月曜日, 3月 10, 2008

虚子の亡霊(四十~四十八)

虚子の亡霊(四十)

昭和二十一年(1946)
一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月 「祖谷」創刊。
五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その一)

 上記の年譜を見ると、日本俳壇も戦後一新して、もはや「虚子の時代」は終焉したような思いにとらわれる。「春燈」は「人事諷詠」派ともいうべき久保田万太郎の主宰誌、「浜」は臼田亜浪系の大野林火の主宰誌、そして、「風」は戦後の社会性俳句の牙城となった沢木欣一らの主宰誌と、ぞくぞくと虚子の「ホトトギス」系でない俳誌 が誕生してくる。ホトトギス系は、松本たかしの「笛」、皆吉爽雨の「祖谷」、中村草田男の「萬緑」、村上杏史の「柿」であるが、草田男の「萬緑」などは、もはや、虚子の視野外のものといえるであろう。それよりも何よりも、「新俳句人連盟」は、時の戦後の「平和と民主主義」の風潮下にあって、かっての新興俳句やプロレタリア俳句を標榜したアンチ虚子・「ホトトギス」の俳句集団、そして、「俳句人」はその機関誌である。時に、虚子は七十二歳、小諸に疎開していて、九月に「玉藻」を復刊して、軸足を「ホトトギス」より「玉藻」に移していた。こういう時に、桑原武夫の「第二芸術・現代俳句について」(「世界」)が世に問われ、虚子をはじめとするいわゆる日本俳壇を代表する俳人達の「主宰誌・結社・家元俳句」などの実体を晒して、あまつさえ文学・芸術の足を引っ張る「主宰誌・結社・家元俳句」などの社会的悪影響を厳しく指弾したものといえよう。
 桑原武夫が取り上げたその日本俳壇を代表する俳人達とは、「阿波野青畝・中村草田男・日野草城・富安風生・荻原井泉水・飯田蛇笏・松本たかし・臼田亜浪・高浜虚子・水原秋桜子」の面々である。この十名の俳人達は、「井泉水・臼田亜浪」の二人を除いて(この二人も虚子と深い関わりはあるが)、その全てが、虚子そして「ホトトギス」門の俳人達で、いかに、明治・大正・昭和(特に戦前)の俳壇が、「虚子・ホトトギスの時代」であったかということが浮き彫りになってくる。
 この桑原の論稿には、「この十名の選択は、たとえば誓子を落しているように、妥当をかくかもしれぬが、手許にある材料でしたことゆえ諒せられたい。なお現代俳句の新しい試みとして、誓子、秋桜子らの「連作」形式があるが、考えるひまももたなかった」との付記が施されている。この山口誓子も虚子・「ホトトギス」門であり、いわゆる「四S」の、「秋桜子・草田男・誓子・素十」の、その「素十」こと高野素十だけがその名がないが、この論稿の結びのところに、その素十の影すら窺い知れるのである。ここの結びのところは、実に、論旨明快のところで、この論稿の出だしの「うちの子供が国民学校(戦時中の小学校)で」ということと対応しての、いはば、この論稿の全体の結論ともいうべきところなのである。ここを掲載すると下記のとおりである。

「そこで、私の希望するところは、成年者が俳句をたしなむのはもとより自由として、国民学校、中学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい、ということである。俳句の自然観察を何か自然科学への手引きのごとく考えている人もあるが、それは近代科学の性格を全く知らないからである。自然または人間社会にひそむ法則性のごときものを忘れ、これをただスナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはないのである。」

 この「スナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神」とは、秋桜子の「自然の真と文芸上の真」の「自然の真」を標榜していると指摘された、その代表格の素十の、いわゆる、スナップ・ショット的「草の芽俳句・抹消俳句」への批判と取れなくもないのである。こうして見てくると、この戦後間もなく書かれた、この桑原の論稿は、当時の日本俳壇全体の警鐘であると同時に、その中心に位置するところの、高浜虚子とその「ホトトギス」とを標的としての、一大警鐘であったとも取れなくはないのである。しかし、この桑原のセンセーショナルな警鐘に、日本俳壇の当時の伝統派も革新派も騒然となるのであるが、その中心・中核に位置するところの虚子は、「『第二芸術』といわれて俳人たちは憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところが、十八級特進したんだから結構じゃないか」と平然としていたというのである(桑原武夫『第二芸術』所収「まえがき」)。それを聞いて、桑原は、「戦争中、文学報告会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った」と記している(桑原・前掲書)。
 後に、桑原は、昭和五十四年四月号の『俳句』(角川書店)に「虚子についての断片二つ」という題で、「アーティストなどという感じではない。ただ好悪を越えて無視できない客観物として実に大きい。菊池寛は大事業家だが、虚子の前では小さく見えるのではないか。岸信介を連想した方がまだしも近いかも知れない。この政治家は好きな点は一つもないが」と書いているとのことである(中田雅敏著『人と文学 高浜虚子』)。この桑原の指摘は、その「俳句第二芸術論」も論旨明快であるが、実に、「虚子その人」を的確にとらえているものと、改めて、その批評眼の鋭さを思い知ったのである。あの、伝記物を書かせては無類の上手の田辺聖子すら、その『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)で、「虚子韜晦(とうかい)」と、その正体をつかむことのできなかった「虚子その人」を、A級戦犯でありながら戦後に総理大臣まで上り詰めた「岸信介を連想した方がまだしも近い」というのは、けだし、桑原の明言であろう。
 これが、日本俳壇の名物俳人の一人として今に名が馳せている西東三鬼に至ると、その桑原の論稿の反駁書で「現代俳句の大家といはれる人達は鋼鉄製の心臓の所有者で、全く芸術的良心など不必要な人達である、私はこの点で桑原氏の前に頭を垂れて恥ぢる」との、これまた明言を残しているという(松井利彦著『近代俳論史』所収「第二芸術論への反駁」)。この「鋼鉄製の心臓の所有者」とは、上記の十名の日本を代表する俳人達のなかで、ただ一人、高浜虚子に捧げられるものなのではなかろうか。とにもかくにも、この三鬼の、「現代俳句の大家といはれる人達は鋼鉄製の心臓の所有者で、全く芸術的良心など不必要な人達である」という指摘には、桑原の「俳句第二芸術論」以上に、センセーショナルなる警鐘として受けとめたい。


