土曜日, 6月 03, 2006

飯田龍太の俳句



飯田龍太の俳句(その一)

○  萌えつきし多摩ほとりなる暮春かな(昭和十七年)
 
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「このころ横浜の紅葉坂上にある教育会館で行なう十二、三名の「青光会」という句会があった。これには比較的熱心に出席したが、他の会に出たことは殆どなかった。たまたま帰省中で、ふと思いついて甲府の例会に出掛けた。最後に蛇笏選の披講があり、最初にこの句が読みあげられてビックリした。蛇笏も妙な顔付きをした。至極簡単な選評のあと「まあ、まぐれ当りというところだろう」とテレ隠しを言った。甲州から中央線で東京に入る手前、あの広々とした多摩川のほとりにかかると、何となくいい気分になったものである。せま苦しい山峡からやっとぬけ出たという解放感をおぼえるのだろう。席が空いていると、いつも左側に掛けて、川上をずっと遠くまで眺めた。この気持は、二十数年後のいまも同じである。なお、この作品は、どの句集にも入っていない。」 

 平成四年に、蛇笏・龍太の二代にわたる名門「雲母」は龍太により廃刊となってしまった。その後、平成十六年(十一月号)の「俳句界」(文学の森)で、その廃刊の弁などを目にすることができるということであるが、とにもかくにも、人間探求派(中村草田男・加藤楸邨・石田波郷)に続く「金子兜太・森澄雄・飯田龍太」の時代の一翼を担っていた、飯田龍太は忽然として姿を消してしまった。龍太は大正九年(一九二〇)生まれということであるから、今なお、八十五歳で、山梨の現在の笛吹市(境川町)にお住まいなのであろうか。この掲出句は、龍太、二十二歳のときのもので、龍太の第一句集『百戸の谿』には収載されていない。
龍太の昭和二十三年(二十八歳)の年譜(福田甲子雄編)に次のような記載が見られる。「『雲母』編集に情熱をかける。編集後記に『芸術は創造する自らのよろこびであり、売名ははかない泡沫にも似た満足でしかない。わずかばかりのタレントを鼻にかけて作家の厳粛性を喪失したものは、たとえ無能無才にして俳壇的には微々たる存在であつても、一筋に創造のよろこびに浸りつつ遠い理念に向つて永い月日を遅々として歩みつつける高い情熱のまへには芥子粒ほどの価値すらないのではなからうか。』と書いている」。どうも、龍太が七十二歳のときに、忽然と姿を消してしまったのは、龍太は生涯にわたって、この二十八歳の頃の思いを持ち続けていたのではなかろうか。そんな思いがするのである。

注・この掲出句について『自選自解 飯田龍太句集』(昭和四十三年刊)では、上記のとおり、「どの句集にも入っていない」とのことであるが、『定本 百戸の谿』(昭和五十一年刊)では、冒頭にこの句が収載されている。

飯田蛇笏
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku13-1-a-2.htm#飯田蛇笏
飯田龍太
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku13-1-a-2.htm#飯田竜太

飯田龍太の俳句(その二)

○ 紺絣春月重く出でしかな(昭和二十六年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「昭和二十六年春、食糧事情も一応安定したので、農耕を止め、甲府にある県の図書館に勤めることにした。バスの終点から三十分ほど歩いて坂道を帰る。大菩薩峠のある秩父山系と、富士山麓に抜ける御坂山系のほぼ中ほどの山の上に、橙色の春の満月がぬっと現われて、ひえびえとした空にポッカリと頭を出す。名残り借し気に山を離れるとやがていさぎよく中天に昇った。春の月の色は厭らしい、という人があるが、山国の澄んだ夕景色の、特に早春の姿はまんざらではない。清潔な色気がある。あるいは母の乳房の重みといってもいい。したがって幼時を思い出す。子供のころは、もっぱら久留米絣を着た。兄から順にお下がりを着せられた。着古すとだんだん絣の模様がハッキリ浮かび出してくる。年ごとに柄模様の小さなのに昇格した。模様の大小によって、兄弟の貫禄に差をつけたのだろう。」

 龍太が第一句集『百戸の谿』を刊行したのは昭和二十九年(三十四歳)であった。この年、山梨県立図書館を退職して、「雲母」編纂に専念することとなる。そして、昭和三十二年(三十七歳)に、第六回現代俳句協会賞を受賞する。この年の「雲母」十二月号は、「飯田龍太特集号」が企画され、この特集号で、角川源義氏が、國學院大學の同窓の先輩ということで、「飯田龍太論」を寄稿している。そこで、源義氏は、「もし私に今後期待する作家は誰かと質問されたら、即座に飯田龍太と答へるであらう。他にゐないかと聞かれても、私は一人だけだと答へるしかない」として、続けて、「龍太がどれほどの古典の造詣があるのかは私は知らない。(中略)ただ彼の持ち前の勘の良さが、日本文学の本質的なものの歴史を、折口先生から学んだものだらう」と折口信夫と龍太俳句との接点を明らかにしている。龍太自身の折口信夫との接点は詳らかではないが、この源義氏の「日本文学の本質的なもの」という指摘は、蛇笏・龍太の二代にわたる日本文学の神髄をなしている「格調の高い韻文学の精神」というものを暗示しているように思われる。そして、それは、同時に、「人間の生死とその別れへのレクエム(鎮魂の詩)」のような響きを有しているように思われる。例えば、この掲出句で言うならば、この上五の「紺絣」に、龍太にとっては、長兄・次兄の戦死、そして、三男の病死などとつらなり、そして、それが、中七・下五の「春月重く出しかな」とレクエム的な韻律を醸し出しているように思われるのである。龍太自身のこの掲出句の自解には、これらについては一言も触れられていないが、そういう「生きとして生けるものの愛しさ・悲しさ」のようなものの、日本文学史の伝統的な挽歌的な韻律が、この掲出句、そして、龍太俳句の根底に流れているように思われるのである。ちなみに、この掲出句は、上記の角川源義氏の寄稿文に続く、「雲母」内外八十二人の「私の愛唱する龍太作品
——佳品五句」の、トップに挙げられているような、龍太の傑作句の一つである。

飯田龍太の俳句(その三)

○ 鰯雲日かげは水の音早く(昭和二十七年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「『甲府盆地の空にひろがる鰯雲。山村の道端の細い溝を澄んだ水がはげしく音をあげて流れてゆく。空にかかる橋のような雲の明るさ、陽のぬくみとは別に、日陰を流れる水、いや日陰にすでに生まれている“寒気”のようなものを、作者はいちはやく感じとっている。秋から冬へ動いてゆく季節、日一日と冬へ動いてゆくものをとらえ』た句だ、と大井雅人氏は鑑賞している。そう言われてみると、たしかにそんな情景であった。その通りの気分であった。また氏は、境川というところは、とくに夏・冬、日陰・日向の温度差がいちじるし いところだ、とも言っている。そうかもしれぬ。井代鱒二氏は、あの辺りは、裏に富士山を背負っている、氷柱をかかえているようなものだ、と言われた。村の中を流れる用水は、主として權慨用のものである。したがって夏は田を優先 するためほそぽそとしたものだが、秋になると、途端に水量を増す。」

 蛇笏・龍太の二代にわたるその俳諧(俳句)は、甲州の山々に囲まれた山峡の土着のなかから生まれ育まれていった。これらに関連する、龍太語録のようなものを拾ってみると次のとおりである。
「私は、その出自からして、本来俳諧というものは、地方の文芸と考えている。」(『山居四望』)
「目を見開き、耳を傾けるなら、自然は、時とところを選ばず、常に人為などはるかに及ばぬ大いさを持った存在ではあるまいか。」(同前)
「虚子の客観写生というのは、要するに、人間の知恵などは所詮微少なもの。そんな小知に頼って俳句にすがってみても仕方がない。それよりも自然をよく見、自然が教えてくれるものを素直に信じなさい、ということだろう。」(同前)
「北海道でも九州でも、俳句を考えるときは、ここへ住んだらどんな印象だろうかという意識をもつこと。つまり旅吟の旅先に行ったら、他郷は故郷のごとく詠え。」(「俳句春秋」昭和六一・二)
「自然というものは、いつでも変わらないものという受け止め方をしては決して正体を現わさない。やはり日々変っているのだということを自分自身の肉眼で捉えたとき、初めて自分の作品の中に不変のものとして定着するのではないかと思う。」(『龍太俳句教室』)
「風土というものは眺める自然ではなく、自分が自然から眺められる意識をもったとき、その作者の風土となる。」(同前)
 蛇笏・龍太の俳諧(俳句)は、土着の、堂上ではなく地下の、雅(みやび)ではなく鄙(ひな)びの、地方の、衆の、それであり、それは、同時に、人為を超えた自然・風土に根ざした、いわば、地魂(アニマ=アニミニズム)に捧げる御詠歌のようなものであろう。そして、それは、日本文学史の伝統的な挽歌的な韻律の響きを有している。

飯田龍太の俳句(その四)

○ 大寒の一戸もかくれなき故郷(昭和二十九年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「この句については『週刊読書人』の『季節の窓』というカコミの連載に、次のように書いた。『(前略)決して上品な趣味とはいえないが、私は立小便が大好きである。田舎住いのよろしさは何だ、と聞かれたら、誰はばかることなく自由にソレが出来ることだと即答したい。特に寒気リンレツたる今日この頃、新雪をいただく南アルプス連峰を眺めながら、自然の摂理に従う。この気分は極楽のおもいである。これもそんな折の一旬。(後略)」。いささか品のない文章である。紳士の文とは申せまい。しかし、ひとつの句に別々の自解も妙なものだからここに再録する。立小便云々はともかく、作品それ自体は生真面目な気持で作った句である。落葉しつくした峡村の一戸一戸がさだかであるばかりではない、こんな日には、数里離れた釜無川の清流まで鋼の帯となってきらめくのが見える。」

 昭和三十四年(三十九歳)に刊行された第二句集『童眸』所収の句。この句集名の由来は、昭和三十一年の「九月十日急性小児麻痺のため病臥一夜にして六歳になる次女純子を失ふ」の前書きのある「花かげに秋夜目覚める子の遺影」あるいは「墓に倦む子の両眼の菫草」などにあるのだろう。そして、この第二句集について、龍太は後年次のような感想を書き留めている。「この第二句集は、そうしたこころの湿り(第一句集『百戸の谿』の物悲しく伏し目がちであること。広瀬直人稿「飯田龍太著書解題」の注)を捨て、自然や人生の影に寄り添うことなく、すこしでも明るく呼吸したいという意識があったようである。ところどころにそんな気負いが見える」(『自選自解 飯田龍太句集』所収「作品の周辺)。これらの記述に見られる、「自然や人生の影に寄り添う」(第一句集『百戸の谿』の姿勢)ということと、「自然や人生に寄り添うことなく、すこしでも明るく呼吸したい」(第二句集『童眸』の姿勢)ということの、「龍太の『自然や人生』に対峙する姿勢」の「時計の振り子のような揺れ」が、龍太俳句を鑑賞するときの忘れてはならないポイントであろう。そして、この掲出句やその自解の一文に接したとき、後年の、「自然というものは、いつでも変わらないものという受け止め方をしては決して正体を現わさない。やはり日々変っているのだということを自分自身の肉眼で捉えたとき、初めて自分の作品の中に不変のものとして定着するのではないかと思う」(『龍太俳句教室』)という龍太の述懐が生き生きとしたものになってくる。

飯田龍太の俳句(その五)

○ 雪山を灼く月光に馬睡る(昭和三十二年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「隣家の老人が馬を一頭飼っていた。耕転機が流行するようになっても手放さず飼いつづけた。いつか馬は、村中で、老人の飼う老馬が一頭だけになった。丈夫な身体で、朝から晩まで働きづめだ。遊ぶということをしない。月にいち度、笛吹川の源流に近い大嶽山(だいたけさん)というお宮に参拝した。少々泣上戸の癖(へき)があったようだが、目出度い席などでは一段と目出度い気分が出て、この老人の上戸は愛矯かあった。身体は丈夫だが、眼だけが不自由で、眼薬は一合瓶で買った。何合つけてもあまり効果はなかったとみえ、だんだん見えなくなっていった。どこへ行くにも老馬に乗った。馬は老人の大事な自家用車であったわけである。頭上に小枝が垂れているところでは歩を緩めて、老人の禿頭を傷つけぬように配慮する。たいしたものである。 老人は先年死に、馬もいつか居なくなった。」

 龍太の俳句の師はまぎれもなく、父である、虚子門の、その「ホトトギス」の第一期黄金時代を築き上げ、後に、「雲母」を主宰して、独自の世界を樹立していった、飯田蛇笏その人であることは、言をまたないであろう。龍太は、その蛇笏により、生をうけ、育まれ、そして、それを継承していった、まぎれもない、蛇笏の正しい継承者であるということは、誰もがひとしく認めるところのものであろう。そして、この蛇笏と龍太との二代にわたる句業の全ては、実に、甲斐の国の、甲府盆地の東南端の、山間農村地帯の、いわば、土着のなかから生まれ、育まれ、そして、全国津々浦々に、その根を張り巡らしていったということで、それは驚異的とも、はたまた、異様的とすら思えてくるのである。そして、この蛇笏・龍太が目指した俳諧(俳句)というものは、この土着精神に裏打ちされたところの、蛇笏の言葉でするならば、「霊的に表現されんとする俳句」(大正七年五月三日発行の「ホトトギス」所収の蛇笏の俳論名)とでも表現され得るところのものなのではなかろうか。そして、蛇笏と龍太との年代の中間にあって一時代を築き上げていった「人間探求派」(中村草田男・石田波郷・加藤楸邨)というレッテルに模してするならば、土着精神に裏打ちされたところの「風土探求派」とのレッテルを呈することも、あながち的を得ていないことでもないように思えるのである。そして、それは、龍太の言葉でするならば、「風土というものは眺める自然ではなく、自分が自然から眺められる意識をもったとき、その作者の風土となる」(「俳句春秋」昭和六一・二)とでもなるのであろうか。この掲出句なども、まさしく、龍太の風土そのものであろう。なお、蛇笏の「霊的に表現されんとする俳句」(大正七年五月三日発行の「ホトトギス」所収)については、次のアドレスに簡単な紹介がされている。

http://www.melcup.com/cgi-bin/magazine/log_main.cgi?mag_id=M000000284&mail_id=28512

飯田龍太の俳句(その六)

○ 高き燕深き廂に少女冷ゆ(昭和三十二年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「初秋の風が梢を吹き過ぎるころになると、つばめの姿が次第に高まってゆく。飛翔に一段とスピードが加わる。なかでもはるかな高空をとぶ細身の燕が目につく。あれは『雨つばめ』という種類だそうである。胴体に比較して、特別翼が長い。 細く鋭く、弦月の形にそっくりだ。わずかに翼をそよがせると、あとはいつまでも大空を滑って止まることがない。私は普通のつばめと、背に水玉のある岩つばめと、そしてこの雨つぼめの三種類しか知らないが、矢張りこの雨つばめが一番好きである。どこで営巣するのか。とにかく人家の軒などでは見かけぬ種類である。それだけに遠いおもいがある。この作について、多くの人が、亡くなった子への憶いを宿す句だ、と言う。それが隠せるならいっそ隠しておきたい。これが正直な感想である。」

 飯田蛇笏は、「今日齢老いて嘘偽りなく愉しからざる俳句に心傾けつづけてゐる私は、渓流をへだてるやや険しくそそりたつてゐる後山に、朝な夕な、濃いにせよ淡いにせよ相対(原文は別漢字)する雲霧を眺めて、すこしも美しくなどとはおもはないけれども、昵つと眺めてゐると、何かものがなしく、むせび泣きたいやうな気持になつて、われとわが身のありかたをこよなく愛しまうとするのである」(『現代俳句文学全集飯田蛇笏集』・「あとがき」)と、その憂愁の思いを吐露している。
真実、「愉しからざる俳句に心傾けつづけてゐる」というのは、蛇笏のみならず、俳句に情熱を傾けた者ならば、ときに、否応無く襲いかかってくる、また、それが故に、その業を続けなければならないような、創作人の「業」のようなものなのではなかろうか。
そして、掲出句の、龍太の自解のとおり、「亡くなった子への憶いを宿す句だ、と言う。それが隠せるならいっそ隠しておきたい」というのは、龍太の、嘘偽りのない、ぎりぎりの吐露であろう。そして、それでも、それを句にしていくということは、これまた、創作人の「業」のようなものなのであろう。こういう自解に接すると、一句を理解し、鑑賞するということは、容易ならざることと、痛切に実感するのである。
     
飯田龍太の俳句(その七)

○ 晝の汽車音のころがる枯故郷(昭和三十三年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「早春のいちにち、甲府の若い女流俳人達にさそわれて酒折宮に隣りする不老園に 吟行した折の作である。ここは倭建命東征の折、しばらく駐って、翁と歌を交した故事で知られているが、梅の名所でもある。しかし、この時はまだ蕾が固く、わずかに二、三輪開きはじめたばかりであった。宮の裏手を登ると、盆地がひろびろと見える。 周囲はほとんど葡萄畑ばかりで、そのなかを中央線が通じている。貨車がかるやかな響きをたてて過ぎた。  ここからの富士の眺めはいい。その手前の山々が御坂山系だ。北面しているため、まだ山檗に残雪がある。残雪の切れる丘陵の一部に境川村の家食が点在する。小学校の前の倉庫が西日に白々と見える。その上手、小指一本の幅を置いたあたりが私の家の辺りだ。早春の暁方には、北東の風に乗って、逆にこの酒折辺りを通る汽車の音が、我が家の側の窓にきこえてくる。直線距離で、二里ちょっとというところだろうか。」

 この掲出句の「枯故郷」というのは、最初に誰が用いたのかは定かではないが、この句に接したとき、俳誌 「橘」の松本旭主宰の「枯故郷橋上おのが身を晒し」、さらに、「橘」の筆頭俳人でもあった、亡き丸山一夫氏の「振り向いてもう一度見る枯故郷」が思いだされてきた。この丸山一夫氏のものは、俳誌「曜変」(平成三年七月号)に掲載されたもので、それは、氏の「故郷喪失」という寄稿文所収の二句のうちの一句なのである。
この氏の寄稿文を読むと、氏の生家(秩父郡の旧倉尾村大字日尾)は「ダムで水没」して、まさしく、水の底に埋もれてしまうという、そういう奇遇の、決定的な「枯故郷」
のようなのである。そして、これらの、龍太・旭・一夫各氏の「枯故郷」に通ずるものとして、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の、この「枯野」と何か連脈しているように思われるのである。さらに言えば、刻一刻と変貌していく現実を直視しながら、己が「心の故郷」も、刻一刻と「枯故郷」と化していく、そして、それは「故郷喪失」という思いと同じものなのではなかろうかという思いである。そう解したとき、この龍太の「晝の汽車音のころがる」という具象的な措辞が、絶妙に心に響いてくるのである。
 なお、「枯故郷」・「故郷喪失」などについて、以前、次のアドレスのものなどに記したことがある。
 
http://blog.melma.com/00062920/200412

飯田龍太の俳句(その八)

○ 晩年の父母あかつきの山ざくら(昭和三十三年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「この年、父は七十三歳、母は六十七歳である。晩年と称してもまずまず過不足ないところであろうが、母はすこぶる健康で、幼児のような肌艶であった。父の方も、秋田旅中に発病した大患がおおかた回復し、比較的平穏な日点であったから、晩年とはいっても、どこか明るい気分が漂っていた。丁度、亡くなった子の三年目の彼岸というので、ごく小さな墓を建てることにした。『清純浄光禅童女』と父が自分で書き、その戒名を持ってつれだって石和の石屋に依頼に行った。出来上がった墓は、こちらの注文より二寸ほど高めであったが、石屋にすれば、多分サービスのつもりだったろう。いい天気の日で、建ておわった小さな墓を撫でると、もうほのかな日の温みがあった。彼岸桜が散り、桃も花盛りが過ぎると、山裾に白々と山ざくらの花が浮かぶ。
    腰かけて入日も知らず山ざくら  道良
春日山の峠の上にある土地の古い俳人の句碑だが、この句にはどこか天保調ののびやかさがある。」

 掲出句の「晩年の父母」というのは、自解にあるとおり、飯田蛇笏ご夫妻のことであり、「亡くなった子」というのは、昭和三十一年に急逝した龍太氏の次女のことである。この次女が亡くなったときの、「露の土踏んで脚透くおもひあり」との龍太氏の句がある。その自解によると、「父は、死んだ孫の草履袋と色鉛筆と靴をそろえながら号泣した。それまでひとり、最後までこらえていたがこらえかねたのだろう」と龍太氏は綴っている。亡くなる一週間前に、この自解の龍太の父(蛇笏)と死んだ孫(龍太の次女)とは石和の遊園地に遊びに行って、蛇笏は「薔薇園一夫多妻の場を思ふ」という異色の句を残していることも、龍太氏は別のところで綴っている。これらのことから、この亡くなったご両親の龍太ご夫妻もさることながら、龍太のご両親の蛇笏ご夫妻の沈痛もいかばかりであったかと想像を絶するものがある。そして、その子の三周忌に、「いい天気の日で、建ておわった小さな墓を撫でると、もうほのかな日の温みがあった。彼岸桜が散り、桃も花盛りが過ぎると、山裾に白々と山ざくらの花が浮かぶ」とは、龍太氏を始め、飯田家の、そのときの情景がまざまざと浮かび上がってくる。こういう句に接すると、悲しみのあとに、それが悲しいことであればあるほど、ほっとした安らぎが、そして、その悲しみを共に味わった家族というものは、そのの絆をより一層強くしていくものなのだということを実感する。
 この自解にある、「腰かけて入日も知らず山ざくら」という古碑も、この土地に実に相応しいものであるとともに、この古碑に対する龍太の自解の「春日山の峠の上にある土地の古い俳人の句碑だが、この句にはどこか天保調ののびやかさがある」というのも、この古碑に実に相応しい響きを有している。

飯田龍太の俳句(その九)

○ 手が見えて父が落葉の山歩く(昭和三十五年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「実景である。早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた。この季節になると、楢はもちろん、遅い櫟の枯葉もすっかり落ちつくして、梢にはひと葉もとめぬ。乾いた落葉がうずたかく地につもる。しかし、川音でそれを踏む足音はきこえない。明るい西日を受けた手だけが白々と見えた。くらい竹林のなかから、しばらくその姿を眺めただけで、私は家に引き返した。この作品は『麓の人』のなかでは、比較的好感を持たれた句であったようだ。しかし、父が、これから半歳後に再び発病し、爾来病牀のひととなったまま、ついに 回復することが出来なかったことを思うと、矢張り作の高下とは別な感慨を抱かざるを得ない。いま改めてその手が見えてくる。父は生来、手先は器用の方であった。」

 龍太氏の自解を見ると、この句は昭和三十五年二月作なのであるが、その前年の十月に
「露の父碧空に齢いぶかしむ」という句がある。この昭和三十四年の句の自解に、「俳句は私小説だと言った人がある。私はむしろその『私』的部分をなるべく消す努力をしたいと思っている」と記している。これが龍太氏の作句信条なのであろうが、その父が一大の傑出した俳人・飯田蛇笏氏ということになると、いかに龍太氏がその「私的」な部分を表面に出すまいと心掛けても、詠み手はどうしても、その「私的」な部分を拡大して鑑賞しがちである。そして、龍太氏の、これらの句をとおして、晩年の蛇笏氏のイメージが鮮明に浮き上がってくる。掲出の句の、「早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた」や、その前年の作の自解の続きの、「年老いた父が露の朝空をなんとなく仰いでいる情景は、母には抱かぬしんみりした距離がある」という、蛇笏氏のイメージは、俳人・龍太氏が描く、俳人・蛇笏氏その人の実景であろう。俳人・蛇笏氏は、子である俳人・龍太氏をもったということは、なににもまして、心に充たされた思いをしていたことであろう。と同時に、これらの龍太氏の「父」の句には、単に、「父」たる蛇笏氏だけのイメージだけではなく、普遍的な男の子が持つ「父一般」に通ずるものを詠み手に語り掛けてくる。

飯田龍太の俳句(その十)

○ 風ながれ川流れゐるすみれ草(昭和三十五年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「なんとなくいい気分で生まれた句だ。平凡な句だが、二、三のひとが、まんざらでもないと言ってくれた。つまり、食後のソーダ水のようなもので、栄養はないが、読後の印象は悪くないという意味だろう。私は、菫という植物は、春の景物としては好きなもののひとつだ。日陰日向で、花色に濃淡がある。日向の暹しい濃紺がいい。田舎育ちの、五、六歳の少女の感じだ。なんでまた『星菫派』などというつまらぬ言葉を流行させたものか。明治時代、雑誌『明星』によって、星や菫に託して恋愛詩を作った女流の一群をさすよう
であるが、実物にそんなフヤケタ色気はありはしない。もっと澄んだ瞳の色だ。はつらつとした精気がみなぎっている。渓流の明るい響きに調和する。あれを摘んで鼻先に持って行くからいけないのだ。『星菫派』とは多分そんな人種のことだろう。」

 龍太氏に「誤解と誤用」という一文がある(『紺の記憶』)。そこで、「俳人は、とかく季語・季題の効用に甘え、安易に用いる傾向がある。現代俳句が骨細になったといわれる最大の原因は、私は、季語・季題に対する認識の安易さ、一句には一句のゆるぎない用法としての、錘(おも)りの確かさの欠如にあると考えている」と記述している。その他、この『紺の記憶』の著書一つとっても、「去年今年」・「蛙たちのことなど」・「庭の四季」・「山居春秋記」・「季語について」など、実に、季語・季題に関する龍太氏の記述は多い。そして、それらは、この掲出句の自解のとおり、単に、歳時記のそれではなく、ことごとくが、自分の眼で確かめた、いわば、「龍太歳時記」の雰囲気なのである。そして、それは、いわゆる、
「人事」に関するそれではなく、「叙景」に関するものが殆ど、こういうことからも、「龍太俳句」の特色というのが浮き彫りになってくる。それにしても、この菫の句についての自解の「菫」について、「実物にそんなフヤケタ色気はありはしない。もっと澄んだ瞳の色だ。はつらつとした精気がみなぎっている。渓流の明るい響きに調和する。あれを摘んで鼻先に持って行くからいけないのだ」とは、真に、「菫」の本意を抉りだしている趣がする。

飯田龍太の俳句(その十一)

○ 冬山路教へ倦まざる聲すなり(昭和三十七年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「教える方は無論単数だが、教えられる方の受け取り方で鑑賞がちがってくるようである。あるひとは、山路を歩きながら、畑中からきこえてくる父の声と解した。春先の果樹の剪定の仕方を、あれこれと子に教えている風景だろうと言う。成程、そう解しても解されないことはないが、しかし「教え倦まざる」という表現には、ある時間の経過と、その継続があるのではないかと思う。父子というような単数と単数とでは、もっと簡潔な交語となるはずだ。「倦まざる」にはどこかのびやかなものを含む。実際は、校庭の教師の声が、澄んだ大気を透して、鮮やかにきこえて来たのだ。多分体育の時間に相違ない。その号令にしたがって一斉に手をあげ、足をひらく子供達の姿。そのなかにわが子も居るかもしれないと思うと微笑が湧く。耳を澄ませていると、いつか自分自身も幼時にかえってそのなかのひとりになっていた。」

 「露の父碧空に齢いぶかしむ」(昭和三十四年作)について、龍太氏は「この『父』の場合でも、たしかに私の父だが、同時に『父一般』に通ずるものがないと作品として不完全だ」とも記している。このことで、例えば、掲出句とその自解をもってするならば、「掲出句の『聲すなり』は、特定の『体育の先生の校庭での号令のような掛け声』とか特定の場を詠んだ句だとしても、その作り手の作意そのものを探るのではなく、『教える者と教えられる者との間においての一般的・普遍的な教える者の声』と、詠み手の方で鑑賞し、その詠み手に全てを委ね、あれこれとイメージを膨らませるような句になったときに、句としての完成度が増す」とでもなるのであろうか。と同時に、この自解からすると、この掲出句ですると、「『倦まざる』には、単数と単数の関係ではなく、単数と複数との時間の経過と継続性を示したもので、それらの作り手の工夫したことにも、敏感に察知して鑑賞して欲しい」ということも、この句の作り手の龍太氏は、この句に接する者に、この自解を通して語りかけているとも思われる。ここらへんに、俳句を「作る」ということと、「俳句を味わう」ということの大事なポイントとなる部分があるように思われるが、要は、「俳句というものは、それを産み出した作り手の本意を離れて、一つの生き物のように、一人歩きをする」ということと、「俳句を味わうということは、丁度、連句の付句の要領のように、『即かず離れず』の姿勢が何よりも求められる」ということではなかろうか。
 この掲出句の「聲すなり」は、作り手の龍太氏は、「体育の先生の校庭での号令のような掛け声」を意図していたのであるが、自解に出てくる詠み手の一人は、「山路を歩きながら、畑中からきこえてくる父の声と解した。春先の果樹の剪定の仕方を、あれこれと子に教えている風景だろう」という。そして、今回、龍太氏の父・蛇笏氏の晩年の句の自解が多い『自選自解』の著書で接すると、この「聲すなり」は、父・蛇笏氏の子・龍太氏への語り掛けの、その「声」のように思われてくるのが、何とも妙な思いなのである。

