日曜日, 3月 19, 2006

荻原井泉水周辺(その一~十五)



荻原井泉水周辺  

(その一)

尾崎放哉、種田山頭火と続けると、次は、このお二人の師にあたる、「層雲」主宰の荻原井泉水のことについて触れたくなってくる。しかし、放哉も山頭火も、その全集を始め、多種多様な文献を目にすることができるが、井泉水になると、その全集は刊行されておらず、井泉水がかかわった著書類は、三百冊以上あるとのことであるが、これらを一望に管見するということは、甚だ困難といわざるを得ないであろう。井泉水というのは、子規・虚子・碧梧桐の、いわゆる子規山脈にも連なっているし、その自由律俳句ということになると、その中心的人物ということになり、さらに、北原白秋との論争や、金田一京助・石川啄木、萩原朔太郎、そして若山牧水などとも交遊があり、とにもかくにも、放哉や山頭火に比して、その九十二歳の長命ということもあり、マルチスターという雰囲気を有している。なんでも、その日記だけで、中学時代から殆ど一日もかかさず記しており、一冊四、五百頁で二十巻近くになるという。それ故に、全集を出すということになると、途方もなく膨大となり、まず引き受ける出版社がないとのことである(『保存版 山頭火(石寒太編)』所収「山頭火を語る」の村上護発言)。
このことは、ネットの世界でもいえることであって、いろいろな情報は目にすることができるが、荻原井泉水の、その明治・大正・昭和の全時代にわたって、あるいは、その主要な分野の、自由律俳句に焦点を絞ってみても、どうにも、焦点が絞れぬままに、その全容はなかなか見えてこないというのが実感なのである。そして、面白いこととには、その自由律俳句に関連しても、井泉水が主宰した、「層雲」関連と、その「層雲」から分離していった「随雲」、そして、その分離の引き金ともなった「層雲自由律」などの結社があり、さらに、その三者が、それぞれホームページを有しており、ますます混乱に歯止めがかからないような雰囲気なのである。その混乱の源を探っていくと、どうも、井泉水がその生涯にわたって心血を注いだ自由律という世界が、「俳句の世界」のものなのか、はたまた、「一行詩の世界」のものなのか、それらのことと大きく関係しているように思えるのである。ここらへんのところに焦点をあてて、上記の「層雲」、「随雲」そして「層雲自由律」のネットの記事などを参考として、井泉水、そして、その周辺の世界を模索していくこととする。

層雲公式ホームページ    http://www.geocities.jp/souunweb/index.htm
自由律俳句の部屋(随雲・随句・草原関連)  http://www2s.biglobe.ne.jp/~nobi/index.htm
インターネット創作研究(層雲自由律関連)  http://www.t-i-souken.gr.jp/sousaku/

(その二)

 「層雲公式ホームページ」の「自由律とは」の解説は以下のとおりである。

◆自由律俳句は 一つの段落を持ち、一息で言える程度の長さの詩をコンセプトとして、旧来の俳句のような約束事形式(5・7・5)や季語などは一切ありません。かたちにとらわれず、自分の言葉で自由に表現する俳句です。文語でも口語でも構いません。一作一律(リズム)の感性を大切にします。自由律俳句は、明治末年、荻原井泉水が従来の有季定型俳句に飽きたらず、俳句革新をめざし提唱したものです。正確には、新傾向俳句を母体として明治44年4月、河東碧梧桐と共に 層雲 を創刊し、その敷衍に努めたのですが、井泉水の<俳句は印象の詩である>の信念と新傾向俳句志向の碧梧桐は意合わず袂を分かちました。当時は、自由俳句、新しき俳句、不定形俳句などと呼ばれて、自由律俳句とはっきり名称が出来たのは、大正12、3年頃とされていますが、どうも、昭和6年2月号の層雲誌上に井手逸郎の記したものが初めであったようです。自由律俳句は、一般に求道的なものと誤解され、短律の放哉句や、旅と酒を愛した山頭火句を自由律俳句の傾向とみなされておりますが、本来は、層雲創刊号にヘルマン・バールやゲーテの詩を掲げているように、芳醇なロマンを希求するものでした。井泉水は<俳句の中に詩を求めるのではなく、詩の中に俳句を求めよ>と、あくまで俳句の心はポエジーにあると主唱しました。そう言った意味では、層雲の歴史は、日本的ポエジーと(情趣)と西洋的ポエジーの相克であったような気がします。栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句。戦後まもなくの若手作家造反による 河童 。一行詩を標榜して昭和42年 颱、 昭和43年 視界 など。現代詩壇の重鎮であった村野四郎なども文学の出発は 層雲 からでありました。初期には、作家久米正雄、滝井孝作も作品を寄せられ、日本画家の池田遥邨も在籍していました。

 この解説の中で、「旧来の俳句のような約束事形式(5・7・5)や季語などは一切ありません。かたちにとらわれず、自分の言葉で自由に表現する俳句です」・「俳句は印象の詩である」・「俳句の中に詩を求めるのではなく、詩の中に俳句を求めよ」というのは、井泉水が到達した、井泉水俳句観というものなのであろう。しかし、翻って、その俳句観はなかなか意味するものが定かではないのだが、「俳句というよりも、詩(一行詩)である」というニュアンスに近いものなのであろうか。こういった井泉水らの俳句観について、有季・定型俳句の大御所の高浜虚子は、ずばり、「何故に、”俳句”という名称に恋々としているのか」と指摘し、それに対して、井泉水が、「俳句だからこそこれを俳句という」と、禅問答のような応酬をしているのだが(『此の道六十年(荻原井泉水)』所収「伝統ということ」)、どうも、虚子の考え方の方が分かり易いという面では、数倍分かり易いということを実感する。そして、井泉水らの考え方を一歩進めると、虚子がいうように、「”詩”と言うならば、”詩”として肯定しょう」(前掲書)とし、「俳人というよりも詩人」という方がすっきりすると思わるのである。しかし、これらのことに関して、自由律俳句に携わっている方々の中でも、必ずしも、井泉水のこれらの考え方と同じではなく、どうにもすっきりしないのである。

(その三)

「層雲公式ホームページ」の「俳句のかたち」の解説は以下のとおりである。

◆俳句は五七五の三節に分かれておりますが、 基本的には、<五-七五>、もしくは<五七-五>という二行でもって構成されています。

例えば
 古池や / 蛙とびこむ水の音
 菜の花や / 月は東に日は西に
 やれうつな / 蠅が手をする足をする
 枯れ枝に烏のとまりけり / 秋の暮れ
 御手討ちの夫婦なりしを / 更衣
 これがまあ終の栖か / 雪五尺

このような俳句の考え方を二句一章と言いますが、自由律俳句は、このフォルムを基にしております。

美し骨壺 / 牡丹化られている  井泉水
分け入っても分け入っても / 青い山 山頭火
せきをしても / ひとり 放哉
月が夜 / どこかで硝子がこわれる 鳳車
月の明るさは / 音のない海が動いている 魚眠洞
冬の夕焼 / さびしい指が生えた 緑石

