日曜日, 6月 01, 2008

高屋窓秋の「白い夏野」(一~)

(後列 →  石橋辰之助・水原秋桜子・石田波郷・高屋窓秋)
高屋窓秋の「白い夏野」(一)

 戦前の「新興俳句弾圧事件」で、若き俳人の何人かが獄中生活を余儀なくされていた頃、句作を断って、当
時の新しい理想国家・満州へと旅発った「馬酔木」の俊秀俳人・高屋窓秋の、その第一句集『白い夏野』は、
何とも、魅力に溢れたものの一つである。
 この句集は、編年体でも季題別でもなく、丁度、自由詩のような「題」が付せられていて、そして、その構
成と軌を一にして、自由詩を鑑賞するような、そんな感じで、そのまとめられた「題」の数句を、丁度、連作
俳句の鑑賞のように味わうことができる。

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 窓秋の『白い夏野』の、冒頭の「三章」という題の三句である。この三句の共通語は「白い」である。「白い青空」・「白い夏野」・「白い靄」、それは窓秋の心象風景なのであろう。窓秋が師事した、水原秋桜子は、虚子の「ホトトギス」の流れを汲み、その「ホトトギス」を脱会して、「馬酔木」を主宰した後でも、その「季題・季語」重視は変わらなかったが、その秋桜子門の窓秋にとっては、その「季題・季語」とかは、「落葉」・「夏野」・「靄」と、もう従たる位置に追いやられている。それよりも、秋桜子の俳句は後期印象派のような色調の鮮やかな句風を得意とするに比して、窓秋は、水墨画の「黒・白」の、その「白」を、この第一句集『白い夏野』では多用しているという、面白い対比を見せてくれる。
 そして、窓秋の「白」の世界は、決して従前の水墨画の「白」の世界ではなく、やはり、秋桜子と同じように後期印象派の西洋画的な「白」の世界であるというのが、何とも面
白いという印象を受けるのである。
 この二句目の、「頭の中で白い夏野となつている」は、窓秋の代表作として夙に知られているものであるが、この句について、「戦争を目前にした若き日の絶望の表現」という鑑
賞を目にすることができるが(下記のアドレス参照)、そういうニュアンスに近いものなのかも知れない。しかし、この三句目の「白い靄」に、「朝の(白い)ミルク」と、一句目・二句目の暗喩的・抽象的な「白」の世界も、極めて、嘱目的・具象的な「白」と表裏一体をなしているところに、窓秋の「白」の世界があると理解をいたしたい。すなわち、やはり、窓秋は、秋桜子の「馬酔木」の俳人であり、「青空・落葉」・「夏野」・「靄・ミルク」を嘱目的・具象的に把握し、そして、その把握の上に、それらの全てを独特の「白」一色のベールで覆ってしまうような、そんな作句スタイルという理解である。
 こういう理解の上に立って、上記の三句では、やはり、一句目・二句目に、窓秋の新しい「白」の世界を感知できるのであるが、三句目には、やはり「馬酔木」の一俳人の、平凡
な「白」の基調というのが、どうにももどかしい思いを抱くのである。

http://touki.cocolog-nifty.com/haiku/2004/11/post_2.html

高屋窓秋の「白い夏野」(二)

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 前回に紹介した、この「三章」の三句は、昭和三十二年刊行の『現代日本文学全集九一 現代俳句集』(筑摩書房)所収の「高屋窓秋集」に掲載されたものである。これが、昭和六十年刊行の『現代俳句の世界十六 富沢赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉』(朝日新聞社)所収の「高屋窓秋集」によると、次のとおりに改編されている。



○ 秋の蚊に腹はもたゝぬ昼餉かな   昭六
○ 我が思う白い青空ト落葉ふる    昭七
○ 頭の中で白い夏野となつてゐる
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 この改編の経過は定かではないが、この改編後のもので、これらの句が、昭和六・七年頃の作句ということが分かる。「ホトトギス百年史」(アドレスは下記)により、その当時の日本俳壇の動向は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
昭和七年(1932)
一月 「要領を説く」青畝。「季節の文字で」誓子。
三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。「花衣」創刊。
五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐「日本及日本人」の選者を退く。

