水曜日, 5月 23, 2007

其角の『句兄弟・上』一(一~十一)


画像:各務支考


其角の『句兄弟・上』

芭蕉が没した元禄七年(一六九四)に成った、其角の『句兄弟』(上・中・下)の、其角の序(句兄弟序)の全文は次のとおりである。

(参考文献)
一 『句兄弟・上』夏見知章・大谷恵子・山尾規子・関野あや子編著
二 「句兄弟」(『蕉門俳諧集二』・古典俳文学大系七)今栄蔵校注

(句兄弟序)
○点ハ転ナリ、転ハ反なりと註せしによりて案ズルに、句ごとの類作、新古混雑して、ひとりことごとくには、諳(ソラン)じがたし。然るを一句のはしりにて聞(きき)なし、作者深厚の吟慮を放狂して、一転の付墨をあやまる事、自陀(他)の悔(くやみ)且暮にあり。さればむかし今の高芳の秀逸なる句品、三十九人を手あひにして、お(を)かしくつくりやはらげ、おほやけの歌のさま、才ある詩の式にまかせて、私に反転の一躰をたてゝ、物めかしく註解を加へ侍る也。此(この)後俳諧の転換、その流俗に随ひ侍らば、一向壁に馬なる句躰なりとも、聊(いささか)の逃(にげ)道を工夫して等類の難をのがれぬべし。尤(もっとも)、古式のゆるしごとくに、貴人・少人・女子・辺鄙の作に於(おい)ては、切字ひとつの違(ちがひ)にして当座の逸興ならしめんは、祝蛇(原文は魚扁)が侫(ねい)なかるべし。此(この)道の譬喩方便なれば、諸作一智也、諸句兄弟也、とちなめるまゝ遠慮なく書の名とし侍る。
元禄七甲戌稔(年)寿星初五  晋 其角
(参考)一 「点ハ転ナリ、転ハ反なり」=点は点化の意で漢詩作法から来た語。点化は古人の詩句を換骨奪胎して自句を成す法で、転・反というも等しい。当時俳人にも読まれた明の梁公済著『氷川(ひょうせん)詩式』に作句法の一として「点化句法」が見えるが、其角は元禄七年刊『其便』に「点化句法」と表示する発句を出しており、漢詩法に学んだ作句法を試みていることが分かる(今・前掲書)。『俳文学大辞典』では「反転の法」の項目での説明あり。また、『去来抄』では、「打ち返し」の用例も見る。
二 おほやけの歌のさま=歌道における本歌取りのこと。『細川幽斎聞書全集』巻之一には「本歌可取様之事」として、次の六法がある。
①常に取る本歌の詞にあらぬ物にとりなしてといへり
②本歌の心をとりて風をかへたる
③本歌に贈答したる躰
④本歌の心になりかへりてしかも本歌をへつらはずして新しき心を読める躰
⑤詞一つをとりたる歌
⑥本歌二首を以て読める躰
三 壁に馬なる=諺「壁に馬を乗りかけたよう」。物事を出し抜けにやること、また無理無体にやることのたとえ。
四 祝蛇(原文は魚扁)=中国春秋時代、衛の人。『論語』に出てくる。後世、弁舌の巧みな者をたとえていう。
五 元禄七甲戌稔(年)寿星初五=元禄七甲戌年八月五日

(句合せ一)

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一番
   兄 貞室
 これはこれはとばかり花の吉野山
   弟 晋子(其角)
 これはこれはとばかり散るも桜哉

(兄句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりの花一色の吉野山であることよ。
(弟句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりに落花の桜も美しいことであるよ。
(判詞の要点)兄句の「これはこれとばかり」をそのままに、それに唱和するようなスタイルで、「花の吉野山」を「散るも桜哉」と反転せている。それも、単に、「咲いた桜」に対して「散る桜」と反転させただけではなく、「これは、これはと驚くばかりに激しく散る桜の美しさ」も、花(桜)の「(物の)本性」(『徒然草』第百三十七段の「花の前後」の心に通ずる)で、その心をもって反転させたところに、ここでの弟句の句作りの要諦がある。
(参考)安原貞室(やすはらていしつ:1610年(慶長15年) - 1673年3月25日(延宝元年2月7日))は、江戸時代前期の俳人で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商。1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事して俳諧を学び、42歳で点業を許された。貞門派では松江重頼と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「毛吹草」を貞室が「氷室守」で論破している。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている。句集は「玉海集」など。


(句合せ二)

