金曜日, 10月 19, 2012

「茅舎研究」管見(その一~その十九)

「茅舎研究」管見

(茅舎が京都時代に逗留していた「正覚庵」)



(その一)

一 草臥て釣鐘草を踏みにけり  (大正四年十二月)

(たかし)「ホトトギス」の雑詠の茅舎の始めての投句で、虚子選の句。「茅舎の句としてみると、まだ非常に単純な、幼いところがあって、この句では後年の茅舎の、あの作品の面影といふものは殆ど予想できない位な感じがする。
(正一郎)踏んだのが、釣鐘草だといふことが面白いね。
(爽雨)「踏みにけり」といふ表現が、大胆素直なんですね。それが初心者としての技巧の欠如から来る大胆素直の様であり、同時にそれが後年の茅舎の表現の要素をなした大胆素直にも見える。
(蓼汀)釣鐘草といふものを、特に取上げたところが普通と違ったところがある。釣鐘草は蛍ぶくろのことでせう。
(管見)たかし=松本たかし。正一郎=深川正一郎。爽雨=皆吉爽雨。蓼汀=福田蓼汀。『定本松本たかし全集四』(竹頭社)による。「草臥て」と「釣鐘草」との配合が何となく茅舎らしい。「草臥れて釣鐘草に躓きぬ」(不遜)。

(参考)

http://questinfo.blog60.fc2.com/blog-entry-52.html



草臥(くたび)れて宿かる比(ころ)や藤の花

季語は【藤】 芭蕉が「笈の小文」(おいのこぶみ)の旅で、八木の町に宿を求めた時の俳句です。 
今日も大和路を旅していい加減歩き疲れた。そろそろ宿に入るころだな。ふと見ると眼前には藤の花。
旅の疲れを癒してくれる花の景色にホッとした芭蕉の心境がうかがえる。
「草臥れて」なんて、何気なく発する話し言葉を使っている所がミソ。
疲れた、疲れたと云って、その辺に腰を下ろすと、目の前に今が盛りの藤の花がある。こいつあは好いや、つい顔がほころぶ。そんな情景です。
「宿かる」は「宿を借りる」と云う意味。つまり、そろそろ夕方と云う時間帯。朝から歩いていれば草臥れる時間だ。
貞享五年(元禄元年)、芭蕉四十五歳の句。

(その二)

二 ふくよかな乳に稲扱く力かな(大正四年十二月)

(正一郎)百穂の初期の作品に農婦を取扱つたものがあるが、あの絵を見た時に感じたものを受けております。
(占魚)これは「乳に」といふので、乳だけを身体から引き出してをるが、身体全体の力といふものが矢張現はれてをるのだと思ふのですが。
(蓼汀)「ふくやかな乳に」と言ひ「力かな」といつたところは一沫の後味のよくないものを感じるね。
(たかし)ふくよかな乳房を持つてゐるやうな、か弱い女に逞しい力があるといふ、そのか弱いといふ感じは、全然頭に浮かばなかつた。
(爽雨)この作者が感じた力といふものと、乳房との客観的なつながりがボヤけてをるといふところに疑問がありますね。
(管見)占魚=上村占魚。「茅舎研究」(輪講会)の第一回は、昭和二十二年一月十一日に開催された。そこで、たかしは、「茅舎が亡くなつてすでに今年で六年目になり、つまり七周忌にあたる年の新年から茅舎の作品の研究を始めることになつた」と発言している。第二回は、二月五日に開催され、その時の連衆は、「爽雨・蓼汀・正一郎・占魚・静々・たかし」であった。上記の正一郎の発言の「百穂」は、日本画家の「平福百穂」のこと。茅舎の二十歳前後の青春時代には、友人の西島麦南と共に、武者小路実篤の「新しき村」に共鳴していた。当時、麦南は、飯田蛇笏主宰の「雲母」に投句していて、茅舎も「雲母」に投句をしていた。この句なども、蛇笏・麦南の影響なども窺える。「かりがねに乳はる酒肆の婢ありけり」(蛇笏)。「稻田にて子にふくよかな乳のます」(不遜)。

(参考) 飯田蛇笏の俳句

http://www.haiku-data.jp/author_work_list.php?author_name=%E9%A3%AF%E7%94%B0%E8%9B%87%E7%AC%8F