 上記の年譜の、「(昭和六年)十月 秋桜子『自然の真と文芸の真』を『馬酔木』に発表、ホトトギスを離脱」のとおり、窓秋の第一句集『白い夏野』(昭和十一年刊行)は、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、「馬酔木」を本格的に主宰した、その年度以降の作句のものが収載されていると理解しても差し支えなかろう。そして、このことを、この句集を繙くときにその前提として知っておいた方が、より当時の窓秋の創作意図などの鑑賞を容易にするということも特記しておく必要があろう。
 さらには、上記の年譜を見ていくと、「(昭和六年)一月 『プロレタリア俳句』創刊。『俳句に志す人の為に』諸家掲載」・「(昭和七年)三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。『花衣』」創刊。五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐『日本及日本人』の選者を退く」など、まさに、日本の俳壇の大きな節目の年度の頃であったということも、この窓秋の第一句集『白い夏野』のバックグラウンドとして、やはり、ここで、特記をしておきたい。

高屋窓秋の「白い夏野」(三)



○ 虻とんで海のひかりにまぎれざる
○ 舞い澄める虻一点のほがらかに
○ あるときは部屋に入りきて虻失せぬ

「虻」と題するものの三句である。昭和六年(一九三一)の年譜には、「二十一歳 法政大学文学部へ入学。『馬酔木』発行所へ出入りするようになり、編集などを手伝う」とある(朝日文庫)。また、昭和十一年(一九三六)のそれには、「二十六歳 法政大学卒業。句集『白い夏野』(龍星閣)刊」とある。掲出の句は、窓秋の二十一歳から二十六歳の頃の作句と、やはり、青春の影を色濃く宿している三句である。その昭和十年の年譜には、「二十五歳 『馬酔木』同人を辞し、俳句から離れる」とある。後に、窓秋は、秋桜子との別れについて、「秋桜子が宮内省侍医寮御用係を仰付けられたことと、当時の国情の推移とを思いあわせ、『馬酔木』の中で勝手なことはできない、秋桜子に迷惑がかかる」(朝日文庫)とのことを記しているが、やはり、この掲出の三句にも、青春の鬱積した思いとともに、当時の、満州事変などの軍国主義の道へと傾斜していく国情などが見え隠れしている思いを深くする。
 と同時に、当時の「馬酔木」の集団というのは、「反虚子・反ホトトギス・反花鳥諷詠」ということで、一糸乱れぬ結束下にあった。そして、その「ホトトギス」には、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と驚嘆せしめた川端茅舎(昭和六年当時三十四歳)が健在であった。
その茅舎の句に、「蟷螂や虻の碧眼かい抱き」という「蟷螂と虻」の句があるが、反花鳥諷詠派の若き「馬酔木」の俊秀・窓秋の、当時、絶頂期にあった、「ホトトギス」牙城の、「花鳥諷詠真骨頂漢」の茅舎への、その挑戦とそれでいて思慕にも似た一種の語り掛けのような思いが、これらの三句に接して一瞬脳裏をかすめたのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(四)

蒲公英

○ 蒲公英の穂絮(ほわた)とぶなり恍惚と
○ 蒲公英の茎のあらわに残りけり

『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の「水原秋桜子」のところに、次のような記述がある。

☆すっかり月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』に対し、近代的な新鮮さをもって反省を要求した先覚者は、水原秋桜子である。
☆秋桜子の第一句集『葛飾』(一九三〇)は、その当時の若い俳人たちを魅惑し去ったものであって、これまでの擦りきれた「俳句めかしさ」に満足できない俳句青年たちにとっては、ひとつの聖典であった。

 窓秋もまた、上記の秋桜子に憧れた「当時の若い俳人たち」の一人であったのであろう。しかし、上記の「月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』」の中にも、川端茅舎・松本たかし・中村草田男という次代を担う俳人たちが活躍していた。

○ 蒲公英のかたさや海の日一輪   (草田男『火の鳥』)
○ たんぽぽの咲き据りたる芝生かな (たかし『松本たかし句集』)

 この草田男の句について、秋桜子は、「『海の日も一輪』は、当然のことを言いながら、実にひびきのよい言葉であり、それがおのずから蒲公英の一輪だけであることを示している。巧い言い方であると同時に、この上もなく清新な感じに満ちている」と評している(『日本大歳時記』)。窓秋の掲出の二句も、「この上もなく清新な感じに満ちている」。そして、秋桜子は、何よりも、この「清新さ」ということ俳句信条にしていた俳人であった。窓秋は、俳人のスタートとして、良き時に、良き師に恵まれたということを、この二句からも響いてくる趣でなくもない。

高屋窓秋の「白い夏野」(五)



○ 洗面の水のながれて露と合う
○ 露の玉朝餉のひまもくずれざる
○ 雑草の露のひかりに電車くる
○ 野の露に濡れたる靴をひとの前

 「露」と題する四句である。これは、当時、秋桜子ら唱道していた「連作俳句」のものなのであろうか。この「連作俳句」などについて、『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の関連するところのものを見てみたい。

