月曜日, 6月 26, 2006

寺山修司の俳句



寺山修司の俳句(その一)

 昭和五十八年(一九三五)に生まれ、昭和五十八年(一九八三)にその四十七年の短い生涯を閉じた寺山修司については、「歌人・劇作家。青森県生まれ。早大中退。歌人として出発、劇団『天井桟敷(さじき)』を設立、前衛演劇活動を展開。歌集『空には本』『血と麦』、劇作『青森県のせむし男』など」(『大辞林』)と、「歌人として出発」というのが一般的な紹介である。しかし、この寺山修司こそ、そのスタートの原点は「俳句」にあり、そして、昭和俳壇の巨匠たちによって、その才能を見出され、多いに嘱望された、いわば、「俳句の申し子」のような存在であった。それらの昭和俳壇の巨匠たちの俳人・修司のデビュー当時の「俳句選評」などを見ていきながら、「寺山修司の俳句の世界」というものをフォローしてみたい(参考文献『寺山修司俳句全集』・あんず堂)。

○ 便所より青空見えて啄木忌
    (「螢雪時代」昭和二十八年十一月号・俳句二席入選・中村草田男選)
(選後評)二席の寺山君。この作者は種々の専門俳誌にも句を投じていて、非常に器用である。感覚にもフレッシュなところがある。ただ器用貧乏という言葉もあるように、器用にまかせて多作して、肝腎の素質を擦りへらしてしまってはいけない。この句には確かに、困窮の庶民生活中にありながら常に希望と解放の時期を求めつづけた啄木に通う気分が備わっている。ただ、それが、観念的にその気分に匹敵する構成素材をさがしあてているような、やや機械的なところがある。

 この昭和二十八年に中村草田男選となった掲出の句は、修司の『誰か故郷を思わざる』(芳賀書店)によると「中学一年の時の作」と明言しているが、掲出の『寺山修司全句集』によると、県立青森高校に入学した十五歳の頃の作品のようである。それにしても、この中学から高校にかけて、これらの句を作句して、そして、昭和俳壇の巨匠・中村草田男の「選後評」を受けているということは、寺山修司が実に早熟な稀に見る才能の持主であったということを実感するのである。そして、上記の草田男の「器用にまかせて多作して、肝腎の素質を擦りへらしてしまってはいけない」という指摘は、その後の修司の多彩な活動の展開とその多彩な活動によりその持てるものを全てを燃焼し尽くしてしまったと思われるその短い生涯を暗示しているようで、印象深いものがある。


寺山修司の俳句(その二)

○ 母と別れしあとも祭の笛通る
○ べつの蝉鳴きつぎの母の嘘小さし
  (「氷海」昭和二十七年九月号・秋元不死男選)

 掲出の二句は括弧書きのとおり秋元不死男主宰の俳誌 「氷海」での巻頭を飾ったうちの
二句である。不死男氏といえば、戦前は新興俳句の旗手として、そして、戦後においては、「俳句もの説」を提示して、山口誓子主宰の「天狼」とあわせ、その東京句会を母胎とした「氷海」を主宰し、鷹羽狩行・上田五千石らの幾多の俊秀を輩出していった。それらの潮流は現に今なお脈々として流れていて、その影響力というのは実に大きい。そして、寺山修司は、次の秋元不死男氏の「選後雑感」のとおり、高校二年生のときに、その俳誌 「氷海」の巻頭を飾ったというのであるから、そのまま、俳句オンリーの道を精進していたならば、狩行・五千石氏らの俳句の世界以上のものを現出したかも知れないということは、決して過言ではなかろう。寺山修司は、それだけの早熟で、そして、稀に見る逸材であったということは、この掲出の二句からだけでも、容易に肯定できるところのものであろう。

