月曜日, 2月 23, 2009

前衛派の旗手たち(その一~その十五)

前衛派の旗手たち(重信・邦雄・修司・克衛らの周辺)

(その一)

 前衛派の旗手の俳人、高柳重信は、一九二三年の生まれ。同じく、歌人の塚本邦雄は、一九二二年、そして、俳人で歌人の寺山修司は一九三五年の生まれである。年代的には、この三人よりも先輩格である詩人の北園克衛は、一九〇二年の生まれで、二十世紀の初頭にその生を受けた。
 この十九世紀から二十世紀への接点の頃、今に、日本俳壇にその名をとどめている二人の俳人が誕生している。その一人は、一九〇〇年のエイプリルフール(四月一日)に生まれた西東三鬼で、もう一人が、一九〇一年の万緑の七月二十四日生まれの中村草田男である。   
 このお二人は、前衛派とは目されていないが、共に、前衛派のよき理解者であり、また、前衛派と称せられる方々から、そのジャンルを問わずエールを送られ続けてきた俳人でもある。
 このお二人と同年代の詩人が北園克衛で、こちらは、今に、前衛派の詩人として、その名を馳せている。そして、二〇〇二年には、「北園克衛生誕百年イベント」も企画され、単に、詩というジャンルだけではなく、多方面に名を馳せ、ネット記事(「ウィキペディア」)
では、次のように紹介されている。

・・・デザイナーであり、イラストレーターでもあり、編集者でもあった。当初は油彩を描き二科展に入選を果たすなど画才にめぐまれ、昭和を通じておびただしい文芸誌書に装丁家・挿画家として関与している。とくにグラフィックデザインやエディトリアルデザインには空間の空きを考慮した独特の魅力がある。多彩な活動を繰り広げる一方で、肩書きは徹底して「詩人」ひとつで通した。

 ひるがえって、「重信・邦雄・修司・克衛」の四人に絞って、その焦点化を試みると、克衛がそうであったように、重信・邦雄・修司も、これまた多方面に活躍しており、この四人は、さながら、マルチニストという共通項を有しているといえるであろう。
 そして、「俳句・短歌・川柳・詩」というジャンルを見渡したとき、狭い、「俳句・短歌・川柳・詩」という限られた枠内で接するのではなく、それらが、大きな、「アート(芸術)」、そして、「ポエム(詩)」という拡がりのなかで、これらの四人の方に接することこそが、この四人の中核に迫り得る唯一の道なのではないかという思いを深くするのである。
 さて、ここでは、そのような大上段に構えることもなく、克衛が、その「肩書きは徹底して『詩人』ひとつで通した」ということであるならば、「重信・邦雄・修司・克衛」の四人もまた、まさに、克衛と同じように、「詩人」という名が最も相応しいように思えてくるのである。

 ここで、この四人のうちで、最も先輩格の北園克衛の、その代表作の「単調な空間」(一九五九年作)を紹介しておきたい。この作品については、ネット記事(「ウィキペディア」)
では、次のように紹介されている。

・・・代表作「単調な空間」(1959)はこの詩人の空間認識が結晶したもので、折から世界を席巻していたコンクリート・ポエトリーの関係者の目にとまったが、コンクリティズムの作品とはいえない。処女詩集『白のアルバム』(1929)に収録されている「図形説」がコンクリート・ポエトリー的な要素をもった唯一の作品である。

単調な空間(北園克衛)

白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黄色い四角
のなかの
黄色い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角


の中の白
の中の黒
の中の黒
の中の黄
の中の黄
の中の白
の中の白


の三角
の髭
のガラス


の三角
の馬
のパラソル


の三角
の煙

ビルディング


の三角
の星

ハンカチイフ

白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角


(その二)

 前衛派の旗手の北園克衛について、ネット記事(「ウィキペディア」)では、次のように紹介している。

・・・関東大震災のあと、大正末期から昭和初期にかけて華開いた前衛詩誌文化のなかで活躍、いわゆるモダニズム詩人、前衛詩人の代表格とされる。日本で初めてのシュルレアリスム宣言(連名)を配布したことからシュルレアリスムと関連付けられることが多いが、ごく短期間で離脱し、該当する作品も少量にすぎない。むしろバウハウスの造型理念を視覚的に享受した影響が大きい。

 この一九二三年(大正十二)の関東大震災のとき、克衛は二十歳前後であったが、いみじくも、前衛派の俳人、高柳重信が誕生した年でもあった。この重信のネット記事(「ウィキペディア」)は次のとおりである。

・・・高柳重信(たかやなぎ・じゅうしん、1923年1月9日 - 1983年7月8日)は俳人。
東京小石川生れ。本名は高柳重信(しげのぶ)、俳人としては「じゅうしん」を自称した。 早稲田大学専門部法科卒業。学生時代に「早大俳句研究会」に参加、富沢赤黄男(かきお)に師事した。 1958年(昭和33年)に赤黄男、三橋鷹女、高屋窓秋、永田耕衣を擁して「俳句評論」を創刊した。3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱、実践し金子兜太とともに「前衛俳句」の旗手となった。後年、山川蝉夫という別人格を登場させ発想と同時に書ききるという、一行の俳句形式も行った。俳誌「俳句評論」代表。総合誌「俳句研究」(俳句研究新社)編集長を歴任した。 妻、高柳篤子と離婚後、俳人中村苑子と生涯をともにしたが、結婚はしなかった。 歌人の高柳蕗子は篤子との実子。句集に「蕗子」他。「高柳重信全集」(全三巻)などがある。 ・・・

 かって、「高柳重信の多行式俳句」ということで、簡単な鑑賞の一試行(下記のアドレス)をしたことがあるが、今回、克衛の代表作「単調な空間」に接して、次の重信の不可思議な作品を想起したのであった。

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_25.html

・・・  ●●○●
     ●○●●○
     ★?
     ○●●
     ―○○●

「句集『伯爵領』。この句集末尾の作品。どう解釈するかは読者の自由。相撲の星取り表にも近いが、異様なマーク「★?」や「―」もある。異次元の夜空の略図だろうか。宇宙人の言語だろうか。人を食った謎がここにはある。俳諧精神のなせるわざか。(無季)」
 上記の「●○★?―」の記号のみ表示のものが、高柳重信の、重信の句集『伯爵領』の最後を飾る一句である。そして、上記の括弧書きは、夏石番矢さんの解説文である。この句(?)について、藤島敏さんは、次のように解読(?)した。
死死生死
     死生死死  
     エロス?
     生死死
     ―死死生

 この「エロスとタナトス」を暗示するようでもあるが、これまた、これらの句(?)が収められているところの、その題(章)名らしき「領内古謡」のことを考えると、ここは、単純に、次のように口ずさむのがよいのかも知れない。

     黒黒白黒
     黒白黒黒
     星(わからない)
     白黒黒
    (そうだ)黒黒白
 
 とした上で、私の「高柳重信」の「解読フィルター」の「虚実(論)」でこの句(?)を鑑賞したい。
 
     虚虚実虚
     虚実虚虚
     句?
     実虚虚
     ―虚虚実   ・・・

 上記の「『高柳重信』の『解読フィルター』の『虚実(論)』」とは、この句の鑑賞前の次の句に関連してのものであった。

・・・ 泣癖の
    わが幼年の背を揺すり
    激しく尿る
    若き叔母上

 高柳重信の『蒙塵』所収の「三十一字歌」と題する中の一句である。「五・十二・七・七」のリズムである。このリズムは、「五・七・五・七・七」の短歌のそれを意識したものであろう。これが俳句なのであろうか?  どうにも疑問符がついてしまうのである。ただ一つ、重信は「定型破壊者」ではなく、極めて、「定型擁護者」と言い得るのではなかろうか。この意味において、自由律俳人の「自由律」と正反対の、いわば「外在律」に因って立つところ作家ということなのである。それと、もう一つ、この『蒙塵』という句(多行式)集の制作意図があって、それは「王・王妃・伯爵・道化・兵士達のドラマ」仕立ての中での、その場面・場面の描写というような位置づけで、これらの句がちりばめられているようなのである(高橋龍稿「俳句という偽書」)。すなわち、俳諧論の「虚実論」の「虚(ドラマ)の虚の句(多行式)」ということなのである。これらのことについて、高橋龍さんは次のとおり続ける。「今日、正あるいは真とされるものは、十八世紀末の啓蒙主義、十九世紀以降の科学主義がもたらした大いなる錯覚にすぎない。正と偽は、同一舞台に背中合わせに飾られた第一場と第二場の大道具のごときもので、『正』という第一場を暗転させるのが詩人の仕事である。高柳さんはいちはやく第二場『偽』の住人となり、さらに奈落に下り立って懸命に舞台を廻そうとした人であった。それを念うと、子規以降のいわゆる伝統俳人の営みは、折角の『偽書』を『正書』に仕立て直そうとするはかない努力であったような気がしてならない」。その意味するところのものは十全ではないけれども、要する、「高柳重信の多行式俳句の世界は、日常の世界から発生するのではなく、その異次元の『偽』の世界であり、『虚』の世界のもの」という理解のように思われる。そして、高橋龍さんがいわれる「子規以降の伝統俳人の営み」は「実(現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」という営みであって、高柳重信の世界は、「虚(非現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」、その営みであったということを、高橋龍さんは指摘したかったのではなかろうか。とにもかくにも、高柳重信の多行式俳句の理解については、これらの「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」との、この二方向から見定める必要があるように思われるのである。 ・・・

 ここで、克衛と重信らが目指したものは、この最後の「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」ということを、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」とでも置き換えたいのである。そして、その背後には、克衛が多大な影響を受けたという、ドイツの「バウハウスの造型理念」などが横たわっているという認識である。ここで、「バウハウス」について、ネット記事(「ウィキペディア」)を付記しておきたい。

・・・バウハウス(Bauhaus)は、1919年、ドイツ・ヴァイマル(ワイマール)に設立された美術(工芸・写真・デザイン等を含む)と建築に関する総合的な教育を行った学校。また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間であるが、表現傾向はモダニズム建築に大きな影響を与えた。


(その三)

 北園克衛、高柳重信と来ると、ここは、寺山修司よりも、年代的にも、ジャンルからいっても、塚本邦雄ということになろう。邦雄は重信よりも三歳年長ということになる。邦雄について、ネット記事(「ウィキペディア」)を次に付記しておきたい。

・・・塚本邦雄(つかもとくにお、1920年8月7日 - 2005年6月9日)は、日本の歌人、詩人、評論家、小説家。作家塚本靑史は長男。滋賀県神崎郡(現東近江市)生まれ。神崎商業学校(現滋賀県立八日市南高等学校)、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業[1]。1941年、呉海軍工廠に徴用されたときに友人の影響で作歌を始める。1943年、「木槿」に入会。1947年、「日本歌人」に入会し前川佐美雄に師事。長らく無所属を貫いていたが、1986年に短歌結社『玲瓏』を創刊、以後主宰をつとめる。戦後、商社に勤めながら、中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』で1951年にデビュー。第二歌集『裝飾樂句』(カデンツァと発音する)、第三歌集『日本人靈歌』以下二十四冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。聖書をこよなく愛読したが、無神論者であったという。門下には荻原裕幸、江畑實、林和清、魚村晋太郎、尾崎まゆみ、楠見朋彦など。近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。とりわけ反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性に支えられたその作風によって、『未來』(アララギ系)の岡井隆・『アララギ』の寺山修司等と共に、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与え、その衝撃は穂村弘や荻原裕幸のニューウェーブ短歌にも及んでいる。 よく知られた歌に「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」(『水葬物語』巻頭歌)、「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(『日本人靈歌』巻頭歌)、「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(『日本人靈歌』)、「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(『感幻樂』)など。作品では一貫して旧字旧仮名を用いた。

 このネット記事(「ウィキペディア」)を見ただけで、どうにも、これは、克衛や重信よりも、さらに得体の知れない、いわば「邦雄曼荼羅教」の教祖のようなイメージでなくもない。ここで、上記のネット記事に紹介されている邦雄の「よく知られた歌」とやらを抜き書きしてみたい。

○革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)
○日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)
○突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼(『日本人靈歌』)
○馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ(『感幻樂』)

 これらに語釈を付するとすると、「革命歌作詞家」・「液化してゆくピアノ」・「日本脱出」・「皇帝ペンギン」・「兵士の眼」・「冴ゆる」・「あやむる」などであろうか。しかし、これらの措辞などが理解できたとしても、なかなか、これらの作品に託した邦雄の意図らしきものを感知するのは容易ではなかろう。
また、二首目は、「日本脱出したし□皇帝ペンギンも」と、□のところが一字分空白となっている。三首目は、「突風に生卵割れ、」の句読点がある。また、「擊ち」は旧漢字である。四首目も、「戀はば」と旧漢字で、「冱ゆる」・「あやむる」と旧仮名の文語体が目立つ。そして、何よりも、これらの全てが、いわゆる、短歌の「五七五七七」のリズムではなく、ことごとく、破調のリズムの邦雄節ともいえるものであろう。
ひるがえって、これらの四首を見ていくと、先に、克衛・重信の作品で見てきた、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」(その二で触れた事項)との、この二方向で、邦雄は邦雄のやり方で模索していたということに、気がつくのである。そして、その模索が、克衛や重信と違って、「五七五七七」という伝統的な柵の世界での、ギリギリの挑戦であるところに、何故か、邦雄の歯軋りのようなものも伝わってくるのである。
とまれ、これらの邦雄の作品を鑑賞するのに、克衛・重信の作品と同じように、特に、「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」ということを念頭に置いて、見ていくことが肝要のように思われるのである。
ここで、再び、上記のネット記事(「ウィキペディア」)を見ていくと、「中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』で1951年にデビュー」の、この、殆ど無名に均しかった塚本邦雄を発見して、華々しくデビューさせたところの「中井英夫」という存在も、邦雄の世界を知る上でのキィワードという思いを深くする。
 その中井英夫の「沼の底の悲鳴――塚本邦雄・寺山修司の原点――」(「国文学」昭和五一・一)の、その一端について、次に記して置きたい。

・・・歌壇の旧勢力(何といっても敵は、私の畏敬してやまぬ斎藤茂吉、釈迢空の二人を生きながら神社に祭りあげておき、その神主としてもっともらしい神託を下していたのだから、かなうわけがない)にはまだ到底正面から刃向かうことも出来ず、二十六年の十二月号だったか、今年一年のすぐれた歌集を写真入りで二ページ見開きに出すというときにも、なお無名の新人塚本の『水葬物語』を、大それた、そんなところに入れていいものかどうか、おそるおそる社長の木村捨録にお伺いをたてた記憶がある。

・・・塚本・寺山の原点というとき、二人ながらその初期の作品が物語性に富み、色彩感覚にあふれ、それならばこそ後年、きらびやかな小説や前衛劇に結実したなどとしたり顔にいうことはたやすいだろうが、肝心なのはこの姿勢が初めから共通していること、そしてついに己れの旧作を超えられぬと知ったとき、潔く短歌をやめる決意を持ち続け、一人はすでにそれを実行したこと、これを措いてはあり得ないが、考えて見れば果敢ない話ではないか。

 昭和二十六年当時の邦雄がデビューした当時の歌壇の世界というのは、斎藤茂吉や釈迢空という一大巨峰があり、それらに立ち向かうのに、若干、二十九歳の邦雄(修司に至っては未だ十五歳)をデビューさせたというのは、まさに、破天荒のことであったろう。それよりも、この邦雄らの世界というのは、今なお隠然たる影響を行使し続けている斎藤茂吉や釈迢空の世界とは、別次元のものであり、それらの世界の鑑賞と同じレベルで、上記の邦雄らの短歌の世界を鑑賞しようとしても、それは土台無理ということを、まずもって知るべきであろう。その上で、中井英夫の「塚本・寺山の原点というとき、二人ながらその初期の作品が物語性に富み、色彩感覚にあふれ」の、この「物語性に富み・色彩感覚に溢れている」という特性を、邦雄の短歌の世界を鑑賞する上では、有効なキィワードになるということを、まずもって承知して置くべきなのであろう。
 ここで、これらのことをまとめて見ると、塚本邦雄の短歌の世界を鑑賞するに当っては、
「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」に、さらに付け加えて、「物語性」と「華麗な色彩曼荼羅」とにも視点を当てながら、それらの作品に接することこそが、まずもって要請されるものだ、とでもなるであろうか。
 最後に、この塚本邦雄を発見、そして、デビューさせたところの「中井英夫」について、
ネット記事(「ウィキペディア」)を付記して置こう。

・・・中井 英夫(なかい ひでお、1922年9月17日 - 1993年12月10日)は、日本の短歌編集者、小説家、詩人。推理小説、幻想文学作家。本名は同名。別名に塔晶夫、碧川潭(みどりかわ ふかし)、黒鳥館主人、流薔園園丁、月蝕領主。東京市滝野川区田端に生まれ育つ。父は植物学者で国立科学博物館館長、陸軍司政長官・ジャワ・ボゴール植物園園長、小石川植物園園長等を歴任した東京帝国大学名誉教授の中井猛之進。東京高師附属中(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)で嶋中鵬二や椿實らの知遇を得る。一年浪人して旧制府立高等学校(新制東京都立大学の前身、現在の首都大学東京)に進み、戦時中は学徒動員で市谷の陸軍参謀本部に勤務。東京大学文学部言語学科に復学するが、中退して日本短歌社に勤務、その後角川書店に入社、短歌雑誌を編集する。代表作の長編小説『虚無への供物』は、アンチ・ミステリの傑作として高く評価され、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とともに日本推理小説の三大奇書に数えられる(現在は竹本健治の『匣の中の失楽』も含めて「四大奇書」とも)。その他にも薔薇や黒鳥を基調とした幻想的な作品を数多く発表した。

(その四)

 いよいよ、寺山修司である。「寺山修司の俳句」については、下記のアドレスで簡単な鑑賞を試みた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_26.html

 そこで、その最後の鑑賞あたりに次のようことを記した。

○ もしジャズが止めば凧ばかりの夜
        (「氷海」昭和二十七年七月号・秋元不死男選)

(選後雑感)寺山君のジャズの句は、これはいかにも青年らしい感傷を詠った句であるが、ジャズ よりも凧に心情を走らせている作者の姿が、巧みに表現されている。眼前に聞えているのは凧でなくジャズであるにも拘らず、句のなかからは凧の音が高く、はっきりと聞えてくる。そういう巧みさをもっている

○ 教師とみる階段の窓雁かへる
         (「氷海」昭和二十八年十一月号・秋元不死男選)

(選後雑感)作者は学生である。学生と教師の間をつなぐものは、要するに「学」の需給である。味気ないといえば味気ない関係である。冷たい関係といえば冷たい関係である。 しかし、この句では教師と学生の関係は「学」の代りに「詩」でむすばれている。教師と帰る雁をともにみたということは、友達や恋人とみたことではない。教師とみたという心持のなかには、やはり一種の緊張感がある。その上、雁をともにみたという二人の人間の上には、既に師弟の関係は成立していない。学の需給関係はないのだ。それがわたしには面白いのである。

○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて
       (「氷海」昭和二十九年七月号・秋元不死男選)

(選後雑感)「桃太る」は「桃実る」である。夜になると、何ということなしに怒るじぷんを感じる。白昼は忙しく、目まぐるしいので、怒ることも忘れている、と解釈する必要はなかろう。何ということなく夜になると怒りを感じるのである。そういうとき桃をふと考える。すでに桃はあらゆる樹に熟している。それは「実る」というより、ふてぶてしく「太る」という感じであると、作者 は思ったのである。それは心中怒りを感じているからだ。何に対する怒りであるか、それは鑑賞者がじぶん勝手に鑑賞するしかない。

 寺山修司の、昭和二十七から昭和二十九年の、秋元不死男主宰の「氷海」での不死男選となったものである。修司は当時の俳壇の本流とも化していた、人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、「ホトトギス」の高浜虚子主宰をして、「辺境に鉾を進める征虜大将軍」(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する「天狼」の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった。そして、なかでも、後年、「俳句もの説」(「俳句」昭和四〇・三)で、日本俳壇に大きな影響を与えた、「氷海」の秋元不死男主宰の寺山修司への惚れ込みようはずば抜けていたということであろう。そして、この「氷海」からは、鷹羽狩行・上田五千石が育っていって、もし、俳人・寺山修司がその一角に位置していたならば、現在の日本俳壇も大きく様変わりをしていたことであろう。さて、この掲出句の三句目が、その「氷海」で公表された四ヶ月後の、その十一月に、修司は「第二回短歌研究新人賞特薦」の「チェホフ祭」を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる。そして、この受賞作は、修司俳句の「本句取り」の短歌で、そのことと、秋元不死男氏始め上述の俳人らの俳句の剽窃などのことで肯定・否定のうちに物議騒然となった話題作でもあった。そして、寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの「本句取り」の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ。そのこと一事をとっても、寺山修司という、劇作・歌作などまれに見るマルチニストは、俳句からスタートとして、本質的には、俳句の申し子的な存在であったような思いがする。惜しむらくは、神は、寺山修司をして、その彼の本来の道を全うさせず、その生を奪ったということであろう。

○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば (寺山修司) ・・・

 上記は、修司の俳句についての記述なのであるが、ここでは、歌人としての修司の世界について触れて置きたい。まず、上記の「修司は『第二回短歌研究新人賞特薦』の『チェホフ祭』を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる」の、この「短歌研究新人賞」をプロモーターしたその人は、前回(その三)紹介した、中井英夫、その人なのである。ここで、中井英夫は、次のように記述している(「国文学」昭和五一・一)。

・・・塚本(注・邦雄)には最初から舌を巻き、稟質への危惧はまったくなかったけれども、寺山となると、先に俳句のほうで天才児と騒がれているという噂と、斎藤正二から注意された、いくつかの類字句の問題もあって、果して中城(注・ふみ子)に続く特選にすべきか、それとも第二回は該当者なしとして推薦にとどめるべきか、杉山正樹と二人でさんざん迷ったあげく、目次に入れるべき凸版だけは特選と推薦と二つ作っておき、本人に会った最初の印象でどちらかに決めようということになった。そしてまだ黒の学生服に学帽をあみだかぶりにした本人が初めて日本短歌社を訪ねてきたときは、とっさに推薦の方の合図を送ったほどである。

 この「先に俳句のほうで天才児と騒がれているという噂」というのは、上述の「人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、『ホトトギス』の高浜虚子主宰をして、『辺境に鉾を進める征虜大将軍』(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する『天狼』の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった」ということと軌を一にする。また、「斎藤正二から注意された、いくつかの類字句の問題」というのは、いわゆる、上述の、「寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの『本句取り』の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ」ということに関連したものであった。
 この「本句取り」ということについては、具体的には、上述の、秋元不死男の代表作の、「鳥わたるこきこきこきと罐切れば」という俳句作品を、「鳥は雁」に、「こきこきこきと」は「コキコキコキと」に、そして、「罐切れば」は「罐詰切れば」にアレンジ(再構成・編曲・脚色など)して、「わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば」という短歌作品を創作することである。
 これを「剽窃」(パクリ)と見るか、「等類・類句・同巣=『去来抄』の『前に作りたる句の鋳型に入りて作する句』・『本歌・本句・本説取りの句』」(アレンジ・パロディ)と見るか、古来からさまざまな議論がなされてきたところのものであるが、方向としては、「独創性」を重視する西洋的な「個人創作」を絶対視する立場からは「否定的」に、そして、「連想性」を重視する日本的な「協同・共同創作」も可とする立場からは「肯定的」に解するという傾向にあるのではなかろうか。
 これらの「否定的な考え」と「肯定的な考え」とは、一般的に、「俳句」については、「俳句は十七音であり、かつ季語を必須条件とするため、時として類句が生じるのはやむを得ない。偶然の暗合によってまったく同一の句または類句が生じた時は、制作時期の先行を優先条件として、潔く取り消すほかはない。近年の俳句ブームの影響の一として、俳句大会における類句の頻出が見られる」(『俳文学大辞典』・「類句(山崎ひさを)」)という立場の方が多いのではなかろうか。このことは、「短歌」の世界にも均しく見られることのなのかも知れない。
 とすると、この立場からするならば、寺山修司の「俳句」や「短歌」というのは、否定的に評価される面が多々あるということと、そして、同時に、その危険性が常に内在しているというところに、「寺山修司の創作工房の特色」があるということは、ここで、どうしても触れて置く必要があるのであろう。
この「寺山修司の創作工房の特色」ということに関連して、修司は、「定型という詩型の俳句・短歌」の創作にあたって、去来のいうところの、「前に作りたる句の鋳型に入りて作する句」、すなわち、「定型という鋳型に入りて作する」ことを、十五歳の頃の「青森高校に入学する」頃から、そういう創作姿勢を持ち続け、そして、そこからスタートしているということなのである。
 これらを、上述の作品で具体的に触れてみると、次のとおりとなる。

○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて (修司)
○ 中年や遠くみのれる夜の桃  (西東三鬼)

 修司の、「桃太る」は、三鬼の「みのれる桃」。修司の、「桃太る夜は」は、三鬼の「遠くみのれる夜の桃」。修司の「怒りを詩にこめて」の「て留め」は、三鬼の「中年や」の「や切り」にアレンジされていると見ることも可能であろう。
 そして、「修司の心の創作工房」というは、まずもって、「五七五」という「定型の鋳型」があって、そこに、「桃・太る・実る・みのる・夜・朝・昼・怒り・嘆き・詩・歌・句」などなど、さまざまな語句や切字を散りばめて、そして、「これで好し」とする「語句・スタイル」を探し当て、それをもって「一句とする」という、そういう姿勢が基本的な作句スタイルのようなのである。

