金曜日, 8月 04, 2006

虚子の実像と虚像(その二十一~三十四)




虚子の実像と虚像(二十一)

○ 一つ根に離れ浮く葉や春の水   (大正三年)

※この日、「日光は其水に落ちて『春先らしい暖さ』と、何処やらまだ風の寒い『春先らしい寒さ』とを見せている情景にあい、「透明な水の底の方の赭つちやけた泥がすいて見え」るのを見つめながら「『水温む』といふ季題の事を」「考へずにはゐられ」なくなり、その後で、「或大きな事実に逢着」「其処に芥とも何ともつかぬ、混雑した中に」「思はぬ方の、づつと遠方の水底に根を下ろしてゐる事」を発見し、覚えず先の句をえた(松井利彦著『大正の俳人たち』所収「俳句の作りやう」、「ホトトギス」大三・三)。

 ここに、虚子の俳句工房の全てが内包している。句作に当たっては、虚子は「ぢつと案じ入る事」・「ちつと眺め入る事」、そして、「季題による気分、情緒にひたり」、「その上で写生による新発見をする」というのが、その制作過程の全てである。この制作過程でのポイントは、上述の虚子の言葉でするならば、「或大きな出来事に逢着」するという、「写生による新発見」ということが上げられよう。そして、虚子の場合は、この「写生による新発見」の、その「或大きな出来事」については、沈黙をしたまま、それを言外に匂わせるということも敢えてしないというのが、その作句上の信条ともいえるものであろう。ここの「或大きな出来事」と「自己の特異の境涯性」とを結合させて、第一期の「ホトトギス」の黄金時代を築き上げていった俳人に、子規よりも二年年上の慶応元年生まれの村上鬼城がいる。

○ 小春日や石を噛み居る赤蜻蛉 (鬼城、「ホトトギス」大正三・一)

 この中七の「石を噛み居る」の、鬼城の「写生による新発見」に、鬼城は胸中の「己の境涯性」というのを詠い上げる。鬼城は、虚子の作句手法をそのまま遵法しながら、虚子とは異質の境涯詠という世界を構築することとなる。鬼城は虚子という俳句の師を得て、見事に開花することとなる。虚子は作句することよりも、他の人の句を鑑賞し、その他の人の句の好さを見抜き、その他の人をその人自身が本来持っているその才能を開花させるところの抜群の「俳人発掘」の才能を有していた。ここに、虚子が碧梧桐らの新傾向の俳句を放逐する原動力があったということは、自他ともに認めるところのものであろう。


(二十二)

○ 曝書風強し赤本飛んで金平怒る  (明治四十一年・「日盛会」第一回)
○ 書函序あり天地玄黄と曝しけり   ( 同 )

 この二句については、「以上二句、八月五日。日盛会。第五回。小庵。尚この会は八月一日第一回を開き殆毎日会して八月三十一日に至る。此時の会者、東洋城、癖三酔、松浜、水巴、蛇笏、三允、香村、眉月、蝶衣等」との留め書きが付されている。この留め書きは重要で、この日盛会といのは、当時の碧梧桐らの「俳三昧」に対抗しての「俳諧散心」の特別鍛錬会のような催しで、この鍛錬会での虚子の作は、この八月五日の二句を皮切りにして八月二十七日(第二十五回)までの代表的な句が、虚子の第一句集『五百句』の中に収録されている。その八月二十三日の日盛会(第二十一回)の三句は次のとおりである。

○ 凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり
○ 由(よし)公の墓に参るや供連れて
○ 此墓に系図はじまるや拝みけり

 この一句目の句は、虚子の長律の破調の句として著名で、次のアドレスでのネット鑑賞記事もある。

http://nagano.cool.ne.jp/kuuon/KYOSI/KYOSI.21.html

「去来への親しみ尊敬の念の表れた秀句である。去来は芭蕉の弟子で、自分を小さくすることにかけては天下一品で、生涯芭蕉の弟子として師を敬い続けた謙虚な人であると聞く。またその墓も小さい。この句、この破調が快く響く。虚子はこの句で、自分を小さく虚しくすることの美しさをを詩っているのである。」

 しかし、これらの句の背景には、当時の碧梧桐らの新傾向俳句の定型無視(長律・短律の試行)などの批判を内包してのものと解すべきなのであろう。この二句目の「由公の墓」(この「由公」とは芭蕉が葬られている義仲寺の木曽義仲の「義仲」公の意と解する)
なども痛烈な碧梧桐らへの風刺が内包しているように思えるのである。


(二十三)

