水曜日, 6月 28, 2006

住宅顕信の自由律

住宅顕信の自由律(その一)

自由律俳句について、先の、橋本夢道に続き、尾崎放哉とも種田山頭火とも思っていたが、その放哉に心酔して、昭和六十二年(一九八七)に満二十五歳という若さで夭逝した住宅(すみたく)顕信(けんしん)の自由律俳句が何故か心に過ぎった。顕信は若い世代の方々を中心として根強いファンがおり、それらのことについて『住宅顕信読本』(中央公論新社)での、心に残った「顕信評」のようなものの紹介を兼ねながら、「自由律俳句」と「顕信俳句」というものを見ていきたいということである。

「欠落と過剰」(文芸評論家・仁平勝)

○ ずぶぬれて犬ころ
「顕信の代表作のひとつである。まずはこの句を読みながら、自由律俳句の本質とはなにかという問いを提出してみたい。そしてわたしの用意している答えは、すなわち欠落感である」。

 仁平氏はこの前提として、「自由律とは、定型にとらわれない自由のリズムではない。それなら俳句ではなくて、一行の自由詩になってしまう。自由律俳句とは、定型を前提とした上で、そこから自由になろうとすることだ」と指摘している。このことを極端に押し進めと、「自由律俳句の作家は極めて定型律俳句に関心があり過ぎて、それが故に、その他の定型律俳句の約束の季語とか切字以上に、定型律そのもののリズムを解体しょうとする俳人たち」ということにもなりそうである。そして、このような動きは、単に、自由律俳句の作家だけではなく、例えば、高柳重信らの「多行式俳句」の作家たちによっても試行されたものでもあった。しかし、「多行式俳句」においては、「俳句における切れ」ということをスタイル的に「あれかこれか」したが、自由律俳句においては、それらの「俳句における切れ」ということには無関心で、如何に、「定型律のリズム感」を、仁平氏の言葉ですると「欠落感的なリズム」にするかということに関心が向いていたように思えるのである。その意味で、住宅顕信の生き様そのものが、この「欠落感」と同居し、そして、この「欠落感」こそが、顕信俳句に接する人に、「己の欠落感」というようなものを感知させるように思えるのである。

○ 水滴のひとつひとつが笑つている顔だ
「こんどはこういう句を前にして、ふたたび自由律俳句の本質とはなにかという問いを考えてみる。するともうひとつの答えとして、それは過剰感であるといってみたくなる」。

 仁平氏は「先の欠落感がメダルの表側とすれば、過剰感はその裏側であり、作者によって放りなげられたメダルは、二通りの着地をするわけだ」との面白い指摘をしている。定型律を解体するには、短くするか(短律)、長くするか(長律)の二通りしかなく、そして、それは、メタルの表と後ろとの関係であって、その本体は「欠落感」・「過剰感」の「定型を解体するという心」なのであろう。そして、その「アンチ定型の心」というのは、多かれ少なかれ誰しもが有しているものであり、自由律俳人、そして、自由律俳人・住宅顕信は、自分の生涯と、その分身の自由律俳句に、その「アンチ定型の心」をもって、描きに描いたという思いがするのである。

○ お茶をついでもらう私がいっぱいになる
「一句のなかに『お茶をついでもらう』と『私がいっぱいになる』という二つの文が並列しているように見えるが、『お茶をついでもらう』という前の文は、同時に『私』を省略していて、いわば複文の構造が背後に隠れている。欠落感と過剰感とが同居したような文体といっていい」。

 自由律俳句のスタイルは、上記の短律と長律以外に、その短律と長律とが複合したスタイルもあるというのである。そして、それはより多くスタイルの問題なのであるが、定型律俳句の二句一章体の俳句の「二物衝撃」のような余韻を醸し出しているというのであろう。しかし、これらの仁平氏の自由律俳句の三つの解題の根底は、「アンチ定型の心」ということであり、住宅顕信の「心の動き」を最も的確に表現できるものは、「アンチ定型の心」を充たす、いわゆる「自由律俳句」以外になかったということがいえるのかも知れない。



住宅顕信の自由律(その二)

「俳句よりも俳句的」(俳人・岸本尚毅)

○ ずぶぬれて犬ころ
「わずか九音の作品だ。黙読すると心の中で『ず・ぶ・ぬ・れ・て・い・ぬ・こ・ろ』という声がする。それは顕信の声でも、読み手自身の声でもない」。

