日曜日, 10月 15, 2023

続「漱石の世界」(その一~その十五)

子規・漱石・寅彦・東洋城:俳諧と美術:SSブログ (ss-blog.jp)

(その一)

(漱石・二十三歳。子規見舞い二句)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-19

(再掲)

漱石の俳句は、明治二十二年(一八八九)に、東京大学(予備門)での、正岡子規との出会いによる、次の二句から始まる。

1  帰ろふと鳴かずに笑へ時鳥  (漱石・23歳「明治22年(1889)」)
2  聞かふとて誰も待たぬに時鳥 (漱石・23歳「明治22年(1889)」)

≪季語=時鳥(夏)。「時鳥」の異名「不如帰」(帰るに如かず)に託して喀血した正岡子規を激励した句。子規と時鳥とは同義。正岡子規は明治二十二年五月九日に喀血した。翌日、医者に肺病と診断され、「卯の花をめがけてきたか時鳥」「卯の花の散るまで鳴くか子規」などの句を作った。卯の花を自分になぞらえ(子規は卯年生れ)、肺病(結核)を時鳥と表現俳句。(中略) 子規はこれらの俳句を作ったことから、自ら子規と号するようになった。この年の一月頃に急速に親しくなった漱石は、五月十三日に子規を見舞い、その帰途に子規のかかっていた医師を訪ねて病状や療養の仕方を聞いている。(後略 )≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

(その二)

(漱石・二十四歳。帝国大学文化大学英文科入学。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-21

4 寐てくらす人もありけり夢の世に(「眼病で退屈している」旨の子規宛書簡、無季)
6 東風吹くや山一ぱいの雲の影(「東風(こち)」=東から吹く風。春風)
(※=付記)
※2337 春風に吹かれ心地や温泉(ゆ)の戻り(大正三年作。四十八歳)


(その三)

(漱石・二十五歳。七月、親しかった兄嫁・登世没)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-21

23 朝貌に好かれそうなる竹垣根 (季=「朝貌」=「朝顔」=秋。)
25 朝貌や咲た許りの命哉(「悼亡十三句」(嫂登世の追悼句)、冒頭の句。「朝顔=秋」。)
(付記)
26 細眉を落す間もなく此世をば (「同上」、無季の句。)
27 人生を廿五年に縮めけり (「同上」、無季。)
28 君逝きて浮世に花はなかりけり (「同上」、花(春)の句とうより無季の句。)
29 仮位牌焚く線香に黒む迄 (「同上」、無季の句。「通夜」の句。)
30 こうろげの飛ぶや木魚の声の下 (「同上」、「こうろげ=こおろぎ=秋」。「通夜」の句)
31 通夜僧の経の絶間やきりぎりす (「同上」、「きりぎりす=秋」、「通夜」の句)
32 骸骨や是も美人のなれの果 (「同上」、無季、「骨揚(こつあげ)のとき」の句)
33 何事ぞ手向し花に狂ふ蝶 (「同上」、「花・蝶=春)」、「無季(花=亡嫂、蝶=漱石)」)
34 鏡台の主の行衛や塵埃 (「同上」、無季。「初七日」の句)
35 ますら男に染模様あるかたみかな (「同上」)
36 聖人の生れ代りか桐の花 (「同上」、「桐の花」=夏、「朝顔の花」=秋。)
37 今日よりは誰に見立ん秋の月(「同上」、「秋の月」=秋。「月」=亡嫂の見立て。)


(その四)

(漱石・二十六歳。五月、東京専門学校講師となる。)

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(再掲)

38 鳴くならば満月になけほとゝぎす(落第した子規に「退学するな」の意を込めての句。)
39 病む人の巨燵離れて雪見かな(子規書翰「東京専門学校講師」の評判=「悪」との返句。)