虚子の亡霊(四十一)

昭和二十一年(1946)
一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月 「祖谷」創刊。
五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

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「俳句第二芸術論」(その二)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」については、これまでに何回となく接していたのであるが、今回、講談社学術文庫のものを、他の論稿のものと一緒に目にして、従前のときに抱いたものと違って、この桑原の「俳句第二芸術論」は、正岡子規の「続・俳句革新」というような論稿のものだということを痛感した。この「俳句第二芸術論」は、丁度、子規が明治維新と軌を一にして、その「俳句革新」を成し遂げたように、終戦直後の、大きな時代の変革のときに、桑原が、その子規の「俳句革新」の延長線上に、子規の当時と同じような宗匠俳句然とした沈滞ムードに活を入れようとした論稿という感慨である。こういう感慨を抱いたのは、この講談社学術文庫のものが、昭和五十一年刊行と、それが公になったときから、凡そ三十年という歳月を経てのものであり、その「序」の昭和四十六年の「毎日新聞」に掲載された下記の記事に大きく起因していることと、さらに、「短歌の運命」・「良寛について」・「ものいいについて」・「漢文必修などと」・「みんなの日本語・・・小泉博士の所説について」・「伝統」・「日本文化の考え方」の、いわゆる、「俳句第二芸術論」をはじめとする日本文化論八編が収録されていて、その八編のうちの一つとしての、この「俳句第二芸術論」を目の当たりにして、その「短歌の運命」とともに、これはまさしく、子規の「俳句革新」の二番手の「続・俳句革新」の警鐘だということに思い至ったのである。
 とにもかくにも、昭和四十六年の「毎日新聞」に「流行言」と題した桑原武夫のその記事の全文は下記のとおりである。

桑原武夫「毎日新聞」一九七一年三月十三日付け「流行言」

むかし、昭和一ケタ台のことだが、東大の学生新聞に高浜虚子の散文をほめた短文を書いたことがある。すると間もなく、それを転載してよいかという手統が「ホトトギス」編集部から釆た。そして次号には虚子の一文がのり、自分の散文は俳壇ではあまり評価されていないようだが、具眼の士は認めているのだとして、正宗白鳥、室生犀星の評言をあげ、そのあとに、無名の私の文章が全文掲げられてあった(「ホトトギス」一九三四年五月号)。私の文章が公けの場所に引用され、ほめられたのは、これが最初である。
昭和二十二年ごろ、虚子の言葉というのが私の耳にもとどいた。・・・「第二芸術」といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか。戦争中、文学報国合の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った。
 数年後、ある会で西東三鬼さんに紹介された折り、あなたのおかげで戦後の俳句はよくなってきました、と改まって礼をいわれて恐縮したことがある。「第二芸術」については多くの反論をうけたが、今はほとんど忘れてしまって、虚子、三鬼両家のことしか思い出せない。まことに身勝手なものである.
 そんな私はその後、短詩型文学の動向にしだいに無関心となり、注目を怠っている
(大江健三郎、高橋和巳といった一流の才能は、短詩型文学を志向しないのではないか)。あれだけ人騒がせなことをしておきながら、と怠慢をとがめられるとつらいが、人それぞれ仕事というものがあるので許してほしい。その私に二十五年後の感想を求められても、現状をふまえぬ発言は空疎であろうし、だいいち失礼だろう。
文学は不易の価値を求める、というのが公式であろうが、そうした発言は時として不遜の感をあたえる。今という時にのみつくそうという作品もあるはずだ。後まで残るかどうかは歴史が裁きをつける。そして、当座の仕事をはたして消え去る作品がすべてつまらぬともいえない。批評の仕事はとくにそうである。批評はすペて時評というべきかも知れない。
 敗戦後およそ朝鮮戦争のころまで、焼けあとの実生活は苦しかったが、人々の意識には、窮乏の中のオプチミズムともいうべきものがあった。そこにただよっていた理想と自由への熱意はどこか瑞雲めいていた。依然としてパワー・ポリティツクの支配する世界を身にしみて自覚していない甘さはあったろうが、それを今の繁栄の中のペシミズムの立場から批判してみても、アナクロニズムになる恐れがある。これは当時一世を風靡したすぐれた社会料学者たちの論説について言えることだが、私の貧しい一文もこれらと同じ空の下で書かれたのであった。詩と散文との差異についての考慮が欠けていたことなど至らぬ点は間もなく思い当ったが、金子兜太氏のいわゆる「愚行」をいま自己批判する気にはならない。
ともかく四分の一世紀、歴史は流れた。あのころの雰囲気は近藤芳美氏の文章に巧みに感覚されている。
「・・・瓦礫の街の、澄み切った空の不思議な青さだけが思い出される。地上の貧しさ、苦渋と関わりない不思議な青さだった。「第二芸術論」の一連の文章を二十五年後の今読返しながら、わたしはふとそのような日々の空の色を連想した。議論のいさぎよいまでの透明さのためである。それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」。
私は、もって瞑すべし、という感動を禁じえず、大好きな句を思い出すのみである。
   いかのばり昨日の空のありどころ    