「秋元不死男の(選後雑感)」 巻頭に寺山修司君を推した。同君は前号でも触れたが、青森高校の二年生。もちろん俳句を始めて、そう長くはないにちがいない。しかしつくる俳句は洵にうまく、成熟した感のあるには常々驚いている。少し成人の感なきにしもあらずだが、やはりうまい俳句はうまいので何とも いたし難い。八句の中では先の句が青年らしい純情と哀愁があって好もしい。齢を重ねた人の子心でないことは一読瞭らかである。前句には、青年の恋情がある。恋情というのは、異性に心ひかれることだが、それは青年らしい純心なそれである。母を恋うという言葉のなかにある、女性への佗しい感傷的な感情である。それは少年になく、二十歳を越えた人にない。母親のなかに恋人を感じる、その気持がこの句に出ている。後の句は、母のいう嘘を嘘と解するようになった、これも青年の一面に成熟してくる批判的な眼でつくられている。そこが面白い。しかし、それていてこの句には母親の相(すがた)がよく出ている。まだ子供だと思って、本気で嘘を云う、それが子供に「小さし」と思われることを知らない。そういう可憐で善良な母親が出ている。「べつの蝉鳴きつぎ」は作者の感情を象徴しながら、それが具象のなかで生かされている。旨いと云わざるを得ない。(「氷海」昭和二十七年九月号)

 この秋元不死男氏の「つくる俳句は洵にうまく、成熟した感のあるには常々驚いている。少し成人の感なきにしもあらずだが、やはりうまい俳句はうまいので何ともいたし難い」
というのは、寺山修司の俳句の全てに言えることで、また、それが故に、修司は、その「うまさ」の領域から脱出することができず、自ら俳句の世界から身を引く結果をもたらしたようにも思えるのである。

寺山修司の俳句(その三)

○ もしジャズが止めば凧ばかりの夜
        (「氷海」昭和二十七年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)寺山君のジャズの句は、これはいかにも青年らしい感傷を詠った句であるが、ジャズよりも凧に心情を走らせている作者の姿が、巧みに表現されている。眼前に聞えているのは凧でなくジャズであるにも拘らず、句のなかからは凧の音が高く、はっきりと聞えてくる。そういう巧みさをもっている。

○ ちゝはゝの墓寄りそひぬ合歓のなか
      (「青森よみうり文芸」昭和二十七年一月度入賞俳句・秀逸・秋元不死男選)
(評)合歓の葉は日暮れると合掌して眠る。その中に父母の墓が寄りそって建っている。父母への追想の情がしっとりと詠われた。

○ 船去って鱈場の雨の粗く降る
       (「青森よみうり文芸」昭和二十七年二月度入賞俳句・秀逸・秋元不死男選)
(評)船が去った。作者の意識は折り返したように屈折して「雨の粗く降る」と詠った。この感覚の屈折がいい。

掲出の三句についての選句雑感(評)は、昭和二十七年の「氷海」・「青森よみうり文芸」の秋元不死男氏のものである。このとき寺山修司は高校二年で、俳人・寺山修司の誕生には、「氷海」主宰の秋元不死男氏を抜きにしては語れないであろう。そして、掲出の句に見られる青春時代の屈折した感情や父母への追想の情念というのは、俳人・秋元不死男氏のスタート時点にも色濃く宿していた。言葉を換えてするならば、不死男はこれらの修司の句を見て、さながら、自分自身の在りし日々のことを重ね合わせていたようにもとれるのである。すなわち、不死男氏の昭和十二年作のものに、「父病むこと久しくして死せり。一家いよいよ貧しければ、時折夜店行商に赴く。わが十四歳の時なり」の前書きのある次の句などが掲出の修司の句と重ね合わせってくるのである。

○ 寒(さむ)や母地のアセチレン風に欷(な)き  秋元不死男
○ 水洟の同じ背丈の母と歩めり        同上

寺山修司の俳句(その四)

○ 紅蟹がかくれ岩間に足あまる
(「七曜」昭和二十七年五月号・橋本多佳予選)
(鑑賞)岩の間にかくれた紅蟹が足をかくし余している。少年はおろかな蟹に手を近づけてゆく。「足あまる」はユーモラスであるし、あわれである。この作者は若い。この他の一一句も夫れ夫れに 面白い。 初めて見る作者であるがこれだけで力をぬかず精進してほしい。

