬日の吾子少年少女たる日までは     石田波郷
※冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも     石田波郷
冬日低し吾と子の間妻急がん       石田波郷
冬日低し鶏犬病者相群れて        石田波郷
冬日宙少女鼓隊に母となる日       石田波郷
冬日満てる月桂樹まで歩きだす      石田波郷
南に没る冬日を見ずや行人裡       石田波郷
師よりの金妻よりの金冬日満つ      石田波郷
希望は褪せぬ冬日にかざす痰コツプ    石田波郷
師よりの金妻よりの金冬日満つ      石田波郷
惜命の杖に裾濃の冬日射す        石田波郷

かぎり知られぬ右向の顔冬日さす     加藤秋邨
ただ焦土冬日を落す屋根もな し     加藤秋邨
冬日と兵省線の窓にたかまり来      加藤秋邨
冬日よりグラマンの貌奔騰す       加藤秋邨
冬日眩しむベルトコンベアの一端にて   加藤秋邨
原爆図真の冬日か野にあるは       加藤秋邨
換気筒のみがまはれり冬日の中      加藤秋邨
椋鳥がかこめばくるふ冬日かな      加藤秋邨
死や生や冬日のベルト止むときなし    加藤秋邨

かたちなき勝利納(い)るるや冬日揺るる  中村草田男
こぼれガソリン自ら乾き冬日うすし    中村草田男
よろしき代の冬日の場末歩き得たし    中村草田男
一とところ冬日慕うて雲隆み       中村草田男
冬日さす外出用意の二階かな       中村草田男
冬日たのしむ犬浜沙を前押しに      中村草田男
冬日たのしむ犬浜沙を前押しに      中村草田男
冬日の白布四隅展げて穢を払ふ      中村草田男
冬日の耳朶眼なければ眼挙げず      中村草田男
冬日の鉄壁ただねんごろに鋲多く     中村草田男
冬日わがもの屑花崗岩五彩散らす     中村草田男
冬日一輪をりをり光あらたにす      中村草田男
冬日手に足にねむごろ怠け者       中村草田男
冬日沁みてきたなからざる馬の傷     中村草田男
冬日浴びて色放つ方の景を描く      中村草田男
冬日負ひて振向く既往みな明らか     中村草田男
冬日遅々仔馬が牛の角なめて       中村草田男
午前の冬日午後の冬日や飢深し      中村草田男
南に冬日日ねもす北蒼し         中村草田男
山の冬日射しきて鉢の中に開く      中村草田男
庭にも無し背高き母の冬日の影      中村草田男
戦記なれば殺の字多き冬日向       中村草田男
校門前の冬日のポストヘ町娘       中村草田男
機影去り直視為し得る冬日あり      中村草田男
此坂のいただきの冬日射す町へ      中村草田男
永く居て薄き冬日にあたたまる      中村草田男
汝よ汝の葬式に行く冬日低く       中村草田男


(その十二) 「冬鶯われは病弟子胸あつし」

冬鶯われは病弟子胸あつし.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/116

 季語は「冬鶯」(三冬)。この句には、昭和二十三年の作、「われに師あり」との前書がある。この「前書」の「師」は、この時の、第一次成形手術の前後の、次の『惜命』の掲載順序からすると、その手術にも立ち会っている、当時の波郷の庇護者のような関係にもあった、「馬酔木」主宰の「水原秋櫻子」その人と解することも出来よう。

たばしるや鵙叫喚す胸形変 (『惜命』所収の「第一次成形手術」時)
秋の暮幾人(いくたり)かわれを目守りゐき(その手術直後の病室に居た人の句)
秋の暮水原先生もそこにゐき(この「水原先生」は「水原秋櫻子」)

 句意は、「大手術後の病床に、定かではないが、冬鶯の『笹鳴き』が聞こえてくる。吾が師、秋桜子先生は、『蕪村秀句』そして『夜半亭蕪村』の著書があるほど「蕪村好き」であるが、その蕪村の絶句に、『冬鶯むかし王維が垣根かな』の句がある。『吾』も、その『蕪村・秋櫻子(先生)』に連ねる『連衆』の、今は身動きのできない『病弟子』の身であるが、この手術後の胸の痛みを、作句の情熱への糧として、秋桜子(先生)への御恩に報いていきたい。」

(補記) 波郷の三人の師(先生)「水原秋櫻子・五十崎古郷・横光利一」周辺

 ここで、『現代俳句の世界7 石田波郷集』の、「『鶴の目』『風切』『病鴈』『雨覆』『惜命』『春嵐』『酒中花』『酒中花以後』」の、波郷の前句を管見すると、「水原秋櫻子」に関する「前書」では、「水原先生」と、「師」よりも、「先生」という尊称を多く用いているのを目にする。

ことごとく枯れし涯なり舟の中(昭和二十一年『雨覆』/「荒川沖舟遊、秋桜子先生に会ふ」)
秋の暮水原先生もそこにゐき(昭和二十三年『惜命』/「水原先生」は「水原秋櫻子」)
大き壺賜ひぬ梅雨の花活けて(昭和三十八年『酒中花』/「水原先生御夫妻」)
師を仰ぎ春の彼岸の入盈(み)ちぬ(昭和四十二年『酒中花』/「水原秋櫻子先生御夫妻御見舞二句」)
師のかげに夫人は菫そと賜ふ(「同上」)
巨き掌を賜ひ新茶を賜ひけり(昭和四十三年『酒中花以後/「水原先生」)
巨き掌をわれに賜ひぬ白菖蒲(昭和四十三年『酒中花以後/「水原先生再び」)

 石田波郷が、同郷(松山)の「馬酔木」の俳人「五十崎古郷」の指導の下に、その水原秋櫻子の「馬酔木」(「新樹集」)の巻頭を得たのは、昭和七年(一九三二)、数え齢で、二十歳で時である。
その年の二月に、波郷は、故郷松山から上京し、水原秋櫻子の庇護のもとに、「馬酔木」の編集の末端に加わり、その翌年(二十一歳)に、「馬酔木」第一期同人(「自選欄」に発表出来る俳人)に、同郷の師の「五十崎古郷」(三十八歳)と、その盟友の「塚原夜潮」(三十四歳)と共に、推薦されている。
その昭和八年(一九三三)、そして、加藤楸邨が「馬酔木」の同人になった昭和十年(一九三五)当時の、「水原秋櫻子」の最側近の「馬酔木」俳人は、次のとおりである。

[ 水原秋櫻子(四十二歳)、軽部烏頭子(四十三歳)、百合山羽公(三十歳)、篠田春蝉=悌二郎(三十五歳)、瀧春一(三十三歳)、塚原夜潮(三十四歳)、五十崎古郷(三十八歳)、佐野まもる(三十三歳)、相生垣瓜人(三十六歳)、石橋竹秋子(二十五歳)、高屋窓秋(二十五歳)、石田波郷(二十一歳)、佐々木綾華(四十一歳)、※加藤楸邨(二十九歳)=「馬酔木」の同人=昭和十年  ](『現代俳句の世界2 水原秋櫻子集』『現代俳句の世界7 石田波郷集』『)現代俳句の世界8 加藤楸邨集』等により作成。)

