「胸形變板画巻(『惜命板画柵』)」(石田波郷句・棟方志功板画)管見(その六)
(その六) 「たばしるや叫喚す胸形変」
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/115
季語は、「鵙」(三秋)。上五の「たばしるや」の「たばしる」は、「激しい勢いでとび散る」の意の歌語(「もののふの/矢並つくろふ/籠手(こて)の上に/霰たばしる/那須の篠原」=「源実朝『金槐集』)などに由来する。
中七の「鵙叫喚(きょうかん)す」の「叫喚(きょうかん)」は、仏教用語の「阿鼻叫喚(あびきょうかん)=阿鼻地獄(無間地獄)と叫喚地獄のこと。地獄に落ちた亡者がさまざまな責め苦にあい、堪えられずに泣きわめく意から、悲惨でむごたらしいようすのたとえ=「さまざまな責め苦にあい、堪えられずに泣きわめく」の意。
下五の「胸形変(きょうぎょうへん)」は、この時の手術の、「忽ちにして、肋骨をとられ胸形変じる相を、声調として現はそうとした」=「波郷自句自註」」の、波郷の造語。
句意は、「手術が施行された。肺の肋骨を電気メスで切除する大手術である。それは、鵙(「波郷」その人)が、「霰たばしる」ような地獄の中の、「阿鼻叫喚」の一瞬のうちの出来事で、その手術の成功・不成功とを問う余裕などもなく、現実には、「胸形変(きょうぎょうへん)」という、言葉にならないような、そんな手術後の、己自身の身体の一部の喪失感が脳裏を支配している。」
「句切れ」(「初句切れ」「二句切れ」「中間切れ」「句切れなし」)の視点からすると、この句は、「たばしるや」の「初句切れ」で、「たばしるや/鵙叫喚す・胸形変」の「二句一章」論(「大須賀乙字」提唱)的な、句意の把握が一般的なのかも知れない。
しかし、この句は、「五・七・五」の「初句・二句・結句」の「いずれも切れかたち」の「三段切れ」で、そして、この句の主題を、結句の「胸形変」(手術による「胸形変」)とする「一句一章」論(「臼田亜浪」提唱の「季語・主題」を重視する)的な句意の把握も見逃せないであろう。
この「一句一章」論的な視点からすると、この句の「季語」の「鵙」が、この句の焦点となり、この「一物」(「一物仕立て」の「一物」=季語)に、「己の心情/感慨」を託する
というのが、この修辞技法の常套的な用例となってくる。
ここで、昭和俳壇の「人間探求派」の、その「三羽烏」とも目せられている、「中村草田男・加藤楸邨・石田波郷」(年齢順)の、その「一物仕立て」の代表句と、この波郷の句とを並列して見たい。
降る雪や明治は遠くなりにけり (中村草田男『長子』)
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃 (加藤楸邨『寒雷』)
たばしるや鵙叫喚す胸形変 (石田波郷『惜命』)
草田男の句の「一物(季語)」は、「降る(眼前の)雪」であり、楸邨の句では、「(眼前の)寒雷)であり、この視点からすると、波郷の、この句の「一物」は、「鵙(の「たばしり」)ということになる。
(参考一)
[ 鵙(もず)三秋
【子季語】 百舌鳥、伯労鳥、鵙日和、鵙の晴、鵙猛る、鵙の声、鵙の高音
【解説】 鵙は秋、木のてっぺんなどでキーイッ、キーイッと鋭い声で鳴く。小鳥ながら肉食。その声が澄んだ秋の大気と通ずるので「鵙日和」「鵙の晴」などと用いられる。
【来歴】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。
【文学での言及】 秋の野の尾花が末に鳴く百舌鳥の声聞くらむか片侍つ吾妹 作者不詳『万葉集』
春されば百舌鳥草潜き見えずとも吾は見遣らむ君が辺りをば 作者不詳『万葉集』
頼めこし野辺の道芝夏深しいづくなるらむ鵙の草ぐき 藤原俊成『千載集』
【実証的見解】鵙はスズメ目モズ科の鳥の総称。夏鳥のアカモズ、チゴモズ、冬鳥のオオモズ、オオカラモズなど日本各地に広く繁殖分布し、寒いところで繁殖するものは暖かい平地に移って越冬する。翼長十センチくらい。羽色は全体に地味で、頭は栗色、背は灰色、翼は黒褐色で中央に白斑が一つある。食性は肉食で、昆虫類、節足動物、甲殻類などをを食べる。樹の上や高所から獲物に襲いかかり、樹の上に戻って獲物を食べる。モズの高鳴きとしてよく知られている鳴き声は、秋から冬にかけてそこで生活するなわ張りを主張するためのものである。「鵙の贄」と呼ばれる習性は、鵙が捕らえた獲物を木の枝や有刺鉄線などに突き刺し行為をいう。繁殖は木の枝に皿状の巣を作り、二月から八月にかけて四、五個の卵を産む。
【例句】
百舌鳥なくや入日さし込む女松原 凡兆「猿蓑」
鵙啼て一霜をまつ晩田哉 浪化「柿表紙」
草茎を失ふ百舌鳥の高音かな 蕪村「新五子稿」
漆掻くあたまのうへや鵙のこゑ 白雄「白雄句集」
鵙の来て一荒れ見ゆる野山かな 蓼太「蓼太句集」
日のさして鵙の贄見る葉裏かな 闌更「半化坊発句集」
鵙の声かんにん袋破れたか 一茶「七番日記」
柞葉のちる中鵙の尾の動く 安藤橡面坊「深山柴」
鵙去て木葉飛ぶ事しきりかな 篠原温亭「温亭句集」
御空より発止と鵙や菊日和 川端茅舎「川端茅舎句集」
かなしめば鵙金色の日を負ひ来 加藤楸邨「寒雷」
鵙日和大外刈の決まりけり 長谷川櫂「果実」 ](「きごさい歳時記」)
(補記)
上記の「例句」中の、加藤楸邨の「鵙」の句と、中村草田男の「鵙」の句、そして、ここに、石田波郷の『惜命』の代表的な句を並列して見たい。
鵙の目の對へる畑の一ト火燃ゆ (中村草田男『長子』)
かなしめば鵙金色の日を負ひ来 (加藤楸邨『寒雷』)
たばしるや鵙叫喚す胸形変 (石田波郷『惜命』)
金の芒はるかなる母の禱りをり (石田波郷『惜命』)
(参考二)
https://www.fukamipat.gr.jp/discusses/723/
[ 芭蕉の句
芭蕉の句に次の作があります。
石山の石にたばしるあられ哉
一度、目にすると忘れることのできない名句です。この「たばしる」という言葉は、今ではほとんど使われることはありません。水や雹(ひょう)、霰(あられ)等が岩石等の固いものにぶつかり、飛び散る様を表現する言葉です。手元の古語辞典をみると、「激しい勢いで飛び散る様」と説明していて、語源は「た走る」で、この「た」は接頭語であって、強調の意味があります。この芭蕉の句は、たばしるという言葉によってはじめて成り立っているのですが、芭蕉がこの言葉を使う何かきっかけはあったのでしょうか。調べていくと、どうやら芭蕉は源実朝の「金塊和歌集」に目を通していたと思われるのです。
実朝の金槐和歌集
実朝の金槐和歌集のなかに次の和歌があります。
もののふの矢並つくろふ篭手のうへに 霰たばしる那須の篠原
芭蕉はこの和歌にある「霰(あられ)たばしる」という表現を頭のなかにメモしたに違いありません。いつかどこかでこの表現を使いたい、この言葉を生かした句を作りたいと願っていたに違いないのです。それが石山寺を訪ねた時に、一瞬にして記憶の底から、その言葉が蘇ったのでしょう。言葉の文化である和歌や俳句にはこうしたことはいつもあります。
万葉集
まことに興味深いことは、源実朝が、この「たばしる」を使うにあたってさらに先行する歌があったのです。実朝がはじめて「霰(あられ)たばしる」という言葉を使ったわけではないのです。
万葉集の柿本人麻呂の歌に次の歌があります。
わが袖に霰たばしる巻き隠し 消たずてあらむ妹が見むため
我が袖に霰が飛び跳ねているのですが、これをただちに払い消すようなことはしないで、このままにして愛する人に見せてあげよう、という歌で、人麻呂の感性とその優しさの表れた名歌といってよいですね。実朝は万葉集を読み、この人麻呂の歌を当然に知っていたに違いありません。人麻呂の恋の歌を、武人の凛々しい姿の上に投射したわけです。柿本人麻呂から源実朝へ、そして実朝から芭蕉へと、言葉がつながっていく面白さをそこに見出すことができます。 ](「言葉の文化」)
(その七) 「麻薬うてば十三夜月遁走す」

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/115
