日曜日, 11月 08, 2026

「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画)管見(その一)~(その五)

 「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画)管見(その一)

(その一) 「序」と「栗咲く香血を喀く前もその後も」


石田浪郷・胸形変板画巻.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/112

「序」
 
 俳人・石田浪郷は肺病のため昭和二十三年から二十四年にかけて埼玉県清瀬村の東京療養所に入院し、三度に及ぶ成形手術で肋骨を六本、切除した。その闘病生活を詠った句の中より一九六句を抜粋して『胸形変』を、そののち全句をまとめて句集『惜命』を刊行した。この作品は、当時の俳壇から生命の尊さと力強さをたたえたものとして注目された。棟方は浪郷のこの句々に胸を打たれ、昭和二十六年に三十六句を選び、「胸形變板画巻」を制作した。これはのちに「惜命板画柵」と改題した。
( https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/112  )

(その一) 「栗咲く香血を喀く前もその後も」

波郷一.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/113

 季語は「栗咲く(栗の花)」(仲夏)。

[ 栗の花(くりのはな)仲夏
【子季語】 花栗、栗咲く
【解説】 ブナ科の落葉高木。雌、雄同株で長い雄花の花穂の下に短い雌花 がつく。雌花は受粉すると栗のイガになる。梅雨どきに木を覆う ように淡黄白色の花穂が垂れ下がり独特の青臭い匂いを放つ。
【科学的見解】 栗(クリ)は、北海道西部から九州の丘陵地や山地に生育している。クリの花は、虫媒花であるため、独特の匂いを放つことでハエやアブなどの昆虫を惹きつけ、効率的な受粉を行っている。クリは、日本原産の果樹であり、縄文・弥生時代の頃から食用もしくは建材として利用されてきた。クリの仲間としては、外国原産のシナグリやヨーロッパグリなどが挙げられる。(藤吉正明記)
【例句】
世の人の見つけぬ花や軒の栗  芭蕉「奥の細道」
逗留の窓に落つるや栗の花   去来「続有磯海」
闘ひし牛とりこめぬ栗の花   河東碧梧桐「碧梧桐句集」
母屋から運ぶ夕餉や栗の花   杉田久女「杉田久女句集」
栗の花紙縒の如し雨雫     杉田久女「杉田久女句集」
門口や夕日に見ゆる栗の花   松瀬青々「妻木」
むせかへる花栗の香を蝶くぐる 前田普羅「飛騨袖」
栗の穂のおのおの垂れて月明り 長谷川素逝「暦日」
花栗のちからかぎりに夜もにほふ 飯田龍太「百戸の谿」 ](「きごさい歳時記」)

句意は、「梅雨時の栗の花の、あの青臭い匂いが病棟を覆っている。肺結核で、喀血する前
も、その後も、その匂いは止むことがない。」 中七の「血を喀く前も」の、「字余り」の「も」と、下五の「その後も」の、この「も」のリフレインが、この句のポイントであろう。

(参考)

https://miho.opera-noel.net/archives/4319

[ 栗咲く香血を喀く前もその後も  石田波郷 『秀句350選 香』渡辺恭子編
 (くりさくか ちをはくまえも そのあとも) いしだ・はきょう

 栗の香の咲く梅雨どきは、結核患者には一番嫌な地獄を思わす。この日も容態が思わしくない。病巣から流れる栗の花の独特の青臭い匂いが、血を喀く前の胸の突き上る不快感に拍車をかける。苦しい喀血がやっと止まった疲労の激しい身心に、またもや栗の花が容赦なく匂ってくる。「喀く前もその後も」のピンと張ったリズム感の冴えが、生の深淵をのぞかせ、栗の花の重い香が、息苦しさの背景としてよく働いている。
 
 私の母は、終戦直後に父とともに東京に住むようになった。父は新聞記者の仕事に戻ったということだが、母も税理士助手として働きはじめた。娘であった私の面倒と家事は祖母が一手に引き受けていた。私は小学4年生。結核は伝染る病気なので、長いことお見舞いにも行けなかったが、退院直前に、父は病院に連れていってくれた。
 
 病室に入るや、母が私を見た途端いきなり泣き出した。本当は逢いたくてたまらなかった母なのに、一年も会えずにいた私は、素直になれなかっのだろう。しかも母の方が先に泣いてしまった。
 「もう帰ろう・・!」と、私は父の手をひっぱった。
 その夜からずっと、母が退院してからもずっと、私は祖母の布団にもぐりこんで寝るようになった。
 
 母が退院した初夏の栗の花の咲く頃になると、母に素直になれなかった自分の心が栗の花の独特な匂いとともに蘇ってくる。 ](石田波郷の「栗の花」の句 : Miho Haiku Note : 「抜粋」)


(その二) 「優曇華やきのふの如き熱の中」

波郷二.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/113

 季語は、「優曇華」(晩夏)。

[ 優曇華(うどんげ)晩夏
【解説】 草木の枝や天井、壁、柱などについたくさかげろうの卵で、約一センチ半の白い糸状の先端に丸い玉がついたもの。花のように見える。もともとは、三千年に一度開花するという架空の植物のことで、吉兆または凶兆とされた。
【例句】
優曇華や昨日の如き熱の中   石田波郷「惜命」  ](「きごさい歳時記」)

(参考)

https://0p2nirt8qpfr.blog.fc2.com/blog-entry-753.html

優曇華.jpg

[ これは植物の花ではなく、クサカゲロウの卵です。カミソリ堤防のクサカゲロウさんは、こんな昆虫です。(中「省略」)