 これが、桑原武夫の、「俳句第二芸術論」の公表から、「四分の一世紀」(二十五年)経ってからの、氏その人の感慨である。そして、そこに引用されている歌人・近藤芳美の「それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」、そして、「議論のいさぎよいまでの透明さ」という一文に接したときに、あの明治維新という大変革期のに、あの「議論のいさぎよいまでの透明さ」をもって、颯爽と登場した、正岡子規その人がオーバラップしたのである。
ここで、かって、子規その人に無性に憑かれていた当時の、これまた、「四分の一世紀」(二十五年)前の、子規の「俳句革新」(メモ)のものを、その「議論のいさぎよいまでの透明さ」の証しとして、その一部を再掲をしておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/53749537.html

○ 子規の「俳句革新」というのは、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による」俳句革新運動であった。子規が批判の対象とした、月並(月次)俳句とは、当時の俳諧の宗匠達が開く毎月の例会を意味したが、子規は、それらの月並俳句を「平凡・陳腐・卑俗」として攻撃したのである。                  

○ そして、子規の月並俳句(旧派)の批判と子規らが目指す近代俳句(新派)との違いは、子規は、その『俳句問答』(明治二十九年五月から九月まで「日本」新聞に連載され、後に刊行本となる)において、要約すれば以下のとおりに主張するのである。

○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    

○答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。

○第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。

○第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。

○第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。   

○第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。


虚子の亡霊(四十二)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その三)

 もとより仏文学者の桑原武夫は俳句が大嫌いというわけでもない。先に紹介した昭和四十七年の毎日新聞の「流行言」のものの一文の最後に、蕪村の「いかのぼり昨日の空のありどころ」を「大好きな句」として引用している。この蕪村の句に接すると、萩原朔太郎の、「僕は生来、俳句と言うものに深い興味を持たなかった。興味を持たないというよりは、趣味的に俳句を毛嫌いしたのである。(中略)こうした俳句嫌いの僕であったが、唯一つの例外として、不思議にも蕪村だけが好きであった。なぜかと言うに、蕪村の俳句だけが僕にとってよく解り、詩趣を感得することが出来たからだ」(『郷愁の詩人与謝蕪村』)が思い起こされてくる。
 桑原にとっては、「敗戦後の諸雑誌にも、戦前と同じように、現代名家の俳句が挿入されている。しかし、雑誌のカットなるものにかつて注目したことのない私は、同じように、最初までこれらのものを殆ど読んだことがなかった」(「第二芸術」の冒頭)
と、萩原朔太郎と同じように、「俳句と言うものに深い興味を持た」ないで、蕪村などには好意を持っていたというのであろう。そして、たまたま、ご子息の「初等科国語」の教科書に掲載されている俳句に関連して、「手許にある材料のうちから現代の名家と思われる十人の俳人の作品を一句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を五つまぜ、いずれも作者名が消してある」として、「一、優劣の順位をつけ、二、優劣にかかわらず、どれが名家の誰の作品であるか推測をこころみ、三、専門家の十句と普通人の五句との区別がつけられるか」とを実験的に質問を投げ掛けたものがその端緒となっている。その端緒となった十五句は、下記のとおりである。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝
4 粥腹のおぼつかなしや花の山
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく
9 終戦の夜のあけしらむ天の川
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし

 そして、桑原は、「私と友人たちが、さきの十五句を前にして発見したことは、一句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねるという事実である」と続け、「そもそも俳句が、付合いの発句であることをやめて独立したところに、ジャンルとしての無理があったのであろうが、ともかく現代の俳句は、芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することは困難である」と結論づける。そして、「菊作り」の例と同列視して、「私は現代俳句を『第二芸術』と呼んで、他と区別するのが良いと思う」と、これがいわゆる「俳句第二芸術論」として『流行言』として定着してくるのである。
 ここで、上記の十五句の作者が誰かの種明かしをすると次のとおりとなる。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝    中村草田男
4 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく       飯田蛇笏
9 終戦の夜のあけしらむ天の川         
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来      松本たかし
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き        臼田亜浪 
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと        高浜虚子
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし       水原秋桜子