季語は、「十三夜月(じゅうさんやづき)=後の月=旧暦九月十三日の月」(晩秋)。句意は、「成形手術が終わった。その後の激痛で、麻薬(麻酔)を打てば、朦朧として、『後の月』の名月の『十三夜月』は、まるで、『遁走する』(のがれ走ること。にげること。)如きである。」
(参考一) 「後の月」(「十三夜」)
[ 後の月(のちのつき) 晩秋
【子季語】十三夜、名残の月、月の名残、二夜の月、豆名月、栗名月、女名月、後の今宵
【関連季語】 名月
【解説】 旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。
【来歴】 『俳諧初学抄』(寛永18年、1641年)に所出。
【文学での言及】 九月十三日夜、閑かに月見るといへることをよめる
すみのぼる心やそらをはらふらむ雲の塵ゐぬ秋の夜の月 源俊頼『金葉集」
【例句】
木曾の痩せもまだなほらぬに後の月 芭蕉「笈日記」
三井寺に緞子の夜着や後の月 蕪村「夜半叟句集」
稲懸けて里しづかなり後の月 蓼太「蓼太句集初編」
すみきつて木の陰凄し後の月 闌更「三傑集」
後の月水より青き雲井かな 樗良「樗良句集」
あつ物に坐敷くもるや后の月 梅室「梅室家集」
後の月つくねんとして庵にあり 正岡子規「子規全集」
この秋のなごりの月を出雲崎 長谷川櫂「初雁」 」(「きごさい歳時記」)
[ 波郷の師「秋桜子」(「馬酔木」主宰)、そして兄事する「馬酔木」同門の「楸邨」(「寒雷」主宰)])、波郷(「鶴」主宰)門の『村山古郷』の「十三夜(「後の月」の句)など
https://fudemaka57.exblog.jp/26336104/
十三夜夜半照りいでて男の子生る 水原秋櫻子「 餘生」
岩は皆渦潮しろし十三夜 水原秋櫻子 「晩華」
更けてよりあはれ大雨の十三夜 水原秋櫻子 「帰心」
山の端を夜鷹の飛べり後の月 水原秋櫻子 「帰心」
いつせいに目を立つる蟹十三夜 加藤楸邨
うしろ姿は勝気の角度十三夜 加藤楸邨
水のむと片目つぶれば十三夜 加藤楸邨
十三夜酸素の水沫むせぶなり 石田波郷
麻薬うてば十三夜月遁走す 石田波郷
せせらぎの霞はうごかず十三夜 村山古郷
十三夜野の家はみな閉ざしたり 村山古郷
去なんとし熱き茶すゝる十三夜 村山古郷
島に来て島に日暮るる十三夜 村山古郷
比叡下りて白河あたり十三夜 村山古郷
鯛飯の椀のぬくみや十三夜 村山古郷
柚子の香も夜晴れに冷えて後の月 村山古郷
沙山の香も潮ざれし後の月 村山古郷
草茫茫の家に移りぬ後の月 村山古郷 ]
(補記一) 「五十崎古郷」(「馬酔木」門の波郷の師)と「村山古郷」
五十崎古郷
https://www.youtube.com/watch?v=fVujpVZZrxM
村山古郷
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E9%83%B7
(参考二) 波郷の「マンス(暦)の月」の句と「季語の月」の句など
琅玕や一月沼の横たはり (波郷『風切』/昭和十八年)
手鏡や二月は墓の粧ひ初む (波郷『惜命』/昭和二十三年)
三月の峡の水漬田ほの赤し (波郷『酒中花』/昭和四十三年)
五月わが居村の牛の皆あかき (波郷「病雁」/昭和十八年)
六月の女すわれる荒筵 (波郷「雨覆」/昭和二十一年)
七月の童糞せり道の上 (波郷「病雁」/昭和十八年)
十月の顳顬(こめかみ)さやに秋刀魚食ふ (波郷「風切」/昭和十八年)
露か雨か十一月ははじまりぬ (波郷「酒中花以降」/昭和四十四年)
清瀬にも茜富士あり十二月 (波郷「酒中降」/昭和四十一年)
きらきらと八十八夜の雨墓に (波郷『惜命』/昭和二十三年/八十八夜=立春から八十八日目で、五月二日頃にあたる。)
名月や格子あるかに療養所 (波郷『惜命』/昭和二十四年/旧暦八月十五日=新暦九月十五日頃の「名月」)
十六夜の月無しの酒さめ易し (波郷『酒中花』/昭和二十四年/旧暦八月十五日の翌日の「十六夜の月」)
麻薬うてば十三夜月遁走す (波郷『惜命』/昭和二十三年/十三夜月=旧暦九月十三日=新暦十月十三日頃にあたる。)
十三夜酸素の水沫(みなわ)むせぶなり (波郷『酒中花』/昭和四十二年」)
寝待月酸素惜しまむ心あり (波郷『酒中花以降』/昭和四十四年」)
(参考三) 「十三夜・小望月・十六夜・立待月・居待月・寝待月(臥待月)・更待月・有明月」など
https://cancam.jp/archives/1012408
[ ■十三夜
十三夜とは陰暦13日の月を指します。陰暦9月13日の月を指す場合が多いです。実は中秋の名月(十五夜)に並ぶ名月として、古くから月見が行われていた日です。
■小望月
デジタル大辞林(小学館)によると、小望月とは望月(満月)の前夜、陰暦14日の夜の月のことを指します。陰暦では月の満ち欠け周期の約半分にあたる15日が満月であると考えられていました。そのため陰暦14日の夜は満月になる翌日の十五夜を待つ「待宵」とも言われています。
■十六夜
十六夜とは陰暦16日の月を指します。既望(きぼう)、哉生魄(さいせいはく)とも呼ばれます。「いざよう」は「ためらう・躊躇する」の意味で、十五夜よりも少し遅い時間に、ためらいがちに出てくる月にちなんで「いざよい」と名付けられています。
■立待月、居待月、寝待月(臥待月)、更待月
それぞれ、陰暦17日、18日、19日、20日の月を指します。当時の月の出を待ちわびる習慣で、最初は立って待ちますが、翌日は座って、翌々日は寝て、更に翌日は夜も更けるころまで待つことにちなんだ名前です。
■有明月
有明月とは夜明けになっても沈まずに残っている月を指します。十六夜以降の月が当てはまります。
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/115
季語は、「十三夜月(じゅうさんやづき)=後の月=旧暦九月十三日の月」(晩秋)。句意は、「成形手術が終わった。その後の激痛で、麻薬(麻酔)を打てば、朦朧として、『後の月』の名月の『十三夜月』は、まるで、『遁走する』(のがれ走ること。にげること。)如きである。」
(参考一) 「後の月」(「十三夜」)
[ 後の月(のちのつき) 晩秋
【子季語】十三夜、名残の月、月の名残、二夜の月、豆名月、栗名月、女名月、後の今宵
【関連季語】 名月
【解説】 旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。
【来歴】 『俳諧初学抄』(寛永18年、1641年)に所出。
【文学での言及】 九月十三日夜、閑かに月見るといへることをよめる
すみのぼる心やそらをはらふらむ雲の塵ゐぬ秋の夜の月 源俊頼『金葉集」
【例句】
木曾の痩せもまだなほらぬに後の月 芭蕉「笈日記」
三井寺に緞子の夜着や後の月 蕪村「夜半叟句集」
稲懸けて里しづかなり後の月 蓼太「蓼太句集初編」
すみきつて木の陰凄し後の月 闌更「三傑集」
後の月水より青き雲井かな 樗良「樗良句集」
あつ物に坐敷くもるや后の月 梅室「梅室家集」
後の月つくねんとして庵にあり 正岡子規「子規全集」
この秋のなごりの月を出雲崎 長谷川櫂「初雁」 」(「きごさい歳時記」)
[ 波郷の師「秋桜子」(「馬酔木」主宰)、そして兄事する「馬酔木」同門の「楸邨」(「寒雷」主宰)])、波郷(「鶴」主宰)門の『村山古郷』の「十三夜(「後の月」の句)など
https://fudemaka57.exblog.jp/26336104/
十三夜夜半照りいでて男の子生る 水原秋櫻子「 餘生」
岩は皆渦潮しろし十三夜 水原秋櫻子 「晩華」
更けてよりあはれ大雨の十三夜 水原秋櫻子 「帰心」
山の端を夜鷹の飛べり後の月 水原秋櫻子 「帰心」
いつせいに目を立つる蟹十三夜 加藤楸邨
うしろ姿は勝気の角度十三夜 加藤楸邨
水のむと片目つぶれば十三夜 加藤楸邨
十三夜酸素の水沫むせぶなり 石田波郷
麻薬うてば十三夜月遁走す 石田波郷
せせらぎの霞はうごかず十三夜 村山古郷
十三夜野の家はみな閉ざしたり 村山古郷