源氏物語「若紫」から・・・

優曇華二.png

[うとむ花(華)の はな(花)まちえたる 心ちして
み山 さくら(桜)に め(目)こそ うつらね ときこえ
給へば ほゝゑみて ときありて ひとたび
ひらくなるは かんなるものを との給はひ
しり 御かはらけ給りて
 おく山・・・

三千年に一度咲くという、
優曇華の花(光源氏を指す)の咲くのに、
巡り逢ったような気がして、
深山の桜には目も移りません。   ](「伊勢物語と仁勢物語-3」抜粋)

句意は、「三千年に一度咲くという『優曇華』が、熱に浮かされ、今日また、昨日の如き、病床の、熱の中の、吾の脳眼前に、あらわれてくる。」 この「優曇華」の季語は、石田浪郷の独擅場であろう。


(その三) 「蝉かなしベッド縋る子を見れば」

波郷三.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/114

 季語は「蝉」(晩夏)。句意は、「蝉が鳴いている。病気見舞いに来た幼き児が、吾が臥しているベッドに縋るようにして吾を看ていると、蝉の声は、吾の胸中の悲しい声に聴こえてくる。」

(参考一)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/1804

[ 蝉(せみ) 晩夏
【子季語】初蝉、蝉時雨、朝蝉、夕蝉、夜蝉、油蝉、みんみん蝉、熊蝉、蝉捕り、深山蝉
【関連季語】松蝉、春蝉、法師蝉、蜩、秋の蝉、空蝉、蝉生る
【解説】 夏、樹木などにへばりついてやかましく鳴声を立てる虫。多くの蝉がいっせいに鳴く騒がしさを時雨にたとえて蝉時雨という。
【来歴】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。
【文学での言及】
石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京師(みやこ)し思ほゆ 大石蓑麿『万葉集』
【実証的見解】
半翅目セミ科に分類される昆虫の総称。樹皮の中で孵化した後、幼虫は地中で三年から十年ほど過ごして蛹となり、その後地表に出て成虫となる。地表で生活する成虫期は一から三週間程度。雄の成虫は雌を呼ぶなどのため、腹腔内を共鳴させて鳴く。鳴く時期や時間、所場は蝉の種類によって異なる。本州で一番早く出る蝉は、松蝉で春蝉とも呼ばれる。六月下旬にはにいにい蝉が鳴き始める。油蝉や熊蝉が鳴くのは梅雨明けのころである。
【例句】
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声   芭蕉「猿蓑」
閑さや岩にしみ入る蝉の声      芭蕉「奥の細道」
いでや我よきぬのきたり蝉衣     芭蕉「あつめ句」
撞鐘もひゞくやうなり蝉の声     芭蕉「笈日記」
蝉の音をこぼす梢のあらしかな    支孝「梟日記」
耳底に蝉はまだ啼く枕かな      蓼太「蓼太句集二編」
母と住む木陰の里や夜の蝉      素郷「発句題叢」
人病むやひたと来て鳴く壁の蝉    高浜虚子「五百句」
蝉涼し絵馬の天人身を横に      松本たかし「野守」
蟬山に墓舁ぎ入るえいほうと     森澄雄「鯉素」
幾万の蝉死に絶えて風の音      長谷川櫂「虚空」   ](「きごさい歳時記」)

(参考二)

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/semi.htm#ku

[ やがて死ぬけしきは見えず蝉の声  (真蹟句切/猿蓑/陸奥衛/芭蕉句集/)

元禄3年夏。幻住庵で秋之坊に示した句。前詞に「無常迅速」とあるとおりこの頃芭蕉は佛頂上人の影響か仏教への傾斜、殊に乞食僧への共感が強い。
 (「画像」など略)

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
 地上に現れてからは1週間の命といわれている蝉であるが、幻住庵でこの勢いの良い鳴き声を聞いていると、とてもそんなはかなさは伝わってこない。しかし、それこそがまさに「無常」というものなのであろう。 
 (「画像」など略)

 なお、他の句集『卯辰集』などには「やがて死ぬけしきも見えず蝉の声」とあって、死を前提とした「無常」さが強調されるが、俳諧としてはやはり「は」がよい。 ](「芭蕉DB」)

(補記)

 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声   芭蕉「猿蓑」
 やがて死ぬけしきも見えず蝉の声   芭蕉「卯辰集」
 栗咲く香血を喀く前もその後も  石田波郷「『胸形變板画巻』一」
 蝉かなしベッド縋る子を見れば  石田波郷「『胸形變板画巻』三」

 石田波郷の「蝉かなしベッド縋る子を見れば」は、「蝉も」、そして、「吾も」の、芭蕉の句ですると、「やがて死ぬけしきも見えず蝉の声」の「けしきも」の「は」では無く、「も」の世界のものであろう。


(その四) 「金の芒はるかなる母の禱りをり」

石田波郷四.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/114

 季語は、「芒(すすき)」(三秋)。句意は、「黄金色の芒が、病床の窓辺の、遥かに、遠く一面に風に靡いている。手術日が近い。遥かに遠い、生まれ故郷の、愛媛・松山の母も、その手術の成功を、祈っているに違いない、この遥かなる金色の芒の彼方に、遠母の、その祈りの姿が浮かび上がてくる。」

(参考一)

