月曜日, 2月 20, 2023

第四 椎の木かげ(4-12~4-20)

 4-12  仙薬を魚もなめてや雲の峰

 季語=「雲の峰」=雲の峰(くものみね)三夏

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/2036

 【子季語】 積乱雲、入道雲、峰雲

【解説】 盛夏、聳え立つ山並みのようにわき立つ雲。積乱雲。夏といえば入道雲であり、夏の代名詞である。強い日差しを受けて発生する激しい上昇気流により、巨大な積雲に成長して行く。地方により坂東太郎・丹波太郎・信濃太郎・石見太郎・安達太郎・比古太郎などとよばれる。

【例句】

雲の峰幾つ崩れて月の山     芭蕉「奥の細道」

ひらひらとあぐる扇や雲の峰   芭蕉「笈日記」

湖やあつさををしむ雲のみね   芭蕉「笈日記」

雲の峰きのふに似たるけふもあり 白雄「白雄句集」

しづかさや湖水の底の雲のみね  一茶「寛政句帖」

 

仙薬=① 飲むと仙人になるという薬。不老不死の薬。仙丹。

※霊異記(810‐824)上「『逕ること八日、夜、銛き鋒に逢はむ。願はくは仙薬を服せ』といひて」 〔史記始皇本紀〕

② 非常によくきく不思議な薬。霊薬。

※今昔(1120頃か)五「国王、此は仙薬を服せるに依て也と知て」

(「精選版 日本国語大辞典」)

 

句意(その周辺)=この句には「緑樹(りょくじゅ)影沈(かげしづん)では」との前書がある。この前書からすると、一茶の「しづかさや湖水の底の雲のみね」に近い、「緑樹の影と入道雲のが水底に沈んで、その入道雲を、魚が、あたかも、仙薬(不老不死の薬)のように舐めている」というような句意となる。

 

(参考)『酒井抱一 井田太郎著・岩波新書』で紹介されている句意周辺

  この句は、『酒井抱一 井田太郎著・岩波新書』(p77p78)で、其角の「香薷散(かうじゆさん)犬がねぶつて雲の峯」(『五元集』)の句を変奏しているとの謎解きをしている。

それによると、この前書は、謡曲(「竹生島(ちくぶじま))の「緑樹影沈(しづ)みて、魚木に上る気配あり」を摘まんだものと指摘している。そして、其角の句は、「夏雲が水たまりに影を落とす。犬が水たまりの茶色い水をなめるので、さながら犬が雲のなかにいるかのようである」として、その「茶色い水(液体)」は、「暑気払い」の「茶色い・香薷散」の見立てと喝破している。

 この其角の「香薷散」の句は、下記のアドレスで紹介している。

 ttps://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA?updated-max=2007-04-06T08:55:00%2B09:00&max-results=20&start=4&by-date=false

 【○ 香薷(じゆ)散犬がねぶつて雲の峰 (其角『五元集』)

○ まとふどな犬ふみつけて猫の恋   (芭蕉『菊の道』)