○ 初蝶の翅ゆるめしがとゞまらず
       (「七曜」昭和二十七年八月号・橋本多佳子選)
(鑑賞)初蝶の翅はちらちらといつもせわしい。その翅がふとゆるやかになったように感じた。おや止るのかと見ていると、そうでもなく蝶はそのまゝ国飛びつゞけていった。初蝶に向った作者の愛情の眼が、心の喜びとはずみを伝へている。「翅ゆるめしがとゞまらず」は作者の心の響でもある。

 これらの二句は、橋本多佳子主宰の俳誌 「七曜」における多佳子選とその選評のものである。俳誌 「七曜」は昭和二十三年に、山口誓子主宰の俳誌 「天狼」の姉妹誌として創刊された。その「七曜」の指針は、「見る、よく視る、深く観る」、「自由な発想、純粋な思考、たくましい表現」とか(「俳句」・昭和五二臨時増刊)。寺山修司は高校二年のときに、秋元不死男の「氷海」のみならず、橋本多佳子氏の「七曜」にも投句していて、そして、「天狼」系の女流俳人として名高い多佳子主宰に、「初めて見る作者であるがこれだけで力をぬかず精進してほしい」とその才能を見抜かれているのである。秋元不死男選のものが、秋元不死男流に「俳句はうまくなくてはならない」という選の作品のものに比して、この橋本多佳子選のものは、多佳子流の「見る、よく視る、深く観る」という観点からの作品傾向が察知されるのである。そして、もし、寺山修司がこの面での精進を怠らなかったならば、二十代にして俳句の世界から身を退くということもなかったのではなかろうかという思いがするのである。

寺山修司の俳句(その五)

○ 風の菊神父は帽を脱ぎ通る
        (「七曜」昭和二十八年一月号・橋本多佳子選)
(鑑償)風の中の神父と菊の花群である。神父の帽子は、黒く柔らかくそしてやゝつば広いものと思う。風に飛ぶことを倶れて神父は頭に手をやり帽子をつかみとり、やゝ前かがみに菊の群れ咲く前を過ぎた。これだけの一つの風景に過ぎないのだが、風というものに対する神父の心と動作が実によく 描かれた。 高校二年という作者に私は期待する。尚このグループと思われる高校生の投句はみな上手である。 青森の遠い地で如何に勉強しているのであろうか、是非つづけてほしいと祈っている。

○ 山鳩啼く祈りわれより母ながき
         (「七曜」昭和二十八年三月号・七曜集より・橋本多佳子評)

(観賞)  額づいて祈る母と子がいる。母と並んで祈っていた頭をあげると母はなお祈りつゞけて額づいて いるのであった。山鳩のこえはこの二人を包む様にほうほうと啼いている。作者は何か心をうたれてなおも母のうなじに眼を落している。若い美しい句である。

 ここで、寺山修司の、昭和二十六年から二十八年の年譜を見てみると次のとおりである。

昭和二十六年(十五歳)   青森県立青森高校に入学。学校新聞、文学部に参加。「青校新聞」に詩「黒猫」、「東奥日報」に短歌「母逝く」などを発表。「暖鳥」句会に出席する。

昭和二十七年(十六歳)  青森県高校文学部会議を組織。詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。全国の十代の俳句誌「牧羊神」を創刊、編集。これを通じ中村草田男、西東三鬼、山口誓子らの知遇を得る。自薦句集「べにがに」制作。「東奥日報」「よみうり文芸」「学燈」「蛍雪時代」「氷海」「七曜」等に投稿。

昭和二十八年(十七歳)全国学生俳句会議を組織し、俳句大会を主催。中村草田男『銀河依然』、ラディゲ『火の頬』を愛読。自薦句集「浪漫飛行」制作。大映母物映画を好んで見る。

 掲出の一句目の橋本多佳子氏の「観賞」の「尚このグループと思われる高校生の投句はみな上手である。 青森の遠い地で如何に勉強しているのであろうか、是非つづけてほしいと祈っている」の、「このグループ」というのは、「青森県高校文学部会議」のメンバー(京武久美・近藤昭一・塩谷律子など)を指しているのであろう。即ち、寺山修司だけではなく、その修司をして俳句に熱中させた好敵手ともいえる京武久美らとの切磋琢磨が、「青森という遠い地」で開花して、それが、「全国学生俳句会議」へと発展していくのである。掲出二句目の多佳子の「観賞」の「若い美しい句である」というのは、寺山修司俳句のみならず、修司を取り巻く「青森高校文学部会議」、そして、「全国学生俳句会議」のメンバーの俳句にも均しく言えることであろう。