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二番
   兄 拾穂軒
 地主からは木の間の花の都かな
   弟 (其角)
 京中へ地主のさくら飛(ぶ)胡蝶

(兄句の句意)京の清水の地主神社の木の間から華やかな花の京が見える。
(弟句の句意)京中へ清水の地主神社の桜の花びらがあたかも胡蝶のように飛んで行く。
(判詞の要点)兄句の「木の間」という語で「たてふさがりて」の趣なので、弟句では、「飛花の蝶に似たる」の発想で、反転させたのである。この種のものは作例を多く見るが、特に、「京中へ」としたところに工夫がある。「飛花の蝶に似たる」は、王雅の「晴景」(『三体詩』巻一所収)による。
(参考)北村 季吟(きたむら きぎん、1625年1月19日(寛永元年12月11日) - 1705年8月4日(宝永2年6月15日))は、江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。名は静厚、通称は久助、別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭。(経歴) 出身は近江国野洲郡北村。祖父の宗竜、父の宗円を継いで医学を修めた。はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳について俳諧を学び、「山之井」の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれた。飛鳥井雅章・清水谷実業(しみずだにさねなり)に和歌、歌学を学んだことで、「土佐日記抄」、「伊勢物語拾穂抄」、「源氏物語湖月抄」などの注釈書をあらわし、1689年(元禄2年)には歌学方として幕府に仕えた。以後、北村家が幕府歌学方を世襲した。俳諧は貞門派の域を出なかったが、「新続犬筑波集」、「続連珠」、「季吟十会集」の撰集、式目書「埋木(うもれぎ)」、句集「いなご」は特筆される。山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出している。

(句合せ三)

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三番
   兄 素堂
 又これより青葉一見となりにけり
   弟 (其角)
 亦是より木屋一見のつゝし(じ)哉

(兄句の句意)花が落花して、また、これからは「青葉一見」の季節になったことよ。
(弟句の句意)「植木屋一見」の花の季節から、また、これからは「つつじ」の季節になったことよ。
(判詞の要点)兄句・弟句とも春の名残を惜しむことにおいては同じであるが、兄句の「青葉」を「木屋」に、「となりにけり」を「つゝし(じ)かな」と変転させることによって、句の表面の字面も句意も随分と様変わりしている。特に、この「下五の云かへにて」で、両句は「強弱の躰をわかつもの」となっている。両句の背景には、賈島「暁賦」詩中の「遊子行残月」(『和漢朗詠集』所収)がある。
(参考)山口素堂(やまぐち そどう、寛永19年(1642年) - 享保元年8月15日(1716年9月30日))は、江戸時代前期の俳人・治水家。本名は信章。通称勘兵衛。[経歴] 生れは甲斐国で、家業は甲府魚町の酒造家。20歳頃で家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て漢学を林鵞峰に学んだ。俳諧は1668年(寛文8年)に刊行された「伊勢踊」に句が入集しているのが初見。1674年(延宝2年)京都で北村季吟と会吟し、翌1675年(延宝3年)江戸で初めて松尾芭蕉と一座し以後互いに親しく交流した。晩年には「とくとくの句合」を撰している。また、治水にも優れ、1696年(元禄9年)には甲府代官櫻井政能に濁川の治水について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いている。

(句合せ四)

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四番
   兄 粛山
 祐成が袖引(き)のばせむら千鳥
   弟 (其角)
 むらちどり其(の)夜ハ寒し虎が許

(兄句の句意)群千鳥が鳴いている。群千鳥よ、どうか、曽我兄弟の祐成が仇討ちに出掛けていこうとしているが、その袖を強く引いて引き留めて欲しい。
(弟句の句意)群千鳥が鳴いている。、曽我兄弟の祐成が仇討ちに出掛けて行った日も、虎御前とともにあって、その夜は厳しい寒さであったことだろう。
(判詞の要点)両句とも、曽我十郎祐成と祐成と契った遊女の虎御前のことについて詠んだものである。「是は各句合意の躰也。兄の句に寒しといふ字のふくみて聞え侍れば、こなたの句、弟なるべし」。判詞中の「冬の夜の川風寒みのうたにて追反せし也」は、紀貫之の「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒みちどり鳴くなり」(『拾遺集』)を踏まえている。
(参考)「粛山(しゅくざん)」については、この其角の『句兄弟』の、「上巻が三十九番の発句合(わせ)、判詞、其角。中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める。下巻は元禄七年秋から冬にかけて東海道・畿内の旅をした其角・岩翁・亀翁らの紀行句、諸家発句を健・新・清など六格に分類したものを収める」(『俳文学大辞典』)の、「中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める」の「粛山」であろう。『句兄弟(上)』の其角の判詞には、「さすか(が)に高名の士なりけれハ(ば)」とあり、この粛山とは、松平隠岐守の重臣・久松粛山のことであろう。