[ 芒(すすき)三秋
【子季語】 薄、一叢薄、糸薄、一本薄、鬼薄、芒原、まそほの薄、真赭の糸、むら薄 、鷹の羽薄、はた薄、薄の糸、薄野、乱れ草、袖波草、露曾草、頻浪草、縞薄【解説】
イネ科の多年草。月見のおそなえとして秋の代表的な植物。秋の七草のひとつでもある。若い穂はしっとりとして油に濡れたよう。箱根の仙石原などで銀色の穂がいっせいになびくさまは壮観である。
【科学的見解】 芒(ススキ)は、イネ科ススキ属の植物であり、日本の在来種として全国的に山地から平地までの日当たりの良い場所に生える。草丈は、二メートル程になり、八月から十月頃に開花する。近縁種に荻(オギ)が存在するが、ススキが乾燥地に生えるのに対して、オギは水辺に生育している。(藤吉正明記)
【例句】
糸薄蛇にまかれてねまりけり    芭蕉「句解参考」
何ごともまねき果たるすゝき哉   芭蕉「続深川集」
猪追ふや芒を走る夜の声      一茶「句帖」
行く秋の四五日弱るすすきかな   丈草「猿蓑」
一雨のしめり渡らぬ薄かな     支考「西の雲」
山は暮て野は黄昏の薄哉      蕪村「蕪村句集」
夕闇を静まりかへるすすきかな   暁台「暁台句集」
この道の富士になり行く芒かな   河東碧梧桐「碧梧桐句集」
取り留むる命も細き薄かな     夏目漱石「漱石全集」
ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ 高浜虚子「贈答句集」
薄きるに出かけの月の大きさよ     松瀬青々「松苗」
生ふるまゝ芒の庭となし置きぬ     松本たかし「石魂」
金の芒はるかなる母の禱りをり     石田波郷「惜命」
草枕こよひ芒を枕かな         長谷川櫂「初雁」
日の匂ひして生けらるるすすきかな    高田正子「花実」 ](「きごさい歳時記」)

(補記)

上記の「芒」の例句で、面白いのは、「元禄時代」の「芭蕉」と「明治・大正・昭和時代」の「虚子」の、次の二句であろう。

糸薄蛇にまかれてねまりけり      芭蕉「句解参考」
ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ 高浜虚子「贈答句集」

 この高浜虚子の句については、下記のアドレスで、次のとおり紹介されている。

https://zuihitsuhissha.exblog.jp/33343877/

[ ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ 一九〇八(明治41)年 
漢字をあてると、「吾輩の戒名もなき芒かな」となる。九月、漱石の猫の死に際して送った電文そのままの句である。「猫」の書き出し「吾輩は猫である。名前はまだない」を踏まえている。この猫は漱石を世に出してくれた猫だったが、ついに名前を与えられずに終った。むろん戒名もなかったし葬式もなく、庭の隅に「猫の墓」とだけだった。虚子が猫になり替わって言っている。実に上手く気の効いた愉快な句だ。
大学予備門(のちの一高)の同級生だった子規と漱石は親友になった。南方熊楠も同級だったが変わり者のこの天才は授業にも出て来なかったのか、二人の間では話題にならぬうちに退学している。子規と漱石はときどき俳句を作っていたが、熱心になったのは子規が日清戦争に従軍記者となって帰りの船中で喀血し病を養っていた時、漱石が松山の自分の下宿に呼び寄せて生活を共にしたのが契機だった。子規が階下で連日俳句会を開いていて、それに参加して漱石は俳句にのめり込み、子規が東京に去ってからも手紙に句を書き連ね批評を乞うようになった。子規は訪れてくる虚子にそれを見せ、虚子の選評を受けることもあり、交友するようになったことはすでに述べた。
漱石は翌一九〇〇(明治三十三)年秋から二年間のイギリス留学を命じられ、ロンドンに留学する。翌々年の十一月、虚子からの手紙で子規の死去を知り、返信に追悼の五句を記している。
帰国後の漱石は訪れる友人も少なく、虚子と熊本高時代の教え子寺田寅彦くらいだった。極度の神経衰弱で悩んでいたが、気が紛れるだろうからと虚子が文章を書くことを勧めて短編が生まれ、やがて第一回目の「猫」を書き、虚子はこれを「ホトトギス」に掲載した。題名は漱石から「猫伝」にしようか、それとも最初の一行から「吾輩は猫である」にしようかと相談され、虚子が後の方を取ると言って決まった。これが大評判となって続々と書くこととなり小説家漱石が誕生する。彼の重い尻を押して、大作家夏目漱石を作り出したのは虚子だったと言えよう。
その後『坊ちゃん』『草枕』も好評で「ホトトギス」は大いに売れて繁栄し、俳句雑誌「ホトトギス」は一変して文芸雑誌の観を呈し、経営者である虚子自身も小説家として世に立とうとした。」(「随筆筆写」)

(参考二)

 嘗て、二十年前(日曜日, 6月 04, 2006)の下記のアドレスで、次のとおり記述した。ここでは、波郷の『惜命』の、「境涯俳句」・「療養俳句」・「連祷俳句」というよりも、「望郷句・父母追慕句」という、新たな視点を提示したかったということなのであろう。
 とにもかくにも、この一句は、石田波郷の、その世界を知るための、その原点となるような一句なのであろう。

https://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_04.html

[ 石田波郷の世界(その七)

○ 金の芒(すすき)はるかなる母の祈りをり

『惜命』所収の句。昭和二十三年作。『鶴の目』・『風切』・『病雁』そして『雨覆』を経て、昭和二十五年に波郷はこの『惜命』(その当初の名は『胸形変』)を刊行する。この『惜命』は昭和四十三年に刊行された『酒中花』と双璧を為す波郷の二大句集といえるものであろう。楠本憲吉氏は、「『惜命』は波郷俳句の最高のピークであり、戦後刊行句集でも五指に屈せられるものであることは何人も異存はなかろう」として、さらに、次のような賛辞を呈している。「波郷は二年の間に両三度の手術に耐え、一日一日の生を噛みしめる如く『惜命』の時を生きつつ、窓から見える草木禽獣に愛憐の目を注ぎ、心に浮かぶ人々を声なく呼び来って語り愛しながら、妄執の如く俳句に打込み、ついに『惜命』一巻の連祷を世に残したのである」(『石田波郷』)。