○ 金亀子(こがねむし)擲(なげ)うつ闇の深さかな  
(明治四十一年・「日盛会」第十一回)
次のアドレスのネット鑑賞記事は次のとおりである。

http://nagano.cool.ne.jp/kuuon/KYOSI/KYOSI.21.html

「この闇の深さには、外側の闇の深さも勿論あるが、内面の闇の深さというものもそこに当然含まれている。私は秀句というものは外側の自然を内側の自然の合一というものが実現されていると思うのであるが、その意味でこれは秀句である。さてこの『擲つ』というのは物を放り投げるように捨てるというような意味であるが、ある人がこれは板のようなものに投げぶつけたと思っていたと言った。それを聞いて私はびっくりしてしまった。それを正しいとすると、この句は凄いものになる。『黄金虫を板にぶつけて闇の深さかな』となるとこれは凄い。そうなるとこの闇はもう全部内側の闇である。そして激しい句となる。そしてこの解釈も面白いのである。秀句の条件などすっ飛んでしまいそうである。」

 この「そうなるとこの闇はもう全部内側の闇である。そして激しい句となる」という指摘は、当時の虚子の碧梧桐らの俳句に対する憤りを内心に有している句と言っても過言ではなかろう。そして、この日盛会に参集したメンバーの、「東洋城、癖三酔、松浜、水巴、蛇笏、三允、香村、眉月、蝶衣等」というのは、いわゆる、碧梧桐らの「俳三昧」(「日本新聞」の「日本俳壇」を活動拠点としていた俳人達)に対して、虚子らの「俳諧散心」(「国民新聞」の「国民俳壇」ほ活動拠点としている俳人達)のメンバーで、前者が当時の多数派とすると少数派ということになる。そして、そのメンバーというのは、虚子一派というよりも、寄り集まりの反碧梧桐派という趣である。この当時は、虚子がタッチしていた
「ホトトギス」に、この両派の句稿が掲載されるなど、決定的な対立状態ではなかったが、この虚子の掲出句などを見ると、虚子自身としては内心忸怩たるものがあったことは想像に難くない。


(二十四)

○ 芳草や黒き烏も濃紫 (虚子・明治三十九年)
○ 黛を濃うせよ草は芳しき(東洋城・明治三十九年)

 この掲出の虚子と東洋城の二句は、明治三十九年三月二十九日の「俳諧散心」の第一回での席題「草芳し」でのものである。この「俳諧散心」について、下記のアドレスで次のように紹介されている。この東洋城は後に虚子と袂を分かち、現に続く俳誌「渋柿」を創刊する。


http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku1-3.htm

「碧梧桐らの一派が『俳三昧』という俳句の鍛錬会を行ったのに対し、虚子も明治三十九年三月十九日、『俳諧散心』なる俳句の鍛錬会を始める。『散心』とは『三昧』と同じ仏語であるが、『三昧』が心を一事に集中するのに対し、『散心』は気の散る事、散乱する心の意味で、あえて碧梧桐とは反対の言葉を選んだのは碧梧桐に対する揶揄の気持ちがあったのであろう。しかし、当初は月曜日に集まって句会を開くという事で『月曜会』と呼ばれていた。三月十九日虚子庵の第一回に集まったのは、東洋城、蝶衣、癖三酔、浅茅、松浜の五人で、第一回の席題は『草芳し』であった。後に東洋城の代表句にあげられる
      黛を濃うせよ草は芳しき
はこの席で作られた。この席での句は後に冊子となり、『芳草集』と題されたが、『ホトトギス』に発表する際、虚子が『俳諧散心』と改めた。これが『俳諧散心』の由来である。又、明治四十一年八月、第二回目の俳諧散心がホトトギス発行所で催された。今回のは毎週月曜日に開催されるのではなく、一日から三十一日まで連日催され、猛暑の中で催されたから『日盛会』と名づけられた。参加者は松根東洋城、岡村癖三酔、岡本松浜、新しく飯田蛇笏が参加していた。この会では

       金亀子擲(なげう)つ闇の深さかな    虚子
       凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり  虚子

などの句が作られている。そして俳諧散心最後の日、虚子は集まった人たちに、現在『国民新聞』に連載している『俳諧師』に全力を傾ける為、暫く俳句を中止すると宣言し、周囲を驚かせた。そのため、虚子が担当していた『国民俳壇』の選者は松根東洋城に委譲している。しかし後に『国民俳壇』をめぐって東洋城は虚子のもとを去ることになる。参考    村山古郷『明治俳壇史』」

