日曜日, 1月 08, 2006

日野草城「諸人旦暮の詩」(その一~その十)



日野草城・「諸人旦暮の詩」

(その一)

「神戸新聞」(平成十七年十二月十日)に日野草城が創刊した俳誌 「青玄」が五十六年の幕を閉じるという次のような記事を目にした。

「尼崎市に拠点を置く青玄俳句会(伊丹三樹彦主幹)は九日までに、俳句雑誌『青玄』を、今月下旬に発行する第六百七号で終刊とすることを決めた。『俳句現代派』を掲げ、大胆な表記改革を推進してきた五十六年の歴史に幕を閉じる。同誌は一九四九年に新興俳句運動の旗手、日野草城が創刊。五六年の草城没後は伊丹主幹が継承し、『無季・現代語・分かち書き』などを提唱した。全国に同人・会員約千人を持ち、毎月千五百部を発行している。
 今年の夏に体調を崩した伊丹主幹が『直接指導するのが困難』と終刊を決意。緊急の会合で議決された。会員らが新雑誌を立ち上げる計画もあるが、「青玄」の名は使わないという。同主幹の妻、伊丹公子さんが十一月に主幹から受け継いだ『神戸新聞文芸』欄の選者は、公子さんが引き続き担当する。(平松正子) 俳人の山田弘子さんの話 『青玄』は、草城の詩型を継ぐ日本を代表する現代俳句誌。終刊は残念だが、一日も早く伊丹さんが回復し、再び俳壇に目を配ってくださるよう切に願っている。」
 
 折りも折り、古俳諧にも造詣が深く、自らも俳句実作を実践している復本一郎氏が、「俳句を変えた男」の副題を付した『日野草城』(平成十七年六月二十日刊)を公刊した。そこで、「臥床後の草城の俳句理念」として、「諸人旦暮の詩」(もろびとあけくれのうた)を紹介していた。これらの、晩年の日野草城の俳句理念や俳句実作などを中心として見ていきたい。
 復本一郎氏は、草城の「「諸人旦暮の詩」の理念に添った句として、草城の第六句集『旦暮』の次の六句を紹介している。

○ 冬ざれて枯野へつづく妻の手か
○ 炎天に黒き喪章の蝶とべり
○ 木々の濡れ肌におぼゆる端居かな
○ 煮ざかなに立秋の箸なまぐさき
○ 仰臥して四肢を炎暑に抑えらる
○ 薔薇色のあくびを一つ烏猫

(その二)

 日野草城が「俳句は諸人旦暮の詩である」について、「関西アララギ」(昭和二十九年三月号)で、次のような解説をしている(復本一郎著・前掲書)。

「私は俳句はもろびとあけくれのうた(諸人旦暮の詩)であると考えてゐます。日常生活の中に見出されるよろこびや悲しみを誰かに聴いてもらひたくて口に出たものが俳句だと思ひます。私は俳句の本質を『本音のつぶやき』だと言つたことがあります。尤もこれは文学以前の心の動きを説明した言葉で、『本音のつぶやき』でさへあればすべて文学であり得るとは考へません。しかし文学とは全然縁のないものとは決して考へません。」

この「もろびとあけくれのうた(諸人旦暮の詩)」の草城自身の解説に、復本一郎氏は次のような感慨を付け加えている。

「ここには、フィクション、ノンフィクションを問わず、かっての作品至上主義を掲げていた草城の姿を見ることができない。俳句を『本音のつぶやき』だなどと言う草城を、誰が想像できたであろうか。そのような考え方の対蹠的なところに位置していたのが草城であり、草城の作品であったのである。草城がこう呟いた瞬間、まさに山本健吉が指摘していたように、『人生の午後』以前の俳句世界は『「人生の午後」に至るまでの長い廻り道であった』ということになってしまうのである。」

とした上で、復本一郎氏は、「俳句を変えた男」・日野草城の処女句集『花氷』(昭和二年刊)の作品群を、晩年の草城の作品群よりも高く評価しているのである。そして、それらの作品について『花氷』二千余句のうち、厳選に厳選を重ねて、次の十句を紹介している。