○ 梅雨の灯に染まりて惜しむ命かな
○ 七夕竹惜命の文字隠れなし
○ 命惜しむ如葉生姜を買ひて提ぐ

『惜命』所収の句は、いずれも生と死の狭間に漂う波郷のピーンと張り詰めた緊張感と祈りにも似た波郷の生命へ思いというものが脈打っている。掲出の句はその『惜命』所収の波郷の母の句であるが、波郷には母の傑作句も多い。

○ 桐の花港を見れば母遠し   (昭和二十二年)
○ 蛍火や疾風のごとき母の脈  (昭和二十九年)


(その五) 「花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前」

石田波郷五.jpg

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/115

 季語は、「花圃(かほ)」(三秋)。句意は、「病棟の花壇に水をやっているのを、病室のベッドから見ている。手術の日も間近である。手術が、この花壇に水をやるように、上手くいくことを願うばかりである。」
 この句は、「花圃に水/汲める(を)・見てをり/手術前」と、中七の「汲める(を)・見てをり」が、「汲める(を)」の「を」が省略されていて、「汲める・見てをり」と、「句またかり」の「破調」の句ということになる。
 そして、この「見てをり」の「をり」は、石田波郷が多用する「切字」のような用例で、意味的には、「居(を)り」の、「時間をかけて見入っている」ようなニュアンスであろう。  
 こいうニュアンスの一般的な用例は、文語的な「見てゐたり」などとなるが、波郷の「をり」は、波郷が再発見した、「霜柱俳句は切字響きけり」の「切字」的用例のものとと解して差し支えなかろう(なお、「参考二・参考三」を参照)。

(参考一)

[ 花畠(はなばたけ) 三秋
【子季語】 花畑/花壇/花園/花圃
【解説】 「お花畑」と「お」がつくと、一面の高山植物群を意味し夏の季語となる。花畠は秋の花々を咲かせたところ。「草花の多き時をもって、秋とするならし」『滑稽雑談』である。 ](「きごさい歳時記」)

(参考二)

葭雀二人にされてゐたりけり (波郷/昭和十七年『風切』/「ゐたりけり」)
細雪妻に言葉を待たれをり (波郷/昭和二十一年『雨覆』/「をり」)
立春の米こぼれをり葛西橋 (波郷/昭和二十一年『雨覆』/「をり」)
金の芒はるかなる母の禱りをり (波郷/昭和二十三年『惜命』/「をり」)
花圃(かほ)に水汲める見てをり手術前 (波郷/昭和二十三年『惜命』/「をり」)
夜も其処(そこ)に立ちをり梅雨の一喬松 (波郷/昭和二十四年『惜命』/「をり」)
襖の隙に二人子が餅焦がしをり (波郷/昭和二十五年『惜命』/「をり」)

(参考三)

https://weekly-haiku.blogspot.com/2015/06/blog-post_77.html

[【句集を読む】 「字が響く / 石田波郷『風切』の一句(福田若之)」

霜柱俳句は切字響きけり  石田波郷

しかし、字が響くとはどういうことだろうか。そんなことが起こりうるのだろうか。

こう問いかけてしまった以上、われわれは、字の響きを追い求めて、ここからはじまる言葉が断ち切れるところまで進むことになってしまったに違いない。たとえ、その切れがとりあえずのものでしかないとしてもである。

切字の響きを追い求めるために、われわれは切字とはどのようなものであるのか、知らなければならない。正岡子規は「既に切字といひて『字』の字を置く上は字其者を指す語にて、意味と関係せず]」と書いている。「切字」が「字其者」を指す語である以上、切字はそれ自体がなんらかの声であるはずはない。だからこそ、われわれは、それが響くとはどういうことなのかを問わずにはいられないのである。

すかさず、「この句における「字」という文字を文字通りに解釈することはばかげている」という反論が予想される。だが、字が響くということがすでに問われてしまった以上、おそらく、そのことがすでに問題である。すなわち、そもそも文字通りとはどういうことなのか、ということが問題なのである。

したがって、字とは文字であるという前提から始めるからといって、この文章で展開されるのはこの句の文字通りの読みであるなどと主張することはできない。文字通りとはどういうことなのか。われわれはそのことを問わずに、文字通りの読みをしているなどと騙るわけにはいかないのである。

切字は声ではなく文字であるという主張をばかげていると考える人は、おそらく次のように言うだろう。

すなわち、「切字」とは、たとえば、この句における「けり」などがそうであるところのものであって、書かれたものであると同時に声に出して読むことができるものであり、したがって、切字は声に出されるとき、現に響くのだ、と。

実際に、ほかならぬ波郷自身が、いくらかそのように考えていたかもしれない。次のように書くとき、おそらく彼は声が字を為すと信じているだろう。

俳句は禅のやうに「ア」といへば「ウン」と響く気息を表現すべきである。
それが路傍の一茎の草花でもいゝ。そこに作者の気息とぬきさしならぬ共鳴があつて、呵して十七字を為す底の真率の声がなければならぬ。([i] 正岡子規「或問」、『子規全集』、第5巻、改造社、1920年、142頁)

さらにまた、次のように波郷が書くとき、彼は一方では俳句が書かれたものとして何かの形を得、定着し、いわば受肉していると信じているにもかかわらず、他方では俳句が発話、つぶやき、歌声の類でもあって、それゆえに共鳴を与えることができると信じているだろう。

