土曜日, 6月 03, 2006

中村草田男の俳句



中村草田男(その一)

○ 降る雪や明治は遠くなりにけり

句集『長子』所収。昭和六年作。草田男の自解によれば、老大学生(三十一歳)の頃、麻布の親戚を訪ねての帰途、かって小学校の四・五年生時代を過ごした青山南町の青南小学校付近を二十年ぶりに散策した折りの作とのことである。初案は「雪は降り明治は遠くなりにけり」であったが、後日、句会の席上で、上五の「降る雪や」を得たという。これらのことに関して、山本健吉氏は、「彼(草田男)ははじめ『雪は降り』と置いて意に満たないまま推敲の結果このような上五に決まった。その時謡曲『鉢の木』の有名な『あゝ降つたる雪かな』という文句が働きかけている。『春雨や』『秋風や』などざらにある俳句的用法と違って、この『降る雪や』には作者の並みでない苦心が払われたすえ辛うじて得られたものであった」(『現代俳句』)と指摘している。そして、この草田男の句には「獺祭忌明治は遠くなりにけり」(志賀芥子)の先行句があって、その類想句(類句)ということも話題になるのであった。このことに関して、決して、草田男擁護派ではない、高柳重信氏の次の指摘は鋭い。「問題は、この『明治は遠くなりにけり』に、如何なる詩的限定、あるいは俳句的限定を加えるかにかかってくるわけだが、それを某氏のように『獺祭忌』としてしまったのでは、連想範囲が正岡子規とその周辺に限られて、この言葉の内包しているものを、非常に小さな時のなかに閉じこめてしまうことになる。こうして、みずから小さな枠のなかに閉じこめておきながら、やや大袈裟に言えば、当時の日本人の大多数の普遍的で共通な感懐を盛るにふさわしい『明治は遠くなりにけり』という言葉を、某氏一人の所得にしようとしても、それは、はじめから無理な願望であった。そこへゆくと、中村草田男の『降る雪や』は、この『明治は遠くなりにけり』という言葉が、その裾野を最大限にひろげてゆけるように、見事な詩的限定を行なっている。それは、本来、『明治は遠くなりにけり』という言葉が内包していた感懐のすべてを、少しも失うことなく、やや情緒的に過ぎるけれど、鮮明なイメージを持った一個の表現としての客観性を、はっきりと獲得しているのである。この結果、『明治は遠くなりにけり』という言葉が、中村革田男の占有すべきところとなったのは、理の当然であろう。しかも、それにとどまらず、この『明治は遠くなりにけり』は、この中村草田男の作品が書かれて以後は、それによっていっそう鮮明となったイメージを伴いながら、もう一度、日本人すべての手許へと帰ってきたのである」(「俳句」昭和四五年六月:『高柳重信全集Ⅲ』所収)。

http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/jyusin/jyusintext/jyuusinkakimiru.html

中村草田男(その二)

○ 思ひ出も金魚の水も蒼(そう)を帯びぬ (昭和八年)

句集『長子』所収の句には回想的な句が多い。この第一句集『長子』は、昭和四年九月から、昭和十一年四月までのホトトギス雑詠句を中心として、それに草樹会などの句会に於いて虚子の選を経た句を補い、ほかに二十余句の自選句を加えての三百三十八句を、四季別の収録している。即ち、草田男が本格的に俳句創作には入ったのが昭和四年の、二十九歳のときであり、比較的遅く始めたということと関係することなのかも知れない。というよりも、草田男自身、「調和のとれた性格の持主であれば、すでに安定した足取りを運ぶべき年齢でありながら、依然として懐疑と憧憬、不信と希求、躊躇と果敢とに渦巻いている長い青春性のもたらす混沌」(山本健吉著『現代俳句』)の中での作句活動からスタートして、そして、そのスタートも「ホトトギス王国」の高浜虚子選という客観写生の「花鳥諷詠」的な最もスタンダードのところから始めたということと関係することなのかも知れない。しかし、この草田男的な一見遠回り的な原因となった、その青春時代の、「懐疑と憧憬、不信と希求、躊躇と果敢」的な混沌(カオス)そのものへの体験的な挑戦が、草田男俳句の中心的な作句上の原点であり、そして、その作句上の原点は、草田男自身の年輪の深みと相伴って、その後の多種多様な文学的多義性を有する草田男俳句として、前人未踏ともいうべき、独特の草田男俳句を開花させる原動力ともなるものであった。掲出の句について、高橋正子氏は次のような鑑賞をしている。この高橋氏の鑑賞はこの句の背景にやや立ち入り過ぎている感じがしなくもないのであるが、草田男俳句の原点を見事にとらえている点で、実に暗示的ですらある。「句意は、思ひ出も金魚を飼ってある水も蒼を帯びている、ということなのである。「思ひ出」が何であるか深く立ち入ることも一つの解釈だろうが、ここでは、句の言語を還元して読みたい。『思ひ出』が金魚の水を通して『蒼を帯び』て感じられたのであるが、ひらひらと華麗に泳ぐ赤い金魚から発想される『思ひ出』に違いない。『蒼』は、『青』と違って、草の色を表す翳りのある色である。陰欝さも拭いきれない蒼みを帯びた水に泳ぐ赤い金魚の生き生きとした様にローマン的な憧れが見える。その一方にあるそれが蒼みを帯びたものを想起させるには、草田男に深く影響を与えたドイツの森が象徴するドイツ精神が通奏して感じられるといってもいいだろう。『思ひ出』の内容は、読者が感応するしかないのである。草田男は、もっとも大切なことは、語らぬ人であるから、語られたものだけが草田男ではないのである。おそらく『思ひ出』は草田男の心それ自体の内部となっていると言っていいかもしれない。この理由は、松山中学時代の友人である伊丹万作について書かれたものは多くあるが、草田男に精神的に大いなる影響を与えた三歳上の従兄弟、『ニイチェ』を紹介し多大な精神的影響を与えた、西田幾太郎門下の哲学生であり、哲学論文『酔歌』を執筆中に自殺した、三土興三について書いたものは少ない。しかし三土の死は、草田男の内部に深くあり、彼の話になると、学園の廊下の立ち話であろうと、涙を禁じえなかったということである。草田男の句は、あくまでも詩としての解釈を要求しているのであって、この句もその類と言える」。

http://www.suien.net/kusatao/kansyo.htm

中村草田男(その三)

蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし

昭和七年作。句集名『長子』はこの句に由来があるのであろう。草田男はその「跋」で、「此書の誕生に際して省みるに・・・私は、単に戸籍上の事実に於てのみならず、対人生、対生活態度の全般を通じて、”長子”にも喩ふべき運命を自ら執り自ら辿りつつあるものであることを自覚する」と記している。山本健吉氏は、この句の詳細な鑑賞の記述の中で、草田男が最も心酔したニーチェの、「人はそれを堪え忍ぶだけではいけない、それを愛すべきた(アモル・フアテイ)・・・運命愛、これが私の最奥の天性である」(『ニーチェ対ワグナア』阿部六郎訳)を引用して、この掲出句の「蟾蜍」は、このニーチェの「運命愛」(アモル・フアテイ)の化身であるとしている(『現代俳句』)。さらに、「草田男の脳裏を充たしているものは暗喩の世界である。『草田男の犬』という言葉があるが、この句においても『比喩もろとも』に『草田男の蟾蜍』なのだ。形象としての蟾蜍はそれだけのものだが、あたかも古代の文字を刻むように彼が『蟾蜍』と書き記す時、それは人間の言語を語り出す異教的神話の動物となり、人間の叡智の影も帯びてくる。やくざな一匹の動物が、草田男の決意と化し、人間の忍耐・勇気・正義その他もろもろの美徳ともなるのだ。だから言ってみれば、草田男を俳句に繋ぎとめているものは、その寓意詩的性格にほかならない。寓意性は童話性に通じ、彼の作品の第二の特性となる」との指摘をしている。草田男俳句の難解さについては、例えば、この山本健吉氏のニーチェの「運命愛」を引用しての、単なる「擬人化としての蟾蜍」だけに止まらず、さらに、「作者・草田男の蟾蜍」の「暗喩の世界」にまで足を踏み込んでの鑑賞を要請されることと深く関係している。そして、草田男俳句は、この掲出句のような初期の頃の句だけに止まらず、晩年になればなるほど、この「蟾蜍」に託されたような、いわゆる「草田男の暗喩の世界」そのもの作品がその主流となってくる。それは、さながら、「謎解きの世界」そのもののようでもある。さて、坪内稔典氏は、草田男のこの掲出句について、「『蟾蜍(ひきがえる)とは?』という謎(問い)に、『それは家を背負った長子だ』と答えている。そのこころは悲しみであろうか、孤独であろうか」との問い掛けをしているが、「そのこころは、悲しみでもなく、孤独でもなく、草田男自身は『運命愛』であった」ということだけは間違いない。なお、坪内稔典氏のこの掲出句関連のアドレスは次のとおり。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0602.html


中村草田男(その四)

○ 万緑の中や吾子の歯生えそむる

昭和十四年作。『火の鳥』所収。山本健吉氏は、「『万緑の中や』・・・粗々しい力強いデッサンである。そして、単刀直入に『吾子の歯生えそむる』と叙述して、事物の核心に飛び込む。万緑の皓歯との対照・・・・いずれも萌え出るもの、熾(さか)んなるもの、創り主の祝福のもとにあるもの、しかも鮮やかな色彩の対比。翠(みどり)したたる万象の中に、これは仄(ほの)かにも微かな嬰児の口中の一現象がマッチする。生命力の讃歌であり、勝利と歓喜の歌である」と激賞している。坪内稔典氏は、この句に関連して、次のように述べている。「一九三九年九月の『ホトトギス』に出た句だ。もちろん、草田男の代表句になる句である。万緑と吾子の歯を取り合わせた句だが、万緑のなかに歯の生えはじめた吾子だけを置き、他の一切を消してしまった大胆さ、強引さがすごい。今、手元に愛媛新聞社から出た郷土俳人シリーズ(七)『中村草田男』がある。評伝、作家論、草田男三百句などからなり、草田男の世界がコンパクトに集約されている。もっとも、本は4千円とやや高いが、それは本の作りが贅沢なため。資料のカラー写真なども多い。この本を見ながら思ったのだが、草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」(「日刊・この一句」、アドレスは下記)。
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html
 この稔典氏の後半の「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」という指摘は、「草田男の暗喩」の世界の「謎解き」と多いに関係するところのものなのであるが、やはり、草田男の初期の頃の作品と晩年の頃の作品とを比べてみると稔典氏の指摘と同じ思いを深くする。なお、掲出句の「万緑」の季語は、草田男が現代俳句の中に定着させたものとして、夙に知られているところのものであるが、草田男の師筋にあたる高浜虚子は必ずしも季語として容認していたかどうかは、疑問の残るところのものなのであるが、虚子自身次のような句を残していることは、やはり特筆しておくべきことであろう。なお、これらのことに関しては、次のネット関連記事などが参考となる。
 ○ 万緑の万物の中大仏   高浜虚子

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/kusadao/kusadao.html

http://www.doblog.com/weblog/myblog/4950/189116#189116



中村草田男(その五)

○ 勇気こそ地の塩なれや梅真白

昭和十九年作。『来し方行方』所収。この句集にも草田男の佳句が多い。この句の背景はマタイ伝の山上の垂訓である。「汝らは地の塩なり、塩もし効力失はば、何をもて之に塩をすべき、後に用なし。外にすてられた人に蹈(ふ)まれるのみ」(マタイ伝、第五章第十三節)。しかし、この句は山本健吉氏が「この場合、『勇気』とは生命そのものであり、力の源泉であり、『権力への意志』である。そして、それは人間精神の腐敗を防ぐ唯一至上のものである。また、それは、人間の調味料、生きた『人間の形』を与えるものである。要するになくてかなわぬこの一つのものなのである。聖書から出て、彼はみごとに反基督ニーチェの言葉に転換した。そしてその言葉を、己れの精神的腐敗への鞭とした」(『現代俳句』)との指摘のごとく、草田男が心酔したニーチェの『ツアラツストラ』などの影響を読み取るべきなのであろう。この句には草田男自身の、「『地の塩』は『信仰者』を指しているのだが、後には・・・他者によって生成せしめられたものでなくて自ら生成するもの、他者によって価値づけられるものではなくて自らが価値の根元であるもの・・・の意味に広く用いられる。十九年の春・・・十三歳と十四歳との頃から手がけた教え児たちが三十名『学徒』の名に呼ばれるまでに育って、いよいよ時代のルツボのごときものの中へ躍り出ていこうとする。『かどで』に際して無言裡に書き示したものである。折りから、身辺には梅花が、文字どおり凛洌と咲き誇っていたのである」(『自句自注』)との記載が見られる。この掲出句が作られた昭和十九年の初冬、明治神宮外苑競技場で学徒出陣の壮行会があった。これらのことを背景とすると、あの異常な戦時下の言論統制下にあっての、草田男自身の悲痛なまでの真率な声がこの句の隅々までに染みわたっている。この句は五日市霊園の草田男の寝墓にも彫られた。これらのことに関しては、次のネット関連の記事などが参考となる。

