日曜日, 6月 01, 2008

虚子の亡霊(五十五~六十)

虚子の亡霊(七)

虚子の亡霊(五十五)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その一)

○高浜虚子は、子規の持つ蕪村的要素を継承した。虚子も、子規門である以上、写生をふりかざすのは当然であるが、実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握態度は、伝統的な季題趣味を多く出なかった。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

☆虚子は子規門であるから、子規の教えを受けて、芭蕉の俳句よりも蕪村の俳句から、俳句への道に深入りしていったということはいえるであろう。しかし、「子規の持つ蕪村的要素を継承した」というのは、やや、小西先達の、その「雅」(永遠なるもの・完成・正統・伝統・洗練など)と「俗」(新しきもの・無限・非正統・伝統・遊びなど)と「俳諧(雅俗)」との「表現意識史観」とやらの、その考え方からの、飛躍した見方のように思われる傾向がなくもないのである。そもそも、虚子は、子規からの「後継者委嘱」を完全に断るという、いわゆる「道灌山事件」のとおり、子規のやっている「俳句革新」にも「俳句」の世界そのものにも、虚子の言葉でするならば、内心「軽蔑していた」ということで、子規や碧梧桐らの仲間との付き合いで、義理でやっていたというのが、その実情であったとも解せられるのである。
 そういうことで、子規没後の、子規の実質上の承継者は、碧梧桐で、すなわち、小西先達の、「子規の亡くなったあと、主として碧梧桐が『日本』を、虚子が『ホトトギス』を受け持った」の、その子規門の牙城の、新聞「日本」を碧梧桐が承継して、虚子は、雑誌「ホトトギス」を、(これは子規より継承したというよりも)、虚子その人が柳原極堂より生業として承継したものとの理解の方が正しいのであろう。

 これらについては、「ホトトギス百年史」によれば、次のとおりとなる。

http://www.hototogisu.co.jp/

明治三十年(1897)
一月 柳原極堂、松山で「ほとゝぎす」創刊。
二月 「俳話数則」連載(1)蕪村研究(2)新時代の俳句啓蒙・全国俳句の情報。
七月 「俳人蕪村」子規、三十一年三月まで連載。
八月 虚子「国民新聞」の俳句欄選者となる
十二月 「俳句分類」連載、子規。根岸にて第一回蕪村忌。
明治三十一年(1898)
三月 正岡子規閲『新俳句』刊(民友社)。
九月 ほとゝぎす発行所、松山から虚子宅(東京市神田区錦町1ー12)に移す。
十月 虚子を発行人として「ほとゝぎす」二巻一号発行。「文学美術漫評」連載、子規。日本美術院設立。
十一月 「小園の記」子規、「浅草寺のくさゞ」連載、虚子、子規派写生文の始まり。
十二月 短文募集、第一回題「山」。

 これらのことは、「ホトトギス」の「軌跡」として、「ホトトギス初代主宰・柳原極堂」で、虚子は「ホトトギス二代主宰・高浜虚子」ということになる。

http://www.hototogisu.co.jp/

 これを別な視点からすると、当時の、虚子の姿というのは、「虚子は俳諧師四分七厘商売人五分三厘」(因みに、「極堂は法学生三分五厘俳諧師三分五厘歌よみ三分」)と、雑誌「ホトトギス」の生業としての経営にその軸足を移していたという理解である(上田都史著『近代俳句文学史』)。そして、その経営の傍ら、当初からの夢の、「俳句」というよりも「小説家」への道を目指していたというのが、当時の虚子の実像ではなかったか。
 とすれば、子規の「俳句」・「蕪村研究」などの全てを碧梧桐が承継して、虚子はそれらからやや距離を置いたところに位置したということで、事実、碧梧桐の、その後の「蕪村」への取り組みは、今にその名を「蕪村顕彰・研究史」に留めているということで、その観点からすると、虚子は、何ら「子規の持つ蕪村的要素を継承」はしていないということになる。
 また、小西先達の「虚子も、子規門である以上、写生をふりかざすのは当然であるが、実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握態度は、伝統的な季題趣味を多く出なかった」という指摘は、やはり、結論は正しい方向にあるものとしても、その結論に至るまでの、いろいろのものが全て省略されているということで、この文章だけを鵜呑みにすると、とんでもない「虚子の虚像」が出来上がってしまう危険性を内包していることであろう。そもそも、小西先生流の、「雅」と「俗」との観点からすると、碧梧桐の「俗」に対して、虚子は「雅」であり、「伝統的な季題趣味を多く出なかった」というのは、当然の帰結であって、ここだけをクローズアップするというのは、これまた危険千万であり、まして、この「季題趣味」と別次元の「写生・客観写生・(主観写生)」とを波状効果のようにして、虚子に対して、「無いものねだり」しても、これは、どうにも詮無いことのように思われるのである。
もっとも、一般的な言葉の「俗」(通俗)の大御所のような存在の高浜虚子の実像を、小西先達の「雅」と「俗」とにより、「子規的な『俗』を否定はしていないのだが、そのほかに『雅』の要素が強く復活してくる」、そういう「俳諧(雅俗)」の世界のものという指摘は、「虚子の実像」を正しく知る上での有力な手がかりになることは間違いないところのものであろう(このことは後述することとする)。