☆昭和六年は、秋桜子四十歳である。まさにはたらきざかりで、かれの活動ぶりはめざましかった。とくに、連作俳句を唱道したことは、注目に値する。従来の一句きりにすべてを表現する行きかたのほかに、数句をつらねて、ひとつのまとまった句境を構成する手法がひらかれたことは、俳句史上でも特筆されてよい。
☆連作俳句は、たいへんな反響を示した。山口誓子・日野草城・吉岡禅寺洞などは、それぞれの立場から連作を論じ、また実践した。秋桜子の連作は、画家がある構図をもち、それにしたがって印象をまとめてゆくのと同様のおもむきを感じさせるもので、いちばん本格的だといってよい。
☆この連作形式には、俳句として根本的な疑問がある。そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱める。
☆しかるに連作は、感じたところを隈なく叙述しようとするものであり、俳句本来の性格と逆の方向をたどるものである。その結果、一句のもつ表現性が稀薄となり、だらしなく散文かしていく危なさを含む。
☆これらの弱みを持つ連作俳句が、あまり永く栄えなかったのは、あるいは当然であったかもしれない。連作俳句の流行はおよそ十年で、昭和十五年ごろからは、次第に姿を消してゆくのである。

 この「連作俳句」に関する記述を読んだ後で、窓秋の掲出の四句を見てみると、一句目の「洗面の水と露」と二句目の「朝餉と露」、そして、三句目の「雑草の露と電車」と四句目の「野の露と靴」と、ある「一日の生活」の断面を「露」との関連で、「隈なく叙述」している、いわゆる、「連作俳句」のものというのが感知される。と同時に、丁度、同じ頃(昭和六年)に作られた、川端茅舎の、「金剛の露ひとつぶや石の上」などに比すると、窓秋の、この掲出の四句の全てと比しても、とても、茅舎の「露」の一句に太刀打ちできないという印象を受ける。すなわち、上記の小西博士の、「そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱める」ということを痛感するのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(六)

さくらの風景

○ さくら咲き丘はみどりにまるくある
○ 花と子ら日はその上にひと日降る
○ 灰色の街に風吹きさくらちる
○ いま人が死にゆく家も花のかげ
○ 静かなるさくらも墓も空のもと
○ ちるさくら海青ければ海へちる

「さくらの風景」と題する六句である。この六句のうちで、最後の「ちるさくら海青ければ海へちる」は、今に窓秋の傑作句として語り継がれている。そして、窓秋とともに、「馬酔木」の俊秀三羽烏として今にその名を留める波郷は、窓秋の「頭の中で白い夏野となっている」(前出「白い夏野(一)」)について、「秋桜子が窓秋のこの句を認めて『馬酔木』雑詠の上位に置いたのは不思議に思えるが、若い時代の情熱が秋桜子をも動かしたとみればよいのである」として、「新しい俳句界の陣頭に立つ『馬酔木』に、いち早くこういう句が発表されたことの意義はふかいのである」(『俳句講座六』)と評しているが、この「ちるさくら海青ければ海へちる」も、全く、その波郷の評があてはまることであろう。
これらの「さくら」は、現実の「桜」を目の当たりにしての嘱目的な写生の句ではない。それは、窓秋の心象風景の「さくら」である。一句目の「丘はみどりにまるくある」と「平和を象徴するような『さくら』の心象風景」、二句目も、「日はその上にひと日降る」と「花と子」の「平安に満ちた心象風景」、それが、三句目から五句目になると、「灰色の街」・「人が死にゆく家」・「さくらも墓も」と俄然陰鬱な「軍国主義の道へと傾斜していく」当時の国情をも透写するような「心象風景」となってくる。そして、「ちるさくら海青ければ海にちる」となると、「頭の中で白い夏野となっている」と同じように、具象的な「さくら」の風景が、抽象的な「さくら」の風景となり、後の、「きけわだつみの声」のように、若き「英霊(さくら)」が「海(神)」(わだつみ・わたつみ)」に消えてゆくことを暗示するまでの象徴性を帯びてくる。そして、その象徴性は、何故か空恐ろしいほどの感性の鋭さと、その鋭さだけがとらえる透徹性のようなものを感知させるのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(七)

