日曜日, 6月 25, 2006

上田五千石の『田園』

上田五千石の『田園』(その一)

○ はじまりし三十路の迷路木の実降る
○ 新しき道のさびしき麦の秋
○ 漢籍を曝して父の在るごとし
○ 秋の雲立志伝みな家を捨つ
○ 渡り鳥みるみるわれの小さくなり

上田五千石の処女句集『田園』の「序」において、その師の秋元不死男は掲出の五句について次のように記している。「三十歳を迎えて迷路いよいよ始まると思う心懐のなかに、木の実が幽かな音を立てて降っているという第一句、新しい道のできた明るいよろこびの裏には、さびしさがひそむとみる第二句、外光に曝す漢籍は厳しくも慈しみぶかい父のようだと感じた第四句、大空へ消えてゆく遙かなる渡り鳥の群をみると、佇立さながらの人間の小ささが嘆かれるという第五句、いえば著者の謙虚な人間像が思惟の深みのなかで再現されているのである」。この五千石の処女句集『田園』は昭和四十三年(一九六八)、著者三十五歳のときに刊行された。秋本不死男はさらに「句集『田園』は著者が二十歳から俳句をはじめ、以来休むことなく作りつづけて今日に至るまでの、およそ十五年間の句業を収めた第一句集。書名『田園』は陶淵明の『帰去来辞』にある次の一句、 田園将蕪胡不帰  田園将に蕪(あ)れんとするに胡(な)んぞ帰らざる  からとったという。淵明のことは措くとして、察するに著者のばあい、『田園』とは”心のふるさと”を象徴しているもののようである」と記し、続けて、「さびしさに引きだされ、やがて静かさに深まってゆく句づくりが、もし俳句固有の詩法だと仮定すれば、五千石俳句はその詩法を身につけている」とも記している。この「さびしさに引きだされ、やがて静かさに深まってゆく句づくり」とは、隠岐に流刑された後鳥羽上皇への芭蕉の思い、即ち、「実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」(許六離別の詞)とも、「俳諧といふに三あるべし。華月の風流は風雅の躰也。をかしきは俳諧の名にして、淋しきは風雅の実(実)なり」(続五論)の「淋しきは風雅の実なり」とも、そして、それが、ここで秋本不死男のいう「俳句固有の詩法」のように思われるのである。そのように理解してくると、五千石俳句が目指していたものが、これらの掲出の五句から明瞭に浮かびあがってくる。それは、「迷路」であり、「さびしき」であり、「曝して」であり、「捨つ」であり、そして、「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」の「みるみる」という、「実(まこと)」に接しての「心の驚き」と、そして、それが「悲しびをそふる」ものとして一句を成してくるということなのであろう。これらの五句に、その後の五千石俳句の全貌が凝縮されているように思われる。

上田五千石の『田園』(その二)

○ 渡り鳥みるみるわれの小さくなり
 
上田五千石の処女句集『田園』は、「冬薔薇・虎落笛・青胡桃・柚子湯・蝋の花・渡り鳥」の五章からなる。さらに、この章名のもとに、それぞれの句(一句、二句単位、五句単位が一つ)に題名(季題を中心としてのキィワード的題名)が付せられている。この掲出の句は、その五章にあたる「渡り鳥」の中のもので、この一句に「渡り鳥」の題名が付せられている。上田五千石は、この句集の「後記」で「二十歳にして秋元不死男先生の門に入り、既に十有五年を数える。本句集は、その間の所産より二百十余を抽いた。ほぼ、制作順に編んだが、初期詩篇として一括する意味で年次を付することをしなかった。私の句業はこの集以後に始まると、ひそかに決意しているからである」と記している。とすると、この掲出句は、この句集の一番最後の章に収載されており、年次的に後期の頃の作品に該当して、しかも、その章名に由来がある句とも思われ、五千石自身、この掲出句の句については、この処女句集『田園』の中の代表句とひそかに自負していたともとれるのである。この句については、五千石自身の次のような自解がある。
「『渡り鳥』が『みるみる』うちに『小さくな』って秋空のかなたへ遠ざかって行ったのが事実であります。しかし、それをみつめて立っている自分が『みるみる小さくな』っていくように感じられたのは真実であります。そのとき、『渡り鳥』につき放たれたような一種のめまいのようなショックをうけたのを覚えています。逆説的な表現をとったので、人には理解されなかったと思っていましたが、いまでは私の代表作の一つとして数えられています。」
これはネットで紹介されていた「自作を語る」の中の自解の一節なのであるが、ここで注目したいことは、五千石は、「事実」と「真実」とを厳密に使い分けしているということなのである。
即ち、五千石は「渡り鳥が秋空のかなたへだんだんと遠ざかって行く」(事実)のを見て、「それをみつめている自分が『みるみる小さくな』っていくように感じられた」(真実)、その「事実」と「真実」とを巧みに「二物衝撃」(師の秋元不死男が最も意を用いたもの)させ、「われの小さくなり」と「逆接的な表現」で、この一句を構成しているのである。ということは、上田五千石の俳句信条とされている「眼前直覚」(五千石の主宰誌「畦」創刊時の主張)というのは、単なる眼前の「事実」(もの)と「真実」(まこと)とを描写することではなく、創る主体としての「われ」ということが「事実」や「真実」以上に重視されていると思われるのである。いずれにしろ、この掲出の句は、上田五千石俳句の代表作の一つで、この掲出句に見られる、知的操作の技巧的な句作りということは、上田五千石俳句を知る上でのキィワードであるとともに、何時も、心しておく必要があると思われるのである。
(追伸)上記の上田五千石の「自作を語る」が紹介されていたネットのアドレスは次のとおり。このネットの上田五千石鑑賞は、斉藤茂吉との関連が主であって、五千石俳句の一面しか語っていないということは付記しておく必要があろう。