虚子の亡霊(五十六)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その二)

○虚子の立場は、季題趣味に基づくものであるから、当然「既に存在する感じかた」を尊重することになる。昭和二年(一九二七)ごろから、虚子はしきりに「花鳥諷詠」こそ俳句の本質だと説くが、これは、感じかたのみではなく、詠むべき対象にまで、「既に存在する限界」を適用しようとする態度である。既に存在する限界のなかで既に存在する感じかたをもって把握してゆく態度は、即ち「雅」への逆もどりであり、新しい「俗」をめざした子規の精神と、方向を異にする。虚子も、もちろん子規的な「俗」を否定はしないのだが、そのほかに「雅」の要素がつよく復活してくるわけなのであって、虚子の立場は、まさに「雅」と「俗」との混合にほかならない。ところで、雅と俗とにまたがる表現は、わたしの定義では、即ち「俳諧」である。換言すれば、虚子は子規がうち建てた「俳句」の理念を、もういちど革新以前の「俳諧」に逆もどりさせたのである。さらに換言するなら、子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

この小西先達の論理の展開は、その「雅」と「俗」との交錯によっての「表現意識史観」によれば、全て正鵠を得たものとなる。即ち、虚子の「季題」観は、「当然『既に存在する感じかた』を尊重する」ところの「雅」の姿勢であり、その「花鳥諷詠」観は、「詠むべき対象にまで、『既に存在する限界』」を適用しようとする」ところの「雅」の領域ということになる。従って、「既に存在する限界のなかで既に存在する感じかたをもって把握してゆく態度は、即ち『雅』への逆もどりであり、新しい『俗』をめざした子規の精神と、方向を異にする。虚子も、もちろん子規的な『俗』を否定はしないのだが、そのほかに『雅』の要素がつよく復活してくるわけなのであって、虚子の立場は、まさに『雅』と『俗』との混合にほかならない。ところで、雅と俗とにまたがる表現は、わたしの定義では、即ち『俳諧』」であるということになる。続いて、「虚子は子規がうち建てた『俳句』の理念を、もういちど革新以前の『俳諧』に逆もどりさせたのである。さらに換言するなら、子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである」ということになる。
これらの指摘は確かに正鵠を得たもののように思えるのだが、何かしら釈然としないものが残るのである。その釈然としないものを、その「表現意識史観」などとやらをひとまず脇において、思いつくままに挙げてみると、次のようなことになる。

☆子規の俳句が第一芸術で、虚子の俳句は第二芸術なのか? 同じく、中西先達が「昭和俳人のなかで、確実に幾百年後の俳句史に残ると、いまから断言できるのは、かれ一人である」とする山口誓子の俳句は第一芸術で、それに比して、虚子の俳句は第二芸術なのか? これらを、中西先達の具体的に例示解説を施している俳句で例示するならば、子規の「幾たびも雪の深さを尋ねけり」(一六一)、そして、誓子の「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」(一九四)は、第一芸術で、そして、虚子の「桐一葉日あたりながら落ちにけり」(一七八)は、第二芸術と、これらの具体的な作品に即して、第一芸術と第二芸術とを峻別することが、はたして、できるものなのかどうか?

☆さらに、中西先達が主張する、これらの「第一芸術・第二芸術」というのは、桑原武夫の「俳句第二芸術(論)」が背景にあってのもので、「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する」として、このことから、「第二芸術は作者と享受者とが圏内に属する」ものと、「作者」と「享受者」との関係からの主張のようなのである。とするならば、子規の俳句も、虚子の俳句も、そして、誓子の俳句も、それらは、「作者と享受者とが圏内に属する」ところの、桑原説の「第二芸術」であるとするのが、より実態に即しての説得力のある考え方なのではなかろうか。