 この十五句の選句のうちで傑作なのは、三句目の草田男の句が誤植のままのもので、その本句は「咳くとヒポクリッとべートヴエンひゞく朝」と、その「ヒポクリット」の「ヒ」が脱落したままのものであった。これに対して、桑原は、その「追記」で、「なぜそんな誤植が生じたのだろうか。ともかくも私の説はこのことによってはくずれない」と、いわゆる、「俳句第二芸術論」の駄目押しまでもしているのである。

虚子の亡霊(四十三)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その四)
 桑原武夫の「俳句第二芸術論」を詳細に見ていくと、いわゆる大家といわれる俳人たちに対する「裸の王様」的な痛烈な批判の眼を終始貫いているのは見事という他はない。まず、最初に俎上に上げられるのは、勿論、虚子であることは言うまでもない。
「『防風のこゝ迄砂に埋もれしと』という虚子の句が、ある鉄道の雑誌にのった『囀や風少しある峠道』や、『麦踏むやつめたき風の日のつゞく』より優越しているとはどうしても考えられない」とし、次に、「この二句(12・8)は、私たちには『粥腹のおぼつかなしや花の山』などという草城の句よりは詩的に見える」と虚子と袂を分かった反虚子ともいえる日野草城が槍玉に上がっている。
 続いて、「俳句は一々に俳人の名を添えておかぬと区別がつかない」として、「もっとも『爰(ここ)に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り』いうような独善的な形式破壊をするものは井泉水以外になく」と自由律俳句の総帥・井泉水は「独善的な形式破壊」者とされている。そして、草田男は、「『咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝』などというもの欲しげな近代調は草田男以外に見られまいから、これらの作家はすぐ誰にも見分けがついただろう」と誤植のままの「咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝」で、仏文学の桑原から独文に造詣の深い草田男は一顧だにされていないのである。
 亜浪については、「虚子、亜浪という独立的芸術家があるのではなく、むしろ『ホトトギス』の家元、『石楠(しゃくなげ)』の総帥があるのである」と、その例に出された句の紹介もない。そして、比較的好意的に取り上げられている秋桜子についても、「およそ、芸術において、一つのジャンルが他のジャンルに心ひかれ、その方法を学ばんとすることは(注・秋桜子の「絵画に学べ」を指している)、あえてアランを引合いに出すまでもなく、常にその芸術を衰退せしめるはずのものである。しかるにかかる修業法が、その指導者によって説かれるというところに、私は俳句の命脈を示すものを感じる」と容赦をしない。
 その上で、桑原は、「その(注・俳句が)描かんとするものは何か。『自然現象及び自然の変化に影響される生活』、言葉をかえてはっきりいえば、植物的生である。さきに引用した井泉水の文章において、この俳人が現代の人間にとって最も重要な問題、自由を桃と麦という植物によって説明していたことを、読者は思い出すであろう。桃のことは桃にならい、麦のことは麦にならいつつ、植物的生を四号ないし色紙大に写し出すこと、こんにち俳句が誠実にあろうとするとき、必然的にここに帰着せざるを得ないのである」と結論づける。
 かくして、「かかるものは、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。しかし、かかる慰戯を現代人が心魂を打ちこむべき芸術と考えうるだろうか。小説や近代劇と同じように、これにも『芸術』という言葉を用いるのは言葉の乱用ではなかろうか」と、桑原の面目躍如という趣である。
 ここに、「小説や近代劇と同じように」と言っているのは、豪華絢爛たる江戸の元禄文化の、「俳諧」=松尾芭蕉、と肩を並べている、「小説」=井原西鶴、近代劇=近松門左衛門を意識しているのかも知れない。
 とにもかくにも、明治維新期の、正岡子規の「俳句革新」に次いで、戦後の昭和維新期の、桑原武夫の「第二」の「俳句革新」の警鐘であったことは、また、その警鐘が鮮やかに的を得たものであったということは、それから、半世紀を遙かに過ぎた今日にでも、実感としてひしひしと感ぜられるところのものであろう。
 なお、桑原の「俳句第二芸術論」に出てくる俳句は、その例示としての下記の十五句(一~十五)の他に、下記の四句(A~D)がある。そして、桑原の「俳句第二芸術論」の公表後の約三十年後に公刊された、桑原の『第二芸術』という図書の解説(多田道太郎稿)で、下記のDについて、名句の評をくだしているが、この句などを、例示の十五句のうちの一つに加えていたならば、さらに、桑原の「俳句第二芸術論」は輝きを増していたことであろう。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝    中村草田男
4 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく       飯田蛇笏
9 終戦の夜のあけしらむ天の川         
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来      松本たかし
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き        臼田亜浪 
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと        高浜虚子
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし       水原秋桜子
A 雪残る頂一つ国ざかひ           正岡子規
B  赤い椿白い椿と落ちにけり         河東碧梧桐
C  砂ぼこりトラック通る夏の道  (桑原武夫のご子息)
D よく見れば空には月がうかんでる      (同上)


虚子の亡霊(四十四)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その五)
 
