月曜日, 5月 29, 2017

呉春筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」


呉春(月渓)筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」




















                                                                            
雨森章迪賛 紙本墨書一枚 二五・六×三七・三

署名「盟弟雨森章迪慟泣拝書」 印章「章」「迪」(白文連印) 





























                                                                                      

呉春筆 紙本墨画淡彩 一幅 二五・七×一四・三

署名「辛酉十二月廿五日 呉春拝写」 印章「呉」「春」(白文連印)  



 平成二十年(二〇〇八)三月十五日から六月八日(日)にかけてMIHO MUSEUMで開催された春季特別展「与謝蕪村―翔()けめぐる創意(おもい)」に出品されたものである。

 その図録の「作品解説」(岡田秀之)は次のとおりである。



[ 呉春(松村月渓)が宗匠頭巾をかぶる蕪村の右側からみた姿を描いた作品。落款から没後十八年の享和元年(一八〇一)に、蕪村の命日十二月二十五日に描かれたことがわかる。この図の上部には本来雨森章迪の賛があり、蕪村追善集『から檜葉』天明四年(一七八四)に載る追悼文とほぼ同じで、現在は、絵と賛が別になっている。この作品の外箱には、鉄斎の筆で「謝蕪村翁肖像 呉月渓/雨森章迪画賛 鉄斎外史題」とあり、鉄斎はこの図をもとに蕪村の肖像画を数点描いている。

賛 ()  ]

(『与謝蕪村―翔()けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169))



 上記の「作品解説(169)」に掲載されている「賛」(漢文)を、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)のもので、読みと簡単な注を付し(括弧書き)掲載して置きたい。



(雨森章迪「賛」)



[ 哭(「画賛」では「奉哭」)

謝蕪村先生(画賛」では「蕪村謝先生」)

先生ノ文(俳諧)()ノ伎ニ於ケル、只独リ描事ニコレ力(つと)メ、晩ニシテ事業愈(いよいよ)長ズ。

刻画(細かく輪郭づけて描く北宗画)似不似ノ論ニ唾シ、終(つひ)ニ模写倣傚(ほうこう=真似)、牽率(一派を率いる)シテ成ル者トハ大イニ異ル。

而シテ自ラ謝氏一家ノ墨()ト称シ、倣然(ごうぜん)トシテ世ト乖張(かいちょう=反旗を張る)ス。

(さなが)ラ婆蘿林(釈迦の入滅した娑羅の林)中ノ最後ノ説法ノ如シ。

六師(六師外道=異端の徒)幺魔(幼魔=心無い輩)、聴ク者益(ますます)(おそ)ル。

今年﨟月(臘月=陰暦十二月)(一瞬=急に)五病ニ罹(かか)リテ卒(しゅつ=死)ス。

嗚呼(ああ)天斯()ノ人ニ殃(わざわい=神の咎め)シ、斯の道に殃ス。

(てき=雨森章迪)ヤ三十年ノ旧盟(旧い同志)ニシテ、楚惜(耐え難い惜別)の念、噬臍(ぜいせい=臍を噛む)尽キズ。

哭詩二章ヲ(てん=供え祀る)シ、聊(いささ)カ悲痛牢騒(ろうそう=牢固たる騒ぎ)ノ万一ヲ

()ブルト云ウ。



江山一墨生痕ヲ溌シ、画禅ニ晤入(ごにゅう)シテ独尊ト称ス。

元是レ天然ノ大才子、周行七歩謝蕪村。



(たちま)チ三冬臥病ノ身ト作()リ、硯墨(けんぼく)ニ親マズ薬ニ惟()レ親ム。

没却(もっきゃく)ス江山筆々ノ春



                          盟弟 雨森章迪拝書  ] 



 蕪村は天明三年(一七八三)十二月二十五日、六十八歳で没したが、その没後七々日(四十九日)を限りとして、諸家から寄せられた句文・詞章を集めた追善集『から檜葉(上下)』が、その翌年の一月、後に、夜半亭蕪村の後を継ぎ、夜半亭三世となる高井几董によって編まれた。書名は、蕪村の死の翌日に夜半亭で興行した一順追善俳諧の発句「から檜葉の西に折るゝや霜の声(几董)」から取られている。

 上巻には、主として夜半亭・春夜社(几董の社)中の悼句を収め、その跋文は、蕪村が葬られる金福寺の、その金福寺に蕪村が在世中に再興した芭蕉庵の、その再興の要となった樋口道立(漢詩人・江村北海の次男、川越藩京都留守居役の要職にあった儒者にして俳人)が起草している。