寺山修司の俳句(その六)

○ 古書売りし日は海へ行く軒燕                     
(「氷海」昭和二十八年五月号・秋元不死男選)
(選後雑感) この感傷は大人の感傷ではない。やはり高等学校の生徒である。修司君の感傷だ。青春の感傷であって、いかにも杼情的な作品である。だから軽いというわけではないので、こういう 句はそれをその本来の味いて感じとればよい。批評の重点を「重さ」とか「強さ」におけば、おのずから鑑賞や、味い方から外れて、他のことをいうことになる。わたしはこの句に、学生の哀愁を見つけ、学生の生活感情の一面にふれて、作者の共感に通うものを見つけて満足するのである。

○ 耕すや遠くのラジオは尋ねびと
(「青森よみうり文芸」昭和二十八年・中島斌雄選)
(評)耕す耳に風にのってきこえるラジオ。それはまだ戦の記憶をかきたてる「尋ねびと」である。十七音の中に色々の思いがこもっている。

○ 麦の芽に日当るに類ふ父が欲し
    (「青森よみうり文芸」昭和二十八年九月度入賞俳句・秀逸・中村草田男選)
(評)たとえ作者に父親があったとしてもこの抒情は通用する。「完全なる父性」の希求の声である。しかもごく特殊な心理的な句のようであって、視覚的な実感が、具体性を十分に一句に付与している。無言で何気なく質実であたたかい ・・・麦の芽に日当る景はまさに「父性の具現」である。

○ 口開けて虹見る煙突工の友よ
(「青森よみうり文芸」昭和二十八年・加藤楸邨選)
(評)よい素質。実感をどこまでも大切にすることをのぞむ。

寺山修司の高校三年のときの、今なお、日本俳壇史上にその名を留めている、秋元不死男・中島斌雄・中村草田男・加藤楸邨氏の各選とその評である。秋元不死男氏の「氷海」のモットーは「誰も作ったことのない俳句、古いものにあったかっての新しさを再発見して再生して新しい俳句を作る」とか。その視点からの「学生の哀愁を見つけ、学生の生活感情の一面にふれて、作者の共感に通うものを見つけて満足するのである」とは、いかにも不死男氏らしい評である。中島斌雄評の「十七音の中に色々の思いがこもっている」も、「常に自己の生活のただ中に生まれる真実の感動でなければならない」とする斌雄氏の俳句観からの評という思いがする。中村草田男氏の評の「父性の具現」との評も、「満緑」のモットーの「『芸』としての要素と『文学』としての要素から成り立つ俳句」の、そのニュアンスからのものという思いを深くする。そして、「寒雷」(「俳句の中に人間を活かす」が楸邨主宰のモットーとか)の加藤楸邨氏の「よい素質。実感をどこまでも大切にすることをのぞむ」との評は、そのものずばりで、いかにも、楸邨氏らしい評である。しかし、二十代前の高校在学中に、これらの名だたる俳人から、選句され、そして、その評を受けているということは、つくづく「寺山修司恐るべし」という感を深くする。



寺山修司の俳句(その七)

○ 菊売車いづこへ押すも母貧し
○ 煙突の見ゆる日向に足袋乾けり
(「学燈」昭和二十八年十一月号・石田波郷選)

(選者の言葉)「菊売車」の句、原句では「花売車」であった。作者のいいたいことは「花売車」で出ているし、季節などに関わりのないことである。然し「菊売車」にすると「花売車」でいえたことはそのまま出ている上に、爽かな季節感が一句を観念情感の世界にとどめないで、眼前に母の働く町をあきらかに展開する。そういう俳句としての重要なはたらきを示すのである。そういうことがわからなかったり、必要と感じないというのでは俳句のようなものはその人には無用なのである。「煙突の」の句は、この「日向」に生活的な実感があるが、新しみはない。こういう構図で見せるような句は、実感だけでなく、構図そのものに新味が必要だ。「煙突の見える場所」という小説や映画の題名が作用しているとしたら・・・などという憶測はしないでおく。作者を信用することは大切だからである。