私どもは私どもが日常見聞して感動したことを人に話したいと思ふ。また、人に必ず話すものであるが、これをもつと個的な把握表現によつて、何かの形に定着しようと考へることがある。その何かの形に定着しようと考へることがある。その何かの形は、絵であることもあれば、物語であることもあり、歌であることもある。私どもの場合はそれが俳句であるわけである。なぜ私たちが多くの表現形式の中から俳句を選んだかといふと、簡単にいへば、俳句の「短い」といふことが、専門詩人でない私どもが、日常生活の中からつぶやくやうに生み出す歌声として適当であり、さういふ俳句の多くが、私たちに親しさをもつて感動を再現伝達し共鳴を与へるからである。( [iii] 石田波郷「俳句哀歓――作句心得」、『石田波郷全集』、第4巻、角川書店、1970年、207頁。)

だが、字を声に出して読み上げるとき、その声を字そのものだと言うことができるだろうか。われわれは、「けり」をそのような意味で文字通りに声に出すことができるだろうか。われわれは、字を声に出して読み上げるかぎりで、字と声とは本質的に全く別のものとしてあることを認めるほかはない。つまり、ここに翻訳が介在していることを認めるほかはない。われわれには、言葉の肉をそのまま口にすることはできない。すなわち、われわれは字を声に出すこともできないし、そのようにして字をわれわれの糧とすることもできないのである。

したがって、声に出された言葉のうちに書かれたものを見出すなどということも決してできないだろう。

なるほど、声に出される言葉においても、言葉を言葉として成り立たせる分節化のはたらきが、プログラムとして、すなわち、つねにすでに書かれてあるものとして、働いているとみなすことは間違いではないかもしれない。しかし、そうした書き込みもまた、それがプログラムにとどまるものであるかぎり、本当の意味で現前することは決してないだろう。

プログラムは、われわれの前に表れ出るもののさらに前にしかない。したがって、それはたとえどのようなかたちであっても、決してわれわれの前には表れ出ることのない書き込みであり、当然、声にも表れることはない。そして、だからこそ、声が自らを「字」と呼ぶことは何らかの偽りを抜きには成立しないだろう。

では、もはや「字」が声として響くのではないとしたら、波郷に逆らって、われわれは句の「切字」という字を「切れ」と書きなおさなければならないのだろうか。

だが、切れが響くということは、切字が響くという以上にありえないことだ。なぜか。切字は字としては現にそこにあると言えるが、切れは何もないことによってそこに確認される。したがって、切れは不在である。このことは二通りに読まれる。

まず第一に、切れとはある種の分節であって、この隙間は、何もない空間ないし時間、すなわち完全な真空にほかならない。つまり、切れとはあらゆるものの不在としての間である。

そして第二に、そのような切れは切字の現前によって把握される以上のものではなく、切れがそれ自体として立ち現れることは決してない以上、実際にはただ切字だけが存在するのであって、切れというものは存在しない。つまり、切れはそのものとしては存在しない。切れは、切字の存在につきまとう無にほかならない。

こうして、切れが響く可能性は、切れが不在であるということのこれら二つの意味によって、二重に排除される。

すなわち、まず第一に、切れは音を含むあらゆるものの不在である以上、それが響くということはありえない。

そして第二に、切れがそのものとしては存在しない以上、それが響くということはありえない。

この可能性の二重の排除こそは、波郷が「俳句は切れの響きけり」とは決して書くことができず、「俳句は切字響きけり」と書かざるをえなかった理由であり、すなわち、彼が字が響くことをなおも信じざるをえなかった理由であるだろう。

波郷は「十七字で完成するためには、切れることが必要である。「切字」がなければならない([iv] 「石田波郷「職場俳句について」、『石田波郷全集』、第4巻、角川書店、1970年、119-120頁。」)と書いた。一読して了解できるように、「十七字で完成するためには、切れることが必要である」という一文は切れの必要性を説き、「「切字」がなければならない」という一文は切字の必要性を説いている。そして、この二つの文を何の介入もなく結び付ける以上、波郷もまた切字と切れが存在と無の関係にあることを前提としている。

ここに波郷の限界を見ながら、この限界によって画定された波郷の下で、われわれはさらに波郷へ向かって進むことができるだろう。問いはこうだ。波郷の信じた字の響きは、波郷が書いたような「真率の声」ではもはやありえず、また、切れそのものの響きともみなせないとするならば、その響きをどのようなものとして信じることができるのか。

切れが不在であるということは、言葉を言葉として成立させている先述のプログラムに切れが関係していることを示唆している。このプログラムは、声を言葉として聞かせるだけではなく、文字を言葉として読ませるものでもあるが、こうしたプログラムは人から人へ伝えられるものに他ならない。その伝達によって、その教えによって、われわれは言葉を理解することができるようになるのだ。ここでふたたび子規の言葉を参照しよう。

要するに文法上より俳句を研究するは今日に於て猶面白き處あり。切字という方面より見るは殆ど其必要を知らず。蓋し昔は無學文盲の者に俳句を敎んとしたりしかば、勢いかゝる事を説く必要もありけん、今の普通學を修めたる人に切字を敎ふには及ばじ。([v] 正岡子規「或問」、前掲書、152頁。)

子規の記述でとりわけ興味深いのは、かつての切字の教えは文盲の者を相手にしたものであり、彼の時代には切字の教えに文法の教えが取って代わった、というひとつの歴史認識だ。「古俳書には切字を説かざるものなし([vi] 同上、147頁。」)とさえ書く子規が、その書かれた教えを文盲の者のためのものと見なすというのは、いったいどういうことなのだろうか。理屈から言えば、文盲の者は、文盲である以上、俳書など読めるはずがないのである。