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/kusadao/kusadao.html

http://homepage2.nifty.com/banryoku-haiku/a05qa.htm#Start


中村草田男(その六)

○ 折からの雪葉に積り幹に積り (某月某日の記録)
○ 此日雪一教師をも包み降る   ( 同 )
○ 頻り頻るこれ俳諧の雪にあらず ( 同 )
○ 紅雪惨軍人の敵老五人     ( 同 )
○ 世にも遠く雪月明の犬吠ゆる  ( 同 )
○ 壮行や深雪に犬のみ腰おとし (『来し方行方』)

掲出の「某月某日の記録」の前書きのある五句は、昭和十一年二月二十六日に、いわゆる二・二六事件が勃発した、その時の草田男の五句である。そして、草田男の第一句集『長子』は、この皇道派の青年将校が、下士官、兵千四百名を率いて官邸を襲い、まさに「紅雪惨軍人の敵老五人」を惨殺した、丁度その年に刊行されたのである。本来ならば、これらの五句が、四季別の創作年代順の編集であるならば最終頁を飾ることとなるのであろうが、草田男はそれを避けて、「身の幸や雪やや凍てて星満つ空」の妹さんの華燭の結婚式の雪の句をもって、その処女句集を飾っている。それから四年後の昭和十五年に、掲出六句目の「壮行や深雪に犬のみ腰おとし」が作られた。この句は敗戦直後の日本俳壇にあって、「草田男の犬論争」として、大きな話題を提供した句でもあった。この句について左翼の論客家の俳人・赤城さかえ氏は、「この句の功績は人々が熱狂している喧噪の中において、深雪に腰をおとして立たない哲学者(一匹の犬)を見出した作者の批判精神である」と論評して、その論評に対して、草田男の終始良き理解者であった宮脇白夜氏は、「この論評はまさに彗眼で、壮行の人々に混ざっている犬の原型には、草田男が心酔したドイツ・ルネッサンス期の巨匠デューラーの名作『三大銅版画』のすべてに登場する犬が存在する。従ってこの句をよりよく理解するためには、デューラーの銅版画をじかに見て、その名画の中で犬がどのような役割を果たしているのか、見るのが一番である」との指摘をしている(『草田男俳句三六五日』)。だが、そのデューラーの銅版画の犬を見ても、なかなか草田男のこの犬に託した作意は見えてこない。あまつさえ、昭和四十七年に草田男は「メランコリア」と題して、「デューラーの銅版画『メランコリア』による群作 三十七句」のサブタイトルで、この三十七句の中で、宮脇氏が指摘するデューラーの銅版画の犬の句が出て来るのだが、これがどうにも、「草田男の謎」で、その謎解きができないのである。ともあれ、草田男の掲出の「二・二六事件」の句も、そして、それに続く、六句目の犬の句も、戦時体制という異常時において、精神的には決して時の統制には屈しないという、草田男の並々ならぬ決意というものだけは見てとれるのである。
なお、「デューラーの銅版画『メランコリア』による群作 三十七句」の犬の句は次のとおり。
○ 犬なれど「香函(こうばこ)つくる」白夜に素(しろ)
○ 白夜の忠犬膝下沓(とう)下に眼落としつ
○ 白夜の忠犬躯畳みたたむ一令無み
○ 白夜の忠犬百骸挙げて石に近み
また、デューラーの「メランコリア」の犬は次のアドレスで見ることができる。

http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/durer/p-durer23.htm

中村草田男(その七)

○ 燭の火を煙草火としつチェホフ忌(『火の島』・昭和十二年作)
○ ニイチュ忌尾輌ゆレール光りつ去る(『火の島』・昭和十三年作)

 草田男の年譜の大正九年(十九歳)に、「松山中学に復学、ニイチェ『ツアラツストラフ』を読み感銘、生涯の書とす」、そして、大正十四年(二十四歳)には「一家東京へ移転。四月、東京帝国大学文学部独逸文学科に入学、ヘルダーリン、チェホフを耽読」との記載が見られる。山本健吉著『現代俳句』の中で、「草田男のなかにはニーチェ的選民とチェホフ的平凡人が共存している」、「ニーチェは彼に理想を教えたが、チェホフは彼に生活を教えた。ニーチェのように崇高な理想を持ち、チェホフのようにつつましく生きるのが草田男である」と草田男俳句の二面性(そして、それはニーチェ的難渋性とチェホフ的平明性)を正しく指摘している。それに続けて、この「チェホフ忌」について、「チェホフが死んだのは一九〇四年の七月十五日だ」、「何々忌と言っても、俳人にとって多くはそれはフィクションにすぎぬ」、「俳人は無数の偽物の修忌を季寄せの中に繰り入れた。草田男はそれを少しく拡張して、泰西の文豪の忌日を新しく繰り入れたというにすぎないのだ」、「それが夏であるかどうかは知ったことではない、ただそれははっきり限定された季語であることだけを知っているのである。実際のない抽象的な架空の季語に、彼は戯れに実体と具象性とを与えるのみである」として、いわゆる季語としては扱っていない。同様に、ニイチュ忌・ニーチェ忌(一九〇〇年八月十五日死亡)も、いわゆる季語としては扱われないであろう。草田男は、高浜虚子門で、その「ホトトギス」の有力俳人の一人と嘱望されていた、その初期の頃から、虚子流に、「季語を花鳥諷詠的に詠む」という姿勢ではなく、「自分の作句する心を充たすために、自分用の季語的なものを作り、それに、具象性と暗示性とを付与する、いわゆる季語を象徴的に使用する」という姿勢を、この掲出の二句からも判断できるように、さまざまな試みをしていた。そして、それは、「金魚手向けん肉屋の鉤(かぎ)に彼奴(きゃつ)を吊り」(昭和十四年作)などの異色の作として今に喧伝され、この句は、今に、「金魚」の季語の例句として草田男の佳句の一つとされているのである。しかし、草田男自身、この金魚の句の金魚を、夏の季語としての金魚の句としては微塵も考えていなかったことであろう。さらに、特筆しておきたいことは、この金魚の句が、昭和十四年六月号の「ホトトギス」において、「月ゆ声あり汝(な)は母が子か妻が子か」の句など共に巻頭を占めた句の一つであったという事実についてである。このことは、「ホトトギス」の主宰者・高浜虚子というという俳人は、自らが唱道していた「花鳥諷詠」的な俳句のみならず、さまざまな俳句について想像を絶するような選句眼を持っていたという驚きである。なお、掲出の二句目の、「ニーチェ忌」の句については、草田男に精神的に大いなる影響を与えた三歳上の従兄弟、西田幾太郎門下の哲学生であり、哲学論文『酔歌』を執筆中に自殺した、三土興三氏にかかわる句のようである(『草田男俳句三六五日』)。なお、草田男の「チェホフ忌」の句などの影響を受けての寺山修司氏の「チェホフ忌」の句については、次のアドレスなどに詳しい。

http://homepage1.nifty.com/uesugisei/ikku12.htm#多喜二と啄木

中村草田男(その八)