この波郷の同郷の、波郷の最初期の「師」の「五十崎古郷」についても、次のとおり「古郷先生旧盧」の「先生」という尊称の「前書」を付している。

柿食ふや膝あつきまで南の日(昭和三十六年『酒中花』/「古郷先生旧盧」)

 波郷にとって、「水原秋櫻子」そして「五十崎古郷」の、波郷が、その生涯に亘っての「師(先生)」としているもう一人に、波郷の『鶴の目』(系列第一句集)の「序」を呈している「横光利一」(川端康成と「新感覚派」文学の双璧を為す小説家。「十日会」という門下生との「俳句会」を有し、波郷は、そのメンバーの一人になっている。)が上げられる。。 
 この「横光利一」が、波郷が、この成形手術をする一年前(昭和二十二年十二月三十日)に亡くなっている。その時の、波郷の四句が『惜命』に掲載されている。

   横光利一死す、翌朝の新聞、その訃を伝ふ、四句
寒き手やいよいよ悴むわが生きて (昭和二十二年『惜命』)
新聞なれば遺影小さく冴えたりき (同上)
嘆かへば熱いづるのみ年の暮   (同上)
遠く寒く病弟子われをも黙祷す  (同上)

 この四句目の中七「病弟子われも」の、この「病弟子」の措辞は、この一年後の、波郷の掲出句(「冬鶯われは病弟子胸あつし」)と呼応している
そして、その「冬鶯われは病弟子胸あつし」の句に続いて、この昭和二十三年歳末の句に、次の「横松忌」の句が掲載されている。

横松忌黙契いよいよ頑(かたく)なに (昭和二十三年『惜命』)


(参考一) 「横光忌」周辺

https://kigosai.sub.jp/001/archives/17613

[ 横光忌(よこみつき)( 仲冬)
 十二月三十日。作家横光利一の忌日。菊池寛に認められ、川端康成らと共に新感覚派として活躍した。代表作として『機械』『寝園』など。一九四七年没。](「きごさい歳時記」)

https://fudemaka57.exblog.jp/22949413/

[ 横光忌黙契いよゝ頑に     石田波郷『惜命』
山鳩は松に籠りぬ横光忌      石田波郷『酒中花』
満目の松に病む身ぞ横光忌     石田波郷『酒中花』
※師の齢過ぎし弟子らや横光忌  石田波郷『酒中花以後』
※帯挿しに病みて反る手や横光忌 石田波郷『酒中花以後』
※横光忌訃をききし日も病床に  石田波郷『酒中花以後』
月蝕の障子閉ざしぬ横光忌     石田あき子『 見舞籠』
多磨墓地に独り跼みをり横光忌   石塚友二 『光塵』
横光忌面影褪することあらじ    石塚友二 『光塵』
利一忌のはや七度を徒には経し   石塚友二 『光塵』
横光忌齢の足袋も幾重ね      石塚友二
横光忌齢ばかりが先師踰ゆ     石塚友二
多摩墓地に獨り跼みをり横光忌   石塚友二
立ち坐り且つ立ち坐り横光忌    石塚友二
きびきびと冬の朝日や横光忌    清水基吉
同門の酒の手の落ち横光忌     清水基吉
横光忌墓前に交す合の酒      清水基吉『 寒蕭々』
横光忌末弟子となり父となりぬ   清水基吉 『寒蕭々』
落葉松の雨を見て去る横光忌    堀口星眠『 営巣期』
水の面のひそかなよごれ横光忌   鷲谷七菜子 『天鼓』
チロルより雪の旅信や横光忌    漆畑悦
マロニエの細枝の空や横光忌    米谷静二
横光忌なりし山より雪の王     宇佐美魚目
横光忌枯原低く飛べるもの     山田みづえ『 忘』
片頬にまざと日のあり横光忌    笹倉やよひ
紙ナイフの反り美しき横光忌    伊藤京子
陰々と夕日語らず横光忌      戸田九作
庭のもの燃やす利一忌風もなし   田中午次郎    
※印 =  https://ameblo.jp/roastsparrow/entry-12857005448.html     ]


(参考二) 蕪村の「冬鶯むかし王維が垣根かな冬鶯の句」周辺

https://yahantei.blogspot.com/2007/01/blog-post.html

(再掲)

[ ○ 古庭に鶯啼きぬ日もすがら (『宇都宮歳旦帖』軸句・寛保四年)
○  鶯の粗々がましき初音かな (『明和辛卯春』軸句・明和八年) 
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声 (『夜半楽』軸句・安永六年)
○ 冬鶯むかし王維が垣根哉(『から檜葉』臨終三句の第一句・天明三年)
○ うぐひすや何ごそつかす藪の中(『から檜葉』臨終三句の第二句・天明三年)
○ しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(『から檜葉』臨終三句の絶吟・天明三年)

 蕪村が、蕪村の号をはじめて名乗ったのは、寛保四年(二十九歳)の『宇都宮歳旦帖』の鶯の句であった。そして、蕪村が、名実共に夜半亭俳諧の総帥として夜半亭二世となり、その翌年の明和八年(五十六歳)の『明和辛卯春』に夜半亭と署名したのも、鶯の句であり、そして、安永六年(六十二歳)に、異色の俳詩二編(「春風馬堤曲」・「澱河歌」)とともに、老鶯児と題しての一句も、鶯の句であった。それから六年の後の天明三年(六十八歳)の臨終三句のうちの二句が鶯の句であり、その二句の鶯の句の後に、「初春」との題をおくように命じての「しら梅に」(白むめの)の句が、その絶吟となったのである。その絶吟を後世に伝えたのが、夜半亭三世・高井几董の『から檜葉』であり、その几董の「夜半翁終焉記」には、その臨終三句について、次のように記している。

○此三句を生涯語の限りとし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。(此の三句を生涯の作品の最後として、眠るように臨終を迎え、めでたい往生をとげられたのであった。)

 こうしたものを見ていくときに、これらの鶯は蕪村その人の分身であり、その分身である鶯が、そのエポック、エポックに、蕪村その人の映像として、これらの句に接する者に語りかけてくるように思えるのである。そして、『夜半楽』所収の「老鶯児」と題する鶯の句も、単に、自嘲的自画像(尾形仂著『蕪村の世界』)という理解から、何故か、「老懶(ろうらん)」の「老いていことのもの憂さ」というようなものを語りかけているように思えてならないのである。そして、それは、その前年(安永五年)の「老懐」と題する次の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)

 さらには、その一年前(安永四年)の次の「老懶」の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(『続明烏』・『新虚栗』)  ]


(参考三) 「波郷・楸邨・草田男」の「冬鶯・笹鳴き」の句

https://fudemaka57.exblog.jp/25264460/
https://fudemaka57.exblog.jp/25264460/

※冬鴬われは病弟子胸あつし       石田波郷
木の影も笹鳴も午後人恋し        石田波郷
笹鳴の忿ふくめる一日あり        石田波郷
笹鳴の来しふところ手ほどきけり     石田波郷