○ ラグビーの頬傷ほてる海見ては
  (「学燈」昭和三十年一月号・石田波郷選)

(選者の言葉)寺山修司君は、この欄のベテラン。捉えるべきものを捉え、表現もたしかだ。うまみが露出するところが句をいくらかあまくしているようだ。

昭和二十八年と同三十年の「学燈」における、石田波郷選とその評である。この石田波郷評は鋭い。「『原句では『花売車』であった。作者のいいたいことは『花売車』で出ているし、季節などに関わりのないことである。然し『菊売車』にすると『花売車』でいえたことはそのまま出ている上に、爽かな季節感が一句を観念情感の世界にとどめないで、眼前に母の働く町をあきらかに展開する。そういう俳句としての重要なはたらきを示すのである。そういうことがわからなかったり、必要と感じないというのでは俳句のようなものはその人には無用なのである』。「捉えるべきものを捉え、表現もたしかだ。うまみが露出するところが句をいくらかあまくしているようだ」。石田波郷氏は、中村草田男・加藤楸邨両氏と共に「人間探求派」の一人と目され、昭和俳壇の頂点を極めて俳人であった。そして、波郷氏も、寺山修司と同じように、早熟な稀にみる才能の持主であった。「秋の暮業火となりて秬(きび)は燃ゆ」以下の句で、弱冠十九歳の若さで、水原秋桜子主宰の「馬酔木」の巻頭を飾ったのであった。波郷氏が主宰した「鶴」の信条は「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」(昭和二一・三月「鶴」復刊)であるが、波郷氏は、修司俳句が「生活実感・季語・切字」の「生活実感・季語」の曖昧さを鋭く指摘して、秋元不死男流の「うまい俳句」や俗受けするような「安易な言葉の選択(“煙突の見える場所”という小説や映画の題名が作用している」というようなニュアンス)」では、限界があるということを見抜いていたのであろう。

寺山修司の俳句(その八)

○ 丈を越す穂麦の中の母へ行かむ
○ 氷柱風色噂が母に似て来しより
  (「暖鳥」昭和二十八年十二月号・’一十八年度暖鳥集総評・成田千空評)

柔軟な若々しい感性が強み。しかし、ときおり露わにする先達のすさまじい模倣が気になる。唯、この人の場合その模倣の仕方に独特の敏感さと手離しのイメージがあって捨て難い。捨てがたいがやはり気になる。これが創作や詩の場合だと、思いきり広い世界にイメージを展開出来るが、俳句という短詩型ではどうしても細工の跡が目立つのである。しかしこの人の稟質を思うと、俳句に新しいイマジネーションの世界を拓く萌芽にならぬとも限らぬので、当否はしばらく保留したい気持である。作者のいちばん素直な感情の表白は母の句であろう。

○ 夜濯ぎの母へ山吹流れつけよ
   (「七曜」昭和二十九年一月号・一旬鑑賞・渡辺ゆき子評)
  七曜集の数多い秀句の中から敢えて若く美しいこの一句をぬきました。作者は夜濯ぎに出た母恋しく、闇にも紛れず咲く山吹の辺に佇ちました。その一花を摘もうとすればほろほろと流れに散り浮ぶ花びら。作者の投じた山吹も共に夜の清流に乗りました。作者の願望と愛情を托された山吹は、作者と母との距離を沈むこともなく流れてゆくことでしょう。素直な表現はかえって私の心を静かにしかも強く縛ちました。 私はこの作者程母の句を沢山作られる方を他に知りません。母の句は易しい様でむずかしいと申します。しかしこの方はすべて若く新鮮な感覚で母を詠んで居られます。
  