 下巻には、暁台の悼句を立句とする几董以下一門の歌仙、さらに杜口・蝶夢・闌更・旧国(大江丸)・無腸(上田秋成)・蓼太らの句文を収め、その跋文は、蕪村が葬られた後に、金福寺境内に蕪村句碑を建立した、蕪村門最大の後援者であった糸物問屋「堺屋」の惣領にして俳人の寺村百池である。蕪村百回忌には、その孫の百遷によって「蕪村翁碑」が、その境内に建立されている。

 この百地の跋文に続いて、上記の、雨森章迪の「哭文・哭詩」が、すなわち、蕪村追悼集『から檜葉』の「上・下」巻の総まとめのスタイルで起草されているのである。

 そして、その「哭文・哭詩」のまえに、その「序文」のようなものが認められている。その章迪の序文(漢文)は次のとおりである。

 上記の「賛」(「哭文・哭詩」)と同じく、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)に因り、その漢文書下し文のものを掲載して置きたい。



(雨森章迪「哭文・哭詩」の「序文」)



[ 夜半謝先生没スルヤ、門生高几董諸子ノ哭歌(こくか)ヲ鳩(あつ)メ、檜葉集ヲ撰ス。句々咸(みな)先生誹諧ノ奇ヲ以テ称嗟ス。呉月渓・梅嵒(ばいがん)亭余ニ謂ヒテ曰ク、先生描画ニ鳴リ、誹諧ニ波余ス。而(しか)モ一言ノ画ニ及ブ橆()シ。遺恨是レ之ヲ何如ト謂ハン。僕等()画業ヲ先生ニ授カリシ者、世ノ識ル所ナリ。今ヤ筆ヲ立テ以テ其ノ妙ヲ言ハント欲スルモ、悲涙洋々トシテ、紙上海ノ如シ。幸イナルカナ君ノ哭詩、都(すべ)テ絵事ニ渉(わた)ル。冀(こいねが)ハクハ之ヲ巻末ニ置キ、僕等ノ筆に代ヘンコトヲ。余謝スルニ疣贅(ゆうぜい)ヲ以テス。可()カズ。併(あわ)セテ同社ノ二三子懇求シ、竟(つい)ニ写シテ呉・嵒二生(にせい)ニ与フルノミ。   ]



 この「序文」に出て来る「呉月渓」は、「呉春」(松村月渓)その人であり、「梅嵒(ばいがん)亭」は、呉春と共に、画業における蕪村門の二大双璧の「紀楳亭(きのばいてい)(俳号・梅亭)である。

 呉春は、蕪村没後、蕪村と交流のあった円山応挙に迎えられ、後に「四条派」を形成し、応挙と共に、「円山・四条派」は、近・現代の京都日本画壇の主流を占めるに至る。また、

楳亭は、天明の大火で近江(大津)に移住し、後に、「近江の蕪村」と称せられるに至る。

 呉春も楳亭も、与謝蕪村門の画人として、当時の京都画壇の一角を占めていたが、同時に、俳人としても、蕪村の夜半亭社中の一角を占めている。そして、何よりも、この両者は、蕪村の臨終の最期を看取ったことが、『から檜葉』()に、次の前書きのある句で物語っている。



  師翁、白梅の一章を吟じ終て両眼を閉(とじ)、今ぞ世を辞す

  べき時也。夜はまだ寒きや、とあるに、万行の涙を払ふて

(あけ)六ツと吼(ほえ)て氷るや鐘の声            月渓

夜や昼や涙にわかぬ雪ぐもり                梅亭



 これに続いて、「奉哭」と題して、夜半亭一門の句が収載されている。この登載の順序は、恐らく、年齢や俳歴などに因っての、序列などを意味していると解せられる。



雪はいさ師走の葉(はて)のねはん哉              田福

(おれ)て悲し請(こふ)(みよ)けさの霜ばしら         鉄僧

師は去りぬ白雲寒きにしの空                 自笑

かなしさや猶(なお)()ぬ雪の筆の跡             維駒

雪にふして栢(かや)の根ぬらす涙かな             百池

(以下略)



  田福は、享保六年(一七二一)の生まれ、蕪村より五歳年少で、一門の最長老格なのであろう。京都五条町で呉服商を営み、摂津池田に出店があった。百池の寺村家とは姻戚関係にあり、宝暦末年までは貞門系の練石門に属し、練石没後蕪村門に投じている。三菓社句会には、明和五年(一七六八)七月より、その名が見える。