(二十五)

○ 此秋風のもて来る雪を思ひけり (大正二年)

この句には「十月五日。雨水、水巴と共に。信州柏原俳諧寺の縁に立ちて」の留め書きがある。この同行者の一人の渡辺水巴は、当時の虚子が最も信を置いていた俳人で、水巴の自記年譜にも、「明治三十三年初めて俳句を作る。翌三十四年内藤鳴雪翁の門に入る。三十九年以降主として高浜虚子先生の選評を受け今日に至る」(大正9・一)としており、虚子が小説の方に軸足を置いていた大正二年当時の「ホトトギス」の「雑詠」選を担当するなど、虚子の代替者のような役割を担っていた。その句風は、虚子の碧梧桐らに対する「守旧派」という観点では、荻原井泉水らの西洋画風的な作風に対して江戸情緒的ともいえる日本画風的な作風で、その「守旧派」の典型として虚子は水巴の当時の作風を是としていたようにも思えるのである。しかし、ひとたび、虚子らの「守旧派」的俳句が碧梧桐らの「新傾向俳句」を放逐する状況になってくると、水巴自身、大正五年に俳誌「曲水」を創刊し、次第に、虚子の「ホトトギス」と距離を置くようになる。そして、この水巴の「曲水」には、西山泊雲・池内たけし・吉岡禅寺洞らの「ホトトギス」系の多くの俳人が参加して、現に、「曲水」俳句として、「ホトトギス」俳句と共にその名をとどめている。その水巴の俳句観は、いわゆる「感興俳句」に止まらず「生命の俳句」(究極の霊即ち詩)へと、ともすると、「感興俳句」に陥り易い虚子らの「花鳥諷詠俳句」への警鐘をも意味するものであった。ということは、渡辺水巴は虚子らの「守旧派」的俳句からスタートして、その着地点は、虚子らの客観写生的な「花鳥諷詠俳句」とは乖離した世界へと飛翔したということになる。渡辺水巴は、「ホトトギス」俳句の第一期黄金時代を築き上げていった俳人として思われがちだが、そのスタートと、そして、その着地点においても、虚子が一目も二目も置き、そして、その虚子とは異質な俳句観を有する俳人であったということは特記しておく必要があろう。

○ 白日は我が霊なりし落葉かな (水巴・昭和二年)

(二十六)

○ 我を迎ふ旧山河雪を装へり (大正三年)
  
 この掲出句には、「一月。松山に帰着。同日十二日夜、松山公会堂に於て」との留め書き
がある。この大正三年には虚子が「ホトトギス」に投句を懇請して、村上鬼城・渡辺水巴らと「ホトトギス」の第一期黄金時代にその名を連ねている飯田蛇笏の次の傑作句が生まれている。

○ 芋の露連山影を正しうす (蛇笏・「ホトトギス」大正三年)

 この蛇笏の句について、山本健吉は「大正三年作。作者が数え年三十歳の時の句である。現代の俳人の中で堂々たるタテ句を作る作者は、蛇笏をもって最とすると、誰か書いていたものを読んだことがあるが、そのことは、何よりもまず氏の句の格調の高さ、格調の正しさについて言えることである」(『現代俳句』)と劇賞した。この蛇笏もまた、碧梧桐らの「新傾向俳句」の中心人物・中塚一碧楼に対して、虚子が「ホトトギス」の牙城の一角に据えた「正しい定型律」の象徴的な俳人として位置づけられるような感慨を抱く。すなわち、「新しい俳句」を求めて、その五七五の定型を完璧なまでに破壊する一碧楼と、虚子の「守旧派」という呼び掛けのもとに、その五七五の定型を「俳諧(連句)の立句(発句)」までに再構築した蛇笏とは、そのスタートとにおいて「早稲田吟社」で句作を共同でしていた連衆でもあった。この両者が、それぞれ、「新派」の一碧楼、「旧派」の蛇笏として競う姿は、さながら、当時の、「碧梧桐と虚子」とが競う姿と二重写しになってくる。虚子は、当時の蛇笏について、「殊に蛇笏君に向つては、君の句の欠点を指摘するものは僕が死んだら誰もあるまい。僕の居る間にどしどし雑詠に投句して、取捨のあとを稽(かんが)へて置いた方が利益であらうといふことをいつた」(『ホトトギス雑詠全集五』大正六年)と、他の「ホトトギス」俳人とは別格化扱いをしている。水巴が主宰誌「曲水」を創刊した同じ大正五年に「キラ丶」(後の「雲母」)を刊行し、虚子調の「ホトトギス」俳句とはニュアンスの異質の蛇笏調の「雲母」俳句を樹立していくのであった。水巴の俳句観が「生命の俳句」ということなら、さしずめ、蛇笏のそれは「霊的に表現されんとする俳句」(「ホトトギス」大正七年の蛇笏の論)とでもいうのであろうか。蛇笏もまた次第に虚子と距離を置いていくこととなる。