○ 春の夜やレモンに触るゝ鼻の先
○ 物種を握れば生命(いのち)ひしめける
○ ところてん煙の如く沈み居(を)り
○ 小百足(こむかで)を搏(う)つたる朱(あけ)り枕かな
○ 女将(おかみ)の歯一つ抜けゐて秋涼し
○ 朝寒や歯磨匂ふ妻の口
○ 船の名の月に読まるゝ港かな
○ 静けさや白猫渉(わた)る月の庭
○ 鶏頭や花の端(は)焦げて花盛り
○ 夕風やへらへら笑ふしびとばな

(その三)

○ 春の夜やレモンに触るゝ鼻の先
○ 物種を握れば生命(いのち)ひしめける
○ ところてん煙の如く沈み居(を)り
○ 小百足(こむかで)を搏(う)つたる朱(あけ)り枕かな
○ 女将(おかみ)の歯一つ抜けゐて秋涼し
○ 朝寒や歯磨匂ふ妻の口
○ 船の名の月に読まるゝ港かな
○ 静けさや白猫渉(わた)る月の庭
○ 鶏頭や花の端(は)焦げて花盛り
○ 夕風やへらへら笑ふしびとばな

 これらの句についての復本一郎氏の賛辞は次のとおりである。
「十句、ことごとくが、いずれも日常、目にし得る素材、あるいは対象である。それが、草城によって限りなく美的世界へと変身を遂げているのである。繊細な感受性をも含めて、草城が、いかに詩的な資質に恵まれていたか、ということである。それゆえに、子規の『写生』の世界、あるいは、虚子の『花鳥諷詠』の世界を突き抜けて、唯美の世界に到達し得たのである。そして、そこに、草城は、従来の俳句世界では、誰も詠み得なかったエロティシズムの世界を構築し得たのである」。
さらに続けて、「俳句のエロティシズムは、草城によって確立された。俳句がエロティシズムを詠み得る文芸の器(うつわ)であることを、草城が出現するまでは、誰一人として気付かなかった。誰一人として積極的に詠もうとしなかった。せいぜいいわゆる『相聞の句』を詠むのが精一杯であった。俳句が一変したのである。この一点において、草城を最大級に評価したい」(復本・前掲書)という。
復本一郎氏は、日野草城を「俳句を変えた男」として、上記のとおり、ただ一点「従来の俳句の世界では、誰も詠み得なかったエロティシズムの世界を構築し得た」ということで、草城が晩年に到達し得た、いわゆる「もろびとあけくれのうた(諸人旦暮の詩)」という俳句理念とそれに基づく晩年の第六句集『旦暮』・第七句集『人生の午後』の俳句の世界以上に評価をしているのである。
しかし、ここは、復本一郎氏が紹介している、草城の奥様の晏子氏の、次のような発言を是といたしたい。
「句としては、昔は人の目を惹くだけの、表面ばつとしていても心持の浅い句が多く、秋桜子先生や誓子先生の御句の方がしつとりとしてゐて好ましく思つてゐました。然(しか)し、病臥以来の主人の句には、昔と違つた落着きが出て来たように思います。ひいき目かも知れませんが、
  肌かはく日となりぬ夏長かりし
 最近出版した句集『旦暮』に載つてゐるこの句など、好きです」(「俳句研究」・昭和二十五年十一月号)。

(その四)

○ 春暁やくもりて白き寝起肌
○ 春の夜や足りぞかせて横坐り
○ 春の灯や女は持たぬのどぼとけ
○ 潮干狩脛(はぎ)のふくらに刎泥(はね)上げて
○ 南風や化粧に洩れし耳の下
○ しみじみと汗にぬれたるほくろかな
○ 菖蒲湯や黒髪濡れて湯気の中
○ 蚊帳の裾うなじを伸べてくゞりけり
○ 山蟻に這はるゝ足のあえかなる
○ 秋風や子無き乳房に堅(かた)く着る
○ 唇の紅さ枯野を粛殺す
○ 白々と女沈める柚子湯かな
○ のぼせたる頬美しや置巨燵
○ 酔へる眼も年増盛りや玉子酒