 桑原武夫の「俳句第二芸術論」については、さまざまな反駁論が展開されたが、桑原の投げ掛けた衝撃ほどには、その反駁論のインバクトは大きくない。これらの桑原の「俳句第二芸術論」への反駁の詳細については、先に紹介した『近代俳論史』(松井利彦著)に詳しい。その目次のものをあげると、「誓子の反論」・「秋桜子の発言」・「草城の反駁」・「三鬼の反駁」・「京三(不死男)の反論」・「草田男の反論」・「楸邨の反論」などとなっている。この「誓子の反論」については、先に(「虚子の亡霊」五)
触れたところであるが、その出だしのところを再掲しておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/52464752.html

※昭和二十一年に桑原武夫が発表した「第二芸術ー現代俳句について」(「世界」十一月号)をきっかけとした、いわゆる「第二芸術」ショックを挙げておかねばならない。これに対し誓子は、翌二十二年一月六日付の「大阪毎日新聞」に「桑原武夫氏へ」と題した一文を寄せ、俳人側から最初の反論をおこなっているが、さらに同年の「現代俳句」四月号に「俳句の命脈」を執筆、全人格をかけてこれに応えるという態度をいち早く鮮明にしたのであった。
 俳句は回顧に生きるよりも近代芸術として刻々新しく生きなければならぬ。
(「桑原武夫氏へ」)
 現代俳句の詠ひ得ることはせいぜい現実の新しさによつて支へられた人間の新しさ、個性の新しさであらう。「問題」の近代ではなく、「人間」の近代であらう。しかし、「人間」の近代が詠へたとすれば立派な近代芸術ではないか。(「俳句の命脈」)
 これらの主張には、近代芸術としての俳句の確立を目指す誓子の使命感にも似た思いが感じられるが、反面、〈俳句の近代化を急ぎ過ぎている〉のではないか、という印象もなしとしない。この点については賛否の分かれるところだろうが、いずれにせよ、こうした思いがやがて「俳句を俳句たらしめる〈根源〉とは何か」という問題意識へとつながり、その実作の場としての「天狼」を生み出す要因となったであろうことは想像に難くない。
※私は現下の俳句雑誌に、「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。そは先ず、同人の作品を以て実現せられねばならない。詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した。(「出発の言葉」)

 この「誓子の反論」でも如実に現れているように、桑原の「俳句第二芸術論」は、その桑原の刺激的な挑発に誘導されて、改めて、「俳句とは何か」・「俳句の文学性」ということが問い直されて、戦後の俳句の方向性とその実践に多くのものをもたらしたという、皮肉な現象を生み出したということも指摘できるであろう。これらのことについては、下記のアドレスで、次のようなことが指摘されている。

http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/100_4f6e.html

1.山本健吉「挨拶と滑稽」(「批評」昭和22年12月号)
この論文は、「第二芸術論」と並行して書かれたもので、応答という位置づけではないが、俳句の本質に係わる論考として、幅広い影響を与えた。俳句性(俳句が他のジャンルと違う点)として、「有季・定型・切れ」の三要素があげられる。山本はそのよってくるところは何か、と問い、「滑稽、挨拶、即興」を抽出した。それは発句の要件というべきものであって、現代俳句には必ずしもそぐわないが、「第二芸術論」と相まって、俳人たちを俳句性探究に向かわせる役割を担った。

2.根源俳句
山口誓子は、「天狼」昭和23年1月号において、「人生に労苦し、齢を重ねるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが何を根源とし、如何にして現るるかを体得した」と書いて、俳句の根源について、問いかけた。山口自身は、最初は生命イコール根源とし、後に無我・無心の状態が根源だと変化したが、多くの俳人が俳句の根源について論じ、「内心のメカニズム」「実存的即物性」「抽象の探究」などが論じられた。

3.境涯俳句
境涯俳句とは、人それぞれの境涯、その人の立場や境遇を詠んだ俳句をいう。
狭い意味では、昭和27、8年頃まで貧窮・疾病・障害などのハンディを負った生活から詠まれた句を指す。戦争の影響が、多くの人に重い境涯をもたらしたことの反映でもある。

4.社会性俳句
社会性俳句は、歴史的な社会現象や社会的状況のなかに身を置き、関わりながら詠んだ作品である。狭い意味では、「俳句」昭和28年11月号で、編集長の大野林火が、「俳句と社会性の吟味」を特集して以後の流れを指す。

5.風土俳句
社会性俳句の中で、地方性、風土性の強い俳句を指す。俳句はもともと風土的であるが、特に地方の行事、習俗、自然を詠んだものをいう。

6.前衛俳句
金子兜太が、「俳句」昭和32年2月号に、『俳句の造型について』という俳句創作の方法論に関する論考を発表した。「諷詠や観念投影といった対象と自己を直接結合する方法に対し、直接結合を切り離してその中間に“創る自分”を定置させる」というもので、そこから生まれた流れが「前衛俳句」と呼ばれた。
具体的には、以下のような作品を指す。
 a 有機的統一性のあるイメージが、同時に思想内容として意味を持つ作品
 b 二つのイメージを衝突させたり組み合わせた作品
 c 多元的イメージを一本に連結した作品