飯田龍太の俳句(その十二)

○ 桔梗一輪死なばゆく手の道通る(昭和三十七年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「この句について間立素秋氏は『(前略)こうした句をなさしめる病神というものが、著者の身辺にあるというなら、私にはとうていやり切れない(後略)』という。まだ 大中青塔子氏は『おそらく厳父蛇笏との死別の時期を予感しての肉親の心の痛みが、主観として強く詩の領域を支配していたからではないか』と述べ、新村写空氏は、そのどちらにとってもいい『今日は父であり、明日は私』という時点を超えた一諦観だと言われる。さて、そうなると、自解もおのずから口ごもることになるが、こういう作品の成否は、主情に負けない季感の確かさがあるかないかできまるようである。花なら花で 正確に見えてくる表現でなければ、単なる取り合せにおわる。別な角度から言うと、それ以外のものを聯想させぬ強さが必要だ。独断と難解はすべてそこに原因する場合が多い。」

 この自解に出てくる、間立素秋・大中青塔子・新村写空各氏は、龍太氏と同じく、蛇笏氏を師と仰いでいる「雲母」の俳人なのであろうか。同じ「雲母」の俳人で、龍太氏が「蒼石永別」という一文を記している松村蒼石氏に、蛇笏氏永別後の句が、龍太氏に紹介されている(『紺の記憶』)。
   蛇笏はや秋の思ひのなかにあり
   蛇笏忌やか恃むものただひとすぢに
   老弟子のなかのわが齢蛇笏の忌
   師の齢こえゆくつゆの秋日かな
 そして、これらの句の紹介とともに、龍太氏は、「いまにしておもえば、蒼石さんは蛇笏の死によってより多く蛇笏を知り、胸中にあらたな蛇笏像を復活せしめたひとではなかったか」と綴っている。これらのことは、蒼石氏のみならず、龍太氏を筆頭にして「雲母」の多くの俳人達が均しく抱いている感慨ではなかろうか。それと共に、その蛇笏氏と座を同じくするときに、龍太氏の「主情に負けない季感の確かさがあるかないかできまるようである。花なら花で 正確に見えてくる表現でなければ、単なる取り合せにおわる」という思いを常に抱き続けていたのではなかろうか。
 これらのことは、「龍太俳句」というのは、「蛇笏俳句」を常に念頭に置きながら、その師の父である蛇笏氏だけではなく、その蛇笏氏を頂点として、切磋琢磨している、「雲母」の多くの俳人達との、その座を同じくする風土のなかから、育まれ、そして、逞しく成長していったということをつくづくと実感する。

飯田龍太の俳句(その十三)

○ 亡き父の秋夜濡れたる机拭く(昭和三十七年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「十月三日夜九時十三分、父は永眠した。 七月末一度昏睡に陥り、危篤状態になったが、このときは不思議にもち直した。九月二十七日晩方、突然再度昏睡に陥り、今度はついに回復しなかった。ねむり続けたまま、次第に脈が微弱になっていった。それでも、三日の夕刻、一番下の女の子が大きな声雪一度「オジイチャン」と呼ぶと、かすかに口元をほころばせて頷いたように見えた。病牀は、六十年の間坐りつづけた自分の書斎であった。死後、その机上には大型の日記帖を代用した句帖が置かれていた。病の進むにしたがって字が乱れ、昏睡直前の数句は、見馴れぬものには判読困難なほど乱れていたが、
    誰彼もあらず一天自尊の秋     蛇笏
    いち早く日暮るる蝉の鳴きにけり
と読めた。」

 「誰彼もあらず一天自尊の秋」、この蛇笏の絶句ともいうべきものに対して、龍太氏は、「なにやら判ったような、判らないような独白の句だが、秋は便法としてトキとも読まれる言葉である。季節はいままさしく秋爽。たまたまこの世にえにしありしともがらよ、ひとの生死のはかなさよりもなによりも、おのがじし尊ぶべきものは何であったか、それこそ互いに求めようではないか、と」(『遠い日のこと』)記している。龍太氏の父であり、師
であった蛇笏氏に捧げた句は、「十月三日 父死す 十句」と前書きのある次のものであった(『麓の人』所収)。
    月光に泛べる骨のやさしさよ
    亡き父の秋夜濡れたる机拭く
    ひややかに目玉透きたるおもひごと
    月の夜はあまたの石に泪溜め
    鳴く鳥の姿見えざる露の空
    秋空に何か微笑す川明り
    ひとびとの上の秋風骨しづか
    秋昼のひとり歩きに父の音
    常の身はつねの人の香鰯雲
    誰も居ぬ囲炉裏火の炎(ほ)にねむる闇
 これらの句が収められて句集の名は『麓の人』(昭和四十年刊)で、その「麓の人」とは、蛇笏氏その人を指すのではなかろうか。そして、龍太氏の「鳴く鳥の姿見えざる露の空」の句は、大正三年の蛇笏氏の渾身の傑作句、「芋の露連山影を正しうす」の挨拶句とも詠みとれる。
 

飯田龍太の俳句(その十四)

○ 冬耕の兄がうしろの山通る(昭和四十二年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「虚子は、写生は俳句の大道です、と言った。石田波郷は、俳句は私小説だ、と言った。それぞれ自分の体験をこめた信念のある言葉である。たしかに写生は大事な基礎にちがいない。まだ 俳句の『私』性というものも否定出来ない性格のひとつである。だが、こういう結晶した言葉は、それをロにしたそのひとだけのもので 模倣は出来ないものである。正しく理解するためには、改めて自分の表現を持たぬと自分のものになったことにはならない。私は、写生は、 感じたものを見たものにする表現の一方法と考えている。その逆でもいい。また俳句は『私』に徹して『私』を超えた作品に高めるものだと思っている。例えばこの作品の場合、私の兄であり、私の兄でなくともよろしければ成功したものと思いたいのだ。この場合、生死の虚実は問うところでない。」

 飯田龍太氏の年譜を見ていくと、龍太は四男として生まれ、昭和十六年(二十一歳)に次兄が病没、昭和二十二年(二十七歳)に長兄の戦死の公報、そして、翌二十三年に三男の戦病死の公報と、三人の兄を亡くしている。この次兄らの思い出については、「遠い日のこと」(『遠い日のこと』所収)に詳しい。これらのことは、父の蛇笏氏が、明治四十二年(二十四歳)に、志を捨てて、家郷に帰らざるを得なかったと同じ道を龍太氏は辿ることとなる。この年譜の解説などを見ていくと、「しかして敗戦の直後、ようやく老齢を迎えようとする蛇笏の句に『なやらふやこの国破るをみなごゑ』という絶唱がみえる。この父をあらゆる意味で嗣ぐべく、以来、龍太は、けっして頑健とはいえない身をみずから励ますのであった」(『現代俳句の世界 飯田龍太集』の三橋敏雄稿)という記述も見られる。とにもかくにも、蛇笏・龍太親子にとっては、これらの肉身との別れというのは、これまた想像を絶するものがあったであろう。こうした背景のもとで、掲出句とその龍太氏の自解を見ていくと、この掲出句の「兄」というのは、深い響きを有している。そして、この「例えばこの作品の場合、私の兄であり、私の兄でなくともよろしければ成功したものと思いたいのだ。この場合、生死の虚実は問うところでない」というのは、龍太氏にとっては、ぎりぎりの嘘偽りのない吐露であると同時に、ここに、龍太氏の俳句の原点があり、ここに、龍太氏の作句信条があるという思いを深くする。

飯田龍太の俳句(その十五)

○ 父母の亡き裏口開いて枯木山(昭和四十年)

『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「俳句はすべて短尺に乗るものでないといけません、といった人がある。一家言である。どこにでも通用する言葉ではないが、ひとつの見識、一方の審美眼であることはたしかだ。
私はそこまでは言い切れないが、せめて読者に不快な印象だけは与えたくないと思っている。出来たら自分のこころをしずめ、同時に読者にも安らぎを与えるような句を作りたいと考えている。ことにこんな場合は、自分の気持を静めることで精一杯。われながら淋しい句だと思う。自分をたかめることも、読者に安らぎを与えることも全く忘れ去っている  作品である。強いて言えば、冬日のなかの枯木山が明るく見えること。それだけがせめてもの救いであろうか。」

 この掲出句は、父であり師であった蛇笏氏への追悼の句が収載されている句集『麓の人』に続く、第四句集『忘音』に収載されている昭和四十一年作の一句である。この一年前の昭和四十年作のなかに、「十月二十七日母死亡 十句」の前書きのある句がある。そして、この句集の名に由来する次の句がその筆頭に詠まれている。
    落葉踏む足音いづこにもあらず
 先に父を失い、そして、母を失い、自解にあるとおり、この掲出句は、「自分の気持を静めることで精一杯。われながら淋しい句だと思う。自分をたかめることも、読者に安らぎを与えることも全く忘れ去っている作品である。強いて言えば、冬日のなかの枯木山が明るく見えること。それだけがせめてもの救いであろうか」という、龍太氏の述懐は、肉親と永別した子・龍太氏というよりも、一歩距離を置いての俳人・龍太氏の思いであろう。
 この平成十五年九月十三日に亡くなった、平井照敏氏は、この掲出句について、「飯田龍太さんは、私、前半と後半の時期とで全然句が違うと思うんですね。その後半の時期にすすむそのきっかけになったのが、父蛇笏とそれからお母さんの死でした。裏の木戸が開いていて枯木山が見えるっていう句がありますね」と、この句を龍太氏の数多い句のなかにおいても、特別の位置にある句としている(『蛇笏と楸邨』所収「鎮魂の俳句」)。この平井照敏氏の指摘は、この掲出句の全てを物語っているように思われる。
 龍太氏は、この第四句集『忘音』のあと、『春の道』・『山の木』・『涼夜』・『今昔』と句集を刊行し、それらは『現代俳句の世界 飯田龍太句集』(昭和二十年以前~昭和五十六年)で身近に目にすることができる。その後、第九句集『山の影』、第十句集『遅速』(平成三年・七十一歳まで)を刊行し、平成四年に、蛇笏・龍太親子二代にわたる、その主宰誌「雲母」を廃刊し、忽然と俳壇から身を退いてしまった。
     一月の川一月の谷の中 (『春の道』)
     白梅のあと紅梅の深空あり(『山の木』)
     梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬(『涼夜』)
     詩はつねに充ちくるものぞ百千鳥(『山の影』)
     雨音にまぎれず鳴いて寒雀(『遅速』)
 そして、「雲母」の廃刊の直前の句に、龍太氏は次のような句を残している。
     またもとのおのれにもどり夕焼中(平成四・八「雲母」)
 この句は、「雲母」九百号(最終号)に発表された九句のうちの冒頭の句とのことである(『飯田龍太全集二』) 。「俳人・蛇笏の子・俳人・龍太は、家郷・甲府の境川の、飯田武治の四男・飯田龍太」にもどったのかもしれない。

追伸 現在(平成五年)、広瀬直人・福田甲子雄氏らによって、『飯田龍太全集』(全十巻)の刊行が続けられ、その全貌が明らかになりつつある。機会があったら、それらを目にして、その最後の句集『遅速』などを中心にしての鑑賞などを試みたい。

http://www.kadokawagakugei.com/topics/special/20050301_01/

中村草田男の俳句



中村草田男(その一)

○ 降る雪や明治は遠くなりにけり

句集『長子』所収。昭和六年作。草田男の自解によれば、老大学生(三十一歳)の頃、麻布の親戚を訪ねての帰途、かって小学校の四・五年生時代を過ごした青山南町の青南小学校付近を二十年ぶりに散策した折りの作とのことである。初案は「雪は降り明治は遠くなりにけり」であったが、後日、句会の席上で、上五の「降る雪や」を得たという。これらのことに関して、山本健吉氏は、「彼(草田男)ははじめ『雪は降り』と置いて意に満たないまま推敲の結果このような上五に決まった。その時謡曲『鉢の木』の有名な『あゝ降つたる雪かな』という文句が働きかけている。『春雨や』『秋風や』などざらにある俳句的用法と違って、この『降る雪や』には作者の並みでない苦心が払われたすえ辛うじて得られたものであった」(『現代俳句』)と指摘している。そして、この草田男の句には「獺祭忌明治は遠くなりにけり」(志賀芥子)の先行句があって、その類想句(類句)ということも話題になるのであった。このことに関して、決して、草田男擁護派ではない、高柳重信氏の次の指摘は鋭い。「問題は、この『明治は遠くなりにけり』に、如何なる詩的限定、あるいは俳句的限定を加えるかにかかってくるわけだが、それを某氏のように『獺祭忌』としてしまったのでは、連想範囲が正岡子規とその周辺に限られて、この言葉の内包しているものを、非常に小さな時のなかに閉じこめてしまうことになる。こうして、みずから小さな枠のなかに閉じこめておきながら、やや大袈裟に言えば、当時の日本人の大多数の普遍的で共通な感懐を盛るにふさわしい『明治は遠くなりにけり』という言葉を、某氏一人の所得にしようとしても、それは、はじめから無理な願望であった。そこへゆくと、中村草田男の『降る雪や』は、この『明治は遠くなりにけり』という言葉が、その裾野を最大限にひろげてゆけるように、見事な詩的限定を行なっている。それは、本来、『明治は遠くなりにけり』という言葉が内包していた感懐のすべてを、少しも失うことなく、やや情緒的に過ぎるけれど、鮮明なイメージを持った一個の表現としての客観性を、はっきりと獲得しているのである。この結果、『明治は遠くなりにけり』という言葉が、中村革田男の占有すべきところとなったのは、理の当然であろう。しかも、それにとどまらず、この『明治は遠くなりにけり』は、この中村草田男の作品が書かれて以後は、それによっていっそう鮮明となったイメージを伴いながら、もう一度、日本人すべての手許へと帰ってきたのである」(「俳句」昭和四五年六月:『高柳重信全集Ⅲ』所収)。

http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/jyusin/jyusintext/jyuusinkakimiru.html

中村草田男(その二)

○ 思ひ出も金魚の水も蒼(そう)を帯びぬ (昭和八年)

句集『長子』所収の句には回想的な句が多い。この第一句集『長子』は、昭和四年九月から、昭和十一年四月までのホトトギス雑詠句を中心として、それに草樹会などの句会に於いて虚子の選を経た句を補い、ほかに二十余句の自選句を加えての三百三十八句を、四季別の収録している。即ち、草田男が本格的に俳句創作には入ったのが昭和四年の、二十九歳のときであり、比較的遅く始めたということと関係することなのかも知れない。というよりも、草田男自身、「調和のとれた性格の持主であれば、すでに安定した足取りを運ぶべき年齢でありながら、依然として懐疑と憧憬、不信と希求、躊躇と果敢とに渦巻いている長い青春性のもたらす混沌」(山本健吉著『現代俳句』)の中での作句活動からスタートして、そして、そのスタートも「ホトトギス王国」の高浜虚子選という客観写生の「花鳥諷詠」的な最もスタンダードのところから始めたということと関係することなのかも知れない。しかし、この草田男的な一見遠回り的な原因となった、その青春時代の、「懐疑と憧憬、不信と希求、躊躇と果敢」的な混沌(カオス)そのものへの体験的な挑戦が、草田男俳句の中心的な作句上の原点であり、そして、その作句上の原点は、草田男自身の年輪の深みと相伴って、その後の多種多様な文学的多義性を有する草田男俳句として、前人未踏ともいうべき、独特の草田男俳句を開花させる原動力ともなるものであった。掲出の句について、高橋正子氏は次のような鑑賞をしている。この高橋氏の鑑賞はこの句の背景にやや立ち入り過ぎている感じがしなくもないのであるが、草田男俳句の原点を見事にとらえている点で、実に暗示的ですらある。「句意は、思ひ出も金魚を飼ってある水も蒼を帯びている、ということなのである。「思ひ出」が何であるか深く立ち入ることも一つの解釈だろうが、ここでは、句の言語を還元して読みたい。『思ひ出』が金魚の水を通して『蒼を帯び』て感じられたのであるが、ひらひらと華麗に泳ぐ赤い金魚から発想される『思ひ出』に違いない。『蒼』は、『青』と違って、草の色を表す翳りのある色である。陰欝さも拭いきれない蒼みを帯びた水に泳ぐ赤い金魚の生き生きとした様にローマン的な憧れが見える。その一方にあるそれが蒼みを帯びたものを想起させるには、草田男に深く影響を与えたドイツの森が象徴するドイツ精神が通奏して感じられるといってもいいだろう。『思ひ出』の内容は、読者が感応するしかないのである。草田男は、もっとも大切なことは、語らぬ人であるから、語られたものだけが草田男ではないのである。おそらく『思ひ出』は草田男の心それ自体の内部となっていると言っていいかもしれない。この理由は、松山中学時代の友人である伊丹万作について書かれたものは多くあるが、草田男に精神的に大いなる影響を与えた三歳上の従兄弟、『ニイチェ』を紹介し多大な精神的影響を与えた、西田幾太郎門下の哲学生であり、哲学論文『酔歌』を執筆中に自殺した、三土興三について書いたものは少ない。しかし三土の死は、草田男の内部に深くあり、彼の話になると、学園の廊下の立ち話であろうと、涙を禁じえなかったということである。草田男の句は、あくまでも詩としての解釈を要求しているのであって、この句もその類と言える」。

http://www.suien.net/kusatao/kansyo.htm

中村草田男(その三)

蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし

昭和七年作。句集名『長子』はこの句に由来があるのであろう。草田男はその「跋」で、「此書の誕生に際して省みるに・・・私は、単に戸籍上の事実に於てのみならず、対人生、対生活態度の全般を通じて、”長子”にも喩ふべき運命を自ら執り自ら辿りつつあるものであることを自覚する」と記している。山本健吉氏は、この句の詳細な鑑賞の記述の中で、草田男が最も心酔したニーチェの、「人はそれを堪え忍ぶだけではいけない、それを愛すべきた(アモル・フアテイ)・・・運命愛、これが私の最奥の天性である」(『ニーチェ対ワグナア』阿部六郎訳)を引用して、この掲出句の「蟾蜍」は、このニーチェの「運命愛」(アモル・フアテイ)の化身であるとしている(『現代俳句』)。さらに、「草田男の脳裏を充たしているものは暗喩の世界である。『草田男の犬』という言葉があるが、この句においても『比喩もろとも』に『草田男の蟾蜍』なのだ。形象としての蟾蜍はそれだけのものだが、あたかも古代の文字を刻むように彼が『蟾蜍』と書き記す時、それは人間の言語を語り出す異教的神話の動物となり、人間の叡智の影も帯びてくる。やくざな一匹の動物が、草田男の決意と化し、人間の忍耐・勇気・正義その他もろもろの美徳ともなるのだ。だから言ってみれば、草田男を俳句に繋ぎとめているものは、その寓意詩的性格にほかならない。寓意性は童話性に通じ、彼の作品の第二の特性となる」との指摘をしている。草田男俳句の難解さについては、例えば、この山本健吉氏のニーチェの「運命愛」を引用しての、単なる「擬人化としての蟾蜍」だけに止まらず、さらに、「作者・草田男の蟾蜍」の「暗喩の世界」にまで足を踏み込んでの鑑賞を要請されることと深く関係している。そして、草田男俳句は、この掲出句のような初期の頃の句だけに止まらず、晩年になればなるほど、この「蟾蜍」に託されたような、いわゆる「草田男の暗喩の世界」そのもの作品がその主流となってくる。それは、さながら、「謎解きの世界」そのもののようでもある。さて、坪内稔典氏は、草田男のこの掲出句について、「『蟾蜍(ひきがえる)とは?』という謎(問い)に、『それは家を背負った長子だ』と答えている。そのこころは悲しみであろうか、孤独であろうか」との問い掛けをしているが、「そのこころは、悲しみでもなく、孤独でもなく、草田男自身は『運命愛』であった」ということだけは間違いない。なお、坪内稔典氏のこの掲出句関連のアドレスは次のとおり。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0602.html


中村草田男(その四)

○ 万緑の中や吾子の歯生えそむる

昭和十四年作。『火の鳥』所収。山本健吉氏は、「『万緑の中や』・・・粗々しい力強いデッサンである。そして、単刀直入に『吾子の歯生えそむる』と叙述して、事物の核心に飛び込む。万緑の皓歯との対照・・・・いずれも萌え出るもの、熾(さか)んなるもの、創り主の祝福のもとにあるもの、しかも鮮やかな色彩の対比。翠(みどり)したたる万象の中に、これは仄(ほの)かにも微かな嬰児の口中の一現象がマッチする。生命力の讃歌であり、勝利と歓喜の歌である」と激賞している。坪内稔典氏は、この句に関連して、次のように述べている。「一九三九年九月の『ホトトギス』に出た句だ。もちろん、草田男の代表句になる句である。万緑と吾子の歯を取り合わせた句だが、万緑のなかに歯の生えはじめた吾子だけを置き、他の一切を消してしまった大胆さ、強引さがすごい。今、手元に愛媛新聞社から出た郷土俳人シリーズ(七)『中村草田男』がある。評伝、作家論、草田男三百句などからなり、草田男の世界がコンパクトに集約されている。もっとも、本は4千円とやや高いが、それは本の作りが贅沢なため。資料のカラー写真なども多い。この本を見ながら思ったのだが、草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」(「日刊・この一句」、アドレスは下記)。
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html
 この稔典氏の後半の「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」という指摘は、「草田男の暗喩」の世界の「謎解き」と多いに関係するところのものなのであるが、やはり、草田男の初期の頃の作品と晩年の頃の作品とを比べてみると稔典氏の指摘と同じ思いを深くする。なお、掲出句の「万緑」の季語は、草田男が現代俳句の中に定着させたものとして、夙に知られているところのものであるが、草田男の師筋にあたる高浜虚子は必ずしも季語として容認していたかどうかは、疑問の残るところのものなのであるが、虚子自身次のような句を残していることは、やはり特筆しておくべきことであろう。なお、これらのことに関しては、次のネット関連記事などが参考となる。
 ○ 万緑の万物の中大仏   高浜虚子

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/kusadao/kusadao.html

http://www.doblog.com/weblog/myblog/4950/189116#189116



中村草田男(その五)

○ 勇気こそ地の塩なれや梅真白

昭和十九年作。『来し方行方』所収。この句集にも草田男の佳句が多い。この句の背景はマタイ伝の山上の垂訓である。「汝らは地の塩なり、塩もし効力失はば、何をもて之に塩をすべき、後に用なし。外にすてられた人に蹈(ふ)まれるのみ」(マタイ伝、第五章第十三節)。しかし、この句は山本健吉氏が「この場合、『勇気』とは生命そのものであり、力の源泉であり、『権力への意志』である。そして、それは人間精神の腐敗を防ぐ唯一至上のものである。また、それは、人間の調味料、生きた『人間の形』を与えるものである。要するになくてかなわぬこの一つのものなのである。聖書から出て、彼はみごとに反基督ニーチェの言葉に転換した。そしてその言葉を、己れの精神的腐敗への鞭とした」(『現代俳句』)との指摘のごとく、草田男が心酔したニーチェの『ツアラツストラ』などの影響を読み取るべきなのであろう。この句には草田男自身の、「『地の塩』は『信仰者』を指しているのだが、後には・・・他者によって生成せしめられたものでなくて自ら生成するもの、他者によって価値づけられるものではなくて自らが価値の根元であるもの・・・の意味に広く用いられる。十九年の春・・・十三歳と十四歳との頃から手がけた教え児たちが三十名『学徒』の名に呼ばれるまでに育って、いよいよ時代のルツボのごときものの中へ躍り出ていこうとする。『かどで』に際して無言裡に書き示したものである。折りから、身辺には梅花が、文字どおり凛洌と咲き誇っていたのである」(『自句自注』)との記載が見られる。この掲出句が作られた昭和十九年の初冬、明治神宮外苑競技場で学徒出陣の壮行会があった。これらのことを背景とすると、あの異常な戦時下の言論統制下にあっての、草田男自身の悲痛なまでの真率な声がこの句の隅々までに染みわたっている。この句は五日市霊園の草田男の寝墓にも彫られた。これらのことに関しては、次のネット関連の記事などが参考となる。

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/kusadao/kusadao.html

http://homepage2.nifty.com/banryoku-haiku/a05qa.htm#Start


中村草田男(その六)

○ 折からの雪葉に積り幹に積り (某月某日の記録)
○ 此日雪一教師をも包み降る   ( 同 )
○ 頻り頻るこれ俳諧の雪にあらず ( 同 )
○ 紅雪惨軍人の敵老五人     ( 同 )
○ 世にも遠く雪月明の犬吠ゆる  ( 同 )
○ 壮行や深雪に犬のみ腰おとし (『来し方行方』)

掲出の「某月某日の記録」の前書きのある五句は、昭和十一年二月二十六日に、いわゆる二・二六事件が勃発した、その時の草田男の五句である。そして、草田男の第一句集『長子』は、この皇道派の青年将校が、下士官、兵千四百名を率いて官邸を襲い、まさに「紅雪惨軍人の敵老五人」を惨殺した、丁度その年に刊行されたのである。本来ならば、これらの五句が、四季別の創作年代順の編集であるならば最終頁を飾ることとなるのであろうが、草田男はそれを避けて、「身の幸や雪やや凍てて星満つ空」の妹さんの華燭の結婚式の雪の句をもって、その処女句集を飾っている。それから四年後の昭和十五年に、掲出六句目の「壮行や深雪に犬のみ腰おとし」が作られた。この句は敗戦直後の日本俳壇にあって、「草田男の犬論争」として、大きな話題を提供した句でもあった。この句について左翼の論客家の俳人・赤城さかえ氏は、「この句の功績は人々が熱狂している喧噪の中において、深雪に腰をおとして立たない哲学者(一匹の犬)を見出した作者の批判精神である」と論評して、その論評に対して、草田男の終始良き理解者であった宮脇白夜氏は、「この論評はまさに彗眼で、壮行の人々に混ざっている犬の原型には、草田男が心酔したドイツ・ルネッサンス期の巨匠デューラーの名作『三大銅版画』のすべてに登場する犬が存在する。従ってこの句をよりよく理解するためには、デューラーの銅版画をじかに見て、その名画の中で犬がどのような役割を果たしているのか、見るのが一番である」との指摘をしている(『草田男俳句三六五日』)。だが、そのデューラーの銅版画の犬を見ても、なかなか草田男のこの犬に託した作意は見えてこない。あまつさえ、昭和四十七年に草田男は「メランコリア」と題して、「デューラーの銅版画『メランコリア』による群作 三十七句」のサブタイトルで、この三十七句の中で、宮脇氏が指摘するデューラーの銅版画の犬の句が出て来るのだが、これがどうにも、「草田男の謎」で、その謎解きができないのである。ともあれ、草田男の掲出の「二・二六事件」の句も、そして、それに続く、六句目の犬の句も、戦時体制という異常時において、精神的には決して時の統制には屈しないという、草田男の並々ならぬ決意というものだけは見てとれるのである。
なお、「デューラーの銅版画『メランコリア』による群作 三十七句」の犬の句は次のとおり。
○ 犬なれど「香函(こうばこ)つくる」白夜に素(しろ)
○ 白夜の忠犬膝下沓(とう)下に眼落としつ
○ 白夜の忠犬躯畳みたたむ一令無み
○ 白夜の忠犬百骸挙げて石に近み
また、デューラーの「メランコリア」の犬は次のアドレスで見ることができる。

http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/durer/p-durer23.htm

中村草田男(その七)