 岸本氏は、仁平勝氏が「欠落と過剰」で問題にしていることを、聴覚的な音声(黙読を含めて)という視点から論じている。そして、「内言語」(外に、音声や文字となって現れない言語)のことに触れ、文語は「響き」を感じさせ、口語は「声」を感じさせるのに、住宅顕信の句は、口語体の句でありながら響きを感じさせるというのである。

○ 鬼とは私のことか豆がまかれる
「この句を黙読するとき、読み手は声にならぬ声で、『鬼とは私のことか・・・』と心の中でつぶやく。そのつぶやきは顕信の声でも読み手自身の声でもない。俳句を黙読するときに脳裏に響く声は、誰の声でもなく、言葉そのものの響きだ」。

 かって、平畑静塔氏は「俳人というのは歌手のようなもので、いかに、五・七・五の定型をうまく歌いこなすかというようなものだ」との俳論を公表したやに記憶している(『俳人格』)。このことに関連させると、自由律俳人の多くは、アンチ定型で、岸本氏のいわれる「俳句(五・七・五)よりも俳句的(アンチ定型)」な、レトッリック的な言葉の響きをその中心に据えており、その限りにおいては上記の岸本氏の指摘には共感するものが多い。これらのことに関連して、岸本氏は、仁平氏の「欠落」としての自由律俳句の「短さ」・「沈黙」の点を強調するが、それは「短さ」・「沈黙」の自由律の「欠落」のもののみならず、自由律の「過剰」という面での「アンチ定型」の作品の表現においても均しく言えることであろう。という条件付きで、次の岸本氏の顕信俳句の指摘は素直に首肯することができるのである。 

「季語も定型も持たない自由律俳句は俳句ではないという人もいる。しかし、定義の問題はさておき、顕信の作品は『短さ』に徹したという点では、俳句よりもさらに俳句的だ。もし俳句でないとすれば、俳句よりもさらに研ぎ澄まされた何か、というべきだろう」。

 この岸本氏の「俳句よりもさらに研ぎ澄まされた何か」ということは、夏石番矢氏のいう「裸の表現」と相通じているのかも知れない。

住宅顕信の自由律(その三)

「俳句と悲劇」(作家・小林恭二)

○ 「一人死亡」というデジタルの冷たい表示
「現代の死をきっちりと言いとめた佳吟だと思う。この句から強く感じられるのは、死を一個の事象として冷静にみつめている気分である。もしこの句を担当医が見たら眉をひそめただろう。まるで舞台裏をみすかされたような気分になって」。

 定型律俳句と自由律俳句との如何を問わず、俳人というのは、その創作の対象物の特性を冷酷なまでに凝視し、驚くべきほどその特性というものを浮き彫りにさせる。自由律俳人・住宅顕信も紛れもなくその俳人の俳眼というものをギラつかせていた。

○ レントゲンに淋しい胸のうちのぞかれた
○ 若さとはこんな淋しい春なのか
○ 心電図淋しい音立てている胸がある
「『捨てられた人形』として自分を客観視した顕信は、ここで自分の内側を覗く作業を開始する。そしてどうにもならない『淋しさ』を覚えている心を発見する」。

 この小林氏の指摘は、「主客の一体化」(歌人・穂村弘)という視点での自由律俳人・住宅顕信俳句の解剖であろう。

○ 電話口に来てバイバイが言える子になった
○ 父と子でありさびしい星を見ている
○ かあちゃんが言えて母のない子よ
「自分の淋しさをてらうことなく詠めるようになった顕信は、ほぼ同時に子供のことも詠めるようになった。発病、離婚、俳句、闘病、子育て、一時にそんなめくるめく経験をしていた顕信にとって、それまで子はさして大きな要素ではなかったのではないか」。

 自由律俳人・住宅顕信の生涯というものは、他の著名な自由律俳人の尾崎放哉や種田山頭火に比しても、その短い生涯であったということにおいては、より以上に過酷なものであったということはいえるのかも知れない。その短い生涯において、「己の世界だけではなく、己の分身の己の子の世界」を、その自由律の俳句の創作の場で活かすことができたということは、大きな僥倖であったようにも思われる。

○ 春風の重い扉だ
「いわゆる俳句的技巧がまったく使われておらず、吐息のようにも聞える」。

 この指摘は、「俳句よりも俳句的」(俳人・岸本尚毅)に近い。

○ 氷枕に支えられている天井がある
○ 朝はブラインドの影にしばられていた
○ 窓の冷たい朝月にふれてみる
「この頃は病状が小康状態だったのだろうか。病気の切迫感というより、むしろ俳句としての完成度が目につく」。

