月曜日, 2月 13, 2006

山頭火散策(その一~その十三)



山頭火散策

「つれづれ文庫」の「種田山山頭火」(下記アドレス)のものを抜粋しながら、山頭火の自由律俳句というものを散策してみたい。

http://www.nextftp.com/y_misa/

(その一)

鉢の子

   大正十四年二月、いよいよ出家得度して肥後
   の田舎なる味取観昔堂守となつたが、それは
   まことに山林独住の、しづかといへばしづか
   な、さびしいと思へばさびしい生活であつた。
松はみな枝垂れて南無観世音

松風に明け暮れの鐘撞いて

ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる

   大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負
   うて、行乞流転の旅に出た。
分け入つても分け入つても青い山
 
しとどに濡れてこれは道しるべの石
 
炎天をいただいて乞ひ歩く

   放哉居士の作に和して
鴉啼いてわたしも一人

   生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁
   なり(修証義)
生死の中の雪ふりしきる


 山頭火が亡くなる年(昭和十五年)に刊行された、一代句集『草木塔』の冒頭の章「鉢の子」の冒頭の八句である。「分け入つても分け入つても青い山」、山頭火の代表作でもある。このリズムは「分け入つても(六)分け入つても(六)青い山(五)」の十七音字の破調のようにも思われる。季語はないけれども、「青い山」は、禅林句集などに出てくる、「青山自青山、白雲自白雲」など古来からよく使われている用語で、季語的な働きをしているとも解せられる。「鴉啼いてわたしも一人」は、その「放哉居士の作に和して」の前書きのとおり、放哉の「咳をしても一人」・「鴉がだまって飛んで行った」などが念頭にあろうか。いわゆる、放哉の句の「本句取り」の句、そして、放哉への挨拶句ということになろう。こういうところを見ていくと、山頭火の自由律俳句というのは、それほど、有季・定型の、いわゆる、俳諧が本来有していたものと、全く異質の世界のものではなく、その延長線上のものであるということを実感する。

(その二)

其中一人
 
雨ふるふるさとははだしであるく
 
くりやまで月かげの一人で
 
かるかやへかるかやのゆれてゐる
 
うつりきてお彼岸花の花ざかり

朝焼雨ふる大根まかう

『草木塔』第二章の「其中一人」の冒頭の五句である。この五句のみを見ただけでも、山頭火の自由律俳句というのは、一目瞭然で実に平明な句作りというのが理解できる。およそ、語釈を必要とするものもなく、とりたてて、これらの句の散文的な鑑賞文はかえって煩わしいものとなってこよう。と同時に、漢字の表現よりも平仮名の表現が多く、それがまた、山頭火俳句の特色ともいえるであろう。これらのことについて、「対談 今、なぜ山頭火か」(村上護・石寒太)で、「彼(註・山頭火)は美しい日本語、美しい日本の心というか、そういうものを常に持っていました。ですから、社会的な身なりは、乞食という形で生きながら、心そのものは非常に高貴で、そういう高貴なものを映し出す言葉というのは、鏡みたいなものですね。美しい日本語を使うということに対しては、大変に勉強もしてますし、意識的に使っています」(石寒太編『保存版 山頭火』所収の村上護)と、ここに、山頭火の俳句の大きな特徴を見出すことができそうである。そして、山頭火・放哉の師にあたる「層雲」主宰の荻原井泉水は、言語学者で、国語学者の金田一京助、英語学者の市川三喜らと東大の同窓で、その井泉水の影響を大きく受けているということが指摘できそうである(石寒太編・前掲書)。

(その三)

行乞途上

朝露しつとり行きたい方へ行く
 
ほととぎすあすはあの山こえて行かう
 
笠をぬぎしみじみとぬれ
 
    家を持たない秋がふかうなるばかり
 行乞流転のはかなさであり独善孤調のわびしさである。私はあて
もなく果もなくさまよひあるいてゐたが、人つひに孤ならず、欲し
がつてゐた寝床はめぐまれた。
 昭和七年九月二十日、私は故郷のほとりに私の其中庵を見つけて、
そこに移り住むことが出来たのである。
    蔓珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
 私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水より
も好きであつた。今日は酒が好きな程度に於て水も好きである。明
日は水が酒よりも好きになるかも知れない。
 「鉢の子」には酒のやうな句(その醇不醇は別として)が多かつ
た。「其中一人」と「行乞途上」には酒のやうな句、水のやうな句
がチヤンポンになつてゐる。これからは水のやうな句が多いやうに
と念じてゐる。淡如水――それが私の境涯でなければならないから。
(昭和八年十月十五日、其中庵にて、山頭火)

