月曜日, 10月 08, 2007

水原秋桜子の俳句(一~十五)



水原秋桜子の俳句

(一)

○高嶺星蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり (『葛飾』)

 大正十四年作。この大正十四年のごろから、秋桜子の作風は、これまでの「ホトトギス」的な写生句を脱して、「作者の感情の起伏を、いかにして一句の調べのうえに表わすか」という主観的傾向を帯びてくる。この掲出句でいうならば、「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」という把握は、「ホトトギス」流の自然を客観的に描写する写生の句というよりも、「高嶺星」(高嶺の空に輝いている星)の下に、夜更けの灯り一つない「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」と、秋桜子のこの時の心を強く刺激した感動のようなものを見事に表現している。秋桜子は、「ホトトギス」の作家で、原石鼎の「淋しさに又銅鑼うつや鹿火屋守」などに惹かれたというが、石鼎の「景情一致」というような姿勢がうかがえる。

(二)

○ 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (『葛飾』)

 大正十五年作。秋桜子の第一句集『葛飾』は、葛飾の土地が多くその主題になっていることに由来があることは、その「序」に記されている。秋桜子は東京神田の生まれの、生粋の江戸っ子という面と、それが故の近郊の葛飾の地への愛着というものは想像以上のものがある。そして、それは、「水郷の風趣があり、真間川から岐れる水が、家々の前に掘をつくって、蓮が咲き、垣根に桃や連翹の咲き乱れる」と幼年時代に足を伸ばした回想の土地・葛飾という思いであろう。この掲出句も、決して、昭和十五年当時の現実の葛飾の風景というよりも、秋桜子の心の奥底に眠っている瑞穂の国の日本の原風景ともいうべきそれであろう。

(三)

○ 桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな (『葛飾』)

 大正十五年作・神田生まれの、生粋の江戸っ子の秋桜子に帰省(故郷に帰る)ということがあてはまるのかどうか、はなはだあやしいという思いがしてくる。この句は夏の季語の「帰省」の題詠なのであろう。当時の「ホトトギス」のものは、この種の題詠によるものと思われるのである。秋桜子はこの種の連想しての句作りを得意とする俳人であった。この句集『葛飾』の「葛飾」に由来がある句についても、過去の経験などに基づく連想で、秋桜子らしく一幅の風景画に仕立てている句が多いようである。この掲出の句についても、「桑の葉の照る」夏の猛暑の中を「堪えて」帰省するという帰省子の姿が髣髴としてくる。
こういう実景というよりも、秋桜子のイメージの中に再構成された景は、この種の実景よりも、リアリティを持ってくるのは不思議なことでもある。

(四)

○ 青春のすぎにしこころ苺喰ふ  (『葛飾』)

 大正十五年作。絵画に風景画と人物画という区分けがある。この区分けですると、秋桜子は風景画を得意とする俳人であって、人物画や自分の心の内面を表白するとことを得意とする俳人ではないということはいえるであろう。そういう中にあって、この掲出句は秋桜子には珍しい感情表白の句といえるであろう。時に、秋桜子は三十五歳で、本業の方においては医学博士の学位を受け、俳句の方においても、虚子より「ホトトギス」創刊三十周年記念の企画などを委託されるなど、順風満帆という趣の頃である。しかし、そういう中にあって、やはり「青春は終わった」という感慨であろうか。この年、東大俳句会・ホトトギスで一緒に活動していた山口誓子が東大を卒業し、関西の住友合資会社に勤務することとなる。この掲出句には、秋桜子よりも十歳前後若い誓子などの影響も感知される。

(五)

○ むさしのの空真青なる落葉かな (『葛飾』)