ある夜月に富士大形の寒さかな
いち早く日暮るる蟬の鳴きにけり
いわし雲おおいなる瀬をさかのぼる
いんぎんにことづてたのむ淑気かな
かりがねに乳はる酒肆の婢ありけり
かりそめに燈籠おくや草の中
くれなゐのこころの闇の冬日かな
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
たましひのしづかにうつる菊見かな
たましひのたとへば秋のほたる哉
つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋
なきがらや秋風可代ふ鼻の穴
ぬぎすてし人の温みや花衣
ぱつぱつと紅梅老樹花咲けり
ひたひたと寒九の水や廚甕
ふるさとの雪に我ある大爐かな
もつ花におつるなみだや墓まゐり
ゆく雲にしばらくひそむ帰燕かな
よき娘きて軍鶏流眄す秋日かな
わらんべの溺るるばかり初湯かな
をりとりてはらりとおもきすすきかな
一鷹を生む山風や蕨伸ぶ
芋の露連山影を正しうす
炎天を槍のごとくに涼気すぐ
夏雲群るこの峡中に死ぬるかな
夏山や又大川にめぐりあふ
夏真昼死は半眼に人をみる
寒鯉の黒光りして斬られけり
極寒の塵もとどめず岩ぶすま
月光のしたたたりかかる鵜籠かな
古き世の火の色うごく野焼かな
降る雪や玉のごとくにランプ拭く
高浪にかくるる秋のつばめかな
三伏の穢に鳴く荒鵜かな
山の童の木菟捕らえたる鬨あげぬ
山国の虚空日わたる冬至かな
山寺の扉に雲遊ぶ彼岸かな
死火山の膚つめたくて草いちご
死骸(なきがら)や秋風かよふ鼻の穴
死病得て爪うつくしき火桶かな
就中学窓の灯や露の中
秋鶏が見てゐる陶の卵かな
秋風や眼前湧ける月の謎
秋立つや川瀬にまじる風の音
春めきてものの果てなる空の色
春蘭の花とりすつる雲の中
信心の母にしたがふ盆会かな
切株において全き熟柿かな
雪山の冠りみだるる風の星
雪山を匐ひまわりゐる谺かな
雪晴れてわが冬帽の蒼さかな
戦死報秋の日くれてきたりけり
痩せし身の眼の生きるのみ秋の霜
草川のそよりともせぬ曼珠沙華
大つぶの寒卵おく襤褸の上
大江戸の街は錦や草枯るる
大峰の月に帰るや夜学人
滝風に吹かれあがりぬ石たたき
誰彼もあらず一天自尊の秋
暖かく掃きし墓前を去りがたし
冬に入る農婦いんぎん禍福なく
冬の蟇川にはなてば泳ぎけり
冬川に出て何を見る人の妻
冬滝のきけば相つぐこだまかな
凪ぎわたる地はうす眼して冬に入る
筆硯に多少のちりも良夜かな
苗代に月の曇れる夜振かな
命尽きて薬香さむくはなれけり
夜は青し神話に春の炉火もゆる
幽冥へおつる音あり灯取虫
落葉ふんでひと道念を全うす
流燈や一つにはかにさかのぼる
冷やかに人住める地の起伏あり
鈴おとのかすかにひびく日傘かな
炉ほとりの甕に澄む日や十二月
梵妻を恋ふ乞食あり烏瓜
竈火赫とただ秋風の妻を見る
薔薇園一夫多妻の場を思ふ
閨怨のまなじり幽し野火の月
鮟鱇やかげ膳据ゑて猪口一つ
鼈(すつぽん)をくびきる夏のうす刃かな


(その三)

三 冬木立ランプ点(とも)して雑貨店(大正五年二月)
四 烈風にぼんやり灯(とも)る枯木宿(同上)

(蓼汀)この三・四の句を読んで、すぐに浮んだのは、独歩の「武蔵野」などに出て来る東京近郊の風景です。俳句的な線がキッチリしてゐて、その情景なり、夜の雰囲気なり、さういつたものもよく受取れます。
(爽雨)二つとも風景の単なる写生句で、別に甲乙はつけられないやうに思ひました。ただかういう真つ正直な写生から、茅舎が出発したといふことだけに興味を覚えた訳ですが。
(たかし)夕方とも、夜景ともはつきりは言へないやうですね。後の方などは、とつぷりと暮れてしまつた夜景として受取りました。この烈風の句は、激しい動きと力を含んでをつて、その点に僕は茅舎的なものを一寸感じるのですが。
(正一郎)「枯木宿」といふと、一寸抽象的な感じがあつて、「雑貨店」といつたところに、非常に具象性があるのは面白いと思ふ。ただ、「冬木立」と突つ放したところは、生硬な感じがあるな。
(管見)当時、茅舎は十九歳で、人形町の料亭「蕪屋」の原田彦太郎(通称彦、俳号巨鼻人)と親しく、その実家の築地魚河岸の問屋「大力」にもしばしば出入りしていた。この彦太郎とは共に岸田劉生門に入り、劉生の『劉生絵日記』にも、茅舎(本名信一)と彦太郎の名はしばしば出て来る。また、この彦太郎をとおして、西島麦南を知り、麦南は当時「キラヽ」(のちの「雲母」)の巻頭俳人で、茅舎は当時の麦南の影響を強く受け、「雲母」にも投句している。また、茅舎は父(寿山堂)の影響で、「ホトトギス」「雲母」の他に、「藻の花」「俳諧雑誌」「渋柿」にも投句している。「ホトトギス」の投句は、大正四から六年の三年間で、後に、大正十一年に一度顔を出すが、本格的に「ホトトギス」に投句するのは大正十三年(茅舎、二十七菜)以降である。なお、茅舎の「ホトトギス」初入選は、大正三年二月号で、「藪寺の軒端の鐘に吹雪かな」の句である。掲出の二句は、その初入選の翌年の句で、未だ、「ホトトギス」調とか「雲母」調とかの格別の特徴は出ていない。この大正五年には、茅舎の異母兄の龍子(三十一歳)は、第三回院展で「霊泉由来」で「樗牛賞」を受賞している。茅舎も当時は画家になることを目指していた。掲出の句などにも、そういう画家的な構成というものが感じられる。「武蔵野のランプの宿や冬籠」(不遜)。