 これらの掲出句は、復本一郎氏が厳選した『花氷』の中のエロティシズムに溢れる十五句である。そして、復本氏は、「このような俳句世界は、草城が俳壇に登場すまでは、なかったのである」と断言する。ここで、草城自身の自らの語るエロティシズム観というものを見ておくこととする。

「既に何人かの評家によつて指摘された通り、私ほど女人に関する作品を多く製作発表した俳句作家は少ないであらう。私の女人に対する関心の程度は、俳壇に在つては、注目に値するものであるらしい。その結果、私が(俳句を離れて、一個の男性そのものとして)女人に対して異常なる嗜好を持つものゝ如くに考えてゐる人々が在るやうであるが、これは人間としての私についての認識の不足を示すのみならず、従来の俳壇並びにその成員たちの詩眼の偏狭を証拠立てる一つの有力な事実である。私が女人に感心を持ち過ぐる(私は決してさうは思はないが)といふ彼等の非難は、とりもなほさず、彼等は余りにも女人に関心を持たな過ぎるといふ私の非難となつて返されるであらう。女人及び女人を中心とする広汎にして肥沃なる詩野を、芭蕉以来の俳句作家は殆ど全然といつてもよい位閉却してゐた。これは実に不思議なことがらである。私にとつては謎のやうにしか考へられないことがらである」(復本一郎・前掲書、「旗艦」昭和十年三月号)。

 時に、草城三十五歳。草城は「ホトトギス」には所属していたが、その一月に主宰誌「旗艦」を創刊して、上記のとおり、芭蕉もまた芭蕉以来の誰一人として為し得なかった「俳句に女人を、そのエロティシズムの世界」を導入する第一先達者としての矜持と自覚とを草城自身明確に意識して、それを世に問うているのである。この三年後に、草城自身の次のような記述がある。

「官能俳句の価値の問題であるが、芸術化の正否によつてそれが決定されることは今更の言を須(もち)ひない。いくらリアリスィックに実感がこめられ迫力を備へてゐようとも、結局挑発に了(をは)るやうな作品は否定されねばならぬ。また、如何にさりげなく暗示的に言ひ廻されてあつても、ヴェールの蔭から卑しひ笑ひがもれてゐるやうな作品は、是又(これまた)否定されねばならぬ。兎角卑陋に見られ勝ちの素材に拠つても而(しか)も詩の香気を放たしめ気稟(きひん)を感ぜしめる底のものでなくてはならぬ。ここに官能俳句のむつかしさがある。官能俳句は素材の実感性により一概に斥(しりぞ)けらるる懼(おそ)れがあると共に、同じその実感性の故に没批判に受容される危険がある。いずれも文芸として正しくなく、悦ばしくないことである。作家も鑑賞者も共に厳重に戒慎すべきところである」(復本・前掲書、「広場」昭和十三年五月号)。

 復本氏は、上記の草城のエロティシズム俳句(兎角卑陋に見られ勝ちの素材に拠つても而(しか)も詩の香気を放たしめ気稟(きひん)を感ぜしめる底のものでなくてはならぬ)とポルノグラフィー俳句(「扇情的俳句」、復本氏の「艶笑俳句」)とを峻別して、草城のエロティシズム俳句を高く評価しているのである。

(その五)

○ 春の灯や女は持たぬのどぼとけ

 この掲出句について、復本一郎氏は「四S」(水原秋桜子・高野素十・阿波野青畝・山口誓子)の命名者の山口青邨氏の興味ある記述を紹介している(復本・前掲書)。

「私のところにただ一枚の草城君の短冊がある。(中略)『春灯や女はもたぬ咽喉仏』といふ句である。まだ若い字で、うまくない。然(しか)し俳句はなかなかませてゐて、官能的だ。まだ妻もめとらない二十代といふのにもう女の姿態などを描かうとしてゐる。女の袖首などをじつと眺めてゐる、男と違ふ女の肉体に何物かを発見しようといふ好奇心をもやしてゐる」(「俳句」日野草城追悼特輯号、昭和三一年五月号)。
 さらに、ここで、青邨氏は次のようにも記しているという(復本・前掲書)。
「後の批評家は青邨が四Sといふことを言つたが、何故草城を逸したか、何故草城を加へて五Sにしなかつたかと言つた。勿論、私の頭の中には草城があつた。その才能を認めて居た。然(しか)しあまりにも才気ばしつて居て、青畝や誓子のやうに無条件に入れることは出来なかつた。少なくともその当時の私の気持はさうだつた。それに四Sといふことを言つたのは東から二人、西から二人を挙げようとしたので、西から三人とるわけには行かなかつた。かと言つて、東西三人づゝとつて、六Sといふのも面白くなかつた。草城君は他の三君に比して決して遜色のある人ではなかつた」(「俳句」・前掲書)。