大正十五年作。上田敏訳『海潮音』の「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し」(ベルレーヌ「落葉」)のように、「落葉」の句というのも「うら悲し」のものが多い。そういう中にあって、秋桜子の掲出の「落葉」の句は、「空真青」の中のそれであって、「うら悲し」というような感情表白の句ではなく、色彩の鮮やかな風景画を見るような思いがしてくる。上五の「むさしのの」という流れるようなリズムと相俟って、当時の黄葉・紅葉の雑木林の武蔵野の一角が眼前に浮かんでくるようである。もし、秋桜子のこの時の感情の動きのようなことに着眼すると、青春の甘い感傷というよりも、幼年・青春期を通じて、慣れ親しんだ、葛飾、そして、武蔵野へのノスタルジー(郷愁)のようなものであろう。

(六)

○ 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (『葛飾』)  

 昭和二年作。赤城山での句で、秋桜子の代表作の一つである。山本健吉の『現代俳句』で次のように紹介されている。「彼の作品が在来の俳句的情から抜け出ていかに斬新な明るい西洋画風な境地を開いているかと言うことだ。これらの新鮮な感触に満ちた風景画は、それ以後の俳句の近代化に一つの方向をもたらしたことは、特筆しておかなければならない。在来の寂(さび)・栞(しおり)ではとらえられない高原地帯の風光を印象画風に描き出したのは彼であった。これは一つの変革であって、影響するところは単なる風景俳句の問題ではなかったのである」。確かに、「風景俳句」とか「写生俳句」とかではなく、新しい感覚の西洋画的な「印象俳句」というものが感知される。葉を落ちつくした樹木に啄木鳥が叩いている音すら聞こえてくるようである。

(七)

○ 追羽子に舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ  (『葛飾』)

 昭和二年作。この年の一月に山口青邨・高野素十らと共に三浦三崎に吟行した時の作品である。「せまい町筋では追羽子が盛で、林檎の上には紅い凧もあがってゐた。まづ魚市場へゆき、漁船から魚を揚げる景を見たのち、渡し舟で城ヶ島へ渡った。砂浜には蒲公英が咲き、いま潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」(石田波郷・藤田湘子著『水原秋桜子』)。この秋桜子の回想文からすると掲出の句は実景での作ではないことが了知される。追羽子の光景は三崎港のものであり、鮫の光景は城ヶ島でのものである。その鮫も実際は、「潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」ということなのであるが、それを「舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ」と、実景以上に現実感のある表現で一句を構成しているのである。こういう句作りが、秋桜子が最も得意とし、最も多用したものであったということは、特記しておく必要があろう。

(八)

○ 来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり (『葛飾』)

 昭和二年作。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んで、大和路の古寺と仏像に深く心にうたれ、大和吟行を思いたったという。秋桜子の大和吟行関連の作には秀句が多い。この句は東大寺の一名法華堂ともいわれている三月堂での作という(藤田湘子・前掲書)。しかし、この句には、その三月堂もその仏像も詠われてはいない。万葉集以来この古都、この古寺周辺の馬酔木の花とその日の光をとらえて、いかにも秋桜子らしい格調のある一句に仕立てている。大和路の春は馬酔木の花盛りである。その花盛りの中にあって、この古都、この古寺を巡る、さまざまな「来し方」に思いを巡らして、こういう懐古憧憬の抒情味の風景俳句は、秋桜子の独壇場であるとともに、秋桜子が主宰する「馬酔木」俳句の一つの特徴でもあろう。

(九)

○ 蟇(ひき)ないて唐招提寺春いづこ (『葛飾』)

 昭和三年作。前年に続く大和路での句。この年には大和路に吟行した記録がないので回想句であろうという(藤田湘子・前掲書)。この句について、「この句は山吹のほかに何ひとつ春らしい景物のない講堂のほとりを現し得ているつもりであるが、『春いづこ』だけは感傷があらわに出すぎていけないと思っている」(俳句になる風景)と作者が言っているのに対して、この「作者(秋桜子)の考え方とは反対に、私(山本健吉)は『春いづこ』の座五は動かぬ」との評がある(山本・前掲書)。作者自身は、唐招提寺の「春らしい景物のない講堂のほとり」の景に主眼を置いて、「春いづこ」は不満なのであろうが、この「春いづこ」の詠嘆が、唐招提寺の栄枯盛衰を物語るものとして、この「座五は動かぬ」との評を是といたしたい。実際に蟇が鳴いたかという穿鑿は抜きにして、ここに「蟇ないて」の上五を持ってきたのは、やはり、秋桜子ならではであろう。