○ 燭の火を煙草火としつチェホフ忌(『火の島』・昭和十二年作)
○ ニイチュ忌尾輌ゆレール光りつ去る(『火の島』・昭和十三年作)

 草田男の年譜の大正九年(十九歳)に、「松山中学に復学、ニイチェ『ツアラツストラフ』を読み感銘、生涯の書とす」、そして、大正十四年(二十四歳)には「一家東京へ移転。四月、東京帝国大学文学部独逸文学科に入学、ヘルダーリン、チェホフを耽読」との記載が見られる。山本健吉著『現代俳句』の中で、「草田男のなかにはニーチェ的選民とチェホフ的平凡人が共存している」、「ニーチェは彼に理想を教えたが、チェホフは彼に生活を教えた。ニーチェのように崇高な理想を持ち、チェホフのようにつつましく生きるのが草田男である」と草田男俳句の二面性(そして、それはニーチェ的難渋性とチェホフ的平明性)を正しく指摘している。それに続けて、この「チェホフ忌」について、「チェホフが死んだのは一九〇四年の七月十五日だ」、「何々忌と言っても、俳人にとって多くはそれはフィクションにすぎぬ」、「俳人は無数の偽物の修忌を季寄せの中に繰り入れた。草田男はそれを少しく拡張して、泰西の文豪の忌日を新しく繰り入れたというにすぎないのだ」、「それが夏であるかどうかは知ったことではない、ただそれははっきり限定された季語であることだけを知っているのである。実際のない抽象的な架空の季語に、彼は戯れに実体と具象性とを与えるのみである」として、いわゆる季語としては扱っていない。同様に、ニイチュ忌・ニーチェ忌(一九〇〇年八月十五日死亡)も、いわゆる季語としては扱われないであろう。草田男は、高浜虚子門で、その「ホトトギス」の有力俳人の一人と嘱望されていた、その初期の頃から、虚子流に、「季語を花鳥諷詠的に詠む」という姿勢ではなく、「自分の作句する心を充たすために、自分用の季語的なものを作り、それに、具象性と暗示性とを付与する、いわゆる季語を象徴的に使用する」という姿勢を、この掲出の二句からも判断できるように、さまざまな試みをしていた。そして、それは、「金魚手向けん肉屋の鉤(かぎ)に彼奴(きゃつ)を吊り」(昭和十四年作)などの異色の作として今に喧伝され、この句は、今に、「金魚」の季語の例句として草田男の佳句の一つとされているのである。しかし、草田男自身、この金魚の句の金魚を、夏の季語としての金魚の句としては微塵も考えていなかったことであろう。さらに、特筆しておきたいことは、この金魚の句が、昭和十四年六月号の「ホトトギス」において、「月ゆ声あり汝(な)は母が子か妻が子か」の句など共に巻頭を占めた句の一つであったという事実についてである。このことは、「ホトトギス」の主宰者・高浜虚子というという俳人は、自らが唱道していた「花鳥諷詠」的な俳句のみならず、さまざまな俳句について想像を絶するような選句眼を持っていたという驚きである。なお、掲出の二句目の、「ニーチェ忌」の句については、草田男に精神的に大いなる影響を与えた三歳上の従兄弟、西田幾太郎門下の哲学生であり、哲学論文『酔歌』を執筆中に自殺した、三土興三氏にかかわる句のようである(『草田男俳句三六五日』)。なお、草田男の「チェホフ忌」の句などの影響を受けての寺山修司氏の「チェホフ忌」の句については、次のアドレスなどに詳しい。

http://homepage1.nifty.com/uesugisei/ikku12.htm#多喜二と啄木

中村草田男(その八)

○ 汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか 青露変(青露とは、川端茅舎の戒名青露院
より採る)
○ 花に露十字架に数珠煌と掛かり    七月十七日、茅舎長逝の報いたる
○ 梅雨も人も葬りの寺もただよすが   同十九日、其告別式
○ 炎天の手の小竹(ささ)凋(しほ)る葉を巻きて 旬日後、彼を偲び、己が芸の為
                      すなきを嘆きつつ近郊を歩む

昭和十六年作。『来し方行方』所収。草田男年譜によれば、「昭和四年 二月、初めて虚子を訪ね、師事。復学し、『東大俳句会』に入学、『ホトトギス』(九月号)に四句入選」とあり、二十八歳のときに、虚子門に入ったこととなる。しかし、この年譜にもあるとおり、草田男は虚子門であるが、『東大俳句会』の指導者であった水原秋桜子の選を仰いで、その秋桜子選のものが、虚子の「ホトトギス」選にもなるという、いわば、虚子と秋桜子の二人に師事していたというのが実体なのかもしれない。草田男三十八歳のときの昭和十四年には、「一月、次女郁子誕生、三月、学生俳句連盟機関誌『成層圏』の指導に当たる。七月、『俳句研究』座談会に楸邨、波郷らと出席、以後、『人間探求派』と称せられる。十一月、第二句集『火の鳥』(龍星閣)刊。冬、高村光太郎を訪ねる」とあり、掲出の句が作られた昭和十六年には、「六月、第三句集『萬緑』(甲鳥書林)刊。俳壇内の時局便乗者から自由主義者と指弾、圧迫される」との記載が見られる。これらの年譜の足跡を見ていくと、「人間探求派」という言葉は、昭和十四年の「俳句研究」の座談会で始めて使われたもので、このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十八歳、そして、加藤楸邨は「馬酔木」同人で三十三歳(その翌年に「寒雷」主宰となる)、石田波郷は「馬酔木」同人で弱冠二十六歳(二十四歳のときに「鶴」を主宰している)という若さであった。そして、昭和俳壇をリードし続けた、この三人が、直接と間接とを問わず、水原秋桜子の指導を得ていたということと、特に、草田男は「時局便乗者からは自由主義者」と見られていたということはやはり特筆しておくべきことなのであろう(草田男の三十五歳のときに刊行した第一句集『長子』も全て虚子選であるが、秋桜子の選も仰いでいるという)。そういう草田男の姿勢や作風からして、草田男が虚子主宰の「ホトトギス」で最も信頼を置いて、相互に切磋琢磨した同胞は、草田男よりも四歳上の川端茅舎であり、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」といわしめた、この茅舎の草田男への影響というものは大きかったことであろう。それ以上に、掲出の一句目のように、茅舎亡き後の「ホトトギス」周辺の虚子を取り巻く方々は、草田男にとっては、「汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか」と、もう、草田男の俳句を理解するという雰囲気ではなかったのではなかろうか。それだけではなく、言論統制が強力に推し進められていくなかで、昭和十五年には新興俳句弾圧事件が勃発して、「京大俳句」の平畑静塔らが検挙されるという事態が起きた。草田男俳句も、時局に合わぬ自由主義的な俳句として、当時の俳壇から圧迫され、身辺の写生句のみの投句に制限されていたが、昭和十八年の年譜には「『ホトトギス』への投句を止める。十月、『蕪村集』刊」と、その状態が終戦まで続くことになる。これらの草田男年譜を振り返って見るときに、昭和五年に水原秋桜子が「ホトトギス」を退会した後も、草田男は「ホトトギス」に残り、川端茅舎・松本たかしなどと、「ホトトギス」の有力俳人の地位を獲得しながら、その「ホトトギス」周辺からは川端茅舎を除いては、必ずしも好意的に受けとめられていなかったということと、掲出句に見る如く、草田男がいかに茅舎に傾倒して、信頼し、そして、いかに茅舎を失って虚脱状態になっていたかを、その当時の草田男の環境を垣間見ることができるのである。

中村草田男(その九)

○ 葡萄食ふ一語一語の如くにて(昭和二十二年)
○ 石鹸玉天衣無縫のヒポクリット(昭和二十一年)
○ 呟くヒポクリット・ベートーベンのひびく朝(「昭和二十一年」)
☆ 呟くポクリッとベートベーンのひびく朝(桑原武夫「第二芸術」の例句)

 戦後の昭和二十二年に刊行された草田男第四句集『来し方行方』は、昭和十六年から同二十二年までの作品七百十五句が収められた、いわば、「草田男の持つ詩性が逆境において極めて強靱」(「萬緑」の岡田海市氏の指摘)なることを如実に物語っている句集でもある。そして、この句集には、「万人が認める傑作句」と「万人が理解に苦しむ晦渋句」とが、玉石混淆のごとく散りばめられている句集でもある。この掲出の第一句目の句は、山本健吉著『現代俳句』において、「葡萄の一粒一粒が、一つの言葉、言葉に相応する。普通には、抽象的なことがらの比喩に、具体的なことがらを持ってくるものだが、この場合は、葡萄を食うという具体的なことがらの比喩に、言葉という抽象的なものを持ってこられたので、言はばこれは、逆立ちした比喩である」として、絶賛にも近い評をくだしている。一方、掲出の三句目は、桑原武夫の「俳句第二芸術」論の草田男俳句の酷評された例句の一つに関連しての、曰く付きの一句でもある。桑原武夫が昭和二十一年十一月号の雑誌「世界」に「第二芸術」とタイトルして、「大家(十句)と素人(五句)の句の作者名を伏せて、作品の優劣やどれが大家の作品かを推測させる」内容のものであった。そして、草田男作品として取り上げられていた句が、この掲出の第四句目の「ある雑誌に発表された誤植が三個所もある」句で、これに対して草田男が誤植の訂正を求めたのに対して、桑原武夫は、「なぜそんな誤植が生じたのであろうか。ともかくも私の説はこのことによってはくずれない」と、頑としてはねつけたのであった。この掲出の第三句目(その誤植のものは第四句目)の前に、
句集『来し方行く方』に収載されている句が、掲出の第二句目の句なのである。「石鹸玉」は春の季語、「天衣無縫」は完全無欠の意味。そして、「ヒポクリット」が偽善者(猫かぶり)
の意味で、草田男の作意は、「石鹸玉は一見天衣無縫に見える偽善者・ヒポクリットと同じで、一寸触れると、あとかたもなく消え去ってしまう」という、いわば、戦時中に、「草田男いびり」をした俳人達への比喩と暗示にみちた揶揄ともとれる句と解せられるのである。このように解すると、第三句目の「ヒポクリット・ベートベーン」も、草田男らしい実に俳諧味のあるウィツトに充ちた措辞で、この程度の晦渋的な句は、現代俳句では日常茶飯事に随時に見られるところのものであろう。その草田男が、草田男自身意欲的なものとして作句してる「ヒポクリット・ベートベーン」が「ポックリッとベートベン」とに誤植され、その誤植のままに、桑原武夫に自作としての例句に取り上げられたのだから、どうにも、俳諧的というよりも、いかにも、「俳諧の魔神(デーモン)」の悪戯のような感じすら抱くのである。とにもかくにも、掲出の一句目のような万人が等しく認める句がある一方、
掲出の二句目以降の句のように、どうにも一筋縄では近寄れないような句が、草田男の場合には、その振幅の度合いが大きいということは、草田男俳句の顕著な特色ということができよう。


中村草田男(その十)

○ 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」(昭和二十四年)
○ まさしくけふ原爆忌「インディアン嘘つかない」(昭和五十一年)

掲出の一句目は、昭和二十八年刊行の第五句集『銀河依然』所収の句。この句集には、昭和二十二年から同二十七年までの七百八十八句(これに『長子』以降の補遺作品十三句を収載)が年代順に掲載されている。その「跋」に、「本句集中の具体的な作品の上」には、「『思想性』『社会性』とでも命名すべき、本来散文的な性質の要素と純粋な詩的要素とが、第三存在の誕生の方向にむかつて、あひもつれつつも、此処に激しく流動してゐるに相違ない」と記し、これまで最も重視した「芸」の要素(詩的要素)に加えて、「思想性」と「社会性」との二要素(散文的要素)が渾然と一体となった「第三存在」の成就を目指そうとしている。
当時の日本俳壇は、先の桑原武夫の「俳句第二芸術」論を契機として、「社会性俳句」が大きなうねりと化していたが、さらに、「思想性」も加えんとしたのが、当時の草田男の目指したものであり、この草田男俳句を称して、「腸詰俳句」という悪評すら生むに至ったのである。これが、先に見てきた、坪内稔典氏の、「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」という評へと繋がっていく。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html

 この句集『銀河依然』刊行後、昭和三十一年刊の第六句集『母郷行』、昭和三十三年刊の第七句集『美田』、そして、昭和五十五年刊の第八句集『時期』を世に問うて、以後、「実は、第五句集『銀河依然』を発行した直後に、私は当時の主観的客観的な諸事情の上に立脚して、今後は永く句集の形のものを世に出し世に問うことを潔く打切ってしまい、孜々と各月の実行だけに没頭しつづけていこうとの決意を定めた」(第七句集『美田』所収「跋」)として、昭和三十八年から同五十八年の作品群は「萬緑」誌上のみの発表に限定することになるのである(『中村草田男全集』第五巻にその全貌が掲載されている)。さて、掲出の昭和二十四年作は、当時の浮浪児が街路に氾濫していた社会情勢を、破調と「「なんでもいいやい知らねえやい」という流行語とをもって、実に的確に詠出するとともに痛烈な戦争批判の怒りの声を蔵している。そして、二句目は西部劇などで流行語ともなった「「インディアン嘘つかない」という奇計奇抜な用例を持って痛烈な原爆批判の句となっている。草田男にとってむ、このような句は、いわゆる、「第三存在」の「社会性」俳句の範疇に入るものなのであろうが、これらの句は、「腸詰俳句」でも「ごちゃごちゃ俳句」でもなく、草田男の痛烈な社会批判をともなった箴言的・寓意的な作品として、他の草田男の傑作句と同様に、後世に伝えておきたい句であるということを実感するのである。また、同時に、この二句目の句のように、草田男句集ではお目にかかれない、草田男後半の昭和三十八年以降の句についても、やはり、草田男の佳句というべきものを丹念に拾い上げていく必要性を痛感するのである。

中村草田男(その十一)

○ ほととぎす敵は必ず斬るべきもの(昭和三十七年)
○ 山冴えの暁冴え二聨のほととぎす(昭和五十三年)
○ 遠き地点のいよいよ低みへ初杜鵑( 同 ) 

掲出の一句目は、草田男の句集としては最後の句集となった第八句集『時期』(昭和五十五年刊)所収の句。この句集の「跋」に、「句集名は『時期』(とき)と名づけた。この言葉は、聖書の中の『ヨハネ黙示録』の中に出ていて」、「具体的にはすべての存在者は終熄の必然性を明示している」。「また、この言葉は、十二歳も年齢の若い妻の上には夢にも予想していなかった旅先での急逝に遭遇したことによっての、根本的啓示の感銘にも直結している」と記している。この「跋」記載のとおり、草田男は最愛の直子夫人を、昭和五十二年十一月二十一日の旅行中にその急逝に遭遇する。その急逝に関連しての草田男の前書きのある句は目にすることができないが、その翌年の昭和五十三年の二月に、掲出の二句目と三句目の「ほととぎす・杜鵑」の句を目にすることができる。この「ほととぎす・杜鵑」は、亡き奥様の投影と解して差し支えなかろう。草田男門下の草田男の良き理解者であった宮脇白夜氏は、「作者(草田男)には時鳥(ほととぎす)の声を唯の風流として聴く気持はない。特に夜啼くほととぎすの裂帛の声は、作者に反省や決意を促す力を持っていたようである」(『草田男俳句三六五日』)としている。そして、この掲出の二句目と三句目との「ほととぎす・杜鵑」を亡き奥様の投影のものとして理解して、この掲出の一句目の「ほととぎす」は、すなわち、「ほととぎすの裂帛の声」を聞いて、「敵は必ず斬るべきもの」の「敵」と草田男が感じ取った相手は、実は、現代俳句協会に関連しての、「金子兜太とその造型俳句」にあったことが、宮脇白夜氏の、この掲出の一句目の鑑賞で明瞭に指摘されているところのものなのである(宮脇・前掲書)。これらの背景については、「潮流の分析と方向をさぐる」(『中村草田男全集第一四巻』所収)の座談会記事の草田男と兜太氏との火花の散るような批判の応酬で垣間見ることができる。また、これらのことは、年譜においては、次のように記されている。「昭和三十五年 五月 現代俳句協会幹事長となる」。「昭和三十六年 現代俳句協会の幹事長の職を辞す。十一月、同志と俳人協会を発足させ、初代会長となる」。一見すると、草田男と兜太氏とは、「社会性俳句・思想性俳句」という点において、目指す方向は同じように思えるけれども、草田男は兜太氏の「造型俳句」を、「造型俳句といわれているものなど、十七音の短形式が、暗示の伝達性を十分に発揮することができなくて、徒に難解となってしまって、このままいけば、俳句大衆との連結が絶たれてしまう」(前掲全集「座談会」記事)として、それが故に、この掲出の一句の、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」と、執拗にそれを排斥する立場を明確化して、その排斥に翻弄するのである。兜太氏の「造型俳句」については、次のアドレスのものなどが参考となる。

http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html

中村草田男(その十二)

○ 蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま(昭和二十年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。「再び独居、僅かの配給の酒に寛ぐ事もあり、燈下へ来れる蟷螂の姿をつくづく眺めて唯独り失笑する事もあり」との前書きがある。草田男の側近中の側近の俳人香西輝雄の鑑賞は次のとやり。「かまきりは上反(そ)りした尻の大きな身長を六脚の上に乗せて、その長身をゆらりゆらりと上下に大刻みに揺りながら歩く。それは馬上に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている馭者の姿に似ている。馬と車に逃げられても、なほ馭者台にあるかのように身ぶりを続けている馭者にそっくりなのだ」(『人と作品 中村草田男』)。山本健吉は、草田男の「生き物」の句について、「草田男の世界は、動物たちが物言う寓話の世界だ。これは草田男の中に棲むアンチ・ニーチェ的な世界であるが、このような世界があるために、行動力の乏しい草田男は掬われている」とも、また、「草田男には特別に青春と名づくべき時期はないのであって、生涯が青春なのだ」、「そこに渦巻いているのは未知なるものへの可能性であると言ってもよい。そのような可能性が希求として作者の胸にはぐくまれる時、それはメルヘンの世界となる。草田男の作品における童心の持続は、一つの奇跡である」とも評している。草田男の俳句の世界は多義多様で、かつ、多力の多作の作家であって、とても、一筋縄でその全体像を掴むことは不可能のことではあるが、その多義多様の草田男の曼荼羅のような世界にあって、この掲出句のような、メルヘン的な寓話の世界のような俳句は、とりわけ魅力的である。

中村草田男(その十三)

○ 種蒔けり者の足あと洽(あまね)しや(昭和二十四年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。この句に接するとミレーの「種蒔く人」が思い出されてくる。この句は戦争直後、廃墟の片隅にささやかな畑が耕されて、これほどの廃墟の中で「種を蒔けり」と、そして、その「者の足あと」が「洽(あまね)しや」と、それらの実景を目の当たりにしたとき、草田男は、戦後の日本の復興を確信したに違いない。香西照雄氏は、「中村草田男輪講」(「万緑」昭和三八・四)において、この「洽(あまね)しや」は「うるおう」ということで、この「足あと」に先駆的・創造者の足跡という「普遍」的なものを感じ取るとして、「いろんな権威や価値が崩壊した戦後には、特に全体のための再創造という土台仕事に黙々と励む人が必要だった。こういう時代背景を考えてみると、『洽』の字で世をむらなくうおす愛情ゆえの労苦ということまでが暗示されている」との評をしている。確かに、この句はそのような戦後のどさくさの廃墟とその復興ということを背景として生まれたものなのかもしれないが、そういう背景を超越して、例えば、芭蕉の「不易流行」の、何時の時代にも

中村草田男(その十四)

空は太初の青さ妻より林檎うく


中村草田男(その十五)

○ 我在る限り故友が咲かす彼岸花(昭和四十年)
○ 勿忘草ねマイネ・シューネ・クライネね(昭和四十二年)
○ 蝮の如く永生きしたし風陣々(昭和四十四年)
○ 未生以前の太郎次郎に夜半の雪(昭和五十年)
○ 神域涼し遠くに人来人去りて(昭和五十八年)

中村草田男(その十)

○ 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」(昭和二十四年)
○ まさしくけふ原爆忌「インディアン嘘つかない」(昭和五十一年)

掲出の一句目は、昭和二十八年刊行の第五句集『銀河依然』所収の句。この句集には、昭和二十二年から同二十七年までの七百八十八句(これに『長子』以降の補遺作品十三句を収載)が年代順に掲載されている。その「跋」に、「本句集中の具体的な作品の上」には、「『思想性』『社会性』とでも命名すべき、本来散文的な性質の要素と純粋な詩的要素とが、第三存在の誕生の方向にむかつて、あひもつれつつも、此処に激しく流動してゐるに相違ない」と記し、これまで最も重視した「芸」の要素(詩的要素)に加えて、「思想性」と「社会性」との二要素(散文的要素)が渾然と一体となった「第三存在」の成就を目指そうとしている。
当時の日本俳壇は、先の桑原武夫の「俳句第二芸術」論を契機として、「社会性俳句」が大きなうねりと化していたが、さらに、「思想性」も加えんとしたのが、当時の草田男の目指したものであり、この草田男俳句を称して、「腸詰俳句」という悪評すら生むに至ったのである。これが、先に見てきた、坪内稔典氏の、「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」という評へと繋がっていく。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html

 この句集『銀河依然』刊行後、昭和三十一年刊の第六句集『母郷行』、昭和三十三年刊の第七句集『美田』、そして、昭和五十五年刊の第八句集『時期』を世に問うて、以後、「実は、第五句集『銀河依然』を発行した直後に、私は当時の主観的客観的な諸事情の上に立脚して、今後は永く句集の形のものを世に出し世に問うことを潔く打切ってしまい、孜々と各月の実行だけに没頭しつづけていこうとの決意を定めた」(第七句集『美田』所収「跋」)として、昭和三十八年から同五十八年の作品群は「萬緑」誌上のみの発表に限定することになるのである(『中村草田男全集』第五巻にその全貌が掲載されている)。さて、掲出の昭和二十四年作は、当時の浮浪児が街路に氾濫していた社会情勢を、破調と「「なんでもいいやい知らねえやい」という流行語とをもって、実に的確に詠出するとともに痛烈な戦争批判の怒りの声を蔵している。そして、二句目は西部劇などで流行語ともなった「「インディアン嘘つかない」という奇計奇抜な用例を持って痛烈な原爆批判の句となっている。草田男にとってむ、このような句は、いわゆる、「第三存在」の「社会性」俳句の範疇に入るものなのであろうが、これらの句は、「腸詰俳句」でも「ごちゃごちゃ俳句」でもなく、草田男の痛烈な社会批判をともなった箴言的・寓意的な作品として、他の草田男の傑作句と同様に、後世に伝えておきたい句であるということを実感するのである。また、同時に、この二句目の句のように、草田男句集ではお目にかかれない、草田男後半の昭和三十八年以降の句についても、やはり、草田男の佳句というべきものを丹念に拾い上げていく必要性を痛感するのである。

中村草田男(その十一)

○ ほととぎす敵は必ず斬るべきもの(昭和三十七年)
○ 山冴えの暁冴え二聨のほととぎす(昭和五十三年)
○ 遠き地点のいよいよ低みへ初杜鵑( 同 ) 

掲出の一句目は、草田男の句集としては最後の句集となった第八句集『時期』(昭和五十五年刊)所収の句。この句集の「跋」に、「句集名は『時期』(とき)と名づけた。この言葉は、聖書の中の『ヨハネ黙示録』の中に出ていて」、「具体的にはすべての存在者は終熄の必然性を明示している」。「また、この言葉は、十二歳も年齢の若い妻の上には夢にも予想していなかった旅先での急逝に遭遇したことによっての、根本的啓示の感銘にも直結している」と記している。この「跋」記載のとおり、草田男は最愛の直子夫人を、昭和五十二年十一月二十一日の旅行中にその急逝に遭遇する。その急逝に関連しての草田男の前書きのある句は目にすることができないが、その翌年の昭和五十三年の二月に、掲出の二句目と三句目の「ほととぎす・杜鵑」の句を目にすることができる。この「ほととぎす・杜鵑」は、亡き奥様の投影と解して差し支えなかろう。草田男門下の草田男の良き理解者であった宮脇白夜氏は、「作者(草田男)には時鳥(ほととぎす)の声を唯の風流として聴く気持はない。特に夜啼くほととぎすの裂帛の声は、作者に反省や決意を促す力を持っていたようである」(『草田男俳句三六五日』)としている。そして、この掲出の二句目と三句目との「ほととぎす・杜鵑」を亡き奥様の投影のものとして理解して、この掲出の一句目の「ほととぎす」は、すなわち、「ほととぎすの裂帛の声」を聞いて、「敵は必ず斬るべきもの」の「敵」と草田男が感じ取った相手は、実は、現代俳句協会に関連しての、「金子兜太とその造型俳句」にあったことが、宮脇白夜氏の、この掲出の一句目の鑑賞で明瞭に指摘されているところのものなのである(宮脇・前掲書)。これらの背景については、「潮流の分析と方向をさぐる」(『中村草田男全集第一四巻』所収)の座談会記事の草田男と兜太氏との火花の散るような批判の応酬で垣間見ることができる。また、これらのことは、年譜においては、次のように記されている。「昭和三十五年 五月 現代俳句協会幹事長となる」。「昭和三十六年 現代俳句協会の幹事長の職を辞す。十一月、同志と俳人協会を発足させ、初代会長となる」。一見すると、草田男と兜太氏とは、「社会性俳句・思想性俳句」という点において、目指す方向は同じように思えるけれども、草田男は兜太氏の「造型俳句」を、「造型俳句といわれているものなど、十七音の短形式が、暗示の伝達性を十分に発揮することができなくて、徒に難解となってしまって、このままいけば、俳句大衆との連結が絶たれてしまう」(前掲全集「座談会」記事)として、それが故に、この掲出の一句の、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」と、執拗にそれを排斥する立場を明確化して、その排斥に翻弄するのである。兜太氏の「造型俳句」については、次のアドレスのものなどが参考となる。

http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html


中村草田男(その十二)

○ 蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま(昭和二十年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。「再び独居、僅かの配給の酒に寛ぐ事もあり、燈下へ来れる蟷螂の姿をつくづく眺めて唯独り失笑する事もあり」との前書きがある。草田男の側近中の側近の俳人香西輝雄の鑑賞は次のとやり。「かまきりは上反(そ)りした尻の大きな身長を六脚の上に乗せて、その長身をゆらりゆらりと上下に大刻みに揺りながら歩く。それは馬上に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている馭者の姿に似ている。馬と車に逃げられても、なほ馭者台にあるかのように身ぶりを続けている馭者にそっくりなのだ」(『人と作品 中村草田男』)。山本健吉は、草田男の「生き物」の句について、「草田男の世界は、動物たちが物言う寓話の世界だ。これは草田男の中に棲むアンチ・ニーチェ的な世界であるが、このような世界があるために、行動力の乏しい草田男は掬われている」とも、また、「草田男には特別に青春と名づくべき時期はないのであって、生涯が青春なのだ」、「そこに渦巻いているのは未知なるものへの可能性であると言ってもよい。そのような可能性が希求として作者の胸にはぐくまれる時、それはメルヘンの世界となる。草田男の作品における童心の持続は、一つの奇跡である」とも評している。草田男の俳句の世界は多義多様で、かつ、多力の多作の作家であって、とても、一筋縄でその全体像を掴むことは不可能のことではあるが、その多義多様の草田男の曼荼羅のような世界にあって、この掲出句のような、メルヘン的な寓話の世界のような俳句は、とりわけ魅力的である。


中村草田男(その十三)