『草木塔』第三章の「行乞途上」の「あとがき」とその前の三句である。

 「歌人の西行は自分の内面を見つめる意志的な積極性をもって漂泊の旅をした。松尾芭蕉も求道者ではあるが、その旅は弟子を連れての紀行であり、周到に計画された漂泊であったといえる。小林一茶は山頭火と同じようにメモ魔であることは共通しているにしても、江戸と信濃柏原に居所を持った定住型の漂泊者であって放浪の輩ではなかった。故郷に後ろ髪を引かれる思いを心に宿しながら、その白い微光の痛みを感じつつ歩いた山頭火は、旅先のすべてをその薄日の中に見て、世を捨てて求道者たらんとする自分と相克をつづけていた」(石寒太編・前掲書所収「行乞の果てに見た真実(金子兜太稿)」)。

 この金子兜太の山頭火観が、これらの掲出句とその「あとがき」を見ると、つくづくと実感する。

(その四)

山行水行

山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆふべもよろし
炎天かくすところなく水のながれくる


旅から旅へ

 飯田にて病む 二句
まこと山国の、山ばかりなる月の
 
あすはかへらうさくらちるちつてくる

 山行水行はサンコウスイコウとも或はまたサンギヨウスイギヨウ
とも読まれてかまはない。私にあつては、行くことが修することで
あり、歩くことが行ずることに外ならないからである。
 昨年の八月から今年の十月までの間に吐き捨てた句数は二千に近
いであらう。その中から拾ひあげたのが三百句あまり、それをさら
に選り分けて纏めたのが以上の百四十一句である。うたふもののよ
ろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。この意味に
於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。
    あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
    あるけば草の実すわれば草の実
 この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上に於ける私の真実
をうたつた作であるが、現在の私としては前句を捨てて後句を残す
ことにする。
 私はやうやく『存在の世界』にかへつて来て帰家穏坐とでもいひ
たいここちがする。私は長い間さまようてゐた。からだがさまよう
てゐたばかりでなく、こころもさまようてゐた。在るべきものに苦
しみ、在らずにはゐないものに悩まされてゐた。そしてやうやくに
して、在るものにおちつくことができた。そこに私自身を見出した
のである。
 在るべきものも在らずにはゐないものもすべてが在るものの中に
蔵されてゐる。在るものを知るときすべてを知るのである。私は在
るべきものを捨てようとするのではない、在らずにはゐないものか
ら逃れようとするのではない。
『存在の世界』を再認識して再出発したい私の心がまへである。
うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。
私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつと
めであり同時に私のねがひである。
(昭和九年の秋、其中庵にて、頭火)

『草木塔』第四章の「山行水行」の一句並びに第五章「旅から旅」の「あとがき」とその前の前書きのある二句である。この山頭火の「うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである」の指摘は、詩人の、俳人の、望まれるその姿勢と心掛けを見事に言い当てている。それと同時に、かって、「尾崎放哉探索」で記した、平畑静塔の「俳句の曲譜は定型そのものにあり、俳人は歌手に過ぎない」(『俳人格説』所収「定型不実論」)が思い起こされてくる。

(その五)

雑草風景

   病中 五句
死んでしまへば雑草雨ふる
 
死をまへに涼しい風
 
風鈴の鳴るさへ死のしのびよる
 
おもひおくことはないゆふべの芋の葉ひらひら
 
傷が癒えゆく秋めいた風となつて吹く
 
秋風の水音の石をみがく
 
萩が径へまでたまたま人の来る
 
月へ萱の穂の伸びやう
 
旅はゆふかげの電信棒のつくつくぼうし
 
つきあたれば秋めく海でたたへてゐる
 
 題して『雑草風景』といふ、それは其中庵風景であり、そしてま
た山頭火風景である。
 風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがす
がたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに。
 私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は
雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろ
しいのである。
 或る時は澄み或る時は濁る。――澄んだり濁つたりする私である
が、澄んでも濁つても、私にあつては一句一句の身心脱落であるこ
とに間違ひはない。
 此の一年間に於て私は十年老いたことを感じる(十年間に一年し
か老いなかつたこともあつたやうに)。そして老来ますます惑ひの
多いことを感じないではゐられない。かへりみて心の脆弱、句の貧
困を恥ぢ入るばかりである。
(昭和十年十二月二十日、遠い旅路をたどりつつ、山頭火)
『草木塔』第六章の「雑草風景」の「あとがき」とその前の十句である。この「あとがき」の「風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに」とは、山頭火の作句上の基本的な姿勢であろう。このこととあわせ、次の山頭火の言葉は、山頭火その人を知るというよりも、詩歌に携わる者の共通言語のようなものに思われる。
「私は最早印象だけでは・・・単に印象を印象として表白することだけでは満足することが出来ないやうになりました。印象に即して印象の奥を探り、そこに秘められた或る物を暗示しななければならないと信じててゐます。そしてそこから象徴詩として俳句が生まれると信じてゐます」(「草上句評の中で」)。