(その四)

五 葛の花と聞きしが淋し下山道 (前書き「三峯社参拝」・大正五年二月)

(爽雨)秩父の三峯神社へ参拝した作者が、参拝から下つて来る道すがら、辺りの崖や、木立にまつはつて、紫の花を覗かせてゐるものがあつたが、それは葛の花だと聞かされた。葛の花だと教へられて見ると、その花からのいろいろな連想も思ひ合はされて、何がなし淋しい気分に誘はれて来る。
(たかし)下山道といふのは、この場合確かに利いてをりますね。
(蓼汀)茅舎が何か淋しい気持を持つてゐて、葛の花といふものを知つてゐて、たまたま人がそこに花があると言つたがためにそれに誘はれて、また余計に或る悲哀を感じたという・・・。
(たかし)この句は「淋し」とあらはに云つてあるけれども、それが別に表現上の障りにもならずに、確かに淋しい感じが出てゐますね。
(管見)「葛の花と」の「字余り」については、誰も問題にしていない。その代わり、「聞きしが」の「聞きし」が、「聞いた」のか「教えられた」のかを問題にしている。この句は、「葛の花と聞きしが淋し」で「句切れ」して「下山道」と捉えれば、「誰かから葛の花が咲いているということを教えられて、それを見て」の意であろうか。この句は、「下山道」もさることなから、「聞きし」というところに、茅舎の思いがあるように思われる。それでないと、「葛の花と」の「と」の「字余り」が活きて来ない。
「葛の花からまりて咲く秩父道」(不遜)

(その五)

六 乳母車に枯木積みて暮れし男かな(大正六年三月)

(占魚)乳母車に枯木を拾つて積み入れてをる男の境涯の淋しさが伺はれます。単に枯木を拾ふといふのでなくて、使ひ古された乳母車の中に積み重ねられて行くといふので、そこに現はされてゐる姿は、如何にも淋しい。その「積みて暮れし」といふこの一句の字余りになつてゐるところに、非常に時間的なものが、同時に現れてゐると私は一寸感じるのですが、さういふものはありませんでせうか。
(たかし)時間を現すためにわざと字余りにしたかどうかといふことは、一寸疑問だな。僕は多分この当時の雑詠は、字余りの句が多かつたんだらうと思ふ。(後略)
(静々)「風呂敷に落葉包みてこと足りし」といふ『白痴』の句がありますね。
(たかし)一寸似た感じの句ですね。併しその方が如何にも単純化されてゐて、やはりしつかりしてゐるでせう。
(爽雨)「男かな」でひよつと思ひ出したんですが、石鼎の「鹿垣の門とざしゐる男かな」あゝいふところの影響は、この句にも認め得ると思ひますが、それと独立して、絶対価値からいつてもみの句は面白いぢやないかと思ひますがね。それから、字余りといふ歴史的な興味もありますし。
(管見)この第二回目の「輪講」は、「昭和二十二年二月五日」との括弧書きが一番最後に付されている。「字余り」は、当時の「ホトトギス」の雑詠の流行だったということだが、やはり、占魚の指摘する「その『積みて暮れし』といふこの一句の字余りになつてゐるところに、非常に時間的なものが、同時に現れてゐる」というのは同感である。
「乳母車脇の枯れ木に老婆かな」(不遜)

(その六)

八 泳ぐ眼に煤つらなりて流れけり (大正六年九月)

(爽雨)水泳をしてをつて、すぐ眼の前から水が際限なく拡がつてゐる。時には波が立つたり、平らかになつたりして拡がつてをる。その眼の前の水に、ふと気をとめて見ると、煤が浮かんでゐるのが眼についた。しかもその煤は、紐のやうにつながつてゆらゆらと続いてゐる。何処から来たどういふ煤か判らないが、人間の営みによつて生れて来た煤が、かうした水の上に漂つてゐるのを、泳ぎながら眼のあたりに見てゐるといふことに、一つの興味を覚えたといふ句であると思ひます。
(草田男)「つらなりて」といふのは、可成り大きな煤が、紐のやうにつながつてゆらゆらと続いてゐると仰つしやつたが、私は「つらなりて」といふのは、次ぎ次ぎといふこと、切れ目なしに、時間の上で次ぎ次ぎと、いふやうな風にとれます。(中略)茅舎は少年時代の終り、青年時代の初めには非常に元気で、水泳の名人であつたさうです。さうして荒川辺りに行つてはしよつちゆう河童のやうに泳いでゐたさうです。(中略)江戸つ子茅舎の、煤の漂ふ水を泳いで暮らしたものの句といふ気がします。ひよつとすると、これはもつと少年時代の記憶を詠つたのぢやないかといふ気がします。
(蓼汀)茅舎は深川に住んでゐたのですね。煤がつらなつて流れたといふのは、波なんか余り立たない大川口か、隅田川の口とかいつた場所が考へられます。
(管見)この「輪講」の第三回は、「たかし」は休みで、草田男が始めて出席している。
この句は、八番になっているが、七番は欠番のようである。茅舎が亡くなってからの茅舎の追想の、西島麦南の「信(のぶ)ちやん時代」の中で、「信ちやんは中学時代すでに水泳教師の免状をもらつた程の大川の河童だつた」とあり、その当時の回想の句なのであろうか。「煤つながり」というのは、実景なのかも知れないが、茅舎特有の「不気味さ」というような雰囲気の句でもある。
「神田川煤連なりて秋の暮」(不遜)