○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば(修司)
○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば           (秋元不死男)

 これらについては、先に触れたところであるが、その上述のものに付け加えて、まずもって、修司の眼前には、「五七五七七」という「定型の鋳型」がある。そして、その「定型の鋳型」を見ていると、私淑する秋元不死男の一句が想起してくるのである。そして、「鳥」は、和歌・連歌の時代から詠い継がれてきたところの、「雁」に変身をするのである。その古典的な「雅語」に対して、ここは、平仮名表記の「こきこきこき」が、「俗語」の無機質的な「コキコキコキ」が絶対的な「擬態語」・「擬音語」(オノマトペ)として動かないものとなってくる。そして、俳句の下五の「罐切れば」は、短歌の下の句(七七)の七の「罐詰切れば」と、これまた、動かない。それらの骨格が出来上がって、その後は、「スラスラスラ」と「わが下宿・北へゆく『雁』・今日見ゆる・『コキコキコキ』と・『罐詰切れば』」が、口をついて出てくるのである。

 これらの、修司の「心の創作工房」で推敲に推敲を施した「俳句・短歌」というものを、「類句」の世界、あるいは、「剽窃句」の世界のものとして、一顧だにしないという鑑賞姿勢は許されるのであろうか。その是非は、ここでは、これ以上、触れないこととする。そして、次のことを、どうしても触れて置きたいのである。

 これまで見てきたところの、克衛・重信・邦雄の創作の世界が、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」とに、大なり小なり、それらを意識したものと理解されるように、修司もまた、「これらの定型という詩型の短歌・俳句という鋳型の何たるかを知り、それを最高限度に活かし切った類稀なる創作人であった」と、丁度、「克衛・重信・邦雄の創作の世界」との逆接的ともいえるところの、その一変容のような思いを深くするのである。


(その五)

 一巡して、再び、克衛とも思ったが、二巡目のトップは、修司でいくこととする。まず、ここで、一九五四年、修司、十八歳のときに、第二回短歌研究新人賞を受賞したところの、「チエホフ祭」を見てみたい(下記の○印。これは、下記のアドレスによっている)。

http://www.d9.dion.ne.jp/~sachiee/

 これらの作品を、『寺山修司全歌集』(一九八二年刊)と照らし合わせて見ていくと、一九五九年の、二十二歳のときの、第一歌集『空には本』 (「チエホフ祭」・「冬の斧」・「直覚の空」・「浮浪児」・「熱い茎」・「少年」・「祖国喪失」・「僕のノート」)では、「チエホフ祭」の章(二十七首)以外に分散されて収載されてくる(下記の▲印)。
 修司は、この第一歌集『空には本』に先立って、一九五八年に、『われに五月を』を刊行し、それらは、後に、『寺山修司全歌集』では、「初期歌篇」として収載されるのだが、その「初期歌篇」からの「チエホフ祭」のものは下記の△印である。
これらを見ていくと、修司、十八歳のときの、第二回短歌研究新人賞を受賞したところの、「チエホフ祭」の作品群というのは、修司が、青森高校に入学して、俳句・短歌の創作を始めた十五歳の頃から、その受賞に輝いた十八歳までのもののうちの秀歌を網羅していると解せられるのである。
そして、これらの作品には、当時、同時並行して創作していた「俳句」(五七五)を「短歌」(五七五七七)にアレンジ(再構成)したものも、当然のごとくに察知されるのである(下記の※印。その本句の俳句。ここでは二例のみ上げたが、詳細に検討していくと相当数にのぼると思われる)。それに加えて、当時の俳壇の、秋元不死男・西東三鬼・平畑静塔・中村草田男・加藤楸邨・石田波郷・大野林火らのアレンジかというのも、これまた、ここでは指摘をしていないが、相当数にのぼると思われるのである。
 これらのことが、修司の名高い「チエホフ祭」の短歌周辺のことなのであるが、その上で、あらためて、下記の作品群を見ていくと、やはり、修司を発見した、中井英夫が驚嘆して賛辞を憚らなかった、その全貌が見えてくる。
 ここで、修司が俳句の方で最も傾倒したと思われる秋元不死男や西東三鬼の盟友の平畑静塔の「定型不実論」(『俳人格』所収「不実物語」・「私の定型感入門」)というものに触れて置きたい。

・・・ある意味では俳人は、歌手であって作曲家ではないと思う。曲譜はもはや定まり切った十七型という万人共通のものしか与えられていない。その曲譜をどう工夫して上手に歌いこなすかに俳人の仕事がかかっている。

・・・俳句の内容(素材と言ってもよい)だとか、中身の思想とかは言ってみれば作詞家の仕事なので、俳人は作詞と歌手を兼ねていると言えぬことはあるまい。

・・・歌手の唄う場面を見聞すると作詞などはそれほど大して役に立っていない。いかに上手にその曲を歌いこなすか、どういう表情で、どんな衣装を着て、どんな身振りで一曲を歌うかに歌手の力倆がかかっているのである。

・・・唄うことは幼児を見れば分かるように、初めは真似ることから始まるのである。真似るということは当然前人の定まった型があって、それを何べんも何べんも繰り返すことである。唄うのは人間自然の本能ではあっても、唄う術は真似することで身に付くのである。

・・・俳句の定型を誰が一番初めに創造したのかは不詳である。何百年か何千年の昔から続いていることは確かで、その後何億の人間が、それを真似して唄って今日まで続けているのだ。誰もその定型をこわして別に独創の曲譜を完成した人はいないのではないか。

・・・真似することが俳句の定型を何百年支えてきたことを思えば、真似することがどれだけこの定型文化を生んだ原動力であったことか量り知れないくらいである。

・・・これだけ長い間、無数の人間が真似しつづけてゆけるのは、この定型という曲譜が、人間を安心さす力があるからではないか。最高のお手本だから、誰でも彼でもこれに則って真似してゆけるのだ。

・・・毒にも薬にもならぬという諺があるが、真水のように万人が安心して口をつけられるということ、つまり俳句の定型には、もはや毒気も薬気もすっかり洗い落とされてしまって、万人向きに濾過されてしまったあげくの淡白な本質がかもし出されているということである。

 長い引用になったが、「俳句・短歌の定型が曲譜で、歌人・俳人は、作詞家兼歌手、若しくは、一介の歌手に過ぎない」という考え方である。ここで、「作詞家兼歌手」と「一介の歌手」との区別は、「本歌・本句・本説取り」を専らとする作家とそうでない作家とを一つの目安とすることも一つの便法であろう。とすると、 その目安の前者は、「一介の歌手」、そして、後者は「作詞家兼歌手」ということになる。
この区分・目安からすると、まさに、歌人・寺山修司も、俳人・寺山修司も、丁度、演歌界の「美空ひばり」のように、抜群の歌手、唄い手ということになる。また、歌人・塚本邦雄や俳人・高柳重信は、短歌、そして、俳句の定型に、もう一度「毒気や薬気」を注入せんとしての「作詞家兼歌手」という形相であろうか。そして、詩人の北園克衛は、さながら「作曲家」というイメージなのである。
 これは、極めて大雑把な見方で、それだけに危険な要素を内包しているけれども、要は、「短歌・俳句のオリジナリティ」というのは、「作曲家・作詞家兼歌手・歌手」との三句分
により、それは、それぞれに異なって理解されるべきものではなかろうかという考え方である。
 この観点からするならば、歌人・寺山修司の「チエホフ祭」でのデビューに際して、「模倣小僧あらわる」などの凄まじい拒絶反応は、真に、「短歌・俳句の定型」と、そして、「短歌・俳句のオリジナリティ」と、はたまた、「俳人にして歌人・寺山修司」の何たるかを理解しない、曲学阿世の輩ということになるのではなかろうか。

 はなはだ、寺山修司贔屓の論理の展開になってしまったが、とにもかくにも、十八歳の寺山修司の下記の作品を、何の色眼鏡を掛けないで、じっくりと味わって欲しとの、この一点につきる。この「寺山修司を抜きにして、現代短歌を語ることはできない」(中井英夫著『黒衣の短歌史』)と、さらに、それを拡げて、「現代俳句についても然り」ということを、ここで特記をして置きたいのである。

(「チエホフ祭」)

○▲マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(「祖国喪失」)
○▲一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき(「チエホフ祭」)
○△そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット(『初期歌篇』)
○△胸病みて小鳥のごとき恋を欲る理科学生とこの頃したし(『初期歌篇』)
○△草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ(『初期歌篇』)
○△とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を(『初期歌篇』)
○ わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ
○△吊されて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフをはじめて読みき(『初期歌篇』)
○△ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん(『初期歌篇』)
○△雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌(『初期歌篇』)
○ 一つかみほど苜蓿うつる水青年の胸は縦の拭くべし
○△俘虜の日の歩幅たもちし彼ならむ青麦踏むをしずかにはやく(『初期歌篇』)
○▲すこしの血のにじみし壁のアジア地図もわれも揺らる汽車通るたび(「祖国喪失」)
○▲※チェホフ祭のビラのはられて林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび(「チエホフ祭」) (林檎の木ゆさぶりやまず遭いたきとき)
○▲父の遺産のなかに数えむ夕焼はさむざむとどの時よりも見ゆ(「冬の斧」)
○△胸病めばわが谷緑ふかからむスケッチブック閉じて眠れど(『初期歌篇』)
○ すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を超えて来し郵便夫
○▲※桃いれし籠に頬髭おしつけてチェホフの日の電車に揺らる(「チエホフ祭」)(チエホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き)
○△煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし(『初期歌篇』)
○ うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く
○ わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む
○△ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし(『初期歌篇』)
○▲勝ちながら冬のマラソン一人ゆく町の真上の日曇りおり(「祖国喪失」)
○△海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(『初期歌篇』)
○ 転向後も麦藁帽子のきみのため村のもっとも低き場所萌ゆ
○ やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく
○△蝶追いし上級生の寝室にしばらく立てり陽の匂いして(『初期歌篇』)
○▲北へはしる鉄路に立てば胸いづるトロイカもすぐわれを捨てゆく(「冬の斧」)
○△罐に飼うメダカに日ざしさしながら田舎教師の友は留守なり(『初期歌篇』)
○△すぐ軋む木のわがベッドあおむけに記憶を生かす鰯雲あり(『初期歌篇』)
○ ある日わが貶しめたりし天人のため蜥蜴は背中かわきて泳ぐ
○ うしろ手に春の嵐のドアとざし青年はすでにけだものくさき
○ 晩夏光かげりつつ過ぐ死火山を見ていてわれに父の血めざむ
○ 遠く来て毛皮をふんで目の前の青年よわが胸うちたからん
○ 夾竹桃吹きて校舎に暗さあり饒舌の母のひそかににくむ
○▲誰か死ねり口笛吹いて炎天の街をころがしゆく樽一つ(「熱い茎」)
○ 刑務所の消燈時間遠く見て一本の根をぬくき終るなり
○ 製粉所に帽子忘れてきしことをふと思い出づ川に沿いつつ
○△ラグビーの頬傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに(『初期歌篇』)
○ ぬれやすき頬を火山の霧はしりあこがれ遂げず来し真夏の死
○▲夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでもゆけどわが影を出ず(「熱い茎」)
○ 胸にひらく海の花火を見てかえりひとりの鍵を音たてて挿す
○▲わが内の少年かえらざる夜を秋菜煮ており頬をよごして(「少年」)
○▲サ・セ・パリも悲歌にかぞえむ酔いどれの少年と一つのマントのなかに(「少年」)
○▲外套を着れば失うなかにあり豆煮る灯などに照らされて(「冬の斧」)
○▲冬の斧たてかけてある壁にさし陽は強まれり家継ぐべしや(「冬の斧」)
○ 墓買いに来し冬の町新しきわれの帽子を映す玻璃あり
○▲口あけて孤児は眠れり黒パンの屑ちらかりている明るさに(「浮浪児」)
○ 地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり


(その六)

 前回(その三)の塚本邦雄のところでは、邦雄の作品については、殆ど触れることが出来なかったので、ここで、そのとき上げた作品の鑑賞などについてより詳しく触れて見たい。

○ 革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)
○ 日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)
○ 突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼(『日本人靈歌』)
○ 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ(『感幻樂』)

 これらの句について、『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』では、「坂本邦雄の韻律」として、「切分法・初句七音・結句六音」などの指摘をしている。これらのことについて、次のように記述している。

・・・塚本邦雄の韻律といえば、第一に、句またがりの多用によって五・七・五・七・七のリズムを分断し、あるいは句を強引にくっつけることで、それまでなかった新しい抒情を成立させたことがある。短歌における切分法の導入である。

・・・掲出一首目は、意味通りに読むと「革命歌作詞家に・凭りかかられて・すこしづつ・液化してゆく・ピアノ」となり、十・七・五・七・三のリズムとなる。一方で、従来の短歌のリズムで読むと「革命歌・作詞家に凭り・かかられて・すこしづつ液化して・ゆくピアノ」となる。前者のように読むときも、本来の短歌の律は作品の裏側に張り付いてくる。逆に後者のように読んでも、十分に意味はとれる。これは塚本の句またがりが、文節は容赦なく分断しつつも語はめったに分断しない、という自主規制をかけているからである。

・・・「革命歌作詞家」や「皇帝ペンギン飼育係り」への強い皮肉は、短歌の音数律を基盤とするこのリズムをもってはじめて可能となった。

・・・塚本の律を特徴づける第二の点が初句七音の字余りである。(掲出三首・四首は)七音を入れることで頭が重くなるが、初句に二つの文節を入れるのが容易になり、迫力のある歌となる。『感幻楽』以後の塚本に頻出し、古典歌謡への接近とともに、塚本短歌が伝統的なものと一体化することにつながった。大岡信は、塚本の初句七音に対し、「典雅で斬新な歌謡調」と賛辞を送っている。・・・

 続いて、次の二首を例示として、「結句六音」の記述をしている。

○ 夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが(『閑雅空間』)
○ 秋風に思ひ屈することあれど天なるや若き麒麟の面(つら)(『天使の書』)

・・・結句六音は、塚本流のヒステリックな詠嘆である。掲出の二首はともに中期塚本の傑作だが、結句の字足らずは、塚本個人の詠嘆と現代短歌という文芸そのものの詠嘆が重なりあうような場所で、思い切って放たれているようだ。初句七音は多くの若手の真似するところとなったのに対し、結句六音は塚本以外にはまず使えないものである。・・・

 塚本邦雄の「切分法・初句七音・結句六音」について、成程と思うと同時に、俳句の世界においても、芭蕉以前の初期俳諧の時代から、「切字・字余り・字足らず・句またがり」というのは、「本歌・本句取り」の技法と同じく、それぞれの俳人が、それぞれのやり方で、実践・試行をし続けてきたものであった。すなわち、決して目新しいものではないのだ。
それよりも、同時代の、前衛俳人・高柳重信が実践した「多行式俳句」の方が、邦雄の「切分法」よりも、より革新的であろう。今、上記の掲出のものについて、それを応用して見ると次のとおりになるであろう。

○革命歌作詞家に
 凭りかかられて
 すこしづつ
 液化してゆく
 ピアノ

○日本脱出したし
 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

○突風に生卵割れ
 かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼

○馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで
 人戀はば人あやむるこころ

○夢の沖に鶴立ちまよふ 
 ことばとはいのちを思ひ出づる
 よすが

○秋風(しうふう)に
 思ひ屈する
 ことあれど
 天(あめ)なるや
 若き
 麒麟の
 面(つら)

 こうなってくると、前衛詩人の北園克衛の次のような詩と重なってくる。

(死と蝙蝠傘の詩)

  星
  その黒い憂愁
  の骨
  の薔薇

  五月
  の夜
  は雨すら
  黒い

  壁
  は壁のため
  の影
  にうつり

  死
  の
  泡だつ円錐
  の壁

  その
  湿つた孤独
  の
  黒い翼

  あるひは
  黒い
  爪
  のある髭の偶像

 また、高柳重信の次のような彼が試行し続けた俳句らしきものにも接近することになろう。

  森
  の 夜
  更 け の
    拝
  火 の 彌 撒
    に
  身 を 焼 
  く 彩
  蛾
 

(その七)

 ここで、再び、北園克衛、塚本邦雄、高柳重信、そして、寺山修司の年代というのを見てみると、克衛が、一九〇二年、邦雄が一九二〇年、重信が一九二三年、そして、修治が一九三五年の生まれで、この四人の中では、邦雄と重信とは、殆ど、同時代に成長して、同じような土俵で、そのジャンルの、短歌、そして、俳句の世界に身を投じていたということが窺い知れる。
 事実、この二人の交遊は、敗戦直後の混沌とした未曾有の日本の大変革期に始まる。重信は、邦雄をして、「彼は『メトード』という雑誌を出していた。手紙を往復しながら、彼は三十一音と全く等量の言葉で、今までの短歌とは全然別の詩を書くことを決意して実験をはじめ、僕も、十七音と等量で今までの俳句と全くちがった詩を決意した」と記しているという(『現代俳句の世界 金子兜太・高柳重信集』)。
 重信の第一句集『蕗子』は、一九五〇年、二十七歳のとき刊行された。その「序」は、重信の俳句の師の富沢赤黄雄が草した。そこで、赤黄雄は、次のとおり記述しているという(『現代俳句の世界 金子兜太・高柳重信集』)。

・・・「彼の詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある」。

・・・「今後更に、より絵画的造型へ近接するのではないかとさえ考えられる」。

・・・「彼の言葉の秩序への極度の追求、純粋の言葉の有機的構成、固定概念の拒否。即ち彼の構成計画は」「常に言葉の不純による詩の時間制の断絶を恐れる詩人本来のものに外ならない」。

・・・「詩の時間制とは」「言葉の有機的統一であろう。即ち彼の言葉の連続性と不連続性の統一を造型性に置こうとする。これが彼の詩の方法である」。

・・・「彼のしばしば採らざるを得ない多行形式の」「必然性がここにある」。

・・・「俳句といふ短詩を一行詩だと強硬に定義づける人々は、何故に俳句は一行詩でなければならないのかといふその必然を、伝習や技術の上からでなく、その本質にあひわたつて明示する責任をとらねばなるまい」。

・・・「ともあれ高柳重信は、今日この一書を彼の最初の実験として提示した」。

 この重信の「詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある」という基本的な考え方は、北園克衛らが試行した、「ことばの意味よりも文字のかたちを重要視したり、一行に一語の詩、『連』が三角形になる詩など、形状やパターンに独特の視線を注いで興味深い成果を導いた」ところの、克衛の「抒情・和風・実験の三つの詩群」のうちの、その「実験」の詩群の中に、それらの原型を見ることが可能であろう。
 そして、ここで面白いことは、重信が生を享けた、一九二三年の関東大地震に前後して席巻したのが、克衛らの「前衛派」であり、これらのところを、ネット記事(「ウィキペディア」)では、克衛の紹介で、「関東大震災のあと、大正末期から昭和初期にかけて華開いた前衛詩誌文化のなかで活躍、いわゆるモダニズム詩人、前衛詩人の代表格とされる。日本で初めてのシュルレアリスム宣言(連名)を配布したことからシュルレアリスムと関連付けられることが多いが、ごく短期間で離脱し、該当する作品も少量にすぎない。むしろバウハウスの造型理念を視覚的に享受した影響が大きい」と記述しているところである。
 ここでは、この関東大地震に前後しての、これらの「前衛派」的な潮流は、単に、克衛らの詩壇だけに認められるところの流れではなく、俳壇では「自由律俳句」、そして、歌壇では「口語自由律短歌」として、一つの潮流となっていくということを付記して置きたい(これらのネット記事(「ウィキペディア」)は、末尾に載せておきたい)。
 前衛派の詩人、克衛は、それらの潮流の真っ直中に身を置いていたが、短歌の邦雄も、俳句の重信も、その後に続く、大きな変革期の、大平洋戦争の未曾有の敗戦後に、その先行的な克衛らの前衛派的な試行を、大胆に吸収し、それを発展させるという、そういう時代史的背景下にあったということは、ここで指摘をして置こう。
 こういう時代史的背景の中で、先に紹介した、邦雄の次の短歌は、実に暗示的である。

○ 日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)

 この「皇帝ペンギン」というのは「天皇」の、そして、「皇帝ペンギン飼育係り」というのは、「天皇の一臣民」の、その比喩ととらえることも可能であろう。さらに、「皇帝ペンギン」を「古代歌謡から延々と続く日本歌壇」そのものを、そして、「皇帝ペンギン飼育係り」を「邦雄を含めての歌人一人ひとり」を暗示していると理解することも可能であろう。それに続けて、この「皇帝ペンギン」を「短歌・俳句という定型」そのものを、そして、「皇帝ペンギン飼育係り」は、「その定型の奴隷のような歌人・俳人」を比喩しているという鑑賞も、これまた、面白かろう。いずれにしろ、この一首の主題は、「日本脱出したし」であり、それは「新しい戦後のスタート」の決意表明でもあろう。
その邦雄の決意表明は、戦後間もない一九五一年(邦雄・二十九歳)の第一歌集『水葬物語』、一九五六年(邦雄・三十四歳)の第二歌集『装飾楽句(カデンツア)』、そして、一九五八年(邦雄・三十六歳)の、この「皇帝ペンギン」を巻頭歌とする、第三歌集『日本人靈歌』として、結実をしてくるのである。この一連の歌人・塚本邦雄の軌跡というのは、壮大なドラマを見る思いがしてくる。

 さて、重信の第一句集『蕗子』(一九五〇年・二十七歳)は、「タダ コノマボ ロシノモニフクサン ヴイリエ・ド・リラダン伯爵」という前書きがあり、「逃竄の歌」という題名の下の、次の十六句(連)からのものを冒頭にして始まる。

  ※
身をそらす虹の
絶巓
    処刑台

  ※
わが来し満月
わが見し満月
わが失脚

  ※
胸には肋骨
 逃竄なりや
  旅なりや

  ※
佇てば傾斜
 歩めば傾斜
  傾斜の
   傾斜

  ※
裏切りだ
何故だ
薔薇が焦げてゐる

  ※
恋人の 視線のはづれ
ひそかに 死を娶る

  ※
のぼるは夕月
負傷を持つてゐる乳房

  ※
ぽんぽんだりあ
ぱんぱんがある
るんば・たんば

  ※
「月光」旅館
開けても開けてもドアがある

  ※
月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵

  ※
風が死ぬ
胃の腑の中まで逃げてはきたが

  ※
何を葬る
 掌上の露
 足下の露

  ※
墓標の前
 みなうしろむき
 その背の眼

  ※
夜のダ・カボ
ダ・カポのダ・カポ
噴火のダ・カポ

  ※
終らぬ序曲
 終らぬ序曲
終らぬ序曲

  ※

七線
わが箴言をここに書く

 これらの、重信の十六句(連)を見ただけで、二十一歳年長の北園克衛は、「容易ならざる創作人が現われた」と思ったのではなかろうか。そして、三歳年長の塚本邦雄は「好敵手現る」という感慨を懐いたのではなかろうか。十二歳年下の寺山修司は、この句集が刊行された、一九五〇年には、十四歳で、「青森市歌舞伎座に引き取られポーを読みふける」と、いまだ、「俳句・短歌・詩」の世界は未知の世界であったのかも知れない。
 なお、この重信の「リラダン伯爵」については、次のアドレスの「松岡正剛の千夜千冊」
で紹介されている。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0953.html

(自由律俳句)

明治時代後期、河東碧梧桐が新傾向俳句を創作したことに始まる。明治44年(1911年)に荻原井泉水が俳誌『層雲』を主宰し確立された。当初、碧梧桐も層雲に加わっていたがのち離脱した。大正時代になると自由律俳句を代表する俳人として層雲より尾崎放哉、種田山頭火が登場する。一方、層雲を離脱した碧梧桐は大正4年(1915年)、俳誌『海紅』を主宰。中塚一碧楼がこれを継ぎ自由律俳句のもう一つの柱となった。尚、この一碧楼が自由律俳句の創始者とする見方もある。しかしながら、自由律俳句は放哉、山頭火の活躍した大正時代~昭和初期以降衰退している。昭和時代の終盤に放哉に影響を受けた夭折の俳人住宅顕信が登場する。平成に入り、山頭火がクローズアップされ自由律俳句の再評価がなされている。また現実の人物ではないが、いがらしみきお作のぼのぼのに登場するオオサンショウウオのおじいさんが 詠んでいることでもしられる

(口語自由律短歌)

大正13年(1924年)に、石原純の発表した歌が、歌壇において注目を集めた自由律の最初であろう。石原純は、その後、自由律短歌論を展開。やがて、この名称を定着させた。石原の自由律短歌は旧来の文語体ではなく口語体を採用していたため、自由律短歌はそのまま口語短歌運動と結び付き、口語自由律短歌として発展してゆく。昭和時代になると、金子薫園、土岐善麿、前田夕暮も参加し、口語自由律短歌は興隆期を迎える。特に、前田夕暮は、主宰する結社全誌をあげて自由律を提唱し、自由律短歌集を次々と刊行して、口語自由律短歌の代表作を残した。しかし、昭和10年代半ばには、全員、定型歌に復帰している。昭和末期、ライトヴァース短歌と呼ばれた、加藤治郎、荻原裕幸、穂村弘らが発表した、記号短歌や、散文に近い、字余り・字足らずの多い短歌群は、昭和初期の口語自由律に通じるものとも言えよう。