(二十七)

○ 一人の強者唯出よ秋の風  (虚子・大正三年)
○ 秋風や森に出合ひし杣が顔 (石鼎・大正二年)
○ 秋風に倒れず淋し肥柄杓  (普羅・大正二年) 

 大正三年一月の「ホトトギス」の「読者諸君」欄に虚子は次のように記した。
「大正二年の俳句界に二の新人を得た。曰、普羅。曰、石鼎」(松井利彦著『大正の俳人たち』)。この二人の新人、前田普羅と原石鼎こそ、虚子が発掘した「ホトトギス」直系の二人の新人ということになろう。碧梧桐らの「新傾向俳句」には荻原井泉水・大須賀乙字などの若きエリートが群れをなし、それらに対抗すべき「ホトトギス」直系の新人俳人を虚子は渇望していたことであろう。そして、村上鬼城・渡辺水巴・飯田蛇笏らにこれらの有望な若手の新人が加わり、子規山脈とは異なった、虚子山脈ともいうべき「ホトトギス」第一期の黄金時代が現出するのである。掲出の一句目は、虚子の巨人願望の句として、当時の虚子自身の投影の句と解したが、それと併せ、当時の虚子の強力な新人俳人の渇望も見え隠れしているように解したい。そして、次の石鼎の句は、大正二年十一月の雑詠で巻頭を占めたもののうちの一句である。この時の作品の中には石鼎の代表句となる次の句などがある。

○ 淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守  (石鼎)
○ 蔓踏んで一山の露動きけり    (普羅)

 掲出の三句目の普羅の句は、その一席となった石鼎に次いで、雑詠欄二席となった普羅の作品の一つである。この二句について次のような鑑賞がなされている。
「前句(石鼎の句)の『秋風や』は、切字を伴っていることもあって、読み手は秋風の冷たさ、淋しさを情緒としてまず持つことを必要とする。そしてその情感の上に立って、森で逢った木樵の恐らく年老いた、そしてとぼとぼ歩む杣の顔つきを思い描くのである。守旧派的発想の典型の句である。これに対し、普羅の句の秋風は冷たく吹き過ぎてゆく風で、その風にも倒れることのなかった肥柄杓を淋しと見たのである。秋風の情緒に立脚しない。ある景の中の強く吹き過ぎる風として捉えている。この用法は大正中期になって大須賀乙字によって理論づけがなされ、昭和期に新興俳句運動の拡がりの中で一般化されるもので、当時としては思い切った新しさで虚子を着目させ、石鼎・普羅ではなく、普羅・石鼎と言わせたのであろう(松井・前掲書)。石鼎は、後に「鹿火屋」を主宰し、この「鹿火屋」は今日に至っている。また、普羅は請われて北陸の「辛夷」を主宰し、その「辛夷」も今日に至っている。このようにして、「ホトトギス」俳句は全国を席巻していくこととなる。


(二十八)

○ 蛇逃げて我を見し眼の草に残る (大正六年)

この句には、「五月十三日、発行所例会。十六日、坂本四方太、中川四明、日を同じうして逝く」との留め書きがある。この留め書きからすると、何か坂本四方太らの逝去に関連してのものと思われがちであるが、どうもそれらとは全然関係なく、この句は当時の虚子にあっては、曰く付きの問題の孕んでいる一句のようなのである。というのは、この句が作られた後の、六月五日にホトトギス発行所で「月並研究」の座談会があり、その座談会に偶々新傾向俳句の中心人物の大須賀乙字が、この留め書きに出てくる坂本四方太の遺族のことで来訪していて、この座談会に加わり、この掲出句と同時作の虚子の次の句を月並み句として批判した記録が残っているのである(松井・前掲書)。

○ 草の雨蛇の光に晴れにけり    (虚子)
○ 八重の桜ゆさぶる風や木の芽ふく (虚子)