○ 汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか 青露変(青露とは、川端茅舎の戒名青露院
より採る)
○ 花に露十字架に数珠煌と掛かり    七月十七日、茅舎長逝の報いたる
○ 梅雨も人も葬りの寺もただよすが   同十九日、其告別式
○ 炎天の手の小竹(ささ)凋(しほ)る葉を巻きて 旬日後、彼を偲び、己が芸の為
                      すなきを嘆きつつ近郊を歩む

昭和十六年作。『来し方行方』所収。草田男年譜によれば、「昭和四年 二月、初めて虚子を訪ね、師事。復学し、『東大俳句会』に入学、『ホトトギス』(九月号)に四句入選」とあり、二十八歳のときに、虚子門に入ったこととなる。しかし、この年譜にもあるとおり、草田男は虚子門であるが、『東大俳句会』の指導者であった水原秋桜子の選を仰いで、その秋桜子選のものが、虚子の「ホトトギス」選にもなるという、いわば、虚子と秋桜子の二人に師事していたというのが実体なのかもしれない。草田男三十八歳のときの昭和十四年には、「一月、次女郁子誕生、三月、学生俳句連盟機関誌『成層圏』の指導に当たる。七月、『俳句研究』座談会に楸邨、波郷らと出席、以後、『人間探求派』と称せられる。十一月、第二句集『火の鳥』(龍星閣)刊。冬、高村光太郎を訪ねる」とあり、掲出の句が作られた昭和十六年には、「六月、第三句集『萬緑』(甲鳥書林)刊。俳壇内の時局便乗者から自由主義者と指弾、圧迫される」との記載が見られる。これらの年譜の足跡を見ていくと、「人間探求派」という言葉は、昭和十四年の「俳句研究」の座談会で始めて使われたもので、このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十八歳、そして、加藤楸邨は「馬酔木」同人で三十三歳(その翌年に「寒雷」主宰となる)、石田波郷は「馬酔木」同人で弱冠二十六歳(二十四歳のときに「鶴」を主宰している)という若さであった。そして、昭和俳壇をリードし続けた、この三人が、直接と間接とを問わず、水原秋桜子の指導を得ていたということと、特に、草田男は「時局便乗者からは自由主義者」と見られていたということはやはり特筆しておくべきことなのであろう(草田男の三十五歳のときに刊行した第一句集『長子』も全て虚子選であるが、秋桜子の選も仰いでいるという)。そういう草田男の姿勢や作風からして、草田男が虚子主宰の「ホトトギス」で最も信頼を置いて、相互に切磋琢磨した同胞は、草田男よりも四歳上の川端茅舎であり、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」といわしめた、この茅舎の草田男への影響というものは大きかったことであろう。それ以上に、掲出の一句目のように、茅舎亡き後の「ホトトギス」周辺の虚子を取り巻く方々は、草田男にとっては、「汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか」と、もう、草田男の俳句を理解するという雰囲気ではなかったのではなかろうか。それだけではなく、言論統制が強力に推し進められていくなかで、昭和十五年には新興俳句弾圧事件が勃発して、「京大俳句」の平畑静塔らが検挙されるという事態が起きた。草田男俳句も、時局に合わぬ自由主義的な俳句として、当時の俳壇から圧迫され、身辺の写生句のみの投句に制限されていたが、昭和十八年の年譜には「『ホトトギス』への投句を止める。十月、『蕪村集』刊」と、その状態が終戦まで続くことになる。これらの草田男年譜を振り返って見るときに、昭和五年に水原秋桜子が「ホトトギス」を退会した後も、草田男は「ホトトギス」に残り、川端茅舎・松本たかしなどと、「ホトトギス」の有力俳人の地位を獲得しながら、その「ホトトギス」周辺からは川端茅舎を除いては、必ずしも好意的に受けとめられていなかったということと、掲出句に見る如く、草田男がいかに茅舎に傾倒して、信頼し、そして、いかに茅舎を失って虚脱状態になっていたかを、その当時の草田男の環境を垣間見ることができるのである。

中村草田男(その九)

○ 葡萄食ふ一語一語の如くにて(昭和二十二年)
○ 石鹸玉天衣無縫のヒポクリット(昭和二十一年)
○ 呟くヒポクリット・ベートーベンのひびく朝(「昭和二十一年」)
☆ 呟くポクリッとベートベーンのひびく朝(桑原武夫「第二芸術」の例句)

 戦後の昭和二十二年に刊行された草田男第四句集『来し方行方』は、昭和十六年から同二十二年までの作品七百十五句が収められた、いわば、「草田男の持つ詩性が逆境において極めて強靱」(「萬緑」の岡田海市氏の指摘)なることを如実に物語っている句集でもある。そして、この句集には、「万人が認める傑作句」と「万人が理解に苦しむ晦渋句」とが、玉石混淆のごとく散りばめられている句集でもある。この掲出の第一句目の句は、山本健吉著『現代俳句』において、「葡萄の一粒一粒が、一つの言葉、言葉に相応する。普通には、抽象的なことがらの比喩に、具体的なことがらを持ってくるものだが、この場合は、葡萄を食うという具体的なことがらの比喩に、言葉という抽象的なものを持ってこられたので、言はばこれは、逆立ちした比喩である」として、絶賛にも近い評をくだしている。一方、掲出の三句目は、桑原武夫の「俳句第二芸術」論の草田男俳句の酷評された例句の一つに関連しての、曰く付きの一句でもある。桑原武夫が昭和二十一年十一月号の雑誌「世界」に「第二芸術」とタイトルして、「大家(十句)と素人(五句)の句の作者名を伏せて、作品の優劣やどれが大家の作品かを推測させる」内容のものであった。そして、草田男作品として取り上げられていた句が、この掲出の第四句目の「ある雑誌に発表された誤植が三個所もある」句で、これに対して草田男が誤植の訂正を求めたのに対して、桑原武夫は、「なぜそんな誤植が生じたのであろうか。ともかくも私の説はこのことによってはくずれない」と、頑としてはねつけたのであった。この掲出の第三句目(その誤植のものは第四句目)の前に、
句集『来し方行く方』に収載されている句が、掲出の第二句目の句なのである。「石鹸玉」は春の季語、「天衣無縫」は完全無欠の意味。そして、「ヒポクリット」が偽善者(猫かぶり)
の意味で、草田男の作意は、「石鹸玉は一見天衣無縫に見える偽善者・ヒポクリットと同じで、一寸触れると、あとかたもなく消え去ってしまう」という、いわば、戦時中に、「草田男いびり」をした俳人達への比喩と暗示にみちた揶揄ともとれる句と解せられるのである。このように解すると、第三句目の「ヒポクリット・ベートベーン」も、草田男らしい実に俳諧味のあるウィツトに充ちた措辞で、この程度の晦渋的な句は、現代俳句では日常茶飯事に随時に見られるところのものであろう。その草田男が、草田男自身意欲的なものとして作句してる「ヒポクリット・ベートベーン」が「ポックリッとベートベン」とに誤植され、その誤植のままに、桑原武夫に自作としての例句に取り上げられたのだから、どうにも、俳諧的というよりも、いかにも、「俳諧の魔神(デーモン)」の悪戯のような感じすら抱くのである。とにもかくにも、掲出の一句目のような万人が等しく認める句がある一方、
掲出の二句目以降の句のように、どうにも一筋縄では近寄れないような句が、草田男の場合には、その振幅の度合いが大きいということは、草田男俳句の顕著な特色ということができよう。