(その八)

 先(その七)に、「この重信の『詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある』という基本的な考え方は、北園克衛らが試行した、『ことばの意味よりも文字のかたちを重要視したり、一行に一語の詩、『連』が三角形になる詩など、形状やパターンに独特の視線を注いで興味深い成果を導いた』ところの、克衛の『抒情・和風・実験の三つの詩群』のうちの、その『実験』の詩群の中に、それらの原型を見ることが可能であろう」ということに触れた。
 この克衛の「抒情・和風・実験」というのは、『北園克衛全詩集(藤富保男編)』の「北園克衛の詩を俯瞰する(藤富保男稿)」では、「リリカルな作品・郷土詩の作品・実験的な作品・(その他の傾向の作品)」の四つの詩群に分類している。そして、克衛というと、これらの詩群のうちで、特に、「実験(実験的な作品)」の詩群が夙に知られていると指摘することができよう。
 ここで、克衛の「全著作一覧」を、上記の四つの分類に従い、そのうちの「実験(実験的な作品)」の詩群を中心としての概括は次のとおりとなる。

一 「実験(実験的な作品)」の詩群

第一詩集『白のアルバム』(一九二九年刊・二十八歳)・・・「記号説」(白い食器/花/スプウン/春の午後三時/白い/白い/赤い/・・・) 「図形説」(空中運動・水中運動・宇宙論・整形手術・非常な文明・貴婦人・美麗な魔術家・水中映画・空中映画・飛行船の伝説・空中魚)
・・・「この第一詩集は生活と観念を捨て感情的な起伏などを抑え、彼が知的操作によって詩を創造するという態度を打ち出した仕事だと言ってよい」(藤富保男)。
第四詩集『円錐詩集』(一九三三年刊)
第九詩集『固い卵』(一九四一年刊)
第十二詩集『黒い火』(一九五一年刊)・・・「戦後六年目に、ついに北園は彼の詩集のピークと目される『黒い火』を出す」(藤富保男)。※「死と蝙蝠傘の詩」
第十四詩集『真昼のレモン』(一九五四刊)・・・「戦後の暗い隧道を抜けきった北園の安定した高気圧の拡がりを象徴しているかにみえる」(藤富保男)。
第十七詩集『ガラスの口髭』(一九五六年刊)・・・「彼の実験は一見華麗に見えるが、ここでは滅却、消去、削除の方向に狙いを向けているのに注目すべきであろう」(藤富保男)。
第十八詩集『青い距離 パピルス・プレス』(一九五六年刊)
第十九詩集『煙草の直線』(一九五九年刊)・・・「結論的に言うと無調音楽に等しくなる」「このころすでに世界の詩の動きにコンクリート・ポエトリィがさかんになって、彼のこの傾向の詩は外国の詩人たちに多くの注目を受け、ポルトガル語訳の『煙の直線』も出たことを付記しておこう」(藤富保男)。※※「単調な空間」
第二十一詩集『眼鏡のなかの幽霊』(一九六五年刊)
第二十二詩集『空気の箱』(一九六六年刊)
第二十三詩集『Moonlight night in a bag』(一九六六年刊)
第二十五詩集『Study of man by man』(一九七九年刊)
第二十六詩集『BLUE』(一九七九年刊)
第二十七詩集『色彩都市』(一九八一年刊)
第二十八詩集『北園克衛詩集』(一九八一年刊)
第二十九詩集『北園克衛全詩集』(一九八三年刊)

二 リリカルな作品群(抒情)

第二詩集『若いコロニイ』(一九三二年刊)
第三詩集『Ma petite Maison』(一九三三刊)
第六詩集『夏の手紙』(一九三七年刊)
第八詩集『火の菫』(一九三九年刊)
第十一詩集『砂の鶯』(一九五一年刊)
第十三詩集『若いコロニイ(定本)』(一九五三刊)
第十六詩集『ヴイナスの貝殻』(一九五五年刊)

三 郷土詩の作品群(和風)

第五詩集『鯤』(一九三六刊)
第十詩集『風土』(一九四三年刊)
第二十詩集『家』(一九五九年刊)

四 その他の作品群

第七詩集『サボテン島』(一九三八刊)
第十五詩集『BLACK RAIN』(一九五四年刊)
第二十四詩集『白の断片』(一九七三年刊)
『黒い招待券』(一九六四刊)=短編小説集
『句集 村』(一九八〇刊)=句集
『天の手袋』(一九三三刊)=評論集
『句経』(一九三九年刊)=評論集
『ハイプラウの噴水』(一九四一年刊)=評論集
『郷土詩論』(一九四四年刊)=評論集
『黄いろい楕円』(一九五三刊)=評論集
『Les petites justes(ポール・エリュアール)』(一九三三刊)=訳詩集
『恋の唄(ステファン・マラルメ)』(一九三四年刊)=訳詩集
『火の頬(レイモン・ラディゲ)』(一九五三年刊)=訳詩集

 上記の膨大の著作集(詩集)のうちで、これまでに、「単調な空間」(※※印・「その一」で紹介)と「死と蝙蝠傘の詩」(※印・「その六」で紹介)の二編の作品に触れたに過ぎない。そして、これらの詩群の克衛の個々の作品に触れることは、これは、まずもって至難と言わざるを得ないであろう。
 しかし、幸いのことに、ネットの世界では、克衛の紹介というのは充実しており、それらを活用して、これからますます、この克衛の再評価というのは為されていくものという予感を抱いている。
 ここでは、下記のアドレスの「北園克衛文庫」の紹介と、そこで紹介されている「日本の視覚詩の運動について --- VOUとASAを中心に」(建畠晢)のうちの、「コンクリート・ポエトリィ」関連についてのみ、その紹介をしておきたい。

(北園克衛文庫)

http://bunko.tamabi.ac.jp/bunko/kitasono2002_trial/k-home.htm

「日本の視覚詩の運動について --- VOUとASAを中心に」(建畠晢)

http://bunko.tamabi.ac.jp/bunko/kitasono2002_trial/k-tate.htm

 コンクリート・ポエトリーは、その前史を、ステファン・マラルメの「骰子一擲」の語の配列の空間性やアポリネールのカリグラム、ルイス・キャロル、ガートルド・スタイン、エズラ・パウンド、E. E. カミングス、あるいは未来派のタイポグラフィックな表現やダダのコラージュ等に見出すことができる。しかしゴムリンガーらの提唱は、それらの先駆的な試みを、方法論的にさらに徹底させ、詩を純粋に言葉の物質性(音とかたち)の上に位置づけようとするものであった。すなわち、詩の在来のシンタックスや線行による構成の制約から解放して、紙面という一つの空間の中に、文字を、もっぱら視覚面や音響面での効果に寄りながら配置するのである。コンクリートの概念は、したがって言葉は物質であるというテーゼによって、究極的には詩の構造がそのまま詩の内容であることを目ざしたものであるといえる。もっとも実作においては、ゴムリンガーとノイガンドレスの方法はかなり異なっており、前者が構造=内容を文字の配置による「星座」(Konstellation)として実現したのに対し、後者は主にイデオグラムの操作によってグラフィックな空間を強調しようとした。
 さて北園の「単調な空間」は4つの章からなるが、例えばその最後の章は次のようなものである。
  
白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角

この作品は一応、行分け詩の体裁をもっているが、彼の詩論にあるように「言葉がもっている一般的な内容や心要性を無視して、言わば言葉を色や線や点のシムボルとして使用」[4]としていること、「いわゆるアレゴリイとかシンボルとかメタファなどを利用して詩を書かないこと、つまり『意味によって詩を作らない』で『詩によって意味を形成』するにとどめる」[5]こと、等の方法において、かなりコンクリート・ポエトリーの概念に近いものであった。ヴィニョーレスの仲介によって、「単調な空間」はノイガンドレスに紹介され、その代表者アロルド・デ・カンポス(Haroldo de Campos)は、1958年にこの詩を日本のコンクリート・ポエトリーとしてサンパウロ州新聞文芸欄にポルトガル語で翻訳発表している。しかしそのような海外での評価にもかかわらず、北園自身はコンクリート・ポエトリーの運動に主体的に参加することはなく、むしろ60年代に入ると、後述するようにコンクリートの“教義”とはおよそ対極的なプラスティック・ポエムを唱えるようになった。

(その九)

 三巡目のトップは、前回(その八)に続き、北園克衛でいくこととする。克衛については、死後、『北園克衛 エッセイ集』(二〇〇四年刊)が刊行された。そのうちの「前衛の行方」というのが面白い。

・・・「文学」 いずれ言語はモールス信号のようなものになるだろう。
・・・「音楽」 音楽はその時空の比例を逆転して音響芸術となるべきであろう。

 この「文学 ・・・いずれ言語はモールス信号のようなものになるだろう」というのは、もう既に、重信の次のようなもの(その二で紹介)では、「モールス信号のようなもの」といっても良いのではないかと、そんなことを実感する。

・・・  ●●○●
     ●○●●○
     ★?
     ○●●
     ―○○●

 いや、短歌(三十一音字)や俳句(十七音字)の世界では、その作品は氷山のほんの一角で、その海面には、膨大な謎の世界のようなものが蠢いている。その謎めいたものを探りあてる面白さが、短歌や俳句という短詩型の世界の鑑賞の魅力の一つなのかも知れない。
 克衛には、『句集 村』というのがあり、俳句にも造詣が深かったのだろう。ネット記事(日刊・この一句)で、坪内稔典の鑑賞ものを目にした。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_1201.html

・・・2002年12月5日 役僧の青き頭巾や冬木立 (季語/冬木立) 北園克衛
 役僧は法会などで導師を補助する僧。その役僧が冬木立の道を歩いている。法会などの準備のためだろうか、早足だ。僧の青い頭巾が枯れた木立の中で一層青く鮮やか。
 作者は1902年生まれのモダニズムの詩人。詩集に『白のアルバム』などがある。俳句雑誌「風流人」によって俳句も作り、没後の1980年に句集『村』が出た。「瓢箪のくびれて下る暑さかな」「冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁」「僧坊に病む人のあり大糸瓜」「白塗りの船の行方や鰯雲」「初富士や葱より高く二三寸」「秋晴や土新しき切通し」「古文書をまたよみかへす若葉かな」。これらが『村』にある句だが、初富士を葱畑の彼方に望んだ句の構図がおもしろい。ちなみに、今年は克衛の生誕百年。それで「現代詩手帖」11月号が特集を組んでおり、俳人・小澤實の評論「北園克衛、その俳句」が載っている。(坪内稔典)

 ここで、紹介されている、克衛の俳句を抜き書きして見ると次のとおりとなる。

○ 役僧の青き頭巾や冬木立
○ 瓢箪のくびれて下る暑さかな
○ 冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁
○ 僧坊に病む人のあり大糸瓜
○ 白塗りの船の行方や鰯雲
○ 秋晴や土新しき切通し
○ 古文書をまたよみかへす若葉かな

 これらの克衛の句作というのは、先(その八)の「抒情・和風・実験」という区分からするならば、「和風」という区分けに入るものなのかも知れない。上記の七句を見て、克衛俳句の特徴は、「切字・切れ」の重視というようなものが窺える。 
 「役僧の青き頭巾や冬木立」(中七「や」切り)、「瓢箪のくびれて下る暑さかな」(下五の「かな」留め)、「冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁」(中七「あり」で切れ、二句一章体)、「僧坊に病む人のあり大糸瓜」(中七「あり」で切れ、二句一章体)、「白塗りの船の行方や鰯雲」(中七「や」切り)、「秋晴や土新しき切通し」(上五「や」切り)、「古文書をまたよみかへす若葉かな」(下五の「かな」留め)と、「や・かな」の古典的な「切字」の多用と、俳句の基本的なスタイルの「二句一章体」(中七で切り、下五の体言留めの二句一章体)を基本にしているという雰囲気である。
 もとより、「冬木立・暑さ・冬瓜・大糸瓜・鰯雲・秋晴・若葉」と、これまた、「有季・定型派」の伝統的なスタイルで、「自然諷詠」・「人事諷詠」も一方付かず、「モダニズムの詩人」の、その「モダニズム」を拒否しているような姿勢で、それが却って心地よい雰囲気である。

 克衛には、「雪と蕪村の句」・「『古池』と『御手討』」というエッセイがあり、芭蕉よりも蕪村好きということを鮮明にしている。

・・・日本の詩にとって芭蕉のリリシズム(注・芭蕉以前の主知主義のトリピアルに比して)の勝利が果してプラスになったかどうかは疑問である。

・・・蕪村は芭蕉の単純なリリシズムにドラマチックな要素を加えた俳人として代表的な存在である。芭蕉流の俳句が知的な要素をとりもどし、詩としての全体的なアウトラインを回復するために五十年以上の歳月を要したことになる。

・・・明治の俳人子規が蕪村の句に傾倒していたことは周知のところであるが、かれは蕪村の鋭い描写力を学んだにすぎなかった。

・・・子規の写実主義俳句は現代俳句への新しいリアリズムの道を切り開いたが、俳句はふたたび創造性を失うことによって、詩としての全体的なアウトラインをもたないものとなってしまったのである。

 この「ドラマチック」ということは、「虚構性」ということであり、詩人・克衛、俳人・重信、歌人・邦雄、そして、マルチニスト詩人・修司も、共通して、蕪村好きということが窺えるのである。ただ、詩人・克衛は、定型の短詩形の「短歌・俳句・川柳」に関して、下記のような一文を、「川柳」というところで綴っており、これらのジャンルと克衛がライフワークとしている「詩」というジャンルでは、相当の距離があるということを明確に自覚していたということは、特記しておく必要があろう。

・・・そもそも俳句とか川柳とかという定型詩(注・短歌も入るだろう)に首をつっこみながら、前衛的な実験をしようとすることは認識不足もいいところであって、まるで現代詩が何のために存在しているのか考えてみたことがないとすれば、川柳長屋(注・短歌、俳句も含めて)に住んでみたところでろくなものの作れるわけがない。


(その十)

 一九九八年五月~六月に、群馬県立土屋文明記念文学館で「戦後俳句の光彩 金子兜太・高柳重信」と題する「第五回企画展」が開催された。この文学館の館長は詩人の伊藤信吉である。その伊藤信吉が、「上州地縁において 御案内ひとこと」と題して、次のように綴っている。

・・・

  空つ風にわかに玲瓏となるときも   兜太

おお上州! 作者名を伏せて読めばこれは上州人の風土感覚そのもの。と言っても作者は埼玉の人。と言っても埼玉は埼玉ながら群馬と地つづきの感の熊谷の人。おなじ空っ風の吹くその地の人。

  暗黒や関東平野に火事一つ      兜太

またしても、おお上州! 遠い日の夜、まっくら闇の野の向うの方に燃えていた火事、音の無くただ燃え立っていた火炎。そうかとおもうと濃い闇の夜の一列の狐火の幻。金子さんの定住漂泊の思いと、即興と造型の同時性の世界。〈地縁同郷〉の人がここに居る。

軍靴に来て/蘆生の/雲雀/絶えにけり  重信

一行句ふうに書き写したけれど、これはもと四行書きの作品。形式破壊、形式革命。会場へ入ってそれを見て下さい。前衛俳句の高柳さんはその多行形式を、四行〈自己定形〉のように形成し、鮮烈な新世界をひらいた。いたるところのその切口の美。

秋山の/赤城を/忘れ/忘れ果て     重信

郷愁なりや。もともと高柳さんは佐波郡境町に墓地のある人。上州の人。それにしても山村暮鳥の形式変革、萩原恭次郎の形式革命。高柳重信の多行変革。おお上州アヴァンギャルドの系譜たち。

・・・
 
 この詩人・伊藤信吉館長の「御案内ひとこと」での、前衛俳人の雄の金子兜太をして、「即興と造型の同時性の世界」、また、高柳重信をして、「前衛俳句の高柳さんはその多行形式を、四行〈自己定形〉のように形成し」という指摘は、実に、当を得ている。また、「山村暮鳥の形式変革、萩原恭次郎の形式革命。高柳重信の多行変革。おお上州アヴァンギャルドの系譜たち」という指摘も、同郷の詩人ならではという思いがする。

 そう言えば、山村暮鳥もまた、「新詩体から口語自由詩への変革期の中で、革新的な作風から人道主義的な作風まで、これほど短期間の間で己の詩質と詩風を何度も変容させた詩人はまれであり」といわれている、まさに「形式変革」の人であった。
 それにもまして、萩原恭次郎になると、己の政治信条(アナーキズム)と文学信条(ダダイズム)と、その二つの面において、前衛派の先頭に立ち、まさに「形式革命」に殉じた詩人であった。その前衛派の拠点誌の一つの「MAVO(マヴォ)」(村山知義らの「日本の戦前のダダ(美術系統)のグループ」)には、若き日の北園克衛らが参加し、それらは形を変えて克衛らの機関誌「VOU(バウ)」とも繋がって行くのである。
 続いて、詩人・伊藤信吉が指摘する高柳重信の「多行変革」とは、戦後の日本俳壇に一大警鐘を鳴らした「多行式俳句」の提示という「多行変革」(重信の師の富沢赤黄男をして「俳句といふ短詩を一行詩だと強硬に定義づける人々は、何故に俳句は一行詩でなければならないのかといふその必然を、伝習や技術の上からでなく、その本質にあひわたつて明示する責任をとらねばなるまい」と言わしめたところ「多行変革」)を意味しよう。
 これらの三人に共通することは、これこそが、詩人・伊藤信吉館長の、「御案内ひとこと」の末尾の言葉、すなわち、「アヴァンギャルドの系譜たち」ということになろう。

「アヴァンギャルド(avant-garde)」とは、一般には、「前衛芸術(または前衛美術)」の意であるが、この「御案内ひとこと」の伊藤信吉の言う「アヴァンギャルドの系譜たち」の「アヴァンギャルド」というのは、広い意味での「保守的な権威に対する『変革・革命』を目指す前衛」ということを意味し、「山村暮鳥・萩原恭次郎・高柳重信」は、その正統な「系譜を継ぐ詩人たち」なのだということを意味しょう。
とすれば、北園克衛も、塚本邦雄も、はたまた、寺山修司もまた、高柳重信と同じく、「アヴァンギャルドの系譜たち」であることにについて、いささかの抵抗も感じないのである。

 ここで、山村暮鳥の『雲』(「序」の「結びの一節」)と萩原恭次郎の『死刑宣告』(「日比谷(詩七篇)」の一篇「地震の日に」) のネット記事のアドレスとその一端を紹介して置きたい。

山村暮鳥の『雲』(「序」の「結びの一節」)

http://www.nextftp.com/y_misa/bocho/bocho_my.html

・・・芸術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの芸術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や真実の行為に相対するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが芸術をして真に芸術たらしめるものである。芸術における気稟の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る叙述、表現にをはつてゐるかゐないかは徴頚徹尾、その何かの上に関はる。その妖怪を逃がすな。 それは、だが長い芸術道の体験においてでなくては捕へられないものらしい。何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。

 萩原恭次郎『死刑宣告』(「日比谷(詩七篇)」の一篇「地震の日に」。この詩は「関東大震災」のものであろう。そして、この「関東大震災」のあった年に、高柳重信は誕生した。)

http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%AE%A3%E5%91%8A

死に誘ふものは分らない

くぢけてしまつた道路の間に
首がころがつて笑つてゐる
裂かれた肉体がはなれて笑つてゐる
破裂した心臓が
ねぢれた儘 動かない

干からびた苦い血を嘗めて
友よ!
————生きて 生きて…………………
両手をひろげて
  その首にかぢりついて
接吻する
血と砂とにむせて乾きついた儘
私は
  固く
————————哭く
その肉体に
————————血をそゝぎ
————————血で洗はふ!
砕けてしまつた市街の上に
彼と我との意思は
蒼ざめて発光する

ころがつてゐる首
焼け残つた白骨
残つた生存は
誰にこれからを捧げやうか
干からびた血と血を嘗めて
友よ!

(その十一)
 ネット情報というのは、図書などの活字情報と違って、瞬時にして、多種・多様な情報を得ることができるという利点がある。下記のアドレスで、「塚本邦雄さんご逝去 -桑原武夫の俳句第二芸術論-」(2005年6月13日)というものを目にした。

http://www.dotcolumn.net/blog/index.php?p=65

・・・

戦後の代表的歌人で前衛短歌運動を主導し、また紫綬褒章ほか数々の受賞をし、後に近畿大学文学部教授を務めた塚本邦雄さんが6月9日亡くなった。それに関して6月10日付、毎日新聞の「余禄」が目にとまった。その記事を掻い摘んでご紹介したい。

俳句は菊作りのようなもので芸術ではない―戦後間もなくこう断じた仏文学者の桑原武夫の「俳句=第二芸術」論に対し、俳人の高浜虚子は「何番目かと思ったら、俳句もやっと第二芸術になりましたか」と動じなかったといわれる。―中略―塚本邦雄さんも第二芸術論に対し真っ向から打ち返した―中略―現実の写生を重んじる短歌に対し、幻想や虚構を歌って心に響く真実を求めてきた塚本さんは自分の仕事をこうも評する。「同じ100でも10の10倍ではなく、マイナス10とマイナス10をかけてできた100。こちらの方が意味がある」以下略 

<このマイナスかけるマイナスの発想が面白い。不屈の前衛文学者らしい言葉だ。>

・・・

 塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』が世に出たのは、一九五一年のことであった。当時の日本歌壇は、「近藤芳美、宮柊二たちのリアリズムが支配的であったためか、和綴じ二色刷りのこの異本も、ほとんど歌壇の目につかなかった」という(『戦後歌人論 現代短歌の二十人(加藤将之編)所収「塚本邦雄(甲山幸雄稿)」)。その巻頭の一首が次の歌である(その三で紹介)。

○ 革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)

 この歌について、「現代短歌全体にとって象徴的な作品である。ここに表現された作詞家の思惟や態度の貧しさ、、底の浅さや偽善は、一人彼だけではなく、戦後という新しい時代全体の浅はかさを示すものであったろう。ダリの有名な絵を思わせる『液化』も、研ぎ澄まされた批判精神がシュールな形象化を見せた姿に見える。韻律だけでなく、喩法においても、従来の短歌に叛逆を試みて成功している」(『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』)との評を見る。
 この「液化してゆくピアノ」は、「ダリの有名な絵を思わせる『液化』」とのことであるが、ここでは、あえて、シュルレアリスムの前衛画家「ダリ」を引き出す必要もないのではなかろうか。ここは、「固体(ピアノ)が液化する(水のように形状をもたないものになる)」ということで、この歌集の題名の『水葬物語』の、あたかも「水中に死体を葬る儀式の物語」を示唆するように、丁度、「固い物が溶けて水に変質し」、「その変質した亡骸の水の弔い」の歌というように理解をいたしたい。
そして、この歌の主題は、「革命歌作詞家に」の初句十音の「革命歌作詞家」にあると解したい。すなわち、「革命歌の作詞家」という理解である。
 『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』では、「革命歌・作詞家に凭り」の「五・七音」に読んでも「十分に意味はとれる」というのだが、ここは、そういう二義的にとらえず一義的にとらえたい。そして、この「革命歌・作詞家」という比喩は、ずばり、当時の一世を風靡していた、上述の「近藤芳美、宮柊二たちのリアリズム」の、その「近藤芳美」その人に焦点をあてていると解したい。

『戦後歌人論 現代短歌の二十人(加藤将之編)所収「否定的近藤芳美論(楠本繁雄稿)」では、当時の、近藤芳美を下記のように記し、その歌を多数引用・鑑賞している。

・・・

 昭和二十二年の「新歌人集団」の結成、二十六年の『新選五人』の刊行、そして、同年の「未来」の創刊、と独歩を始めた芳美は、解き放たれた鳥のように戦後の大気の中ではばたくことになった。自らの志向方法を歌壇の大地にはぐくむことは、阻むもののない自由と共に、手ばなしの危険を孕んだものであったと言える。『埃吹く街』『静かなる遺志』『歴史』『冬の銀河』『喚声』・・・と、めまぐるしい時流の中で、独特の家風をうち樹てていった。

○ 臆しつつ伏字よみたる十年(ととせ)前今臆しつつ若き世代に対す(『埃吹く街』)
○ 機関区を捨てて山中にかくれ行く幾日きれぎれに記事は伝へつつ(『静かなる遺志』)
○ 君の如き徒労と言ひてすむならば其の安けきに吾も逃れむ(『歴史』)
○ 無名者の幾億の遺志が今支う平和なりありありと吾が手に支う(『喚声』)

 これらの近藤芳美に対して、塚本邦雄は、「芸術前衛、政治前衛、その中で、ぼくには政治前衛というのはまったくの虚妄に等しいもので、文学の上で前衛があるなら、芸術前衛以外にない」(『戦後歌人論 現代短歌の二十人(加藤将之編)所収「塚本邦雄(甲山幸雄稿)」)
と真っ向から対立するのである。
 
 こういう理解から、掲出の邦雄の歌を次のような鑑賞も許されるのではなかろうか。

・・・戦後の日本に「有用」な世直しの革命の唄が流れ、その作詞に貪るように取り組んだ詩人たちの熱気に凭りかかられて、まさに、美を奏でる黒い固い鍵盤楽器のピアノすら、その旋律を奏でることもかなわず、少しずつ、少しずつ、まるで、液化するように、水の亡霊となって消え失せてしまった。「有用の唄のなかに美はない。美は無用の唄のなかにある」。それ故に、一度、消え失せてしまった、その幻想の水の亡霊を丹念に手で掬いながら、かって、美を奏でた、在りし日のままに、その水の亡霊の「唯美」に、吾が幻想の「唯美」を重ね合わせながら、もう一度、かつての、美を奏でた黒い固い鍵盤楽器の、そのピアノの「幻の旋律」を世におくりたい。