去なんとし熱き茶すゝる十三夜 村山古郷
島に来て島に日暮るる十三夜 村山古郷
比叡下りて白河あたり十三夜 村山古郷
鯛飯の椀のぬくみや十三夜 村山古郷
柚子の香も夜晴れに冷えて後の月 村山古郷
沙山の香も潮ざれし後の月 村山古郷
草茫茫の家に移りぬ後の月 村山古郷 ]
(補記一) 「五十崎古郷」(「馬酔木」門の波郷の師)と「村山古郷」
五十崎古郷
https://www.youtube.com/watch?v=fVujpVZZrxM
村山古郷
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E9%83%B7
(参考二) 波郷の「マンス(暦)の月」の句と「季語の月」の句など
琅玕や一月沼の横たはり (波郷『風切』/昭和十八年)
手鏡や二月は墓の粧ひ初む (波郷『惜命』/昭和二十三年)
三月の峡の水漬田ほの赤し (波郷『酒中花』/昭和四十三年)
五月わが居村の牛の皆あかき (波郷「病雁」/昭和十八年)
六月の女すわれる荒筵 (波郷「雨覆」/昭和二十一年)
七月の童糞せり道の上 (波郷「病雁」/昭和十八年)
十月の顳顬(こめかみ)さやに秋刀魚食ふ (波郷「風切」/昭和十八年)
露か雨か十一月ははじまりぬ (波郷「酒中花以降」/昭和四十四年)
清瀬にも茜富士あり十二月 (波郷「酒中降」/昭和四十一年)
きらきらと八十八夜の雨墓に (波郷『惜命』/昭和二十三年/八十八夜=立春から八十八日目で、五月二日頃にあたる。)
名月や格子あるかに療養所 (波郷『惜命』/昭和二十四年/旧暦八月十五日=新暦九月十五日頃の「名月」)
十六夜の月無しの酒さめ易し (波郷『酒中花』/昭和二十四年/旧暦八月十五日の翌日の「十六夜の月」)
麻薬うてば十三夜月遁走す (波郷『惜命』/昭和二十三年/十三夜月=旧暦九月十三日=新暦十月十三日頃にあたる。)
十三夜酸素の水沫(みなわ)むせぶなり (波郷『酒中花』/昭和四十二年」)
寝待月酸素惜しまむ心あり (波郷『酒中花以降』/昭和四十四年」)
(参考三) 「十三夜・小望月・十六夜・立待月・居待月・寝待月(臥待月)・更待月・有明月」など
https://cancam.jp/archives/1012408
[ ■十三夜
十三夜とは陰暦13日の月を指します。陰暦9月13日の月を指す場合が多いです。実は中秋の名月(十五夜)に並ぶ名月として、古くから月見が行われていた日です。
■小望月
デジタル大辞林(小学館)によると、小望月とは望月(満月)の前夜、陰暦14日の夜の月のことを指します。陰暦では月の満ち欠け周期の約半分にあたる15日が満月であると考えられていました。そのため陰暦14日の夜は満月になる翌日の十五夜を待つ「待宵」とも言われています。
■十六夜
十六夜とは陰暦16日の月を指します。既望(きぼう)、哉生魄(さいせいはく)とも呼ばれます。「いざよう」は「ためらう・躊躇する」の意味で、十五夜よりも少し遅い時間に、ためらいがちに出てくる月にちなんで「いざよい」と名付けられています。
■立待月、居待月、寝待月(臥待月)、更待月
それぞれ、陰暦17日、18日、19日、20日の月を指します。当時の月の出を待ちわびる習慣で、最初は立って待ちますが、翌日は座って、翌々日は寝て、更に翌日は夜も更けるころまで待つことにちなんだ名前です。
■有明月
有明月とは夜明けになっても沈まずに残っている月を指します。十六夜以降の月が当てはまります。
(その八) 「秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす」

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/115
季語は「秋の暮」(三秋)。句意は、「晩秋の、その夕暮れ時に、病床の、吾がベッドの尿瓶(「寝ながらにして排尿する目的で多く使われる瓶」)に尿する、その音は、闘病の後の、安らかな『泉のこゑ(声)』の如きである。」
(参考一) 「秋の暮(あきのくれ)三秋」(季語)
[ 秋の暮(あきのくれ)三秋
【子季語】 秋の夕暮、秋の夕
【関連季語】 暮の秋
【解説】 秋の一日の夕暮れという意味と、秋という季節の終わりという意味がある。古来より二つの意味で使われてきたが、二つの意味が相互に響きあう場合も少なくない。<さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮> 寂蓮『新古今集』、<心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮>西行『新古今集』<見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮>藤原定家『新古今集』などと古くから歌われ、「もののあはれ」「寂しさ」象徴する季語となった。
【来歴】 『山の井』(正保5年、1648年)に所出。
【文学での言及】 秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。 清少納言『枕草子』
【例句】
死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 芭蕉「野ざらし紀行」
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉「其便」
門を出れば我も行人秋のくれ 蕪村「蕪村句集」
戸口より人影さしぬ秋の暮 青蘿「青蘿発句集」
日のくれと子供が言ひて秋の暮 高浜虚子 「六百句」
苔寺を出てその辺の秋の暮 高浜虚子 「七百五十句」
家にゐて旅のごとしや秋の暮 長谷川櫂「虚空」 」(「きごさい歳時記)」
(参考二)「秋の暮業火になりて秬(きび)は燃ゆ (波郷『鶴の眼』/昭和六年)
https://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_04.html
[ 第一句集『鶴の目』所収。波郷十八歳(昭和六年)の時の作。波郷が始めて「馬酔木」の巻頭を飾った作品である。その翌年(昭和七年)に上京し、「馬酔木」の同人となる。ここに、石橋辰之助(竹秋子)、高屋窓秋の両氏と共に、秋桜子門下の若き「馬酔木三羽烏」の俊秀が揃うこととなる。波郷は、昭和十二年には、主宰誌「鶴」を創刊し、志摩芳次郎氏が同人として加わることとなる。この「鶴」(昭和十四年)誌上において、波郷は「俳句は文学ではない」という、今に語り継がれている言葉を吐く。この「俳句は文学ではない」ということについては、志摩芳次郎氏は、「この言葉には、さまざまなふくみがあって、西欧の文学や思想に骨がらみとなった草田男にむかっていったと、考えられる」という鋭い指摘をしている。この指摘は、「俳句は文学ではない」という波郷の問に対する一つのキィワードのようなものを内包していると思われるのであるが、ここでは、この芳次郎の指摘だけに止めておくこととする。そして、波郷よりも十二歳年上の、中村草田男氏と波郷との関係というのは、相互に、何時も念頭にあって、切磋琢磨の好敵手ともいうべき間柄であったということを、少なくても、波郷においては、そのような関係にあったということは、ここに指摘しておきたい。
降る雪や明治は遠くなりにけり (草田男)
雪降れり時間の束の降るごとく (波郷)
思い出も金魚の水も蒼を帯びぬ (草田男)
朝顔の紺の彼方の月日かな (波郷)
そして、草田男、波郷と並んで「人間探求派」と称せられた加藤楸邨氏は、波郷が亡くなった時、次の句を詠んでいる。佳句が佳句を呼ぶ。彼等は真の同胞であっという思いを深くする。
秋の暮波郷燃ゆる火腹にひびく (楸邨)
☆波郷語録の「俳句は文学ではない」については、「風鶴山房」の次に詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/goroku/index.html
また、「波郷・草田男・楸邨」の三者のエピソードなどについては次に詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/ikku/index.html ]