☆事実、虚子は、桑原武夫の「俳句第二芸術(論)」に対して、桑原先達自身が記しているのだが、「『第二芸術』といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」(下記のアドレス)ということで、小説家と俳人との二つの顔を有している虚子にとっては、「俳句第二芸術」というのは、それほど違和感もなく受容できたのではなかろうか。即ち、中西先達が指摘する、「(虚子は)子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである」というのは、虚子の側からすると、「子規の俳句第一芸術とするところの承継者の碧梧桐一派が、俳句そのものを短詩とやらに解体する方向に進んでいくのを見かねて、それではならじと、俳句の本来的な第二芸術の方向へ舵取りをしたに過ぎない」ということになろう。

http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

☆さらに、小西先達、そして、桑原先達の、「作者」と「享受者」との関係からの、
「第一芸術・第二芸術」との区分けを、例えば、後に、桑原先達自身が触れられている鶴見俊輔の「純粋芸術・大衆芸術・限界芸術」などにより、もう一歩進めての論理の展開などが必要になってくるのではなかろうか。これらについては、下記に関連するアドレスを記して、桑原先達の『第二芸術』(講談社学術文庫)の「まえがき」の中のものを抜粋しおきたい。

http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

○短詩型文学については、鶴見俊輔氏の「限界芸術」の考え方を参考にすべきであろう。私は『第二芸術』の中で長谷川如是閑の説に言及しておいたが、鶴見氏のように、芸術を、純粋芸術・大衆芸術・限界芸術の三つに分類することには考え及んでいなかった(『鶴見俊輔著作集』第四巻「芸術の発展」)。しかし、現代の俳句や短歌の作者たちは恐らく限界芸術の領域で仕事をしているということを認めないであろう。なお、最近ドナルド・キーン、梅棹忠夫の両氏は『第二芸術のすすめ』という対談をしておられるが、そこでは『第二芸術』で私が指摘したことは事実であると認めた上で、しかし名声、地位、収入などと無関係な、自分のための文学としての第二芸術は大いに奨励されるべきだとされている(『朝日放送』一九七五年十二月号)。これは長谷川如是閑説と同じ線である。

虚子の亡霊(五十七)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その三)

○わたくしは 『ホトトギス』系統の句に、あまり感心したことがない。しかし、その「なかま」の人たちの言によると、まことにりっぱな芸術のよしである。「なかま」だけに通用する感じかたでお互に感心しあって、これこそ俳句の精華なりと確信するのは御自由であるけれど、それは、平安期このかたの歌人たちが「作者イコール享受者」の特別な構造をもつ自給自足的共同体のなかで和歌は芸術だと信じてきたのと同じことであり、特別な修行をしない人たちが、漱石や鷗外やドストエフスキイやジイドやロマン・ローランなどの小説に感激する在りかたと、あまりにも違ってやしませんか。
○近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった。
○これでは、せっかく「俳句は=literatureである」と言明した子規の大抱負が、どこかへ消えてしまった感じはございませんか。あとでも述べるごとく、いま俳句の結社は、おそらく八百を超えるのでないかと推測されるが(三六五ペイジ参照)、なぜそれほど多数の結社が必要なのか。これは、俳句の父祖である俳譜が、そもそも「座」において形成され維持されてきたことによるものらしい。複数の人たちが集まった「座」で制作と享受が同時に進められるのだから、わからない点があれば、その場で説明すればよいことだし、ふだん顔なじみの定連であれば、しぜん気心も知れた間がらになってゆくから、いちいち説明するまでもなく、雰囲気で理解できるはずである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

☆小西先達は、ここにきて、何故に、「『ホトトギス』系統の句に、あまり感心したことがない」と、ことさらに、『ホトトギス』系統の句だけ批判の対象にするのだろうか? その理由とする、「いま俳句の結社は、おそらく八百を超えるのでないかと推測されるが(三六五ペイジ参照)、なぜそれほど多数の結社が必要なのか。これは、俳句の父祖である俳譜が、そもそも『座』において形成され維持されてきたことによるものらしい」というのが、その理由とすると、大なり小なり、小西先達が具体的に例示解説を施している俳句は、ことごとく、いわゆる「座」(結社)と切っても切り放せない関係から生まれたものであろう。即ち、子規は「日本」派・「根岸」派であり、碧梧桐は「子規」門の「海虹」派・「層雲」派・「碧」派・「三昧」派、そして、虚子は同じく「子規」門の「ホトトギス」派ということになる。誓子は「ホトトギス」門の「天狼」派、秋桜子は「ホトトギス」門の「馬酔木」派、楸邨は「馬酔木」門の「寒雷」派、そして、こと俳句実作に限っては、小西甚一先達も「楸邨」門の「寒雷」派ということになる。そして、小西先達が、わざわざ一章(「再追加の章・・・芭蕉の海外旅行」)を起して、「良い句にならない種類の『わからなさ』」の句(「粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に」)と酷評をしたところの作者・金子兜太先達もまた、甚一先達と同門の「寒雷」の「楸邨」門の「海程」派ということになる。