虚子の亡霊(四十五)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

http://www.hototogisu.co.jp/


「俳句第二芸術論」(その六)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」は、戦後の「昭和俳句」、そして、平成の現代に続くまさに「現代俳句」そのものの、その因って立つ基盤のようなものとも位置づけられるところの、「純粋俳句」・「根源俳句」・「境涯俳句」・「社会性俳句」・「風土俳句」・「前衛俳句」などとは、別な観点からの、「限界芸術としての俳句」という考え方も提示されて、それらは、現に今なお、現在進行形のままに「俳句とは何か」という問い掛けの一つの応答の態様であり続けている。
 この「限界芸術」ということについて、桑原は、図書という形での『第二芸術』の「まえがき」の中で、次のように述べている。

○短詩型文学については、鶴見俊輔氏の「限界芸術」の考え方を参考にすべきであろう。私は『第二芸術』の中で長谷川如是閑の説に言及しておいたが、鶴見氏のように、芸術を、純粋芸術・大衆芸術・限界芸術の三つに分類することには考え及んでいなかった(『鶴見俊輔著作集』第四巻「芸術の発展」)。しかし、現代の俳句や短歌の作者たちは恐らく限界芸術の領域で仕事をしているということを認めないであろう。なお、最近ドナルド・キーン、梅棹忠夫の両氏は『第二芸術のすすめ』という対談をしておられるが、そこでは『第二芸術』で私が指摘したことは事実であると認めた上で、しかし名声、地位、収入などと無関係な、自分のための文学としての第二芸術は大いに奨励されるべきだとされている(『朝日放送』一九七五年十二月号)。これは長谷川如是閑説と同じ線である。

 この「限界芸術」については、次のアドレスでは、下記のように紹介されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~VF8T-MYZW/log/marginalart.html


鶴見俊輔の『限界芸術論』を読んだ。
それによると、芸術には三つの領域があるという。

一つは『純粋芸術(Pure Art)』というもの。
専門的芸術家がいて、それぞれの専門種目の作品の系列に対して親しみを持つ専門的享受者をもつ。
絵画、彫刻、文学などがそれに当たる。

一つは『大衆芸術(Popular Art)』というもの。
専門的芸術家が作りはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者として大衆をもつ。(代表的なのは小室哲哉か?)

一つは『限界芸術(Marginal Art)』というもの。
上の二つよりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を言う。
非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者をもつ。
『限界芸術』の代表的芸術家としてあげられるのは、宮沢賢治そしてヨーゼフ・ボイスである。

プロとしての道を通らなかった人のする芸術はすべて、『限界芸術』に含まれる。
年賀状やカラオケ、家族写真や日記などがそうだ。
(ホームページなども限界芸術に含まれる)

『限界芸術』の歴史は長く、基本的には発展していないと『限界芸術論』は言う。
アルタミラの壁画などがその最初の姿であり、芸術の二つの形『大衆芸術』と『純粋芸術』はここから生まれた。
美術の歴史とは基本的に『純粋芸術』の歴史である。『大衆芸術』や『限界芸術』はこのなかに含まれない。

『限界芸術』は芸術の最も基本的な形であると同時に、人間という存在と直接に関わっている領域であるともいえる。人間は元々居る世界から”脱出”すること望み続ける存在だ。
それは空間的な脱出と、時間的な脱出に分けられる。新しい土地に向かって行くこと、新しい状況に変えて行くことではないかと想う。
現在が悲観的であるのは、そのどちらに対しても新しいイメージがわかなくなっているからだ。
(だが一方で、日本人はもともと、そのどちらのイメージも持たずに生きることの出来る民族だが)

イメージが共有される様になり、イメージに対して自由でなくなることは、人間を不可視の鎖につなぐ結果になっている。
今求められているのは、狭いイメージから脱出することなのではないだろうか?
もしかするとイメージそのものからも。

中心に向かうことと限界に向かうことは等しいことだ。
芸術の中心は、”芸術の領域”には常に無い。
二人の”限界芸術”家は芸術の源に帰って行った。

 参考文献:「限界芸術論」 鶴見俊輔著 勁草書房


虚子の亡霊(四十六)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その七)

鶴見俊輔の、『純粋芸術(Pure Art)』・『大衆芸術(Popular Art)』・『限界芸術(Marginal Art)』との三区分に対応させて、「純粋俳句」・「大衆俳句」・「限界俳句」という三区分に、いわゆる「俳句」というものを区分すると、ここで、桑原武夫の「第二芸術」の「まえがき」で紹介されている、虚子の、「『第二芸術』といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」という、虚子の姿勢とその考え方が俄然活きてくるような思いがするのである。
すなわち、虚子は、「ホトトギス」俳句、そして、「虚子俳句」の多くの作品群は、
上記の「純粋俳句」・「大衆俳句」・「限界俳句」という三区分の「限界俳句」に多く属するということを喝破していたのではないかという思いに行き着くのである。
 この虚子の発言について、桑原は、「戦争中、文学報国会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った」との感想を述べているが、虚子にとっては、「自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」というのは、虚子の嘘偽りのない正直な吐露なのではなかろうか。
 かつて、子規の「俳句革新」について、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による俳句革新運動」であったと指摘したことがあるが、事実、虚子もまた、そのような感慨を終始抱いていたのではなかろうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/53749537.html