(句合せ五)

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五番
   兄 信徳
 雨の日や門提(げ)て行(く)かきつばた
   弟 (其角)
 簾まけ雨に提(げ)来(る)杜若

(兄句の句意)雨が激しい。その雨の中を客人が門から色鮮やかな杜若を提げて出て行く。
(弟句の句意)簾を巻き上げよ。雨の中を客人が杜若を提げて我が家にやって来る。
(判詞の要点)両句は、表面的には「雨の日に提て行く杜若」と「雨の日に提て来る杜若」と「往と来との」の反転であるが、弟句は上五の「簾まけ」によって、雨に濡れた杜若の雫の様子や杜若の色や香なども詠み込んでいる。この「簾まけ」には、『枕草子』(第二百八十二段)の「香炉峯の雪は簾を撥げて看る」(『白氏文集』)の一節が連想されてくる。
(参考)伊藤信徳(いとう しんとく)(~元禄十一年没)京都新町通り竹屋町の商人。助左衛門。若かった時分、山口素堂とも親交があつかった。貞門俳諧から談林俳諧に進み、『江戸三吟』は、この芭蕉・素堂・信徳の三人による。梨柿園・竹犬子は別号。享年66歳。この『江戸三吟』は、京の信徳が延宝五年(一六七七)の冬から翌年の春にかけて江戸滞在中に、桃青(芭蕉)・信章(素堂)と興行した三吟百韻三巻を収める。「三人の技量が伯仲し、軽快で才気あふれる諧謔のリズムに乗って展開しており、江戸談林や京の高政一派に見られるような難解奇矯の句は少なく、当時の第一線の作品となっている」(『俳文学大辞典)。

(句合せ六)

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六番
   兄 曲水
 三弦やよしのの山を佐月雨
   弟 (其角)
 三味線や寝衣(ネマキ)にくるむ五月雨

(兄句の句意)外は五月雨、三味線の練習曲の「吉野山」を弾いて、閑を紛らしている。
(弟句の句意)外は五月雨、三味線を弾いて気を紛らわしている。いっそ、寝間着に身をくるんで寝てしまおうか。
(判詞の要点)兄句は、五月雨の軒の雫の「ぽちぽち」という音と、三味線の「ほちほち」という音とを重ね合わしててる。弟句では、「寝衣(ネマキ)」という語によって、閨怨の意を含ませ、五月雨の「ぽちぽち」と三味線の「ほちほち」との他に、閨怨の想いの「ぼちぼち」とを重ね合わしている。兄句が「倦む」句とするならば、弟句は「忍ぶ」句であり、両句が等類でないことは明瞭である。
(参考)一 菅沼曲水(曲翠)(すがぬま きょくすい)。本名菅沼外記定常。膳所藩重臣。晩年奸臣を切って自らも自害して果てる。『幻住庵の記』の幻住庵は曲水の叔父菅沼修理定知の草庵。曲水は、近江蕉門の重鎮でもあり、膳所における芭蕉の経済的支援をした。高橋喜兵衛(怒誰)は弟。
二 兄句の曲水の句については『葛の松原』(支考著)にその評が出る。
二 「謎解き・五十七」では、弟句の句意で、「寝衣(ネマキ)にくるむ」は、「三味線をくるむ」に重点において滑稽句のように解したが、ここは、判詞にある「閨怨」の意をとって、「寝間着に身をくるんで寝てしまう」の意に解することにする。

(句合わせ七)

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※(謎解き・五十八)http://yahantei.blogspot.com/2007/04/blog-post.html