(その七)

九 初秋の背板の如く悪寒かな (大正六年九月)

(蓼汀)夏の終り頃になると、身体がだらけたやうになつてゐたのが、初秋になつて、身の引締やうなすがすがすがしさを覚えるといふことは経験するのですが、それが背中が板のやうになつて、さうして悪寒がするといふのは、ここに「病」の茅舎が現て来たのだと思ひます。そして茅舎の「如く」といふ譬喩の特徴の一つに挙げられてゐるのですが、この場合「背板の如く」といふのは、非常に成功しゐるのかどうか、かういふことについては未だ疑問があるやうに思ひます。
(草田男)「板の如く」といふのは一応成功してをると思ひますけれども、冷たい板一枚背負つたやうに悪寒がすることによつて、背の広さが感じられる、ですからよくいふ頭が痛むまで頭のあることを意識しない、胃が痛んではじめて胃があるのかと知るやうな、いつて見ればひよつと寒風がやつて来て、おお寒い、といふ奴、悪寒がだんだん全面に張り出して絶えず面積が拡がつてをるやうな、これは矢張板の如くといふのは当たつてゐるのぢやないですか。
(爽雨)ゴツゴツしてをりますが、背(せ)といふのを「せな」と読ましたら楽になりませんか。「背板(せいた)の如く」といふと寸づまりですが、「背(せな)板の如く」といふと・・・。
(草田男)「背板の如く」といふのを「背に板の如く」とか「背は板の如き」とか、何か助詞が入ると滑らかになりますけれどもね。悪寒の感じを出すために窮屈にしたんぢやないでせうね。
(蓼汀)「初秋の背」といふのは、随分強引な言い方ですね。
(管見)大正六年(一九一七)というのは、茅舎が二十歳の時で、西島麦南の勧めで、「雲母」などにも投句していた。「ホトトギス」には、大正五年、六年と続けて、中断して、大正十一年に一寸顔を出して、大正十三(一九二四)以降から本格的となって来る。この大正六年の頃は、健康そのもので、そういう状態の中で、「背板の如く悪寒かな」というと、何か、後の、病弱になって行く、その予兆のようなものが垣間見える感じでなくもない。また、この当時、麦南は、「キラヽ」(後の「雲母」)の巻頭作家で、茅舎はこの麦南の影響を強く受けていて、茅舎調というよりも麦南調という感じでなくもない。
「初秋や悪寒背筋にぞくぞくと」(不遜)

(その八)


十 薫風や畳替へたる詩仙堂 (大正十一年七月)

(草田男)この句はいま爽雨さんが仰つしやつたやうに、実に特色のない句ですね。それで形もまづ名詞を持つて来て、中七つで動きを据ゑて、最後を名詞で止めるといふ、成功すれば一番どつしりとなりますけれども、その代り一番いはゆる俳句らしい――尤も今日は丸公なんていふ語が流行りますけれども、何か俳句の丸公の標準の型みたいな句ですし、茅舎らしいところは殆ど感じられないやうな気がします。茅舎がその一方で非常に古俳諧、特に天保時代の俳句や何かに興味を持つてゐて、ああいふところへ出た、いはゆる一寸ひねつた俳諧味といふやうなものが、非常に好きだつた時期がある。いま爽雨さんが、京都に茅舎が住んでゐたのはいつ頃位かといふことを言われましたが、これから暫くの間の句は、単純な写生の句も少しありますが、大体は僧院生活、若しくはそれに取材したものか、それからまた仏教関係の材料を持つて来てさういふものの味いを楽しんでをる句がずつと続いてゐます。後で調べて頂けば判りますが、何年か前の記憶か、若しくはひよつとすると、この時分茅舎が京都の東福寺、あそこに相当長くゐて、傍ら絵なんか描いてゐた、可成り自由な暮しをして生活を楽しんでゐた時期かとも思はれるやうなところもありますね。
(蓼汀)療養をしてをつたですか京都では。
(草田男)身体を癒すつもりぢやなかつたですか、坐禅なんか組んだりして、そのため却つて悪くしたんですね。
(蓼汀)東福寺の山内のどつかの一院の部屋でも借りて――。
(草田男)といふやうな話を聞いたことがある。断食をやつたり坐禅なんかやつて、却つて病気のために良くなかつたといふことを聞いたんですがね。その時は未だ絵で身を立てるつもりで、絵といふものが第一義的なもので、俳句は遊びだと最後まで考へてゐて、全く俳句一筋になつたのは、亡くなる一年か、二年前ぢやなかつたかと、誰かがさういふことを言つてをりました。
(蓼汀)どんな画を目ざしてゐたのでせうか。
(草田男)春陽会の、あの時分の岸田劉生さんの城を忠実に守つた人です。
(静々)藤島武二さんに見て貰つたと、麦南さんの思出話にありました。
(草田男)いはゆる先生と思ひ出してからのは劉生だつたですね。
(管見)京都の東福寺時代の茅舎のことが語られていて興味が惹かれる。「ホトトギス」にデビューの頃は、「茅舎は何者か」ということで、水原秋桜子なども、「僧侶さんなのか」と思っていたとの記述もあり、殆ど、茅舎を知つている人は皆無だったようである。茅舎には、茅舎が住んでいた日本橋付近の、三人の友人達がいた。その三人とは、西島麦南、原田彦太郎そして永井秀好で、麦南は「雲母」、そして、秀好は「ホトトギス」の俳人で、
茅舎の「ホトトギス」の投句は、主としてこの秀好に勧められたということも出来るであろう。この当時は、麦南の勧めで、「雲母」にも投句したり、茅舎が「ホトトギス」一辺倒になるのは、昭和五年(一九三〇)と、ずうと後である。この四人は、昭和元年(一九二六)に、岸田劉生が京都から鎌倉に帰住した年に、「蕪青会」という句会を催して、劉生を囲んでの句作に励んでいる。この四人は、俳句の他に、武者小路実篤の「白樺」運動や、絵画などと共通の趣味を通しての深い交遊関係にあった。当時の茅舎を知るには、この三人の友人達と、直接・間接とを問わず、茅舎を入れて四人の師ともいえる劉生、そして、茅舎の異母兄の龍子との、この三方面からのアプローチが必要になって来るであろう。
「薫風や人疎らなり詩仙堂」(不遜)