 このように虚子の姿勢とその考え方が、「限界芸術」そして「限界俳句」(芸術と生活との境界線にあたる作品。そして、非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者をもつ)に基礎を置くという考え方に立てば、虚子のスタート時点での「俳諧須菩提教」、そして、その最晩年の「俳句は極楽の文学(虚子は「文芸」という言葉を使用している)」であるということが、虚子にとって極めて自然な考え方ということになる。ここで、「俳諧須菩提教」について、下記のアドレスのものをもって、その大要を紹介しておきたい。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm#俳諧ズボタ経

☆高浜虚子は明治三十八年九月号の「ホトトギス」誌上に、「俳諧須菩提(ズボダ)経」なる文章を掲げた。かなり人を食った俳句の進めである。内容は俳句を作る人にはいろいろな差があり、天分豊かな人と、天分を恵まれない人とには作る句にも大きな差があるが、ひとたび俳句に志した人には、まったく俳句を作らない人と比べて、救われる人と、救われない人との差があり、俳句を作る功徳はそこにあると言った意味の事を戯文的な筆で説き、最後に「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ。」と結んでいる。これは碧梧桐の「日本俳句」には秀才を集めた観があるのに対し、天分なき大衆を相手に俳句を説こうとした虚子の指導者としての意思があった。これは碧梧桐にない寛容であった。 参考  村山古郷著「明治俳壇史」

 また、虚子の「極楽の文学(文芸)」について、かって、下記のように指摘したことがあるが、それも再掲をしておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/52636605.html

☆虚子は晩年に至り、「俳句は極楽の文芸」と、現在、「ホトトギス」の面々が主張している「俳句は極楽の文学」の、その「文学」を「文芸」と称しているが、「俳句は短詩型の文学」というよりも、「連歌・俳諧に通ずる芸道としての俳句」というのを、その最終の俳句観にしたような、そんな印象すら抱かせるのである。


虚子の亡霊(四十七)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その八)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」をつぶさに見ていくと、この論稿はより多く高浜虚子その人を意識して書かれたものという印象が拭えない。それらは、次のような個所に現れている。

☆「防風のここ迄砂に埋もれしと」という句が、ある鉄道の雑誌にのった「囀や風少しある峠道」や、「麦踏むやつめたき風の日のつゞく」より優越しているとはどうしても考えられない。
☆(注・下記の)3・7・10・11・13(注・虚子の句)などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。
☆たとえば虚子、亜浪という独立的芸術家があるのではなく、むしろ「ホトトギス」家元、「石楠」の総帥があるのである。
☆俳人の大部分はいまだに党人である。何々庵何世とはいわないか゛、精神は変わっていない。げんに「読売新聞」八月二十三日号には、俳句講座の広告に「池内友次郎先生(虚子氏令息)指導」とあった。広津和郎先生(柳浪氏令息)などとはいわないであろう。

 この調子である。このような虚子を名指したもの以外に、「ここは虚子を意識しているか」と思われるところが随所に見られる。あまつさえ、下記の虚子のEの句の後に、この論稿の「まとめ」のような、次の一文が続くのである。

☆しかし、菊作りを芸術ということは躊躇される。「芸」というがよい。しいて芸術の名を要求するならば、私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、他と区別するがよいと思う。第二芸術たる限り、もはや何のむつかしい理屈もいらぬわけである。俳句はかつての第一芸術であった芭蕉にかえれなどといわず、むしろ率直にその慰戯性を自覚し、宗因にこそかえるべきである。それが現状に即した正直な道であろう。—— 「古風当風中昔、上手は上手下手は下手、いづれを是と弁(わきま)へず、好いた事して遊ぶはしかじ、夢幻の戯言(ざれごと)也」。 

 桑原は、ここで、はっきりと、芭蕉のそれは「第一芸術」であるが、虚子を始めとする「現代俳句」は、「第二芸術」であると決めつけるのである。そして、その張本人は、明治・大正・昭和(戦前)と頂点を極めてきた、高浜虚子の占める割合は大きいというのが、この桑原の「俳句第二芸術論」の骨格であろう。
 なお、先に掲げた句の他に、虚子の本文中に引用されている句(E)も付け加えておくこととする。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝    中村草田男
4 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく       飯田蛇笏
9 終戦の夜のあけしらむ天の川         
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来      松本たかし
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き        臼田亜浪 
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと        高浜虚子
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし       水原秋桜子
A 雪残る頂一つ国ざかひ           正岡子規
B  赤い椿白い椿と落ちにけり         河東碧梧桐
C  砂ぼこりトラック通る夏の道  (桑原武夫のご子息)
D よく見れば空には月がうかんでる      (同上)
E 句を玉とあたゝめてをる炬燵哉        高浜虚子
注・上記の3の「咳くとポクリッと」は「咳くヒポクリット」の誤植のものである。
この「ヒポクリット」は偽善者・猫かぶりの意である。