 この指摘は、「国境を越える裸の表現」(俳人・夏石番矢)に近い。

○ 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「『未完成』の最後に置かれた句である。時系列順に編集されているなら、絶詠ということになる。迂闊に名句だとか佳吟だとか言えない不気味な雰囲気がある」。

 この指摘の思いは、「住宅顕信との出合い」(俳人・黒田杏子)と同じものであろう。


住宅顕信の自由律(その四)

「住宅顕信との出合い」(俳人・黒田杏子)

○ 面会謝絶の戸を開けて冬がやってくる
○ 点滴と白い月とがぶらさがっている夜
○ 一つの墓を光らせ墓山夕やけ
○ 退院がのびた日の昼月が窓をのぞく
○ 念仏の口が愚痴をゆうてた
○ 赤ん坊の寝顔へそっと戸をしめる(長男初節句)
○ 合掌するその子が蚊をうつ
○ 脈を計っただけの平安な朝です
○ 影もそまつな食事している
○ 消灯の放送があってそれからの月が明るい
○ 秋が来たことをまず聴診器の冷たさ
○ 月、静かに氷枕の氷がくずれる
○ 淋しい犬の犬らしく尾をふる
○ 地をはっても生きていたいみのむし
○ そこを曲がれば月を背に帰るばかり
○ 朝から待っている雲がその顔になる
○ 捨てられた人形がみせたからくり
○ 背中丸めてねむる明日の夢つつんでおく
○ 年の瀬の足二本洗ってもらう
○ 電話口に来てバイバイが言える子になった
○ 春風の重い扉だ
○ かあちゃんが言えて母のない子よ
○ 抱きあげてやれない子の高さに坐る
○ 月が冷たい音落とした
○ ずぶぬれの犬ころ
「住宅顕信との出合いは句集『未完成』でした。広告を見て、版元に直接電話して送ってもらい、一気に読んで合掌しました。・・・・ (上記の)二十五句は『俳句と出合う』で紹介した顕信の作品です」。

 住宅顕信が亡くなったのは、昭和六十二年(一九八七)二月七日、数え歳で二十六歳という夭逝であった。その翌年に、住宅顕信句集『未完成』が刊行され、このときに、俳人・黒田杏子氏と遭遇しているのである。黒田杏子氏が、小学館発行の「本の窓」の「こんにちは俳句」(後に『俳句と出合う』)の八十八名のひとりに、ほとんど無名に近かった住宅顕信を取り上げ、そこで紹介した顕信俳句が上記の二十五句である。それは名うての目利きの黒田杏子氏の目にとまった二十五句であるが、顕信俳句の佳句、二十五句といっても差し支えなかろう。


住宅顕信の自由律(その五)

「国境を越える裸の表現」(俳人・夏石番矢)

○ 影もそまつな食事をしている
○ 思い出の雲がその顔になる
○ 水滴のひとつが笑っている顔だ
○ すぶぬれて犬ころ
「住宅顕信の句の虚飾のなさに動かされて、推奨する文章などをいくつか書いた。とくに最後の句は、なんどもなんども代表作として推薦した。当時、自由律俳句は過去のものだが、住宅顕信は認めてやる、こういう反応を多くの俳人はしていた。いや現在でもそうかもしれない。そして、一時期は住宅顕信に言及していた俳人も、そのうちに住宅顕信をすっかり忘れてしまった。ブランシュというフランス俳人から、住宅顕信の名が出たとき、意外な氣がしたのは、こういう日本の俳句事情があったせいもあるだろう」。

 黒田杏子氏が、小学館発行の「本の窓」の「こんにちは俳句」に住宅顕信を紹介していたころ、住宅顕信の年譜(一九八八年)を見ると、「夏石番矢、長谷川櫂、岸本尚毅、大屋達治、小沢実などの注目を集める」とある。さらに、一九九三年(平成五)に「吉備路文学館にて 夏石番矢『魂の俳句』と村上護『青春俳句は可能か』の講演も」とあり、その翌年の年譜に「見目誠とパトリック・ブランシュ共訳の仏訳住宅顕信句集『未完成』が完成」とあり、上記の夏石番矢氏の一文に出てくる、「ブランシュという俳人」とは、この年譜に出てくるパトリック・ブランシュ氏のことであろう。