にもかかわらず、子規が書いていることはある意味においては確かに正しい。というのも、切字について説くということは、その字について正しく読み書きできないものに対して、すなわち、その字について文盲の者に対して、何かしらの教えを説くということだからだ。切字について説く教えは、切字について文盲の者にしか、必要とされることはないだろう。

切字についての議論がなされる際に今日でもしばしばその拠りどころとされる芭蕉の教えが、口伝という形態、いわば、文盲の相手に向けた教えにふさわしい形態をとっていたのは、したがって理由のないことではないだろう。

『去来抄』には、芭蕉が去来たちに話したことをさらに去来が卯七に話したこととして「是を傳受すべし。切字のことは連俳ともに深く秘。猥に人に語るべからず([vii] 「去來抄」、『校本芭蕉全集』、第7巻、富士見書房、1989年、116頁。」)と記されており、さらに「去来曰、此事を記す、同門にも乱り成と思ふ人あらん。愚意は格別也。是事、穴強先師の秘給ふべき事にもあらず。只、先師伝受かく有しゆへなるべし。予も秘せよとありけるは書せ(ず)。たゞ、あたりを記して、人も推せよと思ひ侍る也([viii] 同上、117頁。」)と記されている。

『去来抄』においては、それが去来の書いたものであるにもかかわらず、去来自身の口伝が間接的に記されているが、この切字についての一節では、それが徹底されている。これは、口で伝えられたことと字で書かれたことの混同を避けるための配慮であろう。

『三册子』には、こうした配慮が芭蕉の言葉として記されているのを見ることができる。
切字の事、師のいはく「むかしより用ひ来る文字ども用ゆべし。連俳の書に委くある事也。切字なくては、ほ句のすがたにあらず、付句の體也。切字を加□へても付句のすがたある句あり。誠にきれたるにあらず。又、切字なくても切るゝ句あり。その分別、切字の第一なり。その位は自然としらざれば知りがたし」。([ix] 三册子」、『校本芭蕉全集』、第7巻、富士見書房、1989年、163頁。)

この口述筆記は『去来抄』ほどの徹底した配慮の下で行なわれてはいないが、芭蕉のものとされている言葉のなかに、いくらかの配慮が見られる。まず、「連俳の書に委くある事也」ということによって、この口伝がそれじたい概要であり、簡略化されていて、多くのとりこぼしを前提としていることが示唆されている。

さらに、ここで「連俳の書」への参照をうながすことは、字のことは最終的には字によってしか理解されないということを示唆している。つまり、ここで声と文字との混同を避ける配慮がなされているのだ。その上で、文盲の者たちのための教えが展開される。ここで教授されるのは、文盲の者が文盲でなくなり、「連俳の書」を読めるようになるために必要な、「その位は自然としらざれば知りがた」いことだ。

確かに「切字なくても切るゝ句あり」という言葉がそうであるように、ここにはわれわれの観点からすれば必ずしも正しいとはいえないことが含まれている。だが、文盲の者が文盲でなくなるために一度は信じなければならない誤謬というものが、おそらくは存在するのである。

文盲の者たちを相手に字を教える者は、当然、字を教えるためには文盲であってはならない。しかし、また一方で、字を教えるためには多かれ少なかれ文盲の者と同じようにしなければならない。芭蕉のしたことはこれである。相手がある字について文盲である場合、その字については、その字で書かれたものによって伝えることはできない。

したがって、波郷の句は、その極めて教条的な外見にもかかわらず、切字についての教えなどでは決してない。波郷がそれを望んだとしても、その役割を果たすことはありえない。むしろ、われわれが切字についてすでに充分に知っていなければ、われわれにはこの句を理解することなど決してできないはずなのである。そうでなければ、字と声との曖昧な混同を前に、句自体を謎とみなし、その理解を宙吊りにしたまま、われわれのように話を進めるしかない。

われわれはおそらくすでに文盲ではないが、いまは多かれ少なかれ文盲の者を演じている。われわれがここでしていることが文盲の者の演技にすぎないということは、いずれ明らかになるだろう。

さて、『去来抄』においては、波郷の句とは対照的に、字と声とは、その違いを浮かび上がらせていた。話したこととして記されているということが、すなわち話したことがそのまま記されているということではないことに注意しておきたい。われわれは先ほど、『去来抄』の切字についての記述において、声と字の混同を避けるための周到な配慮がなされていたことを確認した。去来は書いたが、決してありのままには書かなかったことを、そして、その配慮についての言葉さえもが、ただ間接的な言としてのみ書面に表されていたのを確認した。

そして、芭蕉はこのような気くばりのもとではじめて「歌は三十一字にて切れ、ほ句は十七字にて切る([x] 「去來抄」、前掲書、117頁。」)という言葉の語りを担うことができたのだった。

仮に、いずれは波郷が書いたように「十七字は字数ではないのである([xi] 石田波郷「韻文韻文」、『石田波郷全集』、第4巻、角川書店、1970年、61頁。」)と認めることになるとしても、この「ほ句は十七字にて切る」という言葉については、十七字は十と七つの字であると読むほかはないし、そうすることは許容できるだろう。実際には、われわれが、さしあたりいろは歌の仮名で俳句を表記する限りのことではあるが、まずはそれを許容しなければならないだろう。

もちろん、それでも例外があることは明らかで、実際に運用されていた規則そのものだとは言いがたい。だが、それらの点については「推せよ」、すなわち、自ら推察しろというのだから、これらの言葉は全体として許容することができる。

芭蕉はさらに、次のようにも言ったとされている。すなわち、「切字に用る時は、四十八字皆切字也。用ひざる時は、一字も切字なし[xii]」。これはどういうことだろうか。

たとえば、われわれがいま取り上げている波郷の一句がそうであるように、「けり」を用いた句において、そこに切れが見出せる場合、ふつうは「り」ではなく「けり」が切字であるとみなされる。ここで、切字は字であるが、必ずしも一字ではないということが分かる。