(一〇)

○ 利根川のふるきみなとの蓮(はちす)かな (『葛飾』)

 昭和五年作。この句は大利根から江戸川に分かれる千葉の関宿での作という(藤田・前掲書)。「『とねがわの……』という大らかな詠い出しが、すでに懐旧の情をさそう。つづいて『ふるきみなとのはちすかな』と叙述的ながら大景をしだいに絞りあげて、蓮の花に焦点を集中していく手法は、起伏を抑えたリズムと相俟って実に効果的である。秋桜子俳句は、構成的で構成の華麗に目を奪われることがしばしばである」(藤田・前掲書)。まさに、秋桜子の俳句はその中心に「素材を巧みに構成する」ということを何よりも重視していることは、この句をもってしても明瞭なところであろう。そして、秋桜子とともに「四S」の一人の山口誓子も、この「素材を巧みに構成する」ということには群れを抜いている俳人であった。ともすると、秋桜子俳句は、「短歌的・抒情的・詠嘆的」(山本健吉)と見なされがちだが、基本において、「構成的・知的」であることにおいて、誓子と共通項を有していることは、ここで強調しておく必要があろう。

(一一)

○ 鳥総松(とぶさまつ)枯野の犬が来てねむる (『新樹』)

昭和六年作。「鳥総松」は新年の季語、そして、「枯野」は三冬の季語。秋桜子にしては珍しい季重なりの句である。山口誓子にも、「土堤を外れ枯野の犬となりゆけり」(昭和二十年作)と「枯れ野の犬」の名句があり、秋桜子の句と「枯野の犬」の双璧とされている(藤田・人と作品)。掲出の秋桜子の句について、「作者としては、あまりそれらしい構図も考えず、見たものを見たものとして写生したと思う。つまり無心の一句。それだけに、ゆっくりと渋味が滲み出るような趣がある」(藤田・秋桜子の秀句)との評もある。しかし、この掲出の句も、秋桜子らしい構成的に工夫した句で、「鳥総松」と「枯野の犬」との取り合わせは、無心の写生の一句とは思われない。そもそも、「枯野の犬」というのが、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の「枯野」と、俳諧・俳句の象徴的な季語と結びついて、想像以上のイメージの拡がりを見せてくれる。そういう、イメージの拡がりを狙っての、季重なりの構成的な一句として理解をいたしたい。そして、そのことが、後に、即物・構成派の山口誓子の掲出の「枯野の犬」の句と併せ、その双璧として、今に、詠み繋がれているその中核にあるもののように思われる。

秋桜子の俳句

(一二)

○ 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり (『秋苑』)

 昭和九年作。「菊は秋桜子にとって欠かせぬ素材で、全句集にのこる菊の句は、菊日和など類縁の作を含めると百五十二句にのぼる。これは梅の句の百七十六句に次ぐ多さで、春秋の双璧をなしている。ちなみに桜は五十九句と、意外に少ない」(藤田・秋桜子の秀句)。

○ 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり
○ 菊かをりこゝろしづかに朝に居る
○ 菊かをり金槐集を措きがたき
○ 菊しろし芭蕉も詠みぬ白菊を
○ 菊の甕藍もて描きし魚ひとつ