いのちあるものなつかしく笹鳴けり    加藤秋邨
笹鳴の鳴く間黙す間時が充つ       加藤楸邨
客去れば笹鳴とわが時間かな       加藤秋邨 『怒濤』
笹鳴や我はひと代を火炎上        加藤秋邨 『まぼろしの鹿』
笹鳴や日の出の何ぞなつかしき      加藤秋邨『 火の記憶』
笹鳴や逢はでかへりし声は誰       加藤秋邨『 火の記憶』
時流れゆく笹鳴と我とにのみ       加藤秋邨
笹鳴が去つて大石動かれず        加藤秋邨
笹鳴が去り雪は雪我は我         加藤秋邨
笹鳴のごとく来てゐき去りにけり     加藤秋邨
笹鳴のたえだえにわが月日かな      加藤秋邨
笹鳴の思ひ出さねば鳴かぬなり      加藤秋邨
笹鳴や全山の馬影を曳く         加藤秋邨
笹鳴や崖の一日音もなく         加藤秋邨
笹鳴や忘れてゐたる舌の先        加藤秋邨
笹鳴や我はひと代を火炎上        加藤秋邨
笹鳴や日の出の何ぞなつかしき      加藤秋邨
笹鳴や日暮のごとき日本海        加藤秋邨
笹鳴や死後への汚れ焚きすてて      加藤秋邨
笹鳴や浄土追はれし磨崖仏        加藤秋邨
笹鳴や海への道のひぐれどき       加藤秋邨
笹鳴や牛乳ひとり沸騰す         加藤秋邨
笹鳴や玻璃に頬あて吾を見る子      加藤秋邨
笹鳴や逢はでかへりし声は訛       加藤秋邨
笹鳴や達谷先生は痔にこもり       加藤秋邨
笹鳴を聴きゐるらしき妻の黙       加藤秋邨
笹鳴を聴く君のほか目に見えず      加藤秋邨
賀状のGanは巌のことか笹鳴ける     加藤秋邨
鳴かずゐる笹鳴の目を感じをり      加藤秋邨

主は復活聖母は老いず笹鳴ける      中村草田男
爪木折る音もありつつ笹鳴ける      中村草田男
笹鳴ちらちら亡母はいつも訪ひ姿     中村草田男
笹鳴や職場に知己ある謂なし       中村草田男


(その十三) 「寒夜脇に肋の切口開くべし」

寒夜脇に肋の切口開くべし.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/117

 季語は「寒夜(冬の夜)」(三冬)。この「肋」は「あばら」の詠みで、切除された「肋骨」(ろっこつ)の、その「胸部」の「切口」を「開ぐらし」という、赤裸々な、手術後の、その病床の、所謂、「境涯俳句」(波卿の「俳句信条」の「俳句は境涯を詠ふものである。境涯とはなにも悲観的情緒の世界や隠遁(いんとん)の道ではない。又哀別離苦の詠嘆でもない。すでにある文学的劇的なものではなくて、日常の現実生活に徹していなくてはならない。」)とする、その一句ということになろう。
句意は、「寒い冬の夜、肺結核の成形手術の、その『肋骨』を切除した、その『肋の脇腹』の『切口』を『開(あ)ける日(「開くべし」)のようである。』


(参考一) 「境涯俳句」再考

https://ooikomon.blogspot.com/2022/02/3.html

[「境涯」は、江戸期には「境界」と書かれ、多くの俳書中に用例がある。(中略)
 虚子は、特別の境涯を持つ人が境涯俳句を詠むことを否定していない。しかし、俳壇の構造が、虚子の答弁をきっかけに「境涯俳句」対「花鳥諷詠」という図式を作ってしまう。(中略)
 昭和十七年、波郷が「鶴」に書いた「俳句は境涯を詠うものである。境涯とは何も悲劇的情緒の世界や隠遁の道ではない。又愛別離苦の詠嘆でもない。すでにある文学的劇的なものではなくて、日常の現実生活に徹していなくてはならない」という一文は、近代境涯俳句の原点とされるようになった。
 波郷の主張は、虚子が特別の人のものと考えた境涯を、万人が持つそれぞれの状況と捉えた点で画期的であった。(中略)
 境涯俳句は、社会が変化し、貧富の差が拡大する時代に繰り返し現れる。芭蕉、一茶、鬼城、波郷の時代はいずれも経済構造が変化し、新たな格差が作られる時代であった。
 そして今、今日の格差社会の中で、また境涯俳句が注目され始めている。
 従来と違うのは、社会の多様性が進行しているということである。障害や性差をはじめあらゆる既成の認識が脱構築されていく中で、従来、境涯と思われなかったものが境涯と認識されていくことも多いと考えられる。文学とは状況認識であり、俳句もまた世界観を基盤に置く。これからの俳人が、何を境涯と考えていくかに注目したい。 ]

(参考二) 「秋桜子・波郷・楸邨・草田男」の「寒夜」の句

おちよろ舟夜寒の潮を漕ぐ灯かも    水原秋櫻子『 帰心』

夜寒も一人眠れぬときは眠らずに    石田波郷
這かなるものばかりなる夜寒かな    石田波郷

ひとり見る夜寒の闇に指を立て     加藤秋邨
泣きつつぞ鉛筆削る吾子夜寒      加藤秋邨
石をもて石に抛つ夜寒星        加藤秋邨
汽車夜寒ねむらで読みし        加藤秋邨「夜明前」

昔のさまに遠吠蜑の里夜寒       中村草田男


(参考三) 「石田波郷と清瀬村(東京療養所南七寮六番室)」周辺

石田波郷 1. 東京療養所南七寮六番室

https://www.city.kiyose.lg.jp/bunkasportskankou/rekishi/shishi/1009191/1009879/1009251.html

石田波郷 2. 胸形変・惜命

https://www.city.kiyose.lg.jp/bunkasportskankou/rekishi/shishi/1009191/1009879/1009394.html

石田波郷 3. 清瀬村

https://www.city.kiyose.lg.jp/bunkasportskankou/rekishi/shishi/1009191/1009879/1009486.html

石田波郷 4. 故郷のごとき療養所

https://www.city.kiyose.lg.jp/bunkasportskankou/rekishi/shishi/1009191/1009879/1009492.htm


(その十四) 「病む六人一寒燈を消すとき来」

病む六人一寒燈を消すとき来.jpg


「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/117

 季語は「寒燈(冬の燈)=寒々とした冬の夜に灯る灯火」(三冬)。句意は、「寒々とした冬の日の、その病棟の消灯の時間、その病室の『一寒燈』の「消すとき」には、同室・同病の『病む六人』は、それぞれ、自分のベッドに戻り、明日の夜明けまで、陰鬱な不安の闇夜と対峙することになる。」
 この波郷の、この「東京療養所南七寮六番室」の、この「病む六人」については、波郷自身、次のように記述している。

https://www.city.kiyose.lgが.jp/bunkasportskankou/rekishi/shishi/1009191/1009879/1009251.html