(その六)

柿の葉

自戒
一つあれば事足る鍋の米をとぐ
 
 柿の葉はうつくしい、若葉も青葉も――ことに落葉はうつくし
い。濡れてかがやく柿の落葉に見入るとき、私は造化の妙にうた
れるのである。
 
    あるけば草の実すわれば草の実
    あるけばかつこういそげばかつこう
 
 そのどちらかを捨つべきであらうが、私としてはいづれにも捨
 てがたいものがある。昨年東北地方を旅して、郭公が多いのに驚
 きつつ心ゆくまでその声を聴いた。信濃路では、生れて始めてそ
 の姿さへ観たのであつた。
 
    やつぱり一人がよろしい雑草
    やつぱり一人はさみしい枯草
 
 自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人
句集では許されないでもあるまいと考へて敢て採録した。かうし
た私の心境は解つてもらへると信じてゐる。
(昭和丁丑の夏、其中庵にて 山頭火)

『草木塔』第七章の「柿の葉」の「あとがき」とその前の句である。山頭火が所属していた「層雲」の第一信条が、「一草一木の真実を観取すべし」とのことである(伊藤寛吾著『山頭火を語る』)。この「層雲」主宰の荻原井泉水の、この作句信条を身を挺して実践した人、その人こそ、種田山頭火ということになろう。そして、山頭火は俳人の多くがそうしたように、常に、推敲に推敲を重ねる俳人でもあった。(「推敲」というよりも、山頭火自身、「改作」という言葉を使っており、そのメモ書きのような類型句の多さからすると、山頭火自身の言葉の「改作」いうニュアンスがより妥当なのかもしれない。)

(その七)

銃後

街頭所見
日ざかりの千人針の一針づつ
  戦死者の家
ひつそりとして八ツ手花咲く
遺骨を迎ふ
しぐれつつしづかにも六百五十柱
  遺骨を迎へて
いさましくもかなしくも白い函
遺骨を抱いて帰郷する父親
ぽろぽろしたたる汗がましろな函に
ほまれの家
音は並んで日の丸はたたく
  歓送
これが最後の日本の御飯を食べてゐる、汗
戦傷兵士
足は手は支那に残してふたたび日本に

 『草木塔』第八章「銃後」の前書きのある八句である。
 大正デモクラシーが席巻していた当時、新興俳句・新興川柳の波が押し寄せていた。かし、これらの波は、昭和十五年に前後して、「新興俳句弾圧事件」・「新興川柳弾圧事件」によって、沈黙を余儀なくされた。それは実に、いわゆる大東亜戦争が始まる直前のことであった。山頭火らの自由律俳句というのは、明治末期から大正初期にかけての、河東碧梧桐らの新傾向俳句を母胎としており、無季俳句の志向とあわせ、自由律俳句の進展というのは必然的な流れの一つでもあった。掲出の山頭火の自由律俳句にも、新興俳句・新興川柳の多くがそうであったように、反戦的な響きを有している。掲出の「戦傷兵士」との前書きのある「足は手は支那に残してふたたび日本に」には、新興川柳弾圧事件により、二十九歳の若さで散った、反戦川柳人の鶴彬の「手と足ともいだ丸太にしてかへし」と同じ視点のものであろう。そして、山頭火のこうした一面については、全く等閑視されており、やはり山頭火の全体像を知るうえでは、これらの視点での今後の掘り下げが必要となってこよう。

(その八)

孤寒

  母の四十七回忌
うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする

  
旅心

   妹の家
たまたまたづね来てその泰山木が咲いてゐて


孤寒といふ語は私としても好ましいとは思はないが、私はその
語が表現する限界を彷徨してゐる。私は早くさういふ句境から抜
け出したい。この関頭を透過しなければ、私の句作は無礙自在で
あり得ない。
(孤高といふやうな言葉は多くの場合に於て夜郎自大のシノニム
に過ぎない。)
 私の祖母はずゐぶん長生したが、長生したがためにかへつて没
落転々の憂目を見た。祖母はいつも『業やれ業やれ』と呟いてゐ
た。私もこのごろになつて、句作するとき(恥かしいことには酒
を飲むときも同様に)『業だな業だな』と考へるやうになつた。
祖母の業やれは悲しいあきらめであつたが、私の業だなは寂しい
白覚である。私はその業を甘受してゐる。むしろその業を悦楽し
てゐる。
 