七番
   兄 (不詳)
 禅寺の華に心や浮蔵主
   弟 (其角)
 客数寄や心を花にうき蔵主

(兄句の句意)禅寺にも花が咲き、禅坊主の心にも花が咲き、浮かれていることよ。
(弟句の句意)禅寺に花見客を招き、禅坊主も一緒になって心も華やぎ、浮かれていることよ。
(判詞の要点)兄句は戯れ句仕立ての句であるが、禅の心を悟る坊主が主題となっており、どこか重い、聞きながしにはできないような趣がある。それを弟句では、まさに、当座の句にふさわしく、即興的な「得興の専」の句に変転している。
(参考)一 これまでの、貞室→拾穂軒(季吟)→素堂→粛山→信徳→曲水(曲翠)と、ここに来て、作者名が空白(不詳、其角か)で、続いて、八番が露沾、九番が岩翁、十番がまた空白(不詳、其角か)となっていく。これらの順序なども何か意図があるのかも知れないが、これまでのものを振り返って見て、いわゆる、発句合わせ(句合わせ)の、兄・弟との両句の優劣を競うという趣向よりも、兄の句の主題・言葉を使って、いかに、弟の句を「誹番匠」(言葉の大工)よろしく、換骨奪胎するか、その腕の冴えを見せるという趣向が濃厚のように思われるのである。この掲出の二句でも、「華(花)・心・浮蔵主(うき蔵主)」は同じで、違うのは、上五の「禅寺」(兄)と「客数寄」(弟)との違いということになる。それだけで、この兄の句と弟の句は、まるで別世界のものとなってくる。この兄の句は、「禅寺にも花が咲き、経蔵を管理する老僧の心も華やいでいる」という対して、弟の句は、「数寄者を招き、禅寺の経蔵管理の老僧まもで、数寄者と一緒になって、この庭の花を心から愛でている」とでもなるのであろうか。兄の句は、中七の「華に心や」切り、下五の「浮(き)坊主」と、この判詞にある「古来は下へしたしむ五文字を今さら只ありに云流したれは(ば)」というのを、弟の句では、上五の「客数寄や」切りにして、「心を花にうき坊主」と「心を花にうき」と「うき坊主」と「うき」を掛詞として、「花見る庭の乱舞によせたり」という世界を現出しているということなのであろう。これらは、今にいう「添削」(主に作者以外の人が言葉を加えたり、削ったりして句を改めること)・「推敲」(作者自身による修正)の問題なのであろうか。これらに関して、芭蕉書簡の「点削」は、「評点を加え、添削するの意」で使われているとのことであるが(『俳文学大辞典』)、この其角の『句兄弟』のこれらのものは、この「点削」の要領に近いものを感ずるが、その「点削」そのものではなく、いわば、その兄の句の「主題・言葉」を使用して、また、別の句を作句するという、いわゆる、「反転の法」(ある句の語句の一部や発想を転じて、新たな趣意の句を詠ずる句法、もと漢詩の手法から想を得て、其角が『句兄弟』で等類を免れるために実践した法)の具体例というようなことなのであろうか(「反転の法」の説明は『俳文学大辞典』による)。この「反転の法」というのは、例えば、掲出の二句についていえば、兄の句を「反転の法」により、新しい別の弟の句を作句するということで、この兄の句と弟の句とは、「兄弟句」の関係にあるという理解でよいのかも知れない。なお、「等類」というのは、「先行の作品に作為や表現が類似していること」をいう。そして、「連歌では、心敬などは別にして、むしろこれに寛容な傾向が強いが、新しみを重んじる俳諧では、『毛吹草』以下とりわけ批判の対象となり、『去来抄』などに見られるように、蕉門では特に厳密な吟味がなされた」とされ、「去来は先行の句に発想を借り、案じ変えたものを同巣(どうそう)」といい、「近現代俳句では『類句』とも呼ばれる」(『俳文学大辞典』)。この「兄弟句」と「等類(句)」との一線というのは、はなはだその区別の判断は難しいであろうが、其角は、「漢詩の点化句法(『詩人玉屑』などに所出)をもとに」にしての「反転の法」により「等類」とは似て非なるものという考え方なのであろう。そもそも、連歌・俳諧というのは、「座の文学」であり、「連想の文学」であり、一句独立した俳句(発句)として、「独創性」を重んじるか「挨拶性」を重んじるか、その兼ね合いから個々に判断されるべきものなのであろうが、こういう其角の「反転の法」のような作句法も、これらの『句兄弟』の具体例を見ていくと、確かに、誰しもが、この種の、「推敲」なり「添削」を、無意識のうちに、それも日常茶飯事にやっているということを痛感する。と同時に、「兄弟句」と「等類」(「類句」)とは違う世界のものという感も大にする。また、この「反転の法」というのは、この句合わせの一番などに見られる「云下しを反転せしものなり」、そして、それは「句を盗む癖とは等類をのか(が)るゝ違有」ということで、この一番の解説での「換骨」(古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる)と同趣旨のものと解したい。そして、それは、其角の代表的な撰集『いつを昔』の前題名として予定されていた「誹番匠」(言葉の大工)という用語に繋がり、そして、それは横文字でいうと、「レトリック」(①修辞学。美辞学。②文章表現の技法・技巧。修辞。)という用語が、そのニュアンスに近いものであろう。その意味では、其角というのは、「レトリック」と「テクニシャン」(技巧家)の合成語ともいうべき「レトリシャン」(修辞家)の最たる者という思いがする。いや、もっと「マジック」の「マジシャン」ということで、「言葉の魔術師」とでもいうべきネームを呈したいような思いを深くするのである(謎解き・五十八)。
二 兄句の作者が空白で、其角の句と解して、句意・参考一を記したが、判詞に「毛吹時代の老僧」とあり、「貞門時代の老僧」の作なのかも知れない。(句合せ十)の兄句作者も空欄なのであるが、これも、判詞の「棹頭(チョウズ)の秀作」から、「長頭丸(松永貞徳)の秀作」と解せなくもない(其角が貞徳派の作者名も伏したとも取れなくもない)。