 『秋苑』に収載されている昭和九年の菊連作の五句である。この五句のなかでは、やはり、掲出の句が「リズム・構成・色彩感覚」の面において群を抜いていよう。「白菊の白妙」とはいかにも秋桜子らしい「きれい寂」(山本謙吉の「秋桜子の俳句の『きれい寂』で使われた言葉で、「寂の本質の中に含む華麗さ」などの用例)を感じさせる一句である。秋桜子の代表句の「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」(昭和二十三年作)と双璧をなす句といっ
てもよかろう。

(一三)

○ 狂ひつつ死にし君ゆゑ絵のさむさ (『岩礁』)

 昭和十二年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)に次のような一節がある。
「彼が『葛飾』でうち立て、また連作俳句さえ試みて、現実よりも純粋な主情の色と光とを描き出そうとしたのは、(略) ヨーロッパの印象派、それに学んで日本でも多彩な洋画の世界を創り出した、安井曾太郎や梅原龍三郎や佐伯祐三などの世界を知り、強く惹かれる心を持っていたからだ。あるいはまた、(略) 琳派の絵や工芸が秋桜子の好みに近い、それも、宗達、光悦、乾山と並べてみて、秋桜子の世界は光琳だろう。」
 掲出の句は、「佐伯祐三遺作展」と題する八句連作のうちの一句である。佐伯祐三は昭和三年にパリ郊外で客死している。ともすると、秋桜子の俳句は、「きれい寂」の「寂の本質の中に含む華麗さ」という面で鑑賞されがちだが、佐伯祐三らの「現実よりも純粋な主情の色と光」という面での鑑賞がより要求されてくるであろう。

(一四)

○ 初日さす松はむさし野にのこる松 (『蘆刈』)

 昭和十四年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)は、次のように続く。
「もう一つ、これは畫ではないが、利休の寂を逸脱して大名茶にしてしまったとして責められる利休門の高弟、古田織部、織部門の高弟で「きれい寂」の評判を取った小堀遠州などの世界である。「きれい寂」とは、寂の本質の中に含む華麗さを取り出して言うので、本来利休の侘数寄の中にも潜むものであるが、取り立てては小堀遠州の好みを指す。利休の侘数寄は、織部の大名数寄を経て、遠州で「きれい寂」に到達する。(略)織部好みの角鉢や角蓋物や、茶碗などを見て、これこそ「きれい寂」を創り出す基であり、これは秋桜子の目指す理想的芸境に近いのではないかと思う。」
 秋桜子の陶器趣味や茶道趣味は、その句を追っていくだけでも十分に察せられるのであるが、この掲出の句は陶器作家の富本憲吉の工房の裏の林の見事な赤松を想像しつつの一句という(藤田・「人と作品」)。この掲出句でも鮮明なように、秋桜子俳句の根底には、佐伯祐三らの油絵的な世界ではなく、極めて高雅・典麗な「きれい寂」に通ずる日本画的な世界であるということができよう。ここには、佐伯祐三的な世界の影はない。

(一五)

○ 陶窯(かま)が噴く火の暮れゆけば青葉木莵(あおばずく) (『古鏡』)

 昭和十六年作。当時、秋桜子は富本憲吉の陶房をよく訪れている。先に触れた「初日さす松はむさし野にのこる松」について、次のような自解をのこしている。「陶器工房の側に、高い赤松が立っていた。雑木林の中からただ一本空にのびているもので、武蔵野にのこる美しい松の中でも、これほどのものはすくないであろうと思われた。先生は仕事に疲れると、いつも梢を眺めておられた」(藤田・秋桜子の秀句)。この掲出の句もその陶房でのものであろう。この頃は、同時に、中西悟堂の「日本野鳥の会」の探鳥行に同行して、野鳥の句を多く残している。この作の前年の昭和十五年には、いわる、京大俳句弾圧事件が起こり、第二次世界大戦の勃発の前夜のような状態であった。当時の秋桜子の陶窯や野鳥の句などが多くなるのも、そのような当時の思想弾圧などの社会的風潮と大きく関係しているのかも知れない。                                                                                                                                                                                                       

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