 四十一 掲出の一句目の其角の句は、「雲の峰が立つ真夏の余りの暑さに、犬までが暑気払いの『香薷(じゆ)散』を舐(なぶ)っている」という意であろう。この句の背後には、『事文類聚』(「列仙全伝」)の故事(准南王が仙とし去った後、仙薬が鼎中に残っていたのを鶏と犬とが舐めて昇天し、雲中に鳴いたとある)を踏まえているという。さらに、この句の真意は、「将軍綱吉の生類憐れみの令による犬保護の世相を背景とし、犬の増長ぶりを諷している」という(今泉・前掲書)。と解すると、これまた、其角の時の幕政への痛烈な風刺の句ということになる。それに比して、其角の師匠の芭蕉の二句目の犬の句は、「恋に切なく身を焦がす猫が、おっとり寝そべっている犬を踏みつけてうろつきまわっている」と、主題は「猫の恋」で実にのんびりとした穏やかな光景である。この「まとふど」は、「全人(またいびと)」の「純朴で正直な人」から転じての「とんま・偶直な」という意とのことである(井本農一他注解『松尾芭蕉集』)。いずれにしろ、ここには、其角のような、時の幕政への痛烈な風刺の句というニュアンスは感知されない。芭蕉もまた、反権力・反権威ということにおいては、人後に落ちない「隠棲の大宗匠」という雰囲気だが、どちらかというと、「おくのほそ道」に関わる「芭蕉隠密説」も流布されるように、「親幕府」という趣だが、こと、その蕉門第一の高弟・其角は、「反幕府」という趣なのが、何とも好対照なのである。ちなみに、芭蕉もまた、其角と同様に、綱吉の「生類憐れみの令」の御時世の元禄の俳人であったことは、付言する必要もなかろう。】

 ここまで来ると、其角の句も、抱一の句も、それこそ、正岡子規の、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」と、「チンプンカンプン」ということで、敬遠されることになる。

しかし、抱一の、その句の周辺を探るには、その作意の本筋の「其角」の句は手に負えないとしても、より、定石的な、より、理解し易い、例えば、上記の、「季語」の解説の「例句」などを補助線にすると、何かが見えてくるような、そして、そういう、「抱一の発句、濃艶愛すべし」という見方もあるように思える。

 

4-13  秋旣(すでニ)ちかづきふへて蛍がり

 季語=「秋」と「蛍」=「秋の蛍」=秋の蛍(あきのほたる) 初秋

 https://kigosai.sub.jp/?s=%E7%A7%8B%E3%81%AE%E8%9B%8D&x=0&y=0

 【子季語】 秋蛍/残る蛍/病蛍

【解説】 秋風が吹く頃の蛍である。弱々しく放つ光や季節を外れた侘しさが本意。

【例句】

世の秋の蛍はその日おくりかな  信徳「口真似草」

死ぬるとも居るとも秋を飛ぶ蛍  乙州「西の雲」

牛の尾にうたるる秋のほたるかな 成美「成美家集」

蛍減る秋を浅香の橋作り     乙二「をののえ草稿」

 

「ほたるがり」=夏の夜、水辺などに光る蛍を捕えて遊ぶこと。ほたるおい。《季・夏》

※浮世草子・好色産毛(1695頃)三「上鴨の蛍狩(ホタルガリ)、宇治瀬田は更也、北野平野に勝て、市原二の瀬の柴口鼻(しばかか)が帰る夜道をかがやかし」

 

(「精選版 日本国語大辞典」)

 句意(その周辺)=この句も難解句の一つである。まず、前句(4-12)の前書(「緑樹(りょくじゅ)影沈(かげしづん)では」)が掛かる一群(4-12」~「4-20)の句の、二番目の句と解したい。その上で、この句の「秋旣(既の「異字体」)ちかづきふへて蛍がり」の詠みは、「秋既(すで)/ちかづき・ふへて/蛍がり」(五・七・五)の詠みとして置きたい。

 句意=緑樹の影も沈んで、既に、夏から秋へとの気配を漂わせている。その忍び寄る初秋の夜に蛍の数は増えて、その最後の蛍狩りに興じている。

 

(参考) 其角の蛍の句(「此(この)碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉(『五元集』)」)周辺

 https://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA?updated-max=2007-04-06T08:55:00%2B09:00&max-results=20&start=4&by-date=false

 【(謎解き・二十一)

 ○ 鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分 (其角『五元集』)

○ 夕顔にあはれをかけよ売名号 (其角『五元集』)

○ 此(この)碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉 (其角『五元集』)