 その記録によると、この虚子の二句について、乙字は次のように批判して、その上、改作案すら提示しているとのことである。 
「この二句は、概括的で且つ主観がはっきりしない。が之を鑑賞する即味ふ方から言へば、その主観を深く穿鑿して見なけりやならない心を起される。其点に先づ不審を打ったのである」。「先づ不審をただして作者に伺ふ事は、蛇の光に草の雨が晴れて来たといふ句の出来た時の作者の心持。・・・」。この乙字の傲慢とも取れる問に虚子は次のように答えている。
「草の雨が晴れかかつて来た時分に蛇の光が強く目に映つたのである」。「一旦雲が晴れかかつてくれば、そこに当る日はもう夏らしい光の強い感じがする。さういふ場合の、日を受けた蛇の光を詠じたのである」。この虚子の説明に対し、乙字は以下(要約)のようなことを主張し、改作案を示すのである。
○光が中心に出来ているなら、「蛇の光」と名詞形にして真中に据えたのでは活動がなくなる。句を作るとはき、最も活動した言葉に表れるのが普通であるのに、蛇の光と活動を消して表現している。一度趣向の篩にかけて作られており、最も感動したものを凝固させている。私が作るなら、蛇が光ったというような、あるいはいつまでも光っているというような、長い時間を持っているような光景は主眼としない。
 そして、乙字はこの句を
   草の雨蛇光り晴れにけり  と改作をすすめている。(松井・前掲書)
 さらに、虚子の自信作の一つの掲出の句に対しても、
○「草に」の「に」がやや曖昧なる語である。「蛇逃げて」も「て」というと、次の起こった事の間に多少の時間を思わせる。それで「蛇逃げつ」と「つ」とした方がよい。(松井・前掲書)

 この座談会があった大正六年当時の俳壇状況というのは、虚子の本格的な俳壇復帰が緒について、「ホトトギス」の勢力は先に見てきたように有力な俳人達の台頭もあり、いわゆる、虚子らの「守旧派」と碧梧桐らの「新傾向俳句」との対立は、「守旧派」の一方的な優勢のうちに推移し、それらの推移を見極めるかのように、虚子は「進むべき俳句の道」を指し示すという最中のことであった。しかも、年齢的にも七歳年下で、実作上の経験もさほどでない乙字が、 堂々と虚子の面前でこれらの「反虚子」・「反守旧派」を主張するのだから、虚子も怒り心頭に発したらしく、この座談会のあった翌月に、再度、乙字を招いて座談会を開き、「乙字君の議論が雄大であればある程、聞くものの頭には一種の疑惑の雲が漲つて来て、乙字君はどれ程の点まで得たところがあつてこれだけの議論をされるのであるかを疑はねばならぬやうになつて来る」とし、「月並研究」そのものを中止してしまったという(松井・前掲書)。このような、掲出句等のこれらの句の背景というのを垣間見る時に、虚子の反「新傾向俳句」というのは、反「碧梧桐」というよりも、より多く、反「碧梧桐を取り巻く若きエリート俳人達」へのものだったということを如実に物語っているようにも思えるのである。

(二十九)

○ コレラ怖(を)ぢて綺麗に住める女かな (大正三年)
○ コレラ船いつまで沖に繋り居る      (同上)
○ コレラの家を出し人こちらへ来りけり    (同上)

 「以上三句。七月三日。虚子庵例会」との留め書きがある。虚子にしては珍しく「コレラ」というどぎつい措辞で、何やら時事句的な雰囲気の句である。『大正の俳人たち』(松井利彦著)の「中塚一碧楼」のところに、一碧楼が出していた「試作」という俳誌が紹介されていて、その中に次のようなコレラの句がある。

○ コレラ患者が死んだ、麻畑ばかり思ひつづけて (荒川吟波) 

 これらの、いわゆる碧梧桐らの新傾向俳句の一つの「試作」派的な句について、虚子はかなり好意的な一文を「ホトトギス」(大正二・六)に寄せているのである。その要旨は以下のようなものであった。

※碧梧桐らの新傾向俳句は、一つの方向として「今日の如く再び十七字、季題趣味といふ二大約束の上に復帰する」。その二つは「更に驀進の歩を進めて十七字といふ字数の制限をも突破し季題趣味をも撥無し、全然俳句以外の一新詩を創造する」。私(虚子)は「此の第二を選ぶ事は新傾向運動として最も重大の意味あるものとして私(ひそか)に嘱望していた」。そして、「此の第二の結果を産む革命運動として私は寧ろ、『試作』一派の人の上により多くの希望を繋ぐのである」。