 青邨氏が「四S」を唱えたのは、昭和三年のことで、「ホトトギス」誌上で活字化されたのは、翌四年の一月号である。そして、冒頭の掲出句が収載されている草城の処女句集『花氷』の刊行は、昭和二年のことで、青邨氏の当時の草城の俳句姿勢に対する、「妻もめとらない二十代といふのにもう女の姿態などを描かうとしてゐる。女の袖首などをじつと眺めてゐる、男と違ふ女の肉体に何物かを発見しようといふ好奇心をもやしてゐる」と「あまりにも才気ばしつて居て」という指摘は実に鋭いし、そして、それはとりもなおさず、当時の草城の俳句姿勢を見事に喝破しているといっても差し支えなかろう。
 すなわち、当時の草城の俳句創作の基本的な姿勢は、「フィクション・ノンフィクション」の区別からすると、「フィクション」による、虚構の作品ということになる。そして、この創作姿勢は、昭和九年四月号の「俳句研究」に発表された、いわゆる「ミヤコ・ホテル」の一連の連作作品となって、草城の「ホトトギス」同人除名の遠因とも連なっているのである。

(その六)

○ けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
○ 夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻(め)と居りぬ
○ 枕辺の春の灯(ともし)は妻(め)が消しぬ
○ をみなとはかゝるものかも春の闇
○ 薔薇にほふはじめての夜のしらみつゝ
○ 麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
○ 湯あがりの素顔したしく春の昼
○ 永き日や相触れし手はふれしまゝ
○ 失ひしものを憶(おも)へり花曇

 草城は早熟の天才肌の才人で、その才能を誰よりも見抜いていた一人として、高浜虚子氏があげられるであろう。草城は大正十年の二十一歳のときに「ホトトギス」の巻頭を占め、同十三年に同誌課題句選者に推され、昭和四年(二十九歳)に「ホトトギス」同人に推挙されている。そして、掲出にあげた問題の「ミヤコ・ホテル」の連作を発表したのが、昭和九年(三十四歳)、その翌年(昭和十年)に、主宰誌「旗艦」を創刊して、リベラリズムの新興俳句に取組むこととなる。そして、その翌年(昭和十一年)、直接的には、このリベラリズムの無季俳句などを容認している「旗艦」の創刊などが理由となり、「ホトトギス」同人を除名されることとなる。この「ホトトギス」同人除名と草城の「ミヤコ・ホテル」の連作とは直接的には関係ないとされているが(復本・前掲書)、やはり遠因にはなっていると思われる(復本氏は、「天才虚子は、エロティシズム俳句は『花鳥諷詠』俳句の概念を一変してしまう危険性を察知して」、それが直接の除名の原因にあげている。そして、「無季俳句」の唱道が除名原因とする山本健吉氏の指摘には否定的見解をとっている)。
 何はともあれ、草城のこれらの「ミヤコ・ホテル」の連作は、当時の俳壇内外に大きな波紋を投げかけた。そして、これらの草城の連作を最も激賞した人は、詩人・室生犀星氏で、「『ミヤコホテル』の正味は、今日に於て明瞭に俳句精神が老年者の遊び文学でなかったことを意味する」(「読売新聞」文芸時評)との賛辞を呈している。そして、何よりも面白いことは、後日、次のような誕生秘話が伝えられるように、草城は、これらの連作作品を、「フィクション・ノンフィクション」の、「フィクション」を主体として書き上げたということなのである。 
「晩年の草城はこの作品(註・「ミヤコ・ホテル」の連作)のことが雑誌に載つたりすると『またか』といつた(嫌な)表情をされた由。わたしには、『あれはバスの中で考えがまとまつて、出勤簿に印を捺す前急いで紙に書いたんだ』と言はれたことがあつた。つまり草城出勤途次の作なのである」(復本・前掲書、「俳句研究」昭和三一年六月号の五十嵐研三解説)。
 もし、これらの草城の連作作品が、この誕生秘話のように、「草城出勤途次の作なのである」としたら、草城という俳人は、容易ならざる俳人であったということは言を挨たないところであろう。

