木曜日, 8月 03, 2006

若き日の蕪村(その九)



若き日の蕪村(その九)

(一〇一)

『南画と写生画』(吉沢忠著・小学館)では、蕪村の「春風馬堤曲」に関連させ、次のとおり独特の蕪村の絵画論を展開している。

○「春風馬堤曲」は、蕪村の故郷毛馬から大阪に出た女が、帰郷して、毛馬の堤にさしかかったときの有様を、漢詩、自由詩、俳句をおりまぜながらうたった、きわめて異色のある詩である。ある意味では、この三種の文体が蕪村の絵画、ことに晩年の謝寅時代の絵画にあらわれている、といえなくもなさそうである。つまり漢詩は、南宗的なものを基調としながら、北宗的なもをまでまじえた蕪村の中国画系統の画、文語体の自由詩は、格調高く迫力にとむ独特の水墨画、そして俳句に対応するものは、俳画を主とした和画系統の画である。

 この漢詩的なスタイルに匹敵する「中国的系統の画」(南画)、自由詩のスタイルに匹敵する「水墨画」(南画と俳画との一体化)、そして、俳句のスタイルに匹敵する「和画系統の画」(「俳画」・「俳諧ものの草画」)の、この三つの蕪村の絵画の区分けは、蕪村の絵画の鑑賞上、大きな示唆を与えてくれる。いや、画俳二道を極めた蕪村の生涯を辿る上での必須のキィワードといっても過言ではなかろう。蕪村が始めて登場するのは、豊島露月が編んだ絵入り俳書、『俳諧卯月庭訓』の「鎌倉誂物」(宰町自画)であった。これは、上記の分類ですると、「和画系統の画」に該当し、それは、二十代前半の江戸時代の蕪村を象徴するものでもあろう。そして、その江戸を後にし、京都に再帰して、丹後に絵の修行に出かけた後、讃岐に赴く。ここで、「階前闘奇 酔春星写」と記した「蘇鉄図襖絵」(現在は屏風に改装)を描く。これは、上記の分類の「水墨画」であり、中国風でもなく、されど、俳画風でもなく、その後の画人・蕪村を暗示するような、丹後・讃岐時代の四十代・五十代前半の蕪村を象徴するようなものであろう。しかし、蕪村のその六十八年の生涯において、上記の分類ですると「中国的系統の画」(南画)が最も多く、それは、当時の時代的な一つの風潮であった、祇園南海・柳沢淇園・彭城百川らの、いわゆる勃興期にあった日本南画の影響を最も多く享受した結果ともいえるであろう。そういう意味で、蕪村は大雅とともに「日本南画の大成者」との名を冠せられるのは至極当然のことではあろう。しかし、上記の分類はあくまでも便法であって、とくに、最晩年の、安永七年(一七七八)以降の落款「謝寅」時代の絵画は、上記の分類を超越して、いわゆる「謝寅時代の絵画」として、上記の分類によることなく、独自に鑑賞されるべきものであろう。そして、この時代のものは、「夜色楼台雪万家図」・「峨嵋露頂図巻」・「春光晴雨図」・「奥の細道屏風」など傑作画が目白押しなのである。まさに、蕪村は晩成の画人であり、俳人であり、そういう意味では、常に研鑽を怠らなかった努力の人であったということを、つくづくと実感する。

(一〇二)

『南画と写生画』(吉沢忠著・小学館)では、蕪村の「春風馬堤曲」に関連させての、「中国画系統の画、水墨画、俳画を主とした和画系統の画」の三区分のうちの「俳画」(俳諧ものの草画)について見ていきたい。
 安永六年(一七七九)と推定される蕪村の几董宛ての書簡に、「はいかい物の草画、凡(およそ)海内に並ふ者覚無之候」との一文があり、蕪村は、この「俳画」(俳諧ものの草画)ということにおいて、相当の自信と相当の覚悟を持っていたことが伺えるのである。その俳画の頂点を極めたものが、芭蕉の紀行文『おくのほそ道』に関連するもので、現在、画巻が三巻、屏風一隻、模写一巻が残されており、それらを年代順に列挙すると下記のとおりである。

一 画巻 右応北風来屯需自書干時安永戌戊(七年)夏六月   夜半亭蕪村
二 画巻 安永戌戊(七年)冬十一月写於平安城南夜半亭自書 六十三翁蕪村
三 屏風 安永己亥(八年)秋平安夜半亭蕪村写
四 画巻 右奥細道上下二巻応維駒之需写於洛下夜半亭閑窓干時
安永己玄(八年)冬十月 六十四翁蕪村
五 画巻(模写) 安永丁酉(六年)八月応佐々木季遊之需書
於平安城南夜半亭中 六十二翁蕪村