 これらの虚子の記述を見ると、虚子は碧梧桐らの新傾向俳句についてもそれを熟知し、「全然俳句以外の一新詩」として、俳句(十七字・季題趣味を基調とする)ではなかなか表現が困難ないわゆる社会的事象などを主題とする、中塚一碧楼らの「試作」の作品には希望を託し、それらについては一定の評価をしていたということが伺えるのである。掲出の虚子のコレラの句も、例えば、掲出の荒川吟波のコレラの句などに触発されて、虚子としては珍しい当時の社会的事象を主題とした句とも解せられなくもないのである。この「試作」に発表した一碧楼の句として、次のような句がある(松井前掲書)。

○ 八百庄は酔ひ死にし葉柳垂れ   (一碧楼)
○ 啄木は死んだ、この頃の白つつじ  (同上)

 一碧楼のこれらの句は、現代の金子兜太らのいわゆる前衛俳句に近いものであろう。そして、虚子はこれらの一碧楼らの句(俳句というよりも一新詩として)に一定の理解と評価をしていたということは、虚子の実像を知る上で特記しておく必要があろう。


(三十)

○ 老衲(ろうどう)炬燵に在り立春の禽獣裏山に (大正七年)
○ 雨の中に立春大吉の光あり (同)

この二句については、「以上二句。二月十日。発行所例会。会者、京都の玉城、所沢の俳小星、青峰、宵曲、一水、雨葉、しげる、湘海、みずほ、霜山、今更、たけし、鉄鈴、としを、子瓢、夜牛、石鼎」との留め書きがある。この大正七年の頃に来ると、原石鼎の他に「島田青峰・柴田宵曲・中田みずほ・池内たけし・高浜としを」など、その後の「ホトトギス」誌上などでのお馴染みの方の名も見受けられるようになる。この大正七年・八年にかけての、ホトトギス「百年史」のネット関連の記事は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

大正七年(1918) 一月 「俳談会」連載、虚子、破調を試みる
四月 虚子『俳句は欺く解し欺く味ふ』刊(新潮社)。
七月 虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社)。「天の川」創刊。
八月 「山会」を復活。
九月 第二回其角研究。この年新傾向運動終熄。
大正八年(1919) 一月 「写生を目的とする季寄せ」(ホトトギス附録)。
二月 「風流懺法後日譚」連載、虚子。
三月 虚子『どんな俳句を作ったらいいか』刊(実業之日本社)。
八月 「写生は俳句の大道である」原月舟(八回連載)。
九月 草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)。秋桜子・風生・誓子・青邨・年尾・虚子、帝大俳句会結成。

上記の年表の、大正七年一月「虚子、破調を試みる」とは、掲出の一句目のような句作りを指しているのだろう。さらに注目すべきことは、その九月に、「この年新傾向運動終熄」とある。すなわち、碧梧桐らの新傾向俳句はここに終熄したというのである。そういうことを背景にして、掲出の二句、一句目の「立春の禽獣裏山に」と、二句目の「立春大吉の光あり」とは、なんと、この年の、この「この年新傾向運動終熄」の、それらを背景とする、虚子の心情そのものを詠っていることか。まさに、「ここに虚子あり」という雰囲気である。
(三十一)

○ 藤の根に猫蛇(べうだ)相搏(う)つ妖々と  (大正九年)

この掲出句には、「五月十日、京大三高俳句会。京都円山公園、あけぼの楼」の留め書きがある。先の大正八年のホトトギス「百年史」の年譜で、「草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)」とあり、この日野草城・鈴鹿野風呂らの「京大三高俳句会」での作ということになろう。この日野草城については、次のアドレスでの紹介記事がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8D%89%E5%9F%8E

(日野草城)
東京上野(東京都台東区上野)に生まれる。京都大学の学生時代に「京大三高俳句会」を結成。1924年(大正13年)京大法科を卒業しサラリーマンとなる。 高浜虚子の『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭となり注目を集める。1929年(昭和4年)には28歳で『ホトトギス』同人となる。1934年(昭和9年)『俳句研究』に新婚初夜を描いた連作の「ミヤコホテル」を発表、俳壇を騒然とさせた。 この「ミヤコホテル」はフィクションだったが、ここからいわゆるミヤコホテル論争が起きた。中村草田男、久保田万太郎が非難し、室生犀星が擁護にまわった。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒となった。1935年(昭和10年)東京の『走馬燈』、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』の三誌を統合し、『旗艦』を創刊主宰する。無季俳句を容認し、虚子と袂を分かった。翌1936年(昭和11年)『ホトトギス』同人より除籍となる。戦後1949年(昭和24年)大阪府池田市に転居し、『青玄』を創刊主宰。1946年(昭和21年)肺結核を発症。以後の10数年は病床にあった。