[ 私の病室には私を入れて六人の患者がゐた。私の隣がT君、ミシン修理業三十歳、俳句をやる。その隣Y君は小学教師二十四歳。反対側の窓際には I 君 二十九歳、株屋さん。その隣S君、元官吏二十三歳、クリスチャン。私と対合せてH君、日野の元醤油屋さん、三十三歳。以上が朝目を覚ますや否や痰がどうの熱がどうの菌がどうのと専ら病気の研究ばかりしてゐる。 (「惜命五句自解」『清瀬村』) ]

 ここに出てくる「私の隣がT君」というのは、上記のアドレスで紹介されている、「俳人・立木青葉郎」を指しているのであろう。そして、これに続き、「六番室ではないけれど、同じ七寮には小説家の福永武彦もいた」と、波郷より五歳年少の「福永武彦」(1918~1979、「小説家・詩人・フランス文学者」)が、同じ「七寮」の別室に入院していて、二人は、その「清瀬村」の仲間内ということになる。

https://www.city.kiyose.lg.jp/bunkasportskankou/rekishi/shishi/1009191/1009879/1009394.html

 上記のアドレスに因ると、この「石田波郷(俳人)・福永武彦(小説家)」がいた、この「清瀬村・七寮」に、波郷の「七寮・七室」と同室し、「石田波郷」(俳人)に心酔し、後に「福永武彦」(小説家)と、同じ道(「小説界」)を歩む、「結城昌治」(1927~1996「小説家・推理作家」)の、次のような記述が紹介されている。

[ 私が入所したころ、波郷さんは二度の手術で肋骨を七本取ったあとでした。あるとき、雑談していたら、ふと波郷さんが「命が惜しいからね……」「もうすこし生きなければ」ともらしました。それを聞いたときの驚きは、いまでも忘れません。より正しくは驚いた自分に気がついて驚いたというべきでしょう。戦時中の”死にたい病”が尾を引いていて、命を軽んずる気持ちが残っていたのです。波郷さんの言葉に目を開かれた思いで、すくなくとも、その瞬間は急に死が恐ろしく感じられたのを憶えています。(結城昌治『死もまた愉し』) ]

 上記に関連して、「ウイキペデア」の「結城昌治」では、次のような紹介記述がある。
 
[ 私は石田波郷の影響で俳句に熱中し、十月の初めベッドが空いたのを幸いに波郷さんと同じ六番室へ移りました。もう明けても暮れても俳句です。波郷を選者とした『松濤(しょうとう)』というガリ版刷りの俳句誌があったほか、波郷さんの提案で七寮だけの七曜会という句会もやっていました。これは俳人波郷が自分を鞭打つためだったと思いますが、寝たきりの患者が多いので回覧式にして、しかも無記名による互選です。もちろん波郷さんの投句もまじっていて、緊張せざるをえない句会でした。— 結城昌治『俳句つれづれ草―昭和私史ノート』(朝日文庫) ]

松濤.jpg

「東京療養所 南七寮六番室」(「石田波郷」)と「昭和25年1月の「松濤」の表紙」
https://www.city.kiyose.lg.jp/bunkasportskankou/rekishi/shishi/1009191/1009879/1009251.html

 さらに、『現代俳句の世界7 石田波郷集(朝日文庫)』の、その「序『故郷のごとき(結城昌治)』」で、次のような一文で、その「結城昌治」の「石田波郷」観を目にすることが出来る。

[ 私(※結城昌治)は自分にふさわしい毒を求めて去った。しかし、俳句の毒を生涯かけて飲みつくしたのが石田波郷ではなかったろうか。すでに二十代のころ「俳句は文学でない」と言い切ったそうだが、それは逆説というより、俳句は文学などという曖昧なものでなはなく、俳句固有の表現形式に対する自負を蔵していたに違いないのである。
  草木瓜(くさぼけ)や故郷のごとき療養所 波郷
 私(※結城昌治)は俳句から離れたあとも御厚誼に甘えていたが、石田波郷その人、あるいは『借命』一巻が故郷のごとき思いである。 ]


(参考一) 「病む六人一寒燈を消すとき来 (石田波郷『惜命』)周辺(その一)

※病む六人一寒燈を消すとき来      石田波郷『惜命』(昭和二十四年)
子がかへり一寒燈の座が満ちぬ      加藤秋邨『 火の記憶』(昭和二十年)
一寒燈主客を照らす片面(かたつら)づつ 中村草田男『萬緑』(昭和十四年)

 石田波郷の『借命』の代表作の一つともされている、この「※病む六人一寒燈を消すとき来 (く)」(昭和二十四年)の、この「一寒燈(いちかんとう・いちかんとふ)」は、その作句年次からすると、「波郷と楸邨」との関係からすると、これは、楸邨の、「子がかへり一寒燈の座が満ちぬ」(昭和二十年)が先ということになる。
 ここで、これらの、波郷と楸邨の「一寒燈」の句は、これらの、戦中・戦後の、その楸邨の「戦中」(「昭和二十年一月八日」の前書)の句、そして、その「戦後」(昭和二十四年元日の「病室に元日の雨の傘をつく(前書「牛山一庭夫人」)」の句に先立って、中村草田男の、次の一句などに由来する「一寒燈」(昭和十四年『萬緑』所収)と解したい。


『定本中村草田男全句集』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1701463/1/77

 一寒燈主客を照らす片面(かたつら)づつ  (中村草田男『萬緑』)

 この草田男の句の、「一寒燈主客を照らす」の,その「主客」の「主」は、「高村光太郎」
(1883~-1956)その人で、その「客」は「中村草田男」ということになる。
 この句には、「十二月三十日はじめて『火の島』一本を携えて同書に題僉を賜りし光太郎先生を訪ふ」との前書がある。これは、昭和十四年(一九三九)十二月三十日のことである。  
 そして、その年の七月一日の、「昭和十四年八月の『俳句研究(山本健吉編集)』に掲載された『新しい俳句の課題』」(その座談会上での山本健吉の命名の『人間探求派=草田男・楸邨・波郷・梵』の四人)」については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahantei14.seesaa.net/article/509168121.html

(再掲)

石田波郷・加藤楸邨・中村草田男・篠原梵.jpg

右から「石田波郷・加藤楸邨・中村草田男・篠原梵」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12463911/1/23

[「昭和十四年八月の『俳句研究(山本健吉編集)』に掲載された「新しい俳句の課題」(その座談会上での山本健吉の命名の「人間探求派=草田男・楸邨・波郷・梵」の四人)

※ [ このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十九歳。波郷は「馬酔木」同人、「鶴」
主宰で二十七歳、楸邨も「馬酔木」同人で三十四歳であった。「寒雷」主宰となったのは翌年のことである。ちなみに山本健吉は三十三歳、篠原梵は三十歳であった。](『人間探求派 草田男・波郷・楸邨(有富光英著)』)