「病床図画賛/鳴雪・四方太書/子規画/紙本墨書/29.7×45.7㎝」
≪明治三十二年頃の作か。ほぼ同種の画と賛のものが遺っている。病床に筆をとる子規の写生画に、
  湯たんぽに足のとどかぬふとん哉 方(四方太)
  画箋紙に鼻水にじむ寒かな    鳴雪
の賛がある。同冬十二月初旬に病室の南手にガラス戸が入り、暖炉が設けられ暖かい冬を過ごすことが出来た年のことである。(後略)

※内藤鳴雪=俳人。江戸に生まれる。本名素行。松山藩校明教館・昌平黌で漢学を学ぶ。明治に入り文部省に勤務。藩の常盤会寄宿舎の舎監となり正岡子規を知り句作、日本派の長老と仰がれた。句集に「鳴雪句集」「鳴雪俳句鈔」など。弘化四~大正一五年(一八四七‐一九二六) (「精選版 日本国語大辞典)」

※阪本四方太=俳人。本名四方太(よもた)。鳥取県出身。東大国文科卒。正岡子規の指導をうけ、俳誌「ホトトギス」に俳句と共に多くの写生文を発表した。著に「夢の如し」など。明治六~大正六年(一八七三‐一九一七) (「精選版 日本国語大辞典)」  ≫


(その五)

(漱石・二十七歳。帝国大学文化大学卒業。高等師範学校英語教師。)

1218 槽底に魚あり沈む心太(明治三十年作。「子規へ送りたる句稿二十五」)
1557 蒟蒻に梅を踏み込む男かな(明治三十二年作。「子規へ送りたる句稿三十三」)  
1951 ところてんの叩かれてゐる清水かな(明治四十年作。「手帳より」)


(その六)

(漱石・二十八歳。小石川の尼寺法蔵院に下宿。)

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40 何となう死に来た世の惜まるゝ
41 春雨や柳の中を濡れて行く
42 大弓やひらりひらりと梅の花
43 矢響の只聞ゆなり梅の中
44 弦音にほたりと落る椿かな
45 弦音になれて来て鳴く小鳥かな
46 春雨や寐ながら横に梅を見る
47 烏帽子着て渡る禰宜あり春の川
48 小柄杓や蝶を追ひ追ひ子順礼
49 菜の花の中に小川のうねりかな
50 風に乗って軽くのし行く燕かな
51 尼寺に有髪の僧を尋ね来よ
52 花に酔ふ事を許さぬ物思ひ
















「夏目漱石短冊『君を苦しむるは詩魔か病魔かはた情魔か/花に酔ふ事を許さぬ物思ひ』」
(注記・寒川鼠骨函書:「明治廿四年子規居士病む漱石慰問の尺牘に此短冊を添へて贈れり」) (「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

≪  君を苦しむるは詩魔か病魔かはた情魔か/寄子規
52 花に酔ふ事を許さぬ物思ひ (漱石・28歳「明治27年(1894)」)
≪ 季=花(春)。 ◇全集(大6)に明治二十七年頃として収める。(上記の「夏目漱石デジタルコレクション」では、寒川鼠骨函書により[1891(明治24).3-4]としている。)≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)  ≫

(その七)

(漱石・二十九歳。四月、松山中学校教師として赴任。六月、松山市二番町の「愚陀仏庵」。八月、子規が寄寓して、十月に帰省するまで作句に励む。「子規宛句稿が始まる(一~九)。東洋城、松山在学中に漱石に英語を教わる。)

511 いそがしや霰ふる夜の鉢叩
512 十月の月ややうやう凄くなる
513 山茶花の垣一重なり法華寺
514 行く年や膝と膝とをつき合せ
515 雪深し出家を宿し参らする
516 詩神とは朧夜に出る化ものか
≪ 季=朧夜(春)。※漱石は虚子の「松山的ならぬ淡泊なる処、のんきなる処、気の利かぬ処」などを愛した(子規宛書簡)。(後略)  ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)


(その八)