中村草田男(その十)

○ 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」(昭和二十四年)
○ まさしくけふ原爆忌「インディアン嘘つかない」(昭和五十一年)

掲出の一句目は、昭和二十八年刊行の第五句集『銀河依然』所収の句。この句集には、昭和二十二年から同二十七年までの七百八十八句(これに『長子』以降の補遺作品十三句を収載)が年代順に掲載されている。その「跋」に、「本句集中の具体的な作品の上」には、「『思想性』『社会性』とでも命名すべき、本来散文的な性質の要素と純粋な詩的要素とが、第三存在の誕生の方向にむかつて、あひもつれつつも、此処に激しく流動してゐるに相違ない」と記し、これまで最も重視した「芸」の要素(詩的要素)に加えて、「思想性」と「社会性」との二要素(散文的要素)が渾然と一体となった「第三存在」の成就を目指そうとしている。
当時の日本俳壇は、先の桑原武夫の「俳句第二芸術」論を契機として、「社会性俳句」が大きなうねりと化していたが、さらに、「思想性」も加えんとしたのが、当時の草田男の目指したものであり、この草田男俳句を称して、「腸詰俳句」という悪評すら生むに至ったのである。これが、先に見てきた、坪内稔典氏の、「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」という評へと繋がっていく。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html

 この句集『銀河依然』刊行後、昭和三十一年刊の第六句集『母郷行』、昭和三十三年刊の第七句集『美田』、そして、昭和五十五年刊の第八句集『時期』を世に問うて、以後、「実は、第五句集『銀河依然』を発行した直後に、私は当時の主観的客観的な諸事情の上に立脚して、今後は永く句集の形のものを世に出し世に問うことを潔く打切ってしまい、孜々と各月の実行だけに没頭しつづけていこうとの決意を定めた」(第七句集『美田』所収「跋」)として、昭和三十八年から同五十八年の作品群は「萬緑」誌上のみの発表に限定することになるのである(『中村草田男全集』第五巻にその全貌が掲載されている)。さて、掲出の昭和二十四年作は、当時の浮浪児が街路に氾濫していた社会情勢を、破調と「「なんでもいいやい知らねえやい」という流行語とをもって、実に的確に詠出するとともに痛烈な戦争批判の怒りの声を蔵している。そして、二句目は西部劇などで流行語ともなった「「インディアン嘘つかない」という奇計奇抜な用例を持って痛烈な原爆批判の句となっている。草田男にとってむ、このような句は、いわゆる、「第三存在」の「社会性」俳句の範疇に入るものなのであろうが、これらの句は、「腸詰俳句」でも「ごちゃごちゃ俳句」でもなく、草田男の痛烈な社会批判をともなった箴言的・寓意的な作品として、他の草田男の傑作句と同様に、後世に伝えておきたい句であるということを実感するのである。また、同時に、この二句目の句のように、草田男句集ではお目にかかれない、草田男後半の昭和三十八年以降の句についても、やはり、草田男の佳句というべきものを丹念に拾い上げていく必要性を痛感するのである。

中村草田男(その十一)

○ ほととぎす敵は必ず斬るべきもの(昭和三十七年)
○ 山冴えの暁冴え二聨のほととぎす(昭和五十三年)
○ 遠き地点のいよいよ低みへ初杜鵑( 同 ) 

掲出の一句目は、草田男の句集としては最後の句集となった第八句集『時期』(昭和五十五年刊)所収の句。この句集の「跋」に、「句集名は『時期』(とき)と名づけた。この言葉は、聖書の中の『ヨハネ黙示録』の中に出ていて」、「具体的にはすべての存在者は終熄の必然性を明示している」。「また、この言葉は、十二歳も年齢の若い妻の上には夢にも予想していなかった旅先での急逝に遭遇したことによっての、根本的啓示の感銘にも直結している」と記している。この「跋」記載のとおり、草田男は最愛の直子夫人を、昭和五十二年十一月二十一日の旅行中にその急逝に遭遇する。その急逝に関連しての草田男の前書きのある句は目にすることができないが、その翌年の昭和五十三年の二月に、掲出の二句目と三句目の「ほととぎす・杜鵑」の句を目にすることができる。この「ほととぎす・杜鵑」は、亡き奥様の投影と解して差し支えなかろう。草田男門下の草田男の良き理解者であった宮脇白夜氏は、「作者(草田男)には時鳥(ほととぎす)の声を唯の風流として聴く気持はない。特に夜啼くほととぎすの裂帛の声は、作者に反省や決意を促す力を持っていたようである」(『草田男俳句三六五日』)としている。そして、この掲出の二句目と三句目との「ほととぎす・杜鵑」を亡き奥様の投影のものとして理解して、この掲出の一句目の「ほととぎす」は、すなわち、「ほととぎすの裂帛の声」を聞いて、「敵は必ず斬るべきもの」の「敵」と草田男が感じ取った相手は、実は、現代俳句協会に関連しての、「金子兜太とその造型俳句」にあったことが、宮脇白夜氏の、この掲出の一句目の鑑賞で明瞭に指摘されているところのものなのである(宮脇・前掲書)。これらの背景については、「潮流の分析と方向をさぐる」(『中村草田男全集第一四巻』所収)の座談会記事の草田男と兜太氏との火花の散るような批判の応酬で垣間見ることができる。また、これらのことは、年譜においては、次のように記されている。「昭和三十五年 五月 現代俳句協会幹事長となる」。「昭和三十六年 現代俳句協会の幹事長の職を辞す。十一月、同志と俳人協会を発足させ、初代会長となる」。一見すると、草田男と兜太氏とは、「社会性俳句・思想性俳句」という点において、目指す方向は同じように思えるけれども、草田男は兜太氏の「造型俳句」を、「造型俳句といわれているものなど、十七音の短形式が、暗示の伝達性を十分に発揮することができなくて、徒に難解となってしまって、このままいけば、俳句大衆との連結が絶たれてしまう」(前掲全集「座談会」記事)として、それが故に、この掲出の一句の、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」と、執拗にそれを排斥する立場を明確化して、その排斥に翻弄するのである。兜太氏の「造型俳句」については、次のアドレスのものなどが参考となる。

http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html

中村草田男(その十二)