http://www.ne.jp/asahi/mizugamehp/mizugame/mg/kotoba/kotoba-c.htm

上田五千石の『田園』(その三)

○ 万緑の中や吾子の歯生え初むる   中村草田男
○ 万緑やわが掌に釘の痕もなし    山口誓子
○ 万緑や死は一弾を以て足る     五千石

 掲出の一句目の草田男の句は、「万緑」の語を新季語として現代俳句の中に導き入れ、定着させたものとして夙に名高い。そして山口誓子の二句目は、「万緑と掌の釘痕という映像の対比の斬新さにおいて、季語『万緑』になまなましい生命力の表象としての印象を与えることに成功している」との評がある(大岡信)。そして、三句目の五千石の句も「万緑」と「死と一弾を以て足る」の対比の斬新さにおいて、誓子のそれを遙かに凌駕して、五千石の初期の句業の傑作句として名高い。この句には「万緑」ではなく「一弾」との題名が付せられている。この題名からして、五千石俳句の特徴の一つである「男の美学」(ダンディズム)を感じさせる一句である。この句に接すると中世のダンディスト歌人の西行の「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ」が想起されてくる。五千石の師の秋元不死男は五千石をして「上田五千石は不羈で、きっぱり決断する男だ」と、その『田園』の「序」で指摘している。それを是とするが故に、次の坪内稔典の非ダンディズム的な鑑賞は是としない。
「新緑は強いエネルギーを発散している。だから、そのエネルギーにたじたじになる場合がある。ふと死たくなったりするのだ。新緑の頃のそのような気分をしばらく前までは五月病と呼んだが、今はこの言葉、あまり使われなくなった。五月病的なものがなくなったのではなく、もしかしたら、広く拡散、蔓延したため、とりたてて五月病という必要がなくなったのだろうか。ともあれ、今日の句は新緑の頃の気分をとらえた傑作だ。 五千石の句は句集『田園』(1968年)にある。作者35歳の句集だが、実に秀作が多い。宗田安正は出たばかりの文庫版句集『上田五千石句集』(芸林書房)の解説において、鷹羽狩行の『誕生』、寺山修司句集とともに『田園』は<近代俳句史に於ける三大青春句集>だと評している。ややオーバーな評言だが、たしかに優れた青春句集であることだけは間違いがない。(坪内稔典) 」

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0503.html

上田五千石の『田園』(その四)

○ みちのくの性根を据ゑし寒さかな  五千石
○ もがり笛風の又三郎やあーい    五千石
○ すいすいと電線よろこび野へ蝌蚪へ   不死男
○ 二百十日過ぎぬ五千石やあーい     鉄之助
○ 野分立つ又三郎やあーい五千石やあーい  晴生