◆自由律俳句とは一つの段落をもち、一息で言える程度の一行の詩

 井泉水の俳句の定義というのは、「俳句は短詩の一種であって、特に俳句的表現をするもの」としている(前掲書所収「短詩として」)。この「俳句的表現」ということに関連して、井泉水らの自由律俳句は、この「俳句のかたち」に見られる、いわゆる「二句一章」のスタイルを基本とするということなのであろか。井泉水は、これらに関して、「二行詩」という面白い試行を実践している。そこで、井泉水は、「”新傾向俳句は俳句にあらず、詩である”と批評するものに対して、私は新傾向俳句は俳句の形態たる一行的表現をしたものである。これも詩の一つに違いないが、このほかに俳句と近似したる内容をもって二行的表現をしたる短詩がある。この二つのジャンルを対立せしめることに於て、俳句が俳句たる所以の”俳句性”ということが判然とする。とともに、俳句的表現として無理なものを俳句として作ろうとする”試作”はやめたほうがよろしい。そうした試作を唯一の進歩たる形態と考えて伝統的なる俳句を否定しようとする、当時の進歩派を批判したかったのである」(前掲書所収「二行詩」)と述べている。この井泉水の二行詩は、後に、全く、短詩のそれと同じように、その題名も付されるようになる。

    こだま
「おーい」と淋しい人
「おーい」と淋しい山

 井泉水は、これは、「俳句ではなく、短詩である」とする。これらから類推すると、井泉水らは、題名がなく、一行的表現のものは、俳句的表現の、いわゆる「俳句」というジャンルのものと考えていたことは間違いがない。ちなみに、「雲雀あがり、山の畑に感涙ながす」(黒田忠次郎)と一行書きの俳句に、コンマを入れたものも、「層雲」(第四号第一号)において始めてなされたという(前掲書所収「短詩として」)。(上記の「層雲公式ホームページ」の掲出句のうち、山頭火・放哉の句は、いわゆる「一物仕立て」の句で、一句一章のスタイルのようにも思われる。)

(その四)

前回の「層雲公式ホームページ」の「俳句のかたち」に関連して、層雲系の「自由律俳句の部屋」は、いわゆる「自由律俳句」に「随句」という名称を冠して、次のような考え方をされている。

1.随句の原点は「感性のひらめき」にあります。感性とは五感で、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚をいいます。これらの体感覚は瞬時にして自覚されるもので、これが「ひらめき」です。人間は何十億といますが、たとえ海外にいても、知人に会えば瞬時にしてそれと識別できます。「ひらめき」が瞬時であるところから、随句は「最短の詩型」をとるのです。
2.随句は感性の所産であります。理性とは基盤を異にし、理屈、感想、意見などを述べるものではありません。だから、文章の形を取らず、韻を成すのです。「最短の詩型」は「最短の韻」でもあります。
3.五感は実感で、実在であるはずです。したがって随句は実体感を表出するはずであります。観念、抽象といった実体のないものの表現は本来のものとは言えないと考えます。
4.随句を機能させるのは日本語(本来の日本語で、大和言葉という人もいる)の特色によります。随句の韻性は3つあり、それは数韻・音韻・意韻です。大和言葉はそれらを具備した言葉です。
5.随句は3節です。「最短の韻」という「最短」は句の長さではなく、句を成す節(フレーズ)数の最少数をいいます。それが3です。句の韻は節相互の共鳴・循環・反響によって、そこに書かれた語内容を超えるものです。

 この、「5」の「随句は3節」ということは、前回の自由律俳句の例でいくと、次のとおりとなる。

美し骨壺 / 牡丹 / 化けられている  井泉水
分け入っても / 分け入っても / 青い山  山頭火
せきを / しても / ひとり   放哉
月が夜 / どこかで硝子が / こわれる   鳳車
月の明るさは / 音のない海が / 動いている  魚眠洞
冬の夕焼 / さびしい指が / 生えた     緑石

この「三節」(三音節)を基本とすることは、全く、「定型律」の世界と基本的には同じということになる。さらに、前回の「層雲公式ホームページ」の「二句一章」のスタイルといい、いわゆる「俳句」の基本的なことは、「定型律」と「自由律」とのそれでは変わりはなく、ただ、字数の違いということにもなりそうである。また、上記の「感性のひらめき」・
「最短の詩型に最短の韻がある」・「大和言葉」といい、これらは、即、「定型律俳句」にも均しくいえることであって、逆接的には、層雲系の「自由律俳句の部屋」の、いわゆる「自由律俳句」(「随句」)は、「定型律俳句」以上に、「定型律」に、少なくとも、「律」(韻律)には拘っているということは指摘できそうである。

(その五)

○ 美し骨壺牡丹化られている  井泉水

「層雲公式ホームページ」の「俳句のかたち」に収載されていた掲出句について、当初、「美しき骨壺牡丹活られている」の誤植かという思いがした。そんな思いから、『現代俳句集』(筑摩書房)所収の「荻原井泉水句集」(昭和二十七年~昭和三十一年)で、この句の所在を調べてみたのだが、この句はそこには集録されてはいなかった。たまたま、ネット関連で、荻原井泉水関連を調べていたら、次のアドレスに、次のような記事に遭遇した。

http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/O/ogiwaraseisensui.html

「六本木の交差点から溜池に下る幹道を少しばかり逸れたところにあるこの寺を再び訪れる。季題無用の見解を示した俳人が眠る場所にも、確かに秋の涼しさは漂っている。彼岸を僅かに過ぎたばかりの日曜日にもかかわらず、人影もなく、窪地のように在る塋域から反射された陽が、隣地のビルのガラス面に光って見える。『美しき骨壺牡丹化られている』・・・絶句にある美しい骨壺は、この四角く切りつめられた『荻原家之墓』に納められたのであろうか。」

 この掲出句は、井泉水の絶句ということが判明したまである。その関連記事は次のとおりである。

「荻原藤吉(1884-1976・明治17年-昭和51年)。昭和51年5月20日歿 91歳 (天寿妙法釈随翁居士) 東京・港区六本木・妙像寺。」
「大正2年、新傾向俳句運動を提唱した河東碧梧桐と袂を分かち、『俳句は印象より出発して象徴に向かう傾きがある。俳句は象徴の詩である』と唱えた。『句の魂』を追求し、種田山頭火や、尾崎放哉ら異色の出家遁世の門下生を持ち、精神の閃きを暗示的に詠んだ俳人井泉水。この年の5月20日午後4時17分、脳血栓のため鎌倉山ノ内の自宅で永眠する。」

 そして、次の八句が掲載されていた。

空をあゆむ朗朗と月ひとり

落葉の、これでも路であることは橋があって

枯野に大きなひまわりの花、そこに停車する

尼さま合掌してさようならしてひぐらし

この水年暮るる海へ行く水の音かな (原 泉)

ぶどうむらさき写しおるにぶどうの赤き酒をつぐ

どちら見ても山頭火が歩いた山の秋の雲

つばきは一輪さすもので山にいっぱい (長 流)

 冒頭の絶句とこれらの八句を見て、井泉水の自由律俳句を垣間見る思いがすると同時に、放哉・山頭火のそれと比して、こと実作においては、決して優れているという印象を受けないというのが、率直の感想なのである。

(その六)

「層雲公式ホームページ」の「層雲の歴史」として、下記のとおり簡単な記述がある。

層雲は、明治44年4月創刊。
昭和51年井泉水死後も同人誌として継続しておりましたが、
平成4年8月(946号)に終刊。
同年10月主要同人が結集して 随雲 として浜松で編集発行。
平成13年1月、100号を機に 層雲として復刊。
現在1099号(平成17年5月)に至っています。