○ 蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま(昭和二十年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。「再び独居、僅かの配給の酒に寛ぐ事もあり、燈下へ来れる蟷螂の姿をつくづく眺めて唯独り失笑する事もあり」との前書きがある。草田男の側近中の側近の俳人香西輝雄の鑑賞は次のとやり。「かまきりは上反(そ)りした尻の大きな身長を六脚の上に乗せて、その長身をゆらりゆらりと上下に大刻みに揺りながら歩く。それは馬上に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている馭者の姿に似ている。馬と車に逃げられても、なほ馭者台にあるかのように身ぶりを続けている馭者にそっくりなのだ」(『人と作品 中村草田男』)。山本健吉は、草田男の「生き物」の句について、「草田男の世界は、動物たちが物言う寓話の世界だ。これは草田男の中に棲むアンチ・ニーチェ的な世界であるが、このような世界があるために、行動力の乏しい草田男は掬われている」とも、また、「草田男には特別に青春と名づくべき時期はないのであって、生涯が青春なのだ」、「そこに渦巻いているのは未知なるものへの可能性であると言ってもよい。そのような可能性が希求として作者の胸にはぐくまれる時、それはメルヘンの世界となる。草田男の作品における童心の持続は、一つの奇跡である」とも評している。草田男の俳句の世界は多義多様で、かつ、多力の多作の作家であって、とても、一筋縄でその全体像を掴むことは不可能のことではあるが、その多義多様の草田男の曼荼羅のような世界にあって、この掲出句のような、メルヘン的な寓話の世界のような俳句は、とりわけ魅力的である。

中村草田男(その十三)

○ 種蒔けり者の足あと洽(あまね)しや(昭和二十四年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。この句に接するとミレーの「種蒔く人」が思い出されてくる。この句は戦争直後、廃墟の片隅にささやかな畑が耕されて、これほどの廃墟の中で「種を蒔けり」と、そして、その「者の足あと」が「洽(あまね)しや」と、それらの実景を目の当たりにしたとき、草田男は、戦後の日本の復興を確信したに違いない。香西照雄氏は、「中村草田男輪講」(「万緑」昭和三八・四)において、この「洽(あまね)しや」は「うるおう」ということで、この「足あと」に先駆的・創造者の足跡という「普遍」的なものを感じ取るとして、「いろんな権威や価値が崩壊した戦後には、特に全体のための再創造という土台仕事に黙々と励む人が必要だった。こういう時代背景を考えてみると、『洽』の字で世をむらなくうおす愛情ゆえの労苦ということまでが暗示されている」との評をしている。確かに、この句はそのような戦後のどさくさの廃墟とその復興ということを背景として生まれたものなのかもしれないが、そういう背景を超越して、例えば、芭蕉の「不易流行」の、何時の時代にも

中村草田男(その十四)

空は太初の青さ妻より林檎うく


中村草田男(その十五)

○ 我在る限り故友が咲かす彼岸花(昭和四十年)
○ 勿忘草ねマイネ・シューネ・クライネね(昭和四十二年)
○ 蝮の如く永生きしたし風陣々(昭和四十四年)
○ 未生以前の太郎次郎に夜半の雪(昭和五十年)
○ 神域涼し遠くに人来人去りて(昭和五十八年)

中村草田男(その十)

○ 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」(昭和二十四年)
○ まさしくけふ原爆忌「インディアン嘘つかない」(昭和五十一年)

掲出の一句目は、昭和二十八年刊行の第五句集『銀河依然』所収の句。この句集には、昭和二十二年から同二十七年までの七百八十八句(これに『長子』以降の補遺作品十三句を収載)が年代順に掲載されている。その「跋」に、「本句集中の具体的な作品の上」には、「『思想性』『社会性』とでも命名すべき、本来散文的な性質の要素と純粋な詩的要素とが、第三存在の誕生の方向にむかつて、あひもつれつつも、此処に激しく流動してゐるに相違ない」と記し、これまで最も重視した「芸」の要素(詩的要素)に加えて、「思想性」と「社会性」との二要素(散文的要素)が渾然と一体となった「第三存在」の成就を目指そうとしている。
当時の日本俳壇は、先の桑原武夫の「俳句第二芸術」論を契機として、「社会性俳句」が大きなうねりと化していたが、さらに、「思想性」も加えんとしたのが、当時の草田男の目指したものであり、この草田男俳句を称して、「腸詰俳句」という悪評すら生むに至ったのである。これが、先に見てきた、坪内稔典氏の、「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」という評へと繋がっていく。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html

 この句集『銀河依然』刊行後、昭和三十一年刊の第六句集『母郷行』、昭和三十三年刊の第七句集『美田』、そして、昭和五十五年刊の第八句集『時期』を世に問うて、以後、「実は、第五句集『銀河依然』を発行した直後に、私は当時の主観的客観的な諸事情の上に立脚して、今後は永く句集の形のものを世に出し世に問うことを潔く打切ってしまい、孜々と各月の実行だけに没頭しつづけていこうとの決意を定めた」(第七句集『美田』所収「跋」)として、昭和三十八年から同五十八年の作品群は「萬緑」誌上のみの発表に限定することになるのである(『中村草田男全集』第五巻にその全貌が掲載されている)。さて、掲出の昭和二十四年作は、当時の浮浪児が街路に氾濫していた社会情勢を、破調と「「なんでもいいやい知らねえやい」という流行語とをもって、実に的確に詠出するとともに痛烈な戦争批判の怒りの声を蔵している。そして、二句目は西部劇などで流行語ともなった「「インディアン嘘つかない」という奇計奇抜な用例を持って痛烈な原爆批判の句となっている。草田男にとってむ、このような句は、いわゆる、「第三存在」の「社会性」俳句の範疇に入るものなのであろうが、これらの句は、「腸詰俳句」でも「ごちゃごちゃ俳句」でもなく、草田男の痛烈な社会批判をともなった箴言的・寓意的な作品として、他の草田男の傑作句と同様に、後世に伝えておきたい句であるということを実感するのである。また、同時に、この二句目の句のように、草田男句集ではお目にかかれない、草田男後半の昭和三十八年以降の句についても、やはり、草田男の佳句というべきものを丹念に拾い上げていく必要性を痛感するのである。