https://izbooks.securesite.jp/hakyou025.html
[ 秋の暮溲瓶泉のこゑをなす 波郷
昭和24年作。句集『惜命』に収められた作品は、『風切』や『雨覆』の作品とは趣が異なる。考えれば当然のことである。自宅療養とは違って、同じように病と闘い、あるいは打ちのめされて敗れ去る人の姿を、日々目の当たりにしているのである。治療費の心配も重くのしかかる。一刻も早く、という焦りもある。家族への思いは複雑だろう。生きなければならない。しかし、そのための犠牲を強いられるのは自分ばかりではない。
黄葉はげし乏しき金を費ひをり
輝かしい黄葉の中に、自分はかくも貧しい。しかし、絶望はしない。卑屈という言葉に無縁の『惜命』の作品を読みながら、波郷の精神の健やかさ、たくましさを感じ、その明るさに周囲の人も自らの希望を見出しただろうと思う。
掲句は、秋の暮というもの淋しい景の中に、温かい命に満ちた一筋の音を描いて、『雨覆』での作品を彷彿させる。波郷の自註がある。
〈黄葉がたそがれの色につゝまれかける頃、妻は炊事に出かけてゐない、そんな時尿意を催すと、私は右手をまだ使へないので左の片手でベッドから紐を足らして結びつけてある溲瓶を吊り上げる。茶色で陶製の溲瓶は病室の床にうづくまり口をやゝ上に向けていつまでもおとなしく病床の主人に侍してゐる忠実な犬のやうであつた。患者達はそれで尿器のことを「ポチ」と称んでゐた。黄昏の病室で蒲団の下で尿器を使つてゐると、コボコボコボと静かな淋しい響をたてた。山中の泉にも似た響であつた〉。「肺の中のピンポン球」より
しかし、この句からわびしさだけを受け取ることはない。こんこんと湧く泉のような生の証し。『惜命』の中の「成形」と題されたルポルタージュともいえる作品群の中で、もっとも詩情の高い一句ではないだろうか。 ]
https://izbooks.securesite.jp/hakyou036.html
[ 泉への道後れゆく安けさよ 波郷
昭和27年、「馬酔木」の堀口星眠に誘われて、軽井沢に行ったときの作。二人で落葉松や樅の林を歩いた時に出来たと、「自句自解」にある。
〈私は肺活量が手術後一四〇〇しかなかった。今はもっと増えてゐるだろうが、それでも目で見てはわからぬ程の坂道でもすぐ息切れがして、あゝ坂になってるなと気づく程で、少し早足の人とは一緒に歩けない。堀口君はよく気のつく人だからそのことをすぐ気づいてゆつくり歩いてくれるが、しばらくすると私は又後れがちになる。堀口君も句を作りながら歩いてゐるから間隔があくに任せてゐる時がある。私にしてみれば、行きつく先は泉と知つて、後れながらも私自身のペースでゆつくりと歩いてゆくことは極めて平静なたのしさであつた。後れてゆくゆゑの安けさと思ふばかりである〉。
どんなに後れても、必ずそこで待っていてくれるという信頼感。同胞への挨拶。いや、説明は要らない。
波郷は、この句を色紙や短冊によく書いたという。筆者にとっても愛唱句である。]
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/115
季語は「秋の暮」(三秋)。句意は、「晩秋の、その夕暮れ時に、病床の、吾がベッドの尿瓶(「寝ながらにして排尿する目的で多く使われる瓶」)に尿する、その音は、闘病の後の、安らかな『泉のこゑ(声)』の如きである。」
(参考一) 「秋の暮(あきのくれ)三秋」(季語)
[ 秋の暮(あきのくれ)三秋
【子季語】 秋の夕暮、秋の夕
【関連季語】 暮の秋
【解説】 秋の一日の夕暮れという意味と、秋という季節の終わりという意味がある。古来より二つの意味で使われてきたが、二つの意味が相互に響きあう場合も少なくない。<さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮> 寂蓮『新古今集』、<心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮>西行『新古今集』<見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮>藤原定家『新古今集』などと古くから歌われ、「もののあはれ」「寂しさ」象徴する季語となった。
【来歴】 『山の井』(正保5年、1648年)に所出。
【文学での言及】 秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。 清少納言『枕草子』
【例句】
死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 芭蕉「野ざらし紀行」
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉「其便」
門を出れば我も行人秋のくれ 蕪村「蕪村句集」
戸口より人影さしぬ秋の暮 青蘿「青蘿発句集」
日のくれと子供が言ひて秋の暮 高浜虚子 「六百句」
苔寺を出てその辺の秋の暮 高浜虚子 「七百五十句」
家にゐて旅のごとしや秋の暮 長谷川櫂「虚空」 」(「きごさい歳時記)」
(参考二)「秋の暮業火になりて秬(きび)は燃ゆ (波郷『鶴の眼』/昭和六年)
https://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_04.html
[ 第一句集『鶴の目』所収。波郷十八歳(昭和六年)の時の作。波郷が始めて「馬酔木」の巻頭を飾った作品である。その翌年(昭和七年)に上京し、「馬酔木」の同人となる。ここに、石橋辰之助(竹秋子)、高屋窓秋の両氏と共に、秋桜子門下の若き「馬酔木三羽烏」の俊秀が揃うこととなる。波郷は、昭和十二年には、主宰誌「鶴」を創刊し、志摩芳次郎氏が同人として加わることとなる。この「鶴」(昭和十四年)誌上において、波郷は「俳句は文学ではない」という、今に語り継がれている言葉を吐く。この「俳句は文学ではない」ということについては、志摩芳次郎氏は、「この言葉には、さまざまなふくみがあって、西欧の文学や思想に骨がらみとなった草田男にむかっていったと、考えられる」という鋭い指摘をしている。この指摘は、「俳句は文学ではない」という波郷の問に対する一つのキィワードのようなものを内包していると思われるのであるが、ここでは、この芳次郎の指摘だけに止めておくこととする。そして、波郷よりも十二歳年上の、中村草田男氏と波郷との関係というのは、相互に、何時も念頭にあって、切磋琢磨の好敵手ともいうべき間柄であったということを、少なくても、波郷においては、そのような関係にあったということは、ここに指摘しておきたい。
降る雪や明治は遠くなりにけり (草田男)
雪降れり時間の束の降るごとく (波郷)
思い出も金魚の水も蒼を帯びぬ (草田男)
朝顔の紺の彼方の月日かな (波郷)
そして、草田男、波郷と並んで「人間探求派」と称せられた加藤楸邨氏は、波郷が亡くなった時、次の句を詠んでいる。佳句が佳句を呼ぶ。彼等は真の同胞であっという思いを深くする。
秋の暮波郷燃ゆる火腹にひびく (楸邨)
☆波郷語録の「俳句は文学ではない」については、「風鶴山房」の次に詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/goroku/index.html
また、「波郷・草田男・楸邨」の三者のエピソードなどについては次に詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/ikku/index.html ]
https://izbooks.securesite.jp/hakyou025.html
[ 秋の暮溲瓶泉のこゑをなす 波郷