(句合せ八)

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八番
   兄 露沾
 蔭惜(し)き師走の菊の齢かな
   弟 (其角)
 秋にあへ師走の菊も麦畑

(兄句の句意)その姿かたちも捨てがたい師走の頃の盛りを過ぎた菊は、丁度、老齢の自分の姿を見るようだ。
(弟句の句意)師走の頃の盛りを過ぎた菊も、次の麦秋の頃を経て、はまた再び秋を向かえ、その美しい姿を見せることでしょう。
(判詞の要点)兄句の中七は最高の評点を付けるべきでしょう。そして、霜雪にうたれて枯れ果てた菊を愛しみながら、その菊に自分自身を重ね合わせているのである。弟句は、菊が萌え出る夏の麦秋を経て、秋には再び美しい花を咲かすでしょうと、次の盛りを期待する句へと、反転させているのである。
(参考)一 内藤露沾(ないとう ろせん)(~享保18年(1738)9月14日、享年79歳)
磐城の平藩7万石城主内藤右京大夫義泰(風虎)の次男義英、その後政栄。28歳の時お家騒動で家老の讒言によっておとしめられ、麻布六本木の別邸で風流によって自らを慰めながら、部屋住みのままに生涯を終えた。宗因門下のなかなかの才能で一流を起こした。芭蕉が『笈の小文』の旅に出るにあたって、「時は冬吉野をこめん旅のつと」と餞した。この句も、餞別吟としてなかなかの出来栄えである。号は傍池堂・遊園堂。西山宗因門弟。後に江戸俳壇を仕切った沾徳は露沾の弟子。蕉門中最も身分の高い人であった。
二 「謎解き・五十九」では、作者、露沾を見落としてしまった。また、弟句の「秋にあへ」は、「秋に敢へ」(耐え)との句意にしたが、ここでは「秋に会へ」(向かえ)との句意にした。
三 さて、「言葉の魔術師・其角」の「反転の法」による「兄弟句」の二句である。この中七の「師走の菊」が、其角の判詞の「中七字珍重(もてはや)すへ(べ)し」ということで、この中七字は、「師走の菊の」(兄)の「の」と「師走の菊も」(弟)の「も」との一字違いだけである。この中七を活かして、いわゆる「反転の法」によって、それぞれ別世界を創出するというのが、「誹番匠」の其角師匠の腕の冴えの見せ場なのである。
まず、兄の句を見ていくと、「蔭惜(し)き師走の菊の齢かな」と、いわゆる「一物仕立」の「発句はただ金を打ちのべたる様に作すべし」(『旅寝論』)なのに対して、弟の句は、「秋にあへ師走の菊も麦畑」と「師走の菊」と「麦畑」の、いわゆる「取合せ」の「発句は畢竟取合せ物とおもひ侍るべし。二ツ取合せて、よくとりはやすを上手と云(いう)」と、そのスタイルを変えて、いわゆる「反転の法」によって、換骨奪胎を試みているのである。そして、其角は、この換骨奪胎を「句を盗む癖とは等類をのか(が)るゝ違有」と「句を盗むところの等類」を「逃るる」もので、これは「等類」ではなく、いわば「兄弟句」であるとするのである。弟の句の「秋にあへ」は「秋に会え」(秋を向かえ)と解して、判詞で言う「霜雪の潤むにおくるゝ対をいはゝ(ば)わつ(づ)かに萌出し麦の秋後の菊をよそになしけん姿」の句に変転した、「誹番匠」の其角師匠の腕の冴えは、只々脱帽せざるを得ないという思いを深くするのである(謎解き・五十九)。