○ 春愁にたへぬ夜はする化粧かな (草城・大正九年「ホトトギス」)

 掲出の句は、草城の二十歳満たない学生時代の作である。そして、この句が作られた大正九年について、ホトトギス「百年史」には、次のように記している。新傾向俳句の理論的な支柱でもあった大須賀乙字が四十歳の若さで夭逝した。また、碧梧桐が携わっていた「海紅」も碧梧桐の手を離れ、自由律俳句の中塚一碧楼に代わる。虚子も体調を崩し、一時、「ホトトギス」の「雑詠」選も蛇笏に代わるが揺るぎもしない。そして、それらを背景として、日野草城らは「京鹿子」を創刊し、華々しくデビューしていくことになる。掲出の句の「猫」・「蛇」とは、その「京鹿子」を創刊した、草城と野風呂の両者のようにも思えてくる。しかし、これらの草城や野風呂を俳壇にデビューさせた虚子の眼力は並大抵のものではなかろう。また、「ホトトギス山脈の俳人たち」(下記アドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○日野草城 (ひの・そうじょう) 明治34年 昭和31年 京大三高俳句会の創設メンバー。新興俳句に進み、 「旗艦」 創刊。 晩年に同人復籍。

  遠野火や寂しき友と手をつなぐ
  妻も覚めてすこし話や夜半の春
  既にして夜桜となる篝かがりかな
  心ところ 太てん煙のごとく沈みをり
  蚊か遣やり火びの煙の末をながめけり
  粕汁に酔ひし瞼や庵の妻
  冬椿乏しき花を落しけり

大正九年(1920) 一月 乙字没。
二月 「小学読本中にある俳句」連載、鳴雪・虚子。草城・野風呂・王城・播水、京大三高俳句会を結成。
九月 虚子軽微の脳溢血、以後禁酒、雑詠一時蛇笏代選。
十月 雑詠投句二十句を十句とする。
十一月 「京鹿子」創刊。
十二月 「海紅」主宰一碧楼に代わる。

(三十二)

○ 人形まだ生きて動かず傀儡師 (大正十年)

 「一月十一日。新年婦人句会。かな女庵。昨年十月、軽微なる脳溢血にかかり、病後はじめて出席したる句会」との留め書きがある。ここに出てくる「かな女」とは、長谷川かな女のむことであろう。その夫・零余子とともに、「ホトトギス」の一時代を築きあげていったが、大正十一年にはその「ホトトギス」を離脱している。零令子亡き後、昭和五年に「水明」を創刊して、その水明」は現に続いている。掲出の句は当時の虚子の自画像であろう。なお、かな女に関する句は次のとおり。

○ あるじよりかな女が見たし濃山吹    (石鼎・大正四年)
○ 蠅おそろし止まるもの皆に子を産み行く (かな女・大正七年)
○ 行秋や長子なれども家嗣がず      (零余子・大正八年)

 この長谷川かな女については、「ホトトギス山脈の俳人たち」(下記アドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○長谷川かな女 (はせがわ・かなじょ) 明治20年 昭和44年 夫・零余子ともども「進むべき俳句の道」 にとりあげられた。 婦人俳句会で活躍。

  切きれ凧だこの敵地へ落ちて鳴りやまず
  羽子板の重きが嬉し突かで立つ
  蚊帳くゞるやこうがいぬきて髪淋し
  空壕に響きて椎の降りにけり
  戸にあたる宿なし犬や夜寒き
  湯がへりを東菊買うて行く妓かな
  戸を搏うつて落ちし簾すだれや初嵐
  呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉
  髪かいて額まろさや天てん瓜か粉ふん

 また、ホトトギス「百年史」は下記のとおりである。

大正十年(1921) 五月 「鹿火屋」創刊。
十月 「平明にして余韻ある俳句がよい・客観写生」虚子。
大正十一年(1922) 三月 虚子島村元と九州旅行。
四月 みづほ・風生・誓子・秋桜子・帝大俳句会(東大俳句会)を復活、「破魔矢」創刊。
九月 虚子選『ホトトギス雑詠選集』刊(実業之日本社)。
十一月 京大三高俳句会解散、「京鹿子句会」へ移行。「山茶花」創刊



(三十三)

○ 日覆に松の落葉の生れけり (大正十二年)