昭和24年作。句集『惜命』に収められた作品は、『風切』や『雨覆』の作品とは趣が異なる。考えれば当然のことである。自宅療養とは違って、同じように病と闘い、あるいは打ちのめされて敗れ去る人の姿を、日々目の当たりにしているのである。治療費の心配も重くのしかかる。一刻も早く、という焦りもある。家族への思いは複雑だろう。生きなければならない。しかし、そのための犠牲を強いられるのは自分ばかりではない。
黄葉はげし乏しき金を費ひをり
輝かしい黄葉の中に、自分はかくも貧しい。しかし、絶望はしない。卑屈という言葉に無縁の『惜命』の作品を読みながら、波郷の精神の健やかさ、たくましさを感じ、その明るさに周囲の人も自らの希望を見出しただろうと思う。
掲句は、秋の暮というもの淋しい景の中に、温かい命に満ちた一筋の音を描いて、『雨覆』での作品を彷彿させる。波郷の自註がある。
〈黄葉がたそがれの色につゝまれかける頃、妻は炊事に出かけてゐない、そんな時尿意を催すと、私は右手をまだ使へないので左の片手でベッドから紐を足らして結びつけてある溲瓶を吊り上げる。茶色で陶製の溲瓶は病室の床にうづくまり口をやゝ上に向けていつまでもおとなしく病床の主人に侍してゐる忠実な犬のやうであつた。患者達はそれで尿器のことを「ポチ」と称んでゐた。黄昏の病室で蒲団の下で尿器を使つてゐると、コボコボコボと静かな淋しい響をたてた。山中の泉にも似た響であつた〉。「肺の中のピンポン球」より
しかし、この句からわびしさだけを受け取ることはない。こんこんと湧く泉のような生の証し。『惜命』の中の「成形」と題されたルポルタージュともいえる作品群の中で、もっとも詩情の高い一句ではないだろうか。 ]
https://izbooks.securesite.jp/hakyou036.html
[ 泉への道後れゆく安けさよ 波郷
昭和27年、「馬酔木」の堀口星眠に誘われて、軽井沢に行ったときの作。二人で落葉松や樅の林を歩いた時に出来たと、「自句自解」にある。
〈私は肺活量が手術後一四〇〇しかなかった。今はもっと増えてゐるだろうが、それでも目で見てはわからぬ程の坂道でもすぐ息切れがして、あゝ坂になってるなと気づく程で、少し早足の人とは一緒に歩けない。堀口君はよく気のつく人だからそのことをすぐ気づいてゆつくり歩いてくれるが、しばらくすると私は又後れがちになる。堀口君も句を作りながら歩いてゐるから間隔があくに任せてゐる時がある。私にしてみれば、行きつく先は泉と知つて、後れながらも私自身のペースでゆつくりと歩いてゆくことは極めて平静なたのしさであつた。後れてゆくゆゑの安けさと思ふばかりである〉。
どんなに後れても、必ずそこで待っていてくれるという信頼感。同胞への挨拶。いや、説明は要らない。
波郷は、この句を色紙や短冊によく書いたという。筆者にとっても愛唱句である。]
(その九) 「松籟や白息かたみにながし佇つ」

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/116
この句の季語は、上五の「松籟(初松籟)=新年になって初めて吹く松籟」(「新年)、そして、「爽籟(秋風・色なき風)」(三秋)と解するのではなく、中七・下五の「白息かたみ(互み)に・ながし」の「息白し(白息)」(三冬)と解するのであろう。また、志功の板画に彫る「松籟」は、「柗籟」の「松」の異体字になっている。
句意は、「冬日の松を吹き抜ける風の音が激しい病床に、病人の吾と看護人の妻とが互いに、白息を吐きながら、臥していた病床から起き上がろうとしている。」
(参考一) 「波郷・楸邨・草田男」の「息白し(白息)」の句
https://fudemaka57.exblog.jp/26578142/
暁に死せば息白き者等囲み立つ 石田波郷
鳩籠に少年の息白く迅し 石田波郷
息白し乙女と語るわが童児 石田波郷
白息を掌にかけて今日はじまりぬ 石田波郷
息白き早出看護婦等廊に満つ 石田波郷
松籟や白息互(かた)みにながし佇つ 石田波郷『惜命』
息白き妻が見てをり剃毛す 石田波郷『惜命』
肋切つてよりの白息の貧しさよ 石田波郷『惜命』
息白く七日の家長家を出づ 石田波郷『惜命』
ある夜わが吐く息白く裏切らる 加藤楸邨
息白々昨日を痣のごとく負ふ 加藤楸邨
わが書きし字へ白息をかけておく 加藤楸邨
今の世の白息壺の底に入るる 加藤秋邨
何おもふ白息をふと世に洩らし 加藤秋邨
弾む白息軟調の思ひ出に乗りゆくな 加藤秋邨
息白々昨日を痣のごとく負ふ 加藤秋邨
息白く子に書きおくること多し 加藤秋邨
息白く泣けば女体はぬくもらむ 加藤秋邨
燦爛と起重機上に白息す 加藤秋邨
白息やひらくてのひら大きく見ゆ 加藤秋邨
白息やわれに挙げきし右手左手 加藤秋邨
鋭声ふと引こめて息白くはく 加藤秋邨
息の白さ豊かさ子等に及ばざる 中村草田男
息白しいつまで残る明星ぞ 中村草田男
息白じろ女騙されかけ居るらし 中村草田男
牛と仔馬わが白息も片流れ 中村草田男
白き息はきつつこちら振返る 中村草田男
矢絣や妹若くして息白し 中村草田男
若き息黒天鵞絨に触れて白し 中村草田男
(参考二) 「人間探求派の誕生」周辺

(右から「石田波郷・加藤楸邨・中村草田男・篠原梵」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12463911/1/23
「昭和十四年八月の『俳句研究(山本健吉編集)』に掲載された「新しい俳句の課題」(その座談会上での山本健吉の命名の「人間探求派=草田男・楸邨・波郷・梵」の四人)
※ [ このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十九歳。波郷は「馬酔木」同人、「鶴」
主宰で二十七歳、楸邨も「馬酔木」同人で三十四歳であった。「寒雷」主宰となったのは翌年のことである。ちなみに山本健吉は三十三歳、篠原梵は三十歳であった。](『人間探求派 草田男・波郷・楸邨(有富光英著)』)
※ [ 人間探求派(にんげんたんきゅうは)とは、俳句において、自己の追求がそのま
ま俳句の追求になるように、自己の内面を生活のうちに詠もうとするもの。
「俳句研究」1939年8月号(改造社)に掲載された座談会「新しい俳句の課題」は、
当時難解派と呼ばれていた中村草田男、加藤楸邨、篠原梵、石田波郷が参加して行われた。座談会は、同誌編集長・山本健吉の「貴方がたの試みは結局人間の探求といふことになりますね」という発言に、加藤楸邨が「四人共通の傾向をいへば『俳句に於ける人間の探求』といふことになりませうか」と受けて締め括られ、この4名に代表される作品の傾向が人間探求派と呼ばれるようになる。
中村草田男 (1901年(明治34年)7月24日 - 1983年(昭和58年)8月5日)
加藤楸邨 (1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)
篠原梵 (1910年(明治43年)4月15日 - 1975年(昭和50年)10月17日)
石田波郷 (1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日) ](「ウイキペデア」) »
[ 中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7月24日 - 1983年〈昭和58年〉8月5日)は、日本の俳人・国文学者。成蹊大学名誉教授。本名は中村 清一郎(なかむら せいいちろう)。
中国アモイ出身。東京帝国大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。次世代の金子兜太などに多大な影響を与えた。忌日は「草田男忌」として、季語になっている。 ](「ウィキペデア」)
[ 加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)は、日本の俳人。本名は健雄(たけお)。位階は従四位。
