金曜日, 6月 23, 2006

虚子の実像と虚像(その十六~その二十)




虚子の実像と虚像(その十六)

○ 苔寺の苔をついばむ小鳥かな  虚子

 たまたま「江戸俳諧を読む(飯田龍太・大岡信・尾形仂「座談会」)」(「文学」昭和五十五・三月号)を見ていたら、掲出の句に遭遇した。飯田さんの発言で、「苔寺へ行きましたら、『苔寺の苔をついばむ小鳥かな』と書いてある、びっくりするような大きな屏風があるんですよ。それで『虚子』とあるでしょう。とたんに、貫禄がつきましてね、見事だなと。」
 これらのところは、「無名か署名か」というところで、またまた、飯田さんの発言で、「作品の醍醐味は風化するほど楽しいという感じを持っているのです。たとえば高浜虚子の場合、戦前の悪評はひどいものですからね。ところが戦後だんだん評価が高まってくるわけでしょう。つまりそれにともなう俗世間的な要素が、だんだん時間とともに風化していくと、結局あとに浮かび上がってくるものは作品だけだという感じ。俳句のかなり大事な要素じゃないか」ということで、「俳句は、五七五だけの、経歴とか署名なしに、一句で立っている」のが大事という過程で、その後に、この掲出の句と上段の発言となり、「署名はなくて良し」、この掲出句のように、「署名があればさらに楽しい」というような展開となる。
 これらの座談会の発言を見ていて、「虚子ほど悪評と好評とが相半ばする俳人はいない」ということと、「虚子の句ほど佳句なのか駄句なのか見分けがつかない」ということを実感させられたのであった。これらのことが、この虚子のタイトルの「虚子の実像と虚像」との背景の一端ともなっている。
 さて、掲出の一句は、「季語は苔、『かな』の切れ字、一句一章体のリズム重視の定型感、
平明な表現、苔寺への挨拶句(存問性)、その場に臨んでの即興性、デッサン力のある写生」と虚子俳句の全てが網羅されているといっても過言ではなかろう。しかし、この句は、さきほどの飯田龍太さんのいわれる「一句で立っている」かどうかというと、とたんに首を傾げたくなるのである。上記の座談会の見巧者のお三方も、この句はどちらかというと虚子の駄句の方に入るというニュアンスのそれであった。そこで、大岡信さんが、「この句はお遊びですね。コの語呂合わせをまず楽しんだんだろうという気がしますね」との発言をなされたのである。その大岡さんの発言の、「苔寺」の「コ」、「苔をついばむ」の「コ」、
そして「小鳥かな」の「コ」と、実に、虚子らの「ホトトギス」の俳人達が拒否して止まない、いわゆる「知巧的」な「言葉遊び」の句作りがその背景に隠されていたのである。そして、しばしば、虚子その人はいろいろの試行をしていて、それを一切どちらかというと寡黙でカムフラージュしているのである。それと同時に、虚子その人は、余り「佳句とか駄句とか」の視点の世界とは無縁のところに自分を置いていたのかもしれない。というよりも、「佳句でもない駄句でもない普通の中庸な句」というのを標榜し、それを「ホトトギス」の俳句の信条にしていたようにも思われるのである。
 この掲出句も、その「佳句でも駄句でもない普通の中庸な句」と当初思ったのだが、先ほどの大岡さんの「知巧的」な「言葉遊び」の句という指摘で、やはり、高浜虚子という俳人は、苔寺に、この掲出句を、己が虚子の署名のもとに、今に遺しているその一端を思い知ったのである。

虚子の実像と虚像(その十七)

○ 年を以て巨人としたり歩み去る (大正二年)
○ 草を摘む子の野を渡る巨人かな (大正十四年)

 掲出の一句目の「年の歩みを巨人の歩みと感じている発想」に比して、二句目の巨人は「この巨人は例えば、ガリバーに出てくる巨人のようなもので、この句の巨人より」、一句目の巨人の方が、「空想味が濃い」という鑑賞がある(清崎敏郎・前掲書)。
 この「空想」を「観念または心像」と理解すると、確かに、二句目の巨人よりも一句目の巨人の方が、意外感のある着想で、「空想味が濃い」ということになるのかもしれない。
しかし、一句目の巨人は、「年」を「巨人」と擬人化したもので、二句目の巨人は文字とおり「巨人」(大男)のことで、その「巨人」(大男)が「草を摘む子の野を渡る」と結合して(取り合わせになると)、一句目の擬人化の句よりも、何か、スィフトの「ガリバー旅行記」を見ているような錯覚に誘われ、こちらの方がより「空想味が濃い」句のようにも鑑賞できるのである。そして、この両句の巨人とも、いわゆる、古俳諧でいうところの「見立て」(対象を他のものになぞらえて表現すること)のそれといえるであろう。この「見立て」は談林俳諧などで顕著に見られる俳諧(付合)の技法の一つであるが、虚子の句には、この見立ての応用による句作りをしばしば目にすることができる。
 そして、この「見立て」の応用は、しばしば、「寓意」(他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすこと)性を帯びてくる。例えば、この二句とも、当時の、虚子の俳壇復帰、そして、碧梧桐らの新傾向俳句に対する伝統俳句固守への確固たる挑戦と併せ鑑賞すると、その頭領たる虚子その人の像が浮かび上がってくる。しばしば、虚子の句は、極端過ぎるほど平明であるが故に、その平明さが逆に深読みを誘発して、往々にして、「寓意性」を帯びてくるということは、実に、不可思議なことでもある。それと併せ、虚子その人の「寡黙性」と相俟って、ますます、その「寓意性」が「巨人化」して来るという印象なのである。ここにも、今日の「虚子の実像と虚像」とを増幅させている大きな要因が見え隠れしている。
(付記)この掲出句の「巨人」をゴヤの傑作絵画の「巨人」の比喩と理解できなくもない。しかし、おそらく、虚子はそういう意識は全くないであろう。しかし、そういう比喩を誘う何かを、これらの句が醸し出しているというのが、上記の「見立て」・「寓意性」の虚子俳句の一つの特徴なようなものと結びついてくるという思いがするのである。
 なお、このゴヤの「巨人」については、次のアドレスで紹介されている。