(漱石・三十歳。四月、熊本第五高校講師として赴任。六月、中根鏡子と結婚。「子規宛句稿が始まる(十~二十一)。東洋城、漱石に句を送り、添削を乞う。)

766 待つ宵の夢ともならず梨の花(明治二十九年「子規へ送りたる句稿十四」) 

(寅彦・十九歳。高知県尋常中学校首席で卒業。熊本第五高等学校に入学する。)

ごみをかぶる柳の下のポストかな(明治三十一~二年作)
県庁の柳芽をふく広小路(同上)
門前に泥舟つなぐ柳哉(同上)
招集の掲示を撫る柳哉(同上)
雨の家鴨柳の下につどひけり(同上)
二階から女郎が手招く柳かな(明治三十二年作)
煙草屋の娘うつくしき柳かな(明治三十三年作)

(その九)

(漱石・三十一歳。「子規宛句稿(二十二~二十七)。)

1003 汽車を遂(とひ)て煙這行(はひゆく)枯野哉(明治三十年「子規へ送りたる句稿二十一」)
1007 かたまつて野武士落行(おちゆく) 枯野哉(明治三十年「子規へ送りたる句稿二十一」)
1008 星飛ぶや枯野に動く椎の影(同上。前書「魏叔子(ぎしゅくし)大鉄推伝一句」)
1009 島一つ吹き返さるゝ枯野かな(同上)

(その十)

(漱石・三十二歳。寅彦に「俳句とはレトリックを煎じ詰めたものだ」を教授する。東洋城、子規庵の句会に出席。「子規宛句稿(二十八~三十一)。)

106 驀地に凩ふくや鳰の湖 (明治二十八年。「子規へ送りたる句稿一」)
114 凩に裸で御はす仁王哉 (同上。「子規へ送りたる句稿二」)
127 凩に鯨潮吹く平戸かな (同上)
133 凩や弦のきれたる弓のそり(同上)
259 凩や滝に当つて引き返す(同上。「子規へ送りたる句稿五」)
304 木枯の今や吹くとも散る葉なし(同上。「子規へ送りたる句稿六」)
309 凩の上に物なき月夜哉(同上)
311 凩や真赤になつて仁王尊(同上)
474 凩に牛怒りたる縄手哉(同上。「子規へ送りたる句稿九」)
479 凩や冠者の墓撲つ落松葉(同上)
533 凩に早鐘つくや増上寺 (明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十」)
969 凩や海に夕日を吹き落す(同上。子規へ送りたる句稿二十一」)
980 凩の松はねぢれつ岡の上(同上)
982 策つて凩の中に馬のり入るゝ(同上)
1308 凩や鐘をつくなら踏む張つて(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十七」)
1341 凩の沖へとあるゝ筑紫潟(明治三十一年)


(その十一)

(漱石・三十三歳。五月、長女(筆子)誕生。子規宛句稿(三十二~三十五)。)

161  はらはらとせう事なしに萩の露(明治二十八年。「子規へ送りたる句稿一」)
896  垂れかゝる萩静かなり背戸の川(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十七」)
897  落ち延びて只一騎なり萩の原(同上)
1264  萩に伏し薄にみだれ故里は(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十六」)
1395  早稲晩稲花なら見せう萩紫苑(明治三十一年。「子規へ送りたる句稿三十」)
1678  白萩の露をこぼすや温泉の流(明治三十二年。「子規へ送りたる句稿三十四」)
1688  灰に濡れて立つや薄と萩の中(同上)
1689  行けど萩行けど薄の原広し(同上)
1860  伏す萩の風情にそれと覚りてよ(明治三十七年) 


(その十二)

(漱石・三十四歳。英国留学。)