    凩の日の丸二つ二人も出してゐる
    音は並んで日の丸はたたく
 
 二句とも同一の事変現象をうたつた作であるが(季は違つてゐ
たが)、前句は眼から心への、後句は耳から心への印象表現とし
て、どちらも残しておきたい。

    しみじみ食べる飯ばかりの飯である
    草にすわり飯ばかりの飯
 
 やうやくにして改作することが出来た。両句は十年あまりの歳
月を隔ててゐる。その間の生活過程を顧みると、私には感慨深い
ものがある。
(昭和十三年十月、其中庵にて、山頭火)

『草木塔』第八章「孤寒」と第九章「旅心」の母と妹への山頭火の句とその「あとがき」である。そもそも山頭火のこの『草木塔』は、山頭火が十歳のときに、自らの命を絶った母への、その鎮魂のための句集であった。この句集の扉に、「若うして死をいそぎたまへる / 母上の霊前に / 本書を供へまつる」と記されている。山頭火の一生は、乞食の姿で、乞食になりきり、母が亡くなった古里の古い井戸に想いを馳せ、その古里を、そして、血縁の妹さんの家の辺りを放浪する日々でもあった。弟さんも自らの命を絶った。その弟さんが亡くなったときに、この「あとがき」に「業(ごう)やれ、業やれ」が口癖であった祖母も亡くなっている。山頭火の、この句集『草木塔』は、山頭火を廻る、これら山頭火の血縁の方々への鎮魂の句集と位置づけられるのであろう。この『草木塔』は私家版の折本句集七冊を集成したものであった。そして、この句集が刊行されたのは、昭和十五年四月二十八日、そして、その年の十月に、その五十八年の生涯を閉じている。まさに、山頭火の、この五十八年の生涯は、この一代句集『草木塔』の一冊を刊行するための、そのための生涯であったともいえるであろう。

(その九)



  伊良湖岬
はるばるたづね来て岩鼻一人

   渥美半島
まがると風が海ちかい豌豆畑

   鳳来寺拝登
お山しんしんしづくする真実不虚

    青蓋句屋
花ぐもりピアノのおけいこがはじまりました

   浜名街道
水のまんなかの道がまつすぐ

   秋葉山中
石に腰を、墓であつたか
 
水たたへたればおよぐ蟇

   天龍川をさかのぼる
水音けふもひとり旅ゆく


   九月、四国巡礼の旅へ
 
鴉とんでゆく水をわたらう
 
 三年ぶりに句稿(昭和十三年七月――十四年九月)を整理
して七十二句ほど拾ひあげた。
 所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。
        (昭和十五年二月、御幸山麓一草庵にて、山頭火)

 山頭火の、この『草木塔』は、大正十四年から昭和十三年までの、それまでの私家版の七冊の句集を集大成したもので、全部で七百一句が収載されている。そして、この句集の刊行は、山頭火が亡くなる昭和十五年四月二十八日で、発行元は東京の八雲書林、部数は七百部とのことであった(石・前掲書所収『「山頭火」世捨て紀行(村上護稿)』)。そして、この句集を刊行した、その昭和十五年の十月十日に、松山市の最後の居所の「一草庵」で、亡くなっている。この『草木塔』以後の作品については、山頭火の最晩年の姿が髣髴としてくるので、その全句を掲出しておきたい。

(その十)

昭和十四年九月~十二月 (その一)