(その九)

十一 茱萸噛めば仄かに渋し開山忌 (大正十三年五月)

(草田男)(前略)恐らく山茱萸ぢやないかと思ひますが、これは自分がそこへ身を寄せてゐる。兎に角縁故深いお寺を開いた人の忌日がめぐつて来て、その時にそこいらにある茱萸をちぎつて口にしてをると、後へ微かだけれども渋い味が尾を曳いたやうに舌頭へ残つてゐた。それがなつかしいやうな、厳しいやうな、野性的で親しみのある、昔ながらのものの味といふやうな気がして、今日は開山忌の当日だといふ気持と、それが通ふような感じがしたといふ、そんなやうな句の意味だと思いひます。(後略)
(蓼汀)字引を引いてみると開山の説明ですが、山を開き、寺を建てること、寺を開き始めた開祖の僧、更に一転して一宗一派を開いた宗祖をも開山といふ。一番最後の意味だと思ひますね。山を開いた一宗一派の宗祖の忌日といふ意味でせう。
(爽雨)茱萸が季題になつており秋の句といふことでせうね。
(管見)開山忌について、「開山忌三百年を取り越して」(裏の折立)の句がある。

子規と虚子の両吟

オ   発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ   折立 開山忌三百年を取り越して         子規
二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規
四    公事の長びく畑荒れたり        虚子
五  水と火のたゝかふといふ占ひに       子規
六    妻子ある身のうき名呼ばるゝ      虚子
七  鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて         子規
八    石に吹き散る萩の上露         虚子
九  捨てかねて秋の扇に日記書く        子規
十    座つて見れば細長き膝         虚子
十一  六十の祝ひにあたる花盛          子規
折端   暖き日を灸据ゑに来る          虚子

ナオ 折立 まじなひに目ぼの落ちたる春の暮       虚子
二   地虫の穴へ燈心をさす          子規
三  しろがねの猫うちくれて去りにけり     虚子
四   卯木も見えず小林淋しき         子規
五  此夏は遅き富山の薬売           虚子
六   いくさ急なり予備を集むる        子規
七  足早に提灯曲る蔵の角           虚子
八   使いの男路で行き逢ふ          子規
九  亡骸は玉のごとくに美しき         虚子
十   ひつそりとして御簾の透影        子規
十一  桐壺の月梨壺の月の秋           虚子
折端   葱の宿に物語読む            子規

ナウ 折立  ひゝと啼く遠音の鹿や老ならん       虚子
二     物買ひに出る禰宜のしはぶき     子規
三   此頃の天気定まる南風          虚子
四     もみの張絹乾く陽炎         子規
五   花踏んで十歩の庭を歩行きけり      虚子
挙句     柿の古根に柿の芽をふく       子規


(その十)

十二 頬白や雫し晴るゝ夕庇 (大正十三年五月)
十三 頬白や一こぼれして散りぢりに (同)

