土曜日, 6月 03, 2017

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)


蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)








「諸家寄合椀」(十一合)のうちの「若冲筆・梅図」



『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』

所収「作品解説(4)」では、「朱塗りの椀の外側に墨で絵付けをした作品。十一合あり」

とし、その「三、伊藤若冲筆『梅図』」で、「署名は身部分に『米斗翁八十五戯画』とあり、左下に花押と思われる墨書がある。署名より、寛政十ニ年(一八〇〇)亡くなる年の絵付けである」としている。

 この「米斗翁八十五戯画」の書名は、「諸家寄合膳」の「伊藤若冲筆、四方真顔賛『雀鳴子図』にもあり、この両者は同時の作のようである。 

 そして、「若冲と蕪村関連年表」(上記書所収)の若冲の項に、「寛政十ニ年(一八〇〇)

八五 『諸家寄合膳』のうち『梅図』(作品4)、『松尾芭蕉図』(作品102)※、『霊亀図』

(作品223 四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席 九月十日没」とあり、若冲が亡くなった年の作とされている。

 この年表の注意事項に、「年齢は数え年で、制作年に関しては若冲、蕪村ともに落款にある年齢や年代の表記にしたがった。※は、款記と賛の年が異なることを示す」とあり、その※のある「松尾芭蕉図」(伊藤若冲筆 三宅嘯山賛)の「作品解説102」は、次のとおりである。

 

[ 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられる。

なお、嘯山の賛は八十ニ歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五戯画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。

「爽吾」(白文方印)     芭蕉

春もやゝけしき調ふ月と峰

初時雨猿も小蓑をほしけなり

            八十二

             嘯山書

「芳隆之印」(朱文方印)「之元」(白文円印)       ]

(『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』

所収「作品解説(102)・石田佳也稿」)



  ここに出て来る「改元一歳加算説」というのは、「若冲還暦以後改元年齢加算説」(『若冲《伊藤若冲画、狩野博幸 監修・執筆、紫紅社》』)のことで、狩野博幸氏の主唱しているものである。

 確かに、若冲が亡くなる寛政十二年(一八〇〇)の、「四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席 九月十日没」の短い期間に、「諸家寄合膳」のうちの「梅図」(作品4)、「松尾芭蕉図」(作品102)、「霊亀図」(作品223)などを手掛けるということは至難のことだという思いがして来る。また、画と賛との関係からしても、「若冲還暦以後改元年齢加算説」が、自然のように思われる。

 しかし、その説が極めて自然で、正鵠を得たものとしても、現に存在する落款の署名に明記しているものを基礎に据えることは、これまた基本的なことなのであろう。



 それにしても、蕪村が初めて『平安人物史』に登場する明和五年(一七六八)版の「画家」の部で登載されている順序は、「円山応挙・伊藤若冲・池大雅・与謝蕪村」の順であり、その若冲が、先の「諸家寄合膳」では八番目、この「諸家寄合椀」では三番目で、何故、若冲のみ「応挙・大雅・蕪村」に並列しないで別扱いにしているのだろうか。また、何故、若冲のみ、「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の両方にあるのだろうか、次から次と疑問が湧いて来る。

 とすると、全くの類推以外の何物でもないのだが、これらは、例えば、明和八年(一七七一)の大雅と蕪村との合作の「十便十宣帖」のように、明確なテーマのもとに作者・賛者を人選しての綿密な企画を立ててスタートしたものではなく、結果的に、今日のような、「諸家寄合膳」(二十枚)、そして、「諸家寄合椀」(十一合)のみのものが、現にセットになって伝えられているもののような思いを抱くのである。

 すなわち、例えば、若冲が、京都の「青物問屋」の「枡屋」(家名と併せて通称『枡源』)」の大旦那であった画人とすると、それらに類する、京都の「漆問屋」(「画具・紅染・漆商」等の問屋)などが介在しての、極端に言うと、今でいう特定の文人・趣味人向けの、言わば「陳列品・グッズ商品」の逸品のようなもので、それらが、たまたま「旧蔵者」として箱書きにある日本画家の江戸時代末期から明治期に掛けての「雨森白水」の手に渡ったようなものなのかも知れない。

 そして、この種のものは、完全にオリジナル(他の手を煩わせていない作者・賛者の真筆)なものなのかどうかという一抹の疑問すら拭えないのである。

 すなわち、またまた、類推以外の何物でもないのだが、例えば、晩年の若冲の、石峰寺の五百羅漢のように、若冲が「下絵」を描き、石工が仕上げるというように、この種の「朱塗膳・朱塗椀」の作製の絵付けなどにおいては、塗師(塗り師)の何らかの支援が必須なのではないのかという、そんな素朴な思いを抱くのである。

 なお、この「諸家寄合椀」の絵師(十二人)については、別記二のとおりである。これらの絵師は、「諸家寄合膳」に比すると、狩野派(英派・鶴沢派)や土佐派の旧派系の者が多く、新派(南画・写生派・奇想派)の絵師も、比較的狩野派に近い者が多い感じである。



(補記一)



「関西大学創立120周年記念講演会 大坂画壇の絵画」(中谷伸生氏の講演記録―「関西大学学術リポトリジ」)の中で、「一 大坂画壇の評価について 二 木村蒹葭堂の画業と生涯 三 蒹葭堂と大坂画人による合作 四 蒹葭堂と交際した大坂の画家たち 五 岡田半江とその周辺の文人画 六 大坂の画家たちとその評価」について簡潔に触れられていた。その「三 蒹葭堂と大坂画人による合作」の中で、関西大学図書館所蔵の「大坂文人合作扇面」(紙本墨画淡彩)と共に、個人蔵(海外)の「諸名家合作(松本奉時に依る)」(紙本墨画淡彩・ 111.0×60.0㎝)が紹介されている。ここに登場する何人かの画人は、「諸家寄合膳」「諸家寄合椀」に登場する画人と一致する。ちなみに、「諸名家合作(松本奉時に依る)」の画人は、次のとおりである。