 はなはだ飛躍した鑑賞になってしまったが、もっと、シニカル(風刺的)なパロディ風(比喩的)に鑑賞するならば、次のようにもなろうか。

・・・時の流れは、革命歌の作詞家のような、プラス志向の、歌人・近藤芳美一点張りである。黒い固い西洋の鍵盤楽器のピアノすら、この近藤芳美の毒気にあたって、まるで、少しずつ、メロメロと液状の水と化してしまうようだ。これでは、どうにもやりきれない。されば、ここは、マイナス志向の「日陰者」の「役立たず」の「メロメロ節」の「隆達節」(注・安土桃山時代の日蓮宗の僧・隆達の、当時流行していた小歌を集め、自ら作詞・作曲を行い独特な声調のその「隆達節」)でも唸って、その「水葬物語」でも綴ることこそ、「衒学趣味・虚構趣味・唯美趣味・露悪趣味・諧謔趣味・幻想趣味・夢想趣味・男色趣味・高踏趣味・造語趣味・聖書趣味・呪術趣味・叛逆趣味・難渋趣味・韜晦趣味・地獄趣味・虚無趣味・エトセトラ」の「負数の王」こと、この塚本邦雄の使命ではなかろうか。

 これもまた、余りにも、独断的の誹りを頂戴することになろうか。とするならば、またまた、振り出しに戻って、不満は不満なのだが、『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』の、次のような鑑賞らしきものを再度付記しておく位が無難であろうか。

・・・ここに表現された作詞家の思惟や態度の貧しさ、底の浅さや偽善は、一人彼だけではなく、戦後という新しい時代全体の浅はかさを示すものであったろう。ダリの有名な絵を思わせる『液化』も、研ぎ澄まされた批判精神がシュールな形象化を見せた姿に見える。韻律だけでなく、喩法においても、従来の短歌に叛逆を試みて成功している。

 最後に、戦後の歌壇の、近藤芳美(芸術前衛と政治前衛とを信条とした)と塚本邦雄(政治前衛を否定し芸術前衛に賭けた)との対比は、戦後俳壇の、同じ「造型派」ながら、金子兜太(芸術前衛と社会性直視の造型派)と高柳重信(社会性忌避と芸術前衛の造型派)との対比と、好一対を示すことを付記するともに、近藤芳美と金子兜太の、ネット記事の一端を付記して置きたい。

(近藤芳美の短歌理論=「ウィキペディア」)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E8%8A%B3%E7%BE%8E

「新しき短歌の規定」において、ごてごてした装飾を配した素材主義をとることを宣言。戦後短歌は、人々の生活の実感に基づいたリアリズムによるべきだと主張しつつ、ややもすると宗匠主義に陥ることのあったアララギを内部から批判し、また、当時さかんであった、人民短歌に代表される日本共産党系の歌人についてもその公式主義や安易さを批判した。結果として、アララギ内部では、歌と政治を峻別しないと批判され、左翼からは傍観者と批判されることになる。(注・「新しい短歌の規定」は「新しい短歌とは何か、それは今日有用の歌である」から始まる。)

(金子兜太の造型俳句論=「戦後俳句の現象学的展開(五島高資稿)」)

http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html

 その俳句革新の理論的根拠となったのが、昭和三十六年『俳句』に掲載された「造型俳句六章」における「造型」の方法であった。そのなかで、兜太は、花鳥諷詠や山口誓子の写生構成を諷詠的傾向、中村草田男らの人間探求を象徴的傾向、富沢赤黄男らに見られる現実を主体の内に求める傾向を主体的傾向と分類している。そして諷詠的傾向ではあくまで対象物を自らの外に置くことによりその在り様を描写するという主客二元論的な観念に捕らわれ易く、また象徴的傾向と主体的傾向では主体への執着することにより芸術的真理からかえって遠ざかってしまう傾向を指摘している。つまり、それらはみな、私があって、その周りに世界もまた無条件に存在しているという安易な主客二元論に陥っているというのである。そこで造型の方法においては、主客の間に「創る自分」と兜太が呼ぶ新しい自我が導入されることにより、主客という二項対立的観念を超えて芸術的真理としての物自体に迫ろうと試みる。そのためには外在する物象について一旦それらを括弧の内に入れて判断を保留するという現象学的エポケーが必要であり、そこから新しい物象世界が再定立されなくてはならない。しかし、エポケーされた物自体としての世界は「原初的世界」であるがゆえに、そこから再構築される世界はややもすると自我中心的世界になりがちである。


(その十二)

「スキャンダリズムの効用(扇田昭彦稿)」(「国文学」昭和五一・一)で、寺山修司について、次のように記述している。

・・・常識的な区分から考えてみても、「寺山修司とはいったい何者なのか?」という単純な問いの前に、私たちはほとんど絶句せざるをえない。職業ジャンルの上からいえば、彼はまず俳人であり、歌人であり、詩人であり、小説家であり、エッセイストである。さらに彼は放送作家、シナリオライターであり、劇作家、演出家、劇団主宰者、映画監督、競馬評論家、テレビタレント、全国家出少年身許引受け人であり、そのうえ『幻想写真館・犬神家の人々』というユニークな写真集を上梓した写真家でもある。

・・・こうした脱領域的なタイプの創造者は、何事につけても、ひと筋の道をひたむきに禁欲的に歩むことをもって尊しとする日本の伝統的芸術風土のなかでは、たちまち異端児、ないしはイカサマ師として扱われるのがつねである。

・・・大正末期から昭和のはじめにかけて「先駆芸術運動の帝王者」(高見順『昭和文学盛衰史』)と形容され、芸術の諸ジャンルの境界線を攪乱したかつての旺盛な前衛芸術家・村山知義との間に、その世評においてある種の類縁性を感じないわけにはいかないのだ(注・村山知義については「その十」で触れた)。

・・・寺山修司によって、スキャンダリズムはふたたび、あらゆるものの奇想天外な出会いの魅惑と両面価値的なバイタリティーの輝きを本来的に回復したのである。

・・・永遠のスキャンダリストとは、あらゆる価値意識の定着化、固定化を拒否するゆえに、つねに流動的、挑発的、攻撃的であり、永遠に自己完結しない半芸術ないしは非芸術の荒野を駆けぬけていく者のことだ。

・・・だからこそ、こうしたトリックスターに浴びせられるのは、つねに畏怖と嘲笑の二つのことばであろう。だが、あらゆる意味で悲劇的、感傷的な意味あいを排除していえば、それこそが価値攪乱者としての寺山修司にはふさわしく、それこそがトリックスターとしての栄光の孤独、あるいは孤立者の栄光なのである。

 永遠のスキャンダリストの寺山修司は、一九八三年五月四日に瞑目した。その瞑目する八ヶ月前の、一九八二年九月一日の「朝日新聞」に、「懐かしのわが家」と題する作品(詩)が掲載された。これが、最後の「遺稿」となってしまった。修司の良き理解者であった、詩人・谷川俊太郎は、次のとおりの、この詩の感想を漏らしたという(『現代詩文庫 続寺山修司詩集』所収「死ぬのは他人ばかりか?(佐々木幹郎稿)」)。

・・・寺山は最後に名作を遺したんだよ。あの一作だけで寺山の詩集は充分だ。「懐かしのわが家」は彼が詩人であったことの証明なんだと思う(谷川俊太郎)。

懐かしのわが家(寺山修司)

昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森県浦町字橋本の
小さな陽のいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを

子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ

 ここで、寺山修司の俳句(一句)と短歌(一首)の鑑賞について、心に残ったものを次に付記して置きたい。

(「増殖する俳句歳時記」)

"http://">http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960716,19960903,19961107,19970510,19970619,19971002,
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20030501,20050301,20060917,20070502,20070622,20080127,
20080404&tit=%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E4%BF%AE%E5%8F%B8&tit2
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May 02-2007

アカハタと葱置くベット五月来たる   寺山修司

修司が一九八三年五月四日に亡くなってから、もう二十四年になる。享年四十七歳。十五歳頃から俳句を作りはじめ、やがて短歌へとウエイトを移して行ったことはよく知られている。掲出句は俳誌「暖鳥」に一九五一年から三年余(高校生~大学生)にわたって発表された二百二十一句のなかの一句(「ベット」はそのまま)。当時の修司がアカハタを実際に読んでいたかどうか、私にはわからないし、事実関係はどうでもよろしい。けれども、五〇年代に高校生がいきなり共産党機関紙アカハタをもってくる手つき、彼はすでにして只者ではなかった。いかにも彼らしい。今の時代のアカハタではないのだ。そこへ、葱という日常ありふれた何気ない野菜を添える。ベットの上にさりげなく置かれている他人同士。農業革命でも五月革命でもない。修司流に巧みに計算された取り合わせである。アカハタと葱とはいえ、「生活」とか「くらし」などとこじつけた鬱陶しい解釈なんぞ、修司は最初から拒んでいるだろう。また、アカハタ=修司、葱=母という類推では、あまりにも月並みで陳腐。さわやかな五月にしてはもの悲しい。むしろ、ミシンとコーモリ傘が解剖台の上で偶然出会うという図のパロディではないのか。すでにそういう解釈がなされているのかどうかは知らない。同じ五月の句でも、誰もが引用する「目つむりていても吾を統(注・す)ぶ五月の鷹」も、ほぼ同時期の作である。いろんな意味で、修司には五月がよく似合う。病気をした晩年の修司は、再び俳句をやる意向を周囲にもらしていたが、果してどんな俳句が生まれたであろうか。『寺山修司コレクション1全歌集全句集』(1992)所収。(八木忠栄)

(短歌のお部屋(現代短歌鑑賞日記))

http://www.enpitu.ne.jp/usr7/bin/month?id=78957&pg=200212

2002年12月28日(土) 寺山修司の一首 ☆今日の一首☆

☆ 人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ(寺山修司)
***1971年刊『寺山修司全歌集』収録未刊歌集「テーブルの上の荒野」より。

修司は「短歌は、いわば私の質問である」と書いている。
そして、「質問としての短歌さえも自己規定の中から生まれたものであることを知った」と述べ、作歌活動を終えてしまった。
31音の制約の中で質問を発し、それが孤独の中に響いているだけのものであることに気付いているのは、修司だけではないはずだ。
けれども、多くの歌を詠む人は短歌にわかれを告げない。
修司のように31文字の制約を「牢獄」とみなすことも、質問への答えを切実に求めることも諦めたものだけが、短歌という形を愛することができるのだろうか。
この作品のように、文学や生きることに対して、まっすぐな疑問を投げかける歌は心に響く。
この歌が彼の作品の中で人気の高いものであることは当然だと思う。
多くの歌人のなかで、特異な魅力のある修司が短歌に別れを告げてしまったことが惜しまれてならない。



(その十三)

(死と蝙蝠傘の詩)
  

その黒い憂愁
の骨
の薔薇

五月
の夜
は雨すら
黒い


は壁のため
の影
にうつり



泡だつ円錐
の壁

その
湿つた孤独

黒い翼

あるひは
黒い

のある髭の偶像

 この克衛の「死と蝙蝠傘の詩」は先に(その六)触れたが、『現代詩文庫 北園克衛詩集』所収の「勝算なき戦いのさなかで(篠田一士)」での鑑賞を見てみたい。

・・・題名の「蝙蝠傘」にこだわりながら、この四行詩を順を追って読んでゆけば、辻褄が合わないでもない。

・・・第一連の「その黒い憂愁/の骨/の薔薇」、第二連の「は雨すら/黒い」、第三連の「は壁のため/の影/にうつり」、第四連の「泡だつ円錐/の壁」、そして第五連の「湿った孤独/の/黒い翼」は、それぞれ『蝙蝠傘』とい物体についての大変ウィッティな修辞句として通用するだろう。

・・・言葉を追い、詩行を追うにつれ、いつのまに題名の「死」も「蝙蝠傘」も忘れてしまうというのが、正直な読者の告白ではないだろうか。

・・・題名は忘れ去られ、そのかわりに、連ごとに簡素な、単彩のイメージが視界一面にひろがり、さながら、それらは小宇宙のようになって、読者のまえに立ちはだかりながら、妖しくも寒々とした思いをひたすら掻き立てようとする。

・・・そのとき、すでにイメージはイメージとしての機能をしばらく停止し、現実還元はいうもおろか、その遠い遠いこだまとしてのイメージのためのイメージといった小賢しいからくりなども無用のものにしてしまうのかもしれない。

・・・だからこそ、イメージでなくてオブジェーなのだと、気の早いひとは言い立てるかもしれないが、そう事は簡単に運ばないのである。

・・・いま、われわれの目の前にあるのは、イメージがイメージとしての機能を失い、ほかのなにものかに変容しようとしている「死と蝙蝠傘の詩」の詩行である。各連の第二行、あるいは、第三行には、「の」ではじまる名詞止めの詩句があることに注意してほしい。

・・・もともと、この「の」はおおむね単純な格助詞で、前後の名詞をつなぐ役割を果しているにすぎない。その詩的意味合いの解釈も、ここでは、さしたる難解さはなく、詩連ごとに、それぞれ、まとまりのいい、明解なアナロジーをよびおこすはずである。

・・・ところが、詩行が第三連から第四連、さらに第五連へと移ったとき、この「の」の所在は異常な様相を呈する。すなわち、とるに足らなぬ終助詞にすぎなかった「の」だけで、ひとつの詩行を形づくるのである。

・・・なぜ、「死の/泡だつ円錐/」でなくて、「死/の/泡だつ円錐/」なのか、「その/湿つた孤独の/黒い翼」でなくて、「その/湿つた孤独/の/黒い翼」なのかを考えさせる余裕を与えないまま、読者は、ここで「の」という言葉というよりは、文字、いや、活字を読むのではなく、逆に、この活字というオブジェーに見据えられ、一瞬、ぎょっとした気持に襲われる。

・・・いうまでもなく、「の」そのものには、これといった意味はない。無意味な言葉による詩的言語のオブジェー化、ここに成れりとよろこんでいいのだろうか。

・・・いや、早まってはなるまい。いかに、一行の詩行を形ずる「の」の突出が読者の目を奪おうとも、、その前後にある名詞、あるいは形容詞の持つ効果の方が、より強いことは、どの読者にとっても、まず間違いない共通した経験であろう。

・・・突出した「の」が喚起する効験と、「死」「泡だつ円錐」といった言葉がもたらすそれとでは、たとえ後者の場合、蝙蝠傘のイメージを媒体にするにせよ、かなり異なったものである。前者は純粋に視覚のそれとすれば、後者は、やはり、今日の詩においては月並な詩的言語の用法で、今日の読者の眼ざしは、否応なくみずからの内面へ向うしかないだろう。

・・・「死/の/泡だつ円錐/」という詩連で、最初の二行を横にさっと読み流すことはできても、第三行目の「泡だつ円錐」を前にすれば、読者の視線の流れは、おのずと多少の停滞を見せながら、上から下に、逆の縦の動きへと転換しなくてはならないし、しかも、ここに唱われる「泡だつ円錐」のイメージは、まことにめざましく、にわかに目のまえに、アブストラクトの図形の大輪が花ひらく。

・・・そして、この詩形につづく次行の「の襞」を読むときには、もうわれわれの視線は縦読みに慣らされて、「泡だつ円錐/の襞」とはなんだろうと、仔細気に考え、おのがじし解答を用意する。

・・・そのときだ。もう一度、どの読者も、詩形をさかのぼって、「死/の」の二行を読みかえすのは。このときには、すでに、われわれの視線の動きは、これらの詩行をはじめに読んだときとちがって、ゆっくりと縦に読む。

・・・そして、「死」が、いや、なによりも「の」という文字がわれわれを正面から見据えるという、異常な事態が出来(しゅったい)するのである。

 以上は、『現代詩文庫 北園克衛詩集』所収の「勝算なき戦いのさなかで(篠田一士)」での鑑賞(解説)の要約なのであるが、これらをより理解するには、克衛自身が書いた「題・連・行」に関する詩論 (「VOU」八十号)を見ていくと参考になる。

・・・詩作品は形式的には「題」と「行」と「連」によって形成されている。

・・・「行」はビジュアルな作品においてはリズムのためのキィとなる。「行」の長短によってリズムをはやくしたり、あるいはのろくしたりすることができるばかりでなく、非常に短い「行」を連続的に使用してイメージをクリアに定着できる場合が多い。

・・・「行」と「連」との関係は、抽象絵画における色彩とパターンの関係によって説明することができる。

・・・「行」は色彩であり、「連」はパターンにあたるのである。

・・・詩の「行」は圧縮され、単純の極致にまで純化された結晶であるべきである。すべての冗漫な表現をすて、文字のニュアンスなどにかかずらってはならない。こうして、言語を単純な記号にまで追いつめ、そしてこれをスナッピーにマスターすることだけが重要なのである。

・・・ひとつの「行」のなかに2つ以上の色彩をあたえてはならない。

・・・またひとつの「連」に3つ以上の色彩を想像させることは混乱の原因をつくることである。

・・・ひとつの「行」のなかに2つ以上の動詞、形容詞を持つことを避けなければならない。

・・・また漢字はできる限り用いないこと、このことは作品のもつ明快なスピードや柔らかですばやいリズムにも影響する。

・・・詩作品の題名は、作者にとって厄介なもののひとつである。

・・・その題名によってひとびとがその作品のなかにはいっていくことができるような状態に自分自身を調節するモメントとなるような題名をつけるわけである。つまり詩作品とは直接に関係はないのであるが、それと相似するイメージが題名としてそみにあることになる。

・・・自分のテクニックをもたない芸術家などは、芸術家とは言えない。芸術家とは何かを「創造」する人間のことであり、テクニックを無視して芸術は存在することはできないからである(注・塚本邦雄の「短歌は内容なんかじゃない。技術だけです」と同じ)。

・・・詩に対する認識の革命は同時に詩の新しいテクニックの発見でなければならないのが、詩の運命であり、またすべての芸術の運命である。

 以上のようなことを前提として、冒頭の克衛の「死と蝙蝠傘の詩」に接すると、次のようなことが浮かび上がってくる。

一 「死と蝙蝠傘の詩」という題は、六連からなるこの作品の内容を直接的には暗示するものではないが、その題名の「死」というのは、四連の「死/の/泡だつ円錐/の襞」などと関連していて、その「蝙蝠傘」というのは、二連の「五月/の夜/は雨すら/黒い」などと関連している。そして、これら全体の六連の作品の総和が、この題名の「詩」というイメージである。

二 この作品は、六連からなり、そして、一連は四行から成っている。

三 この作品の「行」は、単純の極致にまで純化され、「一字から六字」から成り、一字のものは、漢字の「黒」「壁」「死」「爪」と、平仮名の「の」と、これらの一字のものが、突出して、異常な様相を帯びている。

四 これらのそれぞれの「行」は一つの色彩から成り立っている(注・黒と白の場合は墨絵を想起させ、抽象書道に近い)。 

五 パターン(型・図像)としての「連」は、一連は(星/憂愁/の骨/の薔薇/など)、二連は(五月/の夜/は雨すら/黒/など)、三連は(壁/は壁のため/の影/など)、四連は(死/の/泡だつ円錐/の壁/など)、五連は(湿った孤独/の/黒い翼/など)、六連は(黒/爪/髭の偶像/など)。

六 「行」と「行」とはたがいに対応しつつ「連」となり、「連」は「連」と対応しつつ、一篇の詩を形成している。

七、ここで、抽象絵画の下記(注)の「カンディンスキーの作品」「マレーヴィチの作品」「モンドリアンの作品」とを一つの基準として見ると、「マレーヴィチの作品」に、その類似性を見る。(注)「非具象的でしばしば不規則な形態の表現を追及したカンディンスキーの作品(様々な色彩の多様な形状が画面いっぱいに展開されている「コンポジション」シリーズなど)、抽象的な形態の徹底した単純化を推し進めたマレーヴィチの作品(1915年頃の「黒の正方形」「黒の円」「黒の十字」「赤の正方形」など、1918年の「白の上の白(の正方形)」)、幾何学的な構成により純粋な調和とリアリティの実現を目指したモンドリアンの作品(1920年頃以降の水平線・垂直線と白黒・三原色)などが代表作とされる。

八 これら詩を創造した北園克衛は、克衛のイメージで創作したものなのであろうが、そのイメージを、この詩に接する者に、ストレートに伝達することはなく、出来上がった、この六連からなる「死と蝙蝠傘の詩」という題の詩を、「オブジェ(言葉の組み合わせによる造形的な作品)として、自由に鑑賞して欲しい」ということのための作品なのであろう。

九 この詩に接して、この詩に託した、この詩の作者の北園克衛の、その時のイメージ(克衛の感情や衝動など)を読み解こうとすることは、この詩の意図していないことで、この詩は、そういう接し方を拒絶し、この詩に接して、その接した者が、自分自身のイメージを自由に創造しなさいという、そういうことが、逆説的ではあるが、この詩の作者の、この作品に託したメッセージということになろう。

十 北園克衛の詩(「実験」という詩群のもの、この「死と蝙蝠傘の詩」もその一つ)というのは、次の「松岡正剛 千夜千冊」の「カジミール・マレーヴィチ『無対象の世界』」と近い世界のものであり、次の一文に接して、これらの図書から、それぞれが、それぞれに咀嚼して、共鳴を得るかどうかの、そういうステップがあるように思える(注・篠田一士は「日本語(表音文字にすぎないはずの平仮名でさえも、漢字の表意性にも似た機能をときとして発揮する)による詩的言語の宿命に対して、勝算なき戦いを挑んだ希有な勇気の持主の絶唱をききとることができるか、どうか、それは読者自身の問題である」と指摘している)。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0471.html

・・・マレーヴィチのシュプレマティズムの全貌が姿をあらわしたのは1927年の大ベルリン美術展である。まさに全員が腰を抜かした。なにしろそこには「白の中の白」「白の中の黒」「黒の中の黒」しか提示されていなかったからだ。これはカンディンスキーの抽象をこえていたし、クレーの自由をはるかにあしらっていた。失神した者はいなかったろうが、言葉を失った者、唸った者、困惑した者、何かを説明しようとして内にこもってしまった者、そして絶賛した者、冷笑した者、罵倒した者、まさに賛否両論というより、震撼たるセンセーションだったのだ。 

十一 ジャズ評論家で詩人の清水俊彦(2007年5月21日死去。60年代から80年代にかけ、フリージャズや即興音楽などを音楽雑誌等に紹介。著書に「ジャズ・アヴァンギャルド」「ジャズ・オルタナティヴ」などがある。前衛詩人としての活動でも知られる。視覚詩で知られる北園克衛の詩誌「VOU」において、その理論的支柱となったこともある。2005年青山真治監督のドキュメンタリー映画「AA」に出演)は、「新しいキャンバスの上にブラッシで絵を描くように、北園克衛は原稿用紙の上に単純で鮮明なイメージをもった文字を選び、『たとえばパウル・クレエの絵のような簡潔さをもった詩』を書いた。つまり『意味によって詩(ボエジイ)を作らない』で、『詩(ポエジイ)によって意味を形成』したのである。この実験はあまりに厳しく従来の詩の概念を破壊してしまったので、我が国では不当に過小評価されてきたが、逆に外国では多くのすぐれた理解者に出会った。北園克衛の世界。それは説明ぬきの感覚に、いきなり飛躍する表象や象徴にみちみちている」と克衛の紹介をしている(『現代詩文庫 北園克衛詩集』)。

カジミール・マレーヴィチ(「ウィキペディア」)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81

ロシア帝国領ウクライナのキエフ近郊の村に生まれる。両親はポーランド人であり、マレーヴィチにはウクライナ語で話し、ポーランド語で書き、後に習得したロシア語で活動を行うという語学的分裂が生まれたとされる。
1910年頃には、ピカソなどのキュビスムや未来派の強い影響を受けて派生した、色彩を多用しプリミティブな要素を持つ「立体=未来派(クボ・フトゥリズム)」と呼ばれる傾向の作品を制作していた。その後の1910年代半ばに作風は一転し、無対象を主義とする「シュプレマティスム(絶対主義)」に達した。
彼が試みたのは、精神・空間の絶対的自由であり、ヨーロッパのモダニズムと「未来派」はここに「シュプレマティスム」という到達点へ至った。彼は前衛芸術運動「ロシア・アヴァンギャルド」の一翼を担い、純粋に抽象的な理念を追求し描くことに邁進した。作品は『黒の正方形(カンバスに黒い正方形を書いただけの作品)』や『白の上の白(の正方形)』(白く塗った正方形のカンバスの上に、傾けた白い正方形を描いた作品)など、意味を徹底的に排した抽象的作品を追及しており、戦前における抽象絵画の1つの到達点であるとも評価されている。また、その前衛的主張ゆえにロシア構成主義に大きな影響も与えた。
1920年代には、巨大建造物を想起させる『シュプレマティスム・アーキテクトン』シリーズという造形物を設計し構成。この頃、鮮やかな人物画を描くなどやや具象寄りの表現も行う。
やがてスターリン政権下のソ連で美術に対する考え方の保守化が徹底し、前衛芸術運動が否定され、芸術家は弾圧された。「生産主義」に走った多くの同志たちと袂を分かち、マレーヴィチは一介の測量師として写実的な具象絵画に戻り、その一生を終えている。
抽象絵画において最も極限まで達していながら、最終的には、ありふれた具象絵画に戻ったというマレーヴィチの生涯は、政治に翻弄された美術家の姿の典型かもしれないという言い方がされることもあるが、一般には白紙という究極の抽象に達したマレーヴィチには具象への回帰以外に芸術を続ける道がなかったのであるという評価がなされている。また、一見具象に戻ったように見える彼の作品も、それは見かけであり実際には主題の欠如(対象が描かれない)など独特の表現を含んだ非具象画であったとも言うことができる。


