金曜日, 10月 19, 2012

下野における一茶 ……足利毘沙門天俳額と一茶のことなど…… 





下野における一茶 ……足利毘沙門天俳額と一茶のことなど…… 

 「下野における芭蕉」ということになると、それは芭蕉の『おくのほそ道』との関係で多くの文献を目にすることができる。また、「下野における蕪村」ということになると、蕪村の師匠の烏山出身の早野巴人(はじん)あるいは蕪村が初めて俳諧宗匠として編んだ、『宇都宮歳旦帖』(うつのみやさいたんちょう)などと関連して、その土壌も開拓されつつある。しかし、こと「下野における一茶」ということになると、これは全くの何らの脈絡もなく、そもそも「下野における一茶」ということを俎上にすること自体が可笑しいというようなことにもなりかねない。

 あの丹念な筆記癖とその句日記の大半が散逸せずに現存している事実に鑑みて、そもそも一茶が下野に足跡を残した事実があるのかということにすら、これを肯定する確たる記録も情報も持ち合わせていないのである。芭蕉の『おくのほそ道』の行脚以降に、下野の歌枕などを巡歴した俳人を、当時の俳諧紀行文集から丹念に精査していった中田亮著の『下野俳諧史』の「下野と俳諧紀行文」(第十章)の中の五十三人の中でも一茶の名は見つからない。ちなみに、矢羽勝幸著の『一茶大事典』の一茶の奥羽行脚を決行したであろう寛政元年(一七八九・一茶二十七歳の時)の八月から十月にかけての記載は次のとおりである。

 秋田県の名勝象潟に旅行。汐越の肝煎(きもいり)金又左衛門のもとで宿泊。同家の『旅客集』に揮毫し「東都菊明」と署名。松島訪問もこの時であろう。『奥羽紀行』を執筆。また、文政二年(一八一九・一茶五十七歳)の四月十六日に次のような記載も見られる。 

 『おらが春』によると、この日東北地方へ旅行に出立、長野からひきかえしたことになっているが、『八番日記』には該当記事がない。

 一茶が芭蕉の『おくのほそ道』足跡を辿り、その足跡を慕って一茶の前号の菊明(きくめい)の時代に俳諧師としての遍歴を重ねたことは、これは紛れもない事実であろうが、こと下野のそれについては何らの句も文も残さなかったということも、これまた事実というほかはないようなのである。(寛政元年当時の奥羽行脚の際の『奥羽紀行』は現存されず、それに下野に関する記録があるのかどうかは定かではない。)

 これらのことに関連するのかどうか、こと一茶に関する句碑は、北関東三県(群馬・栃木・茨城)の中でも、この下野(栃木)のみが、それを目にすることができないようなのである(矢羽・前掲書)。
 この一茶と全くの無縁のような下野にあって、 「現代の一茶研究の第一人者で『小林一茶』(昭和三九年刊)は、その公正な内容から入門書として現在なお、活用されている。また主用な論文をまとめた『一茶』(昭和五七年刊)は、現代の一茶研究の水準を示すものであろう」(矢羽・前掲書)と指摘されている足利市出身の丸山一彦先生が、平成十年(一九九八)五月刊行の長野郷土史研究会機関誌の「長野(第一九九号)」に「足利市大岩毘沙門天俳額と一茶」との新出一茶資料を公表されて、下野における一茶ファンの一人として、これでやっと「下野における一茶」との足掛かりができたかと、ひとまず安堵したような次第なのである。
 ここにその丸山先生の新出一茶資料のあらましなどを紹介してみたい。(なお、この新出一茶資料は、『一茶とその周辺』(丸山一彦著・「花神社」・平成十二年刊)に収録されている。)
 

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