○ 種蒔けり者の足あと洽(あまね)しや(昭和二十四年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。この句に接するとミレーの「種蒔く人」が思い出されてくる。この句は戦争直後、廃墟の片隅にささやかな畑が耕されて、その廃墟の中で「種を蒔けり」と、そして、その「者の足あと」が「洽(あまね)しや」と、それらの実景を目の当たりにしたとき、草田男は、戦後の日本の復興を確信したに違いない。香西照雄氏は、「中村草田男輪講」(「万緑」昭和三八・四)において、この「洽(あまね)しや」は「うるおう」ということで、この「足あと」に先駆的・創造者の足跡という「普遍」的なものを感じ取るとして、「いろんな権威や価値が崩壊した戦後には、特に全体のための再創造という土台仕事に黙々と励む人が必要だった。こういう時代背景を考えてみると、『洽』の字で世をむらなくうるおす愛情ゆえの労苦ということまでが暗示されている」との評をしている。確かに、この句はそのような戦後のどさくさの廃墟とその復興ということを背景として生まれたものなのかもしれないが、そういう背景を超越して、例えば、芭蕉の「不易流行」の、何時の時代にも永劫不滅の真理のような「不易」性を兼ね備えている一句と理解できょう。そして、この句のその「不易」性に関連して、草田男がこの句集の扉に書き記している「われわれは祈願する者から出て、祝福する者にならなければならない」(ニーチュ)という、草田男の、戦後日本の廃墟を目の当たりにしての、そして、それは同時に、新しい日本俳壇の再興に向けての、決意表明のようなものが明確に伝わってくる。この第四句集『来し方行方』 には、草田男の傑作句を数多く目にすることができる。


中村草田男(その十四)

○ 空は太初の青さ妻より林檎うく(昭和二十一年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。「居所を失ふところとなり、勤先きの学校の寮の一室に家族と共に生活す」との前書きがある。この句には、この前書きを全く必要としない。「太初」は「天地のひらけはじめ」、それは、旧約聖書の天地創造をも連想させる。そして、空の「青」と林檎の「赤」との原色的な色のハーモニーが、人間賛歌・生命賛歌を奏でている。そして、その真っ赤な林檎は、「妻より(林檎)うく」と、これまた、アダムとイブとの旧約聖書の「創世記」のイメージそのものである。草田男がクリスチャンの直子夫人と家庭を持ったのは、昭和十一年、三十五歳のときであった。この年、草田男は、痛烈な日野草城の「ミヤコホテル」批判をする。それは、草田男と草城との女性観の相違によるものであった。草田男の女性観が、
この掲出句に見られる旧約聖書的なものに比して、草城のそれは、草田男の言葉ですると興味本位の「憫笑にも価しない代物に過ぎない」と正反対に位置するものというのが、その理由にあげられるであろう。その最愛の直子夫人を昭和五十二年に同行の旅行中に失うことになる。そして、その六年後の昭和五十八年に享年八十二歳で草田男は永眠する。この逝去の前夜に洗礼を受け、最愛の直子夫人と同じようにクリスチャンとして昇天する。草田男のこの直子夫人とご家族の方々に捧げた句は、草田男の人生観を語るとともに、草田男の愛妻・家族俳句としてこれまた魅力に溢れている。

追伸  草田男にとって、真に兄事した俳人というのは、川端茅舎であろう。「茅舎と草田男」とについて、森谷香取さんの次のアドレスのものなどに詳しい。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_3.html



中村草田男(その十五)

○ 我在る限り故友が咲かす彼岸花(昭和四十年)
○ 勿忘草ねマイネ・シューネ・クライネね(昭和四十二年)
○ 蝮の如く永生きしたし風陣々(昭和四十四年)
○ 未生以前の太郎次郎に夜半の雪(昭和五十年)
○ 神域涼し遠くに人来人去りて(昭和五十八年)


 掲出の一句目には、「『彼岸花――花よりも美しい黴』と、その一文中に誌したる故伊丹万作の命日は、ゆくりなくも秋彼岸の九月十九日なり。一句」との前書きがある。大正五年、草田男年譜(十五歳)に「同人誌『楽天』に加入。先輩に伊藤大輔、伊丹万作がいた」とある。草田男には『子規、虚子、松山』という著があり、その中に「伊丹万作の思い出」が記されている。この松山中学校、そして、草田男自身語っているように、「子規以来、松山人を中心とし、明治期の新俳句は発祥したし、松山人を中心として受継がれてきた」との自負は、草田男俳句の根幹をなしている。

 掲出の二句目には、「次の一作を戯れ作りて、わが孫女に捧ぐ。童謡ならば、さしづめ野口雨情調といふべきものならむかと、ただ独り可笑し。一句」との前書きがある。これは先に触れた草田男の身辺些事の愛妻・家族俳句の範疇に入るものであろう。

 掲出の三句目の前書きは長文である。「文部省関係の官公立学校職員の文芸修業誌『文芸広場』二百号に達せるを以て、委員等記念の寄せ書きをなせるその最後尾、即興的に次の一句を誌す。石川桂郎氏二十四年以前戯れに、当時の吾が新妻に対ひて、『貴女の御亭主は蝮の性(さが)と宣りたる一言耳底に遺れるがゆゑなり」。この「蝮の性(さが)」とは、これまた草田男の一面を的確に物語っているものであろう。

 掲出四句目の前書きも長文である。「三好達治氏の一作――『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。』こは世に名作と噂せらるるものなり。我いま敢て唱和して次なる一作を得たり。されど、こは寧ろ『東海道五十三次』の『蒲原』なる『夜の雪』、その一景と相通ふものひたすらなることを自覚す」。この上五の「未生以前の」という生硬な意味深長な措辞はいかにも草田男のものという印象を受ける。そして、この前書きにあるとおり、草田男の絵画に関する造詣は、即、草田男俳句の「デッサン・絵画的手法」の確かさということと相通じているように思える。これもまた、草田男俳句の魅力の一つであろう。なお、広重の「蒲原」・「夜の雪」の景は次のアドレスで見ることができる。

http://www.ukiyoe.or.jp/ukisho/uks-pics/uk-kb-b.html

 中村草田男が永眠したのは、昭和五十八年八月五日のことであった。掲出五句目は、草田男の主宰誌「万緑」の八月号に掲載された三句のうちの一句である。この句の「神域涼し/遠くに・人来/人去りて」には、六年前に急逝したクリスチャンの直子夫人の影、そして、また、松山中学校以来の多くの亡き人の影がちらついている。この後、「万緑」の九月号にも、草田男の句が三句ほど掲載されているが、この掲出の五句目のものなども、草田男の絶唱と理解して差し支えなかろう。


 中村草田男は、「純粋俳壇」(俳壇での出世を望まず、作品の向上のみを念願する人の集まり)を目指して、第八句集『時機』(昭和三十七年までの作品と昭和四十七年作の「メランコリア」三十七句)を最後として、昭和三十八年から逝去する昭和五十八年までの晩年の二十年間の作品は、主宰誌「万緑」のみに公表し、いわゆる、「現代俳句協会」・「俳人協会」などの「日本俳壇」
から完全に身を退いたまま、世を去ることとなる。そして、この未発表ともいうべき、昭和三十八年から昭和五十八年までの草田男の約五千句は、『中村草田男全集(第五巻)』(みすず書房)に収載され、それらは、「万緑」などの一部の関係俳人以外は、殆ど未踏査のまま、その踏査を待っているのである。そして、あまつさえ、坪内稔典氏の「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう」とまでの評もしばしば目にするのである。しかし、それらは、一つのレッテル貼りの評のように思われ、その評を下す前に、この晩年の草田男の約五千句に近い作品群を精査することが、今何よりも草田男自身待っているように思えるのである。なお、坪内稔典氏の草田男評のアドレスは先にも触れたが、最後に、そのアドレスも記しておきたい。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html

平井照敏の俳句


加藤楸邨と平井照敏

平井照敏の俳句(その一)

俳句評論家として、俳誌「槇」主宰者として今後の俳壇をリードする一人として嘱目されていた、平井照敏氏が、この平成十五年九月十三日に逝去していたという。この照敏氏については、ネットの世界での情報というのは極めて少ない。氏の句集は、『猫町』(昭和四九年一二月刊)、『天上大風』(昭和五四年二月刊)、『枯野』(昭和五七年一〇月刊)そして『牡丹焚火』(昭和六〇年八月刊)の四冊が公にされている(この四冊の句集の他に『多摩』『春空』『石涛』『夏の雨』の句集がある)。そして、この『猫町』から『枯野』の所収の句については、別に、自註現代俳句シリーズ(俳人協会刊)の一つとして『平井照敏集』が、氏の手によって自選と自解という形でなされている。ここは、そのままの形で、それらの自選と自解との幾つかを見ていきたい。

一  鰯雲子は消ゴムで母を消す(昭和四二)
自解  句集『猫町』の一番古い句。仲人の家へ年始に出かける前、子供が妻と喧嘩して「ママなんか消ゴムで消しちゃえ」と言った。鰯雲を上五に置いた。

二  誕生日午前十時の桐の花(昭和四二)
自解  実景を見て作ったわけではない。詩から入った私の句は多く几案に成る。誕生日の午前十時の爽やかさと「桐の花」の語感の快さを思いあわせた。

三  紅蟹やぜんまい満ちて駈けだしぬ(昭和四二)
自解  当時俳句がおもしろくてならず、日に百句ほども乱作していた。蟹をぜんまい仕掛けのおもちゃと見たらと発想したことがこの句の出発点になった。

四  木の股に妻の目があり庭落葉(昭和四二)
自解  友人の彫刻家、掛井五郎は、あまり俳句に関心を示さないが、この句だけはほめてくれた。木の股の目にダリかキリコのような造型を見るらしい。

五  子らのみな梨を持ちゐる大井町(昭和四二)
自解  大井町は田園都市線の発駅。「寒雷」東京句会の会場のある町。私の仲人や楸邨先生の住む町も近かった。電車に乗って川を越えると梨畑がある。

六  かまつかや地獄草紙の鶏あゆむ(昭和四三)
自解  「寒雷」二度目の巻頭句。一度目は「木の股に」「子らのみな」で取った。『地獄草紙』の焔を吐く鶏のイメージはすごい。かまつかの焔の濃淡。

七  生き作り鯉の目にらむまだにらむ(昭和四三)
自解  写生句に見えようが想像の句。忘れられないと言ってくださる人にまだ出会うが、「生き作り」と書き出したらひとりでにまとまってしまった句。

八  今日がある激しく蟻が角ふる時(昭和四三)
自解  谷川俊太郎の『六十二のソネット』から「今日がある」をもらい、蟻の活発な活動をそれにあわせた。夏休みに私はよく蟻を見る。活気が伝わる。

九  父の手のひとつ突きでて寒の棺(昭和四四)
自解  前年十二月三日の父の死は交通事故によるもので私の人生観が変る程の打撃だった。よい追悼句が作りたかった。死を直視するほかなかった。

一〇 蝌蚪死んで腹中の足死ににけり(昭和四四)
自解  理屈っぽい作り方だが、これも父の死の影響であろうか。足の出る前の蝌蚪には、すでに足となる細胞の働きがはじまっていよう。その可能性の死。

平井照敏の俳句(その二)

 平井照敏氏には、講演の口述のもなどをまとめられた評論集『蛇笏と楸邨』という著書がある。その中に、「鎮魂の俳句」というものがあり、この自選・自解の「九・一〇・一一・
一三・一四・一五」などの父の事故死関連などの句が幾つか紹介されている。そのうちの一つに、次のようなものがある。
○ 雪満天逝きたる父は微塵にて(「鎮魂の俳句」)
「父を火葬にしましたよね。そのあとから、空を見上げますとね、微塵の父が見えてくるのです。あの『智恵子抄』の中でも、智恵子が死んだあと光太郎が空に智恵子を感じていますよね。先日、光太郎が疎開をしていました花巻の奥の高村山荘へ行きましたけど、光太郎は裏山に登っては、自分のまわりは智恵子の微粒子でいっぱいだってうたっています。あれとおんなじことを感じちゃうんです。ですから、空を見上げると、父がいっぱい微塵になって、浮いているという感じを持ったんです。」

一一 月光の針のむしろの貝割菜(昭和四四)
自解  川端茅舎の貝割菜の句が頭にあって、それにさからう形でまとめている。月光を極楽的にではなく地獄的にとらえてみた。父の死をいつも思った。

一二 ひとりぼつちのふたりぼつちや桜桃(さくらんぼ)(昭和四四)
自解  ひとりぼつち、ふたりぼつちということばを重ねて、そのリズムをたのしんでみた。さくらんぼの形とたのしい語感を十分に利用している。青春。

一三 雲に帰れば流るるばかり渡り鳥(昭和四四)
自解  渡り鳥は私の好きな季題で、ひとりでに情感がうごく。その上、死者の魂が渡ってゆくという気持にもさそわれる。茫々無限という思いを描いた。

一四 検屍室凍てつき父の睾丸見ゆ(昭和四四)
自解  どぎつい句だが、父の死をのりこえるには、その事実にひたと向いあうことが必要だった。一年後にやっとそうすることができるようになった。

一五 入棺の父のかかとや胼(ひび)われをり(昭和四四)
自解  事故死のために、入棺は葬儀屋がやった。私は見なかったが、父の足が生前どんなふうだったかが思い出されて、こう作った。やはり一年後の作。

平井照敏の俳句(その三)

「父が死ぬまでは、私は生きてるものの側からすべてりものを見ていた。しかし父が死んでからは、死の側からすべてのものを見るようになった。そのことを、宗(註・宗左近)さんは『マイナス符号への踏み込み』って言っているんです。平井さんは死を恐れないで、死の側から、マイナスの側からものを見るようになった」(『蛇笏と楸邨』所収「鎮魂の俳句」)。

一六 死んだ児は風光る遠い雲のはし(昭和四五)
自解  姪が死んだ。心臓に孔があいていて、手術しなければ二十歳で死ぬと言われていた。親が決断して東大で手術したが、痰がつまって死んだのである。

一七 桜散る骨(こつ)となりては誰も泣かず(昭和四五)
自解  姪の火葬がおこなわれた。煙突の煙。満開の桜が忘られない。小さな骨灰をみなで壺に入れた。みな異様な顔をしていた。泣く者がなかった。

一八 ありまきのあおき脂(あぶら)や父は亡し(昭和四五)
自解  六月に「寒雷」同人に推された。その時の特別作品の一句。父は植物が好きだった。菊作りまでやった。そんな父のある時を描いた。死こそ主題。

一九 青芒より現れぬ猫の顔(昭和四五)
自解 秋から在外研究員として一年パリに行くことになった。楸邨先生が送別の旅に誘ってくださった。羽前赤倉に行った。帰路の句会での楸邨選の句。

二〇 皮剥ぎし兎の頭目ばかり(昭和四五)
自解  パリ・モンマルトルての一人暮らしがはじまった。句作は勝手がちがった。日本語と異質の世界だった。ものをしっかり見るほかに方法がなかった。

二一 気違ひ茄子の夕闇白し廃僧院(昭和四六)
自解  前年イタリアをめぐったとき、どこかで見た花である。この花はダチュラとも言う。作例が少ないためか、山本健吉氏の歳時記に例句として採られた。

二二 秋の夜の足音もみなフランス語(昭和四六)
自解  パリでの生活がはじまった頃のフランス語ノイローゼを思い出して作ったもの。読者は全部これを美しい句と読むようだ。それも仕方あるまい。

二三 落ち柿のつぶれし沈黙の部分(昭和四六)
自解  私が詩から俳句に関心をひろげたのは、詩におけることばと沈黙の関係を考えてみたかったからだった。沈黙の語るところに真実がひそんでいる。

二四 雪満天逝きたる父微塵にて(昭和四七)
自解  焼津で「寒雷」の鍛錬会があった。そこへ行く車中の小句会で作った。死んだ人は微塵となって空にひろがっている。雪と共に降ってくるのた。

二五 窓ひらくことばの中の花杏(昭和四七)
自解  モーランの小説「窓ひらく」というのがあったが、さわやかさを象徴する。そこから「杏が咲いた」と聞えるのだ。季節の会話の季感の会話の新鮮さ。

平井照敏の俳句(その四)

「森澄雄さんは『虚にゐて実を行ふべし』という芭蕉の言葉をですね、あの虚というのは自分の考え方、感じ方なんですよね。そしてそれが大きな宇宙観になる。大きな宇宙観をもって、その中で目の前の小さなこと、自分の人生にかかわりのある小さなことですね、それをうたってゆく。俳句というのは結局人生をうたうものだということですね」(『蛇笏と楸邨』所収「鎮魂の俳句」)。

二六 花石榴夜々落ち顔の中に落つ(昭和四七)
自解  庭の石榴の花が、実を結んでくれと願うのに、朝起きて見ると、たくさん夜の間に落ちている。夜見ていると、目の前で落ちる。頭の中に落ちる。

二七 秋霧に濡れて目のなき防波堤(昭和四七)
自解  出雲崎で「寒雷」の鍛錬会があり、海沿いの宿での句会で作った。楸邨選に洩れたが、あとで、採りそこねたが良い句だったと言っていただいた。

二八 金木犀の香の中の一昇天者(昭和四七)
自解  近くの神社の金木犀が満開だった。シャガールの絵のように、その香の中を昇天する人を想像したが、友人の夫人が同じ頃金木犀を抱いて昇天した。

二九 月明の石段ばかりのぼりきし(昭和四七)
自解  山王書房の関口銀杏子とよく歩いた。大森、池上、鎌倉など。そのある時の散歩での作。石段をのぼることがなにか永遠に人生の比喩と思われた。

三〇 黄落を他界にとどく影法師(昭和四七)
自解  松本雨生と会津若松に旅した時の作。黄落の中に立つもの影や人影が、長くのびて、死の国に触れているように感じた。影の国が死の国に接する。

三一 雪国の夜来る前の夜の暗さ(昭和四七)
自解  会津若松は雪が降ったあとだった。宿に入る前にもううす暗くなった。雪国のきびしさを知らせるような暗さだった。「雪国」の本意がわかった。

三二 雲雀落ち天に金粉残りけり(昭和四八)
自解  多摩川の土手を二子玉川まで歩いた時の作。塚本邦雄がこの句をほめるが、塚本宇宙にぴったりの感じの句である。この頃の句には金が似合う。

三三 前の世に見し朧夜の朧の背(昭和四八)
自解  前世を信じているわけではないが、朧夜に見た人の背をどこかで見たと思っているのだ。前世で見たのかもしれなかった。朧夜の雰囲気である。

三四 夏河原生死(しようじ)の時間なかりけり(昭和四八)
自解  夏に旅をして、車中から見たある風景のあっけらかんとした感じが忘れられなかった。そこには生も死もなかった。ただ夏の河原だけが光っていた。

三五 リヤ王の蟇(ひき)のどんでん返(がえ)しかな(昭和四八)
自解  この頃から、作句に気力が充実するのをおぼえた。「リヤ王」と「蟇」が結び合った後半はひとりでに満ちた。説明しようがない句だが魅力がある。

平井照敏の俳句(その五)

「でもやっぱり物をしっかり見て作りたいといつも思いますけれども、ちょうど絵かきさんが絵がうまくいかなくなったとき、初めからデッサンをかき直して出なおすみたいに、句がうまくいかなくなったときは物をしっかり見て出なおそうとするのです。だけれども物だけを見ていると、さっきみたいに物に引きずられちゃうから、物を超えて物の向こう側というか、命みたいなもの、自分の心に響いてくるものをつかまないとだめですね」(『蛇笏と楸邨』所収「師楸邨の思い出」)。

三六 吹き過ぎぬ割りし卵の青嵐(昭和四八)
自解  卵のぷりぷりした黄味、白味の上を青嵐が過ぎるのだ。微妙な光の効果がある。楸邨先生がこの句をめ、句集を作れとすすめられた。記念の句。

三七 石榴咲き天に高熱かがよへり(昭和四八)
自解  日野草城の「高熱の鶴青空に漂へり」が頭にあったことはたしかだが、この句では花石榴のために天が高熱を出しているのだ。万物交感の世界だ。

三八 海の底より子どもの声す無月なり(昭和四八)
自解  茅ヶ崎の海がよく目にうかぶ。仲人の家からよく散歩に行った。海底に遊ぶ子供たちとは異様な想像だが、私には真実感があった。死んだ子の声か。

三九 鶏の首ころがり秋の薄目なり(昭和四八)
自解  楸邨先生が「寒雷」の句会で、こうした「秋の」の使い方はいけないが、この句の場合はゆるせると言ってほめてくださった。想像の句である。

四〇 軟体や蛸である身の苦労なり(昭和四八)
自解  昭和四十六年から四十九年まで、「寒雷」の編集長をつとめた。それを諷したわけでもないが、水槽の蛸の姿態から、軟体であることの苦労を見た。

四一 鬱勃たる夾竹桃の夜明けかな(昭和四八)
自解  ある朝早く目が覚めた。窓から外をのぞくと、繁茂した夾竹桃の木叢に、激しい生気が感じられておどろいた。自分にもそのような生気があった。

四二 雪の玉ひとりころびぬ朝の崖(昭和四九)
自解  岡井省二ら関西の数人と余呉の湖に出かけた。一泊して翌朝駅へ向けて湖畔を歩いた。雪上のさまざまな足跡。崖の上から雪の塊がころげてきた。

四四 雪濡れの近江訛の隅にをり(昭和四九)
自解  琵琶湖に沿って汽車が走っていた。満席ほどの混みようで、人々が大声で話し合っていた。黒ずんだ近江。この話し方が近江訛なのだろうと思った。

四五 雪解けのかたまりとなり伊吹山(昭和四九)
自解 祖父や父は灸をすえた。そのもぐさが伊吹山産。日本武尊も伊吹山のたたりで病気になった。伊吹山を見るたびに、心につよく響くものがある。

平井照敏の俳句(その六)

「俳句の方法といいますと、旗印みたいなものがありまして、例えば上田五千石氏だと『眼前直覚』ですね。石原八束氏だと『内観造型』。加藤楸邨といったら『真実感合』なんですね。楸邨は『真実感合』を自分の旗印に掲げているのですが、『真実』というのは、例えばここに花があります。この花を通して向こうに見えない花の本質を掴む・・・それが『真実』なんですね」(『蛇笏と楸邨』所収「加藤楸邨のこと」)。

四六 木枯しや妻といふ神ありにけり(昭和四九)
自解  「古書通信」に「五万円の詩集」という文章を書いた。ボンヌフォワの五万円の詩集を、妻の協力で入手する話だが、その文末に置いた一句。

四七 橋すぎて椿ばかりの照りの中(昭和四九)
自解 「橋すぎて」には、ダンテの『神曲』の口調を思い出してきた。岡井省二と佐渡に旅した時の句。佐渡の北端まで歩いてバスで両津に戻った。

四八 桜草寿貞はそつと死ににけり(昭和四九)
自解  芭蕉の内妻、昔の恋人と言われることのある寿貞尼はどんなひとだったのだろう。芭蕉の旅の間に死んでいる。「桜草」から連想させられた。

四九 山路きて菫があそびゐたりけり(昭和四九)
自解  有名な芭蕉の句をもじってみた。菫といえば、やはり少女を思いうかべる。菫を見て、おどる少女やおままごとの少女を思いえがく。そんな幻想。

五〇 盲人の目にとまりける青葉闇(昭和四九)
自解  私の発想はときどきフランスの詩の影響がまじる。この句にはボードレールがあるような気がする。私たちの目とはちがうもっと深く見る目。

五一 われの見し蛍袋はなかりけり(昭和四九)
自解  夏、「寒雷」編集長をやめ、九月、主宰誌「槇」を創刊した。その創刊号に発表した句。たしかに見たと思った蛍袋がないのだ。猫町的発想の句。

五二 夏の朝空より象が降りてくる(昭和四九)
自解  いろいろ奔放に作ってみたかった。空から飛行船のように象がおりてくる。象のクレーンで船からおろされるところではない。夏の朝の期待表現。

五三 ガーベラの太陽王ルイ十四世(昭和四九)
自解  ガーベラの花の真中に顔を描いてみた。その顔が花びらの光を放っている。太陽王とよばれたルイ十四世と見た。それだけのことだがおもしろい。

五四 海に出て黒蝶戻る風のなし(昭和四九)
自解  山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」のもじりである。木枯を黒蝶と生き物のイメージにしたところに生ずる変化に一句の生命をかけた。

五五 港区につゆくさ咲けりひとつ咲けり(昭和四九)
自解  田町を過ぎる電車の中で作った。こんなところにと思うようなところに咲いていた。東京の港区を知らない人にも、あるイメージが与えられよう。

平井照敏の俳句(その七)

「秋桜子先生の目は非常に明晰で鋭いから、それは『昼の目』である。だけど自分(註・楸邨)には『昼の目』でおっつかないものがある。それは解き明かしきれない、もっとなにか複雑に蠢いている根深いものが腹の奥にいつも潜んでいる。それに関心を持つ自分の目は、実は『夜の目』なんだ」(『蛇笏と楸邨』所収「加藤楸邨のこと」)。

五六 穀象を虚空蔵とききゐたりけり(昭和四九)
自解  私にときどきやってくることば遊びの句。ただ、根ね葉もないことをしているつもりはない。宇宙の一切を含む虚空蔵ということばがおもしろい。

五七 鬼灯が祖母の咽喉(のんど)か鳴りにけり(昭和四九)
自解  年老いた祖母なのに、鬼灯というと、一度はそれを鳴らさないではいなかった。子供ごころにもそれが異様だったのだろう。記憶にやきついている。

五八 中年の顔つぶれたる苺かな(昭和四九)
自解  幾重にもかさねた表現。顔をつぶす。顔がだめになる。苺をつぶす。老眼がはじまったりした四十三歳の男のさびしい自嘲の句。苺を強くつぶす。

五九 大川をあおあおと猫ながれけり(昭和四九)
自解  私の家では子猫が捨てられないので猫がふえて二十匹にもなった。だからまったく想像の句。大川を時空の流れと考えてもよい。猫の顔が見える。

六〇 たまゆらをつつむ風呂敷藤袴(昭和四九)
自解  藤袴という花の名前からひとりでにうまれた。花の中には何がひそむか。それを「たまゆら」としたのである。露のようなはかないうつくしい時。

六一 鰯雲叫ぶがごとく薄れけり(昭和四九)
自解  仲人の木原孝一(詩人)が書評にこの句をとりあげてほめてくれたのが忘れられない。「叫ぶがごとく」の高揚が気に入ってもらえたようだ。

六二 秋の陽を突かれてやまぬ毬ひとつ(昭和四九)
自解  第一句集『猫町』での一番あたらしい句にあたる。句集のたどる運命を幾分思っていたのかもしれない。どうぞ御自由に悪評でも何でもという気持で。

六三 北風にしづかな崖の垂れゐたり(昭和四九)
自解  第二句集『天上大風』の巻頭に置いた句。しずかにしかも鬱然と沈黙していたいという気持があった。詩人の飯島耕一がほめてくれた。好きな句。

六四 風花や掌に打つごとき棺の釘(昭和四九)
自解  棺の最初の釘は石でみんなが打つ。あの音はたまらない感じだ。その苦しみを、キリストが打たれた手足の釘のようだと表現してみた。痛い音だ。

六五 足袋ぬぐに聖痕を見るごときかな(昭和五〇)
自解  足袋や靴下を脱ぐとき、ちらっと、どんな足が出てくるかと思う。キリストの聖痕をこの句では想像してみた。詩人の吉野弘がよい批評を書いた。

平井照敏の俳句(その八)

「金子兜太たちが社会を俳句で詠うようになったその後は何か。それが問題なんですけど、
それは『言葉』じゃないかと私(註・平井照敏)は思っているんですね。言葉の時代にいま差し掛かっているんじゃないか、と私はひそかに考えておりますけれども」(『蛇笏と楸邨』所収「加藤楸邨のこと」)。

六六 一塊の思想を構へゴリラなり(昭和五〇)
自解  上野動物園は句作につまった時出かけるところ。中でもゴリラがおもしろい。あの姿を見ると、思想を持ち、信条を持った、快男児という感じだ。

六七 光晴の死の擬宝珠咲くばかりかな(昭和五〇)
自解  光晴は詩人金子光晴。詩を書きはじめた頃愛読した。私の先生のような人。その訃報を聞いて庭に出ると、擬宝珠の花が咲いていた。うすい色の花。

六八 行き暮れて雪の鴉となりたるか(昭和五〇)
自解  「週間読書人」の新年詠草に求められて作った。裏磐梯の雪を思いうかべて作ったが、記者に「ゆき・・・ゆき」の頭韻を指摘されてびっくりした。

六九 新年の謎のかたちに自在鉤(昭和五一)
自解  裏磐梯に民芸館がある。そこで見た自在鉤である。自在鉤は疑問符をひっくりかえした形をしているわけで、永遠に問いかけをやめないのだ。居間で。

七〇 寒暁やおらおらでしとりえぐも(昭和五一)
自解  中・下の句の東北弁はもちろん宮沢賢治の詩の一節で、賢治の妹のことば。「私は私で一人ゆきます」の意。私自身のことばとしてつぶやいた。