(その十四)

 前回(その十三)難渋した、北園克衛の「死と蝙蝠傘の詩」の、次の二連目のものを、単独で抜き書きをしたら、克衛は、目を白黒して、絶句するかもしれない。この四行のものは、実に平易で、イメージとして一人歩きして、「死の灰」の「黒い雨」などが定着する怖れがなくもない。

五月
の夜
は雨すら
黒い

しかし、克衛が、これらのフレーズで実験したように、この四行のものを、いわゆる、定型感覚で見ていくと、俳諧(連句)における「短句」(十四字、七・七句)という雰囲気でなくもない。

○ 五月の夜は・雨すら黒い (七・七)

 そして、あろうことか、その前の、冒頭の下記の一連目の次の四行のものも、決して、日本古来からの定型感覚を完全には脱していない感じでなくもないのである。すなわち、俳諧(連句)における長句(十七字、五・七・五句)の破調のものと詠めないこともないのである。


その黒い憂愁
の骨
の薔薇

○ 星その・黒い憂愁の・骨の薔薇 (四・八・五=五・七・五の破調の句)

 ここに、日本古来の「定型の魔力」が、前衛詩人の、西洋の詩人をも魅了した日本の詩人・北園克衛の骨身に沁みているということなのであろうか。これを、俳諧(連句)式に表示すると次のとおりとなる。

○ 星その黒い憂愁の骨の薔薇  (長句、季語=薔薇=初夏、前句)
  五月の夜は雨すら黒い   (短句、季語=五月=初夏、付句)

 そして、この一番目の「長句」が、「連歌・連句」では「発句」と呼ばれ、それが、明治維新後の、正岡子規によって、単独で作句・鑑賞される「俳句」になり、この「付句」の「短句」は、「川柳」の世界などで、今なお、「十四字」として、少数派ではあるが実践し続けられているのである。
 ここで大事なことは、前句(この場合、長句)に付句(この場合、短句)をするときに、全く、前句を、丁度、克衛流の「オブジェ(言葉の組み合わせによる造形的な作品)として、自由に鑑賞」して、前句作者のイメージ(作句意図)に関係なく、付句(作句)をしてよろしいということで、むしろ、前句にとらわれることを嫌い(付け過ぎ)、前句の言葉付けや意味付けよりも、余韻・余情に着目しての「匂い付け」がベターということで、一定のスタンスを置くということになる。また、「同字五句去り(三句去り)」とかのルールもあって、前句の「黒い」に、付句の「黒い」は、「これはどうも」ということで敬遠される。
 すなわち、俳諧(連句)の流れからいけば、この「死と蝙蝠傘の詩」の一連と二連とでは、「付け過ぎ」の、どうにも、「イメージの飛躍」が乏しいということにもなろう。
そういうことを抜きにしても、克衛らの前衛的なプラスティック・ポエム(造形詩)を、「オブジェ」的に鑑賞するということは、決して、目新しいことではなく、それこそ、「意味がないのは気持いい」ということで(自由自在の付句を奨励するということで)、俳諧(連連句)の基本的な「変化・転じ」ということからも、非常に、近い世界のものだということも実感する。
ここで、高柳重信の次の多行式俳句とその鑑賞(清水哲男)のものを見てみたい。

(「増殖する俳句歳時記」)

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19961105,20000328,20010826,20031126,20081010&tit=高柳重信&tit2=高柳重信の
・・・

November 26-2003  高柳重信

飛騨
大嘴の啼き鴉
風花淡の
みことかな

季語は「風花」で冬。晴れていながら、今日の「飛騨」は、どこからか風に乗ってきた雪がちらちらと舞っている。寒くて静かだ。ときおり聞こえてくるのは、ゆったりとした「大嘴(おおはし)」(ハシブトガラス)の啼き声だけだ。日本中のどこにでもいる普通の「鴉」にすぎないが、このような静寂にして歴史ある土地で啼く声を聞いていると、何か神々しい響きに感じられてくる。まるで古代の「みこと(神)」のようだと、作者は素直に詠んでいる。かりそめに名づけて「風花淡(かざはなあわ)の/みこと」とは見事だ。地霊の力とでも言うべきか、古くにひらけた土地に立つと、私のような俗物でも身が引き締まり心の洗われるような思いになることがある。ところで、見られるように句は多行形式で書かれている。作者は戦後に多行形式を用いた先駆者だが、一行で書く句とどこがどう違うのだろうか。これには長い論考が必要で、しかもまだ私は多行の必然性を充分に理解しているという自信はない。だからここでは、おぼろげに考えた範囲でのことを簡単に記しておくことにしよう。必然性の根拠には、大きく分けておそらく二つある。一つには、一行書きだと、どうしても旧来の俳句伝統の文脈のなかに安住してしまいがちになるという創作上のジレンマから。もう一つは、行分けすることにより、一語一語の曖昧な使い方は許されなくなるという語法上の問題からだと考える。この考えが正しいとすれば、作者は昔ながらの俳句様式を嫌ったのではない。それを一度形の上でこわしてみることにより、俳句で表現できることとできないことをつぶさに検証しつつ、同時に新しい俳句表現の可能性を模索したと解すべきだろう。掲句の形は、連句から独立したてのころの一行俳句作者の意識下の形に似ていないだろうか。同じ十七音といっても、発句独立当時の作者たちがそう簡単に棒のような一行句に移行できたわけはない。心のうちでは、掲句のように形はばらけていたに違いないからだ。前後につくべき句をいわば恋うて、見た目とは別に多行的なベクトルを内包していたと思う。したがって、高柳重信の形は奇を衒ったものでも独善的なものでもないのである。むしろ、一句独立時の初心に帰ろうとした方法であると、いまの私には感じられる。『山海集』(1976)所収。(清水哲男)

・・・

この「高柳重信の形は奇を衒ったものでも独善的なものでもないのである。むしろ、一句独立時の初心に帰ろうとした方法である」という指摘は鋭い。すなわち、「俳諧(連句)と訣別した一句独立した俳句は、俳諧(連句)の付句(後続する句)を予定している発句とは形も内容も峻別すべきであり、それが形として『多行式』になり、その内容は徹底した『切れ』の重視(一語一語の曖昧な使い方は許されない)となる。それが重信の多行式俳句の真意なのである」ということにもなろう。
これらのことは、この重信の句を、次の一行表示にして見ると明瞭になってくる。

○ 飛騨大嘴の啼き鴉風花淡のみことかな (七・五・七・五)

これでは、おそらく「俳句」として未完成の推敲前のものと理解されよう。「字余り」にする必然性もないし、いわゆる、「七五調」の今様調の「いろは歌」の如きで、次のように、
さらに、「七・五」、「七・五」と続く雰囲気である。

○ 飛騨大嘴の啼き鴉  (七・五)
  風花淡のみことかな (七・五)
  色は匂へど散りぬるを
  我が世誰ぞ常ならむ
  有為の奥山今日越えて
  浅き夢見じ 酔ひもせず

ここで、重信の第一句集『蕗子』に寄せた、富沢赤黄男の、その「序」の「俳句といふ短詩を一行詩だと強硬に定義づける人々は、何故に俳句は一行詩でなければならないのかといふその必然を、伝習や技術の上からでなく、その本質にあひわたつて明示する責任をとらねばなるまい」ということを想起する(これらのことは「その七」で触れた)。
重信の「彼の言葉の秩序への極度の追求、純粋の言葉の有機的構成、固定概念の拒否」・「彼の詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある」(赤黄男の「序」)という、その重信の「実験」が、必然的に、次のような形と内容になって現出したのである。

○ 飛騨
  大嘴の啼き鴉
  風花淡の
  みことかな

 ここまで来て、今度は、北園克衛の実験的な前衛詩と、高柳重信の実験的な前衛俳句との対比であるが、前者の克衛が、「『意味によって詩(ボエジイ)を作らない』で、『詩(ポエジイ)によって意味を形成』している」のに比して(「その十三」で触れた)、後者の重信は、「『意味によって詩(ボエジイ)を作り』、そして、『その詩(ポエジイ)によって新たなる意味をも形成』してくる」とでもなろうか。
 これらのことは、関係するところで、折りに触れて、これからも触れていくこととする。
そして、北園克衛、富沢赤黄男、そして、高柳重信をリンクさせる詩人として、数々の前衛的な実験を敢行したところの、吉岡実の存在が浮かびあがってくるのである。その吉岡実のネット記事なども、ここに付記して置きたい。

(諧謔・人体・死・幻・言語――吉岡実のいくつかの詩を読む)

http://po-m.com/inout/id91.htm

吉岡実は、言葉を慎重に取り扱って、死と関わるような暗い諧謔、豊饒なにぎやかさ、不穏なざわめき、他の書き方では存在しない独特な〈詩論〉であるような筋、それから(視覚的あるいは聴覚的な)リズム、あるいはもしかしたら、存在感のある幻のような、グロテスクなあるいは綺麗なものの出現、のあるような詩を書いた、ということをとりあえず言うことはできそうだ。単語の選び方、文の組み立て方、カッコの使い方と位置、行の分け方、詩の始め方・終わらせ方、喋る時のような文体の使用、などが(好む人と好まない人がいるだろうが)興味深い。言語を使ってどれくらい多くのことを成し遂げることができるか、単なる情報(事件、教訓、感情など)を伝達するだけの言語ではなくて、言語の群れそのものが動く物体のように出現してくるかどうか、というのが〈現代詩〉の最大の問題であるとするなら、その問いについて最も真摯に考えた詩人の1人が吉岡実であった、ということは言えるのかもしれない。


(その十五)

 高柳重信と塚本邦雄との交遊については先に触れた(その七)。そこで、「重信は、邦雄をして、彼は『メトード』という雑誌を出していた。手紙を往復しながら、彼は三十一音と全く等量の言葉で、今までの短歌とは全然別の詩を書くことを決意して実験をはじめ、僕も、十七音と等量で今までの俳句と全くちがった詩を決意した」(『現代俳句の世界 金子兜太・高柳重信集』)との紹介を記した。
 ここで、重信が、「十七音と等量で今までの俳句と全くちがった詩を決意し」、その結果、多行式のスタイルに到達したのに比して、邦雄は、「三十一音と全く等量の言葉で、今までの短歌とは全然別の詩を書くことを決意して実験をはじめ」、それは、結果的には、重信の「多行式のスタイル」などの形式変革・形式革命にまでは至らなかったということについては、「俳諧(連句)と俳句」、そして「連歌と短歌」との関係からも説明ができるように思われる。
 すなわち、重信の俳句の世界においては、明治時代の正岡子規の俳句革新によって、「俳諧(連句)は文学に非ず」ということで、その発句の「俳句」のみが、「短詩形文学の俳句」として扱われるようになり、その一句独立した「俳句」は、子規の二大弟子ともいわれる、高浜虚子の「伝統的定型重視の俳句」と河東碧梧桐の「革新的非定型の自由律俳句」とのシビアな対立葛藤を経ながら、戦後俳壇の流れは、虚子の「ホトトギス」を中心とする「伝統的定型重視の俳句」がその主流を占めるようになる。
 そして、昭和の大平洋戦争の敗戦を契機として、戦後の日本俳壇の動向は、戦前・戦中に抑えられていた、新興俳句(反伝統・反ホトトギスの定型重視)や社会性俳句(社会主義的イデオロギーなどに理解を示す進歩的な定型重視)などが、次第に定着してくるのであった。
こういう時代史的な背景のもとに、高柳重信は、正岡子規の俳句革新の原点に戻り、「昔ながらの俳句様式」を、「それを一度形の上でこわしてみることにより」、「俳句で表現できることとできないことをつぶさに検証しつつ」、「同時に新しい俳句表現の可能性を模索した」、その結果が、重信の「多行式俳句」ということになろう(これらのことについては「その十四」で触れた)。
 そういう俳句の流れに比して、邦雄が所属する短歌の世界においては、俳句における俳諧(連句)に匹敵する、連歌というものが、江戸時代の松尾芭蕉の出現により姿を消して、
明治時代の、正岡子規の「短歌革新」は、写実主義の導入などの、その内容の革新が主で、その形式革新に至るものではなかった。
 勿論、日本俳壇における虚子らの「ホトトギス」に匹敵するところの、斎藤茂吉らの「アララギ」の「写実的、生活密着的歌風」がその主流を占め、その主流のままに、戦前、戦中、戦後へと流れ込み、その間に幾多の短歌革新の傾向は見られても、それらは、ほとんど、定型そのものに踏み入れることなく、それらが、重信の直面した俳句の世界とは大きな相違点であったということは指摘できよう。  
そして、このことが、戦後の短歌界の、その前衛短歌の担い手の中心になっていく、塚本邦雄にして、「五・七・五・七・七=三十一音」の「短歌」の「定型」そのものの、「改革・革命・破壊」というところまでは、踏み込めなかった、最大の理由があるものと解したいのである。
 ここで、邦雄の興味ある歌論の『序破急急』に触れると、邦雄は、「『万葉』を序に、新古今を『破』に、明星を『急』に、そして最後の『急』を、亡び急ぐ現代の短歌になぞられている」(『戦後歌人論 現代短歌の二十人(加藤将之編)所収「塚本邦雄(甲山幸雄稿)」)という。
 「塚本邦雄の後期には、三つの大きなテーマがある。『戦争』、『老い』、『短歌の運命』がこれである」(『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』)という。この三つのテーマのうち、「短歌の運命」ということについては、そのスタートの時点からその晩年まで、終始変わらぬものであった(下記の作品は、※印と和数字=第一歌集から第二十二歌集の「巻頭首」など、●印=「短歌の運命」を比喩するものなど、※※印=未刊歌集の「巻頭首」を示す。なお、歌集題名は旧字体の漢字をそのまま用いたが、作品の方はその限りではない)。

●革命歌作詞家に凭りかかられて少しづつ液化してゆくピアノ(※一『水葬物語』)
●ゆりかごでおぼへし母国語の母音五つも柩ふかく納めぬ(一『水葬物語』)
○五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだるる(※二『装飾楽句』)
●日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(※三『日本霊歌』)
●出口なき酷暑の墓域、水浴びし墓石定型詩のごとく覚(さ)む(三『日本霊歌』)
○薫製卵はるけき火事の香にみちて母がわれを生みたることを恕す(※四『水銀傳説』) 
○雉食へばましてしのばゆ再(ま)た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ(※五『緑色研究』)
○固きカラーに擦れし喉輪のくれなゐのさらばとは永久(とは)に男は(※六『感幻楽』)
●ほほゑみに肖(に)てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一台(六『感幻楽』)
○青年にして妖精の父 夏の天はくもりにみちつつ蒼し(※七『星餐図』)
●思ひ出でより離騒心を刺す夏の日のはじめなる瀕死の蛍(七『星餐図』)
●遠き萩それよりとほき空蝉の眸(まみ) 文学の余白と知れど(※八『蒼鬱境』)
○イエスは架りわれはうちふす死のきはを天青金に桃咲きみてり(※九『青き菊の主題』)
●すでにして詩歌黄昏くれなゐのかりがねぞわがこころをわたる(九『青き菊の主題』)
○あはれ知命の命知らざれば束の間の秋銀箔のごとく満ちたり(※一〇『されど遊星』)
●壮年の今ははるけく詩歌てふ白妙の牡丹咲きかたぶけり(※一一『閑雅空間』)
○父となりて父を憶へば麒麟手の鉢をあふるる十月の水(※一二『天變の書』)
●反・反歌論草せむとして夏雲の帯ぶるむらさきを怖れそめつ(※一三『歌人』)
○日向灘いまだ知らねど柑橘の花の底なる一抹の金(※一四『豹變』)
○たましひの声にしたがふわが生のなかばうすあかねの空木岳(※一五『詩歌變』)
●歌すつる一事に懸けて晩秋のある夜うすくれなゐのいかづち(一五『詩歌變』)
●ぬばたまの晩年やわが歌ひたることの結論は「幻を視ず」(一六『不變律』)
○ヒマラヤの罌粟の紺碧 短歌てふこのみじかさの何をたたへむ(※一七『波瀾』)
○すみやかに月日めぐりて六月のうつそみ淡く山河濃きかな(※一八『黄金律』)
○黒葡萄しづくやみたり敗戦のかの日より幾億のしらつゆ(※一九『魔王』)
○音楽を断ち睡りを断つて天然の怒りの言葉冱えつつあり(※二〇『獻身』)
○定家三十「薄雪こほる寂しさの果て」と歌ひき「果て」はあらぬを(※二一『風雅黙示録』)
○今日こそはかへりみなくて刈り払う帝王貝殻細工百本(※二二『汨羅(べきら) 變』)
○闇ながら杉の新芽の匂ひたつ生れし家の門をくぐりぬ(※※『初學歴然』)
○眼裏にかなしみの色堪へつつ壮んなる夏の花に対(むか)へり(※※『透明文法』)
○皮膚つめたく病みゐる朝を惨然と砲響(な)りアメリカ兵の祝日(※※『驟雨修辭學』)

・・・現代の短歌にいくばくを附加し、示唆するかは、僕自身にも全くの疑問であるが、僕はやはり、明日も明後日も、そして生命あるかぎり、この営みを誇りをもつて続けると、あらためて茲に誓はう(一九五一・『水葬物語』・「跋」抜粋)。

・・・今日、短歌はうたがひもなく「呪われた詩」であり、まことに不幸な選ばれた者達の苦しんでたづさはるべき、ひそかな無償の営為ではあるまいか(一九五五・『装飾楽句(カデンツア)』・「跋」抜粋)。

・・・今日定型詩人のもつ使命と愉悦は、魂の、すなはち言葉の美と秩序を喪失した、現代人間社会のいたましい精神像のなかで、しかもなほ、定型詩が原初的にもつ美と秩序を信じ、これを極限までととのへ且つ高めようとする絶えざる緊張と努力にあるだろう(一九五八・『日本霊歌』・「跋」抜粋)。

・・・かつて定型詩はぼくの王国であつた。其処でぼくはすべてを所有し、一切を生み、ことごとく殺戮することができた。今日、短歌はぼくの流刑地であるかも知れない(一九六〇・『水銀傳説』・「跋」抜粋)。

・・・物語を歌つて誕れ、カンデンツァを弾じ、かつ霊歌を誦して人と成り、伝説を創つて命を知り、惑ひつ研究に志し今日にいたつたぼくの、明日描く幻想世界は如何にあるべきか(一九六四・『緑色研究』・「跋」抜粋)。

・・・『感幻楽』とは、つひにして幻を感ずるにとどまつたといふ、自責と含羞の意である(一九六九・『感幻楽』・「跋」抜粋)。

・・・帰去来、この詞が如何に清清しからうと遺された私に帰るべきところは何処にもない(一九七一・『星餐図』・「跋」抜粋)。

・・・「青き菊の主題をおきて待つわれにかへり来よ海の底まで秋」(一九七三・『青き菊の主題』・「跋」抜粋)。

・・・『されど遊星』、されど韻律への愛絶ちがたく、私は永遠に蜜月を夢みてさすらひ続けねばなるまい(一九七五・『されど遊星』・「跋」抜粋)。

・・・「歌」は、他のいかなるものにも、決して換言できない、転換不能の、あまりにも純粋、無限定な価値を有(も)つ魔的存在として、人と共に生き続けてきた(一九七七・『閑雅空間』・「跋」抜粋)。

・・・短歌なる詩形がいかに特殊であり、いかに困難を極め、かつまた日本語の母胎、根幹として、怖るべき力を秘めてゐることが、身に沁みて感じられる。言語芸術は勿論叡智の所産であるが、韻文定型詩が形を成し、生れ出ようとする言語空間は、明らかに知性の介入を許さぬやうな気象學にも、大いに支配されてゐるやうだ。精妙巧緻な技法と、希有の秩序と調和なくしては成立せず、しかも歌はそれらを超えた非合理の、真空状態で一瞬に調べを得るのではなかろうか(一九七九・『天變の書』・「跋」抜粋)。

・・・かつて、今日、短歌は既に亡び去り、存(ながら)へつつあるのは歌人のみと、わが寸懐を披瀝したことがある。人にではなくわれみづからに示す言葉であつた。和歌隆盛の世に歌人として生きることは必ずしも難事ではない。詩歌の澆季に、なほ歌人としての生に徹することこそ、わが業、わが使命と、言ひ聴かすことによつて、その困難な、空しい生を支えて来た永い日日であつた。遠からぬ未来には、その歌人、まことの「歌人(うたびと)」も、恐らく滅び去つてしまふだらう。この不吉な、確信に近い予感が、なほこの後も私を制作に駆り立てよう。そして、永遠の秀歌を遺す悲願は、私を鞭打ち続けるに違ひない(一九八二・『歌人』・「跋」抜粋)。

・・・今日、簡素潔癖な「写生」など、歌界の表面からは消え去つたかに見え、爛漫たる「モダニズム」も亦、探しても容易に見つからぬ状態を呈してゐる。均一化され、歴然たる主義主張の稜角を殊更に磨り卸した、一見非の打ちやうもない、奇妙な作風が蔓延してゐる。あまりにも慢性化して、病名すら判定しがたい。健康無比の歌群は、私を戦慄させ、それに感染したり、同病を病まぬためにも、終始緊張して、豹變に心がけるべきことに思ひ到る次第である(一九八四・『豹變』・「跋」抜粋)。

・・・短歌の五句三十一音なる黄金律は、作者一人一人の詩魂と美学によつて、次次と、古今未曾有の詞華を生み出す可能性を持つてゐる。すべて現れ盡したかに見える二十一世紀寸前の短歌に、いかなる「變」を招き、歌ひ、奏で得るかに懸けることのできるのは、あるひは世紀末歌人の特権であると考へてよからう(一九八六・『詩歌變』・「跋」抜粋)。

・・・短歌と呼ぶ黄金の定詩形が、五句三十一音の、永久不變の律に統べられてゐるからであつた。この当然、この常識化した不可思議に思ひ及ぶ時、私はいまさら、不變の變、あるひは千變の絶対不變とも呼ぶべき形式を、初心に還つて追求、把握すべき決意に迫られる(一九八八・『不變律』・「跋」抜粋)。

・・・明日の凄じい荒天、息を呑むやうな時化、それを待望することこそ、現代短歌の水先案内人の一人として忘るべからざる心構へであらう(一九八九・『波瀾』・「跋」抜粋)。

・・・正・負に焦点をあててあげつらふなら、短歌を含めた韻文定型詩は、すべて「負」を内在させてゐる。二十一世紀を眼前にして、なほ韻文、なほ定型に執するこの志は、しかしながら、単なる負ではない。その相乗によつて「正数」に豹変する「負数」である。拾の自乗によつて生じた百と、マイナス拾の自乗によつて生じたプラス百は、表面的に変ることはないが、実は根本的に異質である。韻文定型詩の負数的性格とは、この正数への変の可能性を秘めた、黄金津的「負」ではなかろうか(一九九一・『黄金律』・「跋」抜粋)

・・・単なる正数的宇宙に浮遊してゐたのは、前衛短歌以前の定型詩であつた。そして負:正逆転の秘を司る三十一音律詩型こそ、まさに〈魔王〉と呼ぶべきであろらう(一九九二・『魔王』・「跋」抜粋)。
・・・「風雅」の底には「国風」「大雅・小雅」がひそんでゐるやうに、「黙示」の底には、新・旧約通じて唯一の「アプカリプス」たる「ヨハネの黙示録」があった(一九九六・『風雅黙示録』・「跋」抜粋)。

・・・空海の書の彼方に、『秘藏実錀』の巻上の序「生れ生れ生れ生れて生(しやう)の始に暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」なる二行ありありと視る。空海の「暗・冥」は、負数の自乗の生む正数が、正数のそれより犯すべからざる勁さを有つことを憶ふ(一九九七・『汨羅(べきら) 變』・「跋」抜粋)。

 『塚本邦雄全集』(第一巻・第二巻・第三巻)から上記のものを抜粋した。これらの塚本邦雄の二十二の歌集で、「跋」文がないのは、第八歌集『蒼鬱境』と第二十歌集『獻身』
だけである。それを除いた、これらの二十ジャストの「跋」文の一大パノラマは誠に壮大なドラマである。これらのうちに、戦後の日本歌壇をリードし続けた一大の歌人・塚本邦雄の実像と虚像との、その全貌を確と見定めることができる。そして、それは、「もはや塚本邦雄は前衛派の歌人などではさらさらなく、あろうことか、彼の古代の楚の詩人・屈原が投身自殺した『汨羅(べきら)』で『汨羅の鬼』(水死人)として『水葬』され、高野山の空海の『黄金律教』の歌神の一人として奉られている」かの如きである。

水曜日, 10月 22, 2008

後藤夜半の俳句

後藤夜半の俳句

(その一)