☆ここで、小西先達が、「せっかく『俳句は=literatureである』と言明した子規の大抱負が、どこかへ消えてしまった感じはございませんか」と嘆いても、これまた、小西先達と近い関係にある、尾形仂先達が、俳句は「座の文学」という冊子(講談社学術文庫)を公表しているほどに、「座」=「結社」ということで、「平安期このかたの歌人たちが『作者イコール享受者』の特別な構造をもつ自給自足的共同体のなかで和歌は芸術だと信じてきた」と、同じような環境下に、厳に存在しているものなのだということを、認知するほかはないのではなかろうか。 

☆小西先達が指摘する「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった」ということは、桑原先達の「俳句第二芸術」説と全く同じ考え方であり、「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する」ということを前提する限り、どう足掻いても、虚子大先達が認知しているように、「俳句=第二芸術」という結論しか出てこないのではなかろうか。

☆ここで、小西先達の「(俳句の世界とは別の小説の世界の)特別な修行をしない人たちが、漱石や鷗外やドストエフスキイやジイドやロマン・ローランなどの小説に感激する在りかたと、あまりにも違ってやしませんか」というのは、「違ってやしませんか」と問い詰められても、「違っているものを、同じにせいといっても、そんなことは無理じゃありゃしませんか」と口をとがらせるほかはないのではなかろうか。

☆例えば、「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄(甚一)」の句について、これを、漱石(「吾輩は猫である」など)や鷗外(「高瀬舟」など)やドストエフスキイ(「罪と罰」など)やジイド(「狭き門」など)やロマン・ローラン(「ジャン・クリストフ」など)と同じように鑑賞しろといっても、これは、「そんなことは無理じゃありゃしませんか」というほかはないのではなかろうか。そして、「(俳句の)特別な修業をしない人たち」は、「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄(甚一)」の句について、甚一先達が「わからない」と嘆いた「粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に(兜太)」の句と同じように、この「短日」も、この「や」も、そして、旧仮名遣いの「うたふ」も、韻字留めの「子守唄」も、そして、「短日=季語」も、そして、その定型の「五・七・五」についても、どうにも、「わからなさ」だけがクローズアップされて、暗号か呪文に接しているように思われるのではなかろうか。

☆ここでも、前回と同じことの繰り返しになるが、小西甚一先達の句も、そして、兜太先達の句も、はたまた、子規の句も、虚子の句も、誓子の句も、それらは、『作者と享受者とが圏内に属する』ところの、桑原説の『第二芸術』であるとするのが、より実態に即しての説得力のある考え方なのではなかろうか。

虚子の亡霊(五十八)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その四)

○俳句の時代になると、さすがに「座」は消滅するけれど、むかし「座」があった当時の人的な関係は、師匠対門弟・先生対同人・指導者対投句者、ことによれば親分対子分といった西洋に類例のない構造として残り、それが結社として現在まで生き延びたのではないか。不特定多数の人たちを享受者にする西洋の詩とは、そこに根本的な差異がある。虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」
○短歌の世界では、子規系統の『アララギ』が歌壇の主流をなし、その中心となった斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した。
(『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「近代」・「主知思潮とその傍流」

☆この「虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた」という指摘は、こと、小西先達の指摘だけではなく、「ホトトギス」の内外にわたって、しばしば目にするところのものであろう。そして、この「跡目相続」について、虚子側を容認するものは殆ど目にしないというのもまた、厳然たる事実ではあろう。しかし、虚子側からすると、このことについては、外野からとやかく言われる筋合いのものではないと、これは、高浜家の財産であり、家業であり、一家相伝のものであるという認識で、それが嫌ならば、「ホトトギス」と縁を絶てばよいのであって、はたまた、「その跡目相続が近代芸術にはあり得ない」などということとは別次元のものとして、議論は平行線のまま噛み合わないことであろう。まして、虚子自身は、「俳句第二芸術論」の容認者であり、極限するならば、いわゆる、「稽古事の俳句」をも容認する立場に位置するものと理解され、何で、こんな余所さまの自明のことに口出しをするのかと、それこそ、「余計お世話ではありゃしませんか」ということになるのではなかろうか。

☆これらのことについて、虚子はお寺の家督相続のような、次のような一文を、「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」に掲載しているのである。