※ [ 人間探求派(にんげんたんきゅうは)とは、俳句において、自己の追求がそのま
ま俳句の追求になるように、自己の内面を生活のうちに詠もうとするもの。
 「俳句研究」1939年8月号(改造社)に掲載された座談会「新しい俳句の課題」は、
当時難解派と呼ばれていた中村草田男、加藤楸邨、篠原梵、石田波郷が参加して行われた。座談会は、同誌編集長・山本健吉の「貴方がたの試みは結局人間の探求といふことになりますね」という発言に、加藤楸邨が「四人共通の傾向をいへば『俳句に於ける人間の探求』といふことになりませうか」と受けて締め括られ、この4名に代表される作品の傾向が人間探求派と呼ばれるようになる。

中村草田男 (1901年(明治34年)7月24日 - 1983年(昭和58年)8月5日)
加藤楸邨 (1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)
篠原梵 (1910年(明治43年)4月15日 - 1975年(昭和50年)10月17日)
石田波郷 (1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日) ](「ウイキペデア」)    ]


(参考二) 「病む六人一寒燈を消すとき来 (石田波郷『惜命』)周辺(その二)

※病む六人一寒燈を消すとき来       石田波郷『惜命』(昭和二十四年)
※子がかへり一寒燈の座が満ちぬ      加藤秋邨『 火の記憶』(昭和二十年)
※一寒燈主客を照らす片面(かたつら)づつ 中村草田男『萬緑』(昭和十四年)
※寒燈やわれ蓬髪の影とつながる      篠原梵『篠原梵句集』(昭和十六年)

 「俳句研究/1939年8月号(改造社)」に掲載された座談会「新しい俳句の課題」で、「人間探求派」とネーミングされた、「中村草田男・加藤楸邨・篠原梵・石田波郷」(年齢順)の四人のうちで、「一寒燈」、そして、「俳句表現」上での「数詞」(「数を表す語」)を、昭和俳壇に俎上させたのは、やはり、この四人のうちでは、下記の例が示すとおり、「中村草田男」ということになろう。

(「中村草田男」の「数詞」の世界)

秋の航一大紺円盤の中     中村草田男『長子』(昭和八年)

※寒燈にひとり寝る塵立ちにけり 同『火の島』(昭和十三年)
※一寒燈主客を照らす片面(かたつら)づつ  同『萬緑』(昭和十四年)

妻二タ夜あらず二タ夜の天の川 同『火の島』(昭和十二年)
朧三日月吾子の夜髪ぞ潤へる  同『火の島』(昭和十三年)
火口一つ四方(よも)の洋より雲の峯 同『火の島』(昭和十三年)
五月なる千五百(ちいほ)産屋の一つなれど 同『火の島』(昭和十二年)
六(むつ)ほどの子が泳ぐゆゑ水輪かな 同『長子』(昭和十年)
七夕(たなばた)や男の髪も漆黒に 同『長子』(昭和十年)
八月も落葉松(からまつ)淡し小会堂(チャペル)  同『火の島』(昭和十一年)
冬濤(なみ)幾重階為す九十九里の間 同『火の島』(昭和十三年)
あたため酒十便十宣甲乙なし 同『長子』(昭和十年)
あたたかき十一月もすみにけり 同『長子』(昭和十年)
鵙鳴くや十九で入りし造化の門 同『来し方行方』(昭和二十年)
詩三千汗くさく薬くさく酒くさし 同『銀河以前』(昭和二十五年)   


(参考三) 「病む六人一寒燈を消すとき来 (石田波郷『惜命』)周辺(その三)

※病む六人一寒燈を消すとき来       石田波郷『惜命』(昭和二十四年)
※子がかへり一寒燈の座が満ちぬ      加藤秋邨『 火の記憶』(昭和二十年)
※一寒燈主客を照らす片面(かたつら)づつ 中村草田男『萬緑』(昭和十四年)
※寒燈やわれ蓬髪の影とつながる      篠原梵『篠原梵句集』(昭和十六年)

 上記の「人間探求派」の「中村草田男・加藤楸邨・篠原梵・石田波郷」(年齢順)の四人のうちで、殊に、「寒燈・燈」を、多用したのは、「中村草田男」(「ホトトギス」の「高浜虚子」の流れ)、「「加藤楸邨・石田波郷」(「馬酔木」の「水原秋桜子」の流れ)ではなく、「篠原梵」(「石楠」の「臼田 亜浪」)なのかも知れない。
 ともすると、「人間探求派」のうちで、「中村草田男(「萬緑」主宰)・加藤楸邨「寒雷」主宰・石田波郷(「鶴」主宰)」の三人がクローズアップされるが、この三人以上に、後に、「中央公論社(編集長・出版部長・社長に就任し、丸の内出版社の社長も兼任した)、「篠原梵」は、この、石田波郷の「病む六人一寒燈を消すとき来 」の、この「一寒燈」 に、大きく関わっているものと解したい。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1128661/1/7

篠原梵句集.jpg

寒き燈にみどり児の眼は埴輪の眼  篠原梵『篠原梵句集 』「子」
寒燈に寝静まりたる扉ならぶ    同「アパートの冬」
寒燈やわれ蓬髪の影とつながる    同「アパートの冬」
燈さむし蒲団の庇してねむる    同「アパートの冬」
燈匿し厦々(かか=家々)さむく巨きくなりぬ 同「防空演習所見」
秋の燈を匿し犇々(ひしひし)家寄れり 同「防空演習所見」
ちまたに燈よみがへり秋の雨うつくし 同「防空演習所見」
裏みたる秋の燈黒き布を透く     同「防空演習所見」
秋の燈を匿ししわが家見ぬ出でぬ   同「防空演習所見」


(参考四) 「病む六人一寒燈を消すとき来 (石田波郷『惜命』)周辺(その四)

※病む六人一寒燈を消すとき来       石田波郷『惜命』(昭和二十四年)
※子がかへり一寒燈の座が満ちぬ      加藤秋邨『 火の記憶』(昭和二十年)
※一寒燈主客を照らす片面(かたつら)づつ 中村草田男『萬緑』(昭和十四年)
※寒燈やわれ蓬髪の影とつながる      篠原梵『篠原梵句集』(昭和十六年)
※※寒燈の一つ一つよ国破れ       西東三鬼『夜の桃』(昭和二十年)
わが汽笛一寒燈を呼びて過ぐ        西東三鬼『今日』(昭和二十五年)

 昭和十四年に「人間探求派」(「難解派」)のネーミングを冠せられた、「中村草田男・加藤楸邨・篠原梵・石田波郷」の、その「一寒燈」周辺を管見してきたが、ここに、もう一人、その当時は、「新興俳句派」(「新興俳句誌=「京大俳句・「走馬燈」・「土上」など)の俳人の一人とされる「西東三鬼」(1900~ 1962)の、次の句は、「一寒燈」周辺の、その象徴的な句と解しても良かろう。

※※寒燈の一つ一つよ国破れ 西東三鬼『夜の桃』(昭和二十年)