○ 洗面器の中のゆがんだ顔すくいあげる
「ついせんだって目の手術をするため一週間入院した。入院は、病気を治療するだけではなく、裸の自分を見つめさせる機会でもあることを、そのさい知った。まして住宅顕信の場合は、生きて退院することの望めない入院である。健康な若者であったころは、社会通念や雑念で見えなくなっていた自分や他者の裸の姿が痛いほどよく見えただろう。このような裸の真実をとらえた自由律俳句が、日本でも海外でも愛されるのは、当然すぎるほど当然なのである」。

 夏石番矢氏は、上記の文章に続いて、「住宅顕信を通して、俳句は裸の真実をとらえるのに適した世界的なジャンルとして成長してゆくのが見えてくるのは、とてもうれしいことだ」と結んでいる。この「裸の真実」、そして、「国境を越える裸の表現」という夏石番矢氏の洞察には、もろ手をあげて賛同いたしたい。

 
住宅顕信の自由律(その六)

「主客の一体化」(歌人・穂村弘)

○ 歩きたい廊下に爽やかな夏の陽がさす
○ 許されたシャワーが朝の虹となる
○ おなべはあたたかい我が家の箸でいただく
○ 四角い僕の夜空にも星が満ちてくる
「これらの句においては『廊下』『シャワー』『おなべ』『夜空』といった日常的な対象が強い憧れ喜びの感情と共に詠まれている」。

 これらの句について、歌人・種村弘氏は「言葉そのものが真に詩的な普遍性をもつところには至っていない」と続ける。

○ 初夏を大きくバッタがとんだ
○ 春夏の重い扉だ
○ お茶をついでもらう私がいっぱいになる
「これらの句には、作品背景の特殊性を直接に想像させる言葉は全く含まれていない。読者はこれらを病者の作品とは思わず、単なる日常詠として受け取ることになる。・・・・ いずれの場合も『バッタ』や『扉』や『湯のみ』などの表現対象と『私』がひとつになることで、自分自身の生命感が表現されているわけである」。

 これらの句について、種村氏は、「『ここでは”大きく””重い””いっぱいに”などのありふれた語が不思議な鮮烈さをもって読み手の胸に迫ってくる』と指摘している。

○ 盃にうれしい顔があふれる
「ここでは主客は完全に一体化している、現実に『あふれた』ものは『うれしい顔』ではなく酒であろう。・・・・・ 代表句『ずぶぬれて犬ころ』や『捨てられた人形がみせたからくり』などを、表現対象と『私』との一体化が最も端的に示された例とみることも可能だと思う」。

 これらの「主客一体化」の句として、種村氏は、住宅顕信の代表句、「ずぶぬれて犬ころ」や「捨てられた人形がみせたからくり」などもあげている。

住宅顕信の自由律(その七)

「雨の俳人」(イラストレーター・安西水丸)

○ たいくつな病室の窓に雨をいただく
○ 雨音にめざめてより降りつづく雨
○ 降りはじめた雨の心音
○ 朝をおくらせて窓に降る雨
○ 坐ることができて昼の雨となる
○ 夜の窓に肌寒い雨の曲線
○ 早い雨音の秋が来た病室
○ 牛乳が届かない雨の朝のけだるさ
○ 降れば冷たい春が来るという雨
○ 今日も静かに生きて冬の雨の日の選曲
○ うすぐらい独りの病室の雨音となる
○ 降れば一日雨を見ている窓がある
○ ポストが口あけている雨の往来
○ 梅雨が冷たいストレッチャーに横たわる
○ 淋しさきしませて雨あがりのブランコ
「こうした雨の句を見ていると、たまらなく淋しさがこみ上げてくる。すべての句にじくじくと冷たい雨が降っているようにおもえるのだ。病室」で乳飲み児を育てて、こんな淋しい句を詠んでいたのかとおもうと、たまらくやるせない」。

 続けて、イラストレーター・安西永丸氏は、「確かに放哉にしても山頭火にしても、かれの句に流れているものは、寂寞とした空気だ。それは俳句ではないが、日本の詩人、萩原朔太郎や中原中也、それに立原道造などにも通じるものがある」と続ける。この「寂寞とした空気だ」という指摘は、先の黒田杏子氏の「放哉の句を支えるほんものの孤心、底知れない沈黙の深さ」などと相通じているものなのであろう。