七一 陽炎のふたつ燃え合ふ橋の上(昭和五一)
自解  橋の上にも陽炎がもえて、二人の人影も陽炎の中にある。恋人同士か。寄りつきつつ離れている。まるで『嵐が丘』のように。そんな小説的想像。

七二 花どきの微熱かがよふごときかな(昭和五一)
自解  大学生の頃、花どきになると微熱が出た。結核になりかかっていたらしい。その感じを身体がおぼえている。恍惚と不安と二つわれにあり的に。

七三 牡丹咲き木のぞつくりと痩せにけり(昭和五一)
自解  鷲谷七菜子さんから、こんなとらえ方があるのですねと言っていただいた句。自分ではとりわけ気にかけていなかった。花は気付かないことなのか。

七四 枇杷の子のぽぽぽとともるほの曇り(昭和五一)
自解  目がわるいので、電車に乗ると句作にはげむことにしている。窓外を眺めて、枇杷の実が見える頃は楽しい。山本健吉氏にほめられた句である。

七五 唖蝉の寂々と啼きゐたりけり(昭和五一)
自解  唖蝉は啼く啼かない蝉のことだ。しかし木の幹にとまっているだけで、存在の持つ全身の表情が何かを訴えてくる。聞こえぬ声で啼いているのだといえる。

平井照敏の俳句(その九)

「私は自分の歳時記(河出文庫版『新歳時記』)に本意の項目をつけたのである。本意とは季語の歴史的な意味なのである。歴史的なこころなのである。ことばの歴史は潮のうねりのようなもの。急がずあせらない。それに比べれば、一つ一つの季語の適否の問題などは、ずっと小さな、浜辺にさざめくさざ波のようなものなのである」(『蛇笏と楸邨』所収「歳時記問題始末」)。

七六 清明の月の遊びは何もせず(昭和五一)
自解  清明とは美しいことばだ。二十四気の一つで、春分後十五日目、四月はじめの頃だが、清く明らかな語感がある。心の中だけの遊び。月の遊び。

七七 病蛍苦しくなれば寝てゐます(昭和五一)
自解  蛇笏の「たましひのたとへば秋の蛍かな」以来、秋の蛍、病蛍は私のこころをいざなう。この句では「病み」というところを利用した。

七八 秋深し何処(いずこ)に連れてゆかれるか(昭和五一)
自解  秋が深むと陰翳が深まり、つめたさも加わってなにか心細い感じになる。秋風が人を何処かへはこぶ運命の流れのようにきこえることもある。

七九 誕生より死ぬまでさむく海鳴つて(昭和五一)
自解  大洗海岸での句会の時に出した句。海の音が絶えずきこえている海岸の人の暮しをまざまざと感じていた。人々の生活を貧しく寒く眺めていた。

八〇 白鳥のゐてたそがれの深くあり(昭和五一)
自解 心象が凝ってこんな句になった。おそらくテレビか何かでできた心象だったろう。たそがれの中の白鳥という沈静した形でまとめてみた。

八二 三猿の丸目にうかぶ冬の光(昭和五一)
自解  鎌倉付近には三猿を刻んだ石塔が多い。この三猿は極楽寺あたりで見たもの。三猿の目は丸いくぼみだった。その目にある冬の光とかげの印象だ。

八四 尼一人見えぬ尼寺なれば冷ゆ(昭和五一)
自解  虚子の墓のある寿福寺の隣りに、鎌倉唯一の尼寺という英勝寺がある。その境内に入ってみた。ひとけのない寺で、冷え冷えとした雰囲気であった。

八五 引鶴の天地を引きてゆきにけり(昭和五二)
自解  テレビなどで鶴を見ただけであるが、鶴が引くときの情景は天地が動くようだと感じた。『天上大風』で一番評価の高かった句である。代表作。

平井照敏の俳句(その十)

「俳句では、三句切れはいけないとされているから、二句一章(五/七・五、 五・七/五)か一句一章(五・七・五)の二種類の形となる。二句一章では多く短い方の一句に季語が入る。川本浩嗣説に従う提示部でなく、支持部の方に季語が入る。一句一章では季語が主題になって述べられることが多い。そうした構造の中で、季語は主題と合一するか、主題と向き合って立つかの二通りとなるのである。いずれにしても、季語は主題の合せ鏡なのであり、時に主題と重なり合い、主題そのものとなるのである」(『蛇笏と楸邨』所収「季語と精神分析」)。

八六 一遍の秋空に遭ふ日暮れかな(昭和五二)
自解  遊行寺を吟行した帰り、藤沢の駅で、美しい夕空を見た。もう秋の空だった。尊敬する一遍上人の空と思った。飯田龍太に「雲母」でほめられた句。

八七 道連れをかき消すごとし秋の暮(昭和五二)
自解  芭蕉、蕪村、漱石と流れる行人の系譜が頭にあった。仲間と歩いていてもふっと自分一人を感ずることがある。そんな感じを表現してみたのである。

八八 ふと咲けば山茶花の散りはじめかな(昭和五二)
自解  朝日新聞の「折々のうた」にとりあげられた句。庭に山茶花がたくさんあるが、ふっと咲きはじめるもう散りはじめて咲きつづける花である。

八九 無始無終北上川に笹子鳴く(昭和五三)
自解  平泉で「槇」の鍛錬会を行った。『おくのほそ道』を読んで解説した。北上川はゆったりと流れていた。無始無終ということを実感した。

九〇 杉風の耳聾(しい)おもふ春の寺(昭和五三)
自解  平泉は芭蕉の『ほそ道』の旅の、一番の目的地だった。なぜ中尊寺で杉風を思い出したかわからないが、杉風がしのばれた。芭蕉と同じか。

九一 朝ごとに落ちたる柿の花拾ふ(昭和五三)
自解  この句が『天上大風』で一番よいと飴山実が評した。私もさらりと出来て好感を抱いた。さらっとした句。すこしかなしく。

九二 鵜は出でぬ水の暗(やみ)より火の暗(やみ)へ(昭和五三)
自解  鵜飼は見たことがない。写真などで印象づけられていたものを席題でまとめた。「水の暗より火の暗へ」はうますぎるか。高野公彦の目にとまった。

九三 額の花ひらくことばはみなかなしく(昭和五三)
自解  額の花が私は好きだ。宝石のように美しいが、どこかかなしい花だ。文章・講義・講演、私のことばを使う仕事のかなしさを思いあわせた。人生。

九四 蜩の鳴き安閑としてをれぬ(昭和五三)
自解  蜩は日暮らし。道元は生死事大と言ったが、五十歳に近くなると、なんとなく人生の果てが見えてくるような感じだ。日暮れて道ますます遠しだ。

九五 秋暑しひと日いく言(こと)語りしか(昭和五三)
自解  大学の夏休みは九月半ばまで続く。家にいてきまった生活をしていると、ほとんど口を利かずに一日がおわる。ことばの仕事をしているというのに。

平井照敏の俳句(その十一)

「俳句を律する二要素を詩と俳(新と旧)の因子をとり出し、その二因子の相克によって、近代の俳句史が展開してきたとするものであった。のちに知ったことだが、復本一郎氏も近世俳諧に関して、反和歌と親和歌の二因子による展開を見ておられ、私の視点がただちに近世にもつながることがわかったが、それはさておき、私の法則を近代俳句史に適用すると次のようになる。近代俳句をひらいた子規は新を求め、俳句を文学にしようとしたが、俳句分類を続け、俳を理解するバランスのとれた革新者であった。子規の没後、子規の新追求の面のみを求めて急進し、新傾向のリーダーになるが、若者の意見にふりまわされて自爆するのが碧梧桐であった。これではならずと、俳句を本来の俳の方向にひきもどしたのが虚子で、その指導力によって、俳壇を『ホトトギス』一色に染めるにいたるが、それが停滞保守化すると、俳句に芸術性を求めて『ホトトギス』を離脱するのが秋桜子であった」(『蛇笏と楸邨』所収「現代俳句の行方」)。

九六 秋山の退(すさ)りつづけてゐたりけり(昭和五三)
自解  第三句集『枯野』巻頭の句。那須で鍛錬会をした時の句。秋は風景がひきしまる。山が退るとあらわしてみた。思い切って単純化した。

九七 僧形にかたち似てくる木の葉髪(昭和五三)
自解  頭は年をとると、はげるか白髪になる。私はかなしいかな前者の方だ。じたばたしてもしようがない。どうせ坊さんみたいな生活だと居直ったのである。

九八 さきがけて黄葉(もみじ)してゆく一樹かな(昭和五三)
自解  「槇」のような小俳誌でも、主宰をしていると苦労が多い。一本だけ先に黄葉をはじめた木を見てそのことを思った。木の葉髪もはげしいようだ。

九九 涛(なみ)の追ふ冬の鷗の涛を追ふ(昭和五四)
自解  大洗海岸で一時間も立って句を案じた。次々にめくれたは、走り寄り、砕ける涛。鷗がその涛を追うように飛ぶ。くりかえし。主客転換。大海。

一〇〇 雪の夜の天地合掌はてしなし(昭和五四)
自解  会津の雪である。雪の降る夜はしんしんと冷えて清浄無垢の感じであった。天が地に降りきて、掌をかさねたようにかさなったという思いであった。

一〇一 梟の性(さが)持ちはじむ老い芒(すすき)(昭和五四)
自解  芒を使ってみみずくにしたりするから、別にとらえ方に無理はしていないわけである。芒も枯れて張りをなくしてしまうと、魔性をもちはじめる。 
    
一〇二 さんさんと田宮二郎の雪降れり(昭和五四)
自解  映画俳優の田宮二郎が自殺した。私はかれの出る映画をよく見たし、その人柄が好きだった。ショックだった。その日は東京は雪だった。哀悼。

一〇三 疑ひは人間にあり雪の闇(昭和五四)
自解  謡曲にあるこの上・中の句のことばは時折よみがえってくる。神には疑いはない。神は明らかに真実を見とおしているから。人の夜に降る雪よ。

一〇四 絶望の煙突に雪ふりこむよ(昭和五四)
自解  会津若松の駅に着く少し前、吹雪の中を必死に煙を出していた一本の煙突が忘れがたかった。非常に人間的な煙突だったのだ。絶望と戦っていた。

一〇五 人間の闇にも雪のとびかひぬ(昭和五四)
自解  「あの下方にうごめいているものは何か」「人間の闇だ」というボンヌフォワの詩集で見た対話が忘れられない。暗愚。懐疑。暗鬼。不満。俗習。

平井照敏の俳句(その十二)
 
「昭和十年以降、人間探求派というグループがうまれる。これは『ホトトギス』の一人で、詩人資質の草田男、秋桜子の弟子でありながら、俳を求めた波郷、二人の中間にいて、何よりも俳と詩の総合者であった楸邨の三人をいい、単なる自然詠でなく、人間のあり方を追求する傾向で一致する人びとであった。人間探求派と同時期に詩を追求した新興俳句があった。秋桜子の『ホトトギス』離脱は、若者の共感をよび、若者たちは新興俳句運動を形成し、詩を求めて過熱してゆくが、その中から西東三鬼、富沢赤黄男、渡辺白泉、高屋窓秋らが才質を示しはじめる」(『蛇笏と楸邨』所収「現代俳句の行方」)。

一〇六 白木蓮(はくれん)にアッシジの空ひろがりぬ(昭和五四)
自解  開花して二、三日の白木蓮の見事な白。アッシジで味わった清らかで高貴な大気を思いあわせた。聖フランシスコと聖クララの町がしたわしい。

一〇七 辛夷咲くと白き声先(さき)光りけり(昭和五四)
自解  梅とか桃とか、春になって咲きはじめる花はいろいろあるが、辛夷というと何故か胸がおどる。高い木に細かい花びらをふりわけて咲くからだろうか。

一〇八 花桐はいつも遠のく景なのか(昭和五四)
自解  桐の花はどこかさびしい。枝の張り方も大ぶりである。豊臣の末路も思い合わされる。思い出す桐の花はいつも車中から遠く見え、遠く消えた。

一〇九 葉桜となりても凄し老桜(昭和五四)
自解  何本か桜の名木というのを見たことがある。老いた名木にはどこか個性と威厳があった。神木とされるのも、その威力を人々が感じたからだろう。

一一〇 海原へひた走る青芒原(昭和五四)
自解  「槇」五十号記念に発表した句。楸邨先生にほめていただいた。海に来る斜面一ぱいの青芒なのだ。風が吹き、青芒が走りくだってゆくようだ。

一一一 死顔が満月になるまで歩く(昭和五四)
自解  仲人の木原孝一が死んだ。腎不全だったが、風邪をひいたのが原因で、リンパ腺をはらして死んだ。顔が満月のようだった。痛撃に必死に対抗した。

一一二 死顔が満月になるまで歩く(前句の再掲)
(『蛇笏と楸邨』・「鎮魂の俳句」) 全然考えもしないのに、向こうから飛び込んで来た句なんです。はじめ「死顔」ということばが浮かんでいたのです。そこにあの柩の顔が重なりました。はれた顔でした。すると「が満月」と続いて出たんですね。そのあと「になるまで歩く」となった。「になるまで歩く」ってよくわからないんですけど、そういうふうに続いて出てしまったんですよ。言葉が。書いてしまってみてみると、なにか変なのだが妙に力がある。なにか、できちゃったて感じだったのです。出てきちゃったっていう感じ・・・。そしたら、この句、これはって人がやっぱり驚いてくれました。そういう、いわば、あの世から飛び込んで来たみたいな句、そういう句だと思うんですが。この句、もちろん理屈つけて解説することはできますよ。死んだ顔が、だんだん何か、満月のようにまろやかになる。その苦しみも不安も、そういうものがなくなって、安心の境地になる。その時まで自分は、その彼の成道を願ってずーっと歩き続ける。まあ、なんかそういうふうにでも言えばかっこはつきましょう。だけど、作った時の気持って全然そんなじゃないんですよ。向こうから飛び込んできちゃったんです。

一一三 鰯雲死者はるばると漕ぎゆけり(昭和五四)
自解  ロレンスに「死の舟」というすばらしい詩がある。鰯雲のうかぶ空の海を、木原孝一の死の舟が遠く遠く消えてゆくのを思った。私のこころの海か。

一一四 黒鳥のとびたちてより秋深む(昭和五四)
自解  黒鶫でも何でもよい。黒い鳥が、死んだものの魂のように、とびたって行ったのである。木原孝一もそのように。かれの全詩集を編もうと決意した。

一一五 一本の青桐が立ち良夜なり(昭和五四)
自解  とりわけどうということのない句だが、音調の爽快な句で、出来て気持がよかった。まさに良夜である。月も好きな季題。雪月花はみな良い季題だ。

平井照敏の俳句(その十三)

「戦後、この人間探求派と新興俳句の後継者の形で、四人の俳人が目立ってくる。龍太、澄雄、兜太、重信。このあたりになると、二因子はますます複合し、どちらかに割り切ることはますます不可能になるが、大づかみにわければ、蛇笏・人間探求派そして小説に学んだ龍太、楸邨・波郷そして小説に学んだ澄雄は俳の側、楸邨・草田男・詩に学んだ兜太、新興俳句、とりわけ赤黄男の血脈をひく詩俳、重信は詩の側と言うことができるだろう。そして、社会性俳句、前衛俳句運動の時代を通して、兜太・重信の活躍が目立った。昭和三、四十年代は詩の時代であった」(『蛇笏と楸邨』所収「現代俳句の行方」)。

一一六 葉ざくらに移りしばらく無言なり(昭和五五)
自解  花どきはどこかににぎやかで、落ち着かないが、葉桜の頃になると、ぐっとしずかに落ち着いてくる。身体も調子をとりもどすように。自然のリズム。

一一七 風やんで今日法然の日と思ふ(昭和五五)
自解  佐藤春夫や柳宗悦の文章で、法然、親鸞、一遍と続く念仏の系譜に関心を抱いた。法然はとりわけあたたかく深い。法然と思うだけで心なごむ。

一一八 塩だけのおむすび結び五月闇(昭和五五)
自解  白と黒を対照させた句となったが、私は塩だけのおむすびが一番好きなのた。子供の頃、母に作ってもらったおむすびの味が忘れられないのだろう。

一一九 梅雨の川海へ丸太のごとく入(い)る(昭和五五)
自解  席題「梅雨」で作った。私の中にはさまざまな題材の本意的イメージが、印象的な形で貯えられている。効率のよい作り方が出来る。多摩川の印象。

一二〇 桜桃忌深夜に日射しある不思議(昭和五五)
自解  中原中也の「一つノメルヘン」のような世界だ。桜桃忌ということばからの想像で、実際そんな情景が目に浮かんだ。太宰治の顔の印象からも。

一二一 鯰ともなれず泥鰌の浮かびくる(昭和五五)
自解  「鯰」という席題で、永田耕衣の句や絵を思い出した。人間化した戯画として詠んでみようと思った。鯰は王様。泥鰌は道化師。共に髭はあるが。

一二二 みの剥いでなほみのむしの名なりけり(昭和五五)
自解  みのむしのみのを下から押すと、みのむしが顔を出す。それを出してしまうのはかわいそうだが、それでもみのむし。人間にもそんなのがいる。

一二三 秋天に聖地があるのかも知れぬ(昭和五五)
自解  久しぶりに鹿児島へ行った。晴れた空だが少し雲があった。紀伊半島から四国あたり、うすい雲が煙のようで夢のようだった。聖地があった。

一二四 コーちゃんの死の凩の濃みどりに(昭和五五)
自解  コーちゃんは越路吹雪。その訃報に感慨があった。山本健吉氏にこの句を示すと、「凩の濃みどり」はいいが「死」はどうかなといわれた。私の表現。

一二五 われより出て枯れひろがりし原ならむ(昭和五六)
自解  もし自分が死んだら、自分には世界はなくなるのだと思う。世界は実在としても自分には何の値打ちもない。そう考えると枯原もわれより出て枯原。

平井照敏の俳句(その十四)

「このような詩(文学、芸術などを含む。俳句を新しいものに変えようとする欲求)と俳(伝統、守旧、俳句性)の相克による俳句史の展開という視点とともに、もう一つ頭におきたい視点、というか、態度のようなものがある。それは草間時彦が発表した『伝統の週末』という文章で、草間氏は、季語の裏付けのなくなった現代生活、リズム感の喪失、若者たちの伝統への無知、その他もろもろの嘆かわしい状況に立って、よろしい、これからの俳句は、急速に詩になってゆくだろう。われわれが心に捧げた俳句のよろしさは今後ますます失われ、俳句という名のもとに別様のものが書かれてゆくだろう。波郷は『現代俳句の弔鐘はごーんとおれが鳴らす』と言ったが、われわれはわれわれが信ずる俳句を守ってそれに殉じてゆこう。そのほかにはないのだと書いておられた(『伝統の終末』昭和四十八年刊)」(『蛇笏と楸邨』所収「現代俳句の行方」)。

一二六 春らしくなき一隅を選びけり(昭和五六)
自解  五十歳になって、生きる構えがやはり微妙に変ってきたような気がする。老いの意識ではなくて、より本当のものを求める気持とでもいおうか。

一二七 春の寺黄金ころがすごとくあり(昭和五六)
自解  室生犀星にも三好達治にも春の寺の詩がある。実見した春の寺も多い。それらがみんなかたまってこんな句になった。どちせかというと寺の精神像。

一二八 母の日の母なくまはる風車(昭和五六)
自解  井本農一氏にほめていただいた句。だが母ということばには情感がたっぷり含まれいて、なんとなく句としてあまくなるような気がする。風車も。

一二九 蜥蜴の眼三億年を溜めてゐる(昭和五六)
自解  高橋真吉、ショペルヴィエールなど、時空をとびこえる詩人は何人かいる。蜥蜴なら三億年と結びつけやすいはずだ。俳句の領域をひろげたい。

一三〇 生まれも生きても長子葛の花(昭和五六)
自解  俳句の主宰者たちには長男が多いようだ。草田男はみちろん楸邨も長男。私も長男としてうまれ、主宰になって、長男的苦労をしている。天命か。

一三一 師の師逝くその夜のたたきつくる雷(昭和五六)
自解  秋桜子が亡くなった。私の師楸邨の師にあたる。お会いしたことはなかったが、楸邨のむこうにいつも感じていた人だ。雷鳴が私の胸にとどろいた。

一三二 時雨忌の孤心衆心こもごもに(昭和五六)
自解  芭蕉に親しんでいると、連衆にたいするかれのこころは一定ではなかった。孤心がつよまる時もあり連衆心がつよまる時もあった。私もそうだ。

一三三 紅に黄に黒に破れて散りゆくも(昭和五六)
自解  落葉のことを詠んだのだが、もちろん人間のありさまを重ねているわけである。落葉のいろいろはみに傷を持つ。傷つき、破れ、落ちてゆくのだ。

一三四 いつの日も冬野の真中帰りくる(昭和五六)
自解  私の家は町の中にあるので、これは私の生活の心象だ。山本健吉氏が『枯野』からこの句を選んで「週間新潮」にとりあげておられた。冬野の心。

一三五 生涯の稿一束よ百舌鳴けり(昭和五六)
自解  句集や評論集をまとめるたびに、これだけと思う。本は私の身長ほど作ったが、それでも仕事は一束だ。仕事好きな私なのに。以上、『枯野』より。

平井照敏の俳句(その十五)

「題名を『牡丹焚火』としたのは、須賀川の牡丹園でおこなわれている牡丹焚火につよく
魅かれているためである。この牡丹園には北原白秋の歌碑があり、『須賀川の牡丹の木(ぼく)のめでたきを炉にくべよちふ雪ふる夜半に』と刻まれている。この歌を作った頃、白秋は思い糖尿病のため失明寸前の状態だった。同じ病気の私は、この歌のこころを思い、牡丹の火を思って、想像の焔をたかぶらせた」(『牡丹焚火』・「あとがき」抜粋)。
 なお、『平井照敏句集』(芸林書房)には、ここに収載した、『猫町』『天上大風』『枯野』
『牡丹焚火』の句集の他に、『多摩』『春空』『石涛』『夏の雨』の句集の句も収載されている。また、下記の牡丹焚火の連作句(一四六~一六七)は、照敏俳句の頂点に位置づけられるものであろう。

一三六 いずこかへ山向かふなり雪の中(昭和五七・『牡丹焚火』)
一三七 ほつほつと地の底よりの梅だより(同上)
一三八 倒れては足投げいだす怒り独楽(同上)
一三九 万緑や存在はみなひかりもつ(同上)
一四〇 文芸は一字一字や夏の霧(同上)
一四一 きらきらと雪の兎がとけて跳ぶ(昭和五八・『牡丹焚火』)
一四二 蛇苺思ひ捨つべきものは捨つ(同上)
一四三 生きて野分死して野分の世でありし(同上)
一四四 余生の語燃ゆるごとくに柿紅葉(同上)
一四五 ささやかなものをたよりにあたたかし(昭和五九・『牡丹焚火』)
一四六 枯牡丹ちふ荘厳の牡丹園(同上)
一四七 牡丹園縦横の凩となれり(同上)
一四八 牡丹焚くかなしきときは面をして(同上)
一四九 井戸のごとく淵のごとくに牡丹の火(同上)
一五〇 焚く牡丹火よりも水の焔持つ(同上)
一五一 牡丹焚く宙に青衣の女人の手(同上)
一五二 無情の火有情の火や牡丹焚く(同上)
一五三 牡丹の火彦火火出見尊かな(同上)
一五四 雪近く闇は病めりな牡丹の火(同上)
一五五 牡丹焚き地底のふかき声は満つ(同上)
一五六 病むものにのりうつりくる牡丹の火(同上)
一五七 宙空の流燈なれや牡丹の火(同上)
一五八 牡丹焚く悲の輝きの焔かな(同上)
一五九 牡丹焚く宙にちちははみんなゐて(同上)
一六〇 牡丹焚く焔の母と化し去んぬ(同上)
一六一 牡丹の火迦陵頻伽のとびめぐる(同上)
一六二 牡丹焚くむかしむかしを焚くやうに(同上)
一六三 銀狐牡丹焚火の宙とんで(同上)
一六四 はじまりもをはりも冥し牡丹の火(同上)
一六五 牡丹焚火は燃ゆる母かな闇の底(同上)
一六六 あめつちの闇に牡丹の木(ぼく)焚けり(同上)
一六七 いつの日も牡丹焚火を負うてをり(同上)
一六八 花すべて消えたるあとの深空かな(昭和六〇・『牡丹焚火』)
一六九 夏の蝶死すれば翅となりゐたり(同上)
一七〇 わが水尾の見ゆるかなしく夕焼けて(同上)

月曜日, 5月 08, 2006

虚子の実像と虚像(その一~その十)



虚子の実像と虚像(その一)

○ 春雨の衣桁(いかう)に重し恋衣 (明治三十七年)

虚子句集『五百句』(昭和十一年刊)の冒頭の一句である。その「序」で、「ホトトギス五百号の記念に出版するものであって、従って五百句に限った」と、いかにも、大俳諧師・虚子らしいあっさりとした思いきりのよい「序」である。そして、この冒頭の一句が、いわゆる、「俳諧」(連句)でいうところの「恋の句」であり、これまた、大俳諧師・虚子にふさわしいもののように思えてくるのである。そもそも、その「序」で、「範囲は俳句を作り始めた明治二十四五年頃から昭和十年迄」とあり、これまた、その「俳句を作り始めた明治二十四五年」のものは全て除外して、こともあろうに、虚子の師の正岡子規が「連句非文学」として排斥した、その連句の、「花・月」の座に匹敵する人事の座の中心に位置するところの「恋」の座の一句を、実質的な虚子第一句集の『五百句』の、その代表的な五百句のうちの、冒頭の一句にもってきたというのは、ここに、「虚子俳句」の原点(その実像と虚像)があるように思えるのである。すなわち、高浜虚子は、正岡子規の正統な後継者として、「連句とその冒頭の発句」を排斥して、いわゆる、「俳句革新」の、その「俳句」を、それまでの「発句」に代わって、その世界を樹立していった中心的な俳人と見なされているが、それは虚像であって、その実像は、正岡子規が排斥してやまなかった、「連句とその発句」を、当時の多くの俳人がそれを排斥したようには、それを排斥せずに、実は、その核心にあるものを正しく喝破して、逆説的にいえば、再び、「俳句」を俳諧(連句)における「発句」に戻した、その中心的な俳人と位置づけられるように思えるのである。

虚子の実像と虚像(その二)

○ 遠山に日の当りたる枯野かな (明治三十三年)

この句には、「十一月二十五日。虚子庵例会」との留め書きがある。当時の「虚子庵例会」のメンバーは、その前年の句の留め書きなどによると、「九月二十五日。虚子庵例会。会者、鳴雪、碧梧桐、五城、墨水、麦人、潮音、紫人、三子、狐雁、燕洋、森堂、青嵐、三允、竹子、井村、芋村、担々、耕村。後れて肋骨、黄搭、杷栗来る。十月一日、松瀬青々上京、発行所に入る」とあり、その他、「東洋城、井泉水、癖三酔、碧童、水巴、乙字、雉子郎」などの名も見られ、多士多才の顔ぶれだったことが分る。この明治三十三年、虚子二十七歳のときの作は、今に氏の代表作の一つに数えられているものである。この句の主題は、一面の眼前に広がる「枯野」の句であって、この「枯野」は、芭蕉の絶吟ともいわれている、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」以来、最も神聖な季語・季題に数えられるものである。そして、この芭蕉批判の急先鋒者こそ、虚子の師に当る正岡子規その人であった。子規はその『芭蕉雑談』のなかにおいて、いわゆる「蕉風」の「さび」を否定し、主観に堕ちた教訓的に解され易い句を排斥し、その一千余句の芭蕉句中、佳句は僅かに約二百句とまで極論する。そして、この虚子の「枯野」の句ができる三年前の、明治三十年(一八九七)に刊行した『俳人蕪村』において、「いづれの題目といへども蕉風又は蕉風派の俳句に比し、蕪村の積極的なることは蕪村句集を繙く者誰か之を知らざらん」と、その因って立つ地盤を「蕪村派」に置くことを鮮明にする。この「蕪村派子規」の俳句の正しい継承者こそ、子規門の双璧(虚子と碧梧桐)の、もう一人の、河東碧梧桐その人であった。