○ホトトギスという寺院は、何十年間私が住持として相当な信者を得て、相当なお寺となっているのでありますから、老後それを年尾に譲って、年尾の力でそれを維持し発展させて行くことにしました。私の老後の隠居の寺院として娘の出してをる玉藻といふ寺を選んだことは、私の信ずる俳句を後ちの世に伝える為には万更愚かな方法であるとも考へないのであります。併し乍ら、決してホトトギスを顧みないと云ふわけではありません。年尾の相談があれば、それに乗り、又、督励する必要があれば督励する事を忘れては居りません。ホトトギスと玉藻とを両輪として私の信じる俳句の法輪を転じて行かうといふ考へは愚かな考へでありませうか、私は今の処さうは考へて居ないのであります。(「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」所収「消息」)

☆こうなると、三十五歳の若さで「文鏡秘府論考」により日本学士院賞を受賞し。単に、日本という枠組みだけではなく世界という枠組みで論陣を張った、日本文学・比較文学の権威者、そして、何よりも、俳諧・俳句を愛した小西甚一先達は、「斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した」と、「歌壇の斎藤茂吉に比して、高浜虚子は何たる無様なことよ」と、繰り返し、繰り返し、その著、『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫)や『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫)で、この「現状を打破せよ」とあいなるのである。しかし、「虚子の亡霊」は今なお健在なのである。このインターネットの時代になって、ネットの世界でもその名を見ることのできる、つい最近の『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)の中で、「ホトトギス」の「虚子→年尾→(汀子)」の「跡目相続」は、「日本の伝統的芸能や文芸の継承」を踏まえたものであり、そして、またしても、虚子が文化勲章を拝受したときの、「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別する方がよいと思う。天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります」との、虚子の「俳句第二芸術」を固執する言が出てきたのである。この「天下有用ならず天下無用」の、その「天下無用」とは、かの芭蕉の「夏炉冬扇」と同意義なのであろうが、かの芭蕉は、自ら「乞食の翁」と称するところの無一物の生涯を全うしたところのものであった。それに比して、芭蕉翁を意識したと思われる虚子翁のそれは、何と「ホトトギス」に、余りにも執着しての、そういう限定付きでの、「天下無用」なのではなかろうか。何はともあれ、『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)のものを下記に掲げておきたい(これは、参考情報で、やや虚子サイト寄りの記述が多く見受けられるということを付記しておきたい)。

○日本の伝統的芸能や文芸の技の伝授や習得の方法としては、教授格の師匠、宗匠のもとで修業を積むという形で技術を模倣するか、または盗む、新たに開発するという手段が一般的であった。技術が師匠格の人に及ぶか、師匠が許した場合に独立するという徒弟制度、暖簾分け、という制度が永いこと継承されて来た。中でも秘技や秘術は門外不出とされ、子や孫により代々受け継がれる一子相伝という方法もあった。工芸、舞踊、意、剣道、茶道、和歌や俳諧などにおいても創作の道はそこを通過して行なわれてきた。こうした制度や師弟関係によって長いこと日本の伝統の技と芸とが継承されて来た。高浜虚子は昭和二十九年十一月三日に文化勲章を拝受した。虚子はその日も「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別する方がよいと思う。天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります」と述べた。文化勲章の受賞は虚子自身の喜びよりもむしろ俳壇全体の喜びとして受け取られた。「われのみの菊日和とはゆめ思はじ」「詣りたる墓は黙して語らざる」という二句を虚子は詠んだ。あちらこちらで盛大に祝賀会が開催されたが、この句はまた虚子に取っては栄誉ばかりでなく大きな意味を持っていた。虚子が俳句を「天下無用の文学」と位置づけたのもこうした伝統と無縁ではないということを表白したかったのであった。芸術としての文芸に携わることは、社会的にも生活的にも社会的圏外に疎外されることを覚悟せねばならなかった。同時にそれは作家自身の意識では、俗社会を超えた高踏的存在になることであった。そのためには作家達は流派を超えた仲間の意識ともつながり、社会では育たない歌壇、俳壇という持殊な世界を作りあげた。結社を維持する大衆的な美学が要求され、かつそうした意識を育成したのであった。小説家が自意識、自我、個我、個人主義などという言葉を使って文学を考えていたのに虚子はそうした西洋移入の文学用語を駆使することはしなかった。また多くの虚子の小説、或いは写生文が「近代的自我の確立」を直接の軸にして散文観を展開しているわけでもなかった。常に虚子は文壇、歌壇、俳壇という意識で、俳句を特殊な社会に限定して捉えていた。無論、長い虚子の人生の中では常に俳句を文芸ととらえるか、文学としてとらえるかの問題に直面しながら生きてきたことは言うまでもない。芸能は古くは芸態と書き、師について手習いから始めた。それ故に入門を束脩と言った。古くからある技術を学びそれを模倣することを稽古と称して技術の修練に努めた。家元、家本、本家、名取、という芸能関係の言葉は今でも実は派閥や流派を示している。また芸能に携わる人々は座という個有の団体を作っていた。芸能に関しては家元と同じ意味で、家本、座頭と称してきた。師匠という言葉はこうした古い家元制度に関係し深い関わりを演じてきた。 『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)