 
住宅顕信の自由律(その八)

「顕信さんの俳句が見せてくれたもの」(映画監督・石井聡互)

○ 若さとはこんな淋しい春なのか
「顕信さんの句、そのほとんどが、一読させていただいただけで、いたたまれなく、痛切、哀切です」。
 この「淋しさ」こそ、住宅顕信の主たるモチーフであった。

○ かあちゃんが言えて母のない子よ
「そのなんともやりきれない人生の宿命の悲惨さに、私は涙を禁じ得ません」。
 住宅顕信の、「句の中に『淋しい』が張りついている」(作家・長嶋有「『淋しい』という人」)。 

○ 病んで遠い日のせみの声
「病院での孤独な入院闘病生活。日々進行する不治の病。生と死を濃密に見つめる視線と研ぎ澄まされた夜」。
 それは、同時に、「過酷な宿命と人生故に彼の句が力あるのではなく、それと正面から向き合って格闘し、その向こうにある真実の震えの確かな定着をめざし続けた、彼の意志の気高さがすばらしいのです」と石井氏は続ける。

○ 何もないポケットに手がある
「極端に短い瞬間言葉表現である」。
 これまた、石井氏の「顕信さんに残された時間がないこと、その中で、なんとか自分の創作の極みまで高めたいことの覚悟と焦りなのでしょう」という指摘も鋭い。

○ 鬼とは私のことか豆がまかれる
○ 自殺願望、メラメラと燃える火がある
「顕信さんは、寄せてくる過敏な絶望と孤独に押しつぶされることなく、一人の俳人として、最後まで、創作を極めようと神経を研ぎ澄ませていきます」。

○ 深い夜の底に落とした蚊がなく
「宇宙が真空で、絶対孤独の暗闇、『無』に包まれていて、私たちはその『死』の世界では生きられないけれど、そこは同時に、我々の命の大もとが生まれたエネルギーの粒子や波動が眠り、凝縮されている故郷で、いつかは必ず、全員が、独りで、そこに還ってゆかなければなりません」。

○夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「病院での闘病生活の深い夜に沈殿し、『修羅』と『悲』との葛藤にじっと耐え、それを凝縮した果ての、鋭利な極限の集中には、闇の中に胎動し、やがて躍動する命の光の粒子の生成変化、命の大もとの震えが、はっきりと感じられていたのだと思います」。

○両手に星をつかみたい子のバンザイ
「過酷な宿命と人生故に彼の句が力あるのではなく、それと正面から向き合って格闘し、その向こうにある真実の震えの確かな定着をめざし続けた、彼の意志の気高さがすばらしいのです」。
 と同時に、「言葉を宝石に変える者。それが詩人だとすれば、住宅顕信は、宝石の輝きを自分の生命で刻磨した詩人であった」(コピーライター・真木準「明るい住宅」)。


住宅顕信の自由律(その九)

「夭逝詩人としての顕信」(日本放哉学会々員・見目誠)

○ 病んで遠い日のせみ声
○ 水滴のひとつひとつが笑っている顔だ
○ とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる
○ 月明り、青い咳する
○ 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「顕信は、二八一個のすぐれた辞世を残すためにのみ短期間、地球上に滞在した熾天使のひとりであった」。
 この見目誠氏はフランス人のパトリック・ブランシュ氏と共訳で住宅顕信の『未完成』を完成した方である。見目氏は続けて、「芭蕉は弟子から句を詠むときの心構えを問われた際、『平生即チ辞世なり』(実に辞世を詠んでいるつもりである)と答えたという。みの世を生きたのはわずか二六ヶ年にもむ満たず、実質的な句作期間としては二年半ほどの時間しかあたえられなかった顕信は、否が応でも芭蕉のこの言葉を実践したことになる」。



「『海市』での顕信」(俳人・藤本一幸)