 この上記の簡単な記述に、先に触れた「層雲公式ホームページ」の「自由律俳句とは」などの関連記事を重ね合わせると、次のとおりとなる。

○ 層雲は、明治44年4月創刊。大正4年、井泉水の<俳句は印象の詩である>の信念と新傾向俳句志向の碧梧桐は意合わず袂を分かちました。当時は、自由俳句、新しき俳句、不定形俳句などと呼ばれて、自由律俳句とはっきり名称が出来たのは、大正12、3年頃とされていますが、どうも、昭和6年2月号の層雲誌上に井手逸郎の記したものが初めであったようです。大正15年、尾崎放哉死去。同年、放哉句集『大空』刊行。昭和12年、河東碧梧桐死去。昭和15年、山頭火句集『草木塔』刊行、同年、山頭火死去。昭和五年、栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句の「旗艦」の創刊。戦後まもなくの若手作家造反による「河童(昭和22年)」創刊 。一行詩を標榜して昭和42年「颱」創刊。 昭和43年「視界」創刊など。自由律俳句も、井泉水の「層雲」から離脱しての大きな動きがあった。昭和51年、井泉水、91歳で死去。その後、同人誌として継続しておりましたが、平成4年8月(946号)に終刊。同年10月主要同人が結集して「随雲」 として浜松で編集発行。平成13年1月、100号を機に 層雲として復刊。現在1099号(平成17年5月)に至っています。
 
 これら「層雲の歴史」を振り返ってみて、その主要なエポックというものは、次のようになるであろう。

一 明治四十四年、井泉水が中心になって「層雲」の創刊。大正四年、河東碧梧桐・中塚一碧楼らが「海虹」を創刊して分離。
二 大正五年、『井泉水句集』、大正十五年、尾崎放哉句集『大空』、昭和十五年、種田山頭火句集『草木塔』の刊行。この当時が、自由律俳句のピーク。
三 昭和十二年、栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句の「旗艦」を創刊して分離。
四 昭和二十二年、「河童」、昭和四十二年、「颱」、昭和四十三年、「視界」を創刊・分離。
五 昭和五十一年、井泉水死去。平成四年、「層雲」終刊。同年、「随雲」創刊。平成十三年、「層雲」再刊して、現在に至る。(なお、「層雲」終刊時のことや「随雲」・「層雲自由律」の誕生のことは、次のアドレスの記事などが参考となる。)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nobi/newpage13.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nobi/newpage12.htm

 これらの明治四十四(一九一一)年から今日(二〇〇六年)までの、その九十五年の「層雲」の歴史、それは、即、「自由律俳句」の歴史ともいえるものであろうが、一般的な理解は、
放哉や山頭火のそれが思い起こされてくるように、大正から昭和初期にかけての、いわゆる、大正デモクラシーの影響下での、有季・定型律俳句の革新を目指してのものという理解で、もはや、過去のものという印象は歪めない。しかし、これらの歴史の一つ一つを見ていくと、正岡子規の俳句革新以降の、その一門の虚子(伝統俳句)の流れと碧梧桐(新傾向俳句)の流れとの中にあって、井泉水らが問題提起をした、「俳句を広い文学(詩)という視点で、再構築する」という課題は、今なお大きな課題であり、その井泉水らが蒔いた種は、今なお、実作の上でも、続けられているということは、やはり、見落としてはならないことなのだということを実感する。

(その七)

 先の「層雲の歴史」の、その主要なエポックの下記について、ネットの記事などを中心として、その俳人群像というものを見ていきたい。

一 明治四十四年、井泉水が中心になって「層雲」の創刊。大正四年、河東碧梧桐・中塚一碧楼らが「海虹」を創刊して分離。

○ 河東碧梧桐(その一)

 碧梧桐については、次のアドレスなどによって紹介されている。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/6788/hekigoto.html

 そこでの紹介記事は下記のとりである。

「近代俳句におけるパイオニアのひとりで、正岡子規の俳句革新運動に加わり、高浜虚子と共に子規門の双璧と称された。明治六年、現在の松山市千舟町に父・河東坤、母・せいの五男として生まれる。本名・ヘイ五郎。父・坤(号・静渓)は松山藩士で藩校・明教館の教授であった。廃藩後は『千舟学舎』を開き、ここで子規も漢学の講義を受け、漢詩の指導も受けていた。
 碧梧桐は、野球をきっかけに中学時代から子規と交わるようになり、同級の虚子と共に子規に兄事した。明治二十三年、発句集を作り、初めて子規の添削を受ける。明治二十九年の子規による碧梧桐・虚子評は、『碧は印象明瞭、虚は空想的浪漫的体質があふれている』とのこと。
 碧梧桐は印象的、絵画的な定型句を作り、子規の提唱した『写生(子規自身は主に「写実」と呼んだが)』を忠実に推進し、明治三十五年の子規没後は、新聞『日本』俳句欄の選者を子規から受け継ぐなど、俳壇の主流の位置を占めていた。
 しかし、明治三十八年頃から『新傾向俳句』に走り始め、明治三十九年から四十四年にかけて前後二回にわけて、『新傾向俳句』を宣伝するための全国遍歴(俳句行脚)を行うなどした。この旅行中、山頭火が下関まで碧梧桐に会いにいったという説もある。
 その後、高浜虚子と激しく対立し、丁々発止のやりとりを繰り広げる。そうして碧梧桐は、さらに定型俳句から離れる傾向を強め、定型や季題にとらわれない『自由律』の句を作りはじめた。あまりにその活動が尖鋭に過ぎ、支持者を失いつつある中、昭和八年三月、還暦祝賀会の席上にて俳壇引退を表明した。主宰する俳誌『ホトトギス』の成功で、俳壇の大家となったライバル・虚子に対する批判的行動であるとみられる。
 昭和十二年二月一日死去(享年六十三歳)。碧梧桐の芸術活動への評価は、今なお、まだまだ低いといわれ、その見直しが迫られている。」

 この紹介記事の末尾の「碧梧桐の再評価」については、『現代日本文学大系一九 高浜虚子 河東碧梧桐 集』(筑摩書房)所収の、「新傾向の俳句」(加藤楸邨稿)などが参考となる。それを一言で要約すると、「定型・季語にたちむかう人間(俳人)にとって、その中心に収斂しようとする方向と、その定型・季語の外にひろがろうとする方向が、同時的に働くものであり、そこに俳句の重層的な微妙な力が存する。そして、この収斂する方向を中心とするのが、高浜虚子らの伝統俳句であり、その解放を中心とするのが、河東碧梧桐らの新傾向俳句である。そして、この後者の、固定概念からの解放と個我の覚醒ということは、俳句という定型詩が、近代に於て必然的にクリアすべき課題であった」ということであろうか。このように理解すると、今日の、金子兜太らを中心とする、いわゆる前衛的な俳句の母胎とも位置づけられるものであろう。そして、その面での、「碧梧桐の再評価」が今こそ待たれるということであろうか。

次のアドレスに、碧梧桐の代表句とその簡単な鑑賞の記事が掲載されている。

http://www.suien.net/hekigodo/kansyo.htm

(八)  

○ 河東碧梧桐(続き・その二)

 復本一郎著『佐藤紅緑 子規が愛した俳人』の中に、「紅緑と碧梧桐」という章がある。その中での次の記述は、「碧梧桐と虚子の俳句観」を知る上で大変に興味のひかれる個所である。