虚子の亡霊(五十九)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その五)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』の「『虚子観』異聞」ということについては、前回のものでほぼ語り尽くし得たものと思われる。そして、前回のもので、まさしく、今なお「虚子の亡霊」が健在であるということを見てとることができた。これまでに、「虚子の実像と虚像」(一~十五)そして、この「虚子の亡霊」(一~五十九)と見てきたが、次のステップは、「虚子から年尾へ」ということで、虚子の承継者・高浜年尾との関連で、「虚子そしてホトトギス」をフォローしていきたい。ここでは、『俳句の世界(小西甚一著)』の構成に倣い、「追加」と「再追加」を付して、ひとまずは、了とする方向に持っていきたい。

(追加)

(二二九)短日やうたふほかなき子守唄 甚一

○昭和二十二年作。初案は「咳の子やうたふほかなき子守唄」であった。当時満一歳とすこしの長女を、お守しなくてはならぬことになった。いつものことで、お守そのものには驚かないけれども、あいにく咳がしきりに出て、どうしても寝ついてくれない。私の喉はたいへん好いので、いつもならすぐ寝るのですがね。しかたがない。いつまでも、ゆすぶりながら、子守唄をくり返すよりほかないのである。こんなとき、父親の限界をしみじみ感じますね。しかし、いくら限界を感じても、頼みの網である奥方は帰ってくる模様がない。稿債はしきりに良心を刺戟する。それでも「ねんねんおころり・・・」よりしかたがない。子守唄のメロディは、大人が聴くと、まことにやるせない。そのやるせない身の上を、俳句にしてみた次第。

○ところで、この句を『寒雷』に出したすぐあとで、どうも「咳の子や」が説明すぎると感じた。「咳」とあれば、冬めいた情景も或る程度まで表現されはするが、咳のため寝つかないのだと理由づけたおもむきの方がつよく、把握が何だか浅い。それで、翌月、さっそく「短日や」に修正した句を出したのだが、どうした加減か、初案の方が流布してしまって、本人としては恐縮ものである。「短日や」だと、暮れがたである感じ、何かいそがれるわびしさ、さむざむとした身のほとり、生活の陰影といったもの、いろいろな余情がこもって、初案よりずっと好いつもりですが、どんなものですかね。同様の句で、

 子守する大の男や秋の暮   凸迦

がある。『正風彦根鉢』にあることを、あとから発見したのだが、約二百四十年前のこの発句にくらべて、同じ題材ながら、私の句がたしかに現代俳句の感覚であることだけは、何とか認めていただきたいと、衷心より希望いたします。ついでながら、連歌や俳譜の千句で、千句をめでたく完成したとき、その上さらに数句を「おまけ」としてつける習慣があり、それを術語で「追加」と申します。念のため。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「追加」

☆「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄 甚一」の、この「甚一」は、『寒雷』の作家「小西甚一」その人であって、いわずと知れた『俳句の世界(小西甚一著)』のその著者の「甚一」その人である。ここで、先に紹介した、この『俳句の世界』の編集子のものと思われる裏表紙の下記の記述を思い起していただきたいのである。

○名著『日本文藝史』に先行して執筆された本書において、著者は「雅」と「俗」の交錯によって各時代の芸術が形成されたとする独創的な表現意識史観を提唱した。俳諧連歌の第一句である発句と、子規による革新以後の俳句を同列に論じることの誤りをただし、俳諧と俳句の本質的な差を、文学史の流れを見すえた鋭い史眼で明らかにする。俳句鑑賞に新機軸を拓き、俳句史はこの一冊で十分と絶讃された不朽の書。
(「虚子の亡霊 五十四」)

☆この記述の「俳諧連歌の第一句である発句」と「子規による革新以後の俳句」とでは、「同列に論じる」ことはできないところの、「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」という、そもそも、『俳句の世界(小西甚一著)』の、最も中核の問題に思い至るのである。すなわち、下記の二句は、「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」という問い掛けである。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮     凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄   甚一

☆この凸迦と甚一の二句、「五七五」の定型、「秋の暮」と「短日」の季語、そして、「大の男や」の「や」と「短日や」の「や」の切字など、その形から見ても、その内容から見ても、この「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」?