 四十 この掲出の三句は、『五元集』では、一句目が「春」、二句・三句目が「夏」と分かれて掲載されているが、その『五元集』のもとになっている『焦尾琴』の「早船の記」では、次のように掲載されているうちの三句である。

 http://kikaku.boo.jp/haibun.html

    其引 所の産を寄て

※行水や何にとゝまる海苔の味   其角

朝皃の下紐ひちて蜆とり      午寂

雨雲や簀に干海苔の片明り     文士

幕洗ふ川辺の比や郭公       序令

椎の木に衣たゝむや村時雨     同

浮島の親仁組也余情川       景□(けいれん)

すまふ取ゆかしき顔や松浦潟    同

建坪の願ひにみせつ小萩はら    白獅

※幸清か霧のまかきや昔松     其角

※鯉に義は山吹の瀬やしらぬ分   同

さなきたに鯉も浮出て十三夜    秋航

雷の撥のうはさや花八手      百里

夕月や女中に薄き川屋敷      同

村雨や川をへたてゝつくつくし   甫盛

後からくらう成けり土筆      堤亭

揚麩には祐天もなし昏の鴫     朝叟

※夕顔に哀(あはれ)をかけよ売名号 其角

 河上に音楽あり

笙の肱是も帆に張夏木立       午寂

お手かけの菫屋敷は栄螺哉      同

 こまかたに舟をよせて

※此碑ては江を哀(カナシ)まぬ蛍哉 其角

若手共もぬけの舟や更る月      楓子

  さて、この掲出の一句目の、「鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分」は、「綾瀬の御留川(漁獲禁止の川)の名物の山吹鯉を獲るのに、見張りの役人に少々山吹色の小判を与えれば、見て見ぬふりをしてくれる」という世相風刺(当時の幕政の腐敗の風刺)の句のようなのである(今泉・前掲書)。

二句目の「夕顔に哀(あはれ)をかけよ売名号」は、『五元集』では、「裕天和尚に申す」との前書きがあり、この裕天和尚は、当時の五代将軍綱吉の母桂昌院の尊信を受け、隅田川東岸の牛島を去って、一躍高位の僧となられた方で、その「裕天和尚に申す」という形での、「売名号」(仏あるいは菩薩の名号を書いた札で、書き手によって御利益がある)の御利益のように、民衆に「哀れをかけよ」としての、これまた、当時の幕政への不満に基づく風刺の句のようなのである。

この「夕顔」は、『源氏物語』の「夕顔」の「山がつが垣穂荒るともをりをりはあはれをかけよ撫子のつゆ」を踏まえているとのことである(今泉・前掲書)。そして、三句目の「此碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉」は、「この殺生禁断の碑のお蔭で何となく不景気で、川の流れを眺めながら哀れに感じないのは蛍だけ」という意の、当時の五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」への嘆きの句であるという(半藤・前掲書)。其角の謎句には、このような当時の幕政への痛烈な風刺の句があり、その意味では、其角は、終始一貫して、反権力・反権威の反骨の俳人という姿勢を貫いている。

こういう句の背後にあるものを、当時の人でも察知できる者と、察知できない者と、完全に二分されていたのであろう。そして、その背後にあるものを察知できない者は、其角の句を「奇想・奇抜・意味不明」の世界のものとして排斥していったということは、容易に想像のできるところのものである。】