  赤い椿白い椿と落ちにけり  (明治二十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句について、子規は、「碧梧桐の特色とすべき処は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし、「之を小幅な油絵に写しなば只地上落ちたる白花の一団と赤花の一団と並べて画けば即ち足れり」、「只紅白二団の花を眼前に観るが如く感ずる処に満足するなり」と評し(「明治二十九年の俳諧(三)」)、素材を視覚的に俳句の表現に写すという、いわゆる、写生論の一つの実りとして、高く評価しているのである。これに対して、虚子は、「印象明瞭の点に於ては俳句は絵画に若かず」として、「印象明瞭なる句の価値は其印象明瞭といふ一点にのみ存するに非ず、其の印象明瞭を挨つて充分に其の景色の趣味を伝へ得る点にあり」といい(「印象明瞭と余韻」・明治二九)、美的な情趣もしくは余韻を重く見て、後に、「現今の俳句界に嫌たらぬと同時に、其思想が主として天明の積極的方面から発達し変化して来てゐるので、閑寂の方面、消極的方面にあまり手がつけて無いのを遺憾に思ふ」(「現今の俳句界」・明治三六)と、「蕪村派子規」から「芭蕉派虚子」へとそのスタンスを変えることとなる。この掲出の虚子の「枯野」の句については、虚子は未だ「蕪村派子規」の影響下にあったが、芭蕉俳諧を象徴するような、この「枯野」の句を得たことにより、その後、ひたすらに、いわゆる、伝統回帰の「守旧派」の道を邁進するのに比して、碧梧桐もまた、この蕪村俳諧を象徴するような「絵画的」な「椿」の句を得たことにより、さらに、洋画の後期印象派のような、新傾向の俳句を求め、「革新派」の道を邁進することとなる。
そのスタートは、実に、この両者の掲出句をもって始まるように思われるのである。

虚子の実像と虚像(その三)

○ 長き根に秋風を待つ鴨足草(ゆきのした) (明治三十五年)

 この句の後に、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」との留め書きがある。虚子には、「子規逝くや十七日の月明に」という、子規が亡くなるときの追悼吟がある。この追悼吟については、虚子の「子規居士と余」という回想録に詳しい。「余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門を出た。その時であった。さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつつあるのではないかという心持がした」。 これがこの追悼句の前の虚子の記述である。この記述に見られる、その時の虚子を取り巻く状況や心の動きなどは一切切り捨てて、芭蕉の言葉でするならば、「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」という、「抑制的な表現のうちに余情・余韻を鑑賞者に伝授する」という句作りが、虚子が最も得意とするものであった。そして、この事実に即して最も臨場感のある旧暦十七夜の追悼吟は、この虚子の代表的な句集『五百句』には選句せずに、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」と留め書きを付して、直接的には子規の追悼句とは異質な掲出の句を選句しているところに、虚子一流の極端なまでの「「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」的な姿勢が感知されるのである。この虚子の冷淡なまでの寡黙性が、好悪織り交ぜての「虚子の実像と虚像」とを増幅させる要因ともなっているのであろう。

  から松は淋しき木なり赤蜻蛉(明治三十五年 碧梧桐)

 この碧梧桐の掲出句は子規没後の翌月十日の「日本俳句」(子規亡き後碧梧桐が新聞「日本」のその俳句欄の選者を継承する)に載った句である。ここには師の子規を失った碧梧桐の「淋しさ」が、「秋の日に群れ飛ぶ明るくもはかない赤蜻蛉と、すでに黄葉し落葉しつつあるから松の淋しさを相乗させている」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)として、鑑賞者に伝達されてくる。虚子の掲出句の季語は、古典的な「秋風」(「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」・古今集・藤原敏行)であるが、碧梧桐の季語は古典的な「赤蜻蛉」(あかあきつ)ではなく、師の子規の季語の「赤蜻蛉」(あかとんぼ)で、「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」(子規)が思いおこされてくる。そして、北原白秋の「落葉松」(大正十年十月)の詩が思い起こされてくる。

  からまつの林を過ぎて
  からまつをしみじみと見き
  からまつはさびしかりけり
  たびゆくはさびしかりけり

 白秋のこの「落葉松」の詩は余りにも人に知られているものであるが、碧梧桐の「から松は淋しき木なり」の、この発見は、白秋のそれに比して、それ程知られてはいないのではなかろうか。そして、この碧梧桐の句は、白秋の詩の、いわゆる「本句取り」手法の句ではなく、まさしく、その創作年次からいって、碧梧桐の新発見ともいえるものであろう。それと同時に、この両者の掲出句を対比して、虚子と碧梧桐は、子規門の双璧とも称されているが、師・子規への思い入れの深さということになると、碧梧桐のそれが虚子よりも上まわるということは、季語の選択の一つを取ってもいえるであろう。そして、子規・虚子・碧梧桐の、この三人の人間模様が、さまざまな、この三人の「実像と虚像」とを、今日まで、増幅させているということは驚くばかりである。


虚子の実像と虚像(その四)

○ 発心の髻(もとどり)を吹く野分かな(明治三十七年)
○ 秋風にふへてはへるや法師蝉(明治三十七年)

この二句については、次のような留め書きがある。「以上二句、八月二十七日、芝田町海水浴場例会。会者、鳴雪、牛歩、碧童、井泉水、癖三酔、つゝじ等」。この「会者」中の「井泉水」は荻原井泉水であり、井泉水は虚子のホトトギス系の俳人ではないけれども、子規のホトトギス系の俳人としてスタートをしたといってもよいのであろう。井泉水自身の次のような回想の記述もあるようである。「一高に入ってから正岡子規を知り『日本新聞』に投稿した。しばらく両刀使いだったが、やがて日本派一辺倒になって、はじめて真剣に句作する心がかたまった。秋声会から日本派に移ってみると全く空気が違うことが感じられた。秋声会は遊戯的だし、日本派は意欲的であった。秋声会は竹冷、愚仏、黄雨などと老人が主体だったが、日本派は壮年が中心だった。子規は私が一高二年生の時死んだが、碧梧桐が三十歳、虚子が二十九歳の若さだった。もっとも私が初めて子規庵の句会に出た時、出席者名簿に住所と年齢を記す、私が十九歳と書いたのを内藤鳴雪が隣からのぞいて『おゝ十代の方がいる』と驚かれた」(上田都史著『近代俳句文学史』)。後に、井泉水は碧梧桐と行動を共にし、「反ホトトギス・反虚子」の立場で、「新傾向俳句」を推進し、さらに、その碧梧桐とも袂を分かち、定型・季語・切字からの自由のもとに「自由律俳句」を唱道し、その中心的な役割を担うが、虚子が没する昭和三十四年当時になると、完全に虚子を中心とする定型(律)俳句の片隅に追いやられて、井泉水が没した昭和五十一年当時になると、もはや井泉水もその自由律俳句も過去の遺産と化し、そして、それすらも食い潰してしまったという印象すら与えるものとなった。即ち、言葉を代えて言うならば、「子規が新しく開拓した俳句の世界は、一人、虚子のみが生き残り、虚子一色の俳句の世界となった」ということである。この「虚子一人勝ち」ということが、判官贔屓も重なって、「虚子嫌い・ホトトギス嫌い」を増幅させ、虚子の虚像が一人歩きしていると言っても過言ではなかろう。虚子・虚子俳句にもいろいろな側面がある。この掲出の一句目の、「発心の髻(もとどり)を吹く野分かな」は、蕪村好きの多い子規門の俳人が好んで句作りするような、いわゆる、蕪村のドラマ趣向のそれであろう。また、二句目の、「秋風にふへてはへるや法師蝉」は、「秋風」と「法師蝉」の「季重り」や、「ふへてはへるや」の、井泉水の言葉でするならば、「秋声会の遊戯的」な句作りと言っても、これまた過言ではなかろう。桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではないけれども、この掲出の二句について、名前を伏せて提示して、この句の作者が、高浜虚子と言い当てるのは、これまた至難なことであろう。ことほどさように、虚子の代表的な句集の『五百句』の、その五百句のうちには、何故これが選句され、そして、何故仰々しく留め書まで付されているのか首を傾げたくなるものが多いのである。そして、その不可思議が、さらに、虚子の虚像を増幅させていることに、思わず苦笑してしまうほどなのである。

虚子の実像と虚像(その五)

○ 鎌とげば藜(あかざ)悲しむけしきかな(明治三十八年)

この句には、「七月二十三日、浅草白泉寺例会。会者、鳴雪、碧童、癖三酔、不喚楼、雉子郎、碧梧桐、水巴、松浜、一転等」との留め書きがある。この会者のうちで、何故か、雉子郎が気にかかるのである。この雉子郎には、川柳史上に名を残している文化勲章受章者の国民的作家の吉川英治こと井上剣花坊門の柳人・吉川雉子郎と、同じく文化勲章受章者の高浜虚子門にあって日本俳壇では名が知られてはいないがホトトギス俳壇ではその名を残している石島雉子郎との、この二人が想起されてくる。

  貧しさもあまりのはては笑ひ合い       雉子郎(吉川雉子郎)
  此(この)巨犬幾人雪に救ひけむ         雉子郎(石島雉子郎)

 この二人の雉子郎の句を見ながら、俳人・虚子は、いわゆる、俳諧(俳句)の三要素の「挨拶・即興・滑稽」(山本健吉の考え方)のうち、この「滑稽」(おどけ・ペーソス)ということにおいては、はなはだ不得手にしていて、こと、その全句業を見ていっても、いわゆる、滑稽味のする句というのは余り残してはいない。このことは、同時に、自ら「俳句は叙景詩である」(「俳句の五十年」)という立場を鮮明にしていて、いわゆる、連句でいうところの「人事句」ということには一定の距離を置いていたということも伺えるのである。その連句の「人事句」というのは、いわゆる「川柳」の世界の母胎のようなものであって、このことからすると、虚子の俳句の世界というのは、その川柳の世界とは最も距離を置いていたということもいえるであろう。この観点から、掲出の雉子郎の二句を見ていくと、やはり、明治三十八年・浅草白泉寺例会の会者の雉子郎は、川柳人・吉川雉子郎ではなく、終生虚子門を通したホトトギスの俳人・石島雉子郎その人のように思われるのである。この石島雉子郎については、次のアドレスなどで紹介されている。

http://www2.famille.ne.jp/~sai-hsj/sanpo_fu.html

 このネット記事において、掲出の雉子郎の句を、その師の虚子は「ホトトギス」誌上で次のように鑑賞しているという。

「此句は北国などでは雪中に埋った人を探し出すのに、よく犬を使うことがある。犬は其発達した嗅覚で、雪に踏み迷うた人は勿論、雪中に埋っている人までを探し出すことがあると聞いている。作者は其雪国に在って一疋の大きな犬を見た時に、此大きな犬は幾人の人を雪の中から救ひ出したものであろうと、其勇猛な姿に見惚れ且つ獣の人を救うという事に感動して嘆美した句である」。

 この「此(この)巨犬」というのを比喩的に解すると、虚子その人のようにも解せるし、「幾人雪に救ひけむ」の「幾人」とは、「ホトトギスで虚子に認められた俳人達」とのイメージも髣髴してくる。さて、掲出の虚子の明治三十八年の作についてであるが、「藜(あかざ)悲しむ」と、いわゆる、「藜(あかざ)」を擬人化してのものなのであるが、その擬人化的手法が「俳句は叙景詩である」とする虚子の立場からすると、必ずしも成功しているとはいえないように思えるのである。こういう、例えば、掲出の吉川雉子郎のような、庶民の哀感をストレートに表現する「川柳」の世界や、俳句の世界でいえば、「人間そのものを主たる素材とする」、虚子俳句とは別世界の「人間探求派」のそれに比すると、「虚子俳句の面白みのなさ」が目立ってきて、このことがまた、「虚子の実像」を歪曲して、その結果、「アンチ虚子」の「虚子の虚像」を増大させているといっても良いであろう。


虚子の実像と虚像(その六)

○ 座を挙げて恋ほのめくや歌かるた (明治三十九年)

この句には、「一月六日、新年会。三河島後楽園。会者、癖三酔、松浜、一声、三允、鳴雪、碧梧桐、乙字等」との留め書きがある。この会者の乙字は、日本俳壇史上、「季題・季語・二句一章・写意」等の評論を通して、今なおその名を残している大須賀乙字その人であろう。ネット記事で、「荻原井泉水と『層雲』」(秋尾敏稿)に、次のような興味深い記述がある。

「子規の没後、虚子は『ホトトギス』に写生文や俳体詩の欄 を増やして総合文芸誌としての性格を強め、明治四一年、ついに俳句との決別を図る。虚子は、文学全般の革新を夢見た 子規の遺志を受け継いだのである。 一方、新聞『日本』の俳句欄を担当した碧梧桐は、明治三九年、その俳句欄を廃し、全国俳句行脚に旅立つ。碧梧桐は、俳句を一流の文学たらしめようとした子規の遺志を受け継いだのである。彼はそのための方法論を探索し続けた。その碧梧桐の前に、大須賀乙字が現れる。『日本俳句』に投句、『俳三昧』で鍛えた乙字は、優れた理論家でもあった。古典に暗示性の強い句を見出し、それを根拠に『俳句界の新傾向』を発表する。俳句の新たな展開を考えていた碧梧桐は、乙字の論に飛びつく。碧梧桐は乙字の論に、季題を背景として心情や情緒を暗示させる方法を読み取った。人事を詠み、そこに詩情を漂わせていくこと、それが碧梧桐の理解した『新傾向』である。しかし、それは乙字の意図とはかなりずれた解釈であった。新しい俳句の展開を目指した碧梧桐は、明治四四年に荻原井泉水が創刊した『層雲』に加わる。乙字も最初参加するがすぐに去っていく。乙字の考える俳句の理想は、古典の中にあった。新傾向は乙字の求める俳句ではなくなっていった。大正元年、虚子が『ホトトギス』に俳句を復活させる。碧梧桐らの新傾向に異を唱え、自ら守旧派を名乗って、俳句の正統を守ろうとしたのである。しかし乙字は、その虚子にも異を唱える。虚子は、文芸の中での俳句の立場を限定し、その表現法を単純化する。そのことが、俳句の大衆化を推進する力となるのであるが、しかし俳句の深淵を深く信じた乙字から見れば、虚子の俳句観は物足りないものであったろう。 かくして大正元年、虚子と碧梧桐と乙字は、俳壇に、異なる三つの立場を形成する。その対立が、大正期の俳句に多様性をもたらし、さまざまな俳誌を生み出す原動力となる。 俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもあ る。大正時代は、『現代』の始まる時期でもあったのである。」

http://www.asahi-net.or.jp/~CF9B-AKO/kindai/souun.htm

 この記述のうち、「俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもある」の指摘は鋭い。と同時に、この現代の俳壇の構造に深く係わる、「虚子・碧梧桐・乙字」の、この三人が、子規亡き後の、明治三十九年当時、同じ座で切磋琢磨の関係にあったことは特記すべきことであろう。そして、この掲出の虚子の恋の句に見られるように、当時の彼等は、碧梧桐、三十四歳、虚子、三十三歳、そして、乙字、二十五歳、さらに、井泉水、二十三歳と、それぞれが血気盛んな年代であった。これらの若き俳人群像が、今日の日本俳壇に大きな影響を及ぼしていることは、実に驚異的でもある。そして、虚子の「実像と虚像」とは、これらの当時の虚子を取り巻く俳人群像と大きく係わっていることは、これまた多言を要しない。


虚子の実像と虚像(その七)

○ 垣間見る好色者(すきもの)に草芳しき (明治三十九年)
○ 芳草や黒き烏も濃紫 (同)

「以上二句。三月十九日。俳諧散心。第一回。小庵・会者、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅。尚この俳諧散心の会は翌明治四十年一月二十八日に至り四十一回に及ぶ」との留め書きがある。この留め書きにある「俳諧散心」については、虚子の次のような記述がある。「又私等仲間の蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、三允等と共に、後に『俳諧散心』を称えました、さういふ会合を催しまして俳句を作ることをやりました。これは、その頃碧梧桐が『俳句三昧』をととなへて、碧童、六花などといふその門下の人々と一緒に俳句の修業をしてをつたのに対して、私等仲間の人々が、負けずにやらうといふやうなところから起つた会合でありました。それで私は、三昧(定心)に対して散心といふ仏教の修業の上に二通りあるとかいふその三昧に対して他の一つの散心といふ言葉を選んだわけでありました」(「俳句の五十年」)。ここに、子規の「根岸庵句会」というのは、碧梧桐を中心とする「俳諧三昧」と虚子を中心とする「俳諧散心」とに実質上袂を分かつことになる。しかし、当時は、虚子は俳句よりも小説に関心があり、こと俳句については、子規の後を継いで、新聞「日本」の俳句欄「日本俳句」の選者として、俳句一筋の碧梧桐に委ねるという姿勢があり、この両者の間は決定的な亀裂の状態であったということではなかった。この両者が完全に袂を分かつのは、明治四十五年に至り、虚子が、「ホトトギス」の「雑詠」の選に復帰して、その七月号で、碧梧桐の新傾向の俳句に対する不満を表明した以降ということになろう。そして、この両者の対立の萌芽は、この掲出句の留め書きにある明治三十九年、虚子が「俳諧散心」の会を立ち上げる前の、明治三十六年の「ホトトギス」(九月号)に、碧梧桐が発表した「温泉百句」と、その碧梧桐の句に対する虚子の批判の時に始まると見て良いであろう。この両者の対立というのは、一言でいえば、「趣向的で保守的な虚子の態度と、写生主義に立ち、技巧的で進歩的な碧梧桐の態度との対立であった」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)ということになろうか。この両者の違いを例句で示すと、虚子の句(掲出の二句)は、「空想趣味的、趣向派的、伝統派的、保守派的」ニュアンスが感じられるのに対して、碧梧桐の、この虚子の句と同じ、明治三十九年の「構成的で野心的な作」(加藤楸邨評)とされている次の句に見られるように、碧梧桐のそれは、「写生主義的、技巧派的、現世派的、進歩派的」ニュアンスの強いものであった。

  空(クウ)をはさむ蟹死にをるや雲の峰 (明治三十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句の、「空」に「クウ」とルビをつけ、「空をつかむ」を「空をはさむ」(蟹のハサミよりの写生的・技巧的な措辞)とし、それに、ダイナミックな「雲の峰」とマッチさせて、虚子の掲出の二句に比すると、それが、余裕派的な、俳諧散心(臨機応変)的な虚子の姿勢に対して、俳句一筋の、俳諧三昧(探求)的な碧梧桐の姿勢が見てとれ、こと、この掲出句の対比だけですれば、碧梧桐の方の句を佳しとするのが大筋の見方なのではなかろうか。そして、個々に、このような対比をすることなく、虚子と碧梧桐との対比は、「勝ち組み・虚子、負け組み・碧梧桐」と、ジャーナリスティック的に取り上げられるのが多いことには、もうそろそろピリオドを打つべきであろう。

虚子の実像と虚像(その八)

○ 上人の俳諧の灯や灯取虫 (明治三十九年)

「六月十九日、碧梧桐送別句会・星ケ岡茶寮」との留め書きがある。この句は、『人と作品高浜虚子』(清崎敏郎著)の「鑑賞篇」など、よく例句として取り上げられるものの一つで
ある。上記の図書(清崎著)の鑑賞は次のとおりである。
「明治三十九年。六月十九日、碧梧桐が『三千里』の旅に上るのを壮行する句会が星ケ岡
茶寮で催された。その折兼題で作られた句である。もともと、この全国行脚の旅の話は、
真言宗大谷派の管長大谷句仏が、作者に薦めたのだったが、既に小説に対する興味が深く
なっていて、俳行脚といったことに心の動かなかった作者は、碧梧桐を代りに推したの
であった。この旅を機に、所謂新傾向運動がその緒に就き、全国的に流布されることにな
ったわけである。この句の上人は、言うまでもなく大谷句仏である。碧梧桐が全国行脚の
途に上るについて、そのパトロンとも言うべき句仏を脳裏に浮べたのであった。恐らく、
今時分は、灯取虫の来る灯の下で、ゆったりとした上人の生活を自ら窺わせる。句仏は、
以前から、碧梧桐の選を受けていたが、碧梧桐が新傾向に傾くにつれて、その鞭を受ける
をいさぎよしとせず、『我は我』という立場で俳壇に処していた」。
これらの記述により、当時の虚子と碧梧桐との関係が明瞭になってくる。当時の虚子の
の関心事は、俳句ではなく小説にあり、子規没後、虚子がその中心となった「ホトトギス」
は、明治三十八年に夏目漱石の「我が輩は猫である」が掲載されて部数が伸び、小説中心の雑誌に転じようとする状況にあった。それに比して、碧梧桐が俳句欄の選者となった新聞「日本」の投句者数は激減し、「まさか投句哀願の手紙を書くことも手出来なかつた」と碧梧桐自身後日にその「思い出話」に綴っているほど、芳しくなかったようである。こんなことが背景にあって、碧梧桐の全国遍歴の旅の、いわゆる、「三千里」の旅は決行されたのである(栗田靖・前掲書)。これらのことを背景にして、この掲出の虚子の句に接すると、あらかじめ示されている兼題の「灯取虫」で、しかも、碧梧桐の送別句会で、碧梧桐のこの送別の旅のパトロンの一人の「上人」(大谷句仏)を句材にするというのは、冷笑的な姿勢すら感じさせるのである。虚子にしては、それほど意識してのものではないであろうけど、こういう一面と、こういう句作りは、その後の、虚子の実像と虚像を、これまた増幅するものであった。

虚子の実像と虚像(その九)

○ 桐一葉日当りながら落ちにけり   (明治三十九年)
○ 僧遠く一葉しにけり甃(いしただみ) (明治三十九年)


 この留書きは次のとおりである。「以上二句。八月二十七日。俳諧散心。第二十二回。小庵。この掲出の一句目は虚子の代表作の一つでもある。この句の背景などの鑑賞ついて、次のようなものがある(清崎・前掲書)。
「明治三十九年。『俳諧散心』の第二十二回の折の席題『桐一葉』十句中の一句である。当時、碧梧桐とその一門が『俳三昧』を催して、句作の錬磨に努めていたのに対して、虚子とその一門が設けた句修業の道場が『俳諧散心』であった。『三昧』『散心』とい名称が、両者の感情を露出していよう。三月十九日に催された第一回には、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅などの顔が見えている。日の当っている桐の一葉が、つと枝を離れて、ゆるやかに、翩翻として大地に落ちた。日があたったまま、落ちつづけて大地に達したのである。「日当りながら」という把握によって、あの大きな桐の一葉が落ちてくる状態が眼前に彷彿とする。桐の落葉の特徴を描き得ているばかりでなく、極端に単純化することによって、切りとられた自然の小天地が生まれている。作者自身『天地の幽玄な一消息があるかと思ふ』と自負する所以である」。
 この掲出の二句で、句材的に見ていくと、一句目は、「桐一葉」だけなのに比して、二句目は、「僧・桐一葉・甃(いしただみ)」ということになろう。そして、この一句目の傑作句は、二句目に比して、写真用語での、トリミング(不用なものを切り落して、構図を整えること)の利いた切れ味の鋭い一句ということになろう。虚子は、このトリンミングということについて天性的なものを有していて、このトリミングによって、単に、「自然を写生する」ということから一歩進めて、「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というようなことを詠み手に訴えてくる。そして、虚子が一瞬にしてとらえた「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というものが、一つの寓話性のようなもの、この掲出の一句目ですると、「一葉落チテ天下ノ秋ヲ知ル」(文録)というようなものと結びついて、一種異様な深淵な響きを有してくる。こういう響きは、虚子独特のもので、碧梧桐のそれに比するとその相違が歴然としてくる。そして、この相違は、虚子は芭蕉的な世界に相通じて、碧梧桐はより蕪村的世界に相通じているといってもよいであろう。いずれにしても、この掲出の一句目は、虚子の俳句の最右翼を為すような一句であることは間違いなかろう。


虚子の実像と虚像(その十)

○ 君と我うそにほればや秋の暮   (明治三十九年 虚子)
○ 釣鐘のうなるばかりの野分かな  (明治三十九年 漱石)
○ 寺大破炭割る音も聞えけり    (明治三十九年 碧梧桐)

 地方新聞(「下野新聞」)のコラムに、「ことしは『坊ちゃん』の誕生から百年。夏目漱石がこの痛快な読み物をホトトギスに発表したのは、明治三十九年四月だった」との記事を載せている。漱石は子規の学友で、子規と漱石と名乗る人物が、この世に出現したのは、明治二十二年、彼等は二十三歳の第一高等中学校の学生であった。漱石は子規の生れ故郷の伊予の松山中学校の英語教師として赴任する。その伊予の松山こそ、漱石の『坊ちゃん』の舞台である。と同時に、その漱石の下宿していた家に、子規が一時里帰りをしていて、その漱石の下宿家の子規の所に出入りしていたのが、後の子規門の面々で、そこには、子規よりも五歳前後年下の碧梧桐と虚子のお二人の顔もあった。漱石も英語教師の傍ら、親友子規の俳句のお相手もし、ここに、俳人漱石の誕生となった。これらのことについて、漱石は次のような回想録を残している(「正岡子規)・明治四一」)。
「僕(注・漱石)は二階にいる、大将(注・子規)は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣(や)る門下生が集まって来る(注・碧梧桐・虚子など)。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来ている。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく自分の時間というものがないのだから、やむをえず俳句を作った」。
 そして、この漱石の回想録に出て来る俳句の大将・正岡子規が亡くなるのは、明治三十五年、当時、漱石はロンドンに留学していた。そして、ロンドンの漱石宛てに子規の訃報を伝えるのは虚子であった。さらに、俳人漱石ではなく作家漱石を誕生させたのは、虚子その人で、その「ホトトギス」に、漱石の処女作「我輩は猫である」を連載させたのが、前にも触れたが、明治三十八年のことであった。そして、『坊ちゃん』の誕生は、その翌年の明治三十九年、それから、もう百年が経過したのである。そし、その百年前の『坊ちゃん』の世界が、子規を含めて、漱石・碧梧桐・虚子等の在りし日の舞台であったのだ。そのような舞台にあって、子規は、その漱石の俳句について、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」とし、「斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」・「漱石また滑稽思想を有す」と喝破するのである。さて、掲出の三句は、漱石の『坊ちゃん』が世に出た明治三十句年の、虚子・漱石・碧梧桐の一句である。この三句を並列して鑑賞するに、やはり、「滑稽性」ということにおいては、漱石のそれが頭抜けているし、次いで、虚子、三番手が碧梧桐ということになろう。碧梧桐の掲出句は、碧梧桐には珍しく、滑稽性を内包するものであるが、この「寺大破」というのは、大袈裟な意匠を凝らした句というよりも、リアリズムを基調とする碧梧桐の目にしていた実景に近いものなのであろう。この碧梧桐の句に比して、漱石・虚子の句は、いかにも余技的な題詠的な作という感じは拭えない。そして、当時は、こと俳句の実作においては、碧梧桐のそれが筆頭に上げられることは、この三句を並列して了知され得るところのものであろう。

日曜日, 3月 19, 2006

荻原井泉水周辺(その一~十五)



荻原井泉水周辺  

(その一)

尾崎放哉、種田山頭火と続けると、次は、このお二人の師にあたる、「層雲」主宰の荻原井泉水のことについて触れたくなってくる。しかし、放哉も山頭火も、その全集を始め、多種多様な文献を目にすることができるが、井泉水になると、その全集は刊行されておらず、井泉水がかかわった著書類は、三百冊以上あるとのことであるが、これらを一望に管見するということは、甚だ困難といわざるを得ないであろう。井泉水というのは、子規・虚子・碧梧桐の、いわゆる子規山脈にも連なっているし、その自由律俳句ということになると、その中心的人物ということになり、さらに、北原白秋との論争や、金田一京助・石川啄木、萩原朔太郎、そして若山牧水などとも交遊があり、とにもかくにも、放哉や山頭火に比して、その九十二歳の長命ということもあり、マルチスターという雰囲気を有している。なんでも、その日記だけで、中学時代から殆ど一日もかかさず記しており、一冊四、五百頁で二十巻近くになるという。それ故に、全集を出すということになると、途方もなく膨大となり、まず引き受ける出版社がないとのことである(『保存版 山頭火(石寒太編)』所収「山頭火を語る」の村上護発言)。
このことは、ネットの世界でもいえることであって、いろいろな情報は目にすることができるが、荻原井泉水の、その明治・大正・昭和の全時代にわたって、あるいは、その主要な分野の、自由律俳句に焦点を絞ってみても、どうにも、焦点が絞れぬままに、その全容はなかなか見えてこないというのが実感なのである。そして、面白いこととには、その自由律俳句に関連しても、井泉水が主宰した、「層雲」関連と、その「層雲」から分離していった「随雲」、そして、その分離の引き金ともなった「層雲自由律」などの結社があり、さらに、その三者が、それぞれホームページを有しており、ますます混乱に歯止めがかからないような雰囲気なのである。その混乱の源を探っていくと、どうも、井泉水がその生涯にわたって心血を注いだ自由律という世界が、「俳句の世界」のものなのか、はたまた、「一行詩の世界」のものなのか、それらのことと大きく関係しているように思えるのである。ここらへんのところに焦点をあてて、上記の「層雲」、「随雲」そして「層雲自由律」のネットの記事などを参考として、井泉水、そして、その周辺の世界を模索していくこととする。