このことは、一見すると「切字に用る時は、四十八字皆切字也」という芭蕉の主張と矛盾するように思えるかもしれないが、そうではない。「けり」を成り立たせている「け」や「り」は、いろはの四十八字に含まれている。芭蕉は決して切字が四十八種類しかないとは言っていないので、四十八字から切字ができてさえいればよい。

ここで「字」という字の古い字義について確認しておこう。

「字」という字は、遠い昔には、人と人とが組み合って子どもを作ることを意味していた。それは、さしあたり自己言及的な意味を持つ記号ではなかった。やがて、子どもを作るという意味が転じて、それぞれに異なる意味を表わす複数の文様を組み合わせて生み出された意味を表わす文様のことを意味するようになる。今日、「字」という言葉で表わされるのは、かつて「文字」という言葉で表わされていたものである。

ここでの「かつて」とは、それだけで一つの意味を表わす文様のことを「文」という語で書き表わし、それらをいくつか組み合わせることで別の意味を表わす文様のことを「字」という語で書き表わしたときのことである。「文字」は、これらの二種類の文様の総称とされた。「字」という字が自己言及的な意味を持ったのはこのときである。この定義によってはじめて、「文」というこの記号はそれ自体が意味するところの文とみなされるようになり、「字」というこの記号はそれ自体が意味するところの字であるとみなされるようになった。

遠い昔には、「字」という字は結合と生成を表していた。だから、「かな」や「けり」などがひとつの切字として理解されるときには、「字」という字がかつて表わしていたそれらの意味が思い出されているのだといえる。「か」と「な」が結合して、「かな」が生成する。

もちろん、「や」もまた切字であると見なされる以上、「切字」と書くときの「字」は、かつての「字」ではなく、いまの「字」、すなわち、かつてなら「文字」と書かれただろう、あの「文」と「字」の総称にほかならない。だが、そうだとしても、いまの「字」のなかには、先に記したとおり、かつての「字」が歴然と含まれている。

「や」、「かな」、「けり」が同様に切字であるということを突き詰めて考えるならば、ここで「切字」は、単に書かれた字であるという以上に、書かれた語であるということになるだろう。

われわれはさらに、おそらく芭蕉の教えについての去来の教えから導き出されたであろう子規の教えに従うことにしよう。すなわち、「大体より言へば切字は文法上の終止言を指すといひて可なるべし([xiii] 正岡子規「或問」、前掲書、142頁。」)という教えに従うことにしよう。そして、さらに次の教えにも従うことにしよう。

独立格の場合は、

菊作り』汝は菊の奴なり   蕪村
時鳥』櫻は杣に伐られけり  言水

の如く名詞を以て終りながら一文章を成す者なり。即ち前の句にて『菊作り』といふ名詞は一文章を成し、『時鳥』という名詞も亦一文章を成す。故に此句は何段切かと問はゞ、二段切と答えん。([xiv] 同上、145頁。)

だが、ここで一旦、引用を切らなければいけない。われわれは、これらの教えに従うからこそ、続く次の教えには公然と歯向かわなければならないのである。
されど切字はと問はゞ各句一箇宛(『なり』と『けり』と)なりと言はざるべからず。何となれば『菊作り』『時鳥』の如き名詞を切字と名づく由なければなり。([xv] 同上、145頁。)

子規がこう書くとしても、われわれには「菊作り」や「時鳥」のような名詞を切字と見なさずにはおけない理由がある。そして、理由があればそれを切字と見なしうるというこの一点でのみ、われわれは子規の教えに従うことになるだろう。われわれが子規の教えに則って子規の結論を否定するのは、われわれが、そこに字が書かれてあるのを見てとることによってしか、それによって生じる不在としての切れを見てとることができないと考えるからである。

そして、このとき、われわれは、波郷の句においても、「霜柱」という語を全体で一つの切字であると見なすほか、どうしようもない。

これは、波郷自身が能村登四郎の〈長靴に腰埋め野分の老教師〉という句について「現代の句であるこの句は、一見切字がないやうだが、老教師で切れてゐる([xvi] 石田波郷「俳句哀歓――作句心得」、前掲書、212頁。」)と評し、「老教師」の一語を切字と見なしたのと同様である。波郷の句には「霜柱」と「けり」という二つの切字が含まれているということになるだろう。

ここでようやく、「霜柱」というこの二字が「四十八字」の外にあるということに言及することができる。われわれは、「霜柱」という二字のうちに、それを仮名に書き換えた「しもばしら」を――より正確には、いろは仮名とも呼ばれる平仮名が、濁点も半濁点も「ん」も表記としては書かれることはなく、確かに四十八字だった頃の表記法に則って書いた、あの「しもはしら」を――見て取ることはできない。

なぜなら、この変換は、文字を文字通りに声に出すことができるとするあの混乱のもとでのみ成立するものだからだ。そして、文字通りの音読がありえないのと同様に、いかなる文字通りの書き換えもありえないだろう。文字通りであれば、なにも書き換えられてはいないことになるだろう。それゆえ、われわれは「四十八字」という芭蕉の言葉のほうを、それが許す範囲で読み替えなければならない。

ここまで、われわれは、「四十八字」という言葉について、それをある特定の文字体系、すなわち、ひらがなの総体のことだと解釈してきた。しかし、結局はそれを提喩として理解しないまま進むことはできないだろうということを、ここで自ら推察しなければならないのだ。

われわれは、「四十八字」という文字を、あらゆる文字の体系の全体、つまり、文字一般の提喩だと考えるほかはないだろう。「霜柱」は、たしかに、文字の体系に属している。この理解において、次の波郷自身の言葉における「つまり」の飛躍は許容される。