掲出の一句目と二句目は、五千石の『田園』の第二章にあたる「虎落笛」の中の「もがり笛」との題名のある二句である。これまた、章名の由来となっている句で、特に、この二句目の句は、五千石の「オノマトペ」(擬態語・擬声語等)の句として名高い。「やあーい」というのは「呼びかけ語」で擬態語・擬声語ではないが、五千石自身は、この章名・題名の「虎落笛」の「オノマトペ」のような意味合いも込めて使用しているのであろう。五千石の師の秋元不死男は「オノマトペの不死男」と呼ばれたほどの、オノマトペを縦横無尽に駆使した俳人であった。この掲出の三句目の不死男の句の「すいすい」(原文では二倍送り記号で表示されている)が、不死男の「虎落笛」のオノマトペで、虎落笛とは、寒風の吹くとき、電線や竿に当って鳴る音(丁度冬天のだっだ子がもがるような音)である。この二句目の五千石の句は、一見無造作な、宮沢賢治の「風の又三郎」を軽く十七音字の中に組み込んだだけの句のように思われるかも知れないが、実は、「虎落笛」という冬の代表的な季語の本意を実に的確にとらえていて、「もがる」(「我をはる」・「だだをこねる」の方言的用語)という本意の一つからの、陸奥(みちのく)の厳しい寒風(一句目)と、それを象徴するような「風の又三郎」への連想からの、ある意味では、思慮に思慮を重ねた、巧みに効果を計算しての技術的な句作りでもある。これらの五千石の句作りに対して、その師の不死男は、その『田園』の「序」で、「いわゆる芸の面からいえば、言葉の選良も鋭いし、技巧もあり、腰のはいり方も確かで文句はないが、才あるゆえの演出がうるさく感じられる作が少々ある」との、鋭い指摘をしている。この不死男の指摘は、それを是としても、その「才あるゆえの演出のうるさ」さが、また、何とも小気味良いという面も、五千石俳句の面白さのように思われる。この平成俳壇を担う逸材の一人といわれていた上田五千石は、平成九年九月二日に、享年六十三歳という「これから」というときに、突然他界してしまった。掲出の四句目は、松崎鉄之助の追悼句で、その五句目は、その突然の逝去の新聞報道を接したときの拙作である。この句を作句した状況のことを今でも鮮明に思いだすことができる。そして、五千石のこの「もがり笛風の又三郎やあーい」の句は、突然、口をついで出てくるような、それだけのインバクトを有しているということを、しみじみと実感しているのである。 





上田五千石の『田園』(その五)

○ 返すことなくはるかへと稲穂波   (狩行)
○ わが而立握り拳を鷲も持つ     (狩行)
○ 秋の蛇去れり一行詩のごとく    (五千石)

 掲出の一句目は、秋元不死男の主宰する「氷海」の五千石と共にその双璧ともいわれていた鷹羽狩行の五千石追悼の句である。この追悼句について、ネットで次のような紹介がなされている。
「上田五千石の突然の訃報は稲穂の実る列島を風のように駆け抜け、余波は容易に静まらなかった。余波とは名残のこと。うち返さない波など、この世にはない。だが、波に例えた五千石は戻らない。句の半信半疑の面持ちが死の事情を語っている。黄金の稲穂は丹精の賜物、採り入れ直前の実り、故人が置き去りにした俳句作品そのもの、遺品である。この句は十七音の五千石観となっている。秋元不死男門下の逸材として人々は二人の物語をさまざまに創作してきたが、このような灌頂の巻を誰が予想したか。後ろから一陣の風となって吹き抜け、帰らぬ人となるという運命に茫然とし、次にとるべき行動も思案もなく見送っている姿である。」