4-14  きぬぎぬの橋に成(なり)たかあの鴉

 季語=「きぬぎぬの橋」=「後朝の橋」=「鵲の橋(かささぎのはし)」 初秋

 https://kigosai.sub.jp/?s=%E9%B5%B2%E3%81%AE%E6%A9%8B&x=0&y=0

 【子季語】 星の橋/行合の橋/寄羽の橋/天の小夜橋/紅葉の橋/烏鵲の橋

【解説】 七夕の夜、天の川を渡る織姫のため、かささぎが羽を連ねて橋となること。

【例句】

かささぎやけふ久かたのあまの川  守武「飛梅千句」

鵲の橋や銀河のよこ曇り      来山「続今宮草」

かささぎや石を重りの橋も有り   其角「浮世の北」

【参考】 鵲=鵲(かささぎ)三秋=七夕伝説に登場する鳥。天の川を渡る織姫のために羽を連ねて橋を作るという。カラスに似ているが腹部が白いのでカラスと見分けられる。

 「鴉・烏」だけでは、季語の働きはしない。「春= 鴉の巣/夏= 鴉の子/冬= 寒烏/新年 =初烏」。

 この抱一の句では、「きぬぎぬの橋」(「鵲の橋」)と「鴉」との取り合わせで、「初秋」の句ということになろう。そして、この句は、「吉原」の「きぬぎぬの別れ」の「あの鴉()」=「吉原帰りの男」の見立てということになる。

 句意(その周辺)=緑樹の影も沈んで、七夕の季節、あの吉原帰りの「鴉(からす)野郎」は、昨夜は、「鵲の橋」を渡って、「彦星と織女と逢瀬」を成就したのであろうか? あの橋を渡っている顔つきを見ると、頭上で鳴いている鴉の「「カーカー」と、どこか淋し気であるわい(蛇足)

 


「風流三ッのはじめ」(Theree Elegant Beginnings) (「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション/Digital Collections of Keio University Libraries)

https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/ukiyoe/0008

【「横雲やきふうのかわる日の出かな」 青楼の店先での後朝の別れの一齣。遊女の方はいまだ名残尽きせぬ様子で上目遣いに客を見やるが、一方の遊客は上半身は振り返っているものの足はすでに帰途に踏み出している。遊里のはかないかりそめの恋愛風景といえようか。朝陽の中に活動を始め、飛び交う鴉たちの鳴き声も白々しく聞こえてくるようである。 礒田湖龍斎は、世間が春信美人のブームに湧く頃浮世絵界に登場した。本図に見られるごとく、初期の画風は春信風に近似しているが、次第に独自の美人画様式を確立した。(樋口一貴)

作者/磯田湖龍斎/作者英名koryusai/画題 風流三ッのはじめ/請求記号200X@59/制作年代

18世紀後期/版元 なし/極印 なし/版型 中判錦絵/寸法 26.3×19.2/署名 湖龍斎画 】

「後朝きぬぎぬの図」(『吉原青楼年中行事. ,下之巻 / 十返舎一九 著 ; 喜多川歌麿 画』)

(「早稲田大学図書館」蔵)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0002/wo06_01494_0002_p0008.jpg

 

4-15  寝やと言ふ禿またねずけふの月

 季語=「けふの月」(仲秋)

【解説】 旧暦八月十五日の月のこと。「名月をとつてくれろと泣く子かな」と一茶の句にもあるように、手を伸ばせば届きそうな大きな月である。団子、栗、芋などを三方に盛り、薄の穂を活けてこの月を祭る。

【例句】

名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉「孤松」

たんだすめ住めば都ぞけふの月  芭蕉「続山の井」

木をきりて本口みるやけふの月  芭蕉「江戸通り町」

蒼海の浪酒臭しけふの月     芭蕉「坂東太郎」

【参考】

十五から酒をのみ出てけふの月  其角「五元集」

闇の夜は吉原はかり月夜哉    其角「五元集」

 「禿(かぶろ)」=遊女に使われる少女。太夫(たゆう)、天神など上位の遊女に仕えて、その見習いをする六、七歳から一三、四歳ぐらいまでの少女。かぶろっこ。かむろ。(「精選版 日本国語大辞典」)

 

※仮名草子・浮世物語(1665頃)一「禿(カブロ)、遣手(やりて)も空(そら)知らぬ風情なり」

(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=これも「吉原」の句であろう。其角の「吉原」の「闇の夜は吉原はかり月夜哉」(『五元集』)などが背景にあるような雰囲気である。