○ 木瓜の実をはなさぬ枝のか細さよ  後藤夜半
○ 木瓜の実の重さを枝に見出でけり  後藤比奈夫

 後藤夜半(ごとう・やはん)は、明治二十八年(一八九五)一月大阪市生れ。虚子門、臼田亜浪に師事。関西にあって「諷詠」を主宰した。昭和五十一年(一九七六)年八月逝去。享年八十一歳。代表句に「滝の上に水現れて落ちにけり」「端居して遠きところに心置く」がある。
 後藤比奈夫(ごとう・ひなお)は、大正六年(一九一七)四月大阪出身。後藤夜半は父。「諷詠」を夜半より継承主宰。代表句に「しゃぼん玉ゆがみふくらみ時歪む」「見もせざる花野の涯をまた思ふ」がある。

上記の掲出句とその作者紹介は、下記のアドレスのネットのもの(風胡山房・結城音彦)である。

http://hukosanbo.exblog.jp/6342196

この後藤夜半については、ここに紹介されている「滝の上に水現れて落ちにけり」の句が夙に喧伝されているのに比して、夜半その人になると、活字情報もネット情報も極端に少なくなってくる。これらのことは、例えば、『現代俳句』(山本健吉著)・『近代俳句の鑑賞と批評』(大野林火著)・『近代俳人』(沢木欣一著)・『俳句大観』(麻生磯次他著)などにその名を見ることができないことと大きく関係しているのかも知れない。ネット情報では、唯一、下記のアドレスの、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男稿)で、本格的な鑑賞文(七句)を目にすることができる。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

 ここでは、この「増殖する俳句歳時記」を足掛かりにして、後藤夜半の俳句の世界(特に、その第一句集『翆黛』を中心にして)を垣間見ていきたい。

(その二)

○ 滝の上(へ)に水現れて落ちにけり

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[これぞ夜半の代表句。出世作。力強い滝の様子が、簡潔に描かれている。昭和初期の「ホトトギス」巻頭に選ばれた作品だ。私は好きだが、この句については昔から毀誉褒貶がある。たとえば作家・高橋治は「さして感動もしなければ、後藤夜半という一人の俳人の真骨頂がうかがえる句とも思わない」と言い、「虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見えるようで、余り好きになれない」(「並々ならぬ捨象」ふらんす堂文庫『破れ傘』栞)と酷評している。そうだろうか。そうだとしても、これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句が他にあるだろうか。私は好きだ。『青き獅子』所収。(清水哲男)]

 この[昭和初期の「ホトトギス」巻頭に選ばれた作品]という指摘は、しばしば見掛けるところのものであるが、この夜半の句は、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた二十句のうちの一句で、それが、何時の間にか、「ホトトギス」の巻頭を得た句と伝承されているものと解したい。そして、この句は、「箕面の瀧」での作句で、「兵庫 後藤夜半」で発表されたものである。この時の夜半の入選句が、もう一つあり、それは下記のとおりである。

○ ことごとく瀧に向へる床几かな 兵庫 後藤夜半

 この「箕面の瀧」は、「摂津名所図会(巻六)」でも紹介されており、そこには、「本社より十八町奥にあり。巌頭(がんとう)より飛潟(ひしゃ)して。石面を走り落つる事凡(すべ)て十六丈。瀧壷(たきつぼ)より泡を飛す事珠(たま)をちらすがごとく、霧を噴(は)く事雲の如し。日光これを燭(しょく)してさいさん目を奪ふ」と記されている。そして、この「摂津名所図会(巻六)」の散文を目にしながら、この夜半の「滝の上に水現れて落ちにけり」に接すると、恐ろしく夜半の写生眼の凄さを思い知るのである。そして、この写生眼の凄さを、清水哲男さんは、「これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句が他にあるだろうか。私は好きだ」として、この句に一票を投じ、それに対して、高橋治さんは、
「虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見えるようで、余り好きになれない」と、この句の背後にある、虚子流の「客観写生」というものを見てとって、どうにも酷評したい衝動にかられるということなのであろう。ここで、改めて冒頭の掲出の句を見てみると、「瀧の上・水現れて・落ちにけり」と、これほど、「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」した句というのは、なかなかお目にはかかれないのではなかろうか。ここまで来ると、やはり、後藤夜半というのは並の俳人ではないという印象を受けると同時に、虚子の言う「客観写生」というのは、この夜半の句のように、「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」したところの「写生」を指しているとも解せられるのである。換言して言うならば、この虚子流の「客観写生」の見本のような句こそ、この夜半の冒頭の掲出のものという印象を深くするのである。そして、同じ、この「客観写生」の句でも、同時の入選作の「ことごとく瀧に向へる床几かな」の句になると、瀧の句というよりも「床几」の句として、何か、その「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」が、「陳腐化」(ありふれていて平凡過ぎる)に思えてくるのである。このことは、冒頭の夜半の傑作句を含めて、虚子流の「客観写生」の句というのは、一歩誤ると、この「陳腐化」・「痴呆化」のみが目立ち過ぎるという危険性を内包していると言うことも特記して置く必要があるのかも知れない。

(上記の記述のうちで、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の句が「ホトトギス」の巻頭となったのは伝承されてのものであろうと記述したが、昭和六年の九月号で「瀧水の遅るるごとく落つるあり」を含めて巻頭となっているとの記述が、『俳文学大辞典』所収「後藤夜半(大槻一郎稿)」にある。)

(その三)

○ 滝の上に水現れて落ちにけり

 この句に関しては、いろいろなネット記事を目にした。それらのうち、以下のアドレスのものを三点(抜粋または全文)を掲載しておきたい。

次のアドレスの「直観こそがすべて・ 私の俳句論」(抜粋)は、「写生」との関連のもので、前回(その二)の補足として恰好のものである。

http://blogs.yahoo.co.jp/frommarl/47409417.html

瀧の上に水現れて落ちにけり         後藤夜半

 この句は大阪箕面の滝を読んだもので、「写生」のお手本としてよくひきあいに出されるらしいのですが、「滝の上から水が現われる。」という表現が常人には思いつかず、面白い、というよりも小学生が見たままを思いつきそうで、であるから、まわりの大人たちをひどく感心させるような気がします。もちろん、この方は立派な大人だと思いますが。
 
次のアドレス「リハビリスト 波平の日記・俳句は季節を語る…後藤夜半 他」は、「天声人語」(2007年の天声人語か?)に紹介されたものを中心としており、夜半の一側面を知る上で参考となるものである。

http://blogs.yahoo.co.jp/rehabilist/29809253.html

天声人語 3月11日(日)

温雅な句風で知られた後藤夜半(やはん)に〈跼(かが)み見るもののありつつ暖し〉がある。春先、地面に多彩な命がうごめき出す。土を割って出た草花や、這(は)い出してきた虫を、作者は身をかがめ、いつくしむように見つめている。

 暖冬を引き継いだこの春、命の蠢動(しゅんどう)はいつになく気ぜわしい。春の虫の代表格モンシロチョウの初見が、松山市では平年より28日も早かったそうだ。初めて見かけるチョウを「初(はつ)蝶(ちょう)」といい、俳句の季語にもなっている。〈初蝶やいのち溢(あふ)れて落ちつかず 春一〉。

 冬が暖かかった今年、虫たちはさぞ生命力旺盛と思いきや、そうでもないことを動物学者、日高敏隆さんの随筆に教えられた。日高さんによれば、多くの虫にとって冬の寒さは必要不可欠なのだという。

 休眠する虫たちは、5度以下の低温にさらされることで、春を迎えるための変化が体内で進む。チョウの場合、寒い時期を十分に過ごせなかったサナギは、卵もあまり産めない、ひ弱な成虫になってしまうそうだ(『春の数えかた』新潮文庫)。

 暖冬が続けば、多くの虫は滅びてしまうかも知れない。休眠せずに、寒さにじっと耐えているゴキブリのたぐいばかりが生き残る、と日高さんは案じている。冬は寒く、夏は暑く。季節がきちんと尽くされることが自然界には大切なのだ。

 啓蟄(けいちつ)もすぎた日、夜半(やはん)をまねて、春の土に目を留めてみるのも興がある。〈地虫出てはや弱腰と強腰と 祐里〉。押し出しのいいやつ、恐縮しているやつ、黙々たるやつ……。うごめく中に、誰かに似た虫がいるかもしれない。

夜半の代表句は「瀧の上に水現れて落ちにけり」でしょうが、折角なので調べると、大阪出身、庶民的、長命、春のようなお人柄、しかも「花音痴」を嘆くところなど、親近感を覚えざるを得ません(個人的感慨で相済みません…)。

大阪はこのへん柳散るところ      後藤夜半
春立つと古き言葉の韻よし  *(「ひびき」と読むらしいです)
見て覺え見て覺え今日沙羅の花  

 最後に、次のアドレスの「高峯秀樹の「俳句千夜一夜」・第一話 私の印象に残る俳句百句」については、高峯秀樹さんの「百句選」(アイウエオの句順)で、夜半の冒頭の掲出句が選ばれていることに注目いたしたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/takamine0408/11372240.html

俳句の話を始めるに当って芭蕉から現代に至る共鳴する百句を挙げてみた。

秋の航一大紺円盤の中          中村草田男
蟻の道雲の峰よりつづきけん       小林一茶
あをあをと瀧うらがへる野分かな     角川春樹
青蛙おのれもペンキ塗りたてか      芥川龍之介
赤い椿白い椿と落ちにけり        河東碧梧桐
愛されずして沖遠く泳ぐなり       藤田湘子
あの月をとってくれろと泣く子哉     小林一茶
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る     中村汀女
荒海や佐渡によこたふ天河        松尾芭蕉
生きかはり死にかはりして打つ田かな   村上鬼城

いくたびも雪の深さを尋ねけり      正岡子規
一枚の餅のごとくに雪残る        川端芽舎
羅や人悲します恋をして         鈴木真砂女
海に出て木枯帰るところなし       山口誓子
炎天の遠き帆やわがこころの帆      山口誓子
塩田に百日筋目つけ通し         澤木欣一
おそるべき君等の乳房夏来る       西東三鬼
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺       正岡子規
学問のさびしさに堪え炭をつぐ      山口誓子
葛城の山懐に寝釈迦かな         阿波野青畝

川底に蝌蚪の大国ありにけり       村上鬼城
神田川祭のなかをながれけり       久保田万太郎
狐火を詠む卒翁でございかな       阿波野青畝
草餅を焼く天平の色に焼く        有馬朗人
鶏頭の十四五本もありぬべし       正岡子規
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ   金子兜太
木がらしや目刺にのこる湖の色      芥川龍之介
黒猫の子のぞろぞろと月夜かな      飯田龍太
是がまあつひの栖か雪五尺        小林一茶
雉子の眸のかうかうとして売られけり   加藤楸邨

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり      飯田蛇笏
月光しみじみとこうろぎ雌を抱くなり   荻原井泉水
月光にいのち死にゆくひとと寝る     橋本多佳子
恋猫の恋する猫で押し通す        永田耕衣
去年今年貫く棒の如きもの        高浜虚子
淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守     原 石鼎
寒や母地のアセチレン風に泣き      秋元不死男
しぐるるや鼠のわたる琴の上       与謝蕪村
さわやかにおのが濁りをぬけし鯉     皆吉爽雨
閑さや岩にしみ入蝉の声         松尾芭蕉

しづかなるいちにちなりし障子かな    長谷川素逝
死なうかと囁かれしは螢の夜       鈴木真砂女
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり      森 澄雄
白露や死んでゆく日も帯締めて      三橋鷹女
しんしんと肺碧きまで海の旅       篠原鳳作
せきをしてもひとり           尾崎放哉
ぜんまいののの字ばかりの寂光土     川端芽舎
大根引大根で道を教えけり        小林一茶
鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな      室生犀星
瀧落ちて群青世界とどろけり       水原秋桜子

瀧の上に水現れて落ちにけり       後藤夜半
蛸壺やはかなき夢を夏の月        松尾芭蕉
たとふれば独楽のはじける如くなり    高浜虚子
足袋つぐやノラともならず教師妻     杉田久女
魂も乳房も秋は腕の中          宇多貴代子
チゝポゝと鼓打たうよ花月夜       松本たかし
地吹雪と別に星空ありにけり       稲畑汀子
ちるさくら海あおければ海へちる     高屋窓秋
蝶墜ちて大音響の結氷期         富沢赤黄男
頂上や殊に野菊の吹かれ居り       原 石鼎

月天心貧しき町を通りけり        与謝蕪村
つきぬけて天上の紺曼珠沙華       山口誓子
天瓜粉しんじつ吾子は無一物       鷹羽狩行
永き日のにはとり柵を越えにけり     芝 不器男
永き日や相触れし手は触れしまま     日野草城
菜の花や月は東に日は西に        与謝蕪村
白梅のあと紅梅の深空あり        飯田龍太
羽子板の重きが嬉し突かで立つ      長谷川かな女
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ      杉田久女
春風や闘志いだきて丘に立つ       高浜虚子

春の海終日のたりのたりかな       与謝蕪村
万緑の中や吾子の歯生え初むる      中村草田男
万緑や死は一弾を以て足る        上田五千石
雲雀より空にやすらふ峠哉        松尾芭蕉
ほろほろ酔うて木の葉降る        種田山頭火
まさをなる空よりしだれざくらかな    富安風生
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎     竹下しづの女
水枕ガバリと寒い海がある        西東三鬼
峰雲の贅肉ロダンなら削る        山口誓子
牝去れば枯芝の犬皆去れり        阿部みどり女

初場所やかの伊之助の白き髭       久保田万太郎
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ      杉田久女
ひっぱれる糸まっすぐや甲虫       高野素十
人それぞれ書を読んでゐる良夜かな    山口青邨
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき    桂 信子
蒲団開け貝のごとくに妻を入れ      野見山朱鳥
冬蜂の死にどころなく歩きけり      村上鬼城
雲雀より空にやすらふ峠哉        松尾芭蕉
降る雪や明治は遠くなりにけり      中村草田男
山国の蝶を荒しと思はずや        高浜虚子

山又山山桜又山桜            阿波野青畝
夕月や脈うつ桃をてのひらに       伊藤通明
雪はげし抱かれて息のつまりしこと    橋本多佳子
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり    久保田万太郎
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜     桂 信子
横顔のままで子規ゐる百回忌       松井利彦
われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず    野澤節子
彎曲し火傷し爆心地のマラソン      金子兜太
をみなとはかかるものかも春の闇     日野草城
をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田蛇笏

(その四)

○ 大阪はこのへん柳散るところ

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[名句もいいけれど、技巧的に優れた作品ばかり読んでいると、だんだん疲れてくる。飽きてしまう。そのようなときに、夜半はいい。ホッとさせられる。夜半は、生涯「都会の人」ではなく「町の人」(日野草城)だったから、一時期をのぞいて、ごちゃごちゃしんきくさいことを言うことを嫌った。芸術家ではなく、芸人だった。生まれた大阪の土地や文化をこよなく愛した。自筆の短冊を写真で見たことがあるが、いまどきの女の子の丸字の先駆けのようにも思える。ちっとも偉そうな字ではないのである。昭和51年初秋、柳の散り初めるころに没。享年81歳。『底紅』所収。(清水哲男)]

 この句が収載されている『底紅』は、昭和五十三年に刊行された夜半の遺句集である。この清水哲男さんの鑑賞の、「芸術家ではなく、芸人だった」という指摘は、夜半の一面をよくとらえている。確かに、当時の、四Sといわれる、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」とは一線を画しているように思われる。この四Sのうちでは、やはり、関西を拠点としている阿波野青畝に近いということで、総じて、関西系の俳人は、東京を中心とする関東系の俳人よりも、清水さんの指摘するように、「ごちゃごちゃしんきくさいことを言うことを」を嫌うという性行を有しているのかも知れない。この夜半の句に接すると、夜半と同じく「生まれた大阪の土地や文化をこよなく愛した」ところの、川柳六大家の一人の岸本水府の、「道頓堀の雨に別れて以来なり」や「大阪はよいところなり橋の雨」などが思い起されてくる。水府は、明治二十五年(一八九二)、そして、夜半は、明治二十八年(一八九五)の生まれ、水府が三歳年上ということになる。水府は三重県の生まれであるが、その本格川柳を標榜した『番傘』は大坂を拠点とするものであった。夜半は大坂の生まれであるが、兵庫なども生活圏であるし、この二人の共通点は、清水さんの指摘するところの、「大阪の土地や文化をこよなく愛した」ということに尽きるのではなかろうか。そして、夜半も水府も、これまた、清水さんの指摘する、「芸術家ではなく、芸人だった」という共通項を有しているのではなかろうか。そして、その「芸人だった」ということは、「落語、浪曲、漫才、コント、曲芸、手品」などの、他の芸人と呼ばれると同じ世界での、「庶民派」の、そして、また、「何でもござれの芸達者」という雰囲気を有しているという印象を深くするのである。

(その五)

○ 鰻の日なりし見知らぬ出前持

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[いつものようにいつもの店から出前をとったら、見知らぬ出前持が届けに来た。思わずいぶかしげな顔をすると、察した相手が「臨時なんですよ。丑の日なもんで」と言った。なんでもない日常の一こまを捉えているだけだが、その底に庶民の粋が感じられる佳い句だ。『底紅』所収。(清水哲男)]

 後藤夜半というと、高浜虚子流の「客観写生」で、即、「花鳥諷詠」の「風景俳句」が得意と思われがちであるが、実は、そうではなくて、この掲出句のように「人事諷詠」句をも得意として、先(その四)に紹介したとおり、「何でもござれの芸達者」の俳人というのが、夜半の全体像なのであろう。この掲出句などは、「鰻の日なりし」(七音字)と「見知らぬ出前持」(九音字)とを無造作に結合したような感じなのであるが、これまた、清水哲男さんが指摘するように、「なんでもない日常の一こまを捉えているだけだが、その底に庶民の粋が感じられる佳い句だ」と絶讃したくなる。これらのことについて、水原秋桜子の「後藤夜半論」(「ホトトギス」昭和四年十二月号)での指摘が参考となる(『現代俳句大系第三巻』所収「翆黛 後藤夜半・鷹羽狩行稿」)。以下、その要点を記して置きたい。

[秋桜子は、夜半をして「選球眼ある強打者」として選句範囲が広く正しいことを讃え、また、夜半俳句のもつ領域の広さ、すなわち、一 取材が天然・人事を網羅、二 自由な表現法 三 その表現方法の幅の広さを指摘した。古典的優美の単一化を特徴とし、その完成度の高さは無類である。]

 この「古典的優美の単一化」ということについては、鷹羽狩行は、「芝不器男・後藤夜半の二人は、折からの流行とはいえ、万葉調を自家薬籠中のものとし、俳句の新分野を展開した」ということと関係して、夜半の第一句集『翆黛』の特徴となっているものの指摘であろう(鷹羽狩行稿・前掲書)」。
 これらの「古典的優美」ということはひとまず置いて、その「単一化」と、清水さんの指摘する「その底に庶民の粋が感じられる」というのは、終生変わらぬ夜半俳句の一つの特徴だったということは、ここで指摘をして置きたい。

(その六)

○ 薄日とは美しきもの帰り花

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[冬でも暖かい日がつづくと、草木が時ならぬ花を咲かせることがある。これが「帰り花」。「忘れ花」ともいう。梅や桜に多いが、この場合は何であろうか。もっと小さな草花のほうが、句には似合いそうだ。しかし、作者は「花」ではなくて「薄日」の美しさを述べているところに注目。まことに冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である。花々の咲き初める季節までには、まだまだ遠い。『底紅』所収。(清水哲男)]

 この後藤夜半の句は、清水哲男さんが指摘するように、季語の「帰り花」の句ではなく、「薄日」(「冬の日の薄日」)の句なのである。これが、ずばり、「冬日」になると、夜半の師の高浜虚子の名句が目白押しである。以下、虚子のそれらを拾うと下記のとおりである。

『五百五十句』
「旗のごとなびく冬日をふと見たり」「冬日柔らか冬木柔らか何れぞや」「冬日濃しなべて生きとし生けるもの」
『六百五十句』
「やはらかき餅の如くに冬日かな」「大空の片隅にある冬日かな」「地球一万余回転冬日にこにこ」「我が庭や冬日健康冬木健康」「薮の中冬日見えたり見えなんだり」   

 虚子には、これらの「冬日」(季語)の句はあっても、「薄日」(「冬の日の薄日」)そのものの句となるとその例を目にすることはない。しかし、それらしき名句になると、そのスタートの頃からの、その作句例を見ることができる。

『五百句』
「遠山に日の当りたる枯野かな」「冬帝先づ日をなげかけて駒ヶ嶽」 

 後藤夜半が、これらの虚子の「冬日」の句やそれらしきその周辺の作句例を知らない筈がない。しかし、夜半は、師の虚子に多くのものを学びながら、決して、虚子の二番煎じには甘えていない。虚子が「冬日」なら、夜半は「(冬日の)薄日」に着眼するのである。それは、清水さんの指摘ですると、「冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である」ということになる。この「芸の人・夜半」ということを一番熟知して人は、ずばり、夜半の師の虚子ではなかったろうか。ともすると、後藤夜半は、四Sといわれる、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」などの背後に隠れて、余り、仰々しく目立たない存在であるが、虚子その人は、いわゆる、四Sと持て囃されている俳人以上に、この夜半の「何でもござれの芸の人」の、その力量を正しく見抜いていたように思われるのである。

(その七)

○ ひらきたる秋の扇の花鳥かな

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[花鳥は花鳥図。中国的な派手な図柄が多い。秋にしては暑い日、目の前の女性が扇をひらいた。見るともなく目にうつったのは、見事な花と鳥の絵。ただそれだけのこと。と、受け取りたいところだが、ちょっと違う。ポイントは、扇をひらいた女性が、その華麗な花鳥図の雰囲気にマッチしていないというところにある。「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるのだという。といって、作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)]

 「扇」というのは夏の季語で、「団扇」とか「扇」は夏のものとして一般的に理解されるということなのであろうか。これは「扇子」の類で、日本舞踊などに使う「舞扇」になるとまた別な趣がしてくる。この後藤夜半の句は、「秋の扇」の句で、やはり、季語を意識した扇で、「季節遅れの扇」と理解すべきなのであろう。すると、やはり、清水さんの鑑賞の、ここの「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるというのは、季語的な理解からすると決して飛躍したものではなかろう。まして、季語を重視する「ホトトギス」流の俳句の鑑賞においては、素直な理解というべきなのかも知れない。と解すると、この夜半の句は、随分と、アイロニー(イロニー・風刺・諧謔)的な雰囲気の句ということになる。清水さんは、「作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ」と、随分と「ホトトギス」流の風雅的・高踏的・人生観的な鑑賞をしているけれども、ここは、ずばり、「秋の日に、盛りを過ぎた女性が、季節遅れの扇を開いて、その扇の図柄が華やかな花鳥のものだった」という、俳諧が本来的に有していた、諧謔的な滑稽の句というのが、最も素直な鑑賞のようにも思われるのである。こういう視点は、当時の「ホトトギス」の四Sといわれた、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」という名だたる俳人達が持ち合わせていないもので、そういう意味においては、後藤夜半という作家は、四Sの俳人達以上に、俳諧・俳句の本来的に有していたものに立脚しての本格的な俳人であったという思いを深くするのである。と解した上で、この「花鳥」というのも、どうも、高浜虚子が盛んに唱えていた「花鳥諷詠」の「花鳥」という雰囲気をも醸し出している感じで、この掲出の句は、「秋の日の句会で、花鳥諷詠の俳人達が、季節遅れの扇をパタパタさせていて、その扇の図柄が、何と花鳥であったよ」という鑑賞も許されるのではなかろうか。ことほど左様に、夜半の俳句というのは、水原秋桜子が、「その表現方法の幅の広さ」を指摘していたが、その「幅の広い」表現方法に対応して、「幅の広い」鑑賞を許容するような印象を深くするのである。ちなみに、この句が掲載されている『青い獅子』は、夜半の第二句集で、それは昭和三十七年(一九六二)に刊行されており、夜半は、「生涯虚子の教えを守って花鳥諷詠・客観写生を貫き通した」(『俳文学大辞典』所収「後藤夜半(大槻一郎稿)」)と総括されるけれども、十分に、「虚子の花鳥諷詠の功罪」を知り尽くしていて、その上での、師の虚子の「花鳥諷詠」への風刺句という理解をして置きたいのである。
(この掲出の句は、夜半の第一句集『翆黛』の「昭和四年」に収載されており、夜半の初期の句ということになる。そして、この『翆黛』所収の句は「ホトトギス」の虚子の選を仰いだものであり、この掲出句も虚子選ということになろう。すると、師の虚子の「花鳥諷詠」への風刺句という理解は、飛躍し過ぎというきらいがなくもない。)
(先のその二で、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の句が「ホトトギス」の巻頭となったのは伝承されてのものであろうと記述したが、昭和六年の九月号で「瀧水の遅るるごとく落つるあり」を含めて巻頭となっているとの記述が、『俳文学大辞典』所収「後藤夜半(大槻一郎稿)」にある。)

(その八)