 この二番目の図巻は、現在、逸翁美術館蔵のもので、上下二巻の十四面(旅立ち・那須の小姫・須賀川軒の栗・佐藤嗣信らの嫁・塩釜の宿・高館・尿前の関・山刀伐峠・長山重行亭・市振の宿・曽良先行惜別・大聖寺の全昌寺・等栽草庵・大垣近藤如行亭)で構成されている。そして、三番目の屏風が、山形県立美術館蔵のもので、重要文化財に指定されている。この構成は、その六曲に『おくのほそ道』全文を草し、逸翁美術館蔵の図鑑と同じようなスタイルで、九面(旅立ち・那須の小姫・須賀川軒の栗・佐藤嗣信らの嫁・塩釜の宿・尿前の関・長山重行亭・市振の宿・大垣近藤如行亭)が配置され、全体でまるで一つの画を見るように工夫されている。こういうものは、まさに、画・俳二道を極めて、俳聖・芭蕉の『おくのほさ道』を知り尽くした蕪村ならではの傑作俳画の極地と言えるであろう。そして、蕪村はそのスタートにおいて、露月撰の『卯月庭訓』の「宰町自画」とある「鎌倉誂物」の挿絵(版画)に見られる如く、これらのものを自家薬籠中のものにしていた
ということについては、先に見てきたところのものである。そして、これらの蕪村の生涯の業績は、まさに、「はいかい物の草画、凡(およそ)海内に並ふ者覚無之候」という趣を深くするのである。

(一〇三)

先に触れた、柿衛文庫所蔵の「俳仙群会図」(画像・下記アドレス)については、内容的には、古今の俳人から、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口上人・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿の十四人の俳人を肖像画的に描き、さらに十三人の代表句も記されており(その画作とは別な時点ではあるが)、俳画の範疇に入るのだろうが、そのスタイルは当時の人物画・肖像画に見られる典型的な筆法(狩野派と土佐派の折衷様式)で、蕪村自身が言っている「俳諧ものの草画」(俳画)とは異質なものであろう。そして、この「俳仙群会図」については、その画賛の「此俳仙群会の図は、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、ここに四十有余年に及べり。されば其稚拙今更恥べし。なんぞ烏有とならずや」との元文年間に制作されたものではなく、「『朝滄』の落款から推して、四十代初頭の丹後時代の作」(『蕪村全集四』)ということについては、先に触れたところである。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/shozo-buson.html

 この「俳諧ものの草画」(俳画)は、一般的には略画・草筆・減筆などともいわれ、簡略な単純化された表現スタイルをとり、この単純化されたスタイルが、丁度、五・七・五と最小の短詩型表現スタイルの俳句と相通ずるものを有している。そして、この略画・草画はしばしば版本となって、この版本が「翻刻・模刻・改刻」などがなされ、いわゆる、蕪村画の「三十六俳仙図」などは、河東碧梧桐によると、「蕪村『俳諧三十六歌仙』は偽作なり」と完全な否定論までなされるに至っている。しかし、まぎれもなく、蕪村はこれらの「俳諧ものの草画」(俳画)では、そのスタートの時点からその晩年の先に触れた「おくのほそ道」関連の図巻などに至るまで、この面においては傑出した画・俳人であり、この流れが、蕪村門下の月渓・九老・金谷などに引き継がれているのである。さらに、蕪村自身、その源流を探ると、英一蝶・野々口立圃・僧古澗明誉・彭城百川などの影響などを受けており、また、渡辺崋山などの別系統のものもあり、この「俳諧ものの草画」(俳画)という世界も、江戸時代を代表する浮世絵と同じく、一つのジャンルを形成していたということも特記しておく必要があろう。そして、この「俳諧ものの草画」(俳画)において、蕪村は自他共に認める第一人者であったことは言をまたない。

(一〇四)

 蕪村の画業の一つとして、この世にその名をとどめている露月撰『俳諧卯月庭訓』の「鎌倉誂物」も版本の挿絵といってもよいものであろう。この蕪村の挿絵は蕪村俳画の源流といえるもので、この挿絵的な俳画が制作された元文二年(一七三七)当時の、蕪村の肉筆画というものは存在しない。そして、その肉筆画が蕪村作としてその名をとどめているものは、その多くが結城・下館のものであって、その作品は以下のとおりである。