http://fulesuko.com/contents7.html

※「フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス」の「巨人」と題された作品。一八〇八年~一二年のもの。巨人はどこへ向かっているのだろう? 対ナポレオンとの戦争中に描かれたのだが、いろいろな解釈があるみたいです。この巨人はナポレオンである、運命の力である、ナポレオン軍に抵抗せよという鼓舞である、文学の作品に基づいて描かれたなどなど。


虚子の実像と虚像(その十八)

○ 一人の強者唯出よ秋の風 (大正三年)
○ 秋風や最善の力唯尽す  (大正三年)

 句集『五百句』に「以上二句。九月六日、虚子庵例会」との留め書きがある句である。この両句も、先に紹介した、「春風や闘志いだきて丘に立つ」や「年を以て巨人としたり歩み去る」などの句が思い起こされてくる。掲出の二句は、いずれも「秋風」の句で、虚子の俳壇復帰の背景のある「春風や闘志いだきて丘に立つ」の「春風」と表裏一体を為すような句作りである。そもそも「春風」にしても「秋風」にしても、古来から親しまれている連歌・俳諧に通ずる古典的な季語・季題といえるものであろうが、それに取り合わせるものとして、当時の、虚子の胸中に去来していた、最も卑近な、最も世俗的ともいうべき、「碧梧桐らの新傾向俳句に対する守旧派宣言」を持ってきたというのが、これまた、どうにも虚子らしいという思いがする。そして、これらの句の背景については、虚子の俳壇復帰と「ホトトギス」の経営の立て直し(夏目漱石の朝日新聞入社などによる「ホトトギス」読者の減少など)などに直面し、あまつさえ、健康状態なども思わしくなく、虚子にとっては一つの苦難の局面であった。その「ホトトギス」の雑詠欄の復活なども、旧子規門にあって、比較的虚子に親しい、松瀬青々や青木月斗などに協力を求めて断れるなど、何もかも独力でやらなければならないような環境下にあったようである(松井利彦著『大正の俳人たち』)。当時の虚子の次のような「自恃」への思いの記述がある。
「私は今も尚ほ自己の力を信じます。私のする事は私自身に於て絶対的価値を有するのでありまして、何人も此をどうする事も出来ないのであります。けれども私は又斯ういふ事をも信じ無ければならぬといひます。世の中は大きな一つの力、其は私の力でも何人の力でもどうすることも出来ぬ偉大な一つの力があります。他人と対立し時には私は私に取つて絶対の信仰でもあり偉力でもありますが、一旦自他を離れて考へると、其処には唯一つの大きな力でもどうすることも出来ぬ偉大な一つの力があります。他人と対立した時には私は私に取つて絶対の信仰でもあり偉力でもありますが、一旦自他を離れて考へると、其処には唯一の大きな力がある許りでもあります」(「私の近況」、「ホトトギス」大二・三)。
 一句を鑑賞するということは、何もその句の背景などをあれこれと斟酌する必要はないのであろうが、当時のこれらの句が収載されていた「ホトトギス」掲載の虚子のものなどを併せて読みながら鑑賞すると、「俳句は季題趣味の世界」と律していると思われる虚子の世界というのは、あにはからんや、「ストレートな感情表現と季の言葉との重層関係において自己の心の消息を伝達するもの」という確固とした信念を内に秘めているということを思い知るのである。

虚子の実像と虚像(その十九)

○ 鎌倉を驚かしたる余寒あり (大正三年)

 『高浜虚子』(清崎敏郎著)の鑑賞文は次のとおりである。
※大正三年。二月一日、虚子庵(鎌倉・大町)での例会の出句である。鎌倉というところは、寒さが強くない温暖の地である。が、春になって、もう大分暖かになった時分だのに、不意に又寒さが襲ってきた。鎌倉の住人である我、人共に、その寒さに驚いたことであった。作者自身、「鎌倉に住んで居る人を驚かしたのでありますが、それを『鎌倉を驚かし』といったところが俳諧的である」と自解しているが、こういう風に省略して、敢て舌足らずな言い方をしたところに・・・一種の擬人法・・・、この句の技巧もあれば、俳諧的な面白みもある。鎌倉移住は、始めは家族ぐるみ避寒の積りで一冬を過すということであったが、やがて、その地に定住することになった。それは、古蹟殊にお寺の沢山あることなどが、愛着深かった京都に似ているところであり、又、京都とは違った、淡彩で素朴な趣が・・・当時は・・・捨てがたからであった。
 