 この三鬼の「寒燈」の句は、第二句集『夜の桃』(七洋社・1948年)では、次のとおり収載されている。ここに(下記アドレスの「抜粋」)、「西東三鬼」の傑作句と、そして、例えば、「中村草田男・加藤楸邨・篠原梵・石田波郷」との関連の、その一端が浮き彫りになってくる。

http://yab.o.oo7.jp/sanki.html

[ 國飢ゑたりわれも立ち見る冬の虹
  ※※寒灯の一つ一つよ國敗れ
  雪の町魚の大小血を垂るる
  (昭和二十二年元旦一句)
  ※※降る雪の薄ら明りに夜の旗
  ※※中年や獨語おどろく冬の坂
  美しき寒夜の影を別ちけり
  春雷の下に氷塊來て並ぶ
  曇日の毛蟲が道を横ぎると
  大佛殿いでて櫻にあたたまる
  志賀直哉あゆみし道の蛸牛
  ※※薔薇を剪り刺とげをののしる誕生日
  梅雨ちかき奈良の佛の中に寢る
  卓上にけしは實となる夜の顏
  かくし子の父や蚊の聲來り去る
  梅雨ふかしいづれ吾妹と呼び難く
  梅雨の日のただよひありぬ油坂
  塔中や額に靑き雨落つる
  靑き奈良の佛に辿りつきにけり
  梅の實の夜は月夜となりにけり
  ※※戀猫と語る女は憎むべし
  人の影わらひ動けり梅雨の家
  顏みつつ梅雨の鏡の中通る
  ※※おそるべき君等の乳房夏來きたる
  汗し食ふパン有難し糞の如し
女の手に空蟬くだけゆきにけり
  ※※中年や遠くみのれる夜の桃
  老年の口笛涼し靑三日月
  顏近く蟬とび立てり亡母はは戀し
  穀象の群を天より見るごとく
  穀象を九天高く手の上に
  數百と數ふ穀象くらがりへ
  穀象に大小ありてああ急ぐ
  穀象の逃ぐる板の間むずがゆし
  穀象の一匹だにもふりむかず
  穀象と生れしものを見つつ愛す
  晝三日月蜥蜴もんどり打つて無し
  夏荒れし菜圃女を待つとなく
  ※※中年やよろめき出づる晝寢覺
  ※※浮浪兒のみな遠き眼に夏の船
  女立たせてゆまるや赤き旱ヒデリ星
  朝の飢ラヂオの琴の絶えしより
  飢ゑてみな親しや野分遠くより
  夜の秋缺伸のあとのまた暗く
  ※※狂院をめぐりて暗き盆踊
  秋天をゆきにし鳥の跡のこる
  男・女長良夜の水をとび越えし
  燒跡に秋耕の顏みなおなじ
  ※※秋風や一本の燒-けし樹の遠さ
  秋の暮遠きところにピアノ彈く
  秋の暮彼小さし我小さからむ
  靑柿の堅さ女の手にすわる
  ※※みな大き袋を負へり雁渡る
  秋耕のおのれの影を掘起す       ](「西東三鬼『夜の桃』抜粋)

(参考五)
「病む六人一寒燈を消すとき来 (石田波郷『惜命』)周辺(その五)

※病む六(ろく)人一寒燈を消すとき来  石田波郷『惜命』(昭和二十四年)
秋の航一大紺円盤の中        中村草田男『長子』(昭和八年)

https://miho.opera-noel.net/archives/258

[ 秋の航一大紺円盤の中  中村草田男『長子』(昭和八年)

揚句は、昭和八年八月、虚子一行の北海道旅行に同道したとき、初めての青函連絡船に強い印象を受けての作で、翌九年の「ホトトギス」十二月号で巻頭になった。

 次の短い文が、草田男の第一句集『長子』への序である。

「印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは
  秋の航一大紺円盤の中  草田男
 という句でありました              虚子」
 
 虚子の序文は、あまりの簡潔さゆえに真意を計りかねたことでも有名であるが草田男は、「虚子先生に暗示豊かな一文をいただき、篤き師恩に浴するの幸福を今更身に沁みて感ずる」と跋で感謝した。
 虚子は草田男に、ホトトギスに収まりきれない詩人の魂を見てとってをり、草田男もまた、見ていてくれる虚子の心を感じとっていた。
 
 この第一句集の『長子』その跋で草田男は、「所謂『昨日の伝統』に眠れる者でもなければ、所謂『今日の新興』に乱るゝ者でもない」と述べ、さらに草田男自身の「芸と文学の同時達成」という俳句理念を述べて、自らの俳句的立場を明確にしている。すでにその当時、草田男はホトトギス以外でも、俳句雑誌「俳句研究」などで人気作家の一人となっていた。

 昭和十四年八月号掲載の「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」を契機として、草田男は、楸邨、波郷らとともに人間探求派といわれるようになった。また、難解派とも呼ばれるようになった。難解といわれる理由の一つは草田男俳句の特長である、内から脈動する生命のリズム、内在律からの破調である。俳句の「芸」と、時代の中の生活者としての「文学」を融合する戦いが難解さを生んだ。
 虚子は、草田男俳句を「生活や心の苦悩を俳句にすることも俳句の近代化というのであろう」とし、俳句の道は一つではなく百川もあると述べた。
 
 草田男は、難解な表現の破調句でも、虚子を信じて、全身で俳句をぶつけた。
「其の句を作った時の自分の感じに一種の手応えがあれば、即ち真の実感から生まれた句であったらきっと先生に判って頂ける。」

 中村草田男(なかむらくさたお)は、東大独文科に入学して西欧の文学に親しみ、ニーチェ、ヘルダーリン、チェーホフ、ドストエフスキー等の作家たちに興味を持ち、独特な感性と強烈な思想に影響をうけた。この青春時代の永い思想彷徨の末にしばしば神経衰弱にかかった草田男は、行き詰まった精神生活の打開の道として俳句を選んだ。そして、一旦休学した後国文科に転科した。草田男は叔母の紹介で虚子に会い、「東大俳句会」「ホトトギス」で虚子に師事はじめたのは二十九歳の東大生で、昭和四年のことである。昭和二十一年にホトトギスを離れて「萬緑」を創刊主宰する。
 草田男はホトトギスを離れた後も、正月二日には必ず、年賀の挨拶に虚子を訪れていた。」


(その十五) 「綿虫やそこは屍の出でゆく門」

綿虫やそこは屍の出でゆく門.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/117

 季語は「綿虫」(初冬)。「屍」(詠み=カバネ・シカバネ・シ。)=(意味=死んで、まだ葬らないからだ。しかばね。むくろ。死骸(しがい)。)で、『現代俳句の世界7 石田波郷集』では、「かばね」とルビが振ってある。
  句意は、波郷自身の「自註自解」がある。
「 雪催いの雲の下に、療養所の裏の檜葉の生垣が長々と続いている。それに一基の門がある。霊柩車の出入りできるだけに桧葉が無いといった程度の粗末な門で、雲より仄かに白い綿虫が力なく舞ってゐるだけで人影もない。 」(『清瀬村』所収「惜命五句自解」)
 なお、『現代俳句の世界7 石田波郷集』所収「惜命」では、「屍」は、「かばね」・「し」」とルビが振られている句があり、さらに、「しかばね」を意識してものと解せられる句も見受けられる。

  綿虫やそこは屍(かばね)の出でゆく門
  朝雲や寒林すでに屍(し)が通り
  屍(しかばね)の透きて通れる楢黄ばむ(『俳句つれづれ草(結城昌治著)』の詠み)
  雪はしづかにゆたかにはやし屍室(「はやし」と「しかばねしつ」と掛けての用例?)