柳ちるもとの乞食になつて歩く
 
石に松が昔ながら散松葉
 (白船居)
海見れば波音ききたくちよいと下車する
 
めうとで水汲む青田あをあを
 (沿道所見)
誰やら休んだらしい秋草をしいて私も
 
まづしいくらしのいちじくうれてきた
 
秋あらき波音の日ねもすあるく

ぬれてついてほんにしづかな雨

 (指月堂草房)
酔ひざめの木の葉ちるなりおちるなり

   宇品乗船
ひよいと四国へ晴れきつてゐる

 
秋晴れの島をばらまいておだやかな

   一洵君と共に石手川にそうて
石を枕に雲のゆくへを
 
見上げて高くうごくともないうごく枝

   松山――太山寺
あすはおまつりのだんじり組みあげて、雲

   横峰拝登
すなほに咲いて白い花なり

山のふかくも鐘おのづから鳴るか
 
落ち葉しつくしたる木の実の赤く

   香園寺慈母観音像
南無観世音おん手したたる水の一すぢ

秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり
 
あすはおわかれの爪をきりつつ、秋

   奥の院へ(白瀧不動)
お山しぐるる岩に口づけて飲む

   一洵君に、同時に澄太君に
落葉ふみわけほどよい野糞で

 
木の葉ふるふる野糞する
 
蓼に芒を活けそへておわかれの朝
    (十月十五日、みゆきさんに)
朝焼けのうつくしさおわかれする

秋晴るる右左さつさとおわかれ

秋空ただよふ雲の一人となる
 
山のけはしさ流れくる水のれいろう
 
しつかとお骨いだいて山また山
 (某氏に)
山の高さ稲よう熟れた

墓にかこまれて家一つ
 
のぼりつめてすこしくだれど秋ふかき寺
 
水音のうらからまゐる
 
湧いては消えては山の高さの雲の

   一洵君と別れる
上へ下へ別れ去る坂のけはしい紅葉
 
お客といへば私一人の秋雨ふりしきる
 
秋の夜ながれくる水のまんなかを汲む

   十月十六日、雲辺山をめざして
秋の水によねんなく障子を洗ふ
 
山里はひたむきに柿の赤くて
 
のぼるほどに水は澄みてはげしく
 
雨ふる栗負うて来て雑魚に代へて

   十月十七日、雨中雲辺拝登
山寺かさこそ粟を量るらしい音させて
 
雲がちぎれると山門ほのかに

   本山寺
鐘が鳴る通りぬけてひさびさの湯へ
 
秋の水をさかのぼりきて五重の塔
 
秋ふかくまよへる犬がないてまた
 
からだぽりぽり掻いて旅人

   普通寺へ
塔をめあてにまつすぐまゐる

   屏風ヶ浦海岸等
ぬかづけば木の香にほふや秋

   牧水の歌を誦して
秋ただにふかうなるけふも旅ゆく

   小豆島にて
水をよばれる少し塩気あるうまし
 
港はいまし落ちる日の親船小船

   南郷庵
その松の木のゆふ風ふきだした
 
庵主はお留守の木魚をたたく

   放哉墓前
ふたたびここに、雑草供へて

墓に護摩水を、わたしもすすり

   十月廿二日
   寒霞渓へ
ほしうどんほしならべる陽のさゞなみ
 
海はなつかしい墓がならんで

青空の下けふを糞する
 
をんなは駕で男は馬で紅葉ちらほら
 
山は暮れ早い谿の猿さけぶ
 
いただきの青空の昼月

水に聲ある山ふところでねむる

   十月廿三日
風ふけばどこからともなく生きてゐててふてふ

   小豆島よ、さよなら
波音かすかにどうにかならう

   西光寺
散りしくまへのしづかさで大銀杏
 
島はゆたかな里から里へ柿の赤さよ
 
なかなか死ねない彼岸花さく
 (改作追加)
  十月廿五日
枇杷の花やぐみの花や早泊りして
 
そのかみのおもひでの海は濁りて
 (壇ノ浦)
鳴いても山羊はつながれてひとり

(その十一)

昭和十四年九月~十二月 (その二)