(爽雨)これは秋の彩りの一つである頬白を詠つた句でありますが、前の句は、夕方になつて、暫く雨が上がつた庭先などに、頬白が啼きながらやつて来てをるやうな場面が前にある。廂からは未だ雫が落ちてをるといふところを捉えへて詠んだ句であります。黄昏れかゝつた廂から、雨の上がつた雫がよく澄んだ水玉になつて時折落ちてゐるといふのが、如何にも雨上がりの秋の夕方らしく、爽やかに透きとほつたやうな感じを見せてをりますが、そこへ頬の白い頬白がやつて来て、木の枝を伝つたり、地面へ下りたりして遊んでゐるといふ点景物によつて、一幅の清々しい画面を展開してゐると思ひます。後の句は、多少解釈に疑問を覚えますが、可成りの数の頬白がやつて来て、さつと地面に落ちこぼれた或は一本の木へばらばらと落ちこぼれた頬白が、すぐ一羽々々の形と動作になつて、それぞれに地を歩き枝を歩いて遊んでゐる。つまり散りぢりになつてゐるといふ句の意味であらうかと思ひます。句の意味に疑問はありますが、前の句の聊か材料が多く、煩はしい感じに較べて、後の句は、単純に頬白の状態だけを述べて如何にも秋の彩りらしい情感を運んでをりますので、私には句の価値としては後の句の方をとりたいと思ひます。
(草田男)さういふ気がしますね。前の方は本当に材料が文字面ぢや何だか多いやうな気がします。
(蓼汀)「一とこぼれして」といふのが、バラバラと来て、一つづつどつかへ行つたといふその時間的の経過がよく判るぢやないですかね。

(その十一)

一四 ちびちびの絵筆また捨て日向ぼこ (大正十三年五月)

(蓼汀)「ちびちび」と言い、「また捨て」といつてあるので絵の修業時代の一断面を詠つたのだと思ひます。未だ大成しないありふれた日常の生活で、絵を稽古しながら、倦るとまた日向ぼつこでもする、さりとて絵を全然捨てたわれでもなく、また突きつめて絵に専念するとまで深刻な気持もまだないやうな、どちらかと言へば、つかず離れずといつた稽古時代、絵に倦きれば日向ぼつこをしてをるといふ人の気持が、一応は窺はれると思ひます。
(占魚)僕は「ちびちび」といふのは、本当にちびちびになつた筆といふ気がする。「捨て」は捨てたんですね。これは油絵の方で、金具がぐつと押しひしやいだやうになつて、金具のところまでちびて来るわけですね。さうすると何ともしようがないものですね。そんなのを庭へ投げ捨てて、それがそこに見えてをるところで日向ぼつこをしてをる。
(爽雨)この「捨て」は、矢張単に置くだけぢやなしに、多少嘆息を洩らして置くといふさういふ捨てぢやないですか。
(たかし付記)句解が二つに分かれたが、結局のとこ、草田男、占魚両兄の解は無理があるやうに思ふ。現在描いてゐた絵筆を「また」そこに「置いて」日向ぼこをしたといふ方が妥当でせう。僕は後説に賛成しておきます。

(その十二)

一五 鐘楼や城の如くに冬の山 (大正十三年五月)

(草田男)「城の如くに冬の山」といふのは文字の上では成り立つけれども、どうも実感としては雑作なく、ぴつたりと来ないやうな気がします。句意としては決して「鐘楼や城の如くに」そこで切れてそれから「冬の山」が後へ来るのぢやなく、「城の如くに冬の山」といふことになるのでせう。冬の山がボリュームの影絵のやうに聳え立つてをる。冬の山が空に突き出てをる。それを城の如くにといつたのかもしれない。
(爽雨)かういふ「や」の使ひ方――「鐘楼が城の如くに」といふのと同じやうな意味に、この「や」を使つた時代があつたと思ひます。
(杞陽)さういふのも確かにありますね。
(爽雨)これは冬の山の麓か、中腹に立つてをる鐘楼でせうね。
(蓼汀)非常に善意に解釈しても大したことはないね。
(管見)「城の如くに冬の山」で、その冬の山の一角に鐘楼が見える。「鐘楼や奈良の旅館で柿を食ふ」(不遜)

(その十三)

一六 達磨忌や僧を眺めて俳諧師 (大正十三年九月)

(草田男)杞陽さんは、達磨忌といふ時、季題として面白いと思つて、句を作らうとして材料として眺めてゐるといふが、僕は禅寺の開祖の達磨ですね。九年面壁などといふその達磨忌に、禅寺ですから、それなりのことをやつてをる。その時に自分はひやかすでもないし、それから一方では僧院生活、禅の生活にも心引かれながら、己自身ちやんといつの間にか俳諧師になり、その自分が達磨忌を見てをるといふ、茅舎の何かしら魂みたいな感じがそこへ出て来てをるので、何か茅舎らしい強みが出て来て、また茅舎のあゝいふところが嫌なところもあるし、臭みが出たとも思はれる。
(蓼汀)たゞ単純に僧を見てをるといふ風には思へないね。
(草田男)深入りして、お坊さんを茶化してゐて、引ずり込まれるやうなところがありますね。
(管見)「や」は「の」の用法。「達磨忌の僧を不思議そうに見ている一人の俳諧師、それは私です」。「達磨忌やお軸の達磨僧睨む」(不遜)

(その十四)

一七 春暁や先づ釈迦牟尼に茶湯して (大正十三年七月)

(蓼汀)昔からいふやうに、春暁の気持はまた格別な味ひがあります。僧院に生活してゐて、釈迦牟尼に朝の茶湯を捧げて礼拝するといつたやうな、おほらかな心持ちを言つたものと思ひます。
(草田男)朝の行事の始まる前、厨の方で一番最初に沸き上がつたお茶を、人が飲むより先に一杯だけ上げるのを茶湯して、といふのでせう。
(占魚)「先づ釈迦牟尼に」といふので、他にも仏が、釈迦牟尼の付近に置かれてあるやうに思ひますが。
(草田男)「先づ」といふのは軽い意味で、個人の家でも祖先のお位牌に茶湯して、といふのと同じですよ。
(杞陽)これは釈迦牟尼に帰依してをるやうな、敬虔な気持ぢやないからな、矢張絵描きのやうな人の気持ぢやないかね。
(管見)「茶湯日」(禅寺で茶湯を仏前に供えて供養をするように定められている日。この日に参詣すると特に功徳があるとされる)の句か。「春暁や釈迦牟尼御座す金色堂」(不遜)

(その十五)

一八 生魚すぐ飽き蒿苣(ちしゃ)を所望かな

(草田男)これはどこといふ所なしに、きれいな色彩を矢張感じられますね。調子も整つてをる。あの辺りでは禅寺でも生ぐさい物を食べるかもしれません。さうでなくても、本当に弟子入りしてしまつたのぢやなく、茅舎自身生魚を所望して食べたが、大体自分も寺院の人のやうな生活をしてをり、さういふ気持に近いものでゐたとすると、妙なもので魚はすぐ倦いてしまつて、自分も戒律に従ふといふのぢやなくても、矢張野菜のさらつとしたのが欲しい、萵苣といふのは白菜のやうな、紫の色も緑の薄い如何にも清楚なもので、一寸味噌なんかつけて食べられる、大がい生で食べますね、その萵苣を所望したい気持があった、といふのでせう。茅舎の随分終りまでの表現形式が、ここで見えてをるやうな気がします。茅舎句集には入れてをりませんが。
(蓼汀)生魚といふところが何かありますね、ここらが寺院の人々にとけ合つてをる。普通の野菜でなくて萵苣といふところ、生魚といふところが・・・。
(草田男)どこがといふところはないが、魅力がある句ですね。
(管見)「生魚」(せいぎょ)といい「萵苣」(ちしゃ)といい、なかなか出て来ない語。茅舎用語の雰囲気あり。「生魚には萵苣の前菜有難し」(不遜)

(その十六)

一九 虎杖を啣(くわ)へて沙弥や墓掃除(大正十三年七月)

(爽雨)寺の人々が出て墓掃除をしている。それを見てをると、その中の一人の沙弥が、虎杖を口に啣(くわ)へてゐる。虎杖は芽の出たばかりのやはらかい虎杖である。かういつたところを句にしたものと思ひますが、冬に荒れてゐた辺りを掃除しながら、そこにふと見出した虎杖を口に啣へて、時々噛んで食べながら掃除をしてゐるといふ、一つの特異な情景を描いて、面白い句になつてゐると思ひます。たゞ「墓掃除」と下句に置いてあるため、例のお盆の掃除といふ風に最初とりましたが、さう致しますと、虎杖を啣へるといふところの意味がハツキリしませんので、いまのやうに解釈をした、さういふ不分明な点が多少私には観ぜられます。
(草田男)茅舎が、寺院生活の飄逸とか、軽快とかいふやうなところを、面白がつて作つてをる句が沢山あり、これもその一つであります。格好が飄逸ですね、墓掃除で両手がふさがつてをるわけです。うつ向いたり何かして、絶えず動いてをる。それを虎杖を口に啣へてやつてをるわけです。そこに滑稽で面白いと思ひます。
(管見)”「虎杖」(いたどり)を啣(くわ)へて”というのがいかにも茅舎的か。「虎杖を口に咥えて懐手」(不遜)

(その十七)

二十 春寒やお蝋流るゝ苔の上 (大正十三年七月)前書き=「稲荷山の奥にて」

(杞陽)京都の伏見の稲荷さんの裏山に末社が沢山あります。そこには稲荷の行者といふのですが、少し気狂ひ染みた女の人が、髪を振り乱したりして諸所の末社にゐる。一寸気持の悪いところです。この句はさういふ人は描いてゐませんけれども、さういふ行者の人が何かをしてゐた。それはさういふ気狂ひ染みた人ですから、夜半に蝋燭でも使つて、一寸した石の上とか、さういつたところへ立てたりして、何かしてゐたのかもしれない。兎も角いま自分の眼の前にある苔、それも春ですから未だ苔が非常に鮮やかといふわけではないが、兎も角苔があつて、その苔の上に蝋が流れてをる。そこには蝋燭などが一寸捨ててあるといふのか、散らばつてをるといふのか、そんなことが考へられる。或る一つの末社の風景を描いてゐるのぢやないかと思ひます。
(草田男)僕等のやうに、さういふ稲荷社の奥の方辺りに、一種の狂信者がゐるにんていふのを知らないで、卒然とこの句を見ると、お蝋といふのは勿論備へた蝋燭でせう。そこには小さな墓か、祠があつて、その前に供へた蝋燭が無造作に石の上なんかに立ててある。それが、その辺りの苔のところまで流れてゐるといふやうな、さういふ風にとれるですけれども。
(蓼汀)春寒く、淋しく、どこか不気味な感じがするですね。お蝋以下が。
(管見)茅舎にはどことなく蕪村の怪奇趣味に通ずるところがある。「春寒や蕪村・茅舎に怪奇趣味」(不遜)

(その十八)