11  さみだれに持ちあつかふや蛇目傘(明治二十四年)
185  五月雨ぞ何処まで行ても時鳥(明治二十八年。「子規へ送りたる句稿三」)
499  馬子歌や小夜の中山さみだるゝ(同上。「子規へ送りたる句稿九」)
798  海嘯去つて後すさまじや五月雨(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十五」)
935  橋落ちて恋中絶えぬ五月雨(同上。「子規へ送りたる句稿十九」)
938 五月雨や鏡曇りて恨めしき(同上)
1196 五月雨や小袖をほどく酒のしみ(同上。「子規へ送りたる句稿(二十五))
1197 五月雨の壁落しけり枕元(同上)
1198 五月雨や四つ手繕ふ旧士族(同上)
1199 目を病んで灯ともさぬ夜や五月雨(同上)
1213 五月雨の弓張らんとすればくるひたる(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十五」)
1215 水攻の城落ちんとす五月雨(同上)
2082 五月雨や主と云はれし御月並(明治四十一年)
2091 一つ家を中に夜すがら五月雨るゝ(同上)
2098 五月雨やももだち高く来る人(明治四十二年)


(その十三)

(漱石・三十五歳。)

112 この夕野分に向て分れけり(明治二十八年。「子規へ送りたる句稿一」)
206 鎌倉堂野分の中に傾けり(同上。「子規へ送りたる句稿四」)
219 四里あまり野分に吹かれ参りたり(同上)
240 荒滝や野分を斫て捲き落す(同上)
257 野分吹く瀑砕け散る脚下より(同上)
258 滝遠近谷も尾上も野分哉(同上。「子規へ送りたる句稿五」)
505 野分して朝鳥早く立ちけらし(同上。「承露盤」より)
954 野分して一人障子を張る男(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿二十」)
1246 砂山に薄許りの野分哉(明治三十年。「七月四日~九月七日まで上京。子規句会」)
1296 野分して蟷螂を窓に吹き入るゝ(明治三十年。「子規へ送りたる句稿二十六」)
1425 病癒えず蹲る夜の野分かな(明治三十一年。「子規へ送りたる句稿三十一」)
1808 礎に砂吹きあつる野分かな(明治三十四年。「ロンドン在留邦人句会での作」)
1809 角巾を吹き落し行く野分かな(同上)
1899 釣鐘のうなる許りに野分かな(明治三十九年。「東洋城宛書簡」)


(その十四)

(漱石、三十六歳。十二月、帰国の途につく。その直前に子規没との虚子・碧悟桐の書翰が届く。)

66  風ふけば糸瓜をなぐるふくべ哉(明治二十八年)
904  長けれど何の糸瓜とさがりけり(明治二十九年。「子規へ送りたる句稿十七」)
1737 容赦なく瓢を叩く糸瓜かな(明治三十二年。「子規へ送りたる句稿三十五」)
1848 一大事も糸瓜も糞もあらばこそ(明治三十六年)


(その十五)

(追記)

   倫敦にて子規の訃を聞て(五句)
1824 筒袖や秋の棺にしたがはず (漱石・36歳「明治35年(1902)」) 
≪ 季=秋(雑)。※子規は九月十九日に他界した。虚子から要請のあった子規追悼文に代えてこれらの句を送った。その書簡では子規の死について、「かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候」と述べている。その後で、「子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖にてピステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーブの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば、只申訳の為め御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候」と言い、これらの句を記した。句のあとに「皆蕪雑句をなさず。叱正」とある。筒袖は洋服姿。◇書簡(高浜虚子宛、明治35.12.1)。雑誌「ホトトギス」(明治36.2)。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1825 手向くべき線香もなくて暮の秋 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=暮の秋。◇1824。≫(「同上」)
1826 霜黄なる市に動くや影法師 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=霧(秋)。◇1824。(「同上」)≫
1827 きりぎりすの昔を忍び帰るべし (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=きりぎりす(秋)。◇1824。≫(「同上」)
1626 招かざる薄に帰り来る人ぞ (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=薄(秋)。◇1824。≫(「同上」)

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