句意=「緑樹影沈()では」、今日は、陰暦八月十五日の「仲秋の名月」である。この吉原の妓楼の遊女に仕えている「禿」(少女)の名は「寝(ねれ・ね)や」と、面白い名なのだが、「また(まだ)」一睡もしないで、「不寝番(ねずのばん)をしている。

 

(参考) 「吉原」の「遊女(「花魁」など)周辺

 「忘八(ぼうはち)」=遊女屋の当主。仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠の8つの「徳」を忘れたものとされていた。

「禿(かむろ)」=花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。禿(はげ)と書くのは毛が生えそろわない少女であることからの当て字である。

「番頭新造(ばんとうしんぞう)」=器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担った。花魁につく。ひそかに客を取ることもあった。「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後に未婚の女性も指すようになった。

「振袖新造(ふりそでしんぞう)」=15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされた。振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。

「留袖新造(とめそでしんぞう)」=振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、10代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。しかし、まだ独り立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。

「太鼓新造(たいこしんぞう)」=遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当した。後の吉原芸者の前身のひとつ。

「遣手(やりて)」=遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役。誤解されがちだが当主の妻(内儀)とは別であり、あくまでも従業員。難しい役どころのため年季を勤め上げた遊女や、番頭新造のなかから優秀な者が選ばれた。店にひとりとは限らなかった。

(「ウィキペディア」)

「妓夫」=遊里で客を引く男。遣手婆について,二階の駆引き,客の応待などもした。私娼や夜の字をあてたのは明治以降のことであるといわれる。この言葉の源は,承応の頃 (165255) ,江戸,葺屋町の「泉風呂」で遊女を引回し,客を扱っていた久助という男にあり,『洞房語園』によると,その男の煙草 (たばこ) を吸うさまが「及 (きゅう) 」の字に似ていたので,人々が彼をして「きゅう」というようになり,それがいつしか「ぎゅう」となり,やがて,かかる男たちの惣名になった,とある(「精選版 日本国語大辞典」)

 

4-16  花方に団子喰せつ今日の月

 季語=「今日の月」=「けふの月」(仲秋)

 「花方」=「花形」=花形(はながた):はなやかで人気のある人や物のこと。(「ウィキペディア」) ここは、「吉原」の「花形」である「花魁(おいらん)」と、その取り巻きを指しているものと解したい。

 「花魁(おいらん)」=江戸・吉原における上級遊女の別称。語源としては、遊女に従属する新造(しんぞう)や禿(かむろ)が姉女郎を「おいらがの(私の)」とよんだのがなまったとする説などがあるが、明らかではない。いずれにしても口語体から発生したらしく、漢字は当て字である。洒落本(しゃれぼん)には、姉妓、姉娼、全盛、妹妓など多数の当て字が使われている。そのなかで、ものいう花(美女)の魁(かしら)という意味をもつ花魁が、広く使用されて代表的文字となった。語源の伝承にもあるように、花魁は尊称的美称であって職名でないため、どの階級の遊女がこれに相当するかは一定していない。花魁の称が一般化した明和(めいわ)176472)ごろは、吉原では太夫(たゆう)が衰滅して散茶(さんちゃ)がこれにかわった時代であるが、散茶のなかの最上格である呼出しを、初めは花魁とよんだという。呼出しは張り見世をしない別格であったが、のちには次位の昼三(ちゅうさん)や、その下の座敷持(ざしきもち)なども花魁とよぶようになった。ただし、いずれも2部屋以上の座敷を与えられ、新造23人、禿23人を従え、座敷には各種の調度をそろえ、寝具は重ねふとんであった。[原島陽一](「日本大百科全書(ニッポニカ))

 句意(その周辺)=「吉原」での「月見」には、とんと金がかかる。その「花方」の「花魁」と、その取り巻き連中に、「団子」(料理)を振舞いつつ、豪奢に「良夜」を楽しんでいる。

 

「良夜之図」(『吉原青楼年中行事. ,下之巻 / 十返舎一九 著 ; 喜多川歌麿 画』)