(句合せ九)

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九番
   兄 岩翁
 達磨忌や朝日に僧の影法師
   弟 (其角)
 達磨忌や自剃にさくる水鏡

(兄句の句意)達磨忌の朝、朝日の中で忙しそうに動き廻る僧の影すら、慌ただしい。
(弟句の句意)達磨忌の朝、身を清めるために頭を自剃りしていると、水鏡に写る自分の
影すらじっとしている。
(判詞の要点)俳句ヲ論ズルコトハ禅ヲ論ズルガ如シ。この二句では、兄句の「日の影」と弟句の「水の影」で、特にその違いはない。ただ、空房ニ独リ孑(ケツ)の、似ているようで似ていない、その影(兄句では慌ただしく、弟句でじっとしている、その影の違い)を句にしただけである。ここでは、兄句、弟句の、優劣や等類について論ずるものではない。
(参考)一 多賀谷岩翁(たがや がんおう)(~享保7年(1722)6月8日)
 江戸の人。通称は、長左衛門。亀翁はその息子で、ともに其角の門弟で芭蕉にとってはいわば孫弟子にあたる。なお、『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著)では、次のとおり記述されている。「『続虚栗』に岩翁(がんおう)が初めて一句入集する。彼は多賀谷長左衛門と称する幕府御用を勤める桶屋であったという。其角は元禄四年(一六九一)の大山・江ノ島・鎌倉の小旅行で岩翁親子(子は亀翁)と同行し、元禄七年の関西旅行でも岩翁親子と同行している。岩翁は『桃青門弟独吟二十歌仙』のメンバーの一人だが、一時俳諧から離れていたらしい。『続虚栗』以後は其角派の一員として活躍するが、其角のパトロンの一人であったと思われる」。
二 判詞の「空房独了(ケツ)」は「空房独孑」で、「孑」は孤立の意味(『今・前掲書』)。
三 『夏見・前掲書』では、「空房独孑」のところを、「一人で静かな部屋にいるときの、自分と自分の影のように、似ているようで似ていない、似ていないようで似ている、そして最後には、どちらが影で、どちらが本物の自分であるのかわからなくなってしまう、そういう奥行きの深い、哲学的な意味合いを持つものである。だからみれらの日の影と水の影を詠んだ二句は、題材は同じであるが、簡単に優劣や等類を論ずることはできないのである」としている。分かり難い箇所だが、上記の(判詞の要点)のように解する。


(句合せ十)

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十番
   兄 (不詳)
 干瓜や汐のひか(が)たの捨小舟
   弟 (其角)
 ほし瓜やうつふけて干す蜑小舟

(兄句の句意)汐の干潟に捨て小舟があり、その捨て小舟に「捨て小舟」の異称のある白瓜の漬け物が干してある。
(弟句の句意)蜑小舟に白瓜の漬け物俯けて干してある。汐が満ちても濡れないように。
(判詞の要点)兄の句は「干瓜」と干瓜の異称のある「捨て小舟」の句として優れた言い回しの句なので、換骨奪胎しても、等類の非難を逃れるのは至難のことだが、兄句の「汐のひがた」を「ふつふけて干す」と反転させて、兄句の「汐」を、弟句では干し瓜に使う「塩」と働きを別にしているので、等類と非難されることはないだろう。
(参考)一 兄句の作者のところは空白で、其角の作とも思われるが、『夏見・前掲書』では、判詞の「棹頭の秀作にして」の「棹頭」を「チョウズ」と読んで、松永貞徳の号の「長頭丸」の宛字に解している。(謎解き・六十一)では、其角の作と解したが、ここでは、貞徳の作と解することとする。
二 松永貞徳(まつなが ていとく)1571年(元亀2年)~ 1654年1月3日(承応2年11月15日))は、江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者。父は松永永種。松永久秀の孫とも言われる。子は朱子学者の松永尺五。名は勝熊、別号は長頭丸・逍遊(しょうゆう)など。出身は京都。連歌師、里村紹巴(さとむらじょうは)から連歌を、九条稙通、細川幽斎に和歌・歌学を学ぶ。俳諧は連歌・和歌への入門段階にあると考え、俗語・漢語などの俳言(はいごん)を用いるべきと主張した。貞徳の俳風は言語遊戯の域を脱しないが、貞門派俳諧の祖として一大流派をなし、多くの逸材を輩出した。

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