層雲公式ホームページ    http://www.geocities.jp/souunweb/index.htm
自由律俳句の部屋(随雲・随句・草原関連)  http://www2s.biglobe.ne.jp/~nobi/index.htm
インターネット創作研究(層雲自由律関連)  http://www.t-i-souken.gr.jp/sousaku/

(その二)

 「層雲公式ホームページ」の「自由律とは」の解説は以下のとおりである。

◆自由律俳句は 一つの段落を持ち、一息で言える程度の長さの詩をコンセプトとして、旧来の俳句のような約束事形式(5・7・5)や季語などは一切ありません。かたちにとらわれず、自分の言葉で自由に表現する俳句です。文語でも口語でも構いません。一作一律(リズム)の感性を大切にします。自由律俳句は、明治末年、荻原井泉水が従来の有季定型俳句に飽きたらず、俳句革新をめざし提唱したものです。正確には、新傾向俳句を母体として明治44年4月、河東碧梧桐と共に 層雲 を創刊し、その敷衍に努めたのですが、井泉水の<俳句は印象の詩である>の信念と新傾向俳句志向の碧梧桐は意合わず袂を分かちました。当時は、自由俳句、新しき俳句、不定形俳句などと呼ばれて、自由律俳句とはっきり名称が出来たのは、大正12、3年頃とされていますが、どうも、昭和6年2月号の層雲誌上に井手逸郎の記したものが初めであったようです。自由律俳句は、一般に求道的なものと誤解され、短律の放哉句や、旅と酒を愛した山頭火句を自由律俳句の傾向とみなされておりますが、本来は、層雲創刊号にヘルマン・バールやゲーテの詩を掲げているように、芳醇なロマンを希求するものでした。井泉水は<俳句の中に詩を求めるのではなく、詩の中に俳句を求めよ>と、あくまで俳句の心はポエジーにあると主唱しました。そう言った意味では、層雲の歴史は、日本的ポエジーと(情趣)と西洋的ポエジーの相克であったような気がします。栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句。戦後まもなくの若手作家造反による 河童 。一行詩を標榜して昭和42年 颱、 昭和43年 視界 など。現代詩壇の重鎮であった村野四郎なども文学の出発は 層雲 からでありました。初期には、作家久米正雄、滝井孝作も作品を寄せられ、日本画家の池田遥邨も在籍していました。

 この解説の中で、「旧来の俳句のような約束事形式(5・7・5)や季語などは一切ありません。かたちにとらわれず、自分の言葉で自由に表現する俳句です」・「俳句は印象の詩である」・「俳句の中に詩を求めるのではなく、詩の中に俳句を求めよ」というのは、井泉水が到達した、井泉水俳句観というものなのであろう。しかし、翻って、その俳句観はなかなか意味するものが定かではないのだが、「俳句というよりも、詩(一行詩)である」というニュアンスに近いものなのであろうか。こういった井泉水らの俳句観について、有季・定型俳句の大御所の高浜虚子は、ずばり、「何故に、”俳句”という名称に恋々としているのか」と指摘し、それに対して、井泉水が、「俳句だからこそこれを俳句という」と、禅問答のような応酬をしているのだが(『此の道六十年(荻原井泉水)』所収「伝統ということ」)、どうも、虚子の考え方の方が分かり易いという面では、数倍分かり易いということを実感する。そして、井泉水らの考え方を一歩進めると、虚子がいうように、「”詩”と言うならば、”詩”として肯定しょう」(前掲書)とし、「俳人というよりも詩人」という方がすっきりすると思わるのである。しかし、これらのことに関して、自由律俳句に携わっている方々の中でも、必ずしも、井泉水のこれらの考え方と同じではなく、どうにもすっきりしないのである。

(その三)

「層雲公式ホームページ」の「俳句のかたち」の解説は以下のとおりである。

◆俳句は五七五の三節に分かれておりますが、 基本的には、<五-七五>、もしくは<五七-五>という二行でもって構成されています。

例えば
 古池や / 蛙とびこむ水の音
 菜の花や / 月は東に日は西に
 やれうつな / 蠅が手をする足をする
 枯れ枝に烏のとまりけり / 秋の暮れ
 御手討ちの夫婦なりしを / 更衣
 これがまあ終の栖か / 雪五尺

このような俳句の考え方を二句一章と言いますが、自由律俳句は、このフォルムを基にしております。

美し骨壺 / 牡丹化られている  井泉水
分け入っても分け入っても / 青い山 山頭火
せきをしても / ひとり 放哉
月が夜 / どこかで硝子がこわれる 鳳車
月の明るさは / 音のない海が動いている 魚眠洞
冬の夕焼 / さびしい指が生えた 緑石

◆自由律俳句とは一つの段落をもち、一息で言える程度の一行の詩

 井泉水の俳句の定義というのは、「俳句は短詩の一種であって、特に俳句的表現をするもの」としている(前掲書所収「短詩として」)。この「俳句的表現」ということに関連して、井泉水らの自由律俳句は、この「俳句のかたち」に見られる、いわゆる「二句一章」のスタイルを基本とするということなのであろか。井泉水は、これらに関して、「二行詩」という面白い試行を実践している。そこで、井泉水は、「”新傾向俳句は俳句にあらず、詩である”と批評するものに対して、私は新傾向俳句は俳句の形態たる一行的表現をしたものである。これも詩の一つに違いないが、このほかに俳句と近似したる内容をもって二行的表現をしたる短詩がある。この二つのジャンルを対立せしめることに於て、俳句が俳句たる所以の”俳句性”ということが判然とする。とともに、俳句的表現として無理なものを俳句として作ろうとする”試作”はやめたほうがよろしい。そうした試作を唯一の進歩たる形態と考えて伝統的なる俳句を否定しようとする、当時の進歩派を批判したかったのである」(前掲書所収「二行詩」)と述べている。この井泉水の二行詩は、後に、全く、短詩のそれと同じように、その題名も付されるようになる。

    こだま
「おーい」と淋しい人
「おーい」と淋しい山

 井泉水は、これは、「俳句ではなく、短詩である」とする。これらから類推すると、井泉水らは、題名がなく、一行的表現のものは、俳句的表現の、いわゆる「俳句」というジャンルのものと考えていたことは間違いがない。ちなみに、「雲雀あがり、山の畑に感涙ながす」(黒田忠次郎)と一行書きの俳句に、コンマを入れたものも、「層雲」(第四号第一号)において始めてなされたという(前掲書所収「短詩として」)。(上記の「層雲公式ホームページ」の掲出句のうち、山頭火・放哉の句は、いわゆる「一物仕立て」の句で、一句一章のスタイルのようにも思われる。)

(その四)

前回の「層雲公式ホームページ」の「俳句のかたち」に関連して、層雲系の「自由律俳句の部屋」は、いわゆる「自由律俳句」に「随句」という名称を冠して、次のような考え方をされている。

1.随句の原点は「感性のひらめき」にあります。感性とは五感で、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚をいいます。これらの体感覚は瞬時にして自覚されるもので、これが「ひらめき」です。人間は何十億といますが、たとえ海外にいても、知人に会えば瞬時にしてそれと識別できます。「ひらめき」が瞬時であるところから、随句は「最短の詩型」をとるのです。
2.随句は感性の所産であります。理性とは基盤を異にし、理屈、感想、意見などを述べるものではありません。だから、文章の形を取らず、韻を成すのです。「最短の詩型」は「最短の韻」でもあります。
3.五感は実感で、実在であるはずです。したがって随句は実体感を表出するはずであります。観念、抽象といった実体のないものの表現は本来のものとは言えないと考えます。
4.随句を機能させるのは日本語(本来の日本語で、大和言葉という人もいる)の特色によります。随句の韻性は3つあり、それは数韻・音韻・意韻です。大和言葉はそれらを具備した言葉です。
5.随句は3節です。「最短の韻」という「最短」は句の長さではなく、句を成す節(フレーズ)数の最少数をいいます。それが3です。句の韻は節相互の共鳴・循環・反響によって、そこに書かれた語内容を超えるものです。

 この、「5」の「随句は3節」ということは、前回の自由律俳句の例でいくと、次のとおりとなる。

美し骨壺 / 牡丹 / 化けられている  井泉水
分け入っても / 分け入っても / 青い山  山頭火
せきを / しても / ひとり   放哉
月が夜 / どこかで硝子が / こわれる   鳳車
月の明るさは / 音のない海が / 動いている  魚眠洞
冬の夕焼 / さびしい指が / 生えた     緑石

この「三節」(三音節)を基本とすることは、全く、「定型律」の世界と基本的には同じということになる。さらに、前回の「層雲公式ホームページ」の「二句一章」のスタイルといい、いわゆる「俳句」の基本的なことは、「定型律」と「自由律」とのそれでは変わりはなく、ただ、字数の違いということにもなりそうである。また、上記の「感性のひらめき」・
「最短の詩型に最短の韻がある」・「大和言葉」といい、これらは、即、「定型律俳句」にも均しくいえることであって、逆接的には、層雲系の「自由律俳句の部屋」の、いわゆる「自由律俳句」(「随句」)は、「定型律俳句」以上に、「定型律」に、少なくとも、「律」(韻律)には拘っているということは指摘できそうである。

(その五)

○ 美し骨壺牡丹化られている  井泉水

「層雲公式ホームページ」の「俳句のかたち」に収載されていた掲出句について、当初、「美しき骨壺牡丹活られている」の誤植かという思いがした。そんな思いから、『現代俳句集』(筑摩書房)所収の「荻原井泉水句集」(昭和二十七年~昭和三十一年)で、この句の所在を調べてみたのだが、この句はそこには集録されてはいなかった。たまたま、ネット関連で、荻原井泉水関連を調べていたら、次のアドレスに、次のような記事に遭遇した。

http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/O/ogiwaraseisensui.html

「六本木の交差点から溜池に下る幹道を少しばかり逸れたところにあるこの寺を再び訪れる。季題無用の見解を示した俳人が眠る場所にも、確かに秋の涼しさは漂っている。彼岸を僅かに過ぎたばかりの日曜日にもかかわらず、人影もなく、窪地のように在る塋域から反射された陽が、隣地のビルのガラス面に光って見える。『美しき骨壺牡丹化られている』・・・絶句にある美しい骨壺は、この四角く切りつめられた『荻原家之墓』に納められたのであろうか。」

 この掲出句は、井泉水の絶句ということが判明したまである。その関連記事は次のとおりである。

「荻原藤吉(1884-1976・明治17年-昭和51年)。昭和51年5月20日歿 91歳 (天寿妙法釈随翁居士) 東京・港区六本木・妙像寺。」
「大正2年、新傾向俳句運動を提唱した河東碧梧桐と袂を分かち、『俳句は印象より出発して象徴に向かう傾きがある。俳句は象徴の詩である』と唱えた。『句の魂』を追求し、種田山頭火や、尾崎放哉ら異色の出家遁世の門下生を持ち、精神の閃きを暗示的に詠んだ俳人井泉水。この年の5月20日午後4時17分、脳血栓のため鎌倉山ノ内の自宅で永眠する。」

 そして、次の八句が掲載されていた。

空をあゆむ朗朗と月ひとり

落葉の、これでも路であることは橋があって

枯野に大きなひまわりの花、そこに停車する

尼さま合掌してさようならしてひぐらし

この水年暮るる海へ行く水の音かな (原 泉)

ぶどうむらさき写しおるにぶどうの赤き酒をつぐ

どちら見ても山頭火が歩いた山の秋の雲

つばきは一輪さすもので山にいっぱい (長 流)

 冒頭の絶句とこれらの八句を見て、井泉水の自由律俳句を垣間見る思いがすると同時に、放哉・山頭火のそれと比して、こと実作においては、決して優れているという印象を受けないというのが、率直の感想なのである。

(その六)

「層雲公式ホームページ」の「層雲の歴史」として、下記のとおり簡単な記述がある。

層雲は、明治44年4月創刊。
昭和51年井泉水死後も同人誌として継続しておりましたが、
平成4年8月(946号)に終刊。
同年10月主要同人が結集して 随雲 として浜松で編集発行。
平成13年1月、100号を機に 層雲として復刊。
現在1099号(平成17年5月)に至っています。

 この上記の簡単な記述に、先に触れた「層雲公式ホームページ」の「自由律俳句とは」などの関連記事を重ね合わせると、次のとおりとなる。

○ 層雲は、明治44年4月創刊。大正4年、井泉水の<俳句は印象の詩である>の信念と新傾向俳句志向の碧梧桐は意合わず袂を分かちました。当時は、自由俳句、新しき俳句、不定形俳句などと呼ばれて、自由律俳句とはっきり名称が出来たのは、大正12、3年頃とされていますが、どうも、昭和6年2月号の層雲誌上に井手逸郎の記したものが初めであったようです。大正15年、尾崎放哉死去。同年、放哉句集『大空』刊行。昭和12年、河東碧梧桐死去。昭和15年、山頭火句集『草木塔』刊行、同年、山頭火死去。昭和五年、栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句の「旗艦」の創刊。戦後まもなくの若手作家造反による「河童(昭和22年)」創刊 。一行詩を標榜して昭和42年「颱」創刊。 昭和43年「視界」創刊など。自由律俳句も、井泉水の「層雲」から離脱しての大きな動きがあった。昭和51年、井泉水、91歳で死去。その後、同人誌として継続しておりましたが、平成4年8月(946号)に終刊。同年10月主要同人が結集して「随雲」 として浜松で編集発行。平成13年1月、100号を機に 層雲として復刊。現在1099号(平成17年5月)に至っています。
 
 これら「層雲の歴史」を振り返ってみて、その主要なエポックというものは、次のようになるであろう。

一 明治四十四年、井泉水が中心になって「層雲」の創刊。大正四年、河東碧梧桐・中塚一碧楼らが「海虹」を創刊して分離。
二 大正五年、『井泉水句集』、大正十五年、尾崎放哉句集『大空』、昭和十五年、種田山頭火句集『草木塔』の刊行。この当時が、自由律俳句のピーク。
三 昭和十二年、栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句の「旗艦」を創刊して分離。
四 昭和二十二年、「河童」、昭和四十二年、「颱」、昭和四十三年、「視界」を創刊・分離。
五 昭和五十一年、井泉水死去。平成四年、「層雲」終刊。同年、「随雲」創刊。平成十三年、「層雲」再刊して、現在に至る。(なお、「層雲」終刊時のことや「随雲」・「層雲自由律」の誕生のことは、次のアドレスの記事などが参考となる。)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nobi/newpage13.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nobi/newpage12.htm

 これらの明治四十四(一九一一)年から今日(二〇〇六年)までの、その九十五年の「層雲」の歴史、それは、即、「自由律俳句」の歴史ともいえるものであろうが、一般的な理解は、
放哉や山頭火のそれが思い起こされてくるように、大正から昭和初期にかけての、いわゆる、大正デモクラシーの影響下での、有季・定型律俳句の革新を目指してのものという理解で、もはや、過去のものという印象は歪めない。しかし、これらの歴史の一つ一つを見ていくと、正岡子規の俳句革新以降の、その一門の虚子(伝統俳句)の流れと碧梧桐(新傾向俳句)の流れとの中にあって、井泉水らが問題提起をした、「俳句を広い文学(詩)という視点で、再構築する」という課題は、今なお大きな課題であり、その井泉水らが蒔いた種は、今なお、実作の上でも、続けられているということは、やはり、見落としてはならないことなのだということを実感する。

(その七)

 先の「層雲の歴史」の、その主要なエポックの下記について、ネットの記事などを中心として、その俳人群像というものを見ていきたい。

一 明治四十四年、井泉水が中心になって「層雲」の創刊。大正四年、河東碧梧桐・中塚一碧楼らが「海虹」を創刊して分離。

○ 河東碧梧桐(その一)

 碧梧桐については、次のアドレスなどによって紹介されている。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/6788/hekigoto.html

 そこでの紹介記事は下記のとりである。

「近代俳句におけるパイオニアのひとりで、正岡子規の俳句革新運動に加わり、高浜虚子と共に子規門の双璧と称された。明治六年、現在の松山市千舟町に父・河東坤、母・せいの五男として生まれる。本名・ヘイ五郎。父・坤(号・静渓)は松山藩士で藩校・明教館の教授であった。廃藩後は『千舟学舎』を開き、ここで子規も漢学の講義を受け、漢詩の指導も受けていた。
 碧梧桐は、野球をきっかけに中学時代から子規と交わるようになり、同級の虚子と共に子規に兄事した。明治二十三年、発句集を作り、初めて子規の添削を受ける。明治二十九年の子規による碧梧桐・虚子評は、『碧は印象明瞭、虚は空想的浪漫的体質があふれている』とのこと。
 碧梧桐は印象的、絵画的な定型句を作り、子規の提唱した『写生(子規自身は主に「写実」と呼んだが)』を忠実に推進し、明治三十五年の子規没後は、新聞『日本』俳句欄の選者を子規から受け継ぐなど、俳壇の主流の位置を占めていた。
 しかし、明治三十八年頃から『新傾向俳句』に走り始め、明治三十九年から四十四年にかけて前後二回にわけて、『新傾向俳句』を宣伝するための全国遍歴(俳句行脚)を行うなどした。この旅行中、山頭火が下関まで碧梧桐に会いにいったという説もある。
 その後、高浜虚子と激しく対立し、丁々発止のやりとりを繰り広げる。そうして碧梧桐は、さらに定型俳句から離れる傾向を強め、定型や季題にとらわれない『自由律』の句を作りはじめた。あまりにその活動が尖鋭に過ぎ、支持者を失いつつある中、昭和八年三月、還暦祝賀会の席上にて俳壇引退を表明した。主宰する俳誌『ホトトギス』の成功で、俳壇の大家となったライバル・虚子に対する批判的行動であるとみられる。
 昭和十二年二月一日死去(享年六十三歳)。碧梧桐の芸術活動への評価は、今なお、まだまだ低いといわれ、その見直しが迫られている。」

 この紹介記事の末尾の「碧梧桐の再評価」については、『現代日本文学大系一九 高浜虚子 河東碧梧桐 集』(筑摩書房)所収の、「新傾向の俳句」(加藤楸邨稿)などが参考となる。それを一言で要約すると、「定型・季語にたちむかう人間(俳人)にとって、その中心に収斂しようとする方向と、その定型・季語の外にひろがろうとする方向が、同時的に働くものであり、そこに俳句の重層的な微妙な力が存する。そして、この収斂する方向を中心とするのが、高浜虚子らの伝統俳句であり、その解放を中心とするのが、河東碧梧桐らの新傾向俳句である。そして、この後者の、固定概念からの解放と個我の覚醒ということは、俳句という定型詩が、近代に於て必然的にクリアすべき課題であった」ということであろうか。このように理解すると、今日の、金子兜太らを中心とする、いわゆる前衛的な俳句の母胎とも位置づけられるものであろう。そして、その面での、「碧梧桐の再評価」が今こそ待たれるということであろうか。

次のアドレスに、碧梧桐の代表句とその簡単な鑑賞の記事が掲載されている。

http://www.suien.net/hekigodo/kansyo.htm

(八)  

○ 河東碧梧桐(続き・その二)

 復本一郎著『佐藤紅緑 子規が愛した俳人』の中に、「紅緑と碧梧桐」という章がある。その中での次の記述は、「碧梧桐と虚子の俳句観」を知る上で大変に興味のひかれる個所である。

「日露戦争起り、戦熄(や)むと共に欧州*の思想文物洪水の如く乱*入し来り、文壇は旧套を脱し、俳壇亦動揺せり。而して此に君(碧梧桐)と虚子君の対峙を見る。虚子君は、俳句には俳句の領域あり、十七字小なりと雖も以て吐嘱に足るとなし、其の生命を形態に求めずして内容に求む。而して君は新しき酒は新しき革嚢(ぶくろ)に盛るべしとなし、先ず形式の臼窠(きゅうか・型)を脱して十七字を破壊し以て縦横馳突せんとす。一は内に求め一は外に求む。是に於て両者の見地枘鑿(ぜいさく・食い違う) 相容れず。遂に旗鼓堂々相見ゆるに至る。世人之れを見て豆の殻*を燃するの類ども、是れ聵々(かいかい・世間知らず) の言、両者の交情依然として蜜の如し、戦ふ道に忠なればなり、親むは情に篤ければなり、争うて此に君子なるを見る。両者の唱ふる所、何れか是(ぜ)何れか非(ひ)なるに至ては、未だ容易に断ずべからず、論は百年の後に決せん、其の主義の相違るは斯道に忠なる所、蓋し止むを得ざるなり。」(『碧梧桐句集』佐藤紅緑「序文」・昭和十五年四月刊。なお、上記中、*記の表記は原文は旧漢字。)

 この佐藤紅緑の「序文」の紹介の後で、「俳句という文芸の『新しみ』を、『一(虚子)は内に求め一(碧梧桐)は外に求』めたということなのである。紅緑は、その是非の判定は百年後に委ねているが、今後の俳句史の流れの中にあって、虚子、碧梧桐、それぞれの俳句革新のどちらに軍配が上がるかは、なお定かでない。もちろん、平成十四年(二〇〇二)の時点では、虚子流の俳句が完全に俳壇を席捲しているが、長い俳句史のスパンで見たときに、今後、どのような事態が生じるか、まだまだ予断を許さないであろう」(復本・前掲書の復本指摘)は、全く同感である。

 ○ 蜩に墓冷ゆるまで立ち尽くす  

 この句は、上記の「序文」の末尾にある佐藤紅緑の、碧梧桐への追悼句という(復本・前掲書)。虚子、碧梧桐、そして、この紅緑もまた、子規山脈に連なる俳人であった。全ての種は、明治の、俳句革新の狼煙をあげた、正岡子規に連なっている。

(九)

○ 河東碧梧桐(続き・その三)

 平成十八年二月二十五日に付け「読売新聞」のコラムに次のような記事が掲載されていた。

「昨年死去した歌人の塚本邦雄さんが正と負について語ったことがある。近代短歌が禁忌として避けた技法を大胆に用い、生前は『負数の王』という異名もあった人である。『負数の王で結構だ』と塚本さんは言った。『負の10と負の10を掛けると正の100になる。その100と、正の10を10個集めた100は違う。正を積み重ねたものには陰翳(いんえい)がないのだ』と。」

 昭和十二年に亡くなった俳人・碧梧桐と昨年亡くなった歌人・塚本邦雄とを比するのもどうかと思うが、こと、この「負数の王」ということになると、碧梧桐は、塚本邦雄以上に「負数の王」という趣がする。明治四十四年、井泉水が創刊した「層雲」に参加して、その三年後には袂とを分かち(中塚一碧楼は「層雲」には参加せず)、大正四年に、今度は中塚一碧楼らとともに「海紅」を創刊してその主宰者となったが、その八年後の大正十一年には、その「海紅」を一碧楼に譲って、その翌年、今度は個人誌「碧」を創刊する。その関東大震災があった年、「海紅」の編集部が一碧楼の郷里、岡山県(玉島)に移ると、その「海紅」の東京在住の同人達が「東京俳三昧稿」(代表・風間直得)を刊行し、「碧」はこれと一緒になり、大正十四年に「三昧」が創刊されることになる。その「三昧」を、昭和七年に、風間直得に譲り、その年の一月に、木下笑風らの「壬申帖」に「優退辞」を公表し、そして、翌昭和八年三月二十五日、還暦祝賀会席上において、俳壇引退を表明して、二度と俳壇に戻ることはなかった。その昭和七年の碧梧桐の「優退辞」は次のとおりである(以上、上田都史『近代俳句文学史』による)。

「私はかつて『層雲』から退き、次いで『海紅』から私の名を削りました。『三昧』から勇退するのもほぼ同じような心理でありますが、前二者から退いた時は、まだ何か未解決にのこされているような、疑問の釈けないものが、脳裏の磊塊として残留していました。このたび『三昧』を離脱するについては、もはや何らの磊塊を留めないのであります。それは我々の芸術に関する論理的根拠が明らかにされた、詩的黎明に対する満足だからであろうと思います。我ら自ら一個の敗残者、落伍者として見ることすらが、私の快心事であるほど、私の胸中は明かな光風霽月であります。」

 これらのことについては、上田都史の『近代俳句文学史』に詳述されているが、これらの内容は、昭和六十一年一月から同六十三年一月までの「海程」に連載されたものが中心になっているという。これまた、高浜虚子の「ホトトギス」に比することもどうかという思いがするが、さしずめ、碧梧桐の思いというのは、これらの金子兜太らが代表する「海程」の、いわゆる「現代俳句」という流れの中に、その一端が息づいているようにも解せられる。

(十)

○ 中塚一碧楼と「海紅」(その一)

 「KAIKOH internet」というホームページがある。そのアドレスは次のとおりである。

http://www4.ktplan.jp/~kaikoh/

 このホームページの「海虹社」というところに、次のような記事がある。

「中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう) 自由律俳句創始者(広辞苑では自由律俳句の創始者は荻原井泉水とされているが、 資料研究によって自由律俳句を最初に標榜したのは中塚一碧楼であることが 明らかにされている)。師匠関係は、正岡子規→河東碧梧桐→中塚一碧楼となる。 詳しくは、一碧楼物語のコーナーに連載中。」(「一碧楼物語」のコーナーは現在制作中。このホームページは、一碧楼のご子息の中塚檀が中心となっている。)

 荻原井泉水の「層雲」と中塚一碧楼の「海紅」については先に触れたが、「自由律俳句」のネーミングが一碧楼というのは、この一事をしても、一碧楼というのが、井泉水と並ぶ大きな影響力を有していた俳人ということを伺い知ることができる。「俳句の歴史」(四ツ谷龍)では、次のように紹介されている。

「明治・大正時代、多くの文人たちが日本語の文章を口語化する試みに熱中した。旧来の文語は格調に拘泥していたため、話しことばとの間に大きな距離ができており、近代的な思想や論理を表現するのに不適切なものとなっていた。そのため、言文一致の重要性が明らかになってきたのであった。俳句の形式は文語と固く結びついており、俳句への口語の導入は困難であると一般に考えられていた。俳句の各句を構成する5音節、7音節は、文語表現では馴染み深い音数であるが、口語表記はしばしば6音節、8音節などに音数が拡張しようとする傾きを持つためであった。こうした常識に反旗を翻し、俳句に積極的に口語を導入したのが中塚一碧楼であった。必然的にその俳句は、17音という音数にとらわれない、自由な形式をとるようになり、彼は『自由律俳句』の創始者となった。一碧楼は同時に、俳句に季語を必須とするルールを否定した。また指導者が弟子に対して強力な指導権を発揮する従来の俳句雑誌の制度に疑問を呈し、作家個々の創意を重視すべきであると説いた。
今日一碧楼の俳句を読むと、誰もがそのあまりの新しさに目を見張ることだろう。彼の句には神秘めかした気取ったところはいささかもないが、口語調の簡明な文体の中に、事物のエッセンスに対する鋭敏な認識を盛り込むことに成功している。彼の俳句は定型俳句のように安定はしておらず、蝋燭の焔のように揺れ動く人間の精神のかたちを、そのまま不定形のかたちの中に実現してみせたのである。

 鏡に映つたわたしがそのまま来た菊見
 掌がすべる白い火鉢よふるさとよ
 乳母は桶の海鼠を見てまた歩いた
 胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり
 秣の一車のかげでささやいて夏の日が来る
 単衣著の母とあらむ朝の窓なり
 刈粟残らずをしまつて倉の白い
 赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け
 畠ぎつしり陸稲みのり芋も大きな葉
 げに蓬門炎天の一客を迎へ            」

http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jippekiro.shtml

(十一)