「日露戦争起り、戦熄(や)むと共に欧州*の思想文物洪水の如く乱*入し来り、文壇は旧套を脱し、俳壇亦動揺せり。而して此に君(碧梧桐)と虚子君の対峙を見る。虚子君は、俳句には俳句の領域あり、十七字小なりと雖も以て吐嘱に足るとなし、其の生命を形態に求めずして内容に求む。而して君は新しき酒は新しき革嚢(ぶくろ)に盛るべしとなし、先ず形式の臼窠(きゅうか・型)を脱して十七字を破壊し以て縦横馳突せんとす。一は内に求め一は外に求む。是に於て両者の見地枘鑿(ぜいさく・食い違う) 相容れず。遂に旗鼓堂々相見ゆるに至る。世人之れを見て豆の殻*を燃するの類ども、是れ聵々(かいかい・世間知らず) の言、両者の交情依然として蜜の如し、戦ふ道に忠なればなり、親むは情に篤ければなり、争うて此に君子なるを見る。両者の唱ふる所、何れか是(ぜ)何れか非(ひ)なるに至ては、未だ容易に断ずべからず、論は百年の後に決せん、其の主義の相違るは斯道に忠なる所、蓋し止むを得ざるなり。」(『碧梧桐句集』佐藤紅緑「序文」・昭和十五年四月刊。なお、上記中、*記の表記は原文は旧漢字。)

 この佐藤紅緑の「序文」の紹介の後で、「俳句という文芸の『新しみ』を、『一(虚子)は内に求め一(碧梧桐)は外に求』めたということなのである。紅緑は、その是非の判定は百年後に委ねているが、今後の俳句史の流れの中にあって、虚子、碧梧桐、それぞれの俳句革新のどちらに軍配が上がるかは、なお定かでない。もちろん、平成十四年(二〇〇二)の時点では、虚子流の俳句が完全に俳壇を席捲しているが、長い俳句史のスパンで見たときに、今後、どのような事態が生じるか、まだまだ予断を許さないであろう」(復本・前掲書の復本指摘)は、全く同感である。

 ○ 蜩に墓冷ゆるまで立ち尽くす  

 この句は、上記の「序文」の末尾にある佐藤紅緑の、碧梧桐への追悼句という(復本・前掲書)。虚子、碧梧桐、そして、この紅緑もまた、子規山脈に連なる俳人であった。全ての種は、明治の、俳句革新の狼煙をあげた、正岡子規に連なっている。

(九)

○ 河東碧梧桐(続き・その三)

 平成十八年二月二十五日に付け「読売新聞」のコラムに次のような記事が掲載されていた。

「昨年死去した歌人の塚本邦雄さんが正と負について語ったことがある。近代短歌が禁忌として避けた技法を大胆に用い、生前は『負数の王』という異名もあった人である。『負数の王で結構だ』と塚本さんは言った。『負の10と負の10を掛けると正の100になる。その100と、正の10を10個集めた100は違う。正を積み重ねたものには陰翳(いんえい)がないのだ』と。」

 昭和十二年に亡くなった俳人・碧梧桐と昨年亡くなった歌人・塚本邦雄とを比するのもどうかと思うが、こと、この「負数の王」ということになると、碧梧桐は、塚本邦雄以上に「負数の王」という趣がする。明治四十四年、井泉水が創刊した「層雲」に参加して、その三年後には袂とを分かち(中塚一碧楼は「層雲」には参加せず)、大正四年に、今度は中塚一碧楼らとともに「海紅」を創刊してその主宰者となったが、その八年後の大正十一年には、その「海紅」を一碧楼に譲って、その翌年、今度は個人誌「碧」を創刊する。その関東大震災があった年、「海紅」の編集部が一碧楼の郷里、岡山県(玉島)に移ると、その「海紅」の東京在住の同人達が「東京俳三昧稿」(代表・風間直得)を刊行し、「碧」はこれと一緒になり、大正十四年に「三昧」が創刊されることになる。その「三昧」を、昭和七年に、風間直得に譲り、その年の一月に、木下笑風らの「壬申帖」に「優退辞」を公表し、そして、翌昭和八年三月二十五日、還暦祝賀会席上において、俳壇引退を表明して、二度と俳壇に戻ることはなかった。その昭和七年の碧梧桐の「優退辞」は次のとおりである(以上、上田都史『近代俳句文学史』による)。

「私はかつて『層雲』から退き、次いで『海紅』から私の名を削りました。『三昧』から勇退するのもほぼ同じような心理でありますが、前二者から退いた時は、まだ何か未解決にのこされているような、疑問の釈けないものが、脳裏の磊塊として残留していました。このたび『三昧』を離脱するについては、もはや何らの磊塊を留めないのであります。それは我々の芸術に関する論理的根拠が明らかにされた、詩的黎明に対する満足だからであろうと思います。我ら自ら一個の敗残者、落伍者として見ることすらが、私の快心事であるほど、私の胸中は明かな光風霽月であります。」

 これらのことについては、上田都史の『近代俳句文学史』に詳述されているが、これらの内容は、昭和六十一年一月から同六十三年一月までの「海程」に連載されたものが中心になっているという。これまた、高浜虚子の「ホトトギス」に比することもどうかという思いがするが、さしずめ、碧梧桐の思いというのは、これらの金子兜太らが代表する「海程」の、いわゆる「現代俳句」という流れの中に、その一端が息づいているようにも解せられる。

(十)

○ 中塚一碧楼と「海紅」(その一)

 「KAIKOH internet」というホームページがある。そのアドレスは次のとおりである。

http://www4.ktplan.jp/~kaikoh/

 このホームページの「海虹社」というところに、次のような記事がある。

「中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう) 自由律俳句創始者(広辞苑では自由律俳句の創始者は荻原井泉水とされているが、 資料研究によって自由律俳句を最初に標榜したのは中塚一碧楼であることが 明らかにされている)。師匠関係は、正岡子規→河東碧梧桐→中塚一碧楼となる。 詳しくは、一碧楼物語のコーナーに連載中。」(「一碧楼物語」のコーナーは現在制作中。このホームページは、一碧楼のご子息の中塚檀が中心となっている。)

 荻原井泉水の「層雲」と中塚一碧楼の「海紅」については先に触れたが、「自由律俳句」のネーミングが一碧楼というのは、この一事をしても、一碧楼というのが、井泉水と並ぶ大きな影響力を有していた俳人ということを伺い知ることができる。「俳句の歴史」(四ツ谷龍)では、次のように紹介されている。

「明治・大正時代、多くの文人たちが日本語の文章を口語化する試みに熱中した。旧来の文語は格調に拘泥していたため、話しことばとの間に大きな距離ができており、近代的な思想や論理を表現するのに不適切なものとなっていた。そのため、言文一致の重要性が明らかになってきたのであった。俳句の形式は文語と固く結びついており、俳句への口語の導入は困難であると一般に考えられていた。俳句の各句を構成する5音節、7音節は、文語表現では馴染み深い音数であるが、口語表記はしばしば6音節、8音節などに音数が拡張しようとする傾きを持つためであった。こうした常識に反旗を翻し、俳句に積極的に口語を導入したのが中塚一碧楼であった。必然的にその俳句は、17音という音数にとらわれない、自由な形式をとるようになり、彼は『自由律俳句』の創始者となった。一碧楼は同時に、俳句に季語を必須とするルールを否定した。また指導者が弟子に対して強力な指導権を発揮する従来の俳句雑誌の制度に疑問を呈し、作家個々の創意を重視すべきであると説いた。
今日一碧楼の俳句を読むと、誰もがそのあまりの新しさに目を見張ることだろう。彼の句には神秘めかした気取ったところはいささかもないが、口語調の簡明な文体の中に、事物のエッセンスに対する鋭敏な認識を盛り込むことに成功している。彼の俳句は定型俳句のように安定はしておらず、蝋燭の焔のように揺れ動く人間の精神のかたちを、そのまま不定形のかたちの中に実現してみせたのである。