(その七)

○ 鼠捕り置きたれば闇いきいきと
○ 高熱の鶏青空に漂へり
○ 山羊の乳くれたる人の前にて飲む
○ ひとの手を握り来し花束を受く
○ 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

 昭和二十八年(草城、五十四歳)に刊行された『人生の午後』所収の、山口誓子氏が高く評価している無季の五句である。誓子氏は「有季定型」俳句を固守して、新興俳句に関心を有しながらも、無季俳句とは一定の距離を保っていた。その誓子氏が、草城が没した昭和三十一年二月二日付け「大坂新聞」に次のような草城への賛辞を呈している。
「草城氏の業績は、一つは現代俳句の源流をなしたということ、もう一つは無季の俳句を勇敢に作ったことだと私は思っている。殊に無季の俳句は、私自身未だかって手を染めぬ世界であるから一層その感を深くする。(中略)自ら(筆者注・誓子自身)を『怯懦(きょうだ)なる歴史派』と呼んだ。『歴史派』という言葉に意味があった。有季の俳句は、日本の伝統、日本人の長い間の生活の歴史が借り積って築き上げたものだと私は信じていた。これは理論ではない。生活の歴史である。日本人としてその歴史を重んずる限り有季の俳句はないがしろに出来ぬ、無季の俳句は新しい分野の開拓である」(復本・前掲書)。
 そして、誓子氏は、この掲出の五句目の句については、「俳句研究」(昭和三十八年十・十一月合併号)において次のような鑑賞文を寄せている。
「それは見える眼の眼鏡の玉と見えぬ眼の眼鏡の玉との衝撃だ。つまり見える眼と見えぬ眼との、完全と不完全との衝撃だ。見える眼鏡の玉はもとより拭いて曇りを去ったが、見えぬ方の眼鏡の玉も同じようにした。そのことから私は強い火花を感じとる。それは人間の肉体の不完全から由来するのだ。その不完全が完全と衝撃したからだ。とにかく、そういう衝撃があるからして、私はこの句が俳句的な構造を持っていると言ったのだ。そうしてそういう意味で私は、この季の無い俳句をよしとしたのだ(復本・前掲書)。
 これらの誓子氏の鑑賞視点について、復本一郎氏は、「芭蕉の『取合せ』論の流れを汲む『二物衝撃』論を視座に据えていたが、私(復本一郎)は、俳句史を専攻する立場から、誓子とは別に、『切れ』、そして芭蕉の目指した『新しみ』と『人を感動いたさせ候句』(浪化宛去来書簡)ということを選句の基準とした」(復本・前掲書)として、草城の無季俳句について、誓子氏とは別な視点での、その選句と鑑賞をしている。
 いずれにしても、草城は、そのデビュー当時から、それまで誰も手を染めなかった「エロティシズム」の世界とその世界の開拓の次に当時の「新興俳句」の旗手として全く未開拓の「無季俳句」に果敢に挑戦して、それぞれのその二分野において、「俳句革新の先駆者」(復本一郎氏の命名)であったということは、間違いないところであろう。そして、つくづく、復本一郎氏の視点からすると、芭蕉の「新しみ」を目指した俳人であったということを実感する。

(その八)

○ 冬ざれて枯野へつづく妻の手か
○ 炎天に黒き喪章の蝶とべり
○ 木々の濡れ肌におぼゆる端居かな
○ 煮ざかなに立秋の箸なまぐさき
○ 仰臥して四肢を炎暑に抑へらる
○ 薔薇色のあくびを一つ烏猫