中村草田男(その十一)

○ ほととぎす敵は必ず斬るべきもの(昭和三十七年)
○ 山冴えの暁冴え二聨のほととぎす(昭和五十三年)
○ 遠き地点のいよいよ低みへ初杜鵑( 同 ) 

掲出の一句目は、草田男の句集としては最後の句集となった第八句集『時期』(昭和五十五年刊)所収の句。この句集の「跋」に、「句集名は『時期』(とき)と名づけた。この言葉は、聖書の中の『ヨハネ黙示録』の中に出ていて」、「具体的にはすべての存在者は終熄の必然性を明示している」。「また、この言葉は、十二歳も年齢の若い妻の上には夢にも予想していなかった旅先での急逝に遭遇したことによっての、根本的啓示の感銘にも直結している」と記している。この「跋」記載のとおり、草田男は最愛の直子夫人を、昭和五十二年十一月二十一日の旅行中にその急逝に遭遇する。その急逝に関連しての草田男の前書きのある句は目にすることができないが、その翌年の昭和五十三年の二月に、掲出の二句目と三句目の「ほととぎす・杜鵑」の句を目にすることができる。この「ほととぎす・杜鵑」は、亡き奥様の投影と解して差し支えなかろう。草田男門下の草田男の良き理解者であった宮脇白夜氏は、「作者(草田男)には時鳥(ほととぎす)の声を唯の風流として聴く気持はない。特に夜啼くほととぎすの裂帛の声は、作者に反省や決意を促す力を持っていたようである」(『草田男俳句三六五日』)としている。そして、この掲出の二句目と三句目との「ほととぎす・杜鵑」を亡き奥様の投影のものとして理解して、この掲出の一句目の「ほととぎす」は、すなわち、「ほととぎすの裂帛の声」を聞いて、「敵は必ず斬るべきもの」の「敵」と草田男が感じ取った相手は、実は、現代俳句協会に関連しての、「金子兜太とその造型俳句」にあったことが、宮脇白夜氏の、この掲出の一句目の鑑賞で明瞭に指摘されているところのものなのである(宮脇・前掲書)。これらの背景については、「潮流の分析と方向をさぐる」(『中村草田男全集第一四巻』所収)の座談会記事の草田男と兜太氏との火花の散るような批判の応酬で垣間見ることができる。また、これらのことは、年譜においては、次のように記されている。「昭和三十五年 五月 現代俳句協会幹事長となる」。「昭和三十六年 現代俳句協会の幹事長の職を辞す。十一月、同志と俳人協会を発足させ、初代会長となる」。一見すると、草田男と兜太氏とは、「社会性俳句・思想性俳句」という点において、目指す方向は同じように思えるけれども、草田男は兜太氏の「造型俳句」を、「造型俳句といわれているものなど、十七音の短形式が、暗示の伝達性を十分に発揮することができなくて、徒に難解となってしまって、このままいけば、俳句大衆との連結が絶たれてしまう」(前掲全集「座談会」記事)として、それが故に、この掲出の一句の、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」と、執拗にそれを排斥する立場を明確化して、その排斥に翻弄するのである。兜太氏の「造型俳句」については、次のアドレスのものなどが参考となる。

http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html


中村草田男(その十二)

○ 蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま(昭和二十年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。「再び独居、僅かの配給の酒に寛ぐ事もあり、燈下へ来れる蟷螂の姿をつくづく眺めて唯独り失笑する事もあり」との前書きがある。草田男の側近中の側近の俳人香西輝雄の鑑賞は次のとやり。「かまきりは上反(そ)りした尻の大きな身長を六脚の上に乗せて、その長身をゆらりゆらりと上下に大刻みに揺りながら歩く。それは馬上に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている馭者の姿に似ている。馬と車に逃げられても、なほ馭者台にあるかのように身ぶりを続けている馭者にそっくりなのだ」(『人と作品 中村草田男』)。山本健吉は、草田男の「生き物」の句について、「草田男の世界は、動物たちが物言う寓話の世界だ。これは草田男の中に棲むアンチ・ニーチェ的な世界であるが、このような世界があるために、行動力の乏しい草田男は掬われている」とも、また、「草田男には特別に青春と名づくべき時期はないのであって、生涯が青春なのだ」、「そこに渦巻いているのは未知なるものへの可能性であると言ってもよい。そのような可能性が希求として作者の胸にはぐくまれる時、それはメルヘンの世界となる。草田男の作品における童心の持続は、一つの奇跡である」とも評している。草田男の俳句の世界は多義多様で、かつ、多力の多作の作家であって、とても、一筋縄でその全体像を掴むことは不可能のことではあるが、その多義多様の草田男の曼荼羅のような世界にあって、この掲出句のような、メルヘン的な寓話の世界のような俳句は、とりわけ魅力的である。


中村草田男(その十三)

○ 種蒔けり者の足あと洽(あまね)しや(昭和二十四年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。この句に接するとミレーの「種蒔く人」が思い出されてくる。この句は戦争直後、廃墟の片隅にささやかな畑が耕されて、その廃墟の中で「種を蒔けり」と、そして、その「者の足あと」が「洽(あまね)しや」と、それらの実景を目の当たりにしたとき、草田男は、戦後の日本の復興を確信したに違いない。香西照雄氏は、「中村草田男輪講」(「万緑」昭和三八・四)において、この「洽(あまね)しや」は「うるおう」ということで、この「足あと」に先駆的・創造者の足跡という「普遍」的なものを感じ取るとして、「いろんな権威や価値が崩壊した戦後には、特に全体のための再創造という土台仕事に黙々と励む人が必要だった。こういう時代背景を考えてみると、『洽』の字で世をむらなくうるおす愛情ゆえの労苦ということまでが暗示されている」との評をしている。確かに、この句はそのような戦後のどさくさの廃墟とその復興ということを背景として生まれたものなのかもしれないが、そういう背景を超越して、例えば、芭蕉の「不易流行」の、何時の時代にも永劫不滅の真理のような「不易」性を兼ね備えている一句と理解できょう。そして、この句のその「不易」性に関連して、草田男がこの句集の扉に書き記している「われわれは祈願する者から出て、祝福する者にならなければならない」(ニーチュ)という、草田男の、戦後日本の廃墟を目の当たりにしての、そして、それは同時に、新しい日本俳壇の再興に向けての、決意表明のようなものが明確に伝わってくる。この第四句集『来し方行方』 には、草田男の傑作句を数多く目にすることができる。