水原秋桜子に師事。初期は『馬酔木』に拠ったが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなり、人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。第二次世界大戦後は戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開、また主宰した『寒雷』では伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てた。 ](「ウィキペデア」)
[ 石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、愛媛県出身の日本の俳人。本名は哲大(てつお)[1]。水原秋桜子に師事、『馬酔木』に拠ったのち、『鶴』を創刊・主宰。初期の青春性のあふれる叙情句から始まり、自己の生活を見つめる、人間性に深く根ざした作風を追求。加藤楸邨、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。昭和の第二次世界大戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き、切れ字を重視。戦中には結核を発病し、戦後は病と対峙する自身の生活を題材とする境涯俳句を詠み続けた。](「ウィキペデア」)
[ 篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975年10月17日)は、愛媛県出身の俳人、編集者・出版者。伊予郡南伊予村(現・伊予市)生。本名・敏之(としゆき)。俳号「梵」は郷里の松山で男の子のことを「ボン」と呼んだことによるという。
旧制松山高等学校を経て、1934年、東京大学文学部国文学科を卒業。1938年、中央公論社に入社。戦中の1944年、退職して郷里の愛媛青年師範学校で教師をしていたが、1948年に中央公論社に復職、「中央公論」編集長、同社出版部長、取締役を経て中央公論事業出版専務に就任。その後同社の社長に就任し、丸の内出版社の社長も兼任した。出版人として毎日出版文化賞、広告電通賞などを受賞している。
俳句は高校時代に川本臥風の指導を受け、大学入学後に臥風の紹介で臼田亜浪に師事、兄弟子の大野林火、原田種茅らからも指導を受け、亜浪の俳誌「石楠」にて実作・評論の両面で活躍した。1939年には、『俳句研究』8月号の座談会「新しい俳句の課題」に石田波郷、加藤楸邨、中村草田男とともに出席、この座談会をきっかけに他の3人とともに「人間探求派」と呼ばれることとなった。第二句集『雨』(1953年)出版後は、師・亜浪の逝去などのために意欲を失い句作をほぼ途絶。晩年には口語自由律の句作も試みたが、1975年、肝硬変により死去した。
句集に『皿』(1941年、甲鳥書林)、『雨』(1953年、石楠社)、『年々去来の花』(全句集。1974年、丸の内出版。別冊として自伝『径路』)、代表句に「葉桜の中の無数の空さわぐ」「扇風機止り醜き機械となれり」(ともに『皿』)などがあり、日常生活に取材した鋭い感覚、知性による表現の正確さ、しなやかなリズムが特色とされる。冨田拓也は、その作風に師・亜浪の持っていた破調的傾向や、即物的手法における山口誓子の影響、また切れ字や取り合わせを用いない散文的傾向などを指摘している。(「ウィキペデア」)
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/116
この句の季語は、上五の「松籟(初松籟)=新年になって初めて吹く松籟」(「新年)、そして、「爽籟(秋風・色なき風)」(三秋)と解するのではなく、中七・下五の「白息かたみ(互み)に・ながし」の「息白し(白息)」(三冬)と解するのであろう。また、志功の板画に彫る「松籟」は、「柗籟」の「松」の異体字になっている。
句意は、「冬日の松を吹き抜ける風の音が激しい病床に、病人の吾と看護人の妻とが互いに、白息を吐きながら、臥していた病床から起き上がろうとしている。」
(参考一) 「波郷・楸邨・草田男」の「息白し(白息)」の句
https://fudemaka57.exblog.jp/26578142/
暁に死せば息白き者等囲み立つ 石田波郷
鳩籠に少年の息白く迅し 石田波郷
息白し乙女と語るわが童児 石田波郷
白息を掌にかけて今日はじまりぬ 石田波郷
息白き早出看護婦等廊に満つ 石田波郷
松籟や白息互(かた)みにながし佇つ 石田波郷『惜命』
息白き妻が見てをり剃毛す 石田波郷『惜命』
肋切つてよりの白息の貧しさよ 石田波郷『惜命』
息白く七日の家長家を出づ 石田波郷『惜命』
ある夜わが吐く息白く裏切らる 加藤楸邨
息白々昨日を痣のごとく負ふ 加藤楸邨
わが書きし字へ白息をかけておく 加藤楸邨
今の世の白息壺の底に入るる 加藤秋邨
何おもふ白息をふと世に洩らし 加藤秋邨
弾む白息軟調の思ひ出に乗りゆくな 加藤秋邨
息白々昨日を痣のごとく負ふ 加藤秋邨
息白く子に書きおくること多し 加藤秋邨
息白く泣けば女体はぬくもらむ 加藤秋邨
燦爛と起重機上に白息す 加藤秋邨
白息やひらくてのひら大きく見ゆ 加藤秋邨
白息やわれに挙げきし右手左手 加藤秋邨
鋭声ふと引こめて息白くはく 加藤秋邨
息の白さ豊かさ子等に及ばざる 中村草田男
息白しいつまで残る明星ぞ 中村草田男
息白じろ女騙されかけ居るらし 中村草田男
牛と仔馬わが白息も片流れ 中村草田男
白き息はきつつこちら振返る 中村草田男
矢絣や妹若くして息白し 中村草田男
若き息黒天鵞絨に触れて白し 中村草田男
(参考二) 「人間探求派の誕生」周辺
(右から「石田波郷・加藤楸邨・中村草田男・篠原梵」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12463911/1/23
「昭和十四年八月の『俳句研究(山本健吉編集)』に掲載された「新しい俳句の課題」(その座談会上での山本健吉の命名の「人間探求派=草田男・楸邨・波郷・梵」の四人)
※ [ このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十九歳。波郷は「馬酔木」同人、「鶴」
主宰で二十七歳、楸邨も「馬酔木」同人で三十四歳であった。「寒雷」主宰となったのは翌年のことである。ちなみに山本健吉は三十三歳、篠原梵は三十歳であった。](『人間探求派 草田男・波郷・楸邨(有富光英著)』)
※ [ 人間探求派(にんげんたんきゅうは)とは、俳句において、自己の追求がそのま
ま俳句の追求になるように、自己の内面を生活のうちに詠もうとするもの。
「俳句研究」1939年8月号(改造社)に掲載された座談会「新しい俳句の課題」は、
当時難解派と呼ばれていた中村草田男、加藤楸邨、篠原梵、石田波郷が参加して行われた。座談会は、同誌編集長・山本健吉の「貴方がたの試みは結局人間の探求といふことになりますね」という発言に、加藤楸邨が「四人共通の傾向をいへば『俳句に於ける人間の探求』といふことになりませうか」と受けて締め括られ、この4名に代表される作品の傾向が人間探求派と呼ばれるようになる。
中村草田男 (1901年(明治34年)7月24日 - 1983年(昭和58年)8月5日)
加藤楸邨 (1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)
篠原梵 (1910年(明治43年)4月15日 - 1975年(昭和50年)10月17日)
石田波郷 (1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日) ](「ウイキペデア」) »
[ 中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7月24日 - 1983年〈昭和58年〉8月5日)は、日本の俳人・国文学者。成蹊大学名誉教授。本名は中村 清一郎(なかむら せいいちろう)。
中国アモイ出身。東京帝国大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。次世代の金子兜太などに多大な影響を与えた。忌日は「草田男忌」として、季語になっている。 ](「ウィキペデア」)