慈雲飲光、日野資技、西依成斉、中井竹山、六如慈周、細合半斉、皆川淇園、墨江武禅、福原五岳、中江杜徴、森周峯、圓山応瑞、奥田元継、森祖仙、木村蒹葭堂、伊藤若冲、伊藤東所、長沢芦雪、月僊、上田耕夫、篠崎三嶋、呉春



(補記二)



上記の『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(102)・石田佳也稿」で紹介されている「三宅嘯山」については、「蕪村の花押(その一)」の冒頭で取り上げている。そこで取り上げた蕪村書簡(嘯山宛て)の署名の後の花押(「槌」のような、「経巻」のような、「嚢」のような、謎めいた花押)の周辺を探りたいというのが、そもそもの発端であった。その花押と、現に取り上げている「諸家寄合膳」(三 蕪村筆「翁自画賛」)での蕪村花押がどうに「一致しないのである(これは、後日取り上げていくことになる)。ここで、「蕪村の花押(その一)」で取り上げた蕪村書簡(嘯山宛て)を再掲して置きたい。









  蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))





(別記二)「諸家寄合椀」作者一覧



一 呉春(ごしゅん、宝暦二年・一七五二~文化八年・一八一一) 江戸時代中期・後期の絵師。四条派の始祖。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌。通称を文蔵、嘉左衛門。号には呉春のほかに月溪(げっけい)、可転、蕉雨亭など。初期の号の松村月渓も広く知られる。京都堺町の生まれ。安永二年(一七七三年)の頃に、与謝蕪村の内弟子として入門、俳諧や南画(文人画)を学ぶ。天明元年(一七八一)の頃、身内の不幸に遭い、蕪村門下の俳人・川田田福を頼り、現在の大阪府池田市に転地療養し、この地の古名である「呉服(くれは)の里」に因み、呉春を名乗るようになる。蕪村没後、蕪村と交流があった応挙が、呉春の画才を高く評価し、「共に学び、共に励む」の客分待遇で、応挙門となり、応挙没後は、京都画壇の中心となり、その画派は呉春の住む場所から四条派と呼ばれた。後に師の応挙と合わせて円山・四条派と呼称され、近現代にまで連なる京都日本画壇の遠祖となった。

二 高嵩谷(こう すうこく、享保十五年・一七三〇~文化元年・一八〇四) 江戸時代中期の絵師。佐脇嵩之の門人。江戸の人。高久氏。名は一雄。明和頃から主に英一蝶風の洒脱な肉筆画や役者絵などを描いている。高嵩月は門人。

三 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう、正徳・一七一六~寛政十二年・一八〇〇)

(別記一)「諸家寄合膳」作者一覧に記載。

四 英一峰(はなぶさ いっぽう、元禄四年・一六九一~宝暦十年・一七六〇) 江戸時代中期の絵師。英一蝶の高弟。

五 黄(横山)崋山(よこやま かざん、天明元年・一七八一~天保八年・一八三七) 江戸時代後期の絵師。名は暉三、または一章。京都出身(越後出身説あり)。福井藩松平家の藩医の家に生まれる。西陣織業を営む横山家の分家横山惟聲の養子となり、本家が支援した曾我蕭白に私淑。長じて岸駒に師事、のちに円山応挙や四条派の呉春の影響を受けた。

六 土佐光貞(とさ みつさだ、元文三年・一七三八~文化三年・一八〇六) 江戸時代中期の絵師。宝暦四年(一七五四)に分家して、土佐宗家の兄とともに絵所預(えどころあずかり)となる。寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際,宗家の土佐光時(みつとき)をたすけ,障壁画の制作にあたった。号は廷蘭。

七 村上東洲(むらかみ とうしゅう、?~文化三年・一八二〇) 江戸中期・後期の絵師。京都の生まれ。名は成章、字は秀斐。僧鼇山(一説には大西酔月)に学び、人物・山水を能くした。

八 鶴沢探泉(?~文化十三年・一八〇九) 江戸時代中期・後期の画家。父は鶴沢探索。狩野派鶴沢家四代。法眼。名は守之。

九 森周峯(もり しゅうほう、元文三年・一七三八~文化六年・一八二三) 江戸時代中期・後期の大坂画壇で活躍した森派の絵師の一人。姓は森、名は貴信。俗称は林蔵。周峰(峯)、杜文泰、鐘秀斎と号す。森如閑斎の次男であり、森陽信の弟、森狙仙の兄であった。

十 宋紫山(そう しざん、享保十八年・一七三三~文化二年・一八〇五) 江戸中期・後期の画家。江戸の生まれ。父は宋紫石、子は紫岡。姓は楠本。名は白圭、別号に雪渓(二世)・雪湖(二世)など。画を父に学び、山水花鳥を能くする。

十一 森狙仙(もり そせん、寛延元年・一七四七~文化四年・一八二一) 江戸時代中期・後期の絵師。通称は八兵衛、名を守象、号としては祖仙、如寒斎、霊明庵、屋号の花屋も用いた。狩野派や円山応挙などの影響を受けながら独自の画風を追求し、養子森徹山へと連なる森派の祖となった。主として動物画を描き、とりわけ得意とした猿画の代表作として『秋山遊猿図』がある。




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