http://members.jcom.home.ne.jp/ohta.kahori/sb/sb1209.htm

 掲出の二句目は、その狩行の処女句集『誕生』(昭和四十年刊行)の末尾を飾る作品である。この句について、秋元不死男はその「跋」において、「句集”誕生”はこの句を以て終わっている。三十四歳の作だが、而立の感慨を今もなお日々新たに噛みしめている著者である」とし、「さて、狩行は自分を鷲にたとえて、握り拳を見せつつ、第一句集”誕生”の幕をおろした」との記載をしている。この鷹羽狩行は五千石以上に、その将来を嘱望された俳人で、不死男の「跋」によると、「昭和二十一年の十五歳」のときに俳句の道に入り、昭和二十三年の山口誓子主宰の「天狼」創刊のときに「遠星集」(山口誓子選)に投句して、入選を果たしているという。秋元不死男主宰の「氷海」に同人として参加したのは、昭和二十九年で、山口誓子と秋元不死男という二大巨人の秘蔵っ子のような俳人なのである。
 さて、掲出の三句目は、上田五千石の第一句集『田園』(昭和四十三年)の末尾を飾る作品である。五千石が作句を始めたのは、昭和二十二年の十四歳のとき、そして、「氷海」の同人となったのは、昭和三十一年(二十三歳)で、昭和五年生まれの狩行と昭和八年生まれの五千石とは、年齢的にもその句業の面からも、狩行がやや先輩格ということになる。しかし、この二人は、昭和三十二年に「氷海新人会」を結成して、爾来、平成九年九月の五千石他界の日まで、陰に陽に、切磋琢磨する関係にあったということは、上記の狩行の五千石追悼の句の紹介記事からも明らかなところであろう。そして、ここで強調しておきたいことは、ただ一つ、後世に名を留めるような作品・作家になる必須条件の一つとして、「常に切磋琢磨しあえるような環境下にあることが極めて重要なことである」という、この一点なのである。すなわち、狩行の今日あるのは、五千石を抜きにしては語れないし、そして、五千石がその死後もますますその名を高めているのは、狩行との切磋琢磨の、その結果でもあるといえなくもないのである。そして、掲出の句のように、鷹羽狩行が、天を舞う「鷲」であるとするならば、上田五千石は、地を這う「蛇」に例えることも、これまた、二人の関係を如実に示すことのように思われるのである。


上田五千石の『田園』(その六)

○ 青嵐渡るや鹿嶋五千石    (五千石・十四歳のときの作)
○ 杖振つて亡き父来るか月の道 (五千石『田園』・「虎落笛」・「月の道」)
○ 端居して亡き父います蚊遣香 (同上)
○ 父といふしづけさにゐて胡桃割る(五千石『田園』・「柚湯」・「木の実」)
○ 漢籍を曝して父の在るごとし (五千石『田園』・「蝋の花」・「曝書」)
○ 蝉しぐれ中に一すぢ嘆きのこゑ (同上)

 上田五千石の俳号は、五千石が十四歳のときの中学校の文芸誌「若鮎」に、掲出の一句目を発表したことによる、彼の父親の命名という(上田五千石・年譜)。五千石の父親も俳人で、子規の門弟の内藤鳴雪門で仏教界(法相宗東京出張所長)の人で、五千石が十五歳のときに他界している。掲出の二句目・三句目は、五千石の三十歳以前のその父親を回想しての句であろう。五千石はこの父親の五十九歳にときに誕生して、この掲出の一句目を作り、そして、「五千石」との俳号をその父親より頂戴して、その翌年にその父親を失うという環境からして、この父親の影響を強く受けていることは、これらの二句からも容易に想像できるところのものである。それだけではなく、この父親の死を早くに経験したことなどによる「無常観」のようなものがその後の作句上の根底にあることも想像に難くない。彼自身、自分自身の句の根底に流れているものは「無常観」のようなものだとの感想も漏らしている(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが俳句を語る」)。そして、掲出の四句目は、五千石が二十七歳で結婚して、一子を授かった三十歳の頃の作句で、この掲出句の「父」は自分自身のことなのであるが、やはり、この「父」にも、自分自身の父親と対比しての「父という存在」ということが主題となっており、さらに、この句の「胡桃」は、その父親の死とイメージが重なる生家の空襲による焼失(昭和二十年・五千石、十二歳)とその前後の信州(松本市)の疎開などの思い出などを象徴するものでもある。そして、この掲出の五句目・六句目の句は、五千石が、この処女句集『田園』を刊行する、昭和四十三年(三十五歳)とこの掲出の四句目が作句される年(昭和三十八年、三十歳)の間に作句されたもので、この二句を得て、五千石は始めて、十五歳のときに永別した父の自縛の世界から解放されたような思いと、同時に、男親としての父という存在の「実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」(芭蕉の「許六離別の詞」)ものを見てとったように思えるのである。こういう意味合いにおいて、五千石が、この処女句集『田園』の「後記」において、「かかる形で私の青春を録し得たことは幸いであった」というのは、確かな真率の声であり、かかる観点からの『田園』鑑賞ということが望まれるのかも知れない。


上田五千石の『田園』(その七)