○ 香水やまぬがれがたく老けたまひ

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[香水の句といえば、すぐに草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」を思い出すが、誇り高き女性への近寄り難さを巧みに捉えている。草田男は少々鼻白みつつも、彼女の圧倒的な存在感を賛嘆するかたちで詠んだわけだが、夜半のこの句になると、もはや女性からのプレッシャーは微塵も感じられない。香水の香があるだけに、余計に相手の老いを意識してしまい、名状しがたい気持ちになっているのだ。ところで、この女性は作者よりも年上と読むのが普通だろうが、私のような年回りになると、そうでなくともよいような気もしてくる。同年代か、あるいは少し年下でも、十分に通用するというのが実感である。だったら「老けたまひ」は変じゃないかというムキもあるだろうが、そんなことはないのであって、生きとし生ける物すべてに、自然に敬意をはらうようになる年齢というものはあると思う。ただし、それは悟りでもなければ解脱でもない。乱暴に聞こえるかもしれないが、それは人間としての成り行きというものである。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)]

 この夜半の句は誠に面白い句である。清水哲男さんは、「名状しがたい気持ちになっている」「生きとし生ける物すべて」「悟りでもなければ解脱でもない」「人間としての成り行きというものである」などと、「生涯虚子の教えを守って花鳥諷詠・客観写生を貫き通した」ところの夜半の目眩ましに戸惑っているけれども、この句もまた、「ひらきたる秋の扇の花鳥かな」(その七)と同じように、夜半の、「アイロニー(イロニー・風刺・諧謔)」的な視点が匂ってくるのである。ずばり、この大袈裟な表現の「まぬがれがたく」も、何とも意表を突く尊敬語的な「老けたまひ」も、これらは、夜半の「アイロニー(イロニー・風刺・諧謔)」的な、そして、夜半俳句の特徴ともなっている「その表現方法の幅の広さ」の世界のものと理解をしたいのである。まず、「香水や」の上五の「や」切りの句で、これは香水(夏の季語)の句であろう。そして、中七・下五の「まぬがれがたく老けたまひ」が、何とも、嫌みではない諧謔の「微苦笑」を誘うのである。こういう世界は、夜半の師の虚子も、そして、四Sといわれる、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」にも、最も欠けていたものであろう。こういう夜半の、清水さんの指摘する、「芸術家ではなく、芸人だった」の、その「芸の細やかさ」ということには、目を見張る思いがするのである。


(その九)

○ つく息にわづかに遅れ滴れり

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[まったき静寂のなか、水の滴る音だけがしている。ふと気がつくと、自分の呼吸に正確に少し遅れて滴っている。それだけのことだが、身体の弱かった作者ならではの鋭い感覚が刻みつけられていて、さすがだと思う。病者に特有な神経のありようだ。ところで、これはどのような水の滴りなのだろうか。雨漏りだろうと、私は読んでおきたい。いまでこそ雨漏りするのはナゴヤドームくらいのものだが(笑)、昔はたいていの家で一箇所くらいは雨漏りがした。漏ってくる畳の上などに洗面器や鍋を置いて水滴を受けているとき、病者ならずとも、その音は気になった。単調なリズムの繰り返しに、ときに眠気を誘われることもあった。それだけに、雨がやんだときの嬉しさは格別だった。『青き獅子』所収。(清水哲男)]

 この夜半の句は、滴り(夏の季語)の句であろう。語源は「下垂る」で、崖の岩肌を伝わった水や、苔に沁み込んだ水が、下に落ちる、その雫を「滴り」というのが、その本意である。とすると、清水哲男さんの、「雨漏り」の「滴り」と解して、「昔はたいていの家で一箇所くらいは雨漏りがした。漏ってくる畳の上などに洗面器や鍋を置いて水滴を受けているとき、病者ならずとも、その音は気になった。単調なリズムの繰り返しに、ときに眠気を誘われることもあった。それだけに、雨がやんだときの嬉しさは格別だった」という鑑賞は、人事句をも得意として夜半のその一面に焦点を当て過ぎたきらいがなくもない。ここは、やはり、季語を重視し、吟行を常とする「花鳥諷詠」俳人・夜半の、例えば、その代表句の、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の、その「箕面の瀧」辺りでの、吟行句とも理解できよう。その理解の前提になるのは、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の句が、実に、瀧の落下するさまを、一瞬、「時間が静止」したように、スローモーションに切り取った、その絶妙な「俳眼の冴え」にあることと、この掲出の句の、「つく息にわづかに遅れ滴れり」の、この「吐息と滴り」との、「一瞬、時間が静止したような、そのスローモーションに切り取った、その絶妙な『俳眼・俳耳(?)の冴え』」が、実に、一致するような思いがすることに起因するのである。とした上で、この掲出の句は、「炎暑の箕面の瀧の山道を、汗を拭き拭き歩きながら、休憩をとり、息を弾ませていると、その急な吐息に、僅かに遅れるように岩間の滴りの音がする」というイメージである。ちなみに、箕面の瀧周辺には、多くの歌碑・句碑があり、この夜半の聴覚的な掲出の句と方向を同じくするものとして、「苔ふかきみのおの山の杉の戸にただ声きけば鹿の音ばかり(鴨長明)」などがある。

(その十)

○ 翆黛とひもすがらある桜狩 (昭和四年)

 夜半の第一句集『翆黛』の命名の由来になっている句であろうか。「昭和四年」の中に収載されている。「翆黛」というのは、本来の意味は、「みどりのまゆずみ。また、それをほどこした美しいまゆ」のことであるが、転じて、「みどりにかすむ山のけしき」の意に用いられる。ここは、この「みどりにかすむ山のけしき」の意であろう。この掲出の句の季語は「桜狩」で、「桜花をたずねあるいて観賞すること。もと、観桜しながら行なった鷹狩の称」の意で、ここは、「桜花をたずねあるいて観賞すること」の用例であろう。この掲出の句は、この季語の「桜狩」の句と解せられるが、その「桜狩」の二字以上に、この第一句集『翆黛』の命名の由来になっている「翆黛」の二字が、この作句のときの、夜半の心中を占めていたのではなかろうか。「桜狩」の句は、古来から無数の句が献じられているが、こと、「翆黛」との関連の句ということになると、これは、この夜半の、この句がその先鞭をつけるといっても過言ではなかろう。すなわち、「翆黛」という、「春のやまのみどりにかすむ山のけしき」を発見したのは、夜半その人であり、夜半は、こういう、古来から誰も手を付けなかったような世界を、実に、さりげなく、それは、敢て目立たないような視点で、自由自在に駆使していたということは特記して置く必要があろう。言葉を換えて言うならば、この「翆黛」などは、「桜狩」に匹敵する、春の季語として認知しても差し支えないようなものであろう。ということが、夜半が、その第一句集に、季語として認知しても良いような「翆黛」という二字を冠した所以なのではなかろうかという思いなのである。夜半の「ホトトギス」の次の世代の中村草田男が、「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の句で、夏の季語の「万緑」を発見したように、夜半の、この「翆黛とひもすがらある桜狩」の句をもって、「翆黛」という、美しい春の季語を認知しても良いのではなかろうか。この夜半の句に接して、つくづくとそんな思いにとらわれているのである。

(夜半の第一句集『翆黛』は、年代別に編集されており、大正十三年から昭和八年の、十年間の「ホトトギス」雑詠に出詠したものが収載されている。当初、この『翆黛』所収の年代別の句を、その背景となっている「ホトトギス」の年譜の関連で、鑑賞したいという意図があったが、清水哲男さんのネットの世界の「増殖する作句歳時記」の「後藤夜半」の鑑賞ものに惹かれて、ついつい、その方向にウエートを置いてしまった。当初に意図した『翆黛』の句集を中心としてのものは、また、後の機会にと、このことを付記して置きたい。)
(上記の掲出句の「翆黛」について、『近代俳句大観(明治書院)』では、「比叡山麓の大原里の寂光院のほとりに翆黛という小山がある」との記述がある。)

(その十一)

○ 底紅の咲く隣にもまなむすめ

 後藤夜半の忌日(八月二十九日)を「底紅忌」という(『俳文学大辞典』)。俳人の中でも、この「底紅忌」を知っている方は、少数派なのではなかろうか。そもそも、この「底紅」というのが、例えば、『広辞苑』にも出ていなくて、歳時記にでも、例えば、索引欄の項目には出ていなくて、基本季語の、その同類季語などに小さく出ている代物なのである。この季語については、夜半の句の多くのことについて示唆を受けた、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男)に、次の「高山れおな」さんの句の鑑賞で知った。それをアドレスと共に全文を掲げておきたい。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20051015,20051014,20051013&tit=20051015&today=20051015&tit2=2005%E5%B9%B410%E6%9C%8815%E6%97%A5%E3%81%AE

[高山れおな
底紅や人類老いて傘の下
季語は「底紅(そこべに)」で秋。「木槿(むくげ)」のこと。なるほど、木槿の花は中央の「底」の部分が「紅」色をしている。句の前書きによれば、若くして世を去った俳人・摂津幸彦七回忌法要の折りの作句だ。「蕭々たる冷雨、満目の木槿」だったという。それでなくとも心の沈む法要の日に、冷たい雨が降りつづき、しかも折りからたくさんの底紅が咲いていた。『和漢三才図絵』に「すべて木槿花は朝開きて、日中もまた萎(しぼ)まず、暮に及んで凋(しぼ)み落ち、翌日は再び開かず。まことにこれ槿花一日の栄なり」とあるように、昔から底紅(木槿)ははかないものの例えとされてきた。冷雨に底紅。参列した人たちはみな「傘」をさしていたわけだが、作者は自分も含めて、そこにいた人たちを「人類」とまとめている。すなわち人間の命のはかなさの前では、人それぞれの性や顔かたちの違いや個性や思想のそれなどにはほとんど意味が無く、生きて集まってきた人たちは「人類」と一括りに感じられると言うのである。その「人類」が故人の生きた日よりもさらに「老いて」「傘の下」に、いまこうして黙々と立っているのだ。虚無というのではなく、それを突き抜けてくるような自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ。思わずも、襟を掻き合わせたくなってくる。『荒東雜詩』(2005)所収。(清水哲男)]

この「底紅」とは、「木槿」の別称なのである。「木槿」ということになると、清水さんの上記の鑑賞にある、「すべて木槿花は朝開きて、日中もまた萎(しぼ)まず、暮に及んで凋(しぼ)み落ち、翌日は再び開かず。まことにこれ槿花一日の栄なり」との「はかない」ものの例えのような花なのである。そして、上記の「高山れおな」さんの句が、その「底紅」と「傘の下(冷雨)」の句であるならば、掲出の夜半の句は、「底紅」と「まなむすめ(愛娘)」の句なのである。清水さんは、上記の「高山れおな」さんの句に、「虚無というのではなく、それを突き抜けてくるような自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ」と評しているが、同じく、夜半の掲出の句も、「命短し 恋せよ 乙女」のような、「自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ」というような感慨を均しく受けるのである。そして、その感慨が、「高山れおな」さんの句のように、例えば、清水さんが受けた「思わずも、襟を掻き合わせたくなってくる」ような深刻なものではなく、さりげなく、しみじみとした渋味のような、そんな感慨を抱かせるのである。それぞれの好みにもよるのだろうが、こういう夜半の世界というのは、知れば知るほど、何ともいえない味わい深いものとなって、何かの折りに、口について出てくるのである。ちなみに、この「底紅」は、夜半の遺句集の『底紅』に、その名が冠せられている。


(その十二)

○ 萩黄葉(もみじ)しぬ朽葉(くちば)しぬ落葉(おちば)しぬ

後藤夜半の句鑑賞については、『近代俳句大観(明治書院)』で、皆吉爽雨さんの『翆黛』(後藤夜半第一句集)を中心としたものがある。そのうちの一句である。その鑑賞で印象深いところは、次のようなことである。

[完了の「ぬ」が三ところに重なっている。その度に読む者は息をとどめて、黄葉をした、朽葉をした、落葉をしたと一々順を追うて辿ってゆく。かくて最後に「落葉しぬ」で終に萩落葉の土に帰したさま、枯萩となり果てたさまに眼を心を落ち着けて嘆息するのである。]

 確かに、この「黄葉(もみじ)しぬ」・「朽葉(くちば)しぬ」・「落葉(おちば)しぬ」というのは、「黄葉→朽葉→落葉」という一連の「落葉」の比較的永い「時」の経過を、三つの断面により切り取り、それを読む者に提示して、そこに、「枯萩となり果てたさま」をまざまざと見せつける、その夜半の写生眼というものには、驚きの念を禁じ得ない。この夜半の写生眼は、その代表作の、「滝の上(え)に水現われて落ちにけり」で、こちらは、滝が落下する一連の短い「時」の経過を、「水現われて」と「落ちにけり」の二つの断面で、その全てを見せつけるという、その「「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」ということと軌を一にする。さらに、この掲出句では、「萩・黄葉・朽葉・落葉」という季語を、いわゆる「季重なり」ということなどは眼中になく、また、完了の「ぬ」の、いわゆる「三段切れ」ということなども眼中になく、まさに、秋桜子の指摘する、「自由な表現法・その表現方法の幅の広さ・古典的優美の単一化」 (「ホトトギス」昭和四年十二月号所収「後藤夜半論(水原秋桜子稿)」)ということ共に、その「完成度の高さは無類である」という思いを深くするのである。夜半は、昭和二十三年に「花鳥集」を創刊主宰して、後に、昭和二十八年に、それを「諷詠」と改題して、それが、現に、そのご子息の著名な俳人の後藤比奈夫に継承されている。その「花鳥」といい「諷詠」といい、それは、夜半の師の高浜虚子の「花鳥諷詠」に因るものなのであろうが、その「諷詠」の根本にあるのは、芭蕉の「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」という「朗唱・調べ・リズム」重視ということであろう。そして、この夜半の掲出句は、破調のリズムであるが、その「朗唱・調べ・リズム」という、その「諷詠」という面において、これまた、その「完成度の高さは無類である」という思いを実感するのである。

(その十三)

○ 乙訓(おとくに)の四方(よも)の藪なり畑打(はたけうち)
○ 国栖人(くずびと)の面(おもて)を焦(こが)す夜振(よぶり)かな

 掲出の一句目の「乙訓(おとくに)」は、京都府乙訓郡の地名。二句目の「国栖(くず)」は、上代の奈良県である大和の国にあった村の名であるという(『近代俳句大観(明治書院)』)。一句目の季語は「畑打(はたけうち・はたうち)」(春の種まきにそなえて畑を耕すこと)で「春」。二句目のそれは「夜振(よぶり)」(照明などを使って川魚をとること)で「夏」。この二句とも、後藤夜半の第一句集『翆黛』所収の句で、固有名詞の「地名」と畑や川で業をする「季語」との組み合わせの作で、水原秋桜子の「古典的優美の単一化」、そして、鷹羽狩行の「万葉調を自家薬籠中のものとし、俳句の新分野を展開した」(『現代俳句大系第三巻』所収「翆黛 後藤夜半・鷹羽狩行稿」)という指摘が、これらの夜半の句には色濃く宿っている雰囲気を醸し出している。これらの二句についても、実に、夜半の視点が明確で、そして、それが実に的を得ているのである。この一句目は、「筍の里で知られている乙訓の里の四方の藪」を描写し、次に、それらに囲まれた小さな「畑」を浮き彫りにして、さらに、その小さな畑に、ぽつんと一人の農作業に従事している「人」を配置して、その三段階の描写が実に鮮やかで、この夜半の描写は、あたかも、寺田寅彦の、「俳諧連句の映画のモンタージュ的構成に近いとする説」を思い起させるのである。この二句目についても、その「モンタージュ的構成」的視点での描写(写生)は同じで、その視点が、一句目の「遠近」から「近景」へのものに比して、その逆の、「近景」から「遠景」の描写(写生)という違いがある。まず、「古代の国栖という深吉野の里の吉野川で作業をする漁人の顔」が、「夜振り」の「松明」で赤く照らせられているところの「近景(部分像)」を提示して、その「近景(部分像)」から一転して、「吉野川での夜振り」という「遠景(全体像)」へと場面転回をする、その
「映画のモンタージュ的構成」的な描写(写生)が、何とも鮮やかなのである。夜半をして、その師の高浜虚子の唱える「客観写生」の権化と称する指摘も多々見掛けるが、その虚子流の「客観写生」というよりも、夜半が新境地を開拓したところの、「映像的・モンタージュ的写生」ともいうべき、新しい世界のものという印象を強く受けるのである。

(その十四)

○ 滝水の遅るるごとく落つるあり
○ 滝の上(へ)に水現れて落ちにけり

掲出の二句とも、夜半の第一句集『翆黛』所収の句。この二句目の句は、夜半の代表作ということで夙に知られているが、この一句目の句は、二句目の句に比してそれほど人口に膾炙されていない。この二句を並列して見て、一句目の句は、「滝の落下点の滝壺から滝の落ち口へ」との「映像的・モンタージュ的写生」的な句で、この二句目は、その逆の「滝の落ち口から滝の落下点の滝壺へ」の「映像的・モンタージュ的写生」的な句ということになろう。これは、同時点の作なのであろうか。『翆黛』所収の順では、二句目の次に、一句目の句が記載されており、まず、二句目の句が出来て、次に、その逆の視点の一句目の句が出来たというのが、一般的な鑑賞であろうか。そして、滝を見て、上から下の、二句目の視点というのは、何らの違和感を感じないのであるが、この一句目のように、下から上の、「滝水の遅るるごとく落つる」という、この把握は、どうにも唖然とする思いがしてくるのである。「滝壺に水が落下する。それを凝視していると、次から次へと、先の水の後を追うように、それは、一瞬、一瞬、遅るるごとく落ちてくる」と、そして、それは、「落ちにけり」ではなく、「落つるあり」と、すなわち、「それはためらいにも似た滝水の落ちようだ」とでも言うのであろうか。こういう把握は、とても、並の俳人ができるものではないという思いを深くする。ただ、この二句を並列して、二句目の句が、一読して、「滝の落下の様の時間的・空間的把握」に脱帽するのだが、この一句目の句は、さらに、「落ち急いでいる、その一瞬・一瞬の水そのものを写し取っており」、その「表現の妙技のわざ」(皆吉爽雨)には、真に「驚きに値する」(皆吉爽雨)という思いを深くするのである。この二句目の夜半の代表作について、「小学生が見たままを思いつきそうで、であるから、まわりの大人たちをひどく感心させる」との鑑賞も見てきたが(その三)、この一句目の句については、「小学生は、どうにも理解できない」のではなかろうか。というよりも、「後藤夜半のこの表現の妙技のわざを知らない大人達にも、どうにも理解できない」のではなかろうか。「こうした滝の二作だけでも、俳句の名手としての作者の名は後代に残る」(皆吉爽雨)という指摘には、諸手を挙げて賛同いたしたい。なお、この二句目の夜半の代表作について、その上五の「滝の上に」は、「滝の上(うえ)に」の字余りの詠みではなく、「滝の上(へ)に」の詠みこそ、リズム重視の「諷詠派」の後藤夜半の真骨頂であろう(と解すると、この句もまた、とても、「小学生が見たまま思いつきそうな」句ではなく、この詠みにも、夜半の作意が働いていると解したい)。

(その十五)

次のアドレスのネット記事(「きのふはけふのものがたり」)で、「夜半忌」(「底紅忌」)についての、次のようなものを目にした。

http://ipsenon.at.webry.info/200509/article_1.html

[  道のべに牡丹散りてかくれなし
  滝の上に水現れて落ちにけり
  ひらきたる秋の扇の花鳥かな
  曼珠沙華消えたる茎のならびけり
  逢ひがたく逢ひ得し一人静かな
  端居して遠きところに心置く

明治28年(1895)大阪生れ。12歳で句作をはじめ、18歳の時、「ホトトギス」に投句。
昭和6年「蘆火」を創刊するが、病のため同9年廃刊する。
昭和23年53歳で「花鳥集」を創刊主宰。5年後に「諷詠」と改称。
昭和51年(1976)8月29日逝去、81歳。

虚子の「花鳥諷詠」から出発しているが、時間と空間の感覚把握がすぐれていて、さりげないようにみえて、深く沁む。「諷詠」は、息・後藤比奈夫が継承している。]

また、たまたま目にしてた『馬場あき子 短歌その形と心』(日本放送出版協会)で、歌人の上田三四二の次の一首を知った。

○ 滝の水は空のくぼみにあらはれて空ひきおろしざまに落下す


 この上田三四二の歌について、馬場あき子は次のような鑑賞をしている。

[滝をうたった歌は少なくないと思いますが、那智の滝の景観は特別な印象を受けます。それはここにもうたわれているように、滝の水が「空のくぼみにあらはれて」という滝を仰ぐ位置からの感興とその落下の勢いの激しさ爽やかさにあるでしょう。独特な、そういう滝を題材としてうたい据えたいと思う時、そこに表現の工夫という苦しみが生まれることも当然です。「那智の滝」のような、先人もすでに多くうたっている題材に対(むか)う時はそのくらいの覚悟がいります。この歌は那智の滝を見た人なら誰しも感銘を新たにする歌と思いますが、そうでなくても、那智の滝の相を読者に見せしめ、その、空を引きずりおろすような力強い勢いの轟然たる爽やかさを感受させるでしょう。仰ぎみる高い巌壁(がんぺき)と巌壁との間に、まつ青な空のくぼみがあり、そのくぼみを満たし溢れるように、流動的な水の団塊があらわれ、激しい勢いで落下する。その力は、空まで引きずりおろしてしまいそうな勢いなのです。表現としては「空のくぼみにあらはれて」とか、「空ひきおろしざま」にというような言葉を生むのに苦心があり、多くの人の熟知や、古来うたわれてきたものを新たに題材化しようとする時の表現の迫力があるといえるでしょう。]

 この上田三四二は俳句にも造詣が深く、おそらく、後藤夜半の代表作の「滝の上に水現れて落ちにけり」は熟知していたのではなかろうか。そして、その夜半の俳句の二番煎じではなく、馬場あき子が指摘するように、「表現としては『空のくぼみにあらはれて』とか、『空ひきおろしざま』にというような言葉を生むのに苦心があり」との、これまた、夜半と同じく、上田三四二の「表現の妙技のわざ」をまざまざと見る思いがするのである。

 ここで、ネット記事(「きのふはけふのものがたり」)の、夜半に捧げられた「時間と空間の感覚把握がすぐれていて、さりげないようにみえて、深く沁む」という、この夜半の全体像が、上田三四二と二重写しになってくる思いがしてくるのである。

 さらに、ここまできて、またまた、後藤夜半と上田三四二との接点を、次のアドレスの「松岡正剛の千夜千冊『上田三四二 短歌一生』で見る思いがしたのである。その接点となる個所を次に抜粋しておきたい。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0627.html

[三四二は短歌を「日本語の底荷」だと言った。短歌だけではなく俳句も底荷であると言う。つねに俳句に理解を示した歌人でもあった。底荷というのは船の底に積まれる荷物のことで、バラストという。運賃には関係がない。が、これによって船は嵐のなかでも暴風のなかでも航行できる。
 バラストに対応しているのはマストである。帆である。かつてもいまも、短歌をマストにする運動も歌人の矜持もあったけれど、三四二は短歌をあくまでバラストとみなしてきた。「短歌は帆となって現代の日本語という言葉の船を推し進める力を持たない」とも書いている。たしかに、現代の日本語を推進しているのは短歌や俳句ではなく、詩ですらなくて、ポップミュージックや吉本興業やガキの言い回しであろう。
 三四二は、短歌がそういう目に付く役割をもたなくとも、「現代の日本語というこの活気はあるがきわめて猥雑な船を、転覆から救う目に見えない力」となればいいのではないか、そういう磨かれた言葉のためのバラストになればいいと考えている。こういう人を貴色というのである。]
[短歌の言葉は手拭だというのである。手拭をしぼるときに最後の一しぼりを加えると、きりっとなる。生け花の根じめを見ても、上手の手になったものはきりっとしている。短歌もそういうもので、言葉を手拭のようにしぼらなければならない。
 しかし、ここで大事なことは言葉は手拭のようにふだんは実用の言葉なんだということである。花も野に乱れ咲き、勝手に枯れているものなんだということである。それを短歌にしたり生け花にするには、実用の言葉をしぼることなのだ。
 たとえば、短歌は焼き物だともいう。土も釉薬も自分のものではないが、作っているうちに得分が出てくる。けれども、最後はこれが窯に入って火を浴びて出てくるところが本当の得分なのだ。その得分を見て、また作歌の本来に戻っていかなければならない。
 こういうことがわかってくるには、ともかく窯から出て人目に晒されてきた秀歌をたくさん読むことである。そうすると、どんな歌が「うつり」のよい歌であるかがだんだんわかってくる。その「うつり」が発止と言葉になっているかどうか、そこが見えてくれば歌は見えてくる。]
[歌とは「時にただよふ」という、この一事であったとおもう。これはどのように「さま」を詠むかということに尽きている。
 昭和49年、上田三四二は那智の滝に来て、こんな歌を詠んだ。この「さま」こそが短歌なのである。
  滝の水は空のくぼみにあらはれて空ひきおろしざまに落下す ]

これらの上田三四二に関する長い引用の、「日本語の底荷(バラスト)」・「言葉を手拭のようにしぼらなければならない」・「時にただよふ」・「どのように『さま』を詠むかということに尽きる」ということは、例えば、上掲の「きのふはけふのものがたり」での後藤夜半の六句に接しただけでも、後藤夜半は、上田三四二と同じような世界に居たということを実感するのである。いや、年代的にいえば、優れた歌人・上田三四二は、優れた俳人・後藤夜半と同じような世界に居たというのが、より正鵠を得ていると解したいのである。

日曜日, 9月 14, 2008

藤後左右の俳句

藤後左右の俳句

(その一)