 鏡に映つたわたしがそのまま来た菊見
 掌がすべる白い火鉢よふるさとよ
 乳母は桶の海鼠を見てまた歩いた
 胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり
 秣の一車のかげでささやいて夏の日が来る
 単衣著の母とあらむ朝の窓なり
 刈粟残らずをしまつて倉の白い
 赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け
 畠ぎつしり陸稲みのり芋も大きな葉
 げに蓬門炎天の一客を迎へ            」

http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jippekiro.shtml

(十一)

○ 中塚一碧楼と「海紅」(その二)

 先の「俳句の歴史」(四ツ谷龍)の、「指導者が弟子に対して強力な指導権を発揮する従来の俳句雑誌の制度に疑問を呈し、作家個々の創意を重視すべきであると説いた」ということについては、中塚一碧楼について触れるときは、その中心に据える視点なのかもしれない。子規そして碧梧桐の流れというのは、子規山脈に連なる「座」(志を同じく仲間)というものを中心にして派生したものであった。少なくとも、碧梧桐、そして、「層雲」の荻原井泉水の流れというのは、この「座」というものを中核に据えて、その「座」の仲間(連衆)の切磋琢磨、そして、主宰者の選句・添削というのが必須要件でもあった。しかし、碧梧桐、そして、「海紅」の中塚一碧楼の流れというのは、この日本的な「座」中心というよりも、西洋的な個人の創造性を中心に据えての、「密室の創作性」への傾向を示して、主宰者の選句・添削というのは必須要件ではなく、逆に、これを否定する傾向を有していた。
その「海紅」の創刊号に、次のような一碧楼の記述がある(上田・前掲書)。

「我れらは雑誌『海紅』の発展を望む、もとより切なり、されど雑誌『海紅』は畢竟我等が作物発表機関のみ、我れは更に第一義に於て、我等各自銘々が、他の何物にも関はらざる、直き心の白熱を以て、銘々が作物をして至醇なるものたらしめ、権威あるものたらしめん事を願ふや、いや切なり。・・・我等は虚心に居りたし、我等は勇敢にありたし、而して止まるべからず、我が『海紅』をして海紅型を生ましめる勿れ。」

 一口に、自由律俳句といっても、碧梧桐、井泉水、そして、一碧楼のそれについては、それぞれに異同があり、最も徹底した、より西洋の孤独な密室作業に近い、より自由詩的な自由律俳句という分野は、一碧楼とその「海紅」社の流れのものであろう。そして、この一碧楼は、若き日の飯田蛇笏と下宿を共にして、共に一時期句作を同じくするのであった。この両者が、当時抬頭しつつあった「自然主義文学」の影響化にあったことは特筆しておく必要があろう(上田・前掲書)。と共に、この両者が、一方が、自由律俳句の雄となり、一方が、定型律の牙城の「ホトトギス」の虚子門の一人として、後の定型律の牙城になった「雲母」の創始者としてその雄となったことは、これまた特記しておく必要があろう。


(十二)

二 大正五年、『井泉水句集』、大正十五年、尾崎放哉句集『大空』、昭和十五年、種田山頭火句集『草木塔』の刊行。この当時が、自由律俳句のピーク。

○ 尾崎放哉と種田山頭火

 尾崎放哉と種田山頭火については先に触れた。

(尾崎放哉)

http://yahantei.blogzine.jp/world/2006/01/post_1d67.html

(種田山頭火)

http://yahantei.blogzine.jp/world/2006/02/post_f4cc.html

 このお二人と「自由律俳句」を鳥瞰視する上で、次の「自由律俳句を考える」(草間時彦著『近代俳句の流れ』所収)は示唆に富んだものである。

「昨年(平成世四年)、自由律俳誌 『層雲』が終刊となった(註・この『層雲』が再刊の運びとなったことは先に触れた)。『海紅』が残っているとはいえ、新傾向から自由律に至る歴史はここに終わったという感が深い。
新傾向俳句は河東碧梧桐の
  思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇
 の句が新傾向と評されたのに始まる。明治三十九年、『三千里』の旅に出た碧梧桐は、新傾向俳句運動を全国に展開する。そして、定型は崩れ、無季を容認するに及んで、自由律俳句という新しい詩型となるのである。
 自由律俳句のピークはなんと言っても尾崎放哉、種田山頭火の二人である。
  墓のうらに廻る        放哉
  咳をしても一人        〃
  鉄鉢の中へも霰       山頭火
 この作は現代俳人の胸に新鮮な感動を与えて、日本の近代詩の最高傑作と言ってもよいであろう。だが、そのあとが続かなかった。後継者が現れなかったのである。そして、衰退の途を歩むばかりであった。
 何故、後継者が出なかったのだろう。定型俳句の場合は、常に後継者が育って、三百年
の命脈を保ってきた。正岡子規の俳句革命も、新しい俳句を標榜する碧梧桐ではなく、守旧派を名乗る高浜虚子が継承するという形となっている。
 西欧では詩作は孤独な業である。
 しかし、日本の俳句は座から生れる。山頭火も放哉も孤独な作家であった。座に安住出来る人ではなかった。むしろ、西欧型の詩人だったのである。
 座の約束であった季語を否定し、定型を放棄することは、俳句の精神構造の支えである座を否定することでもあった。自由律詩人はそれに気付かなかったようだ。
 私共、定型俳人は、定型、切字、そして季語を守ることによって優れた作品が生れると教えられて来た。そして、疑うところなく守って来た。その流儀に従って前掲の句を”添削”してみょう。
  秋風の墓のうしろに廻りけり
  鉄鉢の中にも霰降りにけり
 どちらが優れているか検討するまでもない。原作の方が桁違いに優れていることは皆さま、よくお判りであろう。同じ詩因を詩にして、非定型、非季語の方が優れているというのは、定型俳人として深く考えた方がよい。座の約束が万能ではないのである。自由律俳句はそれを成し遂げた。
 そして、山頭火、放哉の天才を生み、今、九十年の歴史の幕を閉じようとしている。その初期に於いては、俳句を新しくしようとする苦闘の歴史でもあったのだ。
 私共、現代俳人は新傾向、自由律俳句をもう一度、見直してみる必要がある。俳句としてばかりでなく、詩としての価値を再評価しなければならない。近代詩の世界で評価すべきなのである。更に現代俳句が自由律俳句から栄養を吸収しているという事実を無視してはいけない。
 それらは、消えゆく自由律俳句へのレクエムである。」

 この最後の「それらは、消えゆく自由律俳句へのレクエムである」ということは、やや性急な見方という感を大にするが、「座の約束が万能ではないのである。自由律俳句はそれを成し遂げた」という思いと、「定型律俳人は、常に心に自由律俳人の詩心に思いを新たにし、自由律俳人は、常に定型律俳人が冠している定型という魔力に畏敬の念を払い」、この「定型律と自由律との拮抗したせめぎ合い」の中に、俳句というものの生命は保ち続けられるような、そんな思いがするのである。

(十三)