山鳩

○ 山鳩のふと鳴くこゑを雪の日に
○ 山鳩よみればまわりに雪がふる
○ 雪ずりぬ羽音が冴えて耳に鳴り
○ 鳩ゆきぬ雪昏(く)れ羽音よみがえる

掲出の二句目が夙に知られているものである。この窓秋の句について、石田波郷は次のような鑑賞文を残している(『俳句講座六』)。

☆「山鳩」の句は(掲出二句目)、雪と山鳩の二つのイメージを、彼が頭の中でさまざまに構成して見せた連作の一句である。しかし他の三句が忘れられても、この一句だけは、その確かな具象性と美しい抒情によって、代表句として残るのである。鑑賞者はわがままだが、同時にきびしいともいえるのである。山鳩の栗胡麻色の羽が、周囲から浮き出して目にうつる。「山鳩よ」という呼びかけは、読者の頭の中に山鳩を呼び出すはたらきをする。「みればまわりに雪がふる」その山鳩の羽色をかすめるように、しんしんと雪が降りつつみはじめたではないか。

 また、波郷は、窓秋について、このようにも記している。

☆私(波郷)は、窓秋が喫茶店でモーツァルトなどを聴きながら、一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように創り出すのをいつも見ていた。 時には五句の字数までが揃って、五句の文字が縦も横も綺麗に並んでいたこともある。そうするために字数を揃えるべく句を直すことさえあった。連作という新しい詩形がほんとうに必要なのは、結局は窓秋ただ一人だったのである。

これらの波郷の鑑賞文に接して、窓秋と全くの同時代の、詩人で建築家であった、四季派の立原道造が思い起されてくる。窓秋は明治四十三年の生れ、道造は大正三年の生れで、道造が後輩であるが、窓秋が俳壇と訣別して遠く満州の地に赴任した翌年の昭和十四年に、二十四歳という若さで他界している。道造の詩には、若い人のみが許される、「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」とが、美しい、波郷の言葉でするならば、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作されている。そして、窓秋の、二十六歳の時に刊行した、窓秋の青春の句集『白い夏野』は、これは、まぎれもなく、窓秋の、その陰鬱な時代の到来する夜明けの、若き詩人だけが許される透明な詩心で把握した、「夢みたもの」の、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作したものの痕跡のように思われてくるのである。この窓秋の「山鳩」は、次の道造の「優しき歌」の、その「夢みたものは……」の、その「青い翼の一羽の 小鳥」のように思えるのである。

夢みたものは……  立原道造

夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

高屋窓秋の「白い夏野」(八)



○ ある朝の大きな街に雪ふれる
○ 朝餉とる部屋のまわりに雪がふる
○ 山恋わぬわれに愉しく雪がふる
○ 降る雪が川の中にもふり昏れぬ

この五句目の句についても、石田波郷の鑑賞文がある(『俳句講座六』)。

☆これも雪の連作だが、雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる。朝から夕べに至る時間的順序をふんでいるだけである。もちろん連作を考える必要はない。単独で秀れた句である。雪がしんしんと降りつつ次第に夕ぐれかかっている。その雪は川の中にもふり昏れている。どこと限定しない降雪を、しぼるように川の中にしぼってくるテクニックというか、感覚的な誘いというか、窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである。

 この波郷の、「窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである」という指摘は、これらの句だけではなく、窓秋の処女句集『白い夏野』の全般にわたって、このような感慨にとらわれてくる。そして、窓秋の句作りというのは、この波郷の、「雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる」の指摘のように、「ある一日の身辺」を、「一句一句製図でもひくように」創作しているという感慨を深くする。詩人と俳人という違いはあるけれども、窓秋と道造との資質やその創作姿勢は極めて近似値にあるという思いを深くする。そして、例えば、道造の次の詩に、窓秋の掲出の四句目の句を添えると、道造と窓秋の唱和を聴く思いがするのである。

浅き春に寄せて(立原道造)
 
今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
 
昔むかしの 約束はもうのこらない
今は 二月 たつた一度だけ
夢のなかに ささやいて ひとはゐない
だけれども たつた一度だけ
 
そのひとは 私のために ほほゑんだ
さう! 花は またひらくであらう
さうして鳥は かはらずに啼いて
 
人びとは春のなかに笑みかはすであらう
今は 二月 雪に面(おも)につづいた
私の みだれた足跡……それだけ
たつたそれだけ――私には……

―― 降る雪が川の中にもふり昏れぬ(高屋窓秋)

高屋窓秋の「白い夏野」(九)

夜の庭

○ 菊の花月あわくさし数えあかぬ
○ 月に照る木の葉に顔をよせている
○ 月光をふめば遠くに土応う
○ 月あかり月のひかりは地にうける

夜の庭で

○ 月夜ふけ黄菊はまるく浮びたる
○ 菊の花月射しその葉枯れている
○ 月光はあたゝかく見え霜ひゆる
○ 虻いまはひかり輝きねむれるか

 掲出の「夜の庭」の四句と「夜の庭で」の四句とで、窓秋が何故これらを別々の題のもとにまとめられたのか、その意図は分からない。これらのことには直接は触れていないのだが、石田波郷は、掲出の「夜の庭」の三句目について、窓秋・窓秋俳句を知る上で極めて示唆の含む次のような鑑賞文を残している(『俳句講座六』)。