 これらのことに関して、『俳句つれづれ草‥‥昭和私史ノート(結城昌治著)』では、「戦時中ラジオなどから終始聞かされていた歌」の「海ゆかば」(詞=「大伴家持」・曲=「信時潔」)に関係しているのではないかとの記述をしている。

(参考一) 「海ゆかば」(詞=「大伴家持」・曲=「信時潔」)周辺

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%B0

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 
山行かば 草生(む)す屍(かばね)
大君の 辺(へ)にこそ死なめ 
顧(かへり)見は せじ
(「長閑(のど)には死なじ」)


(参考二)「綿虫やそこは屍(かばね)の出でゆく門」周辺

https://www.city.kiyose.lg.jp/siseijouhou/kouhou/shishi/1001971/1001976.html

[ 石田波郷(いしだ はきょう)は、昭和を代表する俳人です。そう。あの五・七・五の俳句一本で身を立てた俳句のプロでした。
 大正2(1913)年、愛媛県の松山で生まれ、旧制中学卒業後上京、俳誌『馬酔木(あしび)』の編集に携わります。結婚し、家族と暮らした地が江東区砂町でした。従軍中に結核を発症。送還され一時軽快したものの、戦後再発。療養の日々を清瀬の国立東京療養所(現・独立行政法人国立病院機構東京病院)で過ごしました。
 最初の入院は、昭和23(1948)年5月から25(1950)年2月まで。外科の宮本忍医師の本を読んでこの先生の治療を受けようと東京療養所入所を決意したのでした。波郷は比較的早く入所できましたが、当時、結核療養所の病床数より入所希望の患者数の方がずっと多く、入所を待っている間に症状が悪化して、やっと入所できても治癒に向かわず命を落とす人も少なくありませんでした。

  綿虫やそこは屍(かばね)の出でゆく門

 これは、石田波郷『惜命(しゃくみょう)』の「屍の眺め」に収められた一句です。入所時はみな正門から入りますが、亡くなると霊安室に近い専用の門から療養所を出ることになります。林の中の小径を霊安室へと亡骸が運ばれていく。それは、珍しい光景ではありませんでした。
 当時、結核は死亡原因の第1位。不治の病といわれていましたから、自分はいつどうなるか、生と死を見つめる時間が流れていたといえるでしょう。こうした療養の日々に詠まれた句が、句集『惜命』に収められています。
 もちろん、亡くなる方ばかりではなく、快方に向かい、病室から外気舎に移り、畑作業などの作業療法を経て、晴れて正門から退所していく人もいました。
 療養所内では患者仲間の交流もあり、俳句の会もありました。東京療養所には『松濤(しょうとう)』というガリ版刷りの俳句誌があり、波郷は入所中の昭和24(1949)年から退所後も27(1952)年春まで選句を担当しました。
 波郷の病室は「南七寮六番室」でしたが、同じ七寮の患者だけの句会「七曜会」は、波郷の提案で始まったといいます。寝たきりの患者が多いので、回覧式にして無記名で互選する句会でした。
 療養所で波郷に出会い、影響を受けて俳句を作り始めた結城昌治(ゆうき しょうじ)に『死もまた愉(たの)し』という著作があります。このなかに、波郷のことが出てきます。少し長いのですが引用してみましょう。

「 「私が入所したころ、波郷さんは二度の手術で肋骨を七本取ったあとでした。あるとき、雑談していたら、ふと波郷さんが「命が惜しいからね……」「もう少し生きなければ」ともらしました。それを聞いたときの驚きは、いまでも忘れません。より正しくは驚いた自分に気がついて驚いたというべきでしょう。戦時中の“死にたい病”が尾を引いていて、命を軽んずる気持ちが残っていたのです。波郷さんの言葉に目を開かれた思いで、すくなくとも、その瞬間は急に死が怖ろしく感じられたのを憶えています。」(結城昌治『死もまた愉し』講談社 2001)

 最初の入院中に、波郷は二度にわたる胸郭成形術、続いて肋膜外合成樹脂球充填術、という計3回の手術をうけています。昭和25(1950)年のお正月を、波郷は外泊許可をもらって砂町の家で迎えました。まだ北口だけだった清瀬駅から電車に乗り、焦土の砂町へ。
家族と楽しく数日過ごしたものの、療養所に戻り「自分のベッドにふかふかともぐりこんで、開放した窓外の冬木の群を眺めたとき、「こここそ、わが住むべき所だ」と、しみじみ感じた」(石田波郷『清瀬村』四季社 1952)というのですから、いかにも清瀬は波郷の心の故郷にちがいありません。同年2月、退所。自宅で療養しながら仕事をすることにして、砂町へ戻ります。この年11月、『惜命』刊行。
 その後、清瀬に関連する仕事だけでも、昭和27(1952)年には随筆集『清瀬村』を、30(1955)年には『定稿惜命』を刊行、32(1957)年には清瀬中学校校歌を作詞しています。
 昭和38(1963)年、最初の入院時の手術で入れた合成樹脂球による炎症を起こし、樹脂球摘出のため入院。前回と同じ病院ですが、このときの病院名は「国立療養所東京病院」となっていました。前の年、元・国立東京療養所は、現在波郷の句碑がたてられている場所にあった元・国立療養所清瀬病院(開設時は東京府立清瀬病院)と統合され、新しい名前になっていたのです。久しぶりに清瀬に戻った波郷の驚きは、14~5年前に歩いた野火止の川のほとりが住宅地になっていたことでした。同年退院し小康状態を保つものの、昭和40(1965)年以降、肺炎、呼吸困難、気管支炎により入退院を繰り返し、44(1969)年11月21日東京病院にて逝去。
 死の翌年刊行された『酒中花(しゅちゅうか)以後』に次のような句が収められています。

   今生は病む生なりき烏頭(とりかぶと)

 波郷の生涯は結核とともにあり、清瀬は惜命の闘いの地でありました。 ](市史編さん草子「市史で候」 二十の巻 「石田波郷と清瀬」)


(参考三)「『石田波郷全集』全10巻・別巻1巻」所収「第2巻‥抜粋『惜命』目次」 周辺

http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-151.html

惜命‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥69  

秋臥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥71 → (昭和二十二年、三十五歳)
冬日射‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥72
横光利一死‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥75

墓の眺め‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥77 → (昭和二十三年、三十六歳)
春へ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥78
後雁‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥80
遠母来‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥83
薄暑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥84
療養所‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥86
羸痩‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥88
凡に見ず‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥92
肋あはれ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥94
成形‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥96
二次成形告知‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 101
二次成形その後‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 102
冬鶯‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 106
送迎‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 109
ベトレヘムの鐘‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 111