   十月廿五日六日
秋ふかみゆく笈もぴつたり身について
 
暮れると寝て明けるよりあるく山また山

かうして旅する日日の木の葉ふるふる

   十月廿六日
木を伐るしきりにしぐるる
 
しぐれて山をまた山を知らない山

からだ投げだしてしぐるる山
 
しぐれて道しるべその字が読めない
 
稲を刈るとや枯れて穂のない稲を
 
里ちかく茶の花のしたしくて

   大窪寺(第八十八番結願所)
ここや打留の水のあふれてゐる

   十月廿七日
泊めてくれない折からの月が行手に

 (廿六日夜)
暮れても宿がない百舌鳥が啼く
 
山柿たわわ水にうつりてさらに赤く
 
あかあか燃える火が、ふと泊る

   十月廿七日
秋山けぶらして炭焼く一人か

   十月廿八日
分け入るみちのすすきほほけた

   空襲警報(防空訓練)
秋風たちまち赤い旗にかはつた

   十月廿八日九日

   野宿
まどろめばふるさとの夢の葦の葉ずれ
 
枯葉しいて月をまうへに
 
夜露しつとりなむつてゐた
 
水にそうていちにちだまつてゆく
 
秋もをはりの蚊がないてまつはるいつぴき
 (へんろ宿)
   野宿
月夜あかるい舟がありその中で寝る
 
ついたところが城跡といふ秋の空
 (土佐泊渡)
ふたたびはわたらない橋のながいながい風

 (吉野橋)
ことしの旅も、六十才と書く

誰もゐない落葉掃きよせてある昼ふかく
 
橋があたらしくをなごやのをんなたち
 
朝は晴れ夕べはくもる旅から旅へ
 
夜をこめておちつけない葦の葉ずれの
 
ちかづく山の、とほざかる山の雑木紅葉の
 
落葉吹きまくる風のよろよろあるく
 
秋の山山ひきずる地下足袋のやぶれ
 
お山にのぼりくだり何かをとしたやうな
 
よい連れがあつて雑木もみぢやひよ鳥や
 
山みち暮れいそぐりんだう
 
こんなに草の実どこの草の実
 
しぐれてぬれて旅ごろもしぼつてはゆく
 
しぐれて人が海を見てゐる
 
波音おだやかな夢のふるさと
 (野宿いろ/\)
秋風こんやも星空のました
 
落葉しいて寝るよりほかなく山のうつくしさ
 
生きの身のいのちかなしく月澄みわたる
 
わがいのちをはるもよろし
 (いつぞやの野宿を)
歩くほかない秋の雨ふりつのる
 
おほらかにおしよせて白波
 (室戸岬へ)
水もころころ山から海へ

 (ごろごろ浜)
夜のからだをぽりぽり掻いてゐる
 
わだつみをまへにわがおべんたうまづしけれども
 (室戸)
あらなみの石蕗の花ざかり
 
われいまここに海の青さのかぎりなし
 
落葉あたたかく噛みしめる御飯のひかり

こんやはひとり波音につつまれて
 (野宿さま/゛\)
食べて寝て月がさしいる岩穴
 
枯草ぬくう寝るとすると蝿もきてゐる
 
月夜あかるく舟があつてその中で寝る
 
泊まるところがないどかりと暮れた
 
すすき原まつぱだかになつて虱をとる
 
かうまでよりすがる蝿をうたうとするか
 
ぼうぼううちよせてわれをうつ
 (太平洋に面して)
 
うちぬけて秋ふかい山の波音
 (東寺)
 
松の木松の木としぐれてくる

 (土佐海岸)
 
ここらで泊らう草の実払ふ
 
ついてくる犬よおまへも宿なしか
 (途上即事)
 
梅干あざやかな飯粒ひかる
 
あなもたいなやお手手のお米こぼれます
 (行乞即事)
 
お手てこぼれるその一粒一粒をいたゞく
 
まぶしくもわが入る山に日も入つた
 
ひなたまぶしく飯ばかりの飯を
 
まぶしくしらみとりつくせない
 
道べり腰をおろして知らない顔ばかり
 
旅のほこりをうちはらふ草のげつそり枯れた
 
秋の旅路の何となくいそぐ
 
石ころそのまま墓にしてある松のよろしさ
 
旅で果てることもほんに秋空
 
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
 
一握の米をいただきいただいてまいにちの旅
 
木の実おちてゐる拾ふべし
 
短日暮れかかる笈のおもさよ
 
脚のいたさも海の空は日本晴
 
秋もをはりの蝿となりはひあるく
 
朝の橋をわたるより乞ひはじめる
 
わが手わが足われにあたたかく寝る
 (野宿)
旅の長さ夜どほし犬にほえられて
 
寝ても覚めても夜が長い瀬の音
 
山のするどさそこに昼月をおく
 
びつしり唐黍ほしならべゆたかなかまへ
 
岩ばしる水がたたへて青さ禊する
 
山のしづけさはわが息くさく
 
なんとまつかにもみづりて何の木
 
ほんに小春のあたたかいてふてふ
 
朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく
 (大宝寺)
秋風あるいてもあるいても
 
なんとあたたかなしらみをとる
 
供へまつる柿よ林檎よさんらんたり
  (戦死せる高市茂夫氏の遺骨にぬかづいて)
なむあみだぶつなむあみだぶつみあかしまたたく
 
ひなたぢつとして生きぬいてきたといつたやうな
 (或る老人)

(その十二)

昭和十四年十二月~昭和十五年 (その一)

昭和十四年朧月十五日、松山知勇の厚情に甘え、縁に随うて、
当分、或は一生、滞在することになった。
一洵君におんぶされて(もとより身内のことではない)道後の
宿より御幸山の新居に移る。新居は高台にありて閑静、山もよ
く砂もきよく水もうまく、人もわるくないらしい、老漂泊者の
私には分に過ぎた栖家である。よすぎるけれど、すなほに入れ
ていただく。松山の風来居は山口のそれよりうつくしく、そし
てあたたかである。

   一洵君に
おちついてしねさうな草枯るる
  (死ぬることは生まれることよりもむつかしいと、
   老来しみじみ感じないではゐられない)
 