中村草田男(その十四)

○ 空は太初の青さ妻より林檎うく(昭和二十一年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。「居所を失ふところとなり、勤先きの学校の寮の一室に家族と共に生活す」との前書きがある。この句には、この前書きを全く必要としない。「太初」は「天地のひらけはじめ」、それは、旧約聖書の天地創造をも連想させる。そして、空の「青」と林檎の「赤」との原色的な色のハーモニーが、人間賛歌・生命賛歌を奏でている。そして、その真っ赤な林檎は、「妻より(林檎)うく」と、これまた、アダムとイブとの旧約聖書の「創世記」のイメージそのものである。草田男がクリスチャンの直子夫人と家庭を持ったのは、昭和十一年、三十五歳のときであった。この年、草田男は、痛烈な日野草城の「ミヤコホテル」批判をする。それは、草田男と草城との女性観の相違によるものであった。草田男の女性観が、
この掲出句に見られる旧約聖書的なものに比して、草城のそれは、草田男の言葉ですると興味本位の「憫笑にも価しない代物に過ぎない」と正反対に位置するものというのが、その理由にあげられるであろう。その最愛の直子夫人を昭和五十二年に同行の旅行中に失うことになる。そして、その六年後の昭和五十八年に享年八十二歳で草田男は永眠する。この逝去の前夜に洗礼を受け、最愛の直子夫人と同じようにクリスチャンとして昇天する。草田男のこの直子夫人とご家族の方々に捧げた句は、草田男の人生観を語るとともに、草田男の愛妻・家族俳句としてこれまた魅力に溢れている。

追伸  草田男にとって、真に兄事した俳人というのは、川端茅舎であろう。「茅舎と草田男」とについて、森谷香取さんの次のアドレスのものなどに詳しい。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_3.html



中村草田男(その十五)

○ 我在る限り故友が咲かす彼岸花(昭和四十年)
○ 勿忘草ねマイネ・シューネ・クライネね(昭和四十二年)
○ 蝮の如く永生きしたし風陣々(昭和四十四年)
○ 未生以前の太郎次郎に夜半の雪(昭和五十年)
○ 神域涼し遠くに人来人去りて(昭和五十八年)


 掲出の一句目には、「『彼岸花――花よりも美しい黴』と、その一文中に誌したる故伊丹万作の命日は、ゆくりなくも秋彼岸の九月十九日なり。一句」との前書きがある。大正五年、草田男年譜(十五歳)に「同人誌『楽天』に加入。先輩に伊藤大輔、伊丹万作がいた」とある。草田男には『子規、虚子、松山』という著があり、その中に「伊丹万作の思い出」が記されている。この松山中学校、そして、草田男自身語っているように、「子規以来、松山人を中心とし、明治期の新俳句は発祥したし、松山人を中心として受継がれてきた」との自負は、草田男俳句の根幹をなしている。

 掲出の二句目には、「次の一作を戯れ作りて、わが孫女に捧ぐ。童謡ならば、さしづめ野口雨情調といふべきものならむかと、ただ独り可笑し。一句」との前書きがある。これは先に触れた草田男の身辺些事の愛妻・家族俳句の範疇に入るものであろう。

 掲出の三句目の前書きは長文である。「文部省関係の官公立学校職員の文芸修業誌『文芸広場』二百号に達せるを以て、委員等記念の寄せ書きをなせるその最後尾、即興的に次の一句を誌す。石川桂郎氏二十四年以前戯れに、当時の吾が新妻に対ひて、『貴女の御亭主は蝮の性(さが)と宣りたる一言耳底に遺れるがゆゑなり」。この「蝮の性(さが)」とは、これまた草田男の一面を的確に物語っているものであろう。

 掲出四句目の前書きも長文である。「三好達治氏の一作――『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。』こは世に名作と噂せらるるものなり。我いま敢て唱和して次なる一作を得たり。されど、こは寧ろ『東海道五十三次』の『蒲原』なる『夜の雪』、その一景と相通ふものひたすらなることを自覚す」。この上五の「未生以前の」という生硬な意味深長な措辞はいかにも草田男のものという印象を受ける。そして、この前書きにあるとおり、草田男の絵画に関する造詣は、即、草田男俳句の「デッサン・絵画的手法」の確かさということと相通じているように思える。これもまた、草田男俳句の魅力の一つであろう。なお、広重の「蒲原」・「夜の雪」の景は次のアドレスで見ることができる。

http://www.ukiyoe.or.jp/ukisho/uks-pics/uk-kb-b.html

 中村草田男が永眠したのは、昭和五十八年八月五日のことであった。掲出五句目は、草田男の主宰誌「万緑」の八月号に掲載された三句のうちの一句である。この句の「神域涼し/遠くに・人来/人去りて」には、六年前に急逝したクリスチャンの直子夫人の影、そして、また、松山中学校以来の多くの亡き人の影がちらついている。この後、「万緑」の九月号にも、草田男の句が三句ほど掲載されているが、この掲出の五句目のものなども、草田男の絶唱と理解して差し支えなかろう。


 中村草田男は、「純粋俳壇」(俳壇での出世を望まず、作品の向上のみを念願する人の集まり)を目指して、第八句集『時機』(昭和三十七年までの作品と昭和四十七年作の「メランコリア」三十七句)を最後として、昭和三十八年から逝去する昭和五十八年までの晩年の二十年間の作品は、主宰誌「万緑」のみに公表し、いわゆる、「現代俳句協会」・「俳人協会」などの「日本俳壇」
から完全に身を退いたまま、世を去ることとなる。そして、この未発表ともいうべき、昭和三十八年から昭和五十八年までの草田男の約五千句は、『中村草田男全集(第五巻)』(みすず書房)に収載され、それらは、「万緑」などの一部の関係俳人以外は、殆ど未踏査のまま、その踏査を待っているのである。そして、あまつさえ、坪内稔典氏の「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう」とまでの評もしばしば目にするのである。しかし、それらは、一つのレッテル貼りの評のように思われ、その評を下す前に、この晩年の草田男の約五千句に近い作品群を精査することが、今何よりも草田男自身待っているように思えるのである。なお、坪内稔典氏の草田男評のアドレスは先にも触れたが、最後に、そのアドレスも記しておきたい。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html

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