○ 焼け跡のにごり水流れる
○ 立ちあがればよろめく星空
○ 春風の重い扉だ
○ 一人の灯をあかあかと点けている
○ 月明り、青い咳する
○ 風ひたひたと走り去る人の廊下
○ 月が冷たい音落とした
○ 水音、冬が来ている
○ ずぶぬれて犬ころ
○ 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「感情表現の直截的リズムを重視する自由律俳句の特徴として、言葉のもつインパクトの強烈さと肌で感じる臨場感は、到底定型俳句の及ぶところではない。特に彼の作品は、定型よりもさらに短い『短律』という句法を基調にしているにもかかわらず、切迫した感情が何の不自由さもなく、わずかの音に収まり、それがかえって意味の重さを強める効果を生んでいる」。
 昭和六十年に自由律俳句誌「海市(かいし)」を創刊した藤本義一氏を抜きにしても今日の住宅顕信は語れないであろう。藤本氏は「詩歌の本質的な役目は、とりもなおさず人間に生の喜びを与えるということに尽きる。これまで住宅顕信の記録をずっと追いかけてきた者として、無名の彼が注目され出したことに人一倍の感慨がある。少ない句数ながら命を賭けて生まれた作品は、緩みきった現代の短詩型の世界に一つの衝撃を与えると同時に、同じような病気で苦悩する若者たちに一つの希望を与えるに違いない」と続ける。


住宅顕信の自由律(その十)

「顕信は生きつづける」(岡山大学教授・池畑秀一)

 住宅顕信を語る際に、藤本義一氏の「海市」の仲間の一人の池畑秀一氏をも抜きにしては、今日の住宅顕信は存在しないということになろう。そして、この二人の出逢いとうのも誠に数奇なものという印象を持たざるを得ない。あまつさえ、次のような住宅顕信句碑建立に、池畑秀一氏は奔走するのである。

○ 水滴のひとつひとつが笑っている顔だ
「平成三年十二月、詩人の吉備路文学館山本遺太郎館長を委員長とする『住宅顕信句碑建設委員会』が結成された。俳句の関係者ばかりでなく、多くの方々の署名活動や募金活動により、七回忌の平成五年二月七日、句碑は岡山市京橋西詰旭川緑地に建立された」。

 また、「海市」の井上敏雄氏も住宅顕信にとっては忘れ得ざる俳人の一人であろう。その井上氏の「顕信さんとのご縁」によると、生前にはこのお二人はお逢いする機会もなかったとのことであるが、井上氏が顕信さんのお墓参りにでかけた昭和六十二年四月二十六日に、住宅顕信のお墓の敷地内に、顕信さんの句碑が建立され、それは「病む視線低くつばめが飛ぶ」というものである。このように、陰に陽に、昭和三十六年から昭和六十二年という短い生涯を駆け抜けていた自由律俳人・住宅顕信を見守り続けていた方々のことも、顕信その人以上に心しておくべきこしなのかも知れない。

(住宅顕信年譜)
この年譜は次のアドレスによった。

http://www.city.okayama.okayama.jp/hishokouhou/tokyo/news/14fy/sumitaku/cyuuoukouron/k-sumitaku.htm1961

(昭和36)年3月21日 岡山県岡山市に生まれる。本名・春美。
小学生の頃は、マンガを描く事が好きで、漫画家になりたいと思っていた。
中学卒業後、下田学園調理師学校入学。同時に岡山会館に勤務。5歳年上の女性と知り合い、その後8ヶ月ほど同棲。この頃から詩、宗教書、哲学書に親しむ。
1980(昭和55)年、岡山市役所で清掃の仕事に従事する傍ら、仏教書を熱心に読み、友人と連日のように宗教の話をする。
1982(昭和57)年、9月から中央仏教学院の通信教育を受講。翌年4月修了。
1983(昭和58)年、7月。京都西本願寺で出家得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となる。10月、結婚。自宅の一部を改装し無量寿庵という仏間をつくる。
1984(昭和59)年、2月。急性骨髄性白血病のため岡山市民病院に入院。6月、岡山市役所を休職。長男春樹誕生。妻の実家の希望で離婚。長男は住宅家が引き取り、病室での育児が始まった。この頃より熱心に句作にはげみ、自由律の俳句を耽読。特に尾崎放哉には心酔し、「尾崎放哉全集」を徹底的に読み込む。
1985(昭和60)年、句集「試作帳」を自費出版。自由律俳句誌「海市」に参加。
1986(昭和61)年、「海市」に発表した俳句が反響を呼ぶ。病状悪化。
1987(昭和62)年2月7日、死去。享年25歳。
1988(昭和63)年、弥生書房より住宅顕信句集「未完成」出版。
1989(平成元)年、「俳句とエッセイ」10月号で「住宅顕信の世界」を特集。
1993(平成5)年、岡山市内に句碑「水滴のひとつひとつが笑っている顔だ」建立。
2002(平成14)年、「ちびまるこちゃんの俳句教室」に「ずぶぬれて犬ころ」収録。

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