(「早稲田大学図書館」蔵)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0002/wo06_01494_0002_p0004.jpg

  

4-17  名月やもと塩窰(塩釜)の人通り

 季語=名月(仲秋)

(参考句)

沾徳岩城に逗留して、餞別の句なき恨むるよし聞え侍りしに

松島や嶋かすむとも此序   其角「五元集」

   南村千調仙臺へかへるに

  行春や猪口を雄嶋の忘貝   其角「五元集」

 「塩窰(塩釜)=この「塩窰(塩釜)」は、謡曲「融」の、次のような一節を踏まえているように解したい。

 https://japanese.hix05.com/Noh/4/yokyoku402.tooru.html

 【シテ一セイ「月も早。出汐になりて塩釜の。うらさび渡る。気色かな。

サシ「陸奥はいづくはあれど塩釜の。うらみて渡る老が身の。よるべもいさや定なき。心も澄める水の面に。照る月並を数ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。実にや移せば塩釜の。月も都の最中かな。

下歌「秋は半身は既に。老いかさなりてもろ白髪。

上歌「雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。積りぞ来ぬる年月の。春を迎へ秋を添へ。時雨るゝ松の。風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。浦わの秋の夕かな浦わの。秋の夕かな。】

 句意(その周辺)=「緑樹影沈()では」、謡曲「竹生島(ちくぶしま)」、そして、「月も早。出汐になりて塩釜の」は、謡曲「融(とおる)」の名調子である。今宵の「名月」、その世阿弥の「融」の背景となっている「伊勢物語第八十一段」の、「塩竈にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はこゝに寄らなん」などが、脳裏を去来している。

 


謡曲「融」の舞台図と「京名所案内」

http://insite-r.co.jp/Noh/shunkoukai/2019/tooru/tooru_notice.html

  

4-18  印籠の一つ下()るやからす瓜

季語=からす瓜=烏瓜(からすうり)/晩秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/3484

 【子季語】 王瓜、王章

【解説】 ウリ科の多年草。山野に自生する蔓草。夏に白いレースのような 花を咲かせ秋に実をつける。実は卵形で、縞のある緑色から熟し て赤や黄に色づく。

【例句】

竹藪に人音しけり烏瓜       惟然「惟然坊句集」

まだき冬をもとつ葉もなしからす瓜 蕪村「夜半叟句集」

くれなゐもかくてはさびし烏瓜   蓼太「蓼太句集初編」

溝川や水に引かるる烏瓜      一茶「文政九年句帖

 

「蒔絵烏瓜図印籠 萬麟齊」

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k533664600

 「印籠」=腰に下げる三重または五重の長円筒形の小箱。箱には蒔絵(まきえ)、堆朱(ついしゅ)、螺鈿(らでん)などの細工が施され、緒には緒締め、根付けがある。もと印判を入れたところからいい、室町頃から薬を入れるようになった。主として武士の礼装の装飾品。薬籠。印籠巾着。〔東京教育大本下学集(室町中)〕

 


※浮世草子・好色一代男(1682)七「田舎大じん印籠(ヰンラウ)あけて、いく薬かあたえけるを」(「精選版 日本国語大辞典」)

 句意(その周辺)=「緑樹影沈()では」の、謡曲「竹生島(ちくぶしま)」、そして、「月も早。出汐になりて塩釜の」の、その謡曲「融(とおる)」の名調子などを吟じながら、腰に差している「蒔絵烏瓜図印籠烏瓜」を、お相手してくれる相方に、「これ、烏瓜」と、「これを見たら思い出してくれ」と、手渡すような、そんな、雰囲気の句である。

  