○ 中塚一碧楼と「海紅」(その二)

 先の「俳句の歴史」(四ツ谷龍)の、「指導者が弟子に対して強力な指導権を発揮する従来の俳句雑誌の制度に疑問を呈し、作家個々の創意を重視すべきであると説いた」ということについては、中塚一碧楼について触れるときは、その中心に据える視点なのかもしれない。子規そして碧梧桐の流れというのは、子規山脈に連なる「座」(志を同じく仲間)というものを中心にして派生したものであった。少なくとも、碧梧桐、そして、「層雲」の荻原井泉水の流れというのは、この「座」というものを中核に据えて、その「座」の仲間(連衆)の切磋琢磨、そして、主宰者の選句・添削というのが必須要件でもあった。しかし、碧梧桐、そして、「海紅」の中塚一碧楼の流れというのは、この日本的な「座」中心というよりも、西洋的な個人の創造性を中心に据えての、「密室の創作性」への傾向を示して、主宰者の選句・添削というのは必須要件ではなく、逆に、これを否定する傾向を有していた。
その「海紅」の創刊号に、次のような一碧楼の記述がある(上田・前掲書)。

「我れらは雑誌『海紅』の発展を望む、もとより切なり、されど雑誌『海紅』は畢竟我等が作物発表機関のみ、我れは更に第一義に於て、我等各自銘々が、他の何物にも関はらざる、直き心の白熱を以て、銘々が作物をして至醇なるものたらしめ、権威あるものたらしめん事を願ふや、いや切なり。・・・我等は虚心に居りたし、我等は勇敢にありたし、而して止まるべからず、我が『海紅』をして海紅型を生ましめる勿れ。」

 一口に、自由律俳句といっても、碧梧桐、井泉水、そして、一碧楼のそれについては、それぞれに異同があり、最も徹底した、より西洋の孤独な密室作業に近い、より自由詩的な自由律俳句という分野は、一碧楼とその「海紅」社の流れのものであろう。そして、この一碧楼は、若き日の飯田蛇笏と下宿を共にして、共に一時期句作を同じくするのであった。この両者が、当時抬頭しつつあった「自然主義文学」の影響化にあったことは特筆しておく必要があろう(上田・前掲書)。と共に、この両者が、一方が、自由律俳句の雄となり、一方が、定型律の牙城の「ホトトギス」の虚子門の一人として、後の定型律の牙城になった「雲母」の創始者としてその雄となったことは、これまた特記しておく必要があろう。


(十二)

二 大正五年、『井泉水句集』、大正十五年、尾崎放哉句集『大空』、昭和十五年、種田山頭火句集『草木塔』の刊行。この当時が、自由律俳句のピーク。

○ 尾崎放哉と種田山頭火

 尾崎放哉と種田山頭火については先に触れた。

(尾崎放哉)

http://yahantei.blogzine.jp/world/2006/01/post_1d67.html

(種田山頭火)

http://yahantei.blogzine.jp/world/2006/02/post_f4cc.html

 このお二人と「自由律俳句」を鳥瞰視する上で、次の「自由律俳句を考える」(草間時彦著『近代俳句の流れ』所収)は示唆に富んだものである。

「昨年(平成世四年)、自由律俳誌 『層雲』が終刊となった(註・この『層雲』が再刊の運びとなったことは先に触れた)。『海紅』が残っているとはいえ、新傾向から自由律に至る歴史はここに終わったという感が深い。
新傾向俳句は河東碧梧桐の
  思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇
 の句が新傾向と評されたのに始まる。明治三十九年、『三千里』の旅に出た碧梧桐は、新傾向俳句運動を全国に展開する。そして、定型は崩れ、無季を容認するに及んで、自由律俳句という新しい詩型となるのである。
 自由律俳句のピークはなんと言っても尾崎放哉、種田山頭火の二人である。
  墓のうらに廻る        放哉
  咳をしても一人        〃
  鉄鉢の中へも霰       山頭火
 この作は現代俳人の胸に新鮮な感動を与えて、日本の近代詩の最高傑作と言ってもよいであろう。だが、そのあとが続かなかった。後継者が現れなかったのである。そして、衰退の途を歩むばかりであった。
 何故、後継者が出なかったのだろう。定型俳句の場合は、常に後継者が育って、三百年
の命脈を保ってきた。正岡子規の俳句革命も、新しい俳句を標榜する碧梧桐ではなく、守旧派を名乗る高浜虚子が継承するという形となっている。
 西欧では詩作は孤独な業である。
 しかし、日本の俳句は座から生れる。山頭火も放哉も孤独な作家であった。座に安住出来る人ではなかった。むしろ、西欧型の詩人だったのである。
 座の約束であった季語を否定し、定型を放棄することは、俳句の精神構造の支えである座を否定することでもあった。自由律詩人はそれに気付かなかったようだ。
 私共、定型俳人は、定型、切字、そして季語を守ることによって優れた作品が生れると教えられて来た。そして、疑うところなく守って来た。その流儀に従って前掲の句を”添削”してみょう。
  秋風の墓のうしろに廻りけり
  鉄鉢の中にも霰降りにけり
 どちらが優れているか検討するまでもない。原作の方が桁違いに優れていることは皆さま、よくお判りであろう。同じ詩因を詩にして、非定型、非季語の方が優れているというのは、定型俳人として深く考えた方がよい。座の約束が万能ではないのである。自由律俳句はそれを成し遂げた。
 そして、山頭火、放哉の天才を生み、今、九十年の歴史の幕を閉じようとしている。その初期に於いては、俳句を新しくしようとする苦闘の歴史でもあったのだ。
 私共、現代俳人は新傾向、自由律俳句をもう一度、見直してみる必要がある。俳句としてばかりでなく、詩としての価値を再評価しなければならない。近代詩の世界で評価すべきなのである。更に現代俳句が自由律俳句から栄養を吸収しているという事実を無視してはいけない。
 それらは、消えゆく自由律俳句へのレクエムである。」

 この最後の「それらは、消えゆく自由律俳句へのレクエムである」ということは、やや性急な見方という感を大にするが、「座の約束が万能ではないのである。自由律俳句はそれを成し遂げた」という思いと、「定型律俳人は、常に心に自由律俳人の詩心に思いを新たにし、自由律俳人は、常に定型律俳人が冠している定型という魔力に畏敬の念を払い」、この「定型律と自由律との拮抗したせめぎ合い」の中に、俳句というものの生命は保ち続けられるような、そんな思いがするのである。

(十三)

三 昭和十二年、栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句の「旗艦」を創刊して分離。

○ 橋本夢道

 この橋本夢道についても先に触れたことがある。

http://yahantei.blogzine.jp/

 今回、荻原井泉水周辺ということで、改めて橋本夢道関連のネットの紹介記事などを見ていって、やはり、自由律俳句において、橋本夢道は、放哉・山頭火に匹敵する俳人であるという思いがした。そして、栗林一石路、橋本夢道らの自由律俳句が、プロレタリヤ俳句という範疇に入ることについて、栗林一石路はともかくとして、こと夢道に関しては、よりリベラリストの俳人という思いがする。と同時に、栗林一石路、橋本夢道らの俳句の系譜が、河東碧梧桐らの「自然主義文学」(リアリズム)の影響下のものに連なるものということについても思いを新たにした。しかし、次のネット記事のように、夢道もまた、放哉や山頭火と同じく、碧梧桐・一碧路らのリアリズムを基調とする自由律俳句と微妙な相違があり、より求道主義的・ロマンチシズム的色彩の荻原井泉水の影響下にあったということを知り、やはり、自由律俳句における、荻原井泉水の影響力というのは、定型律俳句の高浜虚子に匹敵するという感を大にしたのである。

http://www.city.chuo.lg.jp/koho/170115/san0115.html

下記の橋本夢道の紹介記事は、上記のアドレスのものである。

○ 寡作凡作月島蟋蟀(こおろぎ)「ひいひいひい」
○ 動けば寒い

 これは橋本夢道(むどう)が詠んだ俳句です。前の句は字あまりです。後の句は、字たらずといういい方があるのかどうかわかりませんが、そんなところでしょうか。俳句は五七五の十七音の定型句が基本ですが、橋本夢道が詠んだ右の句はこの基本からはずれた自由律の俳句です。
 自由律俳句は、形式を重んずるのではなく、心に内在するもの、感動のほとばしりを率直に詠むことを目指しました。季語の拘束もなく、用語も口語体を用いました。早くは明治四十年代に河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)(明治六年~昭和十二年。伊予松山の生まれ。父は儒者、中学時代正岡子規から野球の手ほどきを受け、やがて俳句の指導を受けるようになりました)が新傾向句の運動を起こしたのが始まりでした。この運動に参加していた荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)(明治十七年~昭和五十一年。芝区神明町生まれ。一高、東京帝大言語学科を卒業)は、明治四十四年に河東碧梧桐と相談して句誌『層雲(そううん)』を発行しました。荻原井泉水は定型を壊し、季語を入れない自由律俳句を積極的に推進しました。荻原井泉水の影響のもとに漂白の俳人といわれる尾崎放哉(ほうさい)(明治十八年~大正十五年)、種田山頭火(さんとうか)(明治十五年~昭和十五年)らが現れました。
 橋本夢道は、新聞『万朝報(よろづちょうほう)』に載った荻原井泉水の句「君を待たしたよ桜散る中をあるく」を読んで感動し、『層雲』に入門しました。
 橋本夢道は、明治三十六(一九○三)年四月、徳島県名東(みょうどう)郡北井上村において、父慶五郎、母タキの五男二女の三男として生まれました。本名を淳一といいました。父は染料の原料となる藍(のちに桑を植え、養蚕に切り替えました)を栽培する農家でした。子沢山で生活は楽ではありませんでした。夢道本人は自分の家を小作農といっていますが、自作農であったという言い伝えもあります。あるいは自作地を持ちながら地主から土地をかりて農事にたずさわる自小作農であったのかもしれません。
 父親は淳一が小学校を卒業するとすぐに奉公に出すつもりでした。進学には大反対でした。当時としてはそれが当たり前のことでした。ところが、淳一の小学校の担任の先生が淳一の才能を認めて是非高等小学校(二年制)への進学を勧め、父親を説得してくれました(漆原伯夫(のりお)著『桃咲く藁家から 橋本夢道伝』)。
 淳一は大正五(一九一六)年高等小学校を卒業しますと、近くの藍商奥村家に丁稚(でっち)奉公に出されました。ここで二年近く奉公していましたが、淳一は人柄と才能を見込まれ東京支店行きを勧められて大正七年一月上京し、深川区一色町一番地の肥料商奥村嘉蔵商店に小僧として住み込むことになりました。母は「淳よ、東京へ行っても盗っ人だけにはなるなよ」といってわが子を送り出したといいます。淳一十五歳の時でした。
 古い仕来りの奥村商店に奉公して使い走りの仕事を三年あまり、大正十一年のある日、先に述べましたように、『万朝報』に載った荻原井泉水の句にふれて感動し、図書館に通い、井泉水の著書を読んで『層雲』に入門しました。
 新聞に掲載された俳句を淳一がたまたま読んだという事ではなく、彼の周囲にはそれなりに俳句に関心をもつような環境があったのです。淳一の叔父は俳句を詠んだ人で、旅先の東京において二十六歳の若さで亡くなっています。また、最初の奉公先、徳島の奥村家の大番頭奥村広助は営業の要として活躍するかたわら、奥村雪野(せつや))の号を持つ俳人でもありました。徳島というところは生活に余裕がある人たちが俳句をたしなみ、よく句会を開く土地柄でした。おそらく、淳一は広助から俳句をすすめられたのでしょう。
 淳一が小学校在学中に詠んだ句「なかなかにみすてかねたり春の夕暮」は、教師たちに賞賛されたといいます。
 小僧といえば、一年間を通して正月と盆の二回の藪入りの時しか休暇を貰えなかったのが普通でしたが、第一次世界大戦も終結した大正十年のころともなれば、日曜日に休暇を与える商店も多くなっていました。淳一は暇を見つけては日曜日に図書館に通うようになりました。一日中図書館に入り浸ることも稀ではなくなりました。図書館に行くとまず備え付けの新聞に眼を通す習わしでした。『万朝報』のコラム「一日一人」欄は毎回必ず眼を通すことにしていました。
 そこに載った荻原井泉水の句「君を待たしたよ櫻散る中をあるく」に釘付けとなったのでした。定型の句に縛られていた淳一にとって気持ちを素直にかつ率直に表現した「君を待たしたよ」のフレーズは新鮮でした。
 一日の仕事を終えて夜のひととき俳句を作ることが日課となりました。投句した一句 「野菊咲き続く日あたりはある山路」が大正十一年二月号の『層雲』に掲載されました。この句は三浦半島を巡遊した時の印象を詠んだものでした。俳号を夢道とし、「ゆめみち」と読ませていました。俳人夢道の誕生といってよいでしょう。
 奥村商店では二十歳になりますと、小僧から若衆となり、真新しい羽織が与えられました。若衆は「わかいし」とよみ、東京でも徳島本店の商習慣を採り入れていました。
 夢道は一人前に遇され、部下を持ち、業務を任されました。この年は大正十二年。関東地方を襲った関東大震災があり、夢道にとっても徴兵検査という大きな出来事がありました。


(十四)

○ 栗林一石路

 自由律俳句の流れの一つとして、大正・昭和のプロレタリア文学の勃興と軌を一にして、栗林一石路・橋本夢道らの、いわゆる「プロレタリア俳句」というジャンルが派生していった。これらのネット関連記事として、次のアドレスに、下記のように紹介されている。

http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q148C100.HTM

【プロレタリア俳句】昭和の初め,反ホトトギス・反伝統の下に俳句革新の運動が盛んになり,短歌の連作の影響を受け,連作俳句や無季非定型俳句が盛んに試みられ,新興俳句運動は一大潮流となった。栗林一石路は荻原井泉水の俳句革新に共鳴し句作を展開したが,プロレタリア文学理論を句作に導入し,弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめ,新興俳句と提携し,橋本夢道らとプロレタリア文学が壊滅期にあった1934年に「俳句生活」を創刊した。しかし,1941年には全員検挙投獄され,廃刊せざるをえなかった。こうした弾圧は,無季俳句のなかに戦争批判的・自由主義的な要素があったために,新興俳句にまでおよび,同じころ,新興俳句派も弾圧された。

 この栗林一石路に関連するネット記事というのは、橋本夢道よりも少なく、ほとんど、他の俳人と一緒のものが多く、その年譜すらまとまったものは見ない。以下、『現代俳句辞典』(「俳句」臨時増刊)によるもの(古沢太穂稿)を掲載しておきたい。

栗林一石路   明治二十七年十月十四日~昭和三十六年五月二十五日、六十六歳。長野県小県群青木村生れ。本名農夫(たみお)。六歳で父を失い母が再婚した栗林の姓を名のる。明治四十四年荻原井泉水が「層雲」を発刊、その革新的精神に共鳴して参加。大正十二年上京して改造社に入り進歩的思想に洗われる一方、層雲の有力作家に成長した。新聞連合社(後の同盟通信)に転じ句集『シャツと雑草』(昭和四)を出す。この頃から層雲にブロレタリアの俳句運動が起りその中心となる。昭和六年層雲を脱し、九年「俳句生活」同人となる。十六年二月俳句事件で検挙され、十八年春出獄後も発表の自由を奪われた。戦後、新俳句人連盟を結成、初代幹事長。以後三十二年肺結核で稲毛額田病院へ入院するまでその代表として活動した。前出句集のほか『行路』(昭和十五)『生活俳句論』(同)『俳句芸術論』(昭和二十三)『俳句と生活』(昭和二十六)『栗林一石路句集』(昭和三十)など。「シャツ雑草にぶつかけておく」「メーデーの腕めくば雨にあたたかし」

 この栗林一石路の「シャツ雑草にぶつかけておく」については、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男)で、次のように鑑賞されている。

http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20040316,20040709&tit=栗林一石路&tit2=栗林一石路の

※無季句だが、明らかに夏の情景だ。猛烈な炎天下、もうシャツなんて着てはいられない。辛抱しきれずにしゃにむに脱いで、そこらへんの雑草の上に、かなぐり捨てるように「ぶっかけておく」。まるで「ファィトーッ、イッパーツ、○○○○○○ !」みたいなシーンを思う人もいるかもしれないが、句の背景はあんなに呑気なものじゃない。工事現場でツルハシを振っているのか、荒地でクワを振っているのか。いずれにしても、生活をかけた過酷な労働を詠んだ句である。「ぶっかけておく」という荒々しい表現が、酷暑のなかの肉体労働者の姿を鮮明に写し出し、理不尽な社会への怒りを露にしている。失うものなど、何もない。そんなぎりぎりのところに追いつめられた労働者の肉体が、汗みどろになって発している声なき声なのだ。戦前のプロレタリア俳句運動の代表句として知られるこの一句は、現在にいたるもその訴求力を失ってはいない。これが俳句だろうかだとか、ましてや無季がどうしたのとかいう議論の次元をはるかに越えて、この力強く簡潔な「詩」に圧倒されない人はいないだろう。そして詩とは、本来こうあるべきものなのだ。根底に詩があれば、それが俳句だろうと和歌だろうと、その他の何であろうが構いはしないのである。くどいようだが、俳句や和歌のために詩はあるのではない。逆である。『栗林一石路句集』(1955)所収。(清水哲男)

(十五)

四 昭和二十二年、「河童」、昭和四十二年、「颱」、昭和四十三年、「視界」を創刊・分離。
五 昭和五十一年、井泉水死去。平成四年、「層雲」終刊。同年、「随雲」創刊。平成十三年、「層雲」再刊して、現在に至る。

 これらの、昭和二十二年以降の、「河童」・「視界」の創刊などの動きは、「自由律俳句」という狭い領域での内部的な離反分袂下のものとなり、もはや、大きく、日本俳壇における「定型律俳句と自由律俳句との相克」という、これまでの大きな流れとは異質のものとなってしまった。上田都史氏の言葉を借りてするならば、「現代の俳人の大方は、最早、井泉水、一碧楼亡き後の自由律俳句に、まったく信用をおいていない。有り体に申せば、それは、大きな遺産をただ食い潰しているに過ぎないからである。前方を見ないのは仕方のないこととしても、振り返って真にうしろさえ見ようとしない」(『近代俳句文学史』)という表現に置き替えられるのかもしれない。しかし、これまで、碧梧桐・井泉水、一碧楼らが取組んできた、「新しい俳句」を目指すという俳句革新の流れとそれに対する大きな成果もたらしたということは、現在の、「現代俳句と伝統俳句との相克」という真っ直中にあって、いささかも色褪せるものではなく、ますます、今後その真価が問われていくことであろう。そして、再刊された自由律俳句史「層雲」の下記の「先達の句」にその名を刻んだ俳人達の正しい評価が、今こそ切望されるということであろう。
 
http://www.geocities.jp/souunweb/img/sendatsu/sendatsu.htm

なお、この「先達の句」のうち、最近の自由律俳句の俳人として注目を集めた、住宅謙信については、先に触れたが、下記のアドレスに収載してある。

http://yahantei.blogzine.jp/world/cat2802227/index.html

【層雲の先達者達とその代表句】

荻原井泉水(1884~1976)
 たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く
 太陽のしたにこれは淋しき薊が一本
 空を歩む朗々と月ひとり
 棹さして月のただ中
 わらやふるゆきつもる
 石のしたしさよしぐれけり
 花を花に来て花の中に坐り
 男と女あなさむざむと抱き合ふものか
 ほとももあらはに病む母見るも別れか
 美し骨壺 牡丹化られている

種田山頭火(1884~1976)
 分け入っても分け入っても青い山
 まっすぐな道でさみしい
 うしろすがたのしぐれていくか
 ほろほろ酔うて木の葉ふる
 生死の中の雪ふりしきる
 鉄鉢の中へも霰
 雪へ雪ふるしづけさにをる
 てふてふひらひらいらかをこえた
 おちついて死ねそうな草萌ゆる
 もりもりもりあがる雲へ歩む

尾崎放哉(1885~1925)
 せきをしてもひとり
 入れものが無い両手で受ける
 足のうら洗えば白くなる
 墓のうらに廻る
 こんなよい月を一人で見て寝る
 酔いのさめかけの星が出てゐる
 月夜の葦が折れとる
 障子あけて置く海も暮れきる
 肉がやせて来る太い骨である
 春の山のうしろから烟が出だした

秋山秋紅蓼(1885~1966)
 静かに星が砂のごと湧きいづる空
 かぜがおばなのやまのかたちをふく
 夢の中の女が青い帯しめて来た朝
 夕べの富士の晴れてるを貧しく住む
 梅花無惨散って咲いて散り果てている

芹田鳳車(1885~1954)
 月が夜どこかで硝子がこわれる
 草に寝れば空流る雲の音きこゆ
 一個の物体林檎が一つまあるく黙す
 さくらの花もさききった夜がひっそり
 真昼で止まった時計の時刻が海へ置いてある椅子

青木此君楼(1887~1968)
 蜘蛛が巣をあむ月光にはりわたし
 語りつくしたよう小ぶりになっている雨
 一と足うしろへ牛がうごいた
 ならんで背も同じすずめ
 一と鉢の黄菊

木村緑平(1888~1968)
 こくなに雀がゐる家で貧乏している
 雀が巣に入ったみんなだまってゐろよ
 すずめの春はひろい空が咲いている
 石も木の下がすずしい
 どちらが先に死ぬにしても蝉聴いている

内島北朗(1889~1978)
 花らんまん陶窯を出し壺を抱く
 頭寒足熱今日の空晴れわたる
 わが壺に水を満たし笑う花の一枝を挿す
 窯の火窯をあふれる星空いっぱいの星
 窯に火を放ちことばなかりき

大越吾亦紅(1889~1965)
 山で鳩鳴くむかしから人間いてさびしとおもう
 みるみる積る雪降りオルガンは寂かに聞えるもの
 山の兎の白くなりそうしててっぽうでうたれた
 親にそむく心麦踏みてやはらげり
 雲のうらに僅かに月が見えその程度の明るさの町

大橋裸木(1890~1933)
 陽へ病む
 水にうけて親子三人の三つの桃
 春さきの水平線がすっとあるポスト
 涼む子のおそそがみえたりして涼しいかぎり
 清閑寺ならこうお行きやして春の白雲

野村朱鱗洞(1893~1918)
 かがやきのきはみしら波うち返し
 はるの日の礼讃に或るは鉦打ち鈴を振り
 麦は正しく伸びてゆき列をつくりたり
 れうらんのはなのはるひをふらせ
 舟をのぼれば島人の墓が見えわたり

池原魚眠洞(1893~1987)
 月の明るさは音のない海が動いている
 海がばさりともいわず夜が牡丹雪となる
 海が噛みつくように狂う音の二階へ急な階段
 いちにちうちにいて冬の日が部屋の中移ってゆく
 肩寄せて星の暗いのを春と思ってゆく道

栗林一石路(1894~1961)
 シャツ雑草にぶっかけておく
 もう吸う血がない死顔を蚊がはなれてゆく
 鰯くろく焼けたら火を消せと妻
 いくさあらすな花菜風わたる日のにおい
 銭がころげておちつけば音のさびしい灯

家木松郎
 雨にぬれて花びら心もち発熱する
 鏡の底の詩人と話す少女の首
 波から咲いた梅か月は航海する
 未明の杉少女指よりインキ流し
 風が消え村が消え一月の細身の鴉

小澤武二(1896~1966)
 絵の消えた絵馬がかかっていた
 土むずがゆく芽を出し芽を出し
 さつと光りてまた風が草を渡るなり
 死顔に化粧する紅が見あたらない
 二人語れば向日葵やゝに廻りけり

河本緑石(1897~1933)
 冬の夕焼さびしい指が生えた
 あらうみのやねやね
 蛍一つ二つゐる闇へ子を失うてゐる
 迷いあぐんだ街角で枯木になる
 私の胸に黒い夜沼の蛇だ

中原紫童(1899~1963)
 めおとごと終り夜のさゐさゐと雨ふるや
 蛍一つ戸にすがりこの家喪にをる
 水の上に出て鯉の尾ひれ春うごく
 うまのまつ毛のさみしさは春のゆきふる
 さくらちる人形はいつも硝子の中

牧山牧句人(1897~1967)
 一点の不安を女が花を買いたい気持
 音感をそのロマンスグレイとはそんな人新刊書
 麦畑の畝の整然と青い拳銃をうつ
 月と美しい空気が冬は目を病んでいる
 灰皿にして貝殻のすいがらのべに

船木月々紅(1897~1969)
 神は冬をつくりたもう一本の枯葦
 月が静かにさしよればフラスコにある球面
 ハーモニカの音階細長い光を蛍がひく
 四ツの方向から四人が昇って来て絶頂に金色の十字架をたてる
 水の上に浮いて夏の月がやがて水底に沈んでゆくようす

巣山鳴雨(1902~1982)
 二階から魚屋の魚見えて秋に入る雨
 心にも花散りいそぐまこと春なり
 いちにち風がなく日ぐれて白いにわとり
 炭は炎おさめている椿一輪の赤
 秋が空からそして窓から皿には柿

関口父草(1902~1999)
 一草一仏とおもう花の白さよ
 冬がざらざらななかまどでごわす
 風がどぎつく鋭く研ぎしもの持ち
 浪がしらほのかにも荒海の暗さなり
 こごえてこごえはてて月のでている枝という枝

海藤抱壺(1902~1940)
 皿に赤い心臓が深夜の桃
 日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴
 クリストの齢なるこそ女に触れぬ我身こそ
 窓に、私の空はいつも横にある
 夢の中の私も病んでねてゐた

橋本夢道(1903~1974)
 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ
 妻よ五十年吾と面白かったと言いなさい
 妻よたった十日余りの兵隊に来た烈しい俺の性欲が銃口を磨いている
 精虫四万の子宮へ浮游する夜をみつめている
 妻をはなれて妻がこいしい夜の大阪の灯や河

和田光利(1903~1991)
 額しろき馬の額あげて夏山幾重
 麦は刈るべし最上の川の押しゆくひかり
 白馬の狂いしづまり緋牡丹の花
 絶巓はさびしにんげんふたり坐る余地なし
 その蛇を打ち樹液したたる枝

井上三喜夫(1904~1990)
 すずめのあとからすずめがきて うめのえだ
 なんでもない そらが うつくしい ばかり
 わたしは かぜに なりたい 春のかぜに
 かがし かがし これで人の子教えにゆくか
 あさり いまはふたをとじ自分を思っている

松尾あつゆき(1908~1985)
 すべなし地に置けば子にむらがる蠅(原爆句抄)
 とんぼう、子を焼く木ひろうてくる
 ほのお、兄をなかによりそうて火になる
 かぜ、子らに火をつけてたばこ一本
 外には二つ、壕の内にも月さしてくるなきがら

筒井茎吉(1907~1996) 
 岸壁の瞑い灯は鯖のぬれて青い雨
 剃刀の感触が鏡のなかの百合の匂いとなる
 酔うた月の裏町のりんごは野性的に囓るべし
 訪ねて雨のさくらの枝が表札のうすらいだ文字
 諍いのあとの冬の苺に添えた楊子

岡野宵火(1916~1951)
 くちづけ、しろいはなしろくくれている
 かさのなかもはなしがあってゆく
 骨壺のおもみいだき膝におきそうして、おる
 わかれてしまえば月にひらひら遠くなりゆく
 べにのついたすいさしが煙って宵になったばかり

平松星童(1926~1987)
 なみだふきながららくがきしている
 あいたいとだけびしょびしょのハガキがいちまい
 遠い祭がきこえる金魚水の中で寂しい花火になる
 裸馬に裸の少年水にぬれ月にぬれていく
 ぽっくり死なれてみればまことに冬がおてんきつづき

飯島翆壺洞(1940~1983) 
 私の内なる丘の春霞に蒼き鹿立てり
 月夜の海がけものの骨あらっている
 美しいけもの罠に陥ち枯野雪ふる
 塚累々ひとの墓うまの墓ちょうの墓
 春の日暮れへ行方不明になった機関車

住宅顕信(1961~1987)
 若さとはこんな淋しい春なのか
 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
 春風の重い扉だ
 ずぶぬれて犬ころ
 とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる