金曜日, 10月 19, 2012

茅舎追想(その二十一~その四十)






茅舎追想その二十一)茅舎と麦南そして武者小路実篤

川端茅舎の幼なじみの無二の親友に「雲母」の主要俳人の西島麦南がいる。麦南の簡単なプロフィールは次のとおりである。

西島麦南 (にしじま-ばくなん)

明治二十八年(1895)~昭和五十六年(1981) 大正-昭和時代の俳人。
明治二十八年一月十日生まれ。武者小路実篤(むしゃのこうじ-さねあつ)の「新しき村」で開拓に従事。大正十三年岩波書店に入社,「校正の神様」とよばれ、昭和四十年文化人間賞受賞。俳句は飯田蛇笏(だこつ)に師事、傾倒し、みずから「生涯山廬(さんろ)(蛇笏)門弟子」と称した。昭和五十六年十月十一日死去。八十六歳。熊本県出身。本名は九州男(くすお)。句集に「金剛纂(こんごうさん)」「人音(じんおん)」。
【代表句など】炎天や死ねば離るゝ影法師

この麦南について、飯田蛇笏の亡き後「雲母」の主宰者となった飯田龍太は次のとおり記している。

http://white.ap.teacup.com/cyamicat2/187.html


[岩波書店に永年勤め、“校正の神様”といわれた西島麥南さんが、去る十月(昭和五十六年)十一日のおひる過ぎ、鎌倉由比ヶ浜の自宅で亡くなった。行年八十六歳と九カ月。……
本名九州男。明治二十八年、田原坂の古戦場にほど近い肥後植木に生まれ、句集の自序に「生涯山盧門弟子」と記したように、俳句は蛇笏門に終始したが、岸田劉生に私淑して画家をこころざし、あるいは大正七年、武者小路実篤らの「新しき村」の創設に参加したり、ときに小説家として身をたてようと志したときもあったようだが、岩波茂雄の厚い庇護に感じて生涯を校正一筋に賭けた。……
だが、麥南さんの来訪も開戦後は途絶えた。……リベラリストで真の理想主義者、平和主義者であった麥南さんの身辺にも、いつか故なき官憲の圧力が加えられたためのようだ。(「麥南さんのこと」昭和五十七年)]

茅舎と麦南とは、茅舎が二歳年下だが、麦南の「信(のぶ)ちゃん時代」(『川端茅舎(石原八束著)』所収)を見ると、この二人は茅舎の生涯にわたっての無二の親友であったという思いを深くする。そこで、麦南は茅舎について次のとおり記している。

[生きとし生けるものに罪なきはない。けだし信ちやん(注・茅舎)は最も罪すくなき生涯を生活した人のひとりであった。妻も子も愛する女もなく童貞にして死んでいつた。この十幾年を殆ど病牀に引籠つて暮してきた。生活経験の範囲からいへば極めてせまかつたといへるが、信ちやんの生活はその中において浄く深く徹していつた。私は川端茅舎の名に於て喧伝さるゝ信ちやんを哲人と呼ぶ。]

また、麦南は、茅舎と麦南が「新しき村」の会員になるときのことを次のように記している。

[新しき村の会員にもいつしよになつた。武者小路さんに逢ふ前に、私が信ちやんと二人連名の手紙を書いた。はじめにあつた武者さんは、信ちやんが成人したやうな感じの人だつた。水にはひると自由にのうのうとくつろぐ信ちやんの、日常のあのぎこちない不器用なからだつきとそつくりのからだつきの武者さんだつた。]

麦南は、大正七年(一九一八)から三年間、九州の日向の「新しき村」に参加し、茅舎は第二種会員(村外会員)となる。後に、茅舎は、この「新しき村」の実践に参加できない頃の苦しみを「花鳥巡礼」に書き留めている。

さて、茅舎の最後の第三句集『白痴』の「もう一度後記」に、次のようなことが記されている。

[鶯の機先は自分に珍しいほどの歓喜を露はに示してゐる。抱風子の鶯団子は病床生活の自分に大きい時代の認識を深める窓の役目を果たして呉れた。]

この「鶯の機先」と「抱風子の鶯団子」は、『白痴』の最後の二章の題名で、その全文は次のとおりである。

鶯の機先

三月十二日朝篠浦一兵少佐次男旭君幼年
学校入試合格通知飛来
鶯の機先高音す今朝高音す
ひんがしに鶯機先高音して
鶯の声のおほきくひんがしに

抱風子鶯団子

三月廿九日午後三時抱風子鶯団子持参
先週以来連続して夢枕に現はれたるそ
のもの目前へ持参
抱風子鶯団子買得たり
買得たり鶯団子一人前
一人前鶯団子唯三つぶ
唯三つぶ鶯団子箱の隅
しんねりと鶯団子三つぶかな
むつつりと鶯団子三つぶかな
皆懺悔鶯団子たひらげて 


この『白痴』の最後の二章は何とも不可思議な響きを有しているのだが、「鶯の機先」は、「戦争」、そして、「抱風子鶯団子」は「平和」の象徴のような、そんな雰囲気も有しているように思えるのである。
そして、間もなく戦争が始まり、その戦争が終結すると、本当の平和がやって来て、その戦後の平和は、茅舎や麦南が青春時代に希求した、武者小路実篤の「新しき村」のような、「理想的な調和社会・階級闘争の無い世界(ユートピア)」が実現するであろう・・・、というような、そんなことを暗示しているのではなかろうか・・・。
この武者小路実篤の「新しき村」の到来こそ、この『白痴』の表紙の「実篤」装幀の隠された秘密なのではなかろうか・・・、と、茅舎と麦南との交遊と実篤とその「新しき村」との出会い・・・、それらのことが、次の世代を戦後担うこととなる、「新婚の清を祝福して贈る」という、この『白痴』の「序」に隠された秘密なのではなかろうか・・・、と、さらに付け加えるならば、「白痴茅舎」の「白痴」とは、武者小路実篤の「お目出たき人」とか「馬鹿一」とか・・・、と、そんなニュアンスに近いものだと、そんな思いにも駆られるのである。

(追記)

下記のアドレスで【 近現代日本の俳人とドスト氏 】として、「西東三鬼・西島麦南・川端茅舎・中村草田男・上田五千石」が紹介されていた。この西島麦南がドストエフスキーを熟読していたということは、川端茅舎の句集『白痴』を解読するための一つのキィーとなるものと理解をいたしたい。

http://dostef.webspace.ne.jp/bbs/dostef_topic_pr_447.html


【 近現代日本の俳人とドスト氏 】

・露人ワシコフ/叫びて石榴(ざくろ)/打ち落とす   三鬼
・暗く暑く/大群衆と/花火待つ          三鬼
・倒れたる/案山子(かかし)の顔の/上に天      三鬼
・胡瓜(きゅうり)もむ/エプロン白き/妻の幸(さち)  麦南
・国狭く/銀漢流れ/わたりけり           麦南
・想念の/絶壁の如し/鉦叩(かねたたき)       茅舎
・栗の花/白痴四十の/紺絣(こんがすり) 〔句集『白痴』より〕 茅舎
・降る雪や/明治は遠く/なりにけり          草田男
・真直ぐ往(ゆ)けと/白痴が指しぬ/秋の道 〔句集『美田』より〕  草田男
・万緑や/死は一弾を/以(もっ)て足る        五千石   

ページ内にすでに掲載していますが、ドストエフ好きーの俳人としては、上掲の、

・西東三鬼
(1900~1962)
・西島麦南
(1895~1979。熊本県出身。飯田蛇笏に師事。氏はドスト氏の著作に
生の救いと支えを見出した。)

が知られています。

三鬼の蔵書には岩波文庫の米川訳の『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』があり、三鬼は両小説を愛読していました。
三鬼の句「暗く暑く/大群衆と/花火待つ」の「暗く暑く」、米川訳『カラ兄弟』の大審問官の章の中の一文「一日も過ぎて、暗く暑い、死せるがごときセヴィリヤの夜が訪れた。」の「暗く暑い」を踏まえていると思われます。
三鬼は、なんと、7カ国語に精通していたとのこと。その中にロシア語も入っていたのでしょうかね。( 驚いた感じと滑稽味を含む三鬼の句は、私には、面白いです。)

麦南におけるドスト氏については、いつか、追加の情報や気付き等をまとめてみたいと思います。(麦南は、師の蛇笏の作風の良き一面を受け継いでいて、清新で風格のある佳句も多くて私の好きな俳人の一人です。)

ほかに、

・川端茅舎(1897~1941)へのドスト氏の影響の指摘あり。
( 茅舎は虚子に入門し麦南は虚子の弟子で蛇笏に師事していたと
いうこともあって、茅舎と麦南は交友関係があった。)
・中村草田男(1901~1983)に、ドスト氏に関して触れている文章あり。
( 上掲の「白痴」という語を含めている茅舎の句・草田男の句は、
ともに、ドスト氏の『白痴』の主人公の人物像を踏まえている
のではないかという指摘があるようです。
年下の草田男が同門として茅舎に兄事していたので、草田男と
茅舎は親交がありました。麦南・茅舎・草田男は、薦め合った
関係はわかりませんが、ホトトギス派の俳人として、東京の地
でお互いにドスト氏の作品を読み合い、語り合った仲だったの
でしょう。)

上掲の上田五千石(1933~1997)の絶唱には、私には、『悪霊』のキリーロフの自然讃美の人生観とその人生観の中での彼のピストル自殺の行為のことが感じられました。どういう時にこの句を作ったのかわかりませんが、氏の念頭に『悪霊』のキリーロフのことがあったのではないかという気がします。

(茅舎追想その二十二)茅舎・麦南・彦太郎そして岸田劉生

川端茅舎と西島麦南は青春時代を一緒にした無二の親友である。この二人にもう一人、原田彦太郎(彦・巨鼻人)が加わる。麦南が郷里熊本より上京したのは、大正五年(一九一六)のことで、茅舎の生家の近所に止宿したことから始まる。その交遊の始まりは既に茅舎と親しかった原田彦太郎を介してのことらしい。
この三人は共に画業を志していて、岸田劉生に傾倒していた。さらに、この三人は共に俳句を作り、白樺派の文学に熱中し、武者小路実篤の「新しき村」の運動に共鳴しているなど、同好三人組という感じである。
茅舎が亡くなった昭和十六年(一九四一)当時は、彦太郎は巴里に居て、茅舎も身体が癒えれば、彦太郎と同じように巴里に行って画業を続けたいというゆう夢を抱いていたという。

○ 朴の花猶青雲の志     茅舎

この茅舎の句は、茅舎が亡くなる年の「ホトトギス」(六月号)に掲載された句である。
この句について、高野素十は「猶といふ字がまことに淋しい」と書いているという(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。
茅舎と麦南との交遊関係については、麦南の「信(のぶ)ちやん時代」(「俳句研究・・・茅舎追悼」昭和十六・九)に詳しい。そこに「巨鼻人」(原田彦太郎)のことについても触れられている。
この茅舎と彦太郎について、今に、「劉生日記」でその名を見ることが出来る。

http://www.pref.mie.jp/BIJUTSU/HP/study/study04/study4ryusei/study4ryusei2.htm

[*56 日記、一九二二年四月二十五日 『繪日記』1-pp.159/160劉生は川端信一、原田彦太郎とともにこの日はじめて美術倶楽部に行っている。これ以外にも、牧溪・馬麟・梅行恩・徽宗・呂紀・石濤をみたことが日記からわかる。]

この川端信一とは、茅舎の本名である。この一九二二年(大正十一・茅舎二十五歳)の年譜(『川端茅舎(石原八束著)』)は次のとおりである。

[岸田劉生は梅原龍三郎の勧誘により春陽会の設立に参加。七月号「ホトトギス」に「薫風や畳替へたる詩仙堂」の一句が入選。秋の第九回草土社展に原田彦太郎とともに出品。「中川風景」他一点が予選を通過せるも落選。但しこの時の展覧に限り、これら予選通過作はみな一様に展覧され、入選同様にあつかわれた。この「中川風景」は、この年の暮に日向より戻った西島麦南に寄贈され、のち麦南より山本健吉の元に移ったが、戦災で焼失した。また草土社展はこれを最後に解散となった。この展覧期間中の十一月三日兄龍子ははじめて岸田劉生に会う。]

大正十一年(一九二二)、茅舎の異母兄の龍子は三十七歳で、話題作「角突之巻(つのづきのまき)」を第九回院展に出品し、日本画壇の中堅作家として将来が嘱望されていた。劉生は、龍子より六歳下で、三十一歳。これまた、日本の洋画壇の若手の著名作家で、その年譜は、次のとおりである。

http://sky.geocities.yahoo.co.jp/gl/manabugaku1479/comment/20090322/1237688214

[岸田劉生は、明治二十四年(一八九一)、明治の先覚者、岸田吟香の子として東京銀座に生まれる。弟はのちに浅草オペラで活躍し宝塚歌劇団の劇作家になる岸田辰彌。
明治四十一年(一九〇八)、東京の赤坂溜池の白馬会葵橋洋画研究所で黒田清輝に師事。
明治四十四年(一九一一)『白樺』主催の美術展でバーナード・リーチの知遇を得、その後柳宗悦・武者小路実篤ら白樺派の文化人と交流。
大正四年(一九一五)から大正十一年(一九二二)まで草土社の展覧会に出品する。草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政らであった。第二回草土社展に出品された『切通しの写生(道路と土手と塀)』は岸田劉生の代表作の一つである。
大正六年(一九一七)、結核を疑われ、友人武者小路実篤が所有する神奈川県藤沢町鵠沼(くげぬま)の貸別荘に転地療養の目的で居住。
大正七年(一九一八)頃から娘の麗子(大正三年生まれ)の肖像を描くようになる。
大正九年(一九二〇)、三十歳になったことを期に日記をつけはじめ、没後刊行された。中川一政は岸田劉生を慕って鵠沼の岸田家に入り浸っていた。
大正十二年(一九二三)、関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居、後に鎌倉に移る。この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であった。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散となった。劉生を含めメンバーの多くは春陽会に活動の場を移した。
昭和四年(一九二九)、中国から帰国し滞在していた山口県徳山市(現・周南市)で尿毒症のため他界。三十八歳の夭折であった。]

この劉生の年譜でも分かるとおり、麦南や茅舎が希求した「新しき村」の創始者の武者小路実篤と劉生とは親しい知己の関係で、実篤→劉生→麦南→茅舎→彦太郎というのは、一線で結ばれる関係にあるということが了知される。そして、ここに、茅舎の異母兄の龍子を加えると、まさに、大正から昭和の夜明けの時期の、日本の新しい息吹というものがひしひしと感じられるという雰囲気でなくもない。

○ 師ゐますごとき秋風砂丘ゆく    茅舎

この句は、茅舎の亡くなる一年前の昭和十五年の作。この年の九月、茅舎は新潟大学医学部教授であった高野素十を訪れる。この時のことを素十は、「新潟の茅舎」(「ホトトギス・・・茅舎追悼」昭和十六・九)に記している。それによると、茅舎は、「日本画のこと、墨のこと紙のことなども話し、自分ももう一度体力を恢復して立派な画を描きたい」と素十夫人に語ったという。
この句の師は、劉生その人であろう。茅舎には、俳句の上での高浜虚子や思想上の武者小路実篤などの師と仰ぐ方もおられるが、身近に常時師と仰いだ方は劉生であり、その劉生は、茅舎が三十二歳のときに、三十八歳の若さで満州旅行の帰途山口県徳山で急死してしまった。
茅舎は、新潟の日本海に接して、満州旅行の帰途中に亡くなった師の劉生を偲びつつ、「もう一度体力を恢復して、青雲の志の画壇の道へ邁進したい・・・、友の一人の原田彦太郎のいる巴里に行きたい」と、そんなことが、この句の背景であろう。茅舎が亡くなったときに、茅舎は、この洋行のための貯金をもしていたという(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。

○ 我が魂のごとく朴咲き病よし
○ 天が下朴の花咲く下に臥す
○ 朴の花白き心印青天に
○ 朴の花猶青雲の志
○ 父が待ちし我が待ちし朴咲きにけり
○ 朴の花眺めて名菓淡雪あり
○ 朴散華即ちしれぬ行方かな

茅舎の「朴の花」の絶唱である。


(茅舎追想その二十三の一)茅舎と母・妹そして倉田百三・艶子

茅舎の年譜(『川端茅舎(石原八束著)』)の「昭和三年(一九二八)三十一歳」の記事は次のとおりである。

[二月二十二日、午後六時半、慈母ゆき、心臓病のため日本橋青物町「日本橋病院」にて逝く。享年六十二歳。茅舎の実妹樫野晴子は隣家の喜多みつの知らせによって駆けつけたが死に目に会えなかった。
四月、国展に「諸果」「菜根」二点を出品。同月、大森区桐里町二七三番地に兄龍子の建てたのちの「青露庵」に父寿山堂と共に移り、異母姉の世話を受けることとなる。
七月二十三日、妹晴子の長男寧栄生後四月目にて急逝。この頃、倉田百三の妹艶子と恋愛。大森馬込の倉田家をしばしば訪問。倉田家の近所に詩人萩原朔太郎家があった。尚、艶子(小西)は、昭和五十二年現在、広島県庄原市にて健在である。「雲母」十月号より再び投句。翌四年春まで約二十句発表さる。後半は併し「俵屋春光」の名を用う。]

○ 骨壺をいだいて春の天が下(「ホトトギス(昭和三・五)」。「母を失ふ」の前書あり)
○ 梅咲いて母の初七日いい天気(「ホトトギス(昭和三・五)」)
○ 陰膳にこたへし露の身そらかな(「雲母(昭和三・十)」。「旅より母上に捧ぐ」の前書あり)
○ 春宵や旅立つ母にこれの杖(「雲母(昭和四・四)」。「笈摺めされて三途の川の渡し銭少しばかり」の前書あり)

茅舎の当時の母への追悼句である。「雲母」への投句は、無二の親友の西島麦南が、九州日向の「新しき村」から再び帰って来て、「雲母」に再投句したことなどに因るものであろう。その「雲母」への投句の「俵屋」は、父・寿山堂の和歌山の実家の屋号である。「春光」は、当時「春陽会」などに連続入選していてその画業が順調だったことに因るのであろうか?
上記の母への追悼句も、「春の天の下」「梅咲いて・いい天気」などと「春光」との関連性もある雰囲気である。当時は、「俳句は画を描きながら頭を転換するためにやった」(「俳句研究(昭和十五・十)」)と、絵画が主で、俳句は従の生活であった。

○ 気がつきし籬(まがき)の外の初霞(「ホトトギス(昭和六・六)」。「晴子さん来て」の前書あり)

前書の「晴子さん」は茅舎の実妹である。日本橋蠣殻町生まれ、二歳のときに近所の米屋に養女に行って、表向きは兄妹ではなかったが、茅舎父子が大森の青露庵に移るまでは近所に育ち、そこで婿を迎え、この実母が亡くなったとき、「隣家の喜多みつの知らせによって駆けつけたが死に目に会えなかった」。そして、「七月二十三日、妹晴子の長男寧栄生後四月目にて急逝」と長男を亡くし、自分も、昭和五年(一九三〇)に急逝している。その茅舎の実妹の前書のある一句である。父・寿山堂は昭和八年(一九三三)に、七十九歳で亡くなり、茅舎が逝去したのは、昭和十六年(一九四一)、茅舎の逝去をもって、茅舎の実父母の血族は絶えたことになる。この茅舎の妹さんに関しては、西島麦南の「信ちやん時代」(「俳句研究・・・茅舎追悼(昭和十六・九)」)に、そのエビソードが記されている。

続く年譜の「この頃、倉田百三の妹艶子と恋愛。大森馬込の倉田家をしばしば訪問。倉田家の近所に詩人萩原朔太郎家があった。尚、艶子(小西)は、昭和五十二年現在、広島県庄原市にて健在である」は、茅舎の倉田百三の妹との恋愛のことで、それは茅舎の失恋に終わるという件である。しかし、この詳細は不明といってよかろう。茅舎には、これらの失恋に関する句は見られない。ただ、茅舎の異母兄の龍子宅(御形荘)と倉田百三宅は近くで、茅舎が龍子宅へ寄ったときは、「倉田家をしばしば訪問」ということは、これは地理的には当然に肯けるものであろう。また、倉田百三は武者小路実篤らの「白樺派」とは密接な関係にあり、茅舎らとは思想的・宗教的に極めて近い関係にあり、茅舎がしばしば倉田百三宅へ行き来したということは、こと、その妹との恋愛関係とは別にして、これまた当然のこととして肯けるものであろう。

(茅舎追想その二十四)茅舎の「雲母」の句と西島麦南の句など

西島麦南の「信(のぶ)ちやん時代」(「俳句研究・・・茅舎追悼(昭和十六・九)」を見ると、茅舎の青春時代、そして、その後の茅舎の生涯に大きな影響を与えた人ということで、「雲母」の代表的な俳人でもある麦南その人が挙げられるであろう。
そもそも、茅舎が本格的に俳句を始める切っ掛けとなったのも、麦南の「雲母」への投句勧誘などが挙げられるであろう。茅舎の「雲母」への投句・掲載句などを挙げると次のとおりである。

○ すきあげて鬢紙のごとし蝿ひびく  (大正六)
○ 麦秋や枯れて聳えし大銀杏     (同上)
○ 草の戸の真昼の三味や花柘榴    (同上)
○ 障子洗ふ前に夥しき白帆かな    (大正七)
○ 躓きし石生きてとぶ枯野かな    (同上)
○ 松籟にひねもす稲を扱きにけり   (同上)
○ 牛の舌に水鉄のごとし秋の暮    (同上)
○ 我に向つて来る女あり枯木中    (同上)
○ 秋風や鏡のごとき妓の心      (同上)
○ 牛蝿の羽鳴りあきらかや夏の露   (大正八)
○ 麦刈るやあからさまなる日の菖蒲  (同上)
○ 草木慟哭昇れる月の赤きかな    (同上)
○ 炎天すきみえて庭冷かや羊朶の谷  (同上)
○ 杉の穂にかがやく星や竹の春    (同上)

茅舎の「雲母」への投句は、大正六年(一九一七)、二十歳のときであり、上記の掲出句を見ても、「鬢」・「麦秋」・「三味」・「障子」・「躓き」・「稲扱く」・
「牛」・「女」・「妓」・「牛蝿」・「麦刈る」・「慟哭」・「炎天」・「杉の穂」など、後の「ホトトギス」時代の茅舎に比べて、人事趣味や生活感に根差した自然観照など、当時の「雲母」(蛇笏)調の色濃き作句といえよう。
当時の飯田蛇笏は、大正六年に、俳誌「キララ」を「雲母」に改め、名実共に、その「雲母」の主宰者としてスタートした頃であった。従って、麦南や茅舎は「雲母」スタート時点の蛇笏門ということであり、麦南が、後に「生涯山蘆(蛇笏)門弟子」と自己の句集の「序」に記しているが、自他共にそういう思いがあったことであろう。
そして、とりもなおさず、茅舎の「雲母」への投句は、親友・西島麦南に因るものであった。その麦南が、武者小路実篤の「新しき村」に参加するため、九州日向に赴くと、茅舎の「雲母」への投句は無くなり、そして、麦南がまた東京に戻って来ると、昭和二年(一九二七)から昭和五年(一九三〇)にかけて、また、茅舎は第二期の「雲母」への投句をしている。この頃は、「ホトトギス」の投句が主となり、「土上」(嶋田青峰主宰)にも投句している。この「土上」には、異母嗄兄・龍子の命名という「遊牧の民」の号で出句をしており、「雲母」にも後半は「俵屋春光」の号の出句となっている。
当時の茅舎の「雲母」への投句・掲載句などを挙げると次のとおりである。

○ 春宵や畳の上の米俵      (昭和二年)
○ 雪晴れて清らに燃ゆる朝竈   (同上)
○ 陰膳にこたへし露の身そらかな (昭和三年。「旅より母上に捧ぐ」の前書あり)
○ 日向ぼこ老嗄れあふて妹背かな (昭和三年)
○ 障子外春陀羅尼のきこゆなり  (昭和四年)
○ 春宵や旅立つ母にこれの杖   (昭和四年。笈摺めされて三途の川の渡し銭少しばかり」の前書あり)  

茅舎の母が亡くなったのは昭和三年二月のことであった。茅舎、三十一歳。この時の「ホトトギス」への投句・掲載の句がある。

○ 骨壺をいだいて春の天が下(「ホトトギス(昭和三・五)」。「母を失ふ」の前書あり)
○ 梅咲いて母の初七日いい天気(「ホトトギス(昭和三・五)」)

これらの「ホトトギス」の句と、掲出の「雲母」の句を比較すると、明らかに、その調子が相違していることに気付く。それらは、「虚子選」と「蛇笏選」との相違ということと、明らかに、茅舎自身が作句姿勢を異なにしているということが挙げられよう。
茅舎は、「ホトトギス」への投句は、茅舎の号であるが、「雲母」には、「俵屋春光」の号も併用していた。この「俵屋」は、茅舎の父方の実家の屋号で、「春光」は、母が亡くなった「春の天が下」などを背景にしたものなのかも知れない。
そして、この母が亡くなった昭和三年、そして、茅舎の師の岸田劉生が亡くなった昭和四年は、茅舎の生涯が激変する年で、その昭和四年以降は、茅舎の病は重くなり、画業を中断のまま、「ホトトギス」投句一本槍になる。
今に、「茅舎浄土」といわれる独特の俳句の世界を構築したのは、この昭和四年以降から亡くなる、昭和十六年(一九四一)の、その十年余のことであったということが言えよう。この病苦と闘いながら、茅舎が「茅舎浄土」の俳句を呻吟していった、この十年余のことを、麦南は、「私は川端茅舎の名に於て喧伝さるゝ信ちやんを哲人と呼ぶ」(『川端茅舎(石原八束著)』)と、喝破している。
さて、茅舎を俳句の世界へと導いて行った、「生涯山蘆門弟子」の麦南は、どのような句を作っていたか、蛇笏の跡を継いだ飯田龍太のもの(『近代俳句大観』)で紹介をして置きたい。

○ 痩せて人のうしろにありし裸かな (麦南・大正四年)

「徴兵検査、身長五尺一寸体重十一貫」との前書がある。「句意はおのずから自嘲の色濃い内容となるが、そうしたおのれ自身を、別な高みから眺めやったような諷詠の姿勢。そこに俳諧のおかしみが滲み出てくる。六・七・五の調べがリズムに乗って結句「裸かな」に集約され、一個の裸身をありありと現じた。俳句省略の骨法と把握の妙を存分に発揮し、かえって痩軀にみなぎる作者の面魂を遺憾なく発揮した作といえよう」(龍太)。

○ 秋風や殺すにたらぬ人ひとり  (麦南・大正六年)

「われにそむきし彼の女を恋ふるにあらず憎むにもあらねど」の前書がある。この前書は、『梁塵秘抄』のなかの「仏はつねにいませど 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬあかつき」に因っている。「武者小路実篤の『新しき村』に参じ、その理想主義に深い共感を抱いた作者の、青春のロマンがあますなく示された句といえよう。上句『秋風や』は一句全体を蔽って悲愁を象徴しながら、中七下句のただならぬ感情とみごとな均衡を保つ。愛憎綾なしてこころ千々に乱れ、夢と観じ、幻と思い定めようとしてもなお現身のあらわれに、かえってこのような強い断定を求めたのであろう。作者代表作の一つ」(龍太)。

○ ここにして諏訪口かすむ雲雀かな  (麦南・昭和十四年)

「山蘆後山展望」との前書がある。「山蘆」は蛇笏の別号であり、蛇笏居を称する場合もある。この前書では後者。「『ここにして』という初句の措辞には、一瞬能の舞台に身を置いたような気持ちの弾みがあらわれている。しかも天上の一点となって囀る雲雀の声は、大景に点睛の風趣を添え、山国陽春ののどけさを存分に示す。この作者にはこの句の他にも山蘆周辺をとらえて佳句が多い。『酒熱く寒の蕗の芽たまはりぬ』『薄雪す養魚池畔の桐畑』『はるかにもをろがむ墓の夕霞』。なかでも上掲の一句は風土の特色をとらえ、旅心の風懐をのびのびと宿した秀作といえよう」(龍太)。

もう一句、『現代俳句』(山本健吉著)のものも紹介して置きたい。

○ 汗の瞳(め)に吾子溢れつつまろびくる (麦南)

「家族疎開地への旅。仙台駅頭」との前書がある。「母親と出迎えに来た子が、父の姿をめざとく発見してくるさまが彷彿とする。汗か嬉し涙かわかったものではないが、終戦となって無事で再開できた思いに、眼頭が熱くなっていることは確かだ。『溢れつつまろびくる』に弾んだ大きな感動と、父親の眼に大きく視野いっぱいにクローズアップされてきた子の姿とが表現されている」(健吉)。

(茅舎追想その二十五)茅舎の無季の句など

川端茅舎には四つの句集がある。生前に刊行されたのは、第一句集『川端茅舎句集』、第二句集『華厳』、そして、第三句集『白痴』で、死後に刊行された句集として、「定本川端茅舎句集」がある。
この四つの句集のうち、第三句集『白痴』を除いては、全て、「ホトトギス」の総帥・高浜虚子の手を煩わしており、所謂、季語・季題なしの無季の句は見当たらない。そもそも、この虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」(『華厳』「序」)と命名された茅舎には、虚子が最も排斥してやまなかった無季の句などは見当たらないのではないかという、そういう先入観があって、茅舎の句業というのを見てしまうのが通常である。
しかし、第三句集の『白痴』には、「無季」の句や「本歌取り」の句や「尻取り(連句)」の句や「対句」の句など、およそ、他の三つの句集では見られないような、茅舎の、通常とは違った、「これが茅舎の句か」と驚かされるような句が目白押しなのである。

○ 窄き門額しろじろと母を恋ひ  (『白痴』「窄き門」)

この句について、『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著))では、「額(がく)の花」で夏の句としている。しかし、この句については、茅舎自身の詠みのルビが振ってあって、「額(ぬか)」の詠みで、「ひたい」のことで、この句は無季の句ということになる。
「吾妹子(わぎもこ)が額(ぬか)に生(お)ひたる雙六の牡牛(ことひとうし)の鞍の上の瘡(かさ)」(『万葉集』第十六巻・三八三八)などに、この「額(ぬか)」の詠みがあって、この『万葉集』の歌は、「吾妹子の額に生えている双六の、大きな牡牛の鞍の上の腫れ物よ」のような意で、この歌の前には、「無心所着歌二首(心の著(つ)く所無き歌(内容のわけの分からない歌。意をなさない歌)二首」との前書がある。
茅舎が、『万葉集』のこの歌や前書の「無心所着歌(分けの分からない歌)」のことを知っていたのかどうかは不明であるが、『白痴』には、この種の「無心所着句(分けの分からない句)」ともいうような句が多いのである。掲出句にしても、この「窄き門」というのが、単に、出入れ口の「窄き門」の意だけではないような雰囲気の句である。
この句の前にある章名ともいうべき「窄き門」を受けているのだろうが、やはり、「窄き門」というと、フランスのノーベル文学賞受賞者のアンドレ・ジッドの『狭き門』や、その題名の由来となっている「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし」(『新約聖書』「マタイ福音書第七章第十三節」)などが思い起こされてくる。
もとより、茅舎がこれらのことを意識しているのかどうかは不明であるが、とにもかくにも、「ホトトギス」の虚子流の「花鳥諷詠」の「客観写生」に基づく、「嘱目的実景」の句というよりも、茅舎の内心の「主観写生」的な「観念的心象風景」の句であろうということは十分に察知されるのである。
これが、「額(がく)の花」の句と解すると、「嘱目実景」の「額の花」から連想しての「母恋い句」として、それほど茅舎の他の句に比して違和感を覚えないのだが、これが、ずばり、無季の句で、この「額」は「ぬか・ひたい」の句とすると、「額(ぬか)しろじろと」いうのが、いかにも、「母の額が白々と」ということで、茅舎本人の思い出の句としても、描写過多のような思いに駆られてくる。
さらに、この「額」は、「額縁の額」(「出入れ口の周囲につける化粧木」など)と取ることも可能だし(無季の句)、それを殊更に、「額(ぬか)」とルビを振ったところに、どうにも、この句が不可思議な雰囲気を醸し出しているという印象を受けるのである。

○ 窄き門﨟たき母のかげに添ひ  (『白痴』「窄き門」)

「窄き門」の二句目の句である。これも無季の句である。この句も「﨟たき母」の「﨟たき」(気品があって美しい)というのが、またまた、自分の母には凡そ似つかわしくない描写過多の過多というよう印象を受けるのである。また、「かげに添ひ」の「添ふ」のは、「窄き門」なのか、言外の「自分」なのか、おそらく、言外の「自分」なのであろうが、何か、「劇中の劇の主人公」のようであって、この句もまた、季語・季題がないことで、かえって、不可思議な雰囲気を醸し出しているという印象を受けるのである。
そして、「窄き門額(ぬか)しろじろと母を恋ひ」と併せ鑑賞すると、これは単なる「母恋ひ(い)句」ではなく、この「母」は「聖母マリア」のイメージがあるのではなかろうか。そして、この「窄き門」というのは、茅舎の受験(一高)の失敗などに関連したものではなく、やはり、『新約聖書』の「マタイ福音書」による信仰の道の「窄き門」と解すべきなのではなかろうか。とすると、この「﨟たき母」の「﨟たき」の形容も、「かげに添ひ」(その聖母の「かげに添ひ」自分の信仰の道を究めていく)も、イメージとして確かなものとなって来る。

○ 窄き門嘆きの空は花満ちぬ  (『白痴』「窄き門」)

これは「窄き門」の三句目の句である。季語は「花」で春。しかし、この季語の「花」ほど、観念的なイメージ的に曖昧なものはない。歳時記(『日本大歳時記』)では、「この季題は、詩的イメージとしては、桜でありながら桜という特殊な限定を越えて、豊かで華やかなものである」とし、「花は桜でありながら春の花一般であるという重層的なものである」との記述である。
その根底には、道元の「本来面目」の前書のある「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり」の、その「花」であり、そして、連歌・俳諧・連句の「花の定座」の「花」というイメージであろう。
茅舎のこの句の「花」も具体的な嘱目的なものではない。思い出の中の、例えば、「花は散りその色となく眺むればむなしき空に春雨ぞ降る」(式子内親王『新古今集』)の、茅舎の心の片隅にイメージとして横たわっている、その種の「花」であり、それは「嘆きの空に幻想的に咲き満ちている」というのであろう。
この句は、この一句だけでは不可思議な雰囲気は有していないのだが、この句の前の無季の二句の後に出て来ると、途端に、この季語らしい「花」が、その具象性を失って、何故か、前の二句と同じように、無季の句の雰囲気を醸し出しているという印象を受けるのである。
しかし、この句もまた、この「窄き門」を、「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし」(『新約聖書』「マタイ福音書第七章第十三節」)の「信仰の道」の「窄き門」と解すると、この「花満ちぬ」が、道元の「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり」の「悟り」の境地と一致するように思われるのである。

こうして見て来ると、これらの句というのは、完全に、「花鳥諷詠」(「花鳥」に代表される「季語・季題」の諷詠詩)を基調とした句ではなく、主題は、これらの句の章名の「窄き門」、そして、それぞれの句の上五の「窄き門」であり、それは、『新約聖書』(マタイ福音書)の「信仰の道」の「窄き門」であり、その主題の世界は、「花鳥諷詠」の「花鳥」に代表される「季語・季題」の世界と並列的に存在するものではなく、それらの「季語・季題」はほんの付け足しに過ぎないということを、茅舎は、これらの三句で見事に喝破しているということなのではなかろうか。

○ つくづくし悲し疑ひ無きことも

この句は、「窄き門」の四句目の句である。季語は「つくづくし」(土筆)で春。しかし、これも、単なる「つくづくし」の句ではない。「悲し疑ひ無きことも」の、この「句またがり」の破調のリズムは、やはり、「己の信仰の道において「疑ひ(い)無きことも」、しかし、それが故に、この「神の幼子」のような「つくづくし」を見ていると、無償に「悲し(い)」気持ちになってくるという、これまた、『新約聖書』(マタイ福音書)の「信仰の道」の「窄き門」を基調にして鑑賞されるべきものと理解をしたいのである。

○ 鶯やすでに日高き午前五時

この句は、「窄き門」の五句目の句である。この句を鶯の句として、「鶯はすでに日が高い午前五時から鳴いている」という「花鳥諷詠」的な鑑賞をしたら、この句の作者の茅舎は、どうにも苦笑する他はないであろう。しかし、この句が一句だけ提示されるならば、そういう「花鳥諷詠」的な鑑賞以外の別な鑑賞というのも思い浮かばない。しかし、この句が、「窄き門」という他の句と一緒になってくると、この「鶯(の鳴き声)」は、「神の福音」という鑑賞が浮かんで来る。「鶯が鳴いている。午前五時という早い時間から、日も高きに上がり、それは、まるで、神の福音のようでもある」という理解である。茅舎の『白痴』所収の句は、「花鳥諷詠」的な鑑賞ですると、どうにも、『万葉集』の前書の「無心所着歌(分けの分からない歌)」のような印象になってしまうのだが、道元の、「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり」の、その前書の「本来面目」の「悟り」という視点を一つ据えると、何か見えてくるものがあるように思えるのである。

○ 夕焼の中に鶯猶も澄み

この句は、「窄き門」の六句目の句で、この句を以って「窄き門」の句は終わる。この句の「鶯」も、この句の前の、「鶯やすでに日高き午前五時」の、その「鶯」と同じであって、「神の福音」を告げる鶯であろう。そして、この句の鑑賞で一番重要なのは、前句の、「鶯やすでに日高き午前五時」を受けて、その「朝早くからこの夕焼けになるまでの長い時間」にわたって「鶯の鳴き声がいよいよ前に増して澄みわたって聞こえる」という、この「猶も澄み」の、「猶」に焦点を当てて鑑賞したい。茅舎の最晩年の句の、「朴の花猶青雲の志」(「ホトトギス」昭和十六・七)の、その「猶」が、ここにも活きている。

追記

この『白痴』所収「窄き門」の六句を鑑賞しながら、「草餅や御母マリヤ観世音」(昭和十六年)の「御母(おんはは)マリヤ」の句に出逢った。この句なども、『白痴』所収の「窄き門」の六句の鑑賞と同じよう雰囲気であるように思えてならない。


茅舎追想その二十六)茅舎の第三句集『白痴』の装丁のことなど

大田区の馬込文士村の龍子記念館の「陳列ケース」の一つに、龍子の異母弟・川端茅舎関連のものがある。時期によって、その内容が変わるのかどうかは知らないが、茅舎の油絵の小品ものが一点あった。題は「二果一菜」(葡萄・桃と胡瓜)で、制作年次は「昭和初年」で、茅舎が岸田劉生に師事していた頃の習作の類であろう。劉生の「静物」を一つの目標において、色調とか構図とか、ほとんど、劉生調という感じで、やや生硬で、ひたすら、劉生の「写実」を自分のものにしようと、それを執拗になぞっているという雰囲気のものである。
その油絵の小品の他に、茅舎の第三句集の『白痴』も陳列されていた。この『白痴』は、ガラス越しに、その図書の「函」と「表表紙」とで、それを手にすることは出来ない。その「表表紙」には、茅舎の「二果一菜」に類似していて、こちらは芽が出た玉葱のような「一果一菜」ものという感じのものである。家に帰って、『白痴』の解題ものか何かを見ていて、この『白痴』の装丁は、武者小路実篤のものであるということを知った。
これらのことについて、先に、下記のアドレスの「(茅舎追想その二十)茅舎の『白痴』周辺(その二))」で触れて、この『白痴』の「函」の画像のみを紹介したのであった。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/61843244.html

この画像は、下記のアドレスの「川端茅舎(Kawabata Bousha)俳人川端茅舎と思い出の中の親族 」(森谷香取(川端)Moriya Katori)のものだったのかも知れない。残念ながら、このネット記事は、現在、四ページのみしか目にすることができない。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha01.html


この貴重なネット記事は、検索の仕方によるのかどうか、時折、全然見られなかったり、また、その四ページの全文も見られず、その内の一ページしか見られなかったり、いろいろのことを経験して、この貴重な画像を、ここでその四枚の全てを掲載して置きたい(森谷香取さんのアドレスは承知していない)。
この四枚の画像の内、「函の表」というのは、承知していたのだが、この四枚がセットになっていたのかどうか、どうにも記憶があやふやなのである(前に見たことはあるのかも知れないが、「函の表」のもののみが印象に残っていったということなのかも知れない)。
そして、この「武者小路実篤・画の装丁表紙」というのは、茅舎の第三句集(生前刊行の最期の句集)の『白痴』の一つのキー・ポイントになるような、そんな印象を受けるのである。
茅舎が、親友の西島麦南共々、武者小路実篤の「新しき村」運動に心酔して、実篤と知己になるのは、茅舎が二十一歳(大正七年・一九一八)の頃である。その実篤のものが、茅舎の最期を飾る『白痴』の装丁画になっているということは、茅舎の実篤への想い(その人道主義・理想主義、そして、その「新しき村(理想的な調和社会・階級闘争の無い世界(ユートピア)の実現)」への想い)というのは、茅舎の、その生涯を貫いてのものだったということを示唆しているように思えるのである。
しばしば、茅舎の「茅舎浄土」の世界というのは、宗教的(仏教的・キリスト教的)な世界が強調されて理解されているが、より以上に、人道主義・理想主義的な「ヒューマン(人類愛)とユートピア(理想郷)」の「茅舎浄土」の世界と理解すべきものなのではなかろうか。そういう面において、この『白痴』の装丁画が、武者小路実篤のものということは、『白痴』という句集の、その一句一句の鑑賞においても、忘れ得ざるものと理解をしたいのである。
また、この四枚のうちの「茅舎像(掲載写真)」の、「父・信吉制作の観音像と共に」という、この「観音像」(観世音菩薩像の略称)は、茅舎の句にしばしば出てくる「弥勒尊」(弥勒菩薩の尊称)・「観世音」(観世音菩薩の略称)・「弥陀如来」(阿弥陀如来の略称)とかの背景にあるものと、これまた理解をしたい。
と同時に、「序文  新婚の清を祝福して贈る  白痴茅舎」の画像と併せ、「没する3日前には、新婚の甥に贈る句集『白痴』を清に手渡すことができたし、その清には 年内に第1子(私)が生まれる予定と知らされたことは、茅舎にとって最後の満足を得られた」という本文の記事も特記して置く必要があろう。
とにもかくにも、茅舎の第三句集『白痴』を鑑賞するためには、これらの四枚の画像は、キー・ポイントのもので、偶然にも、この四枚の画像に再会できたということは、長らく見たいと思っていたもので、大変に有り難い。望むらくは、これら四ページの続きのものを、是非、ネットの世界で見られることを切望して置きたい。



(武者小路実篤・画の装丁表紙 他略)

茅舎追想(その二十七)

○ 白露に阿吽の旭さしにけり (川端茅舎句集)

昭和五年(一九三〇)「ホトトギス」十一月号の巻頭の一句である。茅舎の傑作句として名高い。この前年に茅舎の絵画の師の岸田劉生が急死して、失意の茅舎は体調を崩して、その年譜には、「病弱失意の生活を送る」(『川端茅舎(石原八束著)』)とある。当時、茅舎は、異母兄・龍子の建てた「青露庵」(大森区桐里町)に住んでおり、この青露庵は「池上本門寺」の裏手に隣接していた。この句は、おそらく、その池上本門寺の境内の作と思われる。その境内に「山門」(仁王門)があり、そこに、「金剛力士像」がある。その「阿吽」の金剛力士像と白露の取り合わせの句と思われる。その山門近くの草葉に白露が宿り、そこに赤の金剛力士像の阿吽(吐く息と吸う息を表す言葉)の口元から、まるで旭が射しこめるかのように、草葉の露を照らしているという光景なのではなかろうか。

http://castle-in-spain.at.webry.info/200906/article_31.html



茅舎追想(その二十八)

○ 石ころも露けきものの一つかな (虚子『五百句』)
○ 金剛の露ひとつぶや石の上 (茅舎『川端茅舎句集』)

虚子の句は、「ホトトギス」(昭和四年十月)が初出で、昭和四年の作である。「石ころも露けき」の「露けき」は、「露けし」の連体形で「露の湿気が多い」という意。「今日別れ 明日はあふみと 思へども 夜やふけぬらむ 袖の露けき」(紀利貞『古今集』)など、和歌などに、その用例があり、「涙っぽい」という意もある。露は日が当たると消えるので、「露の世」「露の身」「露の命」など、はかないものの代名詞でもある。
茅舎の句は、「ホトトギス」(昭和六年十二月)が初出で、昭和六年の作である。「実在の写生句が仏教思念の世界にまで飛翔して燦然たる形象を具現しているところに、写生を超えた茅舎句の象徴相を見る」(『川端茅舎(石原八束著)』)との評があるが、この句は「実在の写生句」ではなかろう。実際には、「石の上」に「露が結ぶ」という光景は、これは目にすることは出来ないであろう。露は石の上に降りると、露の玉となることなく、「露けし」の、濡れた石になってしまう。即ち、「実在の写生句」とすると、「金剛の露けきものの石の上」のようなものであろう。しかし、これでは、「金剛の」の、この「金剛」が活きてこない。即ち、この句は、「実在の写生句」ではなくて、茅舎の「心眼」がとらえたところの、「心象風景」の句と理解すべきなのではなかろうか。
そういう、この句に関する鑑賞めいたことよりも、これを作句するときの、茅舎の「俳句工房」的なことに思いを寄せると、「露・ひとつぶ・石」の三つのキィワードからすると、これは、虚子の句の「石ころも露けきものの一つかな」が念頭にあってのものと解しても差し支えないのではなかろうか。
さらに、想像を逞しくするならば、茅舎の開眼の一句とされている、「白露の阿吽の旭さしにけり」(「ホトトギス」昭和五年十一月)が、池上本門寺の「山門(仁王門)」の「金剛力士像」の「阿吽の力士像と白露との取り合わせの一句」と解せるならば、掲出の「金剛の露ひとつぶや石の上」の、この「金剛」は、その、池上本門寺の「金剛力士像」の「金剛」から、茅舎はヒントを得ているのではなかろうか。
茅舎の俳句というのは、一句として提示されたときには、「写生を超えた茅舎句の象徴相を見る」(石原八束)という「象徴相」を帯びるのであるが、その作句の原点の「俳句工房」的には、極めて、俳諧が本来的に有していた「本歌取り(本句取り)」などの、理的な操作による作句技法などを駆使しており、この句なども、いわゆる、虚子流の「花鳥諷詠」の世界で鑑賞すると、とんだ落とし穴があるということを特記して置きたい。


茅舎追想(その二十九)

○ 星亨墓前に大き糞凍てぬ (『華厳』)

昭和九年作の『華厳』所収の句。『華厳』所収の句というのは、全句、「ホトトギス」入選句で、さらに、そこから厳選された句で、二度の虚子の選句を経ている。その『華厳』の虚子の「序」は、有名な、「花鳥諷詠真骨頂漢」というものである。
虚子が、「花鳥諷詠」を唱えたのは、昭和二年(一九二七)六月の山茶花句会に於いてであった。虚子の「花鳥諷詠」というのは、その「花鳥」に代表される「自然」を諷詠することを主たる対象にするということで、例えば、「人事」を諷詠するということは、従たるものという、そういう限界をも内包しているものであろう。
虚子の言葉ですると、「俳句では鶯や梅と同じやうな程度に、人事の現れをただ人事の現れとして、浅く、しかしながら愉快に、軽く、しかしながら有趣味に、扱ふ」(「ホトトギス」昭和三年九月)というようなことであろうか。
その他に、この「花鳥諷詠」で、最も対立するのは、「主観写生」を排斥して「客観写生」に因るという主唱で、これは、当時の「ホトトギス」の主流が「主観写生」の立場で、この立場を「客観写生」へと転換させようとする意図も虚子は抱いていたのであろう。
大正時代の「ホトトギス」の第一期黄金時代の「村上鬼城・飯田蛇笏・渡辺水巴・前田普羅・原石鼎ら」の代表的な俳人は、「主観写生」という立場で、その第一期黄金時代の次の第二期黄金時代の四S(水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十)の「秋桜子・誓子」、そして、日野草城らも、この「主観写生」という立場であった。こういう傾向に対して、虚子は、昭和二年八月の「ホトトギス」に「写生の話」、同十月の「ホトトギス」に「秋桜子と素十」の評論を掲載して、当時の「ホトトギス」の代表的な俳人の秋桜子を排斥して、ひたすら「客観写生」の立場を歩む素十らの立場に肩入れをしたのであった。
この「花鳥諷詠」の「主観写生」と「客観写生」との対立は、昭和六年(一九三一)の秋桜子の「ホトトギス」離脱となって、ここから、新興俳句運動がスタートとして行くこととなる。この秋桜子離脱後の「ホトトギス」の次の第三期黄金時代の俳人として、虚子が嘱望したのが、「川端茅舎・松本たかし・中村草田男ら」の俳人であった。
虚子が、茅舎に「花鳥諷詠真骨頂漢」という「序」を呈したのは、ともすると、「客観写生」というよりも「主観写生」に傾く傾向にある茅舎に対して、秋桜子離脱後の「ホトトギス」の代表的な俳人として、より、「客観写生」に因る「花鳥諷詠」の、「ホトトギス」俳句を興隆して欲しいという、当時の、虚子の願望をも内包したものであろう。
茅舎は、虚子の『華厳』の「序」に対して、その「後記」で、「この未曾有難遭遇の時代に悠々と花鳥諷詠する事が未だ善か悪か自分はしらない。けれども只管花鳥諷詠する事ばかりが現在自分の死守し信頼するヒューマニテイなのである」と、悲壮ともいうべき決意を表明している。
さて、掲出の句は、「自然諷詠」と「人事諷詠」とに区別すると、茅舎には珍しい「人事諷詠」の句と言えるであろう。星亨というのは、明治時代の政治家で、衆議院議長などを歴任し、その異名が「押し通る」と言われた程に、強引な政治家であった。政友会を結成して、収賄などの噂も絶えず、日本の政党政治と利益誘導の構造すなわち金権型政党政治を築いたとされる人物で、その最期は刺殺された。
茅舎は、若いときに、武者小路実篤らの「新しき村」に共鳴し、終始、その理想主義を抱いていたことが察知され、現実主義の塊のような、星亨のような政治家とは本質的に相容れないものがあったであろう。
そういうアンチ星亨ということから、「星亨墓前に大き糞凍てぬ」という句の鑑賞をすることは、十分に可能だろうし、また、そういう理解が一般的なのかも知れない。しかし、これは、どうやら、虚子の茅舎に呈した、「花鳥諷詠真骨頂漢」茅舎の、実際に嘱目した「客観写生」に基づく句のように思われるのである。
あろうことか、星亨の墓は、茅舎が住んでいた「青露庵」に隣接した池上本門寺にあり、おそらく、そこらは、茅舎の散歩道の一つで、この句は、その池上本門寺境内を散策しながら、茅舎が目にした、実景をそのままを一句にしたという雰囲気でなくもないのである。
と解すると、この句は、虚子の、「俳句では鶯や梅と同じやうな程度に、人事の現れをただ人事の現れとして、浅く、しかしながら愉快に、軽く、しかしながら有趣味に、扱ふ」という、「人事の現れをただ人事の現れとして、浅く、しかしながら愉快に、軽く、しかしながら有趣味に」鑑賞することこそ、最も相応しい一句のように思えるのである。
ちなみに、茅舎の在世中の頃は、池上本門寺の境内に、星亨の銅像もあって、その銅像は戦時中に供出され、その台座だけが残り、戦後、その台座は遺族が寄進して、そこに、日蓮上人の銅像があるという。また、境内には、現在でも犬の散歩のマナーの立看板などがあり、茅舎の時代でも、境内の犬の散歩などは許されていて、おそらく、境内などで犬の糞などを見かけるのは日常茶飯事であったろう。
茅舎の、こういう句を口ずさみながら、池上本門寺の、あの広い境内を散策するのも、これまた、一興のことである。

(星亨の墓地は、宝塔の北、経倉と霊宝殿の西に当たる)


茅舎追想(その三十)

○ 涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩 (『川端茅舎句集』)

昭和八年五月号「ホトトギス」初出の『川端茅舎句集』所収の句である。この句について、同時発表の句と一緒に、「いずれも駄作であろう。(中略)ともかく『花鳥諷詠』句というものについての根本的な疑念が湧くのだ。(中略)上掲句のように『花鳥諷詠』を交通標語のように歌った作に秀品はない」(『川端茅舎(石原八束著)』)と酷評されている。
この酷評は、「内観造型」(季語の寓意・象徴性と内実の詩心を重視する「造形」論)という反「花鳥諷詠」を主唱する石原八束としては、当然の帰結なのかも知れないが、茅舎は、虚子の「花鳥諷詠真骨頂漢」であり、「只管(ひたすら)花鳥諷詠する事ばかりが現在自分の死守し信頼するヒューマニテイなのである」(茅舎『華厳』「後記」)。
即ち、当時の茅舎にとっては、虚子の主唱する「花鳥諷詠」というのは、「標語」などというものではなく、「ヒューマニティ」(人間性・人間愛・人道主義・人間としての生き方)に係わるものなのである。
とするならば、この茅舎の一句は、当時の茅舎の全てを語りかけているようなものとして鑑賞すべきなのであろう。そして、この句でも、「涅槃会」という仏教用語を正しく理解をしていないと、その全貌が見えてこない。
「涅槃会」というのは、「涅槃講や涅槃忌とも称し、陰暦二月十五日、釈迦の入滅(にゅうめつ)の日に、日本や中国などで勤修される、釈迦の遺徳追慕と報恩のための法要である。法要中は、仏涅槃図(涅槃図)を掲げ、『仏遺教経』を読誦することとなっている」(ウィキペデイア)。
即ち、茅舎のこの一句は、「涅槃会の日、涅槃会に読誦する『仏遺教経』に倣って、師の虚子の主唱する『花鳥諷詠』の句を読誦する」と、「涅槃会」に読誦する「仏遺教経」と関連させての鑑賞があって然るべきものと思われるのである。
それと、もう一つの、この句の鑑賞は、この句もまた、池上本門寺境内を散策しながらの、「涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩」という、「涅槃会の日に、寺院の境内を散策しながら、『花鳥諷詠詩』たらんとして、句作に没頭して吟じたりしている」という句意もあろう。
茅舎は、「花鳥諷詠」は「公案」(禅宗ではすぐれた禅者の言葉,動作などを記録して,座禅しようとする者に与え,悟りを得る対象とするもの)のようなもので、「公案を解いたものにとって広さは無限だが、解けないものは客観写生に停滞」したままであるとのニュアンスの言葉を遺しているようだが(『現代俳句大系第三巻』「解説(花鳥諷詠・大野林火稿)」)、こと、鑑賞の方も、この「花鳥諷詠」というのは、「公案」のようなものであって、どうにも、一筋縄ではいかないということを、よくよく肝に銘じて置く必要があろう。

(龍子画「花鳥諷詠」。バックに、「梅の花にウグイス(春)、青梅に黒アゲハ(夏)、黄ばむ梅の葉と山鳩(秋)、梅の枝に雪と雀(冬)」が描かれている。龍子・茅舎の兄弟は共に「ホトトギス」の同人であった。 )

茅舎追想(その三十一)

○ 石段を東風ごうごうと本門寺 (『華厳』・「ごうごう」の「ごう」は二倍送り記号)

昭和九年の作。茅舎の句の中で、「本門寺」の字句が直接出てくるという意味では珍しい感じでなくもない。この石段は、加藤清正の寄進によって造営されたと伝えられ、「法華経」宝塔品の偈文(げもん)九十六字にちなみ九十六段に構築され、別称「此経難持坂(しきょうなんじざか)」と呼ばれ、池上本門寺の名高い石段である。その「本門寺の名高い石段に、まだ冷たさの残る春を告げる東風がごうごうと吹いている」というような句意であろう。
「ごうごう」は、茅舎の得意とする擬声語(オノマトペ。擬音語と擬態語の総称)である。この句も、茅舎の本門寺境内を散策しながらの一句であろう。
季語の「東風」は、「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(菅原道真『拾遺和歌集』)と、和歌・連歌の時代からの詠題でもあり、伝統的な季語でもある。茅舎は、しばしば、百人一首などの、この種の用例を駆使しているものを目にするが、この句もその範疇に入るものであろう。
「東風」というのは、「春を告げる風、凍てを解く風、梅花を開かせる風」として詠まれるが、この句の「東風」も、池上本門寺に隣接した池上梅園の「梅花を開かせる風」の意も背景にあろうか。この池上梅園は、日本画家の伊東深水の自宅兼アトリエ(月白山荘)があったところで、ここら辺も、茅舎の散歩道の一つであったろう。
茅舎が、この池上本門寺や池上梅園に近い「青露庵」(大森区桐里町、現在は大田区)を居と定めたのは、昭和三年(一九二八)のことであったが、それから亡くなる昭和十六年(一九四一)まで、茅舎の句業の大部分は、この「青露庵」周辺、特に、池上本門寺付近のものが多いということを改めて実感する。



茅舎追想(その三十二)

紅葉焚く煙の柱松を抽(ぬ)き
紅葉谷日蓮茲(ここ)に荼毘(だび)に附し
紅葉谷日蓮御舎利のこしける
ちりそめし紅葉日和の甃(いしただみ)
夕紅葉我が杖月のかげをひき

昭和八年作の『華厳』所収の五句である。二句目の「日蓮茲(ここ)に荼毘(だび)に附し」と三句目の「日蓮御舎利のこしける」から、これらの句は、池上本門寺境内(宝塔付近)の句と思われる。
その日蓮上人が荼毘に附された辺りが、紅葉谷と呼ばれていたのかどうかは定かではないが、荼毘に附された宝塔から北にある「大坊本行寺」(池上氏館跡地)付近が紅葉谷のような雰囲気で、紅葉の名所ともなっている(紅葉坂と呼ばれている坂もあるらしい)。これらの句は、この大坊本行寺から宝塔付近にかけての句なのではなかろうか。
一句目は、「紅葉焚く煙」を「柱」に見立てての面白さか。二句目と三句目とは、日蓮上人が入滅した日(十月十二日)と紅葉の季節に関連させたものなのかどうか。四句目は「花筵」(散った桜の花を見立てての季語)に対する「ちりそめし紅葉と甃(いしただみ)の詠み」の面白さか。五句目は、「夕桜ならず夕紅葉を見て、何時しか、自分の杖が月の明かりで影を引いている」との句意で、「紅葉・月」の秋の二大景物を一句にした面白さか。
この五句で、やはり、この五句目が、「我が杖月のかげをひき」で、このときの茅舎自身のイメージが最も鮮烈で、この句を採る人が多いのではなかろうか。
ちなみに、茅舎の「杖」というのは、洋風の一般的なステッキ(杖)ではなく、「良寛の杖」とか「モーゼの杖」とか、行脚僧が持っているような杖で、高野素十とか何人かの方が、茅舎の杖について一文を草しており、それらと重ね合わせると、更に、興味も増してくる。


茅舎追想(その三十三)

○ 花の奥鐘の響を撞きにけり (『華厳』)

昭和九年作の『華厳』所収の句である。この句については、茅舎の自解(「自句自解」)があるらしい(『現代俳文学全集・第四巻』)。その自解の中に次のような一節があるとのことである。

http://blog.goo.ne.jp/npo_suien05/e/ccfde35e631f958afe3501ee246e2730

「満開の花の奥に鐘楼が見えている。鐘撞き男が上って来て鐘を撞き始める。男が一つの動作をすると鐘の響が花の中に漲って来る。又一つの動作をすると又鐘が追掛けて花の中に響き渡って漲って来る。幾度もそれを繰返すと鐘を撞く動作と鐘の響とが時々切離れて了って不思議な感じがする。」

この句もまた、池上本門寺境内のものであろう。茅舎の「青露庵」からは、池上本門寺の鐘楼を一望することは出来ないであろうから、やはり、境内を散策しながら、その鐘楼の近くで、鐘撞き男が鐘を撞くのを、それこそ、茅舎の師の虚子の「客観写生」で、じぃっと凝視し続けた、その結果の一句なのであろう。
虚子の唱える「客観写生」というのは、幾多の変遷を経て、なかなかその真意の全貌を一口で説明するのは困難なのであるが、秋桜子の「叙情的な写生(文芸性に基づく写生)」を「主観写生」、そして、素十の「叙情排除の写生(文芸性という虚構を排除する写生)」を「客観写生」として、その素十の「客観写生」に近いものということにして置きたい。
とした上で、上掲の茅舎の自解の一文は、甚だ、「客観写生」的な説明なのであるが、その結果の出来上がった、その上掲の一句は、「客観写生」というよりも、茅舎の心眼ともいうべきものが捉えた、どちらかというと、「主観写生」の一句と解したい。
実は、虚子は、「客観たる『花鳥』を忠実に写生していると、花鳥が『非常に親愛な、非常に力強いもの』となり、主観はおのずから花鳥を通して現れるようになる」(『現代俳句辞典』「客観写生(川崎展宏稿)」)としており、上掲の一句とその自解は、まさに、虚子の「客観写生」、そして、その「花鳥諷詠」に基づくものという思いを深くするのである。
そして、この句は、浮世絵の「池上晩鐘」の、池上本門寺の鐘楼の一句で、虚子が茅舎に呈した『華厳』の「序」の、「花鳥諷詠真骨頂漢」の、茅舎の一句として、その代表的な句の一つと解したい。

茅舎追想(その三十四)

大空へ鳩らんまんと風車  (『華厳』)
風車赤し仁王の足赤し   (同上)
風車赤し五重の塔赤し   (同上)
あかあかと彼岸微塵の佛かな(同上。「あかあか」の「あか」は二倍送り記号)

昭和九年作の『華厳』所収の四句である。『華厳』では、「大空へ鳩らんまんと風車」の前に、「花の奥鐘の響を撞きにけり」があり、その句と併せ、三月二十一日の「春分の日」の頃の彼岸の五句とも解せられる。これらの四句も、池上本門寺境内付近のものであろう。
一句目は、「鳩らんまん」の「らんまん」が、「花(桜)が咲き乱れる様」を、「鳩らんまん」とした面白さで、桜の花が爛漫と咲き乱れている様を背景にして、大空に鳩、そして、地上に風車という、そんな雰囲気の句であろうか。
二句目は、仁王(金剛力士像)と風車の取り合わせの一句である。花祭りの縁日などでの風車売りの光景などであろうか。それとも、山門の仁王の足下の網などに、誰かが風車を挿して、それを目撃してのものなのかどうか。仁王の足と風車とが、共に、「赤(朱)い」ということに着目しての、意外性の面白さを狙っている感じでなくもない。
三句目の「五重塔」と来ると、池上本門寺の五重塔の一句と解したい。池上本門寺の殆どの伽藍は戦災で焼失して、戦後再建されたものの中で、この五重塔は戦災を免れ、昔の面影のままに今日に至っているという。全面ベンガラ(赤色塗料)塗りで、高さ二十九メートルの偉容で、その赤い五重塔の偉容と小さな赤い風車との対比で、いかにも、画人・茅舎の句という思いがしてくる。
四句目は、一句目から三句目までの具象的な句に比して、「彼岸微塵の仏かな」と、この「微塵」(仏語。物質の最小単位である極微(ごくみ)を中心に、上下四方の六方から極微が結合したきわめて小さい単位。転じて、非常に微細なもの)が、抽象的な、いわゆる、「茅舎浄土の世界」(茅舎が俳句によって描いた極楽浄土的小宇宙)の一端を物語っているようなイメージである。更に付け加えるならば、二句目、三句目の具象的な「赤し」は、抽象的な「あかあかと」に、そして、一句目から三句までの具象的な「彼岸」を彩る景物と仏達は、心眼でしか見ることが出来ないような、非具象的な象徴的「微塵」と化しているというようなイメージであろうか。
これらの四句は、当時、秋桜子らが試みた「連作」(一句では表現できない内容を数句並列することにより効果を挙げる表現形式)の作品ではなかろう。しかし、この同時の作品と思われるものを四句並列すると、茅舎の、その時の「俳句工房」(俳句を創るその一連の過程など)的なものが、一句のものよりも鮮明になってくるような印象を受ける。と同時に、この四句の中で、この四句目が、最も完成された、茅舎俳句の一つの極地のように思える。

(池上本門寺「五重塔」)

http://www.gender.go.jp/t-challenge/oota/city.html


茅舎追想(その三十五)

○ あかあかと彼岸微塵の佛かな(『華厳』。「あかあか」の「あか」は二倍送り記号)
○ 芋の葉や露の薬研の露微塵 (『華厳』)
○ 枯芝に九品浄土(くほんじようど)のみぢんたつ (『白痴』)

「微塵」(みじん)の語句のある三句である。一句目は、昭和九年作。二句目は、昭和十三年作。この二句は、茅舎の第二句集『華厳』所収の句である。三句目は、第三句集『白痴』(「寒堂」)所収の句で、昭和十五年の作である。
一句目は、同時の作と思われる「風車赤し五重の塔赤し」などからして、池上本門寺境内の作と思われる。また、二句目は、茅舎の散歩道の青露庵から池上本門寺辺りのものであろう。そして、この三句目は、「寒堂」という章名の中の一句で、この「九品仏」からすると、池上本門寺での作ではなく、当時、茅舎は、「あをぎり」句会を主宰していて、その吟行地の、九品浄土の弥陀仏、九品仏で名高い「浄真寺」(東京都世田谷区奥沢)での作と思われる。
一句目の「彼岸微塵」も、二句目の「露微塵」も、茅舎の造語で、これらの造語の基礎になっている「微塵」は、仏教用語で、「物質の最小単位である極微(ごくみ)を中心に、上下四方の六方から極微が結合したきわめて小さい単位。転じて、非常に微細なもの」の意であろう。
一句目の「彼岸微塵」というのは、最も表面的な理解で、「彼岸の日の微塵の中(その微塵の中に漂う)」というよう意であろうか。それに比して、二句目の「露微塵」とは、「露が微塵に砕ける様」のような意と理解をいたしたい。また、「薬研」は、「漢方薬などをつくるとき、薬材を細粉にひくのにもちいる器具」のこと。三句目の「九品浄土」とは、「浄土教で、極楽往生の際の九つの階位。上中下の三品(さんぼん)を、さらにそれぞれ上中下に分けたもの。上品上生(じょうぼんじょうしょう)・上品中生・上品下生(げしょう)・中品上生・中品中生・中品下生・下品(げぼん)上生・下品中生・下品下生の九つ」の仏教用語であるが、ここでは、「九品仏」で、世田谷の「浄真寺」の「九品仏」(九体の阿弥陀如来像)を指しているのであろう。
ここでも、一句目と二句目の「彼岸微塵」・「露微塵」の「微塵」が、三句目になると、平仮名表記の「みじんたつ」の「みじん」と、一句目・二句目の「微塵」すら、抽象的・象徴的用語を、更に、実体のない、虚空のような、「みじん」に転化しているのを目の当たりにする。この転化は、「風車赤し仁王の足赤し」「風車赤し五重の塔赤し」の「赤し」が、「あかあかと彼岸微塵の佛かな」の「あかあかと」の転化よりも、さらに、抽象的・象徴的世界への転化のように思われる。
もう、ここまで来ると、茅舎の句境は、完全に、その対象物の、ここでは、「九品仏」と一心同体となって、その「茅舎浄土」の世界に飛翔しているというのが、最も的を得た表現ような、そんな思いがしてくる。

(「九品仏浄真寺」、正式名称は「九品山唯在念仏院浄眞寺」)

http://marukokawa.exblog.jp/4725545/


茅舎追想(その三十六)

○ 咳きながらポストへ今日も林行く (『白痴』)
○ 五重の塔の下に来りて咳き入りぬ (同上)
○ わが咳や塔の五重をとびこゆる  (同上)
○ 咳き込めば我火の玉のごとくなり (同上)
○ 咳き止めば我ぬけがらのごとくなり(同上)

この五句は、『白痴』の「謦咳(けいがい)抄」所収の十句のうちの五句で、昭和十五年作である。茅舎の日記(『現代俳句文学全集四川端茅舎集』)を見ると、「ポストへ。速達」などの記事を多く見る。茅舎の住まいの「青露庵」から本門寺の方に行くところに、このポストがあったのであろう。そして、身体の調子が良いときには、少し足を伸ばして、本門寺境内の五重塔辺りに行ったのであろうか。
一句目は、身体の調子がさほど良くなく、「咳をしながらポストへと林の道を行く」と、何の衒いもない日常詠だが、当時の茅舎にとっては、このポストへの投函が、唯一の世間との接点の窓口のようなもので、そういう病床に明け暮れている境遇詠と理解すべきなのであろう。
二句目は、本門寺の五重塔の所に来て、持病の喘息の発作が起きたのであろうか。「咳き入りぬ」と、淡々と描写しているが、信奉する師の虚子の「客観写生」に基づく、現実をありのままに叙するという、そういう信念に支えられている俳人・茅舎が病者・茅舎を描いているという雰囲気である。
三句目は、「わが咳や塔の五重をとびこゆる」と、大袈裟の比喩のように思えるかも知れないが、俳人・茅舎にとって、これは決して大袈裟な表現なのではなく、これまた、「客観写生」の、過不足のない比喩として、「塔の五重をとびこゆる」と、冷徹なまでの、俳人・茅舎が病者・茅舎を描写している。ここまで来ると、つくづく俳人とは因果の業であるという思いすらして来る。
四句目は、「火の玉のごとくなり」と、比喩の直喩の「如く(ごとく)」の用例である。「客観写生」というのは、「己(我)を内観する」という所作でもあろう。ここには、俳人・茅舎というよりも、病者・茅舎だけが、「我」として前面に出て来る。茅舎は比喩の名手として知られているが、比喩の「ごとく」が、もはや「火の玉」そのものの一態様と化している。
五句目は、四句目の「火の玉」に比して、「ぬけがら」という比喩なのである。しかし、この「ぬけがら」とは、何とも凄まじい比喩であることか。これらの、昭和十五年の「謦咳(けいがい)抄」は、昭和十六年の「心身脱落抄」と続くのであるが、それは、即、「朴散華即ちしれぬ行方かな」に続く道程であった。もう、ここには、「花鳥諷詠真骨頂漢」も、「比喩の名手・茅舎」も、そういう例えが通用しないであろう。この「ぬけがら」は、即、「茅舎浄土」の世界と隣接するものであって、ここには「我・茅舎」の有りの儘の姿のみが提示されているだけである。

(池上本門寺「五重塔」)

http://www.shoueiin.jp/tayori/tayori/5jyuu.jpg


茅舎追想(その三十七)

蝶の空七堂伽藍さかしまに (『川端茅舎句集』)
蝶々にねむる日蓮大菩薩  (同上)
火取蟲立正安國論を読む  (『華厳』)

一句目と二句目は『川端茅舎句集』所収の句で昭和六年作である。そして、三句目は『華厳』所収の句で、昭和九年作。茅舎の自句自解がある(『現代俳句文学全集四川端茅舎集』)。
その内容は、次のようなものである。

[作者は作者の思想と信仰とを句の上に押売しようといふ考えは毛頭ない。この句と立正安国論の内容とは何の関わりあらんやである。たゞ立正安国論を読んでゐるところへ火取虫の奴が飛び込んで来た丈で差支へはないのである。]

茅舎は、一つの思想なり信仰に拘るというよりは、例えば、仏教とキリスト教とを同時に受容するというような柔軟な姿勢というのを生涯にわたって持ち続けたように思われる。
この三句目の日蓮上人の「立正安国論」も、日蓮宗に関心があるというよりは、「立正安国論」そのものに興味があってのものという雰囲気でなくもない。
そもそも、「立正安国論」というのは、日蓮宗(法華教)を「正法」として、浄土宗などを「邪法」として排斥するという立場で、聖書にも深い関わりを持つ茅舎にとっては、住まいが池上本門寺に隣接しているということもあって、かねがね華厳経や法華教に関心があることなどから、日蓮上人やその「立正安国論」などにも関心を持っていたということなのではなかろうか。
ちなみに、茅舎が亡くなったときの葬儀は、異母兄の龍子が中心になって、真言宗智山派の長遠寺(大田区南馬込)で行われており、龍子そして茅舎の兄弟は、池上本門寺と深い関係にはあるが、両者とも日蓮宗を信仰していたということではなかろう。
上掲の一句目の主題は「蝶の空」で、その「蝶」から見ると、池上本門寺の「七堂伽藍」も「さかしま」(逆さま)だという、茅舎の「有情滑稽(フモール)」の視点の面白さの句であろうか。
二句目は、「日蓮大菩薩」と大上段にとらえているが、この句も、「蝶々にねむる」と、この「ねむる」は、「ここ池上本門寺で永遠の眠りについた」ということを利かせており、「日蓮大菩薩」を敬ってのものというよりも、「蝶々の舞う長閑な春の池上本門寺宝塔(日蓮聖人御荼毘所)」付近の叙景句という雰囲気のものであろう。
三句目も、上記の「自句自解」のとおり、「たゞ立正安国論を読んでゐるところへ火取虫の奴が飛び込んで来た丈で差支へはないのである」ということなのだが、季語の「火取虫」(「飛んで火に入る夏の虫」の火取虫)と絶えず危険に身を曝しての一生であった「日蓮大菩薩」との、これまた、茅舎ならでは、「有情滑稽(フモール)」の一句と解しても差し支えないように思われる。
これらの三句は、茅舎の生死と即かず離れずの「茅舎浄土」の世界のものではなく、茅舎のもう一面の「有情滑稽(フモール)」の世界のものと、そんな思いを抱くのである。
なお、茅舎の異母兄・龍子絶筆の「龍」の天井画が、池上本門寺の大堂(祖師堂)に奉納されているが、その作品の「龍」の眼は、龍子の遺族の銘を受けて、龍子の知人の日本画家・奥村土牛が入れたという曰く付きのものである。浅草の浅草寺の天井画「龍」が「青龍」とすれば、この池上本門寺のそれは、「白龍」ともいえるもので、龍子の傑作画「渦潮」の幻想的な「白龍」という趣でなくもない。
とにもかくにも、この池上本門寺と、その近所に住んでいた、不世出の大画家・龍子と早逝の「花鳥諷詠真骨頂漢」・茅舎の異母兄弟は、その宗派に関係なく、深い関係にあったということは特記して置く必要があろう。