虚子の亡霊(四十八)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その九)

桑原武夫の「俳句第二芸術論」で、「芸術」と「芸」とを使い分けしている個所がある。それは秋桜子に関する次の記述である。

☆かかるものは(注・俳句は)、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。しかし、かかる慰戯を現代人が心魂を打ちこむべき芸術と考えうるだろうか。小説や近代劇と同じように、これにも「芸術」という言葉を用いるのは言葉の乱用ではなかろうか(さきに引用した文章で、秋桜子が「芸術」という言葉を用いず、いつも「芸」といっているのは興味深い)。

 確かに、秋桜子が「ホトトギス」を離脱することになったときの論稿の、「自然の真と文芸の真」でも、「芸術」とか「文学」とかという言葉は使用せず、「文芸」という言葉でしている。この秋桜子の「自然の真と文芸の真」に関連する当事者達の、秋桜子・素十、そして、中田みづほにしても、皆さん、錚々たる医学者であり、彼等には、「芸術・文学として俳句」に携わっているという感慨は稀薄ではなかったかという思いを深くする。
そして、高浜虚子もまた、「芸術・文学としての俳句」という意識は希薄ではなかったかという思いを深くする。ここでも、繰返すこととなるが、桑原の「俳句第二芸術論」に対しての、虚子の「自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」という吐露が、虚子にとっては自然なものであり、それよりも、「俳句は俳句」という実作的感慨をより多く抱いていたように思われるのである。
このことは、最晩年の「極楽の文学」(稲畑汀子、そして「ホトトギス」の面々はより多くこの言葉を使用している。『俳句十二か月(稲畑汀子著)』など)において、実に、「極楽の文芸」と言ったかと思うと、直ぐさま、「極楽の文学」と、全く、これまた、枝葉末節のことについて吾は感知せずとでも言うかのように、はたまた、目眩ましのように、チャランポランに使用しているのである(『俳句への道』所収「極楽の文学」)。そのチャランポランの所を下記に抜き書きをして見たい。

☆私はかつて極楽の文学と地獄の文学という事を言って、文学にこの二種類があるがいずれも存立の価値がある。(中略) 俳句は極楽の文芸であるといふ所以である。(中略) 私が言ふ極楽の文学といふものは逃避の文学であると解する人があるかもしれぬが、必ずしもさうではない。これによつて慰安を得、心の糧を得、以て貧賤と闘ひ、病苦と闘ふ勇気を養ふ事が出来るのである。(後略)(『俳句への道』所収「極楽の文学」)。
☆俳句でない他の文芸に携わって居るものが「花鳥諷詠」を攻撃するなれば聞えるが、俳句を作っている者が「花鳥諷詠」を攻撃するということはおかしい。俳句は季題が生命である。尠(すくな)くとも生命のなかばは季題である。されば私は俳句は花鳥(季題)諷詠の文学であるというのである。(中略)俳句は季題(花鳥)というものを切り離すことの出来ない文芸である。俳句は生活を詠い人生を詠う文芸としては、 そうつき詰めたせっば詰まった(他の文芸が志しているような)ことは詠おうとしても詠えない。(後略)(『俳句への道』所収「花鳥諷詠」)。
☆俳句を知らんと欲すれば俳諧以外の文学を知らねばならぬ、俳諧以外の文学を知ることによって俳句の性質が明らかになって来る。(中略) 他の文芸を知らず、ただ俳句のみを知って、それで他の文芸の長所とする所をも真似て見ようとするのは愚かなことではあるまいか(後略)(『俳句への道』所収「他の文芸と俳句」)。

 上記の無造作にチャランポランに使われている「文学」と「文芸」という用語は、つぶさに見ていくと、「文芸」という用語は「文学」の用語よりも広い概念の用語として使用している感じも受けなくはないが、それほど意識して使い分けしているようにも思えない。しかし、虚子の内心では、「芸術・文学としての俳句」というよりも、より多く「芸能・文芸としての俳句」の方に傾いていたのではないかという思いを深くする。
それは、丁度、鶴見俊輔の、「純粋芸術」・「大衆芸術」・「限界芸術」の三句分に対応させて、「文学」という用例は、「純(粋)文学」と「大衆文学」とを指し、そして、「文芸」のそれは、「「純(粋)文学」と「大衆文学」の他に、「限界文学」をも包含してのものという思いと軌を一にする。勿論、虚子の時代には、「限界芸術」・「限界文学」という概念は存在していなかったが、虚子の言葉でするならば、「俳句とか歌とかいうものは他の文学と違っておって、大衆的なものである」(『俳句への道』所収「客観写生」)と、「大衆文学」に包含して使われていたということであろう。
何故、ここで、執拗に、「芸術・文学としての俳句」と「芸能・文芸としての俳句」との峻別にこだわるかというと、若き日の虚子にまつわる、子規の後継者への依頼を無下に拒絶した、いわゆる、明治二十八年当時の、「道灌山事件」に連なるという思いに深く関係しているのではないかということに起因している。
ここで、ひとまず、桑原の「俳句第二芸術論」関連のものは了として、次に、明治二十八年当時の、「道灌山事件」に場面を遡ってみたい。

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