○ 噴火口近くて霧が霧雨が 

 戦前の新興俳句の拠点となった「京大俳句」にその名が見られる藤後左右の句である。この句は、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた二十句のうちの一句である。「帝国風景院賞」に輝いた句というのは、いずれもその作者の代表句と目されるもので、この句もまた藤後左右の名を今にとどめているその一端を担っているものといってもよいのかも知れない。「京大俳句」というと、アンチ「ホトトギス」という感がどうしても拭えないが、「京大俳句」の多く面々が、高浜虚子の「ホトトギス」に投句していて、その「ホトトギス」から巣立っていたということは特記しておく必要があろう。後に、昭和十五年に、いわゆる、「京大俳句弾圧事件」で、その主要メンバーは検挙されることとなるが、藤後左右は、その頃には、「京大俳句」の投句関係は休止の状態であったことから、たまたま、検挙はまぬかれたという(『中田亮編集「京大俳句」と「天狼」の時代』、以下『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』)。ちなみに、「京大俳句弾圧事件」で検挙された面々は次のとおりである。

第一次…昭和十五年二月十四日
井上隆證(白文地)、中村修次郎(三山)、中村春雄(新木瑞夫)、辻祐三(曽春)、平畑富次郎(静塔)、宮崎彦吉(戎人)、福永和夫(波止影夫)、北尾一水(仁智栄坊)
第二次…昭和十五年五月三日
石橋辰之助、和田平四郎(辺水楼)、杉村猛(聖林子)、三谷昭、渡辺威徳(白泉)、堀内薫
第三次…昭和十五年八月三十一日
斎藤敬直(西東三鬼)

(その二)

○ 秋晴やゑがかれてゆく淀城址

 『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」によると、「虚子歓迎句会が京大内でひらかれて、(注・掲出句の記載あり)、という句を虚子選に選ばれ、それから俳句に迷い込んで終った」とあり、この掲出の句が藤後左右の虚子選の処女作のようである。その年度は、「その翌年春私(注・平畑静塔)の実家和歌浦に椎霞(注・野平椎霞)と来遊し、加太・紀三井寺・道成寺と案内して作った句がホトトギス巻頭になり、一躍新人の名を高くしたのである」とあり、これは「平畑静塔略年譜(中田亮編集)」(『平畑静塔全句集』所収)によると、昭和五年(一九三〇)ということになる。藤後左右は、明治四十一年(一九〇八)の生れで、平畑静塔(明治三十八年生れ)より三歳年下である。この年譜にある昭和五年は、静塔、二十五歳の時で、藤後左右は、若干、二十二歳で、「ホトトギス」の巻頭作家になったということがうかがえる。ちなみに、昭和六年の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いのは、二十三歳のときで、『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」によると、「天才作家の名を以て知られるに至った仁である」と、一躍華々しい新人としてデビューすることとなる。この藤後左右のデビューを見ると、当時の高浜虚子が、日野草城の後釜として、京都に、「ホトトギス」の牙城の再構築を図るべく、この藤後左右などに力を入れていたかということを垣間見る思いがする。

(その三)

○ 和歌の人花のくもりに海苔とれる
○ 加太の海の浪のり舟で和布刈り
○ たかんなに幾千の竹生ひ立てる

『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」で紹介されている、藤後左右の、昭和六年に「ホトトギス」巻頭となった三句である。この掲出の一句目の「和歌の人」は、平畑静塔の実家の「和歌(の)浦の人」の略であろうか。この一句だけでは、何とも、「和歌の人」というのが意味不明という雰囲気である。二句目の「加太の海の」の字余りも気に掛かる。一句目の句形からすると、「加太の海浪のり舟で和布刈り」だが、こちらを字余りにするなら、一句目の「和歌の人」も、「和歌浦の人」か「和歌の浦」とか、その地名が読みとれるものにして欲しいという気持ちになってくる。三句目の、「たかんな」は、本来、「竹の子」の意味だが、ここは「竹林・竹藪」の意味なのであろうか。また、「生ひ立てる」は、散文的には、「生ひ、且つ、立てる」の意味なのであろうか。この三句を見て、藤後左右の俳句というのは、一句目の「海苔とれる」の「とれり」、二句目の「和布刈り」の「刈り」、そして、三句目の「生ひ立てる」の、「事物の動作・作用・存在・性質・状態について叙述する」の用言形などに特色がある感じである。これは、これまでの、「噴火口近くて霧が霧雨が」(その一の「帝国風景院賞」に輝いた句)では、「霧が霧雨が」と、「霧」と「霧雨」をリフレンさせての面白さ、「秋晴やゑがかれてゆく淀城址」(その二の処女作)では、この「ゑがかれてゆく」という一連の動作を表わす中七の面白さとなって現われている。そして、これらの句を選句した、高浜虚子の、「平明・平凡・平易」ということに加えて、「その人らしさ」ということにおいて、この動きのある用言のスタイルに、虚子の視点が動いたようにもとれるのである。とにもかくにも、当時、「ホトトギス」の巻頭をとるということは、俳人として認められたということを意味して、そして、それを、一・二年の医学生の余技のような句が、それを成し遂げたのだから、さぞかし本人もその周囲の人達も驚いたことは間違いない。

(その四)

○ 横町をふさいで来るよ外套着て
○ 室内を暖炉煙突大まがり


 この藤後左右の句(ホトトギス雑詠)に関連して、『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」で、次のように記述している。次の静塔の記述のうちで、「虚子は左右の句を佳しとしているのに比して、秋桜子はいただけない」(要約)としていることと、左右自身が、「自分の作品が当時のホトトギスでもてるのは何故だかとも考えることもなかった位の無造作無頓着な日常であった」(抜粋)という指摘は、「さもありなん」という思いを深くする。

○左右の俳句(ホトトギス雑詠)を、あの理想主義の文芸至上の秋桜子が高くは買わなかったのは当然である。この野暮ったくいささか卑俗で、俳句のみが表現出来る機知と滑稽の作品を、そのまま当時の馬酔木にもって来ても一向見栄えはしなかったであろう。左右は当時自己の作品に対して自負する言動は毛頭もなかった。果たして自分の作品が当時のホトトギスでもてるのは何故だかとも考えたこともなかった位の気造作無頓着な日常であった。(中略) 私達の京大俳句の後期から殆ど俳句を作らず、又殆ど一文も執筆しなかったので、京大俳句事件には全く埃をかぶらずにすんだのは幸いであった。戦後自由律口語に近い俳句を発表したが、それも一時で殆ど沈黙し、数年前から鹿児島志布志市で精神病院まで建てて悠々とやっている。恐らく遠い南の果てで、ときどき私んどの俳句を見て「静塔もっと人のやらぬ俳句が出来ぬものかな」とぶつぶつ独り言をいっているのであろう。好漢長命をうたがわない。

(その五)

○ 大文字へみどりの梅雨をかけわたし (左右)
○ 徐々に徐々に月下の俘虜として進む (静塔)
○ 美しき少女なり献金に應ぜんか   (三山)
○ 山陰線英霊一基づつの訣れ     (白文字)
○ 赤十字ありて端なりキャンプ村   (椎霞)
○ 沙羅の花深山の宮の静けさに    (素逝)
○ 撞かんとす除夜の大鐘まのあたり  (北人)

 日野草城・鈴鹿野風呂らが大正9年(一九二〇)に京大三高俳句会の機関誌として創刊した「京鹿子」は、昭和八年(一九三三)に、平畑静塔・井上白文地・中村三山らによって新しい機関誌「京大俳句」へと衣替えして創刊された。これらのことについては、下記のアドレスのネット記事で紹介されている。掲出の一句目の藤後左右の句は、そこで紹介されているものである。『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』初期のグループ」によると、創刊当時の所属系統などは、次のとおりである(その創刊時の主立ったメンバーの句などについて、同じネット記事で紹介されていたものを上記の二句目から七句目に掲載しておく)。この左右の掲出句を見ても、左右は、その俳友の多くは「京大俳句」の面々であったが、その所属系統的には、「ホトトギス」系の俳人と言っても過言ではなかろう。

[ホトトギス・馬酔木]中村三山(東大)・井上白文字(京大文)・平畑静塔(京大・医)・藤後左右(京大・医)・野平椎霞(京大・医)
[ホトトギス]長谷川素逝(京大・工)・井上北人(京大・工)・田畑比古(京都在住)
[その他]寺野保人(京都在住)

http://www.shibunkaku.co.jp/artm/kyoudai/index.html

(京大俳句の光芒――京大三高俳句会・「京鹿子」から戦後の再出発まで)

昭和8年1月、京大三高俳句会の機関誌として創刊された「京鹿子」が鈴鹿野風呂の個人誌に改組されたのを受け、平畑静塔・井上白文地・中村三山ら若手同人達によって新しい機関誌「京大俳句」が創刊されました。作風の自由と批判の自由を内容とする「自由主義」を掲げた同誌は、やがて当時俳壇におこった新興俳句運動の一拠点となり、理論的、実践的両面において新しい俳句の確立を目指しました。また、学外にも門戸をひろげたことにより西東三鬼・三谷昭・高屋窓秋・渡辺白泉ら有力作家が続々入会。定型、季、連作、戦争俳句などの問題と正面から取り組み、新興俳句運動の尖鋭的存在として活動しました。 しかし昭和8年の京大滝川事件、12年の廬溝橋事件と戦争一色となる社会情勢の中、俳壇におけるこの革新的な気運は、不運にも治安維持法による取締りの対象とされました。そして昭和15年2月から3回にわたって「京大俳句」の主要メンバー計15名が特高警察に検挙されます。これを皮切りに全国の新興俳誌がつぎつぎと弾圧を受けることとなり、新興俳句運動は壊滅せざるを得ませんでした。戦後、俳壇再編成の動きのなか、山口誓子を中心とする俳誌「天狼」が創刊されました。戦時中沈黙を余儀なくされていた新興俳句の俳人達の再出発は、現代俳句の確立に大いに貢献することとなりました。弾圧により「京大俳句 」が終刊してから60年。本展では、「京大俳句」を中心に青年作家たちの情熱から生まれ、俳壇を席巻した新興俳句運動をたどり、昭和という激動の時代に輝いた俳句世界を紹介します。

(その六)

○ スラバヤを出しな軍刀にけつまづいた
○ 沈没船のマストが背伸びして見送る
○ 昨日の魚雷はとふり向くはるか

 藤後左右は、句集は出していないようである(昭和五十六年当時の『藤後左右句集』など晩年に句集刊行)。昭和三十二年刊行の『現代俳句集(現代日本文学全集九一)』(筑摩書房)所収の「藤後左右集」の作者紹介の記述は次のとおりである。

○明治四十一年鹿児島に生る。本名惣兵衛、職業医師。昭和三年野風呂に入門、「ホトトギス」に投句。虚子に師事す。同六年三山白文地静塔素逝椎霞と「京大俳句」を興す。誌業句作に勤勉ならず常に静塔の叱責を受く。同七年京大医学部卒、松尾内科に入り市立京都病院に奉職。いはほ播水と蜻蛉会に出席、ために新興俳句弾圧の目を逃る。同十八年小スンダ列島に出征、後郷里に開業す。未だ句集を編むに至らず、現在郷土誌「天街」に拠る。

 掲出の三句は、その『現代俳句集(現代日本文学全集九一)』のものである。これらの句は、「ホトトギス」や「蜻蛉会」に投句したものではなかろう。まぎれもなく、静塔らの「京大俳句」の世界のものであろう。この一句目の「スラバヤ」は、昭和十七年(一九四二)の「スラバヤ沖海戦」のそれであろうか。『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「スラバヤ沖海戦(-おきかいせん 1942年2月27-28日)とは太平洋戦争中、 インドネシア・スラバヤ沖で日本軍のジャワ島攻略部隊を連合軍が迎撃した海戦。日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進むこととなった」と紹介されている。
 とすると、この句は、昭和十五年の「京大俳句弾圧事件」以後のもので、左右が「小スンダ列島に出征」していた頃の作であろうか。ここには、それまでの、「ホトトギス」に投句していた左右の影はない。左右は、戦後、いわゆる、「ホトトギス」の「花鳥諷詠」の世界から、この掲出句に見られるような、無季の戦争批判の、より多く「前衛俳句」や「社会性俳句」の世界へと脱皮していったのであろうか。次のネット記事では、次のように紹介されている(なお、同ネット記事によると、1991年6月11日没。)。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku13-4-ta.htm

○終戦後の昭和26年5月、郷里で「天街」を発行主宰している。昭和30年8月に、大阪で波止影夫が「芭蕉」を創刊すると、左右も参加。「芭蕉」は、「天街」「青玄」「薔薇」「激浪」「琴座」などの、旧京大俳句系の参加が多い俳誌だった。左右の俳風は、「京大俳句」に参加していた経緯からも判るように、前衛俳句を中心とし、また社会性俳句にも意欲を燃やした。句集に「熊襲ソング」(1986)「藤後左右句集」(1981)他。

(その七)

○ 裁判長浜が消えたから貝も消えました
○ 裁判長ナミノコガイと云っておいしい貝でした
○ 裁判長浜と貝をかえして欲しいのです
○ 裁判長浜と子供を返して下さい

 藤後左右については、活字(図書)情報よりもネット(ウェブ)情報の方が充実しているのかも知れない。しかし、どちらかというと、戦後の藤後左右を中心として、それは「京大俳句」の新興俳句系の俳人にウェートを置いて紹介されている印象でもある。下記のネット記事のものについても、その年譜のとおり、先に(その六)紹介した年譜の「虚子に師事す」などは、記述されておらず、そこで、紹介されている句(掲出句)などを見ても、完全な「反ホトトギス」系の俳人としてのものであろう。この掲出句は、昭和四十六年当時、志布志湾公害反対連絡協議会会長に就任して、その闘争の過程で得た〈裁判長シリーズ〉のものなのであろうか。ここには、戦前の、「ホトトギス」の巻頭を得た頃の藤後左右の影はない。

http://www.k3.dion.ne.jp/~scarabee/sukajin-ta.htm

○1908年1月21日、鹿児島県曽於郡志布志町の生まれ。俳人。本名、惣兵衛。志布志中学―七高(鹿児島)―京都帝大医学部卒。近世文学研究者の暉峻康隆と同郷。昭和初頭より句作を開始し、「ホトトギス」巻頭を獲得。一躍脚光を浴びる。昭和8年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊に参加。昭和18年、応召し、ジョホールバルで終戦、レンパン島で捕虜生活を送る。昭和21年5月復員。昭和22年、郷里で開業。昭和26年、「天街」創刊主宰。昭和46年、志布志湾公害反対連絡協議会会長に就任。この闘争をへて得た〈裁判長シリーズ〉は有名。昭和47年、南日本文化賞。1991年7月11日没。享年83歳。〈著書〉句集『熊襲ソング』(天街発行所、昭43.7)『藤後左右句集』(永田書房、昭56.6、のち再刊、ユニカラー、昭56.10)『ナミノコ貝』(現代俳句協会、昭61.10)『藤後左右全句集』(ジャプラン、平3.9)〔参考〕国武十六夜『私説・藤後左右』(永田書房、昭57.8)

 この年譜中の「志布志湾開発反対闘争」は、下記のアドレスに詳しい。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/53/rn1983-319.html

(その八)

○ 萩の野は集つてゆき山となる

 この掲出句について、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男)さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20001104,20040816,20051110&tit=%E8%97%A4%E5%BE%8C%E5%B7%A6%E5%8F%B3&tit2=%E8%97%A4%E5%BE%8C%E5%B7%A6%E5%8F%B3%E3%81%AE

○高校の数学の時間に、「演繹(deduction)」「帰納(induction)」という考え方を習った。掲句は四方から「萩の野」が傾斜面をのぼっていき、それらが集まって「山」になったと言うのだから、典型的な帰納法による叙景である。かつての「ホトトギス」で、中村草田男と並び称された藤後左右(とうご・さゆう)の技ありの一句だ。当時の俳人たちを驚かせた一句だと、山本健吉が書いている。そう言われて見回してみると、俳句は演繹による作句法が圧倒的に多いことに気がつく。演繹法は前提をまず認めなければ話にならないので、前提の正しさを保証するために、たとえば有季定型なる約束事があったりする。なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ。人々が掲句に驚いたのは、彼がこの保証書を無意識にもせよ引き裂いているからだろう。たしかに、「萩」なる季語は存在する。しかし、ここで「萩」は他の季語とどのようにでも交換可能だ。「菊」でもよいし「百合」でもよろしい。すなわち、左右の「萩」は演繹法における絶対の前提ではなく、帰納法での特殊な前提の位置にある。具体例をあげるまでもなく、名句の季語は絶対であり動かせない。掲句には誰でもが「なるほど」と感心はするけれど、それ以上に感情移入できないのは、このように絶対の前提を欠いているからである。たしかに技はあるが、実がない。とまあ、せっかくの三連休中に屁理屈をこねまわして御迷惑かと思うが、俳句という文芸様式を考える上では、こんな感想も一興かと……。『熊襲ソング』所収。

 この清水哲男さんの鑑賞文に接して、この掲出句は、昭和四十三年に刊行された『熊襲ソング』所収のものであることが分かる。そして、「かつての『ホトトギス』で、中村草田男と並び称された藤後左右(とうご・さゆう)の技ありの一句だ。当時の俳人たちを驚かせた一句だと、山本健吉が書いている」とあり、戦前の、昭和六年当時の「ホトトギス」投句時代の作品であることも分かる。この「当時の俳人たちを驚かせた一句」ということの理由を、清水哲男さんは、「『萩の野』が傾斜面をのぼっていき、それらが集まって『山』になったと言うのだから、典型的な帰納法による叙景である」として、「俳句は演繹による作句法が圧倒的に多いことに気がつく。演繹法は前提をまず認めなければ話にならないので、前提の正しさを保証するために、たとえば有季定型なる約束事があったりする。なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ。人々が掲句に驚いたのは、彼がこの保証書を無意識にもせよ引き裂いているからだろう。たしかに、『萩』なる季語は存在する。しかし、ここで『萩』は他の季語とどのようにでも交換可能だ。『菊』でもよいし『百合』でもよろしい。すなわち、左右の『萩』は演繹法における絶対の前提ではなく、帰納法での特殊な前提の位置にある。具体例をあげるまでもなく、名句の季語は絶対であり動かせない。掲句には誰でもが『なるほど』と感心はするけれど、それ以上に感情移入できないのは、このように絶対の前提を欠いているからである。たしかに技はあるが、実がない」と、明解な、藤後左右俳句の評を下している。この「帰納法的な叙景句」という理解は、戦前の藤後左右の俳句の特徴をよくとらえている感を大にする。左右は医師であり、医師特有の「帰納法」的な視点での作句で、この点で、他の多くの俳人の演繹的な視点での作句と味わいの違ったものを現出している。さらに、この帰納法的な作句では、「季語は絶対的な要件でない」との指摘は、戦後の左右の前衛俳句・社会性俳句の無季俳句への転向を見ていくと、大きな示唆を含んでいる。この清水哲男さんの藤後左右俳句の鑑賞は、最もその中枢を貫いているものという思いを深くした。

(その九)

○ 新樹並びなさい写真撮りますよ

この掲出句は、下記のアドレスの「かごしま近代文学館」のネット記事のものである。ここで、戦後の、藤後左右の俳句観などが紹介されている。

http://www.kinmeru.or.jp/literature/WebRefresher/view.cgi?DIR=020&TITLE=%93%A1%8C%E3%8D%B6%89E%81w%90V%8E%F7%82%C8%82%E7%82%D1%82%C8%82%B3%82%A2%81xH18.1.5

○藤後左右『新樹ならびなさい』1989(平成元)年 ジャプラン
 1930(昭和5)年、当時、水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十ら四Sの独占時代だった「ホトトギス」の巻頭を飾り、一躍俳句界のスターとして登場した藤後左右は、徐々に五・七・五の俳句の型に疑問を覚え始めます。そして、後年、口語俳句六・八・六型を提唱していきました。その理念を左右自身の中で定着させたのが1980(昭和55)年、鹿児島の大隅湖畔で詠んだ
「新樹並びなさい写真撮りますよ」
の句でした。この句について左右は、「出来たときには蟻地獄から這いあがったような気がした。自然といかに取り組むかというのが句作根本理念であった私にとって、この作品はまさに左右開眼の句だと思っている」(『新樹ならびなさい』あとがき)と述べています。左右3作目の出版となった本書は、この句から名前を付けました。この句集を口語俳句六・八・六型の「実験作品」と左右は述べていますが、他にも
「みんな自生のつつじです丘ごとです」
「春の下駄お元気ですねといわれちゃった」など、左右らしい自由な句が並んでいます。

 この左右の紹介記事で、「徐々に五・七・五の俳句の型に疑問を覚え始めます。そして、後年、口語俳句六・八・六型を提唱していきました」の、この「口語俳句六・八・六型」と、先に、左右の無季俳句というものを見て、今度は、「五・七・五」の定型破壊と突き進んでいるのは、戦前の「ホトトギス」出身の俳人とは別人かという趣すらしてくる。おそらく、「ホトトギス」巻頭俳人のうちでも、ここまで、徹底した、新しい俳句の世界を模索していった方は、皆無なのではなかろうか。また、この掲出句について、「出来たときには蟻地獄から這いあがったような気がした。自然といかに取り組むかというのが句作根本理念であった私にとって、この作品はまさに左右開眼の句だと思っている」という左右の思いは、この「自然といかに取り組むかというのが句作根本理念」ということに関連して、左右が、そのスタート時点で師事した、「ホトトギス」の総帥・高浜虚子の「花鳥諷詠」俳句の世界の、新しいステップという感慨を、左右自身抱いていたような感が拭えないのである。

(その十)

○ 夏山と溶岩(ラバ)の色とはわかれけり    左右
○ 溶岩(ラバ)色を重ねて古りて冬ざれて    年尾
○ 溶岩に秋風の吹きわたりけり        虚子

 掲出の三句は、下記のアドレスの「桜島句碑めぐり」からのものである。

http://www4.synapse.ne.jp/mokka/tabi/040417/040417kuhi.htm

 この一句目の「溶岩」に「ラバ」のルビ付きの左右の句は、戦前の「ホトトギス」投句時代のものであろう。上記のネット記事では、「志布志出身の藤後左右の句碑が雄大な桜島をバックに、東屋のある展望所に建立されています。溶岩を英・独語読みで「らば」と読んで初めて句に用いたのも、この藤後左右でした」とあり、この「溶岩」を「ラバ」と詠むのは、当時においては新鮮であったのだろう。この句も、左右の「帰納法」的な作句で、
「夏山の遠景の美しい青い色と、近景の溶岩の茶褐色の色とは、画然と一線を画している」というような句意であろうか。この句は、季語の「夏山」と実景の「溶岩」とを対比させて、夏山の焦点化に成功している一句であろう。掲出の二句目は、虚子のご子息の高浜年尾の句で、やはり、「溶岩」を「ラバ」と詠んでのものである。この年尾の句の「溶岩」は、多分に、左右の「溶岩」の句を意識してのものであろうか。これ以後、「溶岩」を「ラバ」との外来語的な詠みをしばしば見掛けるようになる。その先例的な句が、この一句目の左右の句と言っても良いのかも知れない。しかし、左右そして年尾の師匠に当る「ホトトギス」の総帥・高浜虚子は、同じ、桜島を詠んでも、掲出の三句目のとおり、「溶岩」は「ようがん」の詠みであり、自分が選句した、地元の鹿児島出身の左右の「溶岩」を「ラバ」とする詠みは採ってはいない。その上で、これらの掲出の三句を見て、三句目の虚子の、一句一章的な、「溶岩」の句というよりも「秋風」の句に、他の二句よりも共感を覚えるのである。そして、その背景には、芭蕉の「おくのほそ道」での名吟、「石山の石より白し秋の風」の、その「秋風」の本意、それは、現代俳句ですれば、山口誓子の「ひとり膝を抱けば秋風また秋風」の、この「秋風」の本意、「身に沁みてあわれを添える」風情が、詠み手に直に伝わってくるからに他ならない。そして、それは、先の清水哲男さんの藤後左右俳句の鑑賞(その八)からすると、「なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ」ということに関連してくるのであろう。このことに関して、ここでも繰り返すこととなるが、左右の俳句の季語感というのは、例えば、この一句目の、季語の「夏山」と、実景の「溶岩」に、外来語の「ラバ」とルビを振っての、この並列的な句作りに、決して、左右は、「夏山」の季語としての本意などは眼中にないのである。どちらかというと、この時の、左右の心を動かしたのは、「溶岩」の、その非情緒的な、地下の「マグマ」の結晶物を、いかに表現するかということでもあったのかも知れない。そして、それが、「マグマ」に匹敵するような外来語の「ラバ」という詠みになって、それが、この一句の生命線にもなっているのである。藤後左右は、そのスタートの時点から、これまでに余り見かけなかった新しい視点と新しい造語感覚をもって、それが、当時の虚子の目にとまったのであるが、戦争で句作を中断して、戦後に、左右の多くの仲間の「前衛俳句・社会性俳句」の世界に直面して、完全に、脱「虚子」の世界へと移行した典型的な俳人といって差し支えないのであろう。そして、藤後左右の俳句は、その「戦前」の俳句と、その「戦後」の俳句とは、全然異質の世界のものという理解をして、その上で、改めて「藤後左右の俳句」の全体像を把握するという、二段ステップの鑑賞方法が強いられるような思いを深くする。