☆もし、これが「両者は別々の異質の世界のものではない」という見地に立つと、『俳句の世界(小西甚一著)』の次の構成(目次)はガタガタと崩壊してしまうのである。
第一部 俳諧の時代(第一章 古い俳諧 ~  第八章 幕末へ)
第二部 俳句の時代(第一章 子規の革新 ~ 第五章 人間への郷愁)

☆これらの答の方向について、興味のある方は、是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、その探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「追加」の要点でもある。

虚子の亡霊(六十)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その六)

(再追加)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』には、再追加の章(芭蕉の海外旅行)として、前回に紹介した二句のほかに、金子兜太の句が、「前衛俳句」として紹介されている。それを前回の二句に加えると、次のとおりとなる。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮          凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄        甚一
「前衛俳句」
  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

☆この兜太の句について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、下記(抜粋)のとおり、詳細な記述があり、これがまた、この著書のまとめともなっている。

○戦後の「俳句史」として俳壇の「動向」を採りあげようとするとき、書くだけの「動向」がほとんど無いのである。もし書くとすれば、たぶん「前衛俳句」とよばれた動きが唯一のものらしい。前衛の運動は、俳句だけに限らず、ほかの文芸ジャンルでも、美術でも、演劇でも、音楽でも、舞踊でも生花でもさかんに試作ないし試演されたし、いまでもそれほど下火ではない。さて、俳句における前衛とは、どんな表現か。ひとつ例を挙げてみよう。

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に   兜太

 金子兜太は前衛俳句の代表的作家であると同時に俳壇随一の論客であって、ブルドーザーさながらの馬力で論敵を押しっぶす武者ぶりは、当代の壮観といってよい。右の句は、現代俳句協会から一九六三年度の最優秀作として表彰されたものである。この句に対し、わたくしは、さっぱりわからないと文句をつけた。そもそも俳句は、わからなくてはいけないわけでない。わからなくても、良い句は、やはり良い句なのである。ところが、その「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ちこまれたからだ・・・とわたくしは論じた。それは『寒雷』二五〇号(一九六四年四月号)に掲載され、兜太君がどの程度に怒るかなと心待ちにするうち、果然かれは、期待以上の激怒ぶりを見せてくれた。同誌の二五二号(同年六月)で、前衛俳句は甚一なんかの理解よりもずっとよくイメィジを消化した結果の表現なのだから、叙述に慣れてきた人には難解だとしても、慣れたら次第にわかりやすいものになるはずだ・・・と反論したわけだが、この論戦の中心点を紹介することは、近代俳句から現代俳句への流れを大観することにもなるので、それをこの本の「まとめ」に代用させていただく。

○西洋における近代文芸と現代文芸の間には、大きい差がある。近代、つまり十九世紀までの詩や小説は、作者が何かの思想をもち、その思想を表現するため、描写したり、叙述したり、表明したり、解説したり、小説なら人物・背景を設定したり、筋の展開を構成したりする。享受者は、それらの表現を分析しながら、作者の意図に追ってゆき、最後に「これだ!」と断言できる思想的焦点、つまり主題が把握されたとき、享受は完成される。ある小説の主題が「愛の犯罪性」だとか、いや「旧倫理の復権」だとかいった類の議論は、作品のなかに埋めこまれた主題を掘り出すことが享受ないし批評だとする通念に基づくもので、近代文芸に対してはそれが正当なゆきかたであった。ところが、二十世紀、つまり現代に入ってから、作者が表現を主題に縛りつけない行きかたの作品、極端なものになると、はじめから主題もたない作品までが出現することになった。主題の発掘を専業とした従来の解釈屋さんにとっては、たいへん困った事態に相違ない。

○詩は、かならずしもわからなくてはいけないわけではない。しかし、その「わからなさ」が、とりとめのない行方不明では困る。「粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に」は、村野四郎氏が「詩性雑感」のなかで、

 これはぜんぜん問題にならない。作者自身、そのアナロジーに自信がないんです。
ですから、読んだ人もみんな、てんでんばらばらで、めちゃくちゃなことをいっている。ロ-ルシャツハ・テストというのがありましてね。紙の上にインクを落として、つぶしたようなシンメトリックなシミを見せて、「これは何に見えるか」と聞いてみて、答える人の性格をテストするという実験ですが、俳句もあんなインクのシミみたいじゃ困るんです。どうにでもとれるというものじゃ、困るんですよ。

と評されたごとく(『女性俳句』一九六四年第四号)、困りものなのである。村野氏の批評は、前衛の俳句の表現は、視覚的イメィジと論理的イメィジとを比喩(メタファ)の技法で調和させようとするものだが、それは、ひとつのものと他のものとの類似相をつかむこと(アナロジイ)に依存するから、もしアナロジイが確かでないと、構成はバラバラになり、アナロジイに普遍性を欠くと、詩としての意味が無くなる・・・とするコンテクストのなかでなされたものである。