[ 加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)は、日本の俳人。本名は健雄(たけお)。位階は従四位。
水原秋桜子に師事。初期は『馬酔木』に拠ったが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなり、人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。第二次世界大戦後は戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開、また主宰した『寒雷』では伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てた。 ](「ウィキペデア」)
[ 石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、愛媛県出身の日本の俳人。本名は哲大(てつお)[1]。水原秋桜子に師事、『馬酔木』に拠ったのち、『鶴』を創刊・主宰。初期の青春性のあふれる叙情句から始まり、自己の生活を見つめる、人間性に深く根ざした作風を追求。加藤楸邨、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。昭和の第二次世界大戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き、切れ字を重視。戦中には結核を発病し、戦後は病と対峙する自身の生活を題材とする境涯俳句を詠み続けた。](「ウィキペデア」)
[ 篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975年10月17日)は、愛媛県出身の俳人、編集者・出版者。伊予郡南伊予村(現・伊予市)生。本名・敏之(としゆき)。俳号「梵」は郷里の松山で男の子のことを「ボン」と呼んだことによるという。
旧制松山高等学校を経て、1934年、東京大学文学部国文学科を卒業。1938年、中央公論社に入社。戦中の1944年、退職して郷里の愛媛青年師範学校で教師をしていたが、1948年に中央公論社に復職、「中央公論」編集長、同社出版部長、取締役を経て中央公論事業出版専務に就任。その後同社の社長に就任し、丸の内出版社の社長も兼任した。出版人として毎日出版文化賞、広告電通賞などを受賞している。
俳句は高校時代に川本臥風の指導を受け、大学入学後に臥風の紹介で臼田亜浪に師事、兄弟子の大野林火、原田種茅らからも指導を受け、亜浪の俳誌「石楠」にて実作・評論の両面で活躍した。1939年には、『俳句研究』8月号の座談会「新しい俳句の課題」に石田波郷、加藤楸邨、中村草田男とともに出席、この座談会をきっかけに他の3人とともに「人間探求派」と呼ばれることとなった。第二句集『雨』(1953年)出版後は、師・亜浪の逝去などのために意欲を失い句作をほぼ途絶。晩年には口語自由律の句作も試みたが、1975年、肝硬変により死去した。
句集に『皿』(1941年、甲鳥書林)、『雨』(1953年、石楠社)、『年々去来の花』(全句集。1974年、丸の内出版。別冊として自伝『径路』)、代表句に「葉桜の中の無数の空さわぐ」「扇風機止り醜き機械となれり」(ともに『皿』)などがあり、日常生活に取材した鋭い感覚、知性による表現の正確さ、しなやかなリズムが特色とされる。冨田拓也は、その作風に師・亜浪の持っていた破調的傾向や、即物的手法における山口誓子の影響、また切れ字や取り合わせを用いない散文的傾向などを指摘している。(「ウィキペデア」)
(その十) 「悴み病めど栄光の如く子等育つ」

「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/116
季語は、「悴(かじか)む=冬の冷気のため、手足が思うように動かせなくなる状態。」(晩冬)。この句は、「悴み病めど(七音)・栄光の如く(七音)・子等育つ(五音)」の破調の句。
この句の前後の句は、この種の破調の句がオンパレード的に続く。
扶け起さるるや(九音)/濃霜(四音)・衝迫す(五音) 『惜命/昭和二十三年』
冬日の妻よ(七音)/吾に肋骨(七音)・無きのちも(五音) 『惜命/昭和二十三年』
足袋脱ぐ妻(六音)・ひとりの衾(七音)・踏み立ちて(五音) 『惜命/昭和二十三年』
※悴み病めど(七音)・栄光の如く(七音)・子等育つ(五音) 『惜命/昭和二十三年』
枯薗を(五音)・師が去りしかば(七音)/みつめをり(五音) 『惜命/昭和二十三年』
枯薗より(六音)・見えて寝嵩(ねがさ)や(七音)/うすれけむ(五音) 『惜命/昭和二十三年』
これらの波郷の破調の句は、「たばしるや鵙叫喚す胸形変」の「成形大手術」の後、「マルメロ享けぬ二次成形を告げらつつ」と、再手術を、医者より告知された後の、波郷の、当時の心境を如実に物語っているものであろう。
そして、それは、当時の、波郷の、「五・七・五=十七音字」の「俳句(発句)」という「定型」(器)の中での、「俳句は文学ではない」と「逆説」的に宣言した、この「俳句(発句)形式」への、その限りない「自負」(「信じて疑わない」)にも似た挑戦の一つの証しのように解すべきもののように思われる。
このことに関連して、上記の「枯薗より(六音)・見えて寝嵩(ねがさ)や(七音)/うすれけむ(五音)」の句は、波郷の主宰誌「鶴」と深く関係している、そして、波郷を高く評価している一大の俳句評論家・山本健吉夫人でもある、「石橋秀野」の、次の句が念頭にあることを付記して置きたい。
卯の花腐し寝嵩(ねがさ)うすれてゆくばかり 石橋秀野(『『定本 石橋秀野句文集』』)
波郷の、この句の句意は、「第一成形手術が終わった。されど、まだ完治には程遠い。第二次成形手術があるという。これは、まさしく、身も心も、悴むような業病であるが、そういう中で、一縷の希望の灯の、『栄光を担う』が如きに、吾が子の成長ぶりであることよ。」
(参考一) 「石田波郷・あき子」・「加藤楸邨・知世子」そして「中村草田男」の「悴む」の句
https://fudemaka57.exblog.jp/23455341/
悴みて瞑りて皇居過ぎゐしか 石田波郷『雨覆/昭和二十年』
悴み病めど栄光の如く子等育つ 石田波郷『惜命/昭和二十三年』
一些事に躓きしより悴めり 石田あき子 『見舞籠』
悴みて喪にゆく夫や畦づたひ 石田あき子 『見舞籠』
病む夫に耳悴みて仕へけり 石田あき子『 見舞籠』
飴なめて流離悴むこともなし 加藤秋邨 『野哭』
悴むとその身切りさう鎌の神 加藤知世子『 花寂び』
悴みてひとの離合も歪なる 中村草田男
(参考二) 「石橋秀野」周辺
「 石橋 秀野(いしばし ひでの、1909年2月19日[1] - 1947年9月26日)は、俳人。俳句評論家山本健吉の妻。
明治42年(1909年)2月19日、奈良県に生まれる。旧姓藪。文化学院文学部(大学部本科)卒業。文化学院中学部の時、学監与謝野晶子に短歌を、高浜虚子に俳句を学ぶ。大学部では正課に俳句がなかった為、勝手に作って虚子に見てもらっていたという。昭和4年(1929年)、俳句評論家の山本健吉(本名石橋貞吉)と結婚、石橋姓となる。昭和13年(1938年)頃より、横光利一の十日会句会に参加、俳句を復活し、石田波郷、石塚友二らと相知るようになり「鶴」入会。後に「鶴」課題句の選者となり、「鶴」を代表する女流俳人として活躍する。
昭和20年(1945年)には夫の島根新聞社赴任に従い島根県に移住、松江、鳥取の「鶴」俳人達と句会を催した。昭和21年(1946年)7月には夫が京都日日新聞社論説委員となったため京都に転居。しかし戦時中の疎開生活中に病に侵され、昭和22年(1947年)9月26日、京都宇多野療養所にて38歳で死去。
約10年間の作品と随筆12編他による句文集『桜濃く』(1949年)は、追悼の意を込め刊行され第1回茅舎賞(1954年=第3回から「現代俳句協会賞」に名称変更)を受賞する。無量寿院(福岡県八女市本町)の「石橋氏累代之墓」に眠っている。