※屍の眺め‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 114 → (昭和二十四年、三十七歳)
雪‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 123
雪ふたゝび‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 124
早春‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 125
遺残空洞‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 128
プロンベ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 131
予量‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 134
憂患‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 137
梅雨‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 140
動悸‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 146
荘厳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 148
晩夏光‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 150
癩園の籬‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 154
台風過‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 156
露の楽‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 159
霧雫‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 161
捨菊‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 163
接吻‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 166
冬日楽園‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 168
降誕祭過‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 173

家長七日‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 174 → (昭和二十五年、三十八歳)
水仙花‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 176


(その十六) 「白き手の病者ばかりの落葉焚」

白き手の病者ばかりの落葉焚.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/117

 季語は「落葉焚(き)」(三冬)。句意は、「手術後、屋外に出ることを許され、試歩道の雑木林を散策していると、折から、落葉炊きをして、暖を取っている病者は、皆、病み上がりの白き手の人ばかりである。」
 この句は、例えば、下記の三句のように、連作の一句として、殊に、「※※綿虫やそこは屍(かばね)の出でゆく門」の、その雑木林の中にある「霊安室=屍室」、その「霊安室=屍室」から霊柩車が出て行く「裏門」(桧葉の生垣の、その空間にある粗末な門)などと関連で鑑賞すると、この句意は、さらに明瞭になって行く。 

※病む六人一寒燈を消すとき来  (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』14)」)
※※綿虫やそこは屍(かばね)の出でゆく門 (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』15)」)
※白き手の病者ばかりの落葉焚  (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』16)」)

(参考一) 「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)の、「『昭和二十四年、波郷・三十七歳)』の句」

※病む六人一寒燈を消すとき来  (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』14)」)
※※綿虫やそこは屍(かばね)の出でゆく門 (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』15)」)
※白き手の病者ばかりの落葉焚  (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』16)」)

※冬日低し吾と子の間妻急がん (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』17)」)
※妻恋へり裸木に星咲き出でて (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』18)」)
※頂は見えぬ赤松冬日沁みる (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』19)」)
※牡蠣食へり重たき肩を起しては (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』20)」)
※※曇天と古草の間屍(かばね)行く (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』21)」)
※※雪はしづかにゆたかにはやし屍室 (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』22)」)
※雪後来し子の柔(にこ)髪のかなしさよ (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』23)」)
※梅も一枝死者の仰臥の正しさよ (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』24)」)
※三月風胸の火吹かれ打臥すも (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』25)」)
※春雷の熄みし口洞閉づるかな (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』26)」)
※※春疾風屍(かばね)敢て出でゆくも (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』27)」)
※※屍(し)を運ぶ春丸顔の看護婦等 (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』28))   
※雪柳ふぶくごとくに今や咳く (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』29)」)
※惜しみなく女患者に蝌蚪頒つ (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』30)」)
※蟻地獄病者の影をもて蔽ふ (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』31)」)
※梅雨仄か命死ぬ歌頬を熱す (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』32)」)
※灯るごと梅雨の郭公鳴き出だす (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』33)」)
※日盛りのシヤワー痩躯を荘厳す (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』34)」)
※業苦呼起す未明の風鈴は (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』35)」)
※野分あと口のゆるびて睡りをり (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』36)」)
※病者より痩せしかぐろき小鰺売り (「胸形變板画巻(『惜命板画柵』37)」)

(参考二) 『惜命』所収の、「『昭和二十四年、波郷・三十七歳)』の句」(抜粋)

枯木道死なざりし影徐に曳く『惜命』(昭和二十四年)(前書「手術後始めて屋外に出づ」)
七百の患者等にけふ雪降るや 『惜命』(昭和二十四年)
清瀬村医療区に鐘雪降りだす 『惜命』(昭和二十四年)
※※乙女の声して寒林を屍(かばね)行く 『惜命』(昭和二十四年) 
※※寒禽を屍(かばね)の顔を仰ぎゆく  『惜命』(昭和二十四年)
※※寒林は火焚けり屍(かばね)行きし後 『惜命』(昭和二十四年)
※※朝雲や寒林すでに屍(し)が通り   『惜命』(昭和二十四年)
※※蟇(ひき)交(つる)む岸を屍の通りをり『惜命』(昭和二十四年)

(参考三)「石田波郷の『落葉・落葉焚』周辺

落葉焚き.jpg
「落葉焚き」
https://tsukinami.exblog.jp/12715166/

[ 落葉焚きゐてさざなみを感じをり  石原八束
さざなみとは、意外です。山本健吉さんが、こんなふうに鑑賞しておられます。
<三好達治に親炙(しんしゃ)した氏の句は、どこかに三好的な詩心を感じさせる。どこと指して言えるわけではないが、この落葉焚きの情景に「さざなみ」を持ってきたところなど、これまでの俳句になかった詩心である。落葉を焚きながら、そこに空気の波動のようなものが生れている。>
八束(やつか)さんは大正八年山梨県生まれ、平成十年没。俳誌『雲母』で飯田龍太さんと並び称され、のちに『秋』を主宰されました。ちなみに、父の石原舟月さんも、『雲母』で蛇笏の教えを受けた俳人でした。 ]

https://fudemaka57.exblog.jp/26380146/#goog_rewarded
(「落葉焚」・抜粋 )

落葉焚いて人無き寺の日和かな     正岡子規『 落葉』
落葉焚く烟の細し卵塔場        正岡子規 『落葉』
落葉焚禽の古巣も焚くけむり      水原秋櫻子『 殉教』
落葉焚神楽の國の青けむり       百合山羽公 『樂土』
落葉焚き蔭の寸土を温むる       石塚友二 『方寸虚実』
落葉焚く小学生に礼返し        石川桂郎『 四温』
落葉焚黙してをればなほたのし     及川貞 『榧の實』
落葉焚まだ生き足りず食ひ足りず    藤田湘子『 神楽』
落葉焚くばかりに落葉もられある    上村占魚 『鮎』
落葉焚けば燃え琴弾けば鳴るなれど   中村草田男
落葉焚く煙を容れて天碧し       山口誓子
落葉焚き文殻を焼き年送る       山口青邨
落葉焚く山の方へと上りけり      山口青邨
落葉焚く常寂光寺ひつそりと      山口青邨
落葉焚く煙教会のうしろより      山口青邨
落葉焚く倭以来の煙立て        平畑静塔
落葉焚き立てば明るき夕ベかな     三橋敏雄
落葉焚く白きけむりや霧の中      三橋敏雄

https://fudemaka57.exblog.jp/26380219/

(「石田波郷・『落葉』(抜粋) )

落葉寒人を忘ぜず町行けば      石田波郷『鶴の目』
ニコライの鐘の愉しき落葉かな     同『雨覆』(前書「戦終りければ」)
空也忌の虚空を落葉ただよひぬ     石田波郷
新聞紙値上りぬ落葉俄かなり      同
旅したしとも思はずなりぬ落葉ふる    同
落窪は落葉溜めわれは静臥せり      同
半跏して病も古りぬ落葉ふる       同
落葉の嵩病室よりの楽遍し        同
落葉して遠き歩行者音もなし       同
落葉かきしところ歩けり落葉掻      同
病む窓の落葉色して石鼎忌        同
尾長らと落葉踏みなどしてみたし     同

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