4-19  貝の班()の雀に似たり夜蛤

 季語=蛤=蛤(はまぐり)/三春

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/849#:~:text=%E8%9B%A4%E3%81%AF%E6%98%A5%E3%80%81%E8%BA%AB%E3%81%8C,%E8%9B%A4%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E9%A3%9F%E5%8D%93%E3%81%AB%E4%B8%8A%E3%82%8B%E3%80%82

 【子季語】 蛤鍋、蒸蛤、焼蛤、蛤つゆ

【解説】 蛤は春、身がふっくらと肥え、旬を迎える。二枚の貝は他のものとは決して合わないことから末永い夫婦の縁の象徴とされ、婚礼や雛の節句などの細工、貝合せなどに用いられ、平安時代には、薬入れとしても使われた。吸物、蒸し物、蛤鍋、焼蛤として食卓に上る。桑名の焼蛤、大阪の住吉神社の洲崎の洲蛤が有名。

【例句】 

尻ふりて蛤ふむや南風    涼菟「喪の名残」

蛤の芥を吐かする月夜かな  一茶「七番日記」

【参考】

 この句(「貝の班()の雀に似たり夜蛤」)は、『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』(p124p128)で、次のとおり紹介されている。(一部抜粋)

≪『句藻』「椎の木陰」に「送笠堂主人文(りゅうどうしゅじんにおくるふみ)」という俳文に見られる。寛政八年(一七九六)秋、川越(埼玉県川越市)の瓢坊が其貝(きばい)と改名するのを祝ったのである。

 「抑(そもそも)、元禄十五年長月十六日のうら遊びに、晋子(其角)が見し、雀の足をはさみし貝ならんか。此(この)貝、必(かならずしも)中に明珠(めいしゅ)を含(ふくむ)るか。此珠(このたま)、彫琢を頼ずして、光、晋流のくらきを照らすべしと祝ひ、藻に住(すむ)虫の我等迄も、五七五の一章句を申送り侍る。

  貝の班()の雀に似たり夜蛤   (『句藻』「椎の木陰」)  

 

酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

 句意(その周辺)=この句は、其角の「夜光るうめのつぼみや貝の玉」(『類柑子』「浦あそび」)の本句取りの一句である。抱一は、文化三年(一八〇六)、四十六歳の時に、「其角百回忌」として、その「肖像百幅」(其角肖像画と其角の句の賛)を制作する(上記の図は、その内の一つで「夜光る画賛」のものである。これらについては、下記のアドレスの「参考」で紹介している)

句意=吾が「東風流(あずまぶり)」俳諧(「其(キ=其角)・嵐(ラン=嵐雪)の根本の向上躰」)の元祖ともいうべ其角宗匠の「夜光るうめのつぼみや貝の玉」を変奏して、その「必ず中に明珠を含む」縁起が良い「夜蛤」の句を、次のような一句として、それに唱和することにする。

 「貝の班()の」(この貝の模様は)、「雀に似たり」(其角宗匠が目にした「雀の足を咥えた蛤」の、その「雀に似たり)、「夜蛤」(彫琢(てうたく)を頼(たよら)ずして、光(ひかり)、晋流(しんりう=其角俳諧)のくらきを照らすべし)

 (参考) 「其角肖像百幅」(抱一筆・賛=其角句)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

 【(再掲)

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-22

 (画像)→上記のとおり

 酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

 「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

  この著者(井田太郎)が、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書一七九八)を刊行した(以下、『井田・岩波新書』)。

 この『井田・岩波新書』では、この「其角肖像百幅」について、現在知られている四幅について紹介している。

 一 「仏とはさくらの花の月夜かな」が書かれたもの(伊藤松宇旧蔵。所在不明)

二 「お汁粉を還城楽(げんじょうらく)のたもとかな」同上(所在不明)

三 「夜光るうめのつぼみや貝の玉」同上(上記の図)

四 「乙鳥の塵をうごかす柳かな」同上(『井田・岩波新書』執筆中の新出)(以下略)  】

 