○ 朝焼や聖(サンタ)マリヤの鐘かすか (山口誓子『凍港(昭和七年刊)』)
○ クリスマス地に来ちゝはゝ舟を漕ぐ (秋元不死男『街(昭和十五年刊)』)
○ 一段に子の書ある書架クリスマス  (鷹羽狩行『誕生(昭和四十年刊)』)
○ 新しく家族となりて聖菓切る    (上田五千石『田園(昭和四十三年刊))

 上田五千石の処女句集『田園』は全て山口誓子選との記述がある(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが俳句を語る」)。しかし、その『句集』を見た限りにおいては、その「序」は秋元不死男が記述しており、「山口誓子」の四字は出てこない。それに比して、鷹羽狩行の処女句集『誕生』は、その「序」は山口誓子で、「跋」が秋元不死男と、山口誓子が前面に出てくる。その山口誓子の「序」は「『鷹羽狩行』は私の附けた筆名である。『たかはしゆきを』を『たかは』と切り、『しゆ』と切り、『きを』をくつつけた。『狩行』は一寸読みにくいが『しゆうぎよう』と読む。『かりゆき』と読んではいけない。こんどの句集の『誕生』も私が附けた」という切り出しで始まる。思わず、「即物象徴の写生構成論」の創始者の無味乾燥の権化のような山口誓子にしては、「たかはしゆきを」(鷹羽狩行の本名)をもじって、「たかは・しゆきを(しゆうぎよう)」とはと、誓子にもこういう一面があるのかと驚くような気の入れようなのである。その秋元不死男の「跋」を見ても、「誓子先生と私が俳句の師匠ということになる。しかし、彼の手筋は誓子流で、誓子の影響がつよい」と断言している。さらに、狩行と五千石の師匠といわれている秋元不死男にして「誓子先生」と、不死男自身、戦後は山口誓子を師と仰いでいたという図式が浮かび上がってくる。そして、鷹羽狩行は、秋元不死男の影響も受けているが、より多く、山口誓子の影響を強く受け、上田五千石は、山口誓子の影響も受けているが、より多く、秋元不死男の影響を強く受けているという図式になろう。そして、その図式において、こと、五千石の処女句集『田園』は、秋元不死男の「俳句”もの”説」もさることながら、全て、山口誓子選の、山口誓子の「即物象徴の写生構成論」の影響下にある作品群であるということができよう。掲出の四句は、それぞれの処女句集の刊行年度順に、「聖マリヤ」・「クリスマス」関連の一句を抽出したものである。そして、一句目の誓子の句は、「聖」を「サンタ」とルビを振って読ませ、無季のような句作りで、いかにも、高浜虚子が誓子をして、「辺境に鉾を進める」「征虜大将軍」
の新天地を開拓する趣があるし、二句目の不死男の句も不死男の初期の傑作句でもある。それらに比して、狩行の三句目も、五千石の四句目も、こと、この抽出句においては、「曾て西東三鬼が狩行の俳句を評して”優等生俳句”といつたことがある」(秋元不死男の『誕生』の「跋」)という趣である。これらは、これらの句の背景となっている時代史的な緊迫感というものと何らかの関係を有しているようにも思える。いずれにしろ、この四者は密接不可分の関係にあり、その四者の流れは、上記の、それぞれの処女句集の刊行年度のような時代史的な流れと一致するということはいえるであろう。


上田五千石の『田園』(その八)

○ 万緑やわが詩の一字誤植して  (鷹羽狩行『誕生』・昭和二十九年)
○ 万緑や死は一弾を以て足る   (上田五千石『田園』・昭和三十三年)
○ 虎落笛こぼるるばかり星乾き  (鷹羽狩行『誕生』・昭和二十六年)
○ もがり笛風の又三郎やあーい  (上田五千石『田園』・昭和三十四年)