三 昭和十二年、栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句の「旗艦」を創刊して分離。

○ 橋本夢道

 この橋本夢道についても先に触れたことがある。

http://yahantei.blogzine.jp/

 今回、荻原井泉水周辺ということで、改めて橋本夢道関連のネットの紹介記事などを見ていって、やはり、自由律俳句において、橋本夢道は、放哉・山頭火に匹敵する俳人であるという思いがした。そして、栗林一石路、橋本夢道らの自由律俳句が、プロレタリヤ俳句という範疇に入ることについて、栗林一石路はともかくとして、こと夢道に関しては、よりリベラリストの俳人という思いがする。と同時に、栗林一石路、橋本夢道らの俳句の系譜が、河東碧梧桐らの「自然主義文学」(リアリズム)の影響下のものに連なるものということについても思いを新たにした。しかし、次のネット記事のように、夢道もまた、放哉や山頭火と同じく、碧梧桐・一碧路らのリアリズムを基調とする自由律俳句と微妙な相違があり、より求道主義的・ロマンチシズム的色彩の荻原井泉水の影響下にあったということを知り、やはり、自由律俳句における、荻原井泉水の影響力というのは、定型律俳句の高浜虚子に匹敵するという感を大にしたのである。

http://www.city.chuo.lg.jp/koho/170115/san0115.html

下記の橋本夢道の紹介記事は、上記のアドレスのものである。

○ 寡作凡作月島蟋蟀(こおろぎ)「ひいひいひい」
○ 動けば寒い

 これは橋本夢道(むどう)が詠んだ俳句です。前の句は字あまりです。後の句は、字たらずといういい方があるのかどうかわかりませんが、そんなところでしょうか。俳句は五七五の十七音の定型句が基本ですが、橋本夢道が詠んだ右の句はこの基本からはずれた自由律の俳句です。
 自由律俳句は、形式を重んずるのではなく、心に内在するもの、感動のほとばしりを率直に詠むことを目指しました。季語の拘束もなく、用語も口語体を用いました。早くは明治四十年代に河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)(明治六年~昭和十二年。伊予松山の生まれ。父は儒者、中学時代正岡子規から野球の手ほどきを受け、やがて俳句の指導を受けるようになりました)が新傾向句の運動を起こしたのが始まりでした。この運動に参加していた荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)(明治十七年~昭和五十一年。芝区神明町生まれ。一高、東京帝大言語学科を卒業)は、明治四十四年に河東碧梧桐と相談して句誌『層雲(そううん)』を発行しました。荻原井泉水は定型を壊し、季語を入れない自由律俳句を積極的に推進しました。荻原井泉水の影響のもとに漂白の俳人といわれる尾崎放哉(ほうさい)(明治十八年~大正十五年)、種田山頭火(さんとうか)(明治十五年~昭和十五年)らが現れました。
 橋本夢道は、新聞『万朝報(よろづちょうほう)』に載った荻原井泉水の句「君を待たしたよ桜散る中をあるく」を読んで感動し、『層雲』に入門しました。
 橋本夢道は、明治三十六(一九○三)年四月、徳島県名東(みょうどう)郡北井上村において、父慶五郎、母タキの五男二女の三男として生まれました。本名を淳一といいました。父は染料の原料となる藍(のちに桑を植え、養蚕に切り替えました)を栽培する農家でした。子沢山で生活は楽ではありませんでした。夢道本人は自分の家を小作農といっていますが、自作農であったという言い伝えもあります。あるいは自作地を持ちながら地主から土地をかりて農事にたずさわる自小作農であったのかもしれません。
 父親は淳一が小学校を卒業するとすぐに奉公に出すつもりでした。進学には大反対でした。当時としてはそれが当たり前のことでした。ところが、淳一の小学校の担任の先生が淳一の才能を認めて是非高等小学校(二年制)への進学を勧め、父親を説得してくれました(漆原伯夫(のりお)著『桃咲く藁家から 橋本夢道伝』)。
 淳一は大正五(一九一六)年高等小学校を卒業しますと、近くの藍商奥村家に丁稚(でっち)奉公に出されました。ここで二年近く奉公していましたが、淳一は人柄と才能を見込まれ東京支店行きを勧められて大正七年一月上京し、深川区一色町一番地の肥料商奥村嘉蔵商店に小僧として住み込むことになりました。母は「淳よ、東京へ行っても盗っ人だけにはなるなよ」といってわが子を送り出したといいます。淳一十五歳の時でした。
 古い仕来りの奥村商店に奉公して使い走りの仕事を三年あまり、大正十一年のある日、先に述べましたように、『万朝報』に載った荻原井泉水の句にふれて感動し、図書館に通い、井泉水の著書を読んで『層雲』に入門しました。
 新聞に掲載された俳句を淳一がたまたま読んだという事ではなく、彼の周囲にはそれなりに俳句に関心をもつような環境があったのです。淳一の叔父は俳句を詠んだ人で、旅先の東京において二十六歳の若さで亡くなっています。また、最初の奉公先、徳島の奥村家の大番頭奥村広助は営業の要として活躍するかたわら、奥村雪野(せつや))の号を持つ俳人でもありました。徳島というところは生活に余裕がある人たちが俳句をたしなみ、よく句会を開く土地柄でした。おそらく、淳一は広助から俳句をすすめられたのでしょう。
 淳一が小学校在学中に詠んだ句「なかなかにみすてかねたり春の夕暮」は、教師たちに賞賛されたといいます。
 小僧といえば、一年間を通して正月と盆の二回の藪入りの時しか休暇を貰えなかったのが普通でしたが、第一次世界大戦も終結した大正十年のころともなれば、日曜日に休暇を与える商店も多くなっていました。淳一は暇を見つけては日曜日に図書館に通うようになりました。一日中図書館に入り浸ることも稀ではなくなりました。図書館に行くとまず備え付けの新聞に眼を通す習わしでした。『万朝報』のコラム「一日一人」欄は毎回必ず眼を通すことにしていました。
 そこに載った荻原井泉水の句「君を待たしたよ櫻散る中をあるく」に釘付けとなったのでした。定型の句に縛られていた淳一にとって気持ちを素直にかつ率直に表現した「君を待たしたよ」のフレーズは新鮮でした。
 一日の仕事を終えて夜のひととき俳句を作ることが日課となりました。投句した一句 「野菊咲き続く日あたりはある山路」が大正十一年二月号の『層雲』に掲載されました。この句は三浦半島を巡遊した時の印象を詠んだものでした。俳号を夢道とし、「ゆめみち」と読ませていました。俳人夢道の誕生といってよいでしょう。
 奥村商店では二十歳になりますと、小僧から若衆となり、真新しい羽織が与えられました。若衆は「わかいし」とよみ、東京でも徳島本店の商習慣を採り入れていました。
 夢道は一人前に遇され、部下を持ち、業務を任されました。この年は大正十二年。関東地方を襲った関東大震災があり、夢道にとっても徴兵検査という大きな出来事がありました。


(十四)

○ 栗林一石路

 自由律俳句の流れの一つとして、大正・昭和のプロレタリア文学の勃興と軌を一にして、栗林一石路・橋本夢道らの、いわゆる「プロレタリア俳句」というジャンルが派生していった。これらのネット関連記事として、次のアドレスに、下記のように紹介されている。

http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q148C100.HTM

【プロレタリア俳句】昭和の初め,反ホトトギス・反伝統の下に俳句革新の運動が盛んになり,短歌の連作の影響を受け,連作俳句や無季非定型俳句が盛んに試みられ,新興俳句運動は一大潮流となった。栗林一石路は荻原井泉水の俳句革新に共鳴し句作を展開したが,プロレタリア文学理論を句作に導入し,弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめ,新興俳句と提携し,橋本夢道らとプロレタリア文学が壊滅期にあった1934年に「俳句生活」を創刊した。しかし,1941年には全員検挙投獄され,廃刊せざるをえなかった。こうした弾圧は,無季俳句のなかに戦争批判的・自由主義的な要素があったために,新興俳句にまでおよび,同じころ,新興俳句派も弾圧された。