 この晩年の虚子門の清崎敏郎氏の鑑賞は、いかにも「ホトトギス」流の無味乾燥なそれであって、一向に心に訴えてくるものが希薄のように思われる。それに比して、「ホトトギス」門ではない、能村登四郎氏の次の鑑賞(「俳句研究」平成元年三月号)は素直に訴えてくるものがある。
    
※鎌倉は虚子が永く住んだので故郷の松山以上に愛着をもっていた土地であろう。海を抱き後は山に囲まれた鎌倉は、冬暖かく夏涼しい土地である。その暖かいはずの鎌倉に立春も過ぎたというのに突然底冷えのする寒さが襲ってきたのである。この句は虚子が四十一歳の時で別に寒さにこたえるような年齢ではないから、とにかくよほどの寒さだったのだろうと思う。この鎌倉を他の土地の名と置き換えてても全く感じが出ない。鎌倉という土地に歴史的な重みがあり、「いざ鎌倉」とか「鎌倉方」といえばすぐ鎌倉幕府を思い出させるので、どこか物々しさを感じさせる。それを充分意識の上に置いての虚子の悪戯ごころが見えてくる。

 この「虚子の悪戯ごころ」というのが、この句のポイントであろう。そして、この「虚子の悪戯ごころ」ということに、虚子の「ホトトギス」の面々は余り気がついてない風潮のようなのである。

虚子の実像と虚像(その二十)

○ 此松の下に佇めば露の我  (大正六年)

 『高浜虚子』(清崎敏郎著)の鑑賞文は次のとおりである。
※大正六年。この句には、「十月十五日・・・兄の法事を済ませた翌日・・・風早柳原(松山在)に向ふ。雨。川一つ隔てたる西ノ下は余が一歳より八歳迄郷居せし地なり。空空しく大川の堤の大師堂のみ存す。其橋の傍に老松あり」という傍書がある。幼時郷居した風早村松ノ下の家のほとりには、一株の老松があって、子供の自分には、よく其松の下に遊びに行ったものである。今度三十数年経って来てみると、その松は依然として鬱然と聳え立っている。今、こうしてこの老松の下に佇んでいると、そぞろに幼時が思い出されて、回旧の情にとざされるのである。「露の我」というのは、露けさに包まれて立っている自分という位のことで、歌のように露からすぐに涙が連想されるというような用語例は俳句にはない。だが、この下五に、回旧の情にとざされている作者の心持が抒情的にのべられていることは言うを俟つまい。
 
 この掲出句については、この鑑賞文を読みながら、芭蕉の貞享四年(一六八七7)の『笈の小文』の旅で故郷に帰って詠んだ「古里や臍のをに泣〈く〉としのくれ」や、芭蕉が亡くなる元禄七年(一六九四)の最後の旅で詠んだ「家はみな杖に白髪の墓参り」(『続猿蓑』所収)などの句が思い起こされてくる。事実、この句が作られた翌年の大正七年に、虚子は『進むべき俳句の道』と『俳句はかく解しかく味う』を刊行し、この後書において、「要するに俳句は即ち芭蕉の文学であるといって差し支えない」とし、その最後を飾る言葉として、「『芭蕉の文学』である俳句の解釈はこれを以て終りとする」と明確に断言しているのである。即ち、虚子の師の子規は、この芭蕉を否定し、蕪村再発見をその因って立つ地盤にしたが、当時の碧梧桐らの「新傾向の俳句」に対して、「守旧派」のもとに、その師の子規の名実共に正しい後継者と自負する虚子が、師の子規が再発見した蕪村ではなく、今日、一つの常識とも化している「俳句は即ち芭蕉の文学である」と断定した、その虚子の眼力というのは、これは並大抵のものではないということを実感する。そして、この掲出句なども、「俳句は即ち芭蕉の文学である」の延長線上のものであろう。そういう大きな俳句観に立ってこの句に接すると、虚子の胸中には、上記の鑑賞文に見られる「『露の我』というのは、露けさに包まれて立っている自分という位のことで、歌のように露からすぐに涙が連想されるというような用語例は俳句にはない」などの生やさしいものではなかろう。「露からすぐに涙を連想して」、それは大いに結構である。「俳句というのは、和歌・連歌・俳諧に通ずる伝統的なもので、その伝統に裏打ちされた季語というのは、俳句の金科玉条のものである」という意識は、虚子の不動のものであったろう。そういう虚子の意識を目の当たりにするとき、やはり。当時の碧梧桐らの新傾向の俳句がこの虚子の不動の姿勢に圧倒されてしまうであろうことは、この掲出句などに接して、つくづく実感するのである。

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