山鳩啼く祈りわれより母ながき
   麦広らいづこに母の憩ひしあと

この汚れぬ詩情を尊びたいと思います。

昭和二十八年の「暖鳥」の成田千空選句評と昭和二十九年の「七曜」の渡辺ゆき子選句評である。このお二人が共通して指摘している、「寺山修司の母をモチーフとした佳句」は、寺山修司俳句の一つの特徴でもある。

  蜩(ひぐらし)の道のなかばに母と逢ふ  (昭和二六)
  母恋し田舎の薔薇と飛行機音      (昭和二七)
  短日の影のラクガキ母欲しや      (昭和二八)
  母来るべし鉄路に菫咲くまでは     (昭和二九)

 これらの寺山修司の十代のときに書かれた母恋い句は、後に、二十年代の最後のとき(昭和四十年)の第三歌集『田園に死す』において、次のとおりの短歌作品として結実してくる。

  大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ(昭和四十年『田園に死す』)
  地平線揺るる視野なり子守唄うたへる母の背にありし日以後(同上)
  売られたる夜の冬田へ一人来て埋めゆく母の真赤な櫛を(同上)

この『田園を死す』の「跋」で、寺山修司は次のような一文を記す。
「これは、私の『記録』である。自分の原体験を、立ちどまって反芻してみることで、私が一体どこから来て、どこへ行こうとしているのかを考えてみることは意味のないことではなかったと思う。もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかも知れない。」
 この「憎むほど故郷を愛していたのかも知れない」の、この「故郷」の原型こそ、寺山修司の十代の母恋い句の、その母の意味するものなのであろう。

寺山修司の俳句(その九)

○ 自動車の輪の下郷土や溝清水
  (「螢雪時代」昭和二十八年九月号・俳句一席入選・中村草田男選)
(選後評)一席の寺山修司君。全部の作品、粒がそろっていたが、この作品には私がかなり筆を入れた。原作は「車輪の下はすぐに郷里や…」であったが、それでは汽車の場合と区別がつかないし、仮りに作者が汽車中にあるものとすると、「溝清水」との連関がピッタリしなくなる。意を汲んで・・・斯く改めたのである。我身をのせてる自動車は既に故郷の地域に入っている。パウンドが快くひびいてくるにつけて・・・車輪の下は故郷の土なのだ.その土ももう間もなく自分は久振りで直接に踏むことができるのだ。・・・という喜びの気持が湧いてきた。窓から外を見ると、すぐ傍を、幅広い溝をみたして清水が走っている、これ亦、勿論「故郷在り」の感を強めたのである。巧みな句である。

○ 大揚羽教師ひとりのときは優し
   (「螢雪時代」昭和二十九年一月号・俳句二席入選・中村草田男選)
(選後評)一席の寺山君。やさしいけれども、大きく物々しい揚羽蝶を点出して、逆に生徒にとって何といっても一種物々しい存在である教師がやさしく感じられたケィスをひきたてている。技巧が程よく実感と終結している。

○ タンポポ踏む啄木祭のビラはるべく
      (「埼玉よみうり文芸」昭和二十九年・三谷昭選)
(評) 啄木にちなんだ催しのビラを、野中の電柱にはっている情景。足もとのタンポポのひなびた姿と、啄木に寄せる青年の思慕の思いとが適切に結ばれている。

 寺山修司の昭和二十九年のネット記事で見てみると次のとおりである。

昭和二十九年(十八歳)
「早稲田大学教育学部国語国文科に入学。埼玉県川口市の叔父、坂本豊治宅に下宿。シュペングラーの『西欧の没落』に心酔する。夏休みに奈良へ旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる。北園克衛の「VOU」および短歌同人誌「荒野」に参加。「チエホフ祭」で第二回短歌研究新人賞。しかし俳句からの模倣問題が取り上げられ、歌壇は非難で騒然となる。母はつは立川基地に住込みメイドの職を得る。修司、混合性腎臓炎のため立川市の河野病院に入院。」 