 この栗林一石路に関連するネット記事というのは、橋本夢道よりも少なく、ほとんど、他の俳人と一緒のものが多く、その年譜すらまとまったものは見ない。以下、『現代俳句辞典』(「俳句」臨時増刊)によるもの(古沢太穂稿)を掲載しておきたい。

栗林一石路   明治二十七年十月十四日~昭和三十六年五月二十五日、六十六歳。長野県小県群青木村生れ。本名農夫(たみお)。六歳で父を失い母が再婚した栗林の姓を名のる。明治四十四年荻原井泉水が「層雲」を発刊、その革新的精神に共鳴して参加。大正十二年上京して改造社に入り進歩的思想に洗われる一方、層雲の有力作家に成長した。新聞連合社(後の同盟通信)に転じ句集『シャツと雑草』(昭和四)を出す。この頃から層雲にブロレタリアの俳句運動が起りその中心となる。昭和六年層雲を脱し、九年「俳句生活」同人となる。十六年二月俳句事件で検挙され、十八年春出獄後も発表の自由を奪われた。戦後、新俳句人連盟を結成、初代幹事長。以後三十二年肺結核で稲毛額田病院へ入院するまでその代表として活動した。前出句集のほか『行路』(昭和十五)『生活俳句論』(同)『俳句芸術論』(昭和二十三)『俳句と生活』(昭和二十六)『栗林一石路句集』(昭和三十)など。「シャツ雑草にぶつかけておく」「メーデーの腕めくば雨にあたたかし」

 この栗林一石路の「シャツ雑草にぶつかけておく」については、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男)で、次のように鑑賞されている。

http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20040316,20040709&tit=栗林一石路&tit2=栗林一石路の

※無季句だが、明らかに夏の情景だ。猛烈な炎天下、もうシャツなんて着てはいられない。辛抱しきれずにしゃにむに脱いで、そこらへんの雑草の上に、かなぐり捨てるように「ぶっかけておく」。まるで「ファィトーッ、イッパーツ、○○○○○○ !」みたいなシーンを思う人もいるかもしれないが、句の背景はあんなに呑気なものじゃない。工事現場でツルハシを振っているのか、荒地でクワを振っているのか。いずれにしても、生活をかけた過酷な労働を詠んだ句である。「ぶっかけておく」という荒々しい表現が、酷暑のなかの肉体労働者の姿を鮮明に写し出し、理不尽な社会への怒りを露にしている。失うものなど、何もない。そんなぎりぎりのところに追いつめられた労働者の肉体が、汗みどろになって発している声なき声なのだ。戦前のプロレタリア俳句運動の代表句として知られるこの一句は、現在にいたるもその訴求力を失ってはいない。これが俳句だろうかだとか、ましてや無季がどうしたのとかいう議論の次元をはるかに越えて、この力強く簡潔な「詩」に圧倒されない人はいないだろう。そして詩とは、本来こうあるべきものなのだ。根底に詩があれば、それが俳句だろうと和歌だろうと、その他の何であろうが構いはしないのである。くどいようだが、俳句や和歌のために詩はあるのではない。逆である。『栗林一石路句集』(1955)所収。(清水哲男)

(十五)

四 昭和二十二年、「河童」、昭和四十二年、「颱」、昭和四十三年、「視界」を創刊・分離。
五 昭和五十一年、井泉水死去。平成四年、「層雲」終刊。同年、「随雲」創刊。平成十三年、「層雲」再刊して、現在に至る。

 これらの、昭和二十二年以降の、「河童」・「視界」の創刊などの動きは、「自由律俳句」という狭い領域での内部的な離反分袂下のものとなり、もはや、大きく、日本俳壇における「定型律俳句と自由律俳句との相克」という、これまでの大きな流れとは異質のものとなってしまった。上田都史氏の言葉を借りてするならば、「現代の俳人の大方は、最早、井泉水、一碧楼亡き後の自由律俳句に、まったく信用をおいていない。有り体に申せば、それは、大きな遺産をただ食い潰しているに過ぎないからである。前方を見ないのは仕方のないこととしても、振り返って真にうしろさえ見ようとしない」(『近代俳句文学史』)という表現に置き替えられるのかもしれない。しかし、これまで、碧梧桐・井泉水、一碧楼らが取組んできた、「新しい俳句」を目指すという俳句革新の流れとそれに対する大きな成果もたらしたということは、現在の、「現代俳句と伝統俳句との相克」という真っ直中にあって、いささかも色褪せるものではなく、ますます、今後その真価が問われていくことであろう。そして、再刊された自由律俳句史「層雲」の下記の「先達の句」にその名を刻んだ俳人達の正しい評価が、今こそ切望されるということであろう。
 
http://www.geocities.jp/souunweb/img/sendatsu/sendatsu.htm

なお、この「先達の句」のうち、最近の自由律俳句の俳人として注目を集めた、住宅謙信については、先に触れたが、下記のアドレスに収載してある。

http://yahantei.blogzine.jp/world/cat2802227/index.html

【層雲の先達者達とその代表句】

荻原井泉水(1884~1976)
 たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く
 太陽のしたにこれは淋しき薊が一本
 空を歩む朗々と月ひとり
 棹さして月のただ中
 わらやふるゆきつもる
 石のしたしさよしぐれけり
 花を花に来て花の中に坐り
 男と女あなさむざむと抱き合ふものか
 ほとももあらはに病む母見るも別れか
 美し骨壺 牡丹化られている

種田山頭火(1884~1976)
 分け入っても分け入っても青い山
 まっすぐな道でさみしい
 うしろすがたのしぐれていくか
 ほろほろ酔うて木の葉ふる
 生死の中の雪ふりしきる
 鉄鉢の中へも霰
 雪へ雪ふるしづけさにをる
 てふてふひらひらいらかをこえた
 おちついて死ねそうな草萌ゆる
 もりもりもりあがる雲へ歩む

尾崎放哉(1885~1925)
 せきをしてもひとり
 入れものが無い両手で受ける
 足のうら洗えば白くなる
 墓のうらに廻る
 こんなよい月を一人で見て寝る
 酔いのさめかけの星が出てゐる
 月夜の葦が折れとる
 障子あけて置く海も暮れきる
 肉がやせて来る太い骨である
 春の山のうしろから烟が出だした

秋山秋紅蓼(1885~1966)
 静かに星が砂のごと湧きいづる空
 かぜがおばなのやまのかたちをふく
 夢の中の女が青い帯しめて来た朝
 夕べの富士の晴れてるを貧しく住む
 梅花無惨散って咲いて散り果てている

芹田鳳車(1885~1954)
 月が夜どこかで硝子がこわれる
 草に寝れば空流る雲の音きこゆ
 一個の物体林檎が一つまあるく黙す
 さくらの花もさききった夜がひっそり
 真昼で止まった時計の時刻が海へ置いてある椅子

青木此君楼(1887~1968)
 蜘蛛が巣をあむ月光にはりわたし
 語りつくしたよう小ぶりになっている雨
 一と足うしろへ牛がうごいた
 ならんで背も同じすずめ
 一と鉢の黄菊

木村緑平(1888~1968)
 こくなに雀がゐる家で貧乏している
 雀が巣に入ったみんなだまってゐろよ
 すずめの春はひろい空が咲いている
 石も木の下がすずしい
 どちらが先に死ぬにしても蝉聴いている

内島北朗(1889~1978)
 花らんまん陶窯を出し壺を抱く
 頭寒足熱今日の空晴れわたる
 わが壺に水を満たし笑う花の一枝を挿す
 窯の火窯をあふれる星空いっぱいの星
 窯に火を放ちことばなかりき

大越吾亦紅(1889~1965)
 山で鳩鳴くむかしから人間いてさびしとおもう
 みるみる積る雪降りオルガンは寂かに聞えるもの
 山の兎の白くなりそうしててっぽうでうたれた
 親にそむく心麦踏みてやはらげり
 雲のうらに僅かに月が見えその程度の明るさの町

大橋裸木(1890~1933)
 陽へ病む
 水にうけて親子三人の三つの桃
 春さきの水平線がすっとあるポスト
 涼む子のおそそがみえたりして涼しいかぎり
 清閑寺ならこうお行きやして春の白雲

野村朱鱗洞(1893~1918)
 かがやきのきはみしら波うち返し
 はるの日の礼讃に或るは鉦打ち鈴を振り
 麦は正しく伸びてゆき列をつくりたり
 れうらんのはなのはるひをふらせ
 舟をのぼれば島人の墓が見えわたり

池原魚眠洞(1893~1987)
 月の明るさは音のない海が動いている
 海がばさりともいわず夜が牡丹雪となる
 海が噛みつくように狂う音の二階へ急な階段
 いちにちうちにいて冬の日が部屋の中移ってゆく
 肩寄せて星の暗いのを春と思ってゆく道

栗林一石路(1894~1961)
 シャツ雑草にぶっかけておく
 もう吸う血がない死顔を蚊がはなれてゆく
 鰯くろく焼けたら火を消せと妻
 いくさあらすな花菜風わたる日のにおい
 銭がころげておちつけば音のさびしい灯

家木松郎
 雨にぬれて花びら心もち発熱する
 鏡の底の詩人と話す少女の首
 波から咲いた梅か月は航海する
 未明の杉少女指よりインキ流し
 風が消え村が消え一月の細身の鴉

小澤武二(1896~1966)
 絵の消えた絵馬がかかっていた
 土むずがゆく芽を出し芽を出し
 さつと光りてまた風が草を渡るなり
 死顔に化粧する紅が見あたらない
 二人語れば向日葵やゝに廻りけり

河本緑石(1897~1933)
 冬の夕焼さびしい指が生えた
 あらうみのやねやね
 蛍一つ二つゐる闇へ子を失うてゐる
 迷いあぐんだ街角で枯木になる
 私の胸に黒い夜沼の蛇だ

中原紫童(1899~1963)
 めおとごと終り夜のさゐさゐと雨ふるや
 蛍一つ戸にすがりこの家喪にをる
 水の上に出て鯉の尾ひれ春うごく
 うまのまつ毛のさみしさは春のゆきふる
 さくらちる人形はいつも硝子の中

牧山牧句人(1897~1967)
 一点の不安を女が花を買いたい気持
 音感をそのロマンスグレイとはそんな人新刊書
 麦畑の畝の整然と青い拳銃をうつ
 月と美しい空気が冬は目を病んでいる
 灰皿にして貝殻のすいがらのべに

船木月々紅(1897~1969)
 神は冬をつくりたもう一本の枯葦
 月が静かにさしよればフラスコにある球面
 ハーモニカの音階細長い光を蛍がひく
 四ツの方向から四人が昇って来て絶頂に金色の十字架をたてる
 水の上に浮いて夏の月がやがて水底に沈んでゆくようす

巣山鳴雨(1902~1982)
 二階から魚屋の魚見えて秋に入る雨
 心にも花散りいそぐまこと春なり
 いちにち風がなく日ぐれて白いにわとり
 炭は炎おさめている椿一輪の赤
 秋が空からそして窓から皿には柿

関口父草(1902~1999)
 一草一仏とおもう花の白さよ
 冬がざらざらななかまどでごわす
 風がどぎつく鋭く研ぎしもの持ち
 浪がしらほのかにも荒海の暗さなり
 こごえてこごえはてて月のでている枝という枝

海藤抱壺(1902~1940)
 皿に赤い心臓が深夜の桃
 日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴
 クリストの齢なるこそ女に触れぬ我身こそ
 窓に、私の空はいつも横にある
 夢の中の私も病んでねてゐた

橋本夢道(1903~1974)
 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ
 妻よ五十年吾と面白かったと言いなさい
 妻よたった十日余りの兵隊に来た烈しい俺の性欲が銃口を磨いている
 精虫四万の子宮へ浮游する夜をみつめている
 妻をはなれて妻がこいしい夜の大阪の灯や河

和田光利(1903~1991)
 額しろき馬の額あげて夏山幾重
 麦は刈るべし最上の川の押しゆくひかり
 白馬の狂いしづまり緋牡丹の花
 絶巓はさびしにんげんふたり坐る余地なし
 その蛇を打ち樹液したたる枝

井上三喜夫(1904~1990)
 すずめのあとからすずめがきて うめのえだ
 なんでもない そらが うつくしい ばかり
 わたしは かぜに なりたい 春のかぜに
 かがし かがし これで人の子教えにゆくか
 あさり いまはふたをとじ自分を思っている

松尾あつゆき(1908~1985)
 すべなし地に置けば子にむらがる蠅(原爆句抄)
 とんぼう、子を焼く木ひろうてくる
 ほのお、兄をなかによりそうて火になる
 かぜ、子らに火をつけてたばこ一本
 外には二つ、壕の内にも月さしてくるなきがら

筒井茎吉(1907~1996) 
 岸壁の瞑い灯は鯖のぬれて青い雨
 剃刀の感触が鏡のなかの百合の匂いとなる
 酔うた月の裏町のりんごは野性的に囓るべし
 訪ねて雨のさくらの枝が表札のうすらいだ文字
 諍いのあとの冬の苺に添えた楊子

岡野宵火(1916~1951)
 くちづけ、しろいはなしろくくれている
 かさのなかもはなしがあってゆく
 骨壺のおもみいだき膝におきそうして、おる
 わかれてしまえば月にひらひら遠くなりゆく
 べにのついたすいさしが煙って宵になったばかり

平松星童(1926~1987)
 なみだふきながららくがきしている
 あいたいとだけびしょびしょのハガキがいちまい
 遠い祭がきこえる金魚水の中で寂しい花火になる
 裸馬に裸の少年水にぬれ月にぬれていく
 ぽっくり死なれてみればまことに冬がおてんきつづき

飯島翆壺洞(1940~1983) 
 私の内なる丘の春霞に蒼き鹿立てり
 月夜の海がけものの骨あらっている
 美しいけもの罠に陥ち枯野雪ふる
 塚累々ひとの墓うまの墓ちょうの墓
 春の日暮れへ行方不明になった機関車

住宅顕信(1961~1987)
 若さとはこんな淋しい春なのか
 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
 春風の重い扉だ
 ずぶぬれて犬ころ
 とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる

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