抜けたら抜けたまま歯がない口で
 
山裾やすらかに歯のないくらしも
 
空には風が出る凧あがるあがる
 
凧をあげると春風らしい子供の群

   或る老人
日向ぼこして生きぬいてきたといつたような顔で

   道後温泉湯瀧
朝湯のよろしさもくもくとして順番を待つ
 
大霜の人声のあたたかな日ざし

   護国神社
霜のきびしさ霜をふんでまうでる

   葉
牛が大きくよこたはり師走風ふく
 
寒空とほく夢がちぎれてとぶやうに

   机上水仙花
あすはお正月の一りんひらく
 
あすは元旦の爪でもきらう

   卓上の水仙花
一りん咲けばまた一りんのお正月
 
一人正月の餅も酒もありてそして
 
ひとり焼く焼き餅ひとりでにふくれたる

   このあかつき
   ――元旦、護国神社に参拝して――
このあかつき御手洗水のあふるるを掌に
 
このあかつきの大いなる日の丸へんぽん
 
正月二日あたらしい肥桶かついで

    石手川三句
をんなを岩にピント合してゐる若さ
 
正月三日お寺の方へぶらぶら歩く
 
しぐるるや郵便やさん遠くへ来てくれた
 
かへりはひとりの月があるいつぽんみち
 
ほどよう御飯が炊けて夕焼ける

   行乞途上
干せば乾けばふんどししめてまた歩く

   山口へ―九州へ
こんやはここにて雨ふる春雨
 
何の草ともなく咲いてゐるふるさとは
 
遠ざかるうしろ姿の夕焼けて
 
ほほけすすきがまいにちの旅
 
たばこやにたばこがない寒の雨ふる
 
ふるさとへ冬の海すこしはゆれて

   帰居
こしかたゆくすえ雪あかりする
 
ほつかり覚めて雪

   転一歩
身のまはりかたづけて遠く山なみの雪
 
春が来たわたくしのくりやゆたかにも
 
いま何時ともわからない春雨らしう降る
 
ひとりで酔えば啼くは鶲よ
 
酔うて闇夜の蟇踏むまいぞ
 
月の一枝ぬすませてもらふ

  或る月の一草庵は
雨をためてバケツ一杯の今日は事足る
 
枯れて濡れて草のうつくしさ、朝
 
寝ころべば枯草の春匂ふ
 
酒はしづかに身ぬちをめぐる夜の一人
 
なんときびしい寒の水涸れた
 
一人で事足る鶲啼く
 
塵かと吹けば生きてゐて飛ぶ

   街頭所見千人力
つぎつぎに力をこめて力と書く
 
墓地をとなりによい春が来た

   追懐
目刺あぶればあたまもしつぽもなつかしや

 
おとなりもをとこやもめのかさこそ寒い

   純一居二句
ほんに仲よく寄せ鍋をあたたかく
 
お日さま山からのぞいてお早う

 龍隠寺境内の孝子桜
咲いて一りんほんに一りん
 
膝に酒のこぼるるに逢ひたうなる
 
たまたま人が春に来て大いに笑ふ
 
春の山から惜しみなく伐りだしてくる
 
春の山から伐りだして長い長い木

   わが髯をうたふ
伸ばせば伸びる髯はごましほ
 
干物干して蕾はまだまだかたい
 
水もらひのゆきかへり花咲いて赤く

   道後湯町、宝厳寺
をなごまちのどかなつきあたりは山門
 
早春のおとなりから芹のおひたしを一皿

   自嘲四句
 
春寒ねむれない夜のほころびを縫ふ
 
縫糸なかなか通らないのでちよいと一服
 
やつと糸が通つたところでまた一服
 
糸のもつれのほぐるるにほどに更けて春寒
 
ふりかへる枯野ぼうぼううごくものなく

   老遍路
鈴をふりふりお四国の土になるべく
 
雪もよひたうとう雪になつてしつとり
 
雪あかりのまぶしくも御飯がふく
 
春寒く疵がそのままあかぎりとなり
 
ゆふべかたすみ消えのこる雪のほのかにも
 
聞いてしづかに、ぽとりと落ちた
 
だんだん似てくる癖の、父はもうゐない
 
逢へておわかれの大根もらうてもどる
 
水もぬるんだやうなどんこもをりさうな
 
墓二つ三つ芽ぶかうとしてゐる大樹

(その十三)

昭和十四年十二月~昭和十五年 (その二)