 上田五千石の年譜によると、昭和四十三年(一九六八)に処女句集『田園』を刊行して、その翌年、「第八回俳人協会賞。第八回静岡県文化奨励賞」を受賞している。そして、昭和四十八年(一九七三、五千石・四十歳)に、「八月『畦の会』の会報として小冊子『畦』を刊行、これをもって五千石主宰『畦』の創刊としている」との記載が見られる。この五千石の主宰誌「畦」について、「畦」編集長であった本宮鼎三は次のように記述している(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが師、わが結社」)。「なぜ、私達の会合を『畦』としたか・・・。二つの理由がある。その一つは、この『畦』句会結成の二年前の昭和四十四年、処女句集『田園』により、五千石は第八回俳人協会賞を受賞した。(中略) 句会名の『畦』は『田園』の作家五千石の連衆が畦伝いで集まろう、という『田園』にちなんだ命名である。『畦』としたその第二の理由は簡単である。それは、第三土曜日に『畦』句会を必ず行ったからである。これは今でもこの原型が『畦』富士句会に継続されている。『畦』に『土』の字が三つ、ゆえに第三土曜日。『畦』の字の偏をよく見ていただきたい。『田』の中に、土が一つ隠れているのである。これは単なる洒落ではない。俳諧の滑稽に通じるものであると解していただきたいのである」。こういう「洒落ではない、俳諧の滑稽に通ずる」ことは、俳人たちの日常茶飯事に行うところである。とにもかくにも、上田五千石の句業というのは、その処女句集『田園』を抜きにしては語れないということは厳然たる事実である。さて、その上で、掲出句の、鷹羽狩行と五千石の、「万緑や」の句と「虎落笛」の句とのそれぞれを見ていただきたい。これらの二句抽出の両者の両句の対比だけでも、五千石は兄弟子でもある狩行を常に念頭において、相互に切磋琢磨していたということが、おぼろげながらに見えてくるようなのである。そして、狩行の句は五千石の句に比して、秋元不死男が狩行俳句の特質として、「誓子の選は極めて厳しく、曖昧さをゆるさず、弛緩をゆるさず、ごまかしをゆるさない。何を措いてもしつかりとゆるぎなく、明晰に表現されることが大事だとされる。従つて誓子の選で鍛えられた狩行の作品には曖昧さや、朦朧さがない。実にはつきりとしている。これが狩行俳句の大きな特質である」(秋元不死男の『誕生』の「跋」)と指摘しているごとく、極めて明晰な表現スタイルをとっているということなのである。しかし、その逆に、その明晰性という点では、五千石俳句は狩行俳句に一歩譲るとして、上記の本宮鼎三の「洒落ではない、俳諧の滑稽に通ずる」ような「洒落味・滑稽味」という点では、狩行俳句よりも五千石俳句の方が一歩先んじているように思えるのである。

上田五千石の『田園』(その九)

○ 万緑や死は一弾を以て足る    (昭和三十三年)
○ もがり笛風の又三郎やあーい   (昭和三十四年)
○ 遠浅の水清ければ桜貝      (昭和三十八年)
○ 新しき道のさびしき麦の秋    (昭和三十八年)
○ あけぼのや泰山木は蝋の花    (昭和三十八年)
○ 流水のかくれもあへずいなびかり (昭和三十九年)
○ 渡り鳥みるみるわれの小さくなり (昭和四十年)
○ 水鏡してあぢさゐのけふの色   (昭和四十二年)
○ 水透きて河鹿のこゑの筋も見ゆ  (昭和四十二年)

「畦」編集長であった本宮鼎三の、上田五千石処女句集『田園』の代表作として抽出されている九句である(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが師、わが結社」)。その創作された年次が記載されていて、これを参考にして、その『田園』所収の他の句について鑑賞していくと、その『田園』の全貌というのが見えてくる。さらに、本宮鼎三は五千石の俳論について次のような五千石語録をもって明らかにしている。
「花を見て、あゝ美しい、あゝきれいというのが、俳句とすべきは、あゝであって、美しい、きれいに、及ぶべきではない。『もの』に出合っての嘆声の至純を尊ぶ俳句は、嘆声を発せしめた『もの』の有り様を写生すれば足りるのである」(昭和五十四年四月号「畦」)。
「常識を破り、予定観念をくつがえして、現実の中に超現実を見ることは、初めての新しい世界の開示です。これが『詩』というものです。俳句はこの『詩』を端的に瞬間的に十七音に成就させるものです。したがって、この短詩型の時制は常に『いま』であり、空間は『ここ』であり、主体は『われ』であります」(昭和六十一年五月号)。
 これらの上田五千石の俳論は、山口誓子の「即物具象の写生構成」および「外淡内慈」の作風と、秋元不死男の「俳句〈もの〉説」を土台にして、五千石がさらに築いた持論で、これが「畦」の作句信条の「眼前直覚」論であって、この「眼前直覚」の「われ」「いま」「ここ」と、出合った「もの」を、「鋭く・素早く・その瞬間性が句作に不可欠である」として、「俳句この、野生とエレガンス(優雅)の合成物」とも本宮鼎三は記している。まさに、これらの、「われ」「いま」「ここ」という観点から、掲出の九句を鑑賞していくと、この三点が浮き彫りになってくるし、さらに、「野生(ワイルドネス)とエレガンス(優雅)の合成物」的な把握と、それより派生してくる「男の美学」(ダンディズム)という、五千石俳句の特徴が浮き彫りになってくる。これらの五千石俳句の全ては、この処女句集『田園』所収の句に渦巻いているのである。

上田五千石の『田園』(その十)

青胡桃しなのの空のかたさかな(『田園』) 長野県上伊那郡辰野町小野 しだれ栗自生地
柚子湯出て慈母観音の如く立つ(『田園』) 静岡県清水市上原174-2 十七夜山千手寺   
手斧始もとより尺の富士ひのき      同 富士市白糸 林業地              
みどり新たに椎の兄楠の弟        同  同 入山瀬 浅間神社境内          
庭中の名だたる竹も竹の秋        同  同 浅間本町 仁藤壷天氏宅庭内      
遠浅の水清ければ桜貝(『田園』)     同  同 岩本 岩本山公園内
萬緑や死は一弾を以て足る(『田園』)   同  同 岩本 岩本山公園内
渡り鳥みるみるわれの小さくなり(『田園』)同  同 岩本 岩本山公園内     
もがり笛風の又三郎やあーい (『田園』) 同  同 岩本 岩本山公園内
手斧始もとより尺の富士ひのき      同  同 蓼原 「もくもくタウン富士」     
おもかげのいつがいつまで冬あたたか   同  同 上横割 石川氏宅庭内       
こえにせず母呼びてみる秋の暮      同  同     瑞林寺墓地          
山開きたる雪中にこころざす       同 富士宮市山宮中船道 富士登山道       
時頼の墓へ磴積む落椿          同 田方郡伊豆長岡町長岡1150 最明寺境内   

http://www.yin.or.jp/user/sakaguch/036.TXT

 上記のアドレスによると、上記の十四句について、右に記載した所に句碑があるという。その十四句のうち、処女句集『田園』(昭和四十三年刊)所収の句については、上記に記載したとおり六句ということになる。その他の句については、処女句集『田園』以外の句集に収載されているものなのであろう。
ちなみに、『上田五千石(春陽堂)』(平成四年刊)によると、第二句集『森林』(昭和五十三年刊)、第三句集『風景』(昭和五十七年刊)、第四句集『琥珀』(平成四年刊)そして『上田五千石集(自註現代俳句シリーズ)』が著作一覧として掲載されている。また、評論集としては『俳句塾・・眼前直覚への二十一章・・』(邑書林)などが紹介されている。この他に、遺句集『天路』(平成十年刊)及び『上田五千石全句集』(平成十三年刊)も刊行されている。この『田園』鑑賞については、
『増補 現代俳句大系 第十三巻』所収の「田園」を参考としている。とにもかくにも、上田五千石については、未だ他界して、五年足らずという短い年月であり、その紹介などについては、今後の、上田五千石周辺の方達によってなされていくことになるのであろう。
最後に、『上田五千石(春陽堂)』により、処女句集『田園』以外の句集のものの幾つかについて紹介をしておきたい。

○ 竹の声唱々として寒明くべし     (『森林』)
○ 開けたてのならぬ北窓ひらきけり   ( 同 )
○ しぐれ忌を山にあそべば鷹の翳    ( 同 )
○ かくてはや露の茅舎の齢こゆ     ( 同 )
○ 冬の菊暮色に流れあるごとし     ( 同 )
○ 句つくりははなればなれに冬木の芽  (『風景』)
○ 詩に痩するおもひのもづくすすりけり ( 同 )
○ 文才をいささかたのむ懐炉かな    ( 同 )
○ 光りては水の尖れる我鬼忌かな    ( 同 )
○ 悴みて読みつぐものにヨブ記あり   ( 同 )
○ 白扇のゆゑの翳りをひろげたり    (『琥珀』)
○ まぼろしの花湧く花のさかりかな   ( 同 )
○ 筆買ひに行く一駅の白雨かな     ( 同 )
○ あたたかき雪がふるふる兎の目    ( 同 )
○ さびしさやはりまも奥の花の月    ( 同 )

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