4-20  降り年や初茸売りが声の錆

 季語=初茸=初茸(はつたけ)/三秋

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/5680#:~:text=%E8%8C%B8%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A7%E3%82%82%E4%B8%80,%E3%81%A7%E5%85%A8%E4%BD%93%E3%81%8C%E8%96%84%E8%8C%B6%E8%89%B2%E3%80%82

 【解説】 茸のなかでも一番早く生えるのでこの名がついた。傘は扁平で全体が薄茶色。傷みやすく、傷になった部分は青く変色する。

【例句】

初茸やまだ日数経ぬ秋の露 芭蕉「小文庫」

【参考】 「初茸」周辺(「ウィキペディア」)

(歴史)

特に関東地方で親しまれ、守貞漫稿(食類-後巻之一)には「初茸売り。山のきこりや八百屋がハツタケを売る。京阪にはハツタケは無い。江戸だけで売られる。」とあり、当時の関西ではあまり人気がなかったのに対し、マツタケがほとんど産出しない江戸近辺では、食用としてよく利用されたようである。千葉県では特に珍重されたといい、旧佐倉堀田藩鹿渡村(現在の千葉県四街道市鹿渡)においては、嘉永31850)年庚戌年(かのえいぬ)九月十日(旧暦)付の回状として「初茸 七十ケ 右ハ御用ニテ不足無ク 来ル十三日 四ツ時迄ニ 上納致ス可シ 尤モ軸切下致シ 相納メル可ク候 此廻状 早々順達致ス可ク候 以上」の文面が発行された記録がある。(中略)

さらに、続江戸砂子(菊岡光行著:享保20年=1735年)には、「江府(=江戸)名産並近在近国」として「小金初茸・下総国葛飾郡小金之辺、所々出而発:在江府隔六里内外:在相州藤沢戸塚辺産、早産比下総:相州之産存微砂而食味下品。下総之産解砂而有風味佳品(小金初茸、下総国葛飾郡小金の辺、所々より出る。江戸より六里程。相州藤沢戸塚辺より出る初茸は、下総より早い。しかし相州産のものは微砂をふくみ、歯にさわってよくない。下総産のものは砂がなく、風味ももっとも佳い)。」との記事 がみえる。おそらくは、相模湾岸に広がるクロマツ林に産するハツタケと、内陸のアカマツ林に生えるハツタケとを比較したものではないかと思われる。

(生態・生理)

 日本では、夏から秋(時に梅雨期)、アカマツ・クロマツ・リュウキュウマツ などの二針葉マツ類の樹下に発生し、これらの樹木の生きた細根に典型的な外生菌根(フォーク状に二叉分岐し、白色 または赤紫色を呈するを形成して生活する。(中略)

(ハツタケと文学)

 秋の季語の一つとして知られることからも、日本人とハツタケとの関わりが深いものであることが推察される。

(例句)=一部抜粋

初茸やまだ日数 へぬ秋の露    芭蕉

初茸の無疵に出るや袂から    一茶

初茸のさび声門に秋の風      柳樽七五・8

青錆に成る初茸の旅労(つか)レ  柳樽八三・75

 句意(その周辺)=「初茸」は、「初」の字がついているのだが、「新年」の季語ではなく、「古年」の「秋」の季語で、「雨の降る梅雨」明けの、特に、江戸近郊で食用される「江戸前(江戸風)の茸(きのこ)」である。その「初茸(たけ)売り」の声が、「初茸のさび声門に秋の風」(柳樽七五・8)で、夏から秋の「江戸前の風物詩」の一つとなっている。

河東節/助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)

https://www.youtube.com/watch?v=Znm06U_7WEk

「春霞 立てるやいずこ三芳野の 山口三浦うらうらと

 うら若草や初花に 和らぐ土手を誰がいうて 日本めでたき国の名の

 豊芦原や吉原に 根こじて植えし江戸桜 

 匂う夕べの風に連れ 鐘は上野か浅草か」

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