曼珠沙華消えてしまひし野面かな
西日照りいのち無惨にありにけり
短夜の看護り給ふも縁(えにし)かな
蝉時雨子は担送車に追ひつけず ](「ウイキペデア」)
昭和十八年九月二十三日召集令
雁のきのふの夕とわかちなし(波郷『病雁』昭和十八年)
波郷氏出征
征く君に熱き新酒とおぼえけり(石橋秀野『定本石橋秀野句文集』昭和十八年)
七月二十一日入院(※京都宇多野療養所に入院、九月二十六日永眠。)
蝉時雨子は坦送車に追ひつけず (石橋秀野『定本石橋秀野句文集』昭和二十二年)
坦送車に見しは鶏頭他おぼえず (波郷『惜命』昭和二十三年)
[ 夜話 1562 秀野追悼資料 ( 四 )
https://ameblo.jp/yameyobanashi/entry-11945763648.html?frm=theme
山陰日日新聞昭和26年9月2595号の「石橋秀野女史七周忌金魚亭特集」からの引用である (「金魚亭」は不明)
紙面の追悼句をあげる
秀野忌や朝顔垣を破りゐて 石田波郷
病み古りてかごむ心やきりぎりす 石田波郷
秀野忌のいとゞも影をひきにけり 石田波郷
秀野忌と燃えにぞ燃ゆる曼珠沙華 石塚友二
秀野の忌かえりみすれば年さびぬ 清水基吉
鶏頭の朱の秀野の忌となりし 清水基吉
雨の中鵙たばしる秀野の忌 清水基吉 ]
http://www.snk.or.jp/snk3/matitanken/kurumen/yame/index.html

山本健吉、石橋秀野の同じ石を分け合った夫婦句碑
蝉時雨児は擔送車に追ひつけず (「石橋秀野/昭和二十二年」)
こぶし咲く昨日の今日となりしかな (「山本健吉/昭和六十三年)
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「胸形變板画巻」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/116
季語は、「悴(かじか)む=冬の冷気のため、手足が思うように動かせなくなる状態。」(晩冬)。この句は、「悴み病めど(七音)・栄光の如く(七音)・子等育つ(五音)」の破調の句。
この句の前後の句は、この種の破調の句がオンパレード的に続く。
扶け起さるるや(九音)/濃霜(四音)・衝迫す(五音) 『惜命/昭和二十三年』
冬日の妻よ(七音)/吾に肋骨(七音)・無きのちも(五音) 『惜命/昭和二十三年』
足袋脱ぐ妻(六音)・ひとりの衾(七音)・踏み立ちて(五音) 『惜命/昭和二十三年』
※悴み病めど(七音)・栄光の如く(七音)・子等育つ(五音) 『惜命/昭和二十三年』
枯薗を(五音)・師が去りしかば(七音)/みつめをり(五音) 『惜命/昭和二十三年』
枯薗より(六音)・見えて寝嵩(ねがさ)や(七音)/うすれけむ(五音) 『惜命/昭和二十三年』
これらの波郷の破調の句は、「たばしるや鵙叫喚す胸形変」の「成形大手術」の後、「マルメロ享けぬ二次成形を告げらつつ」と、再手術を、医者より告知された後の、波郷の、当時の心境を如実に物語っているものであろう。
そして、それは、当時の、波郷の、「五・七・五=十七音字」の「俳句(発句)」という「定型」(器)の中での、「俳句は文学ではない」と「逆説」的に宣言した、この「俳句(発句)形式」への、その限りない「自負」(「信じて疑わない」)にも似た挑戦の一つの証しのように解すべきもののように思われる。
このことに関連して、上記の「枯薗より(六音)・見えて寝嵩(ねがさ)や(七音)/うすれけむ(五音)」の句は、波郷の主宰誌「鶴」と深く関係している、そして、波郷を高く評価している一大の俳句評論家・山本健吉夫人でもある、「石橋秀野」の、次の句が念頭にあることを付記して置きたい。
卯の花腐し寝嵩(ねがさ)うすれてゆくばかり 石橋秀野(『『定本 石橋秀野句文集』』)
波郷の、この句の句意は、「第一成形手術が終わった。されど、まだ完治には程遠い。第二次成形手術があるという。これは、まさしく、身も心も、悴むような業病であるが、そういう中で、一縷の希望の灯の、『栄光を担う』が如きに、吾が子の成長ぶりであることよ。」
(参考一) 「石田波郷・あき子」・「加藤楸邨・知世子」そして「中村草田男」の「悴む」の句
https://fudemaka57.exblog.jp/23455341/
悴みて瞑りて皇居過ぎゐしか 石田波郷『雨覆/昭和二十年』
悴み病めど栄光の如く子等育つ 石田波郷『惜命/昭和二十三年』
一些事に躓きしより悴めり 石田あき子 『見舞籠』
悴みて喪にゆく夫や畦づたひ 石田あき子 『見舞籠』
病む夫に耳悴みて仕へけり 石田あき子『 見舞籠』
飴なめて流離悴むこともなし 加藤秋邨 『野哭』
悴むとその身切りさう鎌の神 加藤知世子『 花寂び』
悴みてひとの離合も歪なる 中村草田男
(参考二) 「石橋秀野」周辺
「 石橋 秀野(いしばし ひでの、1909年2月19日[1] - 1947年9月26日)は、俳人。俳句評論家山本健吉の妻。
明治42年(1909年)2月19日、奈良県に生まれる。旧姓藪。文化学院文学部(大学部本科)卒業。文化学院中学部の時、学監与謝野晶子に短歌を、高浜虚子に俳句を学ぶ。大学部では正課に俳句がなかった為、勝手に作って虚子に見てもらっていたという。昭和4年(1929年)、俳句評論家の山本健吉(本名石橋貞吉)と結婚、石橋姓となる。昭和13年(1938年)頃より、横光利一の十日会句会に参加、俳句を復活し、石田波郷、石塚友二らと相知るようになり「鶴」入会。後に「鶴」課題句の選者となり、「鶴」を代表する女流俳人として活躍する。
昭和20年(1945年)には夫の島根新聞社赴任に従い島根県に移住、松江、鳥取の「鶴」俳人達と句会を催した。昭和21年(1946年)7月には夫が京都日日新聞社論説委員となったため京都に転居。しかし戦時中の疎開生活中に病に侵され、昭和22年(1947年)9月26日、京都宇多野療養所にて38歳で死去。
約10年間の作品と随筆12編他による句文集『桜濃く』(1949年)は、追悼の意を込め刊行され第1回茅舎賞(1954年=第3回から「現代俳句協会賞」に名称変更)を受賞する。無量寿院(福岡県八女市本町)の「石橋氏累代之墓」に眠っている。
曼珠沙華消えてしまひし野面かな
西日照りいのち無惨にありにけり
短夜の看護り給ふも縁(えにし)かな
蝉時雨子は担送車に追ひつけず ](「ウイキペデア」)
昭和十八年九月二十三日召集令
雁のきのふの夕とわかちなし(波郷『病雁』昭和十八年)
波郷氏出征
征く君に熱き新酒とおぼえけり(石橋秀野『定本石橋秀野句文集』昭和十八年)
七月二十一日入院(※京都宇多野療養所に入院、九月二十六日永眠。)
蝉時雨子は坦送車に追ひつけず (石橋秀野『定本石橋秀野句文集』昭和二十二年)
坦送車に見しは鶏頭他おぼえず (波郷『惜命』昭和二十三年)
[ 夜話 1562 秀野追悼資料 ( 四 )
https://ameblo.jp/yameyobanashi/entry-11945763648.html?frm=theme
山陰日日新聞昭和26年9月2595号の「石橋秀野女史七周忌金魚亭特集」からの引用である (「金魚亭」は不明)
紙面の追悼句をあげる
秀野忌や朝顔垣を破りゐて 石田波郷
病み古りてかごむ心やきりぎりす 石田波郷
秀野忌のいとゞも影をひきにけり 石田波郷
秀野忌と燃えにぞ燃ゆる曼珠沙華 石塚友二
秀野の忌かえりみすれば年さびぬ 清水基吉
鶏頭の朱の秀野の忌となりし 清水基吉
雨の中鵙たばしる秀野の忌 清水基吉 ]
http://www.snk.or.jp/snk3/matitanken/kurumen/yame/index.html
山本健吉、石橋秀野の同じ石を分け合った夫婦句碑
蝉時雨児は擔送車に追ひつけず (「石橋秀野/昭和二十二年」)
こぶし咲く昨日の今日となりしかな (「山本健吉/昭和六十三年)
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