○一九六〇年代から、解釈や批評は享受者側からの参加なしに成立しないとする立場の「受容美学」(Rezeptionsasthetik)が提唱され、いまではこれを無視した批評理論は通用しかねるところまで定着したが、その代表的な論者であるヴォルフガング・イザー教授やハンス・ロベルト・ヤウス教授は連歌も俳諧も御存知ないらしい。もし連歌や俳譜の研究によって支持されるならば、受容美学は、もっとその地歩を確かにするはずである。「享受者が自分で補充しなくてはならない」俳句表現の特質を指摘したドナルド・キーン教授の論は(一二〇ペイジ参照)、十年ほど早く出すぎたのかもしれない。去来の「岩端(はな)やここにもひとり月の客」に対して、芭蕉は作者白身の解釈を否定し、別の解釈でなくてはいけないと、批評したところ、去来は先生はたいしたものだと感服した(一八六ペイジ参照)。

○これは、芭蕉が受容美学よりもおよそ二百七十年も先行する新解釈理論をどうして案出できたのかと驚歎するには及ばないのであって、前句の作意を無視することがむしろ手柄になる連歌や俳譜の世界では、当然すぎる師弟のやりとりであった。 切れながらどこかで結びつき、続きながらどこかで切れる速断的表現は、西洋の詩人にと
って非常な魅力があるらしい。先年、フランス文学の阿部良雄氏が、一九六〇年にハーヴァード大学の雑誌に出たわたくしの論文について、ジャック・ルーボーさんが質問してきたので、回答してやりたいのだが・・・といって来訪された。わたくしの論文は、おもに『新古今和歌集』を材料として、勅撰集における歌の配列が連断性をもち、イメィジの連想と進行がそれを助けることについて述べたものだが、どんなお役に立ったのか見当がつかなかった。

○ルーボーさんの研究は、一九六九年に論文"Sur le Shin Kokinshu" としてChange誌に掲載され、それが田中淳一氏の訳で『海』誌(中央公論社)の一九七四年四月号に出た。そこまでは単なる知識の交流で、どうといったことも無いのだが、一九七一年、パリのガリマール社からRENGAと題する小冊子が刊行され、わたくしは非常に驚かされた。それは、オクタヴィオ・パス、エドワルド・サンギイネティ、チャールズ・トムリンソン、それにジャック・ルーボーの四詩人が、スペイン語・イタリー語・英語・フランス語でそれぞれ付けていった連歌だったからである。アメリカでも評判になったらしくて、フランス語の解説を含め全体を英訳したものが、すぐにニューヨークでも出版された。

○日本には、和漢連句とか漢和連句とかよばれるものがあり、漢詩の五言句と和様の五七五句・七七句を付け交ぜてゆくのだが、西伊英仏連句とは、空前の試みであった。これが酔狂人の出来心で作られたものでないことは、連歌の適切な解説ぶりでも判るけれど、それよりも、ルーボーさんが以前から連歌を研究し、連歌表現に先行するものとして『新古今和歌集』まで分析した慎重さを見るがよろしい。さきに述べたルーボーさんの論文の最後の部分は「水無瀬三吟」の検討である。連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい。とくに、芭蕉は、門下に対し「発句は君たちの作にもわたし以上のがある。しかし、連句にかけては、わたくしの芸だね」と語ったほど、連句に自信があった。再度の海外旅行を芭蕉はけっして迷惑がらないはずである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「再追加の章」

☆長い長い引用(抜粋)になってしまったが、これでも相当の部分カットしているのである。そして、そのカットがある故に、この著者の意図するところが十分に伝わらないことが誠に詮無く、その詮無いことに自虐するような思いでもある。これまた、
是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、「俳諧(発句)」・「俳句」・「前衛俳句」にどの探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「再追加」の要点でもある。

☆ここで、当初の掲出の三句を再掲して、若干の感想めいたものを付記しておきたい。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮          凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄        甚一
「前衛俳句」
  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

 この三句で、まぎれもなく、兜太の句は、「子規による革新以後の俳句」として、「俳諧連歌の第一句である発句」とは「異質の世界」であることを付記しておきたい。
 そしてまた、「連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい」
ということは、小西大先達の遺言として重く受けとめ、このことを、ここに付記しておきたい。
(追記)『俳句の世界(小西甚一著)』の著者は、平成十九年(二〇〇七)年五月二十六日に永眠。享年九十一歳であった。なお、下記のアドレスなどに詳しい(なお、『俳句の世界(小西甚一著)』については、その抜粋について、OCRなどによったが、誤記などが多いことを付記しておきたい)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E7%94%9A%E4%B8%80

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