   母の第四十九回忌
たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと
 
春の水ゆたかに流るるものを拾ふ
 
春のよるのみほとけのひかり

   路傍の乞食
貰ひ足りて地べたべつたり寝てゐるいびき

   孫がまた生まれたとて
生まれてうれしく掌を握つたりひらいたり

   満州の孫をおもふ
この髯、ひつぱらせたいお手手がある
 
けふはよいたよりがありさうな障子あけとく

   松山城
生えてなずなとして咲いてつつましく
 
ふと触れてなづな華ちる
 
おちついて死ねさうな草萌ゆる
 
てふてふちらちら風に乗つた来た
 
さむざむ降る雨のひとりに籠る
 
干物ひろげる枝から枝のつぼみ
 
春はたまたま客のある日の酒がある
 
与へるもののよろこびの餅をいただく
 
春風のちよいと茶店が出来ました
 
食べものあたたかく手から手へ

   無縁墓碑整理さる
てふてふひらひらひらかうとしてゐる春蘭
 
今日いちにちのおだやかに落ちる日
 
うらうらほろほろ花がちる
 
青麦のなかの街街のなかの青麦
 
春の水の流るるものを追つかけてゆく
 
なければないで、さくら咲きさくら散る
 
ふまれてたんぽぽひらいてたんぽぽ
 
名もない草のいのちはやく咲いてむらさき
 
蝿があるいてゐる蝿取紙のふちを
 
降つたり霽たりおのれにかへる
 
しばらく歩かない脚の爪伸びてゐるかな
 
あらしのあとの空のしづもるふかさ

空腹を蚊にくはれてゐる
 
むなしさに堪へて草ふむ草青し
 
草のたくましさは炎天さらにきびしく
 
外米も内米もふつくらふいた
 
誰にも逢はない道がでこぼこ
 
おもひだしては降るよな雨の涼しうなる
 
どこからとなく涼しい風がおはぐろとんぼ
 
かたすみの朝風に播いてをく
 
活けて雑草のやすけさにをる
 
蛙になりきつて跳ぶ

   述懐
この一すぢをみなかみへさかのぼりつつ
 
天の川のあざやかさもひえびえ風ふく
 
月夜の水に明日の外米浸けて寝る
 
ぽとりとおほらかにおちる花

   破戒
もくもく蚊帳のうちひとり飯喰ふ

   雑草礼賛
生えよ伸びよ咲いてゆたかな風のすずしく
 
日ざかりの赤い花のいよいよ赤く
 
雷遠く雨をこぼしてゐる草の葉

   一草庵裡山頭火の盆は
トマトを掌に、みほとけのまへにちちははのまへに
 
盆の月夜の更けてからまゐる足音
 
をりをり顔をみせる月のまんまる
 
よい水音の朝がひろがる
 
朝霧こぼるる畑のものどつさりもろた

   絶食の日
月のひかりのすき腹ふかくしみとほるなり
 
日ざかりの空腹は鳴る
 
食べるものがなければないで涼しい水
 
かなかなかなかなやうやく米買ひに
 
御飯のうまさほろほろこぼれ
 
ゆう焼けしづかなお釜を磨く
 
夕立やお地蔵さんわたしもずぶぬれ
 
蚊帳の中まで夕焼の一人寝てゐる
 
夕焼雲のうつくしければ人の恋しき
 
椰のみどりの青空のふかさ渡る鳥

   禁酒したいが
蝉しぐれの、飲むな飲むなと熊蝉さけぶ
 
とんぼとまつたふたりのあひだに
 
濁れる水の流れつつ澄む
 
朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし
 
掃くほどに散る葉のしづか
 
こころさびしくひとりまた火を焚く
 
芋粥のあつさうまさも秋となつた
 
炎天おもきものを蟻がひきずる
 
待つといふほどでもないゆふべとなりつくつくぼうし
 
打つても打つても蝿がくる蚊もくる蜂もきて
 
月から吹きおろす風のすゞしさに

   仲秋名月
酒はない月しみ/゛\観てをり
 
酒のうまさのとろとろ虫鳴く

   抱壷君の訃報に接して
たへがたくなり踏みあるく草の咲いてゐる
 
貰うて食べ秋ふかく拾ふて喫ふ
 
銭がない物がない歯がない一人
 
祈りて仏にたてまつるお花もひがん
 
朝月のあるぎんなん拾ふ
 
皆懺悔その爪を切るひややかな
 
いつ死ぬる木の実は播いておく
 
水がとんぼがわたしも流れゆく
 
風にみがかれみがかれ澄みわたる月は

   子規忌ちかく
紫苑しみじみ咲きつゞく今日のこのごろとなり
 
けふは仲秋すゝきや団子もお酒もちよつぴり
 
供へまつるお彼岸のお彼岸花のよろしさ
 
夕焼うつくしく今日一日はつつましく
 
ふとふりかへる山から月がのぞいたところ
 
おたたも或る日は来てくれる山の秋ふかく
 
しんじつ一人として雨を観るひとり
 
おもひでがそれからそれへ酒のこぼれて
 
朝は澄むきつておだやかなながれ一すじ
 
晴れて風が身ぬち吹きぬけて澄む
 
もらうて食べるおいしい有りがたさ
 
生える草の枯れゆく草のとき移る
 
三日月おちかかる城山の城

   先夜今夜の犬猫事件に微苦笑しつゝ一句
   十月五日夜
秋の夜や犬から貰つたり猫に与へたり
 
焼かれる虫の香ひかんばしく

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