http://blog.goo.ne.jp/monkee666/e/4ec212bf08e02ba2c5d563a1cde05b35

 寺山修司は、この年に高校を卒業して、大学進学のため、埼玉県川口市に移り住んだのであろう。その前年の九月と、高校卒業前の一月の中村草田男の選句評が、上記の「蛍雪時代」の「戦後評」である。そして、「埼玉よみうり文芸」の三谷昭選のものは、川口市に移り住んだ当時のものであろう。三谷昭氏もまた、山口誓子主宰の「天狼」系の、西東三鬼氏に連なる俳人である。このように見てくると、寺山修司は、山口誓子・橋本多佳子・秋元不死男・西東三鬼・平畑静塔・三谷昭各氏と、現代俳句の一大潮流をなしていた「天狼」の多くのの有力俳人の知己を、既に、二十代にして得ていたということになる。このことは、上記の年譜の、「夏休みに奈良へ旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる」という記事からも明らかなところであろう。これらの俳人と共に、当時の現代俳句の指導者たる地位を占めていた、中村草田男氏が、寺山修司俳句を温かく見守っていたということなのであろう。

寺山修司の俳句(その十)

○ もしジャズが止めば凧ばかりの夜
        (「氷海」昭和二十七年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)寺山君のジャズの句は、これはいかにも青年らしい感傷を詠った句であるが、ジャズ よりも凧に心情を走らせている作者の姿が、巧みに表現されている。眼前に聞えているのは凧でな くジャズであるにも拘らず、句のなかからは凧の音が高く、はっきりと聞えてくる。そういう巧み さをもっている

○ 教師とみる階段の窓雁かへる
         (「氷海」昭和二十八年十一月号・秋元不死男選)
(選後雑感)作者は学生である。学生と教師の間をつなぐものは、要するに「学」の需給である。味気ないといえば味気ない関係である。冷たい関係といえば冷たい関係である。 しかし、この句では教師と学生の関係は「学」の代りに「詩」でむすばれている。教師と帰る雁をともにみたということは、友達や恋人とみたことではない。教師とみたという心持のなかには、やはり一種の緊張感がある。その上、雁をともにみたという二人の人間の上には、既に師弟の関係は成立していない。学の需給関係はないのだ。それがわたしには面白いのである。

○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて
       (「氷海」昭和二十九年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)「桃太る」は「桃実る」である。夜になると、何ということなしに怒るじぷんを感じる。白昼は忙しく、目まぐるしいので、怒ることも忘れている、と解釈する必要はなかろう。何ということなく夜になると怒りを感じるのである。そういうとき桃をふと考える。すでに桃はあらゆる樹に熟している。それは「実る」というより、ふてぶてしく「太る」という感じであると、作者 は思ったのである。それは心中怒りを感じているからだ。何に対する怒りであるか、それは鑑賞者がじぶん勝手に鑑賞するしかない。

 寺山修司の、昭和二十七から昭和二十九年の、秋元不死男主宰の「氷海」での不死男選となった一句選である。修司は当時の俳壇の本流とも化していた、人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、「ホトトギス」の高浜虚子主宰をして、「辺境に鉾を進める征虜大将軍」(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する「天狼」の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった。そして、なかでも、後年、「俳句もの説」(「俳句」昭和四〇・三)で、日本俳壇に大きな影響を与えた、「氷海」の秋元不死男主宰の寺山修司への惚れ込みようはずば抜けていたということであろう。そして、この「氷海」からは、鷹羽狩行・上田五千石が育っていって、もし、俳人・寺山修司がその一角に位置していたならば、現在の日本俳壇も大きく様変わりをしていたことであろう。さて、この掲出句の三句目が、その「氷海」で公表された四ヶ月後の、その十一月に、修司は「第二回短歌研究新人賞特薦」の「チェホフ祭」を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる。そして、この受賞作は、修司俳句の「本句取り」の短歌で、そのことと、秋元不死男氏始め上述の俳人らの俳句の剽窃などのことで肯定・否定のうちに物議騒然となった話題作でもあった。そして、寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの「本句取り」の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ。そのこと一事をとっても、寺山修司という、劇作・歌作などまれに見るマルチニストは、俳句からスタートとして、本質的には、俳句の申し子的な存在であったような思いがする。惜しむらくは、神は、寺山修司をして、その彼の本来の道を全うさせず、その生を奪ったということであろう。

○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば (寺山修司)

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