 草城の第六句集『旦暮』よりの復本一郎氏の選句の五句である。この『旦暮』には、草城の、昭和二十年、二十一年、二十二年の作品が収められており、昭和二十四年に刊行された。草城のこの句集の前の句集は、昭和十三年に刊行された、主として、いわゆる「新興俳句」の作品群が収録されている第四句集『轉轍手』である。この第四句集から、いきなり第六句集に飛ぶのは、第五句集の草稿が、大平洋戦争末期の空襲によって焼失してしまったためであると指摘されている(復本・前掲書)。そして、この昭和十三年から終戦に至るまで、いわゆる「俳句弾圧事件」により、草城もまた俳壇より身を退いて、俳人・日野草城の創作活動は見ることができない(「俳句弾圧事件」と草城との関係は復本・前掲書に詳しい)。
 そして、復本一郎氏は、この草城の第六句集『旦暮』について次のような感想文を記述している。
「病が、病臥が、草城の俳句観に変更をもたらしたのである。病に至るまでの草城は、俳句の最前線を独歩していた。気概をもって独歩していた。それには、草城の豊かな才とともに、強靱な精神力を必要とした。いかなる批判にも耐えて、新天地を開拓せんとする強靱な精神力である。しかし、病は、病臥は、草城に心の平安を強いたのである。自足を強いたのである。これを悟りと言ってしまっていいのであろうか。草城にとっては、やはり無念であったと思う。病にさえならなければ、病臥さえしなければ、の思いにしばしば悩まされたことと思う。が、その中で、皮肉にも、草城の心に平安をもたらしたものは、俳句を作るという行為そのものだったのである。『新興』(『新しみ』)への関心が薄れるなかで、俳句を作るという、そのことへの関心は、臥床の日々を重ねるごとに大きくなっていったのではないかと思われる。その草城に与えられた啓示が、『俳句は諸人(もろびと)旦暮(あけくれ)の詩(うた)である』だったのである」(復本・前掲書)。
 ここにおいて、草城の俳句は完成の域に到達したということであろう。すなわち、「才の人・草城が、その才の赴くままに、より創作性の強い句を、自力的に志向していた」時を経て、「その才に頼ることなく、諸人の一人として、日常の旦け暮れに、日々の生きていることの証を綴るように、他力的に詠いあげる詩」に、そういう境地に至ったということであろう。

(その九)

○ 寒の闇煩悩とろりとろりと燃ゆ
○ 古妻のぐつすり睡(ね)たる足の裏
○ 高熱の鶴青空に漂へり
○ 春の蚊を孤閨の妻が打ちし音
○ 夏の闇高熱のわれ発光す
○ 手鏡にあふれんばかり夏のひげ
○ 裸婦の図を見てをりいのちおとろへし
○ 春の雨五慾の妻が祈念せり
○ 見えぬ眼の方の眼鏡の玉を拭く

 草城の最後の句集である第七句集『人生の午後』よりの復本一郎氏の選句の十句である。
これらの草城の『人生の午後』の句について、復本一郎氏は二様の次のような記述を残している。
「研ぎ澄まされた感性、そして洗練された言葉が紡ぎ出す『諸人(もろびと)旦暮(あけくれ)の詩(うた)』としての美の競演。さすが草城である。人々は、これらの作品に、病草城の実像を重ね合わせて、賛辞を惜しまなかった。事実、これらの佳句に、先に掲げた『旦暮』の佳句を加えれば、草城は、俳句史上に十分残り得るであろう。十分どころか、燦然として輝くと言っても、過言でもないかもしれない」。そして、これらの指摘に前後して、「山本健吉は、『人生の午後』を『才人草城が到達した至境』として評価しているが、草城は、その評価に甘んじてよいのであろうか。私は、先に述べたように、『人生の午後』の俳句世界を否定するものではない。評価することにも、やぶさかではない。が、『人生の午後』は、草城が病むことによって、病臥することによって、たまたまもたらされた俳句世界であったのである。その世界を評価するために『花氷』一巻を『廻り道』とすることには、何としても与(くみ)することができない。草城のために」(以上、復本・前掲書)。
 この復本一郎氏の、俳句に「エロティシズム」の世界(『花氷』・『青芝』・『昨日の花』の世界)や「無季」の俳句の可能性を探求し(『轉轍手』の世界)、俳句革新を遂げた「新しみ」の旗手としての俳人・日野草城に焦点を当て、ともすれば、晩年の「俳句は諸人旦暮の詩」とする世界を、病・草城、病臥の俳人・草城がたまたまもたらされた世界として、それを評価しながらも、より多く前者にウェートを置く姿勢は、「草城の草城らしさ」を強調する余り、山本健吉が指摘した「才人草城が到達した至境」としての晩年の「諸人旦暮の詩」を過小に評価することにもなりかねない。それと同時に、晩年の「俳句は諸人旦暮の詩」とする世界は、「病・草城、病臥の俳人・日野草城がたまたまもたらされた世界」ではなくして、「病・草城、病臥の俳人・日野草城なるが故に、到達し得た、まさに、それに到達することを運命付けられた至境の世界」と解すべきではなかろうか。その意味において、草城自身が述べている、次の言葉に注目したい。
「健康でありつづけてゐたら或は命の終るまで取り落したままで忘れてしまつたであらう
人間の重要な半分を、病気といふ一応不幸な動機によつて恵まれたわけです」(『眠れぬ夜のために』所収「俳句と病気と神と」、昭和二五年刊)。