○ 陶淵明山水図       三幅対  子漢   下館・中村家
○ 三浦大助・若松鶴・波鶴図 三幅対  四明   同上
○ 漁夫図          一幅   浪花四明 同上
○ 追羽子図        杉戸絵四面 なし   同上
○ 文微明八勝図     紙本淡彩一巻 伝蕪村模 同上
○ 高砂図          三幅対  浪華長堤四明・四明 下館・山中家
○ 人物図          三幅対  浪華長堤四明・四明 下館・板谷家
○ 墨梅図         紙本墨画四枚 なし       結城・弘経寺 
○ 楼閣山水図       紙本墨画六枚 なし       同上

 これらの作品が描かれた年代は定かではないが、蕪村の師の早野巴人が亡くなった寛保二年(一七四二)から京に再帰する宝暦元年(一七五一)の約十年間のものであることは確かなところであろう。その落款の「子漢・四明・浪花四明・浪華長堤四明」などからして、これらの作品以外にも相当数の作品を描いたであろうことも容易に想像されるところではある。そして、上記の結城・下館時代の作品のうち、蕪村模写とされている「文微明八勝図」などは、蕪村が本格的に南画を学ぶ切っ掛けになったものであろうと推測されており、この結城・下館時代が、それまでの方向性のなかった蕪村絵画が南画的な方向に舵取りをされた頃であろうといわれている。これらについて、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)では次のように記されている。
○『八種画譜』とは中国の八種の画譜を集めたもので、明末の天啓年間にまとめられて板行され、まもなく、日本にもたらされた。寛文十一年に日本でも困難を克服してようやく翻刻され、さらに宝永七年に再刻された。同じく元禄年間に翻刻された『芥子園画伝』と共に、南画を学ぶものにとっては、それは必要不可欠の教本であった。『芥子園画伝』とは異なり、純粋に南宗的ではないが、それまでよく知られていなかった明画の様式を伝えて、文人墨客に利用され、日本における南画の興隆を促した。関東時代の蕪村は、寛延元年に翻刻されたばかりの『芥子園画伝』の方はまだ見る機会がなかったのではないかと考えられるだけに、『八種画譜』は熱烈に学び、模写をしたことが充分に考えられる。
 
(一〇五)

 「若き日の蕪村」というのは、年代的には、蕪村が京に再帰する宝暦元年(一七五一)以前の、蕪村、三十六歳以前のこととして概略的に使用している。そして、この「若き日の蕪村」時代の初期の絵画の遺品も、また、俳諧(連句・俳句)関連の作品も共に極めて少なく、蕪村がその画俳の二道において真にその名を世に問うて来るのは、京に再帰して、宝暦四年(一七五四)に丹後の宮津行きを決行する以後ということになろう。すなわち、年齢的には、蕪村、四十歳以後ということになる。この四十歳から亡くなる天明三年(一七八三)、六十八歳までの、後半の蕪村の生涯というのは、前半の蕪村の生涯と比して、その情報量も著しく多く、その足跡を辿るということも容易ではあるけれども、いかんせん、その前半の生涯を辿るということは、凡そ至難なことといっても過言ではなかろう。しかし、その前半生の少ない情報を垣間見るだけでも、巷間公然と言われているようなことについて、「果たしてそれは真実なのであろうか」と、そういう洗い直しが必要なのではなかろうかという思いを深くするのである。そのうちの一つとして、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との逸話についても、単に、「洒々落々の『南画』や『俳諧』に身を置いて」のような意味合いで、南画の先駆者たちの、「放蕩無頼を以て禄をうばう」「不行跡に付き知行召し放たる」(祇園南海)、「不行跡未熟之義、相重なり」(柳沢淇園)と同じようなことなのではなかろうかと・・・、そんな思いもしてくるのである。また、蕪村は己の出生について、「何も語らず、むしろ、それは隠し続けた」ということなどについても、先に触れてきたところであるが、上記の結城・下館時代の絵画作品の落款の「子漢・四明・浪花四明・浪華長堤四明」などを改めて見直すと、蕪村は、「摂津の毛馬の馬堤の遠くに比叡の四明峰を仰ぎ見る」所て生まれ、育ったということをはっきりと語りかけているようにも思えてくるのである。(この時点で、一旦、この「若き日の蕪村」の点と線を結ぶ作業を一区切りとして、「回想の蕪村」ということで、また、違った視点での点と線を結ぶ作業に移ることとしたい。)2006/08/02 一応了。

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