☆「夜の庭」と題された連作の一句。月光に冷えてピンとはった空気が感じられる。月光をふむと、遠くで土が応える。この句はたしかに俳句でない条件はなにもないが、俳句であるままに短詩である。窓秋はもはやその異質が、『馬酔木』にいることに耐えないようになりつつあった。俳句と訣別するという遺志を示しさえしていたが、むしろ『馬酔木』を去るためのポーズだったようだ。彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよいのである。彼の句の対象をひろってみると興味ふかい。雪と月と花が極めて多いのである。花鳥諷詠を否定しようとする新興派の中で、彼はあえて雪月花を詠もうしたのか。否、彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである。

 この波郷の、「彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよい」という指摘は重みのあるものとの感を深くする。また、「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである」という指摘も、これまた、波郷ならではの鋭い視点という感を深くする。
 この波郷の鑑賞文に接した後で、掲出の「夜の庭」(四句)と「夜の庭で」(四句)に接すると、窓秋は、前者で、「夜の庭」そのものを創作の対象に、そして、後者で、「夜の庭で」前者と同じ素材を作句していると、両者の違いを、例えば、前者を「主観的」に、後者は「客観的」にと、その創作姿勢を明確に別なものにものとして創作していることに気づかさせられる。そして、これらのことに、波郷の言葉を重ねあわせると、前者の「夜の庭」は、より「短詩」的に、そして、後者の「夜の庭で」は、より「俳句」的な、創作姿勢とはいえないであろうか。と同時に、これらの何れの立場においても、波郷のいう「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていない」ということは、窓秋が明確に、例えば、芭蕉や虚子の「俳諧・俳句」の世界と別次元での短詩形世界を模索していたということを語りかけてくれるように思われるのである。
 ここでも、立原道造のソネットの詩に、窓秋の一句を添えてみたい。

またある夜に(立原道造)

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭(なげや)のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに

私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈(みを)のやうに

その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう

―― 月あかり月のひかりは地にうける(高屋窓秋)

高屋窓秋の「白い夏野」(十)

北へ

○ 海黒くひとつ船ゆく影の凍(し)み
○ 北の空北海の冷え涯ぞなき
○ 日空なく飢氷寒の逼(せま)るとき
○ 氷る島或る日は凪ぎて横たわり
○ 夜寒い船泊(は)つ瀬凍り泣き

 掲出の一句目について、石田波郷の鑑賞文は次のとおりである(『俳句講座六』)。

☆連作「北へ」の第一句。初期の連作は、外面的には写実的に見えているが、この頃になると、もう完全に抽象的であり、想念の造型である。私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である。窓秋は昭和十年、予定より早く『馬酔木』を去って沈黙した。しかし彼は十七字の詩形を捨てはしなかった。昭和十二年三月、彼には、河・葬式・老衰・記録・嬰児・少女・都会・一夜・回想など、九編約四十句の句を書き下ろし、句集『河』を出版した。『馬酔木』離脱以後、その胸中に構想していたものを一気に吐き出したもので、抒情者から批判者に転進している。しかし批判者となると、その抽象性は灰色で弱いことを覆い得ないように思う。しかも窓秋はさらにこの句集をのこして満州に渡り、再び抽象の抒情者となるのである。

 ここに、窓秋の第一句集『夏野』の全てが集約されている。また、窓秋が何故秋桜子の主宰する『馬酔木』を去ったかの、その真相をも語り掛けてくれている。波郷をして、「私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である」と言わしめたほどに、もはや、この窓秋の処女句集の『白い夏野』の後半の頃になると、完全に「馬酔木」調を脱していて、そして、それは、波郷の言うところの、「完全に抽象的であり、想念の造型である」という異次元の世界に突入していったのである。そして、それは、同時に、二十四歳の若さで夭逝した詩人・立原道造らの世界の「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」との、その窓秋の青春の世界との訣別をも意味するものであった。そして、道造の詩が、瑞々しい青春の詩として、今になお、人の心の琴線に触れて止まないように、窓秋の『白い夏野』の句も、青春の詠唱として、今になお、愛唱され続けているのであろう。


はじめてのものに  立原道造

ささやかな地異は そのかたみに
灰をふらした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

―― 風吹けり林うるおい蛾の飛ぶ夜   高屋窓秋

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