二十一 広縁や囀り合へる右左 (大正十三年八月)
二十二 囀や銀貨こぼれし頭陀袋(同)
二十三 囀や拳固くひたき侍者恵信(同)

(正一郎)この前に欠席したので、茅舎の京都の生活について話し合つたのかどうか知らないが、最近龍子さんから聞いたところでは、茅舎の京都時代にゐたお寺は東福寺正覚庵ださうだ。そして仏道を修めるといふ固い意味ではなく、寄寓してゐたのださうだが、そのうちに、庵主の平澄温洲師に従つて、自然に仏道に参じるやうになつたといふことです。茅舎の、仏教方面のことについて、よく質問を受けるので、何処にゐたかといふことを、ここでハツキリしておくのも、参考になるかと思ひます。当時絵の方は、矢張岸田劉生氏に従つて学んでゐたやうです。詳しい年月といふやうなことは、ハツキリ聞くことは出来なかつたが、平澄温洲といふ人は未だ健在ださうだから、一度親しく会つて、茅舎のことを聞いておきたいと思ふ。京都の作品はその上で研究するともつとハツキリするだらうね。蓼汀君のいふ通り、囀りが聞えると解釈してもよからうと思ふ。次の囀りの二句に比較しては、茅舎らしいものの薄い方の句で、次の二句に、この一連の句の狙ひといふやうなものがあるのではないか。
(蓼汀)頭陀袋の頭陀といふことは、衣食住の貧着を去る、煩悩の垢を洗つて仏道を求める、といふ意味ださうですが、頭陀袋といふのは、普通僧侶の掛けてをる袋、といふ風に解釈していいかと思ひます。僧侶が頭陀袋に報謝を受けた銀貨を、頭陀袋に入れてゐたのがこぼれてゐて、さうして廻りにに鳥が囀つてゐる、といふことなのであらうと思ひますが、事実と詩情とは、言葉で一寸叙述し難いものがあります。
(たかし付記)(前略)(二十一の句)構図を極く単純化して云へば「広縁」が直線を引いてをり、前には庭の空間があつて、その左右の木立に囀の声がしてゐると云つた具合なのであらう。(中略)この句は特に茅舎風のところはないが、写生句として尋常な出来映えを見せてをり、中にも「囀り合へる右左」といふラ行の音の多い調子が流暢で快く、それに依つて囀り交す鳥の声の暖かで明るい自然の音楽が、耳に響いてくるやうなところがある。その感じが気持いい。
(二十二の句)の「銀貨こぼれし」はどういふ場合なのであろうか。(中略)私はやはりこれは托鉢僧が喜捨として受けた銀貨を頭陀袋へ落とし入れる時にでも、取りこぼしたものかと思ふ。従つて場所は木立のある町家の前、或は郊外などの民家の前あたりを想像する。それでないと「銀貨こぼれし」といふ場面が浮かびにくくはないであらうか。
(二十三の句)の「侍者」は、師家、長老の傍にあつて、その給仕役をする者のことで、侍者といふ言葉は大体禅家でよく使ふやうである。禅宗では、焼香侍者、書状侍者、請客侍者、湯薬侍者、衣鉢侍者等の五種に分つて、これを五侍者といふのださうであるが、この場合は長老の左右に居ていろいろの雑用を果す若い僧のことと思へばいいであらう。
(中略)「拳固くひたき」に、如何にも、侍者らしい――丁度さういふ地位に居る比較的若い僧の心持がよく出てゐるし、その僧の名を出して下五に「侍者恵信」と置いたのも引締まつた措字で平凡でないと思ふ。(後略)
(管見)「拳固くひたき」は茅舎特有の視点。「猿引きの拳固くひたき猿の面」(不遜)

(その十九)

二十四 蹴散らして落花とあがる雀かな(大正十三年八月)

(蓼汀)写生の句だと思ひますが、春爛漫の広い寺などの庭に落花が一面に敷いてゐて、雀がその辺りを飛んでゐる。逝く春の穏やかな一情景だと思ひます。しかしさういつてしまつては、この句の価値はなくなるので、あの繊細な雀の動作を「蹴ちらす」といふ言葉を用ひたところで、一片づつの花びらが、実に美しく、雀の可憐な動作もハツキリとして来ます。それから「落花とあがる」といふのは、雀のいろいろな、可憐な動作、落花を雀が蹴散らして立ち上がつた時にでも、それに伴つて小さな花つむじでも起きたといふ、細かいところのある描写で、そのために静止した単なる写生句と違つた動きが見られ、落花の庭の、如何にも美しい情景が、鑑賞者にハツキリ映つて来ると思ひますね。
(正一郎)一羽の雀を作者が楽しんで見てゐる。「蹴ちらして」といふ五文字もユーモラスで、後来の茅舎の写生句の行き方の一つですね。
(たかし付記)(前略)ありのままの自然界の一現象でありながら、同時にそれ以上の茅舎的な躍動相を現した写生句に違ひない。後年の「露」の句「鵙」の句「寒雀」の句など、ああいふところに達する力の一端がここに窺へるやうである。
(管見)「単なる写生句に終わらない」という、その一線が難しい。「落花舞ふ下で見上げる雀かな」(不遜)














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