 「六月二十八日。風生渡欧送別東大俳句会。発行所。上京中の泊雲出席」との留め書きがある。「風生」は後に「若葉」を主宰する富安風生のこと。「泊雲」は実弟の野村泊月と共に「ホトトギス」雑詠欄の上位を占めて「丹波二泊の時代」を作った西山泊雲のこと。風生も泊雲も虚子に見出され、終始、虚子とその「ホトトギス」の重鎮であった。虚子の掲出の句が、堅実な客観写生の句と解せられるなら、この両者とも、その虚子の堅実な客観写生の句を標榜し、実践し続けた俳人といえるであろう。下記のホトトギス「百年史」にあるとおり、この年の九月一日に関東大震災があり、虚子は鎌倉にあった。この日のことは、『父・高浜虚子』(池内友次郎著)に詳しい。八月には、虚子が一時後継者の一人と目していた島村元が亡くなっている。この島村元の死亡や関東大震災などが原因となり、虚子は「ホトトギス」西遷(「ホトトギス」の経営を京都に移すという案)を決意したという(松井・前掲書)。その「ホトトギス」西遷は日の目を見なかったが、この大正十三年には従来の選者制度を止めて同人制度が設けられ、その同人・課題句選者は次のとおりであった(松井・前掲書)。
(同人) 鳴雪、肋骨、露月、鼠骨、虚吼、繞石、鬼城、蛇笏、泊雲、普羅、石鼎、梧月、温亭、楽堂、青峰、躑躅、王城、泊月、浜人、野鳥、村家、たけし、宵曲
(課題句選者)黙禅、花蓑、野風呂、耕雪、草城、秋桜子、青畝、あきら、公羽
そして、この同人の一人、原田浜人が、当時の虚子が「ホトトギス」俳句として重視していた「客観写生句」(描写句)に対して批判し、離脱していくことになる。一見平穏に見える「ホトトギス」の内部もその実情は混沌としたものだったのである。

○ 一もとの姥子の宿の遅ざくら (風生)
○ 焚きつけて尚広く掃く落葉かな(泊雲)
○ 春水を渉らんとして手をつなぐ(泊月)
○ 一片のなほ空わたす落花かな (元)
○ あるときは一木に凝り夏の雲 (浜人)


大正十二年(1923) 一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924) 一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。


(三十四)

○ 古椿こゝたく落ちて齢かな (大正十五年)

 「二月二十三日。田村木国上京歓迎小集。発行所。二十二日、内藤鳴雪逝く」との留め書きがある。鳴雪は子規より年配で、子規門の大長老だが、虚子と虚子の「ホトトギス」の支援を惜しまなかった。しかし、広く各派の俳人達の交遊関係も厚く、こうした後見人的な支援が どれほど虚子とその「ホトトギス」を支えたものかは、虚子自身が最も知るところであろう。掲出句はその鳴雪の追悼句ではないけれども、当時の虚子の心境を伝えてくれるような一句である。この年、自由律の俳人・尾崎放哉も亡くなっている。この前年には、東大俳句会、京大俳句会に続いて、九大俳句会も結成され、吉岡禅寺洞・芝不器男らが「ホトトギス」に参加してくることとなる。この禅寺洞については、「ホトトギス山脈の人たち」(下記のアドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○吉岡禅寺洞 (よしおか・ぜんじどう) 明治22年 昭和36年 福岡県生まれ。九大俳句会を指導。 「天の川」 の選者として無季欄を設けた。除籍とはなったが、 「ホトトギス」 ゆかりの作家として、芦屋の虚子記念文学館には、 「青空に青海湛へて貝殻伏しぬ」の俳磚 (はいせん) が掲げられた。

  雹ひょう降りし桑の信濃に入りにけり
  ひたすらに精霊舟のすゝみけり
  露草の瑠璃をとばしぬ鎌試し
  ちぬ釣やまくらがりなるほお 被かむり
  歩きつゝ草矢とばしぬ秋の風
  春光や遠まなざしの矢大臣
  女房の江戸絵顔なり種物屋
  古園や根分菖蒲に日高し

 また、芝不器男については、下記のアドレスで紹介されているが、大正末期昭和初期、俳壇に彗星の如く現れ、子規以来の伝統俳句の良さを高度に発揮した愛媛県出身の俳人である。「不器男」は、論語の「子曰、君子不器」から命名。本名である。二十六歳の短い生涯であった。その生涯に残した句は二百句に充たないという。そのうちの下記の句は虚子の名鑑賞で一躍不動のものとなった一句である。

   あなたなる夜雨の葛のあなたかな

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E4%B8%8D%E5%99%A8%E7%94%B7


大正十四年(1925) 三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926) 二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。

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