切字は普通「や」「かな」「けり」に代表されるが、動詞・助動詞の終止形はすべて切字であり、てにをはや体言が切字になることもある。「四十八字切字ならざるはなし」である。つまり、「切れる」働きをするものはすべて切字にあたるわけである。([xvii] 同上、210頁。)

このように「四十八字切字ならざるはなし」を「「切れる」働きをするものはすべて切字にあたる」の言い換えとみなすことは、「四十八字」があらゆる文字の体系を指し示す提喩である場合にのみ許されることなのである。そしてまた、字についてのこの理解において、波郷が書いていたように、十七字もまた字数のことではもはやない。それはおそらく俳句の俳句性そのものなのである。

ここで、「去来抄」に比喩を認める一方で波郷の句に比喩を認めないのはなぜか、という問いに応じておくほうがよいだろう。

われわれは、決して、比喩を全く認めないというスタンスでここまで進んできたのではなかった。われわれがここまで認めずにきたのは、比喩のはたらきを介した読みではなく、安直に文字通りということを信じる読みである。われわれは、比喩を批判してきたのではなく、明らかに恣意的な読みをそれとなく文字通りの読みと見なしてしまう態度をこそ、徹底して批判の対象としてきたのだ。

そもそも、ここまで、まだ文字通りということがどういうことなのかはっきりしていない以上、われわれが文字通りに読んできだと主張することのできる文字はいまだにただの一字もない。そして、そうである以上、われわれがここまで進んでくることができたのも何かしらの比喩のはたらきであり、さらには、そうした比喩の対応関係を明らかにする翻訳のはたらきのおかげであるに違いない。

ここでようやく、文字通りとはどういうことかを書くことができる。文字通りとは、いかなる翻訳もぬきに文字が写像されるときの、置き換えのない置き換えにほかならない――もっとも、そんなことができると信じる限りにおいてのことではあるが。だから、文字通りとは、たとえば、文字がそのまま眼に映ると信じるときの、そのあり方なのである。

それゆえ、われわれは、文字と声のあいだで文字通りということがありうるという誤謬を一貫して排斥してきた。

その結果として、われわれはいま、波郷とともに、ある袋小路に到達している。

確かに、われわれがこの句を文字通りに読なまいで、音読してしまうなら、字の響きを聞くことなど決してできない。しかしながら、われわれがこの句を文字通りに読むことしかしないならば、この場合もやはり、もはや字の響きを聞くことなど決してありえないのである。

この袋小路を前にして、さらに言葉を書き継いでいくには、どうしたらよいのか。幸いなことに、われわれは文盲の者の演技をしているのであって、文盲ではない。われわれはその術をすでに知っているはずだ。というのも、それは、われわれがこの本文をはじめる段階で、文字通りにではないが、確かにすでにともにおこなったはずのことだからである。

それは、波郷の句を書き写すことである。

波郷の句を書き写すとき、われわれはおそらく、極めてささやかな音を聞き取るはずだ。紙と筆記具の擦れによって、かすかな音が出るのを聞くはずだ。「霜柱」と書き写すとき、あるいは、「けり」と書き写すとき、われわれは霜柱を踏み崩すときと同じくらいささやかな音が響くのを聞く。その響きこそ、まさしく切字それ自体の響きなのである。

しかしながら、これらの切字は、書かれたその瞬間にまさしく鳴りを潜める。

「俳句は切字響きけり」という現在の詠嘆は、われわれが書き写すことによって、「俳句は切字響きけり」という過去の伝聞へとたちまちその意味を変えてしまう。書き写すことが模倣することである以上、この言葉を書くことは、決して、われわれ自身が俳句の切字の響きに感じ入っていることを表明してはくれない。波郷の句を信じるならば彼自身が体験したはずであるところの、あの切字の響きはもはや再現不可能である。それを、われわれは自ら体験したわけではない過去として述べるに過ぎない。

だから、もし、そこに「石田波郷」という銘を刻まなければ、書き直されたこの句は伝聞された過去として読まれるしかない。

だがまた一方で、もし、その銘を刻むならば、今度は、句それ自体を引用として示すことになる。だから、その場合もやはり、われわれはわれわれ自身の体験としてそれを語っているのではないことになるだろう。

したがって、われわれが「石田波郷」という銘を刻もうが刻むまいが、この句を書き写すことを通じてできることは、切字の響きを聞くことだけである。それによってわれわれの感動を表わすことは決してできない。この句は、言葉として引用されるときには、必ず翻訳に絡めとられて、文字通りであることを失うのである。

われわれがもし文盲であったなら、われわれは何の意味も持たせることなく、それを図形として書き写すこともできたかもしれない。だが、われわれは文盲ではなかったし、すでに波郷の句を読んでしまった。たしかに、われわれは文盲ではないことによってこの句を読むことができた。しかし、まさにこの句を読むことができてしまったことによって、この句をもはや文字通りに書くことができなくなった。

こうして、われわれは、自分たちが全く文盲ではなかったがために、字の響きに対する感動を表明するための不可能な言葉を追い求め続けることになってしまったのかもしれない。

だから、もはやあの句を文字通りに書くことができないという意味で、われわれは全くもって文盲である。もはや文盲でないわれわれは、そのことによって文盲である。われわれは、今度は文盲ではないわれわれを演じて書きはじめざるをえない。

このようにして、おそらく、ひとつの望みを抱えたこの企てが、俳句というジャンルの、すべてではないにしても一区画を占めているのだ。すなわち、「字が響くのを聞きたい」という、ひとつの望みを抱えた企てが。  ]

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