(その十)

○ 淡雪や昼を灯して鏡店(みせ)    (『花氷』)
○ 日盛りの土に寂しやおのが影      同上
○ 風邪の子の枕辺にゐてものがたり    同上
○ わぎもこのはだのつめたき土用かな  (『青芝』)
○ うつしゑのうすきあばたや漱石忌    同上
○ きぬずれの音のしるけし冬座敷    (『昨日の花』)
○ 袖ぐちのあやなる鼓初かな       同上
○ かいつぶりさびしくなればくゝりけり  同上
○ 群れて待つ青春の眉鬱々と      (『轉轍手』)
○ クロイツェル・ソナタ西日が燬けてゐる 同上
○ 子のグリコ一つもらうて炎天下     同上
○ 春の夜の闇さへ重く病みにけり    (『旦暮』)
○ 桃史も亦日本軍閥に殺されたり     同上
○ 万緑に泰山木の花二つ         同上
○ ながながと骨が臥(ね)てゐる油照  (『人生の午後』) 「自照」との前書き
○ 妻の手の堅くなりゆくばかりなり    同上   「偕老二十年」との前書き
○ 仰臥して仰臥漫録の著者を弔ふ     同上  「子規五十年忌」との前書き
○ 秋の蠅口のほとりにとまりけり    (『銀』)
○ 仰向けの口中へ屠蘇たらさるる     同上   「おらが春」との前書き
○ 妻子を担ふ片眼片肺枯手足       同上   「草城頑張れ」との前書き

 日野草城の第一句集『草城句集(花氷)』から第七句集『人生の午後』とその遺句集『銀』からの二十句選である(これまでの掲出句は原則として除外)。こうして、その日野草城の全貌を垣間見たとき、つくづくと、「俳句革新」を遂げた「病床六尺」の人、正岡子規が連想されてくる。そして、いみじくも、日野草城も、その後半生は「病床六尺」の身となりながら、正岡子規が、それまでの連句の発句を、名実ともに、「連句」を切り捨て、「俳句」一色に塗りつぶすという「俳句革新」を遂げたと同じように、「俳句に創作性」を、そして、「エロティシズム」という「エロス」の世界を俳句に導入し、さらに、「有季俳句」とあわせ「無季俳句」の可能性を探求して、復本一郎氏をして、「俳句を変えた男」としいわしめた、いわゆる、子規のそれを一歩進めた、すなわち、「俳句革新」を遂行した俳人ということで、その名は、子規とともに、日本俳壇史上、その名をとどめることであろう。
 そして、この「俳句革新」を成し遂げた、子規と草城との両名が、どちらかというと、芭蕉よりも蕪村の世界に、より多く足を踏み入れていたということは、興味のそそられるところである。また、その草城の晩年の俳句観の「諸人(もろびと)旦暮(あけくれ)の詩(うた)」という境地と、その作品群は、その「エロス」や「無季」の俳句とあわせ、草城の創刊した「青玄」は廃刊となっても、今後も語り継がれていくことであろう。

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