 鉄僧は、詳細不明だが、雨森章迪の俳号との説がある(『人物叢書 与謝蕪村《田中善信著》』・「国文白百合27号」所収「蕪村と鉄僧《田中善信稿》」)。それによると、「章迪は医を業としたが、書にも巧みで、京都の金福寺に現存する蕪村の墓碑の文字を書いた人物として知られている。後に蕪村のパトロンとなる百池は彼に書を学んだという。章迪は天明二年の『平安人物史』に毛惟亮の名で医者として登載されている(但し、『平安人物史』には医者の項目はなく、「学者」の部に登載されている)。住所は、「白川橋三条下ル町」である。

 章迪は、天明六年(一七八六)に、享年五十五で没しており、逆算して、享保十六年(一七三一)の頃の生まれとすると、田福に次ぐ、蕪村門の長老ということになる。蕪村門の俳歴からすると、鉄僧が章迪の俳号とすると、明和三年(一七六六)の第一回参加者句会から参加しており、次に出てくる「自笑」と共に最古参ということになる。

 とすると、この鉄僧こと雨森章迪が、この蕪村追悼集『から檜葉』の巻末の「哭文・哭詩」を草することと併せ、金福寺の蕪村墓碑の揮毫をする、その理由が明らかとなって来る。即ち、当時の蕪村の最大の支援者であり理解者であったのが、鉄僧こと雨森章迪ということになる。

 次の自笑(初号は百墨)は京都の人で、浮世草子の出版で有名な八文字屋の三代目である。三菓社句会の初回から加わり、蕪村門での俳歴は長い。後に、寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住している。

 続く、維駒は、蕪村門の最高弟であった黒柳召波の遺児で、安永六年(一七七七)に父の遺句を集めて『春泥句集』、蕪村が没する天明十三年(一七八三)、父の十三回忌に追善集『五車反古』を刊行し、この二書は同門中における維駒の名を重からしめた。この『五車反古』の「序」に、「病(びょう)夜半題(題ス)」と署名し、この『五車反句』の「序」が、蕪村の絶筆となった。

 次の百池は、姓は寺村、名は雅晁、通称は堺屋三右衛門、のち助右衛門と改めた。別号に大来堂など。祖父の代に京に上り、繡匠をもって業とした。河原四条に居を定め、大いに家業を興し、巨万の富を積んだ。父三貫が、蕪村の師の早野巴人門で、三貫自身、蕪村門に投じている。百池は、明和七年(一七七〇)の頃に蕪村門に初号の百稚の名で入門している。蕪村の有力な経済的支援者であると共に、穏健静雅な句風によって同門中に重きをなしている。また、百池没後の多くの遺構類は、「寺村家伝来与謝蕪村関係資料」として、今に遺されている。



 さて、冒頭の「呉春筆・雨森章迪賛の『蕪村画像』」に戻って、呉春が、この「蕪村画像」を描いたのは、蕪村没後十八年の享和元年(一八〇一)で、この時には、賛を書いた雨森章迪(鉄僧)は、天明六年(一七八六)に没している。

 従って、この賛は、呉春が、章迪(鉄僧)の遺構類のものをもって、この「蕪村画像」の上に合作して一幅としたものなのであろう(『与謝蕪村―翔()けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169)」では「現在は、絵と賛が別になっている」との記述があるが、その一幅となっていた前の形態は、「絵と賛が別々」であったのであろう)。

 最後に、雨森章迪の筆による、蕪村墓碑」(金福寺)を掲載して置きたい。



(補記)



 2015318日(水)~510日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その折出品された、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚、各、二八・〇×二八・〇 高二・八)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合、各、径一二・六 高二八・八)は、旧蔵者の「雨森白水」との関連で、最初に、これらを企画し、蒐集したのは、蕪村、そして、呉春と親交の深い、鉄僧こと、雨森章迪ということも、十分に有り得ることであろう。

 なお、『日本文学研究資料叢書 蕪村・一茶』所収「蕪村周辺の人々(植谷元稿)」に、「処士雨森章迪誌銘」(皆川淇園に因る墓誌銘)が紹介されており、その中に、「無子(子無シ)」とあり、章迪は継嗣を失っており、その継嗣を失った時の賛(「般若心経」)が月渓(呉春)の「羅漢図」にあるようである。また、章迪の「号は多数」で、その中に、寺村百池の別号の「大来堂」もあり、章迪の別号の「大来堂」を百池が譲り受けたのかも知れない。とすると、第一回の「三菓社」句会は、鉄僧(章迪)の「大来堂」で行われたということなのかも知れない(『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「鉄僧の居宅大来堂で行われた」としている)。




















(雨森章迪筆 「与謝蕪村墓碑」)






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