(池上本門寺・大堂から仁王門付近)

http://homepage1.nifty.com/toshiyuk/TamaSam/TamaSa264/tmaSa264.htm



(川端龍子の「渦潮」。この「渦潮」の「白龍」が、「池上本門寺」
の「大堂」の天井画の「白龍」のイメージでなくもない。)

http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2005/02/post_25.html


(茅舎の葬儀が行われた長遠寺)

http://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/manabu/gallary/omori/choonji/index.html


茅舎追想(その三十八)

○ 水馬辨天堂は荒れにけり (『華厳』)
○ 水馬青天井をりんりんと(「同上」。「りんりん」の「りん」は二倍送りの記号表示)
○ 水馬大法輪を転じけり (「同上」)
○ まひまひや雨後の円光とりもどし(「同上」。「まひまひ」の「まひ」二倍送りの記号表示)

一句目は『華厳』所収の昭和九年作である。茅舎の「自句自解」があり、「少し古風だが一寸愛着がある」として、この句は「本門寺山の下の市野倉の弁天池のスケッチ」とのことである(『現代俳句文学全集四川端茅舎集』)。
この「水馬」は、「あめんぼう(あめんぼ)」と「みずすまし」との読みがあるが、「あめんぼう」の読みとしたい(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。
二句目と三句目は、『華厳』所収の句で、昭和十三年作である。二句目の「青天井」というのは、水面に映っている青空の意であろう。三句目の「大法輪」とは「大いなる仏教の教義」のような意であろうか。この二句もまた、一句目と同じように、市野倉の弁天池での作なのかも知れない。
四句目も、『華厳』所収の、昭和十三年作なのだが、この句は、「あをぎり」句会の吟行のもので、鶴見三ツ池での作である(『川端茅舎(石原八束著)』)。「円光」とは、仏教用語で、「菩薩の頭の後方から放たれる光の輪で、後光ともいう」。
この四句を並列して見て、一句目と二句目とのスケッチから、三句目の「大法輪」、そして、四句目の「円光(後光)」という、いわゆる、「茅舎浄土」の世界を構築するところの措辞が生まれてきたという印象を受けるのである。
そして、面白いことには、「水馬(あめんぼう)」も「鼓虫(まいまい・まひまひ)」も、共に、「水澄(みずすま)し」という別称があるということなのである。即ち、茅舎にとって、「水馬(あめんぼう)」と「鼓虫(まいまい・まひまひ)」とを、厳密に区別していたのかどうか。さらには、池上本門寺付近の市野倉の弁天池と鶴見三ツ池との、作句するときの場所は異なるのだが、茅舎にとっては、その場所の相違というよりも、常に、これまでの作句を思い出しては、それを推敲するという、そういう姿勢が、これらの四句を並列して見て、特に、印象を深くするということなのである。
即ち、あらためて、この並列した四句を見直して、一句目・ニ句目のスケッチ風の句が、三句目・四句目に至って、タブロー(完成された作品)的な、いわゆる、「茅舎浄土」の世界に変身を遂げているということを思い知るのである。

(本門寺公園内「弁天池」)

http://www.city.ota.tokyo.jp/midokoro/park/honmonjikouen/index.html


(鶴見三ツ池)

http://onsen-man.cocolog-nifty.com/daisuki/2006/03/post_db6d.html


(水馬 あめんぼう あめんぼ みずすまし)

http://yamagoya33.exblog.jp/6153247/


茅舎追想(その三十九)

○ 蝉の空松籟塵を漲(みなぎ)らし     (『華厳』)
○ 芭蕉葉に水晶の蝉羽を合せ        (『同上』)
○ きりきりと眠れる合歓に昴(すばる)かげ (『同上』)

茅舎の第二句集『華厳』は、編年別スタイルで、昭和八年から始まる。掲出の三句は、その『華厳』の冒頭から三句目までのものである。
この一句目の句については、「本門寺山の老松から群れ立って終日庭へ蝉時雨をそそいでゐる」との「自句自解」(『現代俳句文学全集四川端茅舎集』)がある。この自句自解から池上本門寺に隣接した「青露庵」での庭を見ての作ということが分かる。「蝉の空」については、「時々松籟の蝉の声を吹き強めるやうでもあり吹き弱めるやうでもある。『蝉の空』とはさういふ松の梢を打仰いだ時の感じである」と茅舎は続けている。句意は、「よく晴れ渡った青天の、合奏する蝉時雨に、松の梢に吹く風に、何か微粒の塵が、辺り一面に漲っている」というようなことであろう。
二句目は、「芭蕉の大きな葉に蝉が留まり、あたかも水晶のようなその羽を擦り合わせている」というようなことであろうか。
一句目も二句目も、「蝉時雨のする(ような)空」「漲らせる(よう)に注いでいる」、そして、「(光が当たって)あたかも水晶の(ような)蝉の羽」と、いわゆる、「比喩」の「何々のような(如きの)」を念頭に置いての、作句なのであろう。
それに比して、三句目は、「きりきりと眠れる合歓に昴(すばる)かげ」と、オノマトペ(擬声語)の「きりきりと」を活かして、さらに、「眠れる(ような)合歓」と、比喩も織り込んでの作句ということになろう。句意は、「きりきりと風に揺らぐ合歓の上に昴星が輝いている」というようなことであろう。
この三句目については、茅舎は、「病床で天井ばかり眺めてゐる僕は、直接(ぢか)に蒼穹を仰げるのが本当に嬉しかったのである。空を仰いだ僕の喜びが一句の背景になってゐる」(「自句自解」)と、この句の背景について述べている。
これらの三句、異母兄の龍子が建てた、池上本門寺に隣接した「青露庵」での作句で、その背景には、この三句目の「自句自解」の、「病床で天井ばかり眺めてゐる」、そういう茅舎の、「今を生きている」、その「喜びと証し」との、その切実なまでの、「息遣い」のようなものを感じさせる三句である。

(池上本門寺「松濤園」)

http://blog.goo.ne.jp/hkanda_1933/2



茅舎追想(その四十)

○ 芋の葉の滂沱(ぼうだ)と露の面かな (『華厳』)
○ 尾をひいて芋の露飛ぶ虚空かな   (『同上』)
○ 露の玉走りて残す小粒かな     (『同上』) 
○ 露の玉をどりて露を飛越えぬ    (『同上』)
○ 露微塵忽(たちま)ち珠となりにけり(『同上』)

この五句は、『華厳』所収の五句である。これらの句について、茅舎の「自句自解」は次のとおりである(『現代俳句文学全集四川端茅舎集』)。

[この五句は郵便を出しに行つた帰途で本門寺裏の芋畑で一時間程突つ立てゐて一と息で出来て了つて全く推敲も斧鉞(ふえつ)も加へなかつた。然し自ら順序が出来て全く連作のやうな構成になつて了つたのだつた。それゆゑ強ひて連作だと主張する必要もないが発生の順序を尊重してその儘に並べて置いて見たのである。
第一句は露まみれな芋の葉に昂(あが)つた強い表情を感じたのである。人間なぞより芋の葉の方が何だか自由な表情を示して呉れて相対してゐる時に全くはつとする。
この芋の葉の面の露は絶え間なく活々と動いてゐる。さうして又次の表情を示すのである。
第二句は芋の葉を滑(すべ)つた露が尾をひいて飛んだのである。この時その尾をひいた露は全く広大無辺の空間を飛過ぎて行くやうに感じられたのである。「虚空かな」といつたのは自然に出た詠嘆とも思へる。
第三句は又芋の葉の面の上の小さい事件なのである。相当に大きな露の玉は走つて小粒の奴が残つてキラキラしてゐるのである。
第四句も同じである。躍動した大きな露の玉を飛越えて又も虚空へ翔(かけ)つたのである。
第五句。芋の葉の上は大きな露の玉が次々に飛去つて了つて残つたのは微塵のやうな露のみになつて了つたのである。然し微塵のやうな奴は又見る見る乗り合つて大きな露の珠玉となつたのである。さうして大きく膨(ふく)れた露の玉は又正に活々と躍動せんとする気配を見せてゐたのである。(昭和八年十月六日の作) ※昭和十二年「俳句研究」第四巻第十号所載。]

「ホトトギス」の代表的な俳人であった水原秋桜子は、「自然の真と文芸上の真」を「馬酔木」昭和六年十月号に発表して、「ホトトギス」と訣別をした。その元はといえば、「主観写生」と「客観写生」との対立であり、「ホトトギス」の総帥・高浜虚子は、秋桜子らの「主観写生」を排斥して、高野素十らの「客観写生」を肯定する姿勢を取ったことに他ならない。
茅舎は、秋桜子とも素十とも親交があったが、秋桜子無き後の「ホトトギス」を背負って行く俳人の一人として嘱望されており、上記の「自句自解」は、明瞭に、師の虚子の標榜する「客観写生」の立場を鮮明にしているということができよう。
しかし、秋桜子、素十らの次の世代の、茅舎・たかし・草田男らは、この「客観写生」の立場にのみに固執することなく、それぞれ、「主観写生」・「客観写生」の、その止揚の上に、新しい俳句の世界を構築して行くこととなる。
その前提的な、秋桜子の「ホトトギス」離脱の頃の、茅舎の「客観写生」の「自句自解」として、上記の茅舎の記述には興味が惹かれる。

(芋の葉の露)

http://shashin